はたして、その始まりは幸せであったのか。『?』
記憶とはなんなのか。たぐれるので糸なのか。軌跡を見ることができるので道なのか。それとも掘り返すなんて言うこともあるから地層なのか。
だとすれば、今の俺はいったいなんなのか?
記憶喪失。なんて言えばなんだか深刻な雰囲気だけれども、俺はよっぽど薄情だったのか、それとも希薄な性格だったのか、そんな自分の境遇になんの感慨もなかった。
記憶のスタート地点は六歳から。“ソレ以前の記憶はない”。
父も母も、友達も。何も覚えていない。
まるで作者なんて理不尽な存在に、俺という主人公のプロローグをまとめて省略してしまった哀れな登場人物のような。
自分が不幸なのだと、そう思い上がっていれば過去にも執着したのかもしれない。誰かがおかしいと、断じていれば疑問ぐらいは感じていたのかもしれない。
だが、あいにくと。今の俺はわりかし幸せなのである。
もしかしたら、プロローグすらも始まっていないのかなどと、お気楽にも未来に期待してしまうぐらいに。
俺は一日で夕暮れが一番好きだった。とりわけ、秋の夕暮れが好きだ。
理由は綺麗だからという単純なものと、奥底に深く刻まれた思い出がどちらも夕暮れだったからだろう。
俺の最古の記憶は燃えるような茜色をしていた。
どこだかもわからぬ深い山。季節はたぶん秋。色彩は茜色。
人の名残がない、人の靴を知らない紅葉の海は、まるで死後の幽世。人も獣も寝床に去る逢魔が時。一面の紅葉は彼岸の原のよう。
森の中の風景は、ぼんやりと淡い赤の斜陽の兆しがあった。
幼い俺は何をするわけでもなく、ただぼんやりと佇んでいた。
向かいの山で降る紅い葉は風に煽られて、旅立つ胞子のように見えた。
素直に綺麗だと、その旅立ちに魅入っていた。
どうして、俺はここにいるのか。俺はこんなところでなにをしているのか。
今を思えばそんな疑問が浮かんでくる。
しかし、その時は、ただただ、その広がった世界に圧倒されていた。
ただ、嬉しかった。それだけは覚えている。
見渡す限りのない壁のない世界は圧巻で、感動すらも覚えた。あの山の向こうには何があるのかと期待に胸が破裂しそうになった。いまにも痩せた足で走り出してしまいそうなぐらい身体が震えた。
背後から枝を踏む音がする。俺は振り返る。
紅い雪のような落葉のなか、美しい少女が立っていた。俺の唯一の、家族。
神秘的で静謐な世界で、俺と彼女と二人きり。
『彼女』はいまにも泣き出しそうな笑みを浮かべて、俺のコトを優しく抱きしめた。
“―――イチカ。私が、お前の姉のチフユだ”
俺の最愛の姉―――織斑千冬はそう自己紹介した。
ふと空を見上げて大きく息を吸った。
空は暗い。当然だ。夜なのだから。
砂漠の夜は寒い。昼はあれだけ生物を干上がらせているのに、夜になると布一枚手放せないほどに気温が下がる。
文明が進んだり退がったりしている砂漠の夜の空は随分と明るく見える。星が綺麗だからだ。
雲ひとつない砂漠の夜は、まるで地上から熱を吸い上げて火を灯しているかのようだった。
人の手垢を知らない空は本当に綺麗だ。ささやかな光が煌々と輝いている。
これは叶わぬ過去の話であるが、もしもあの暗いなかでこの輝きがあったのなら、まだ、救いようがあったのかもしれない。そう思った。
僕は、隣を見る。そこには死体がある。ちいさな子どもの死体。歳はかつての妹と同じぐらい。
もう一度、大きく息を吸うと鼻の奥がツンと染みた。頭上の月が薄らいでいく。輝く星が遠のいていく。数少ない色が失われていく。
死体の頭は上半分が吹っ飛んでいて、厚手の服に包まれた死体は男女の区別もつかない。直感的に、少女の死体だと確信した。
骸の少女の手にはアサルトライフルが握られていた。中国製の安っぽいライフルだ。十年前から一挙に暴落した小火器は、今では小金であっさりと手に入る。
この少女は少年兵なのだろう。なぜこの少女は少年兵になったのだろうか。
理由はいくつか簡単に思いつく。お金だろう。人生なんて言葉で語るよりも単純だ。日本の殺人事件とよく似ている。漫画やドラマではいろんな理由で人が死んでいくが、現実の殺人事件はほとんどが痴情のもつれや金銭問題だ。
この少女もきっと、手にしたライフルよりも安い値段で買い取られたのだろう。
それとも、彼女にはほかに考えも出来ないような複雑な理由があったのだろうか。
「なんでキミは人殺しになったんだろうね」
そのワケが無性に気になって、頭のない死体に優しく語りかけた。無論、返答は永久にないけれど。
空は高く冷たい、砂漠は深く永い、人は途絶え、駆けつける足音も、助けの意思もない。
まったく似ていない、面影すらもないのにこんなにも僕は郷愁の感情を抱いている。
あの時、似た静けさのなかで、無心に狭い空を見上げて僕は何を思っていたのだろうか。
冷たい、むせ返るような風は懐かしい匂いがした。周りには誰もいない。この少女の死はきっと殺した本人以外には誰にも認知されていないのだろう。
それはなんだか、可哀想な気がした。
「そうだ。明日の朝までならいっしょにいてあげよう」
僕はあの時のように少女の死体のとなりに腰をかけて、静かに目を閉じた。
物語が始まった少年の話と物語が完結してしまっている少年の話