正義と、大義と。   作:新田良

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 時系列的には、櫻井が大和家に拾われて二年ほどたったころのお話です


第四十四話 『楯無』と私と彼

 

 

 

 暑い。

 

 頭の中がぐつぐつと沸騰しそうだ。

 

 「……、お嬢様。どうかされたのですか? こんなだらしない格好で寝っ転がって」

 

 お付きの使用人である布仏虚が私を見下ろしながら呆れた様子で言う。その手にはたくさんのファイルを抱えていた。

 

 私、更識楯無は生徒会室の応接用のソファーに突っ伏すように寝っ転がりながら、ぼーっとした目で自分の席に向かう虚ちゃんの姿を見送った。

 

 「だって、今日はすっごく暑いじゃない。エアコンが反抗期でうんともすんとも動かない。いま何度? ぜったいに正気な気温じゃないわ。さっき入れたばかりの氷水がもう溶けてる。っていうか、なんで虚ちゃんは汗一つかいてないの?」

 

 「今日は校舎の空調メンテナンスの日ですからエアコンは動きませんよ。気温は三十一度。あと、私だって汗ぐらいかいてます。……汗一つかいてないのはお嬢様じゃないですか」

 

 誰に向けたわけでもない垂れ流した文句に対して、虚ちゃんは真面目に答えてくれる。

 

 「私は鍛えてるもの。でも虚ちゃんは私ほど特殊な鍛え方してないでしょー。それにしてもなんでよりにもよってこんな暑い日にメンテナンスするのかしら。昨日は雨だったんだから昨日のうちにするべきだったのよ」

 

 「IS学園に一般業者が立ち入るだけでも膨大な手続きが必要ですからね。それでなくともそんな理由で日時は変えられません」

 

 まるで仕方のない妹に言い聞かせるようにぴしゃりと言う虚ちゃん。言われてしまった私はそれ以上のわがままを言えなくなる。

 幼い頃から一緒に育ち、一つ年上の虚ちゃんとは主従関係を超えた仲、……と少なくとも私は思っている。妹はいるけどお姉ちゃんのいない私は虚ちゃんにそういった影を重ねているフシがある。だから虚ちゃんに言われてしまうと逆らえない。

 

 「ううぅ……、『楯無』の仕事を寮部屋でやるわけにはいかないし、……今日はもういいお休みにしましょう」

 

 「お嬢様は生徒会長特権で一人部屋ではないですか……。それに、お嬢様は最近同じことを言って仕事をサボっているじゃないですか」

 

 「そうだけど今日は本当に無理。暑い。虚ちゃん打ち水とかで冷やしましょうよ」

 

 「そんなことをしたら部屋の中が水浸しじゃないですか。そもそも、水に関してはお嬢様の持ちネタでしょ? バケツに水を汲んできますので氷にしてください。それぐらいできるでしょ?」

 

 「ねえ、製氷機? 私の専用機って製氷機なの? というか、仕事してないからってちょっと冷たくない? ねえ虚ちゃん、虚ちゃん虚ちゃんこっち見て!」

 

 しかし暑いには勝てなかった。

 

 虚ちゃんと二人で汲んできたバケツの水を私の専用機『ミステリアス・レイディ』の機能で水の分子運動を下げて氷にする。それを部屋中に並べた。ロシアの開発者が聞けば卒倒しかねない使い方だ。

 

 とりあえず用意できるだけ氷を作り出したが、すぐに部屋の気温が下がるわけではない。しかし、氷があるというだけでも幾分か涼しく感じる。

 

 ふーっと息を吐いてソファーに身体を放り出した。虚ちゃんはまた呆れたようにため息をつく。

 

 「……結局寝転ぶんですねお嬢様」

 

 「えー、そんなこと言わないでよ。だって夏休みは遊ぶものなんでしょ? 私だって夏休みぐらいはくつろぎたいのよ」

 

 私はふかふかのソファーの上でだらんと両手両足を投げ出して今日は仕事しないぞという鉄の意志を示す。

 

 虚ちゃんはしばらくいろいろと言いたげな複雑な表情を見せたが、やはりため息ひとつで許してくれた。自分の席に座るとファイルや書類を広げてボールペンをかりかりと走らせる。

 

 集中してこちらの様子に気が付かないであろう虚ちゃんに対して、私もとても微妙な顔になった。

 

 ……少し意地悪したかもしれない。

 

 虚ちゃんが大人しく引き下がった理由を私は自覚している。

 

 私は今まで学校に通ったコトがほぼない。それは私の実家に関係する。

 更識家はいわゆる裏家業を生業としている。裏家業と言ってもヤクザとかそういうのではなく暗部。いわゆるスパイとかだ。先祖は忍者と暗殺者の中間みたいな人たちだったとか。今では『インフォメーション』ではなく『インテリジェンス』のほうの情報を守るのを使命としている。

 技術先進国なくせして社会主義の清い部分ばかりを理念として掲げるような、諸外国から見れば歪な国家が今日あり続けるのも一重にこういった人間が影で奔走しているからである。

 

 さて、そんなコトを生業としている家に長女として生まれた私が『普通の生活』ができるわけがない。

 そういった事情もあり、私がまともな学校生活を送ったのはIS学園に来てからだった。

 今のは私とは違い普通に学校に通っていた虚ちゃんの負い目を使った卑怯なやり方だった。

 

 私は反省する。

 なぜなら空気が少し重くなったからだ。ううむ、サボる口実だったとはいえ気まずい……。

 

 それは向こうも同じだったのか。

 

 「お嬢様が黙り込んでると不安になるのでなんか言ってください。いつもは求めずともあれだけうる……こほん、あれだけお話されるのになぜ静かになるのですか?」

 

 「ねえ虚ちゃん。怒ってる? 怒ってるわよね!? それにしたって私の扱い酷くないっ!?」

 

 私が身を起き上がらせて食って掛かるが、虚ちゃんはそんなことありませんよと微笑を浮かべる。その笑顔が綺麗なだけあって複雑だ。

 

 何も言えなくなった私はまたソファーにふて寝しながら話題を考える。

 しかし、困ったことに例の銀の福音暴走事件の後始末に忙殺された日々だったため愚痴ぐらいしか思いつかない。

 

 ……いや、一つだけあった。

 それは、私にとってとても深刻な悩みである。

 

 私は虚ちゃんの目を見つめた。虚ちゃんもその真剣な眼差しに射抜かれて、神妙な面持ちでごくりと息を呑んだ。

 

 静まった空気の中、私は切実な悩みを初めて明かした。

 

 

 「私の出番が少ない件について」

 

 

 「どうでもいいです」

 

 切実な悩みだったのに虚ちゃんの返答は部屋の氷よりも冷たかった。

 

 「なんでそんなに冷たいのよ虚ちゃん!? 虚ちゃんは私の付き人でしょ! だったら主のお悩み相談にのってよーっ!」

 

 「はあ……、いつもはシリアスをコミカルに片付けるお嬢様が真面目な顔してなにを言い出すかと思えばこんなくだらないことを。私は哀しいですよお嬢様」

 

 「くだらなくないと思うよ死活問題だと思うわ! ねえ、なんで私ってこんなに出番がないの? 生徒会長よ? 学園最強よ? 魔性のお姉さんポジションじゃない! さらにうっかりさんとかシスコンとか巨乳とかいろいろ属性があって他の世界じゃメインヒロインだって張れるはずなのになんで出番がないの!? 初登場であれだけ意味深で関係が深そうな登場したくせに私の出番って消費税より少ないんじゃない!?」

 

 「ああ、お嬢様が壊れました。他の世界だの初登場だの意味のわからないことを……」

 

 必死に訴えたつもりだったが虚ちゃんからの反応は芳しくない。まあ、私も途中で何を言っているのか自分でもよくわからなかったが。

 

 「真面目に仕事をすれば出番が増えると思いますよ?」

 

 「その手には乗らないわ! だって私が仕事頑張っても裏家業だからなおさら表にでないじゃないっ!」

 

 むしろシリーズの小説なら何巻も出番がなかった挙句に「そういえば会長見ないねー?」「生徒会長は忙しいのよ。だって生徒会長だもの」だなんてオチまであり得る。

 

 言語道断許しがたい。私だって青春したい!

 

 そんな熱意が伝わったのか伝わらなかったのかわからないが、馬鹿らしくなったらしい虚ちゃんはお茶を淹れてから仕事を再開し始める。

 

 ひどい、親友だと思ってたのは私だけだったなんて。

 でも負けない。私はかまって欲しくてここぞとばかりに虚ちゃんにもう一度訴えかける。

 

 「無人機襲来事件でも銀の福音暴走事件でも間に合わなかったけど、私だってヒロインみたいに表立って一緒に戦いたいのよ!」

 

 すると、虚ちゃんはなぜかぽかんとしながら私のコトをまじまじと見つめた。

 え、なんか変なこと言った?、と私は少し不安になる。

 

 虚ちゃんは意外そうな顔で目を瞬かせ、

 

 「……お嬢様は、まだ櫻井さんのことが好きだったのですか?」

 

 「えっ!?」

 

 そのあまりにストレートな事実確認に、私は私らしくもなく顔を真っ赤にして固まってしまった。

 

 そう私は櫻井千奈に惚れている。どれぐらい惚れてるのかと言うと、どこかに閉じ込めて誰の眼にも振れさせたくないぐらいわりとヤバい感じでだ。

 

 素直に好きだというのもなんだかこっ恥ずかしいので、照れ隠しのようにそっぽを向いて髪を意味もなく手で梳いた。

 

 そんな仕草を肯定と受け取ったらしい虚ちゃんはファイルをとんとんとまとめながら続けてこう言った。

 

 「お嬢様はてっきり初恋を諦めたのかと」

 

 「ぐはっ…!」

 

 痛いところを突かれて私はむせた。もうダメだ。いまのは効果抜群だった。立てない。

 しかし、ソレも確かに事実なので否定できないのだ。ソレがなんだか悔しくて私はバタバタとソファーの上で暴れる。

 

 「だってそれは私じゃ櫻井くんのことを受け止めきれないと思ったからで、それに全然フラグが進行する気配がないから戦友ポジションだったら傷つかないし頼りにされると思ったんだから!!」

 

 では、なぜ私はいまさら過去の未練を爆発させているのかと言うと、

 

 「それなのに蓋を開けてみればナニ!? 調べれば調べるほど櫻井くんには女の影がっ!? エレナちゃんなんて櫻井くん公認の友達第一号なのよ!? それになんか簪ちゃんにまで出し抜かれてる気がする! よく考えたらたぶん私って織江ちゃんを除いて一番付き合いが古いはずなのに! もしかして私って諦め損してると思うんだけどどう思う!?」

 

 「さぁー…」

 

 「そーよねー……」

 

 知らずにヒートアップして立ち上がっていた私はすとんとまた力なく座った。

 

 熱く思いをぶち撒けてみたわけだが、案の定、虚ちゃんの反応はよろしくない。いや、私だって虚ちゃんがいきなり自分の恋の失敗を叫びだしたらどうしていいかわからずオロオロするかも。

 

 いろいろ整理してみたら自分の立場があまりに惨めすぎて泣きそうだ。いったいどこで間違えたのやら。

 

 意中の相手とは同じ学校なのに疎遠だし、なんだか気がつけば妹よりも出遅れているし、頼みの付き人は冷た―――

 

 「……ハッ! まさかそんなに余裕で突き放してくるのは虚ちゃんは櫻井くんが―――」

 

 「お嬢様ブン殴りますよ?」

 

 「えっ!? そ、そこまで拒否るの!?」

 

 まさかのアグレッシブな一面を持つ付き人だった。笑顔が、本気すぎる笑顔が怖い!

 

 ところで、なんでそんなに拒否されるのだろうか。

 私は慌てたように取り繕うように言った。

 

 「え、でもでも、さ。櫻井くんってけっこーいい物件だと思うケド? だって社会的な立場はあるし、運動とか頭も良いし、それに顔だって超絶イケメン!ってわけじゃないけどすっきりと綺麗だし、それに櫻井くんは敵には容赦ないけど身内にはすっごく優しいじゃない」

 

 勧めているわけじゃないが、好きな男の評価がドン底なのはいただけない気がしてなんだかフォローしてしまう私。それにしても、こうしてみると櫻井千奈はかなりの優良物件だと思えてしまう。

 

 しかし、虚ちゃんの微笑はまったく揺るがなかった。

 

 「櫻井さんには社会的な人格が備わっていませんから」

 

 「……、……、……、」

 

 ……恐るべし櫻井千奈。いままであげられた利点がたった一言で地に落ちた。

 

 そう、櫻井千奈という人間には社会的な常識、いわゆる良識がない。もしも、一人の身内と百人の他人のどちらかを助けるか、と問われれば一切躊躇なく櫻井は一人の身内を選択する。身内を守れるのなら手段という選択肢すらない。

 

 溺れるほどの情の深さと鉄壁なほどの氷の理性。

 それが櫻井千奈という人間だ。

 

 身内の人間からすれば、これほど頼りになることはないが、櫻井が社会的にいまだボロを出していないのが不思議なぐらい異常な思想と言える。

 

 事実なだけあってろくに言い返せない。

 

 休憩はここまでと言わんばかりに虚ちゃんが手を止めていた仕事を再開し、私は論破された気分になってまたソファーに深く寝転んだ。手も足もでなかったのですべて投げ出してやる。

 

 目を閉じて意識を遮断する。そうすると私は本当に周りのから隔絶された世界に浸れる。昔からの特技で、考えをまとめたり休んだりするときに重宝するけど、外界からの刺激になかなか反応しなくなるのがこまったところ。

 

 氷で冷やされた熱気が包むような暖気にかわる。それに誘われるように私の瞼はうつらうつらと揺れ、―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は子供の頃の夢を見た。

 

 ずっとずっと昔。まだ、私の名前が『楯無』ではなかったころ。

 

 はっきり言うと、そのころの私はいわゆる『嫌な女』だった。

 

 もともと更識なんてろくな家じゃないところで生まれたせいなのではあるが、私は普通の子よりも精神的な成長が早かった。無邪気という幼年期を捨て去って、私は大人になったと錯覚していた。

 

 自分が何をやっても人並み以上にこなせたせいか、周囲が天才だともてはやしたせいか、それとも、もとから性根が捻くれていたのか。

 「一般的な学校に通って世間を知れ」などと言われて二年間だけ通わされた小学校。そこで自分よりも遥かに進みの遅い低レベルな生徒たちと触れ合って調子にのったのかもしれない。

 

 ただ事実、幸か不幸か、良くも悪くもか、私はたしかに『特別』だった。

 

 そんな現実に悲観したことはない。もとよりそんな価値観がなかった。

 他の子のようにピアノのレッスンや友達と遊ぶのと、人殺しの技や自分の何倍も年をとった祖父と遊ぶのも大した違いを感じなかった。

 要らないものをどんどん捨てて、わざと周りに敵を作って、あるいは猫を被って懐柔して、私はどんどん他人とは違う『特別』になっていった。

 自分が『特別』であるという自負が私にとって何よりも誇りだった。

 

 それとも、そう『特別』であることにすがっていたのかもしれない。

 

 後継者だった父よりも有望視されたころには、もう『私』という存在を支配していた。

 

 そんな私の本質を知って、枯れ枝のような姿をした祖父は大いに嘆いた。

 

 「ああ、お前があと百年か二百年ほどはやく生まれていたらなぁ。『更識楯無』の名を欲しいままにしていたというのに。こりゃ育て方を失敗したわ」

 

 その言葉を聞いた私は、本気でこのジジイを殺して薪にしてから火にくべてやろうと考えたのを覚えている。ただ、あの妖怪ジジイに一体どんな罵詈雑言を叩きつけたのかちょっと覚えていない。そのぐらいひどい癇癪を起こしていたと思う。

 結局はこんな妖怪を十歳になったばかりの私が退治できるはずがなかったのだが。

 

 

 

 

 

 

 そして、幾日か経ったころだった。

 

 骸骨みたいな祖父はからからと笑いながら言った。

 

 「百年前ならいざ知らず。いまの時代の『楯無』にお前は相応しくない。だからお前は"もっと『人』を知れ、そして怖がれ"」

 

 相変わらず意味不明な祖父が私に紹介したのは、一人の子供だった。

 年は私と同じぐらい。黒い髪、黒い目、病的に白い不健康な肌。男のくせに異様に痩せ型であるのを除けばどこにでもいそうな子供。それだからか、初めて逢ったときの姿がうまく思い出せない。表現に値する言語がパーツとして成り立たない。それよりも影のほうが印象に残っている。

 

 なんでもしばらく更識の家であずかることになったとか。一体何の気まぐれなのやらと私は呆れつつもその子供にふと興味を持った。

 なんせこんな家だ。同年代なんて全くいないし、私自身がそう仕向けたとはいえ妹からは怯えられている。共通の話題性もなく会話ができない大人なんて言語が通じないに等しい。

 

 だから、いったいどんな子供なのか。私は愛想よく話しかけた。

 

 ―――結果、盛大に無視された。

 

 ……思わずイラッときた私は立ち去ろうとするそいつの肩に掴もうとしたが、かなわなかった。

 

 伸ばした手を叩(はた)かれたからだ。払われたではない。まるで鞭のように手つきで叩き落とされたのだ。

 

 「触らないでください」

 

 ……信じられない。

 

 予想もしなかった。私は人並み以上の容姿に優れていたし、胸だって同年代に比べたらかなり将来に期待が持てるぐらいある。見てくれに自信があった。実際に、小学校に通った時には私は相手との接し方次第でクラスメイトとの人間関係を自由にできるぐらいだった。

 

 今までこんな扱いを受けたことがなかった私は驚くよりも慄いた。そして、そんな感情を抱いたことに大いに腹を立てた。

 

 そんな私を見て何がおもしろいのか祖父はかかと大笑している。

 

 「その少年には『楯無』の技術を仕込むことにした。お前が教えてやんなさい」

 

 ……、……本当に殺してほしいのだろうかこの妖怪ジジイは。

 

 すでに隠居気分の父もその悪辣さに眉をひそめている。

 

 祖父は何を考えているのかわからない。そもそも『楯無』の技術を外部の誰かに教えるなんて正気じゃない。

 

 それが正論だったが、半世紀以上もの間『楯無』として君臨していた祖父には誰も逆らおうとしなかった。

 

 一方で、子供のほうも場の空気を察したのか胡乱な目つきで祖父のことを見ている。

 

 なんか今なら彼とは友達に―――

 

 「僕はあの人に教わりたくないんだが……、なんだか性根も悪そうだ。ちゃんと教えてくれるんですか?」

 

 ―――なる前にめっためたにしてやろう。

 

 私は対人格闘の練習をしてやることにした。

 

 それを聞いて彼は祖父に訊ねる。

 

 「あの人と殺し合えと?」

 

 「違うな。殺しはなしだ。あの子はぼっちだから遊んでやりなさい」

 

 ……。

 

 いろいろと物申したいコトがあったがもう無視することにした。

 

 それにしても遊んでやれとはどういう用件だ。まるであっちに選択権があるようじゃないか。

 それとも彼は―――

 

 私はそんな一抹の警戒を心に留めながら構えもせず棒立ちに近い彼へと踏み込んだ。

 

 

 

 

 

 私は途方にくれた。

 彼との格闘訓練はあっという間に終わってしまった。彼我との実力差は理不尽なほどもあった。

 

 彼はあまりにも、弱かった。

 

 ……。さて、これから一体どうしようか。

 

 彼を組み伏せたまま私は悩む。

 

 そんな私を察したのか彼はこんなことを言った。

 

 「引きこもりをナメないで欲しいですね」

 

 なんて偉そうな引きこもりだろう。

 

 言われてから気がついた。

 細い細いとは思っていたが、彼は細すぎた。鍛えているとはいえ女の私よりもさらに細い。栄養失調を疑うぐらい痩せていた。

 

 そこでちぐはぐさにふに落ちる。

 目だけはついてきていたので反応は悪くないのに、肝心のエンジンが弱すぎるのだ。

 

 雰囲気といい体付きといい普通ではない姿。祖父が連れてきた子供。しかし何かの訓練を受けたことがあるわけでもない。

 

 私はふと、なんだか気分が悪くなって彼からそそくさに離れた。

 彼が何かをしたわけではない。ただ、どうしてか彼の在り方に心がざわめいた。

 

 彼はいったいなにものなんだろうという疑問だけが積もった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは月の明るい夜だった。

 

 私は今日の家業を終えて、すでに布団にくるまっていた。

 薄暗い天井を見上げながら就寝までの頭の無駄遣いをはじめる。

 

 彼が来てさらに数日が経っていた。

 

 おかしな師弟関係が続いているが、意外にも悪い気分ではない。教えられることがあっても教えたことがなかった私には新鮮な経験だった。

 もしかしたらこれが祖父の狙いかとも考えたが、あの悪辣な祖父が考えそうなことではない。

 

 彼は頭が良いわけでもなかったが、私は彼ほどひたむきに取り組む人をはじめて見た。私だって思考の片隅にはいつだって余裕をもたせようとしているが、彼にはそれがない。いっぱいいっぱいで余裕がないのではなく、全力で取り組むのだ。暗部の人間からしてみれば他に注意を割く警戒心がなさすぎではあるが、先生役としてこれほど優秀な生徒はいない。

 運動に関してはとりあえずたくさん食べさせている。あの体格では私と訓練するのは文字通り命に関わる。

 

 彼も、相変わらずこちらの神経を逆なでするようなコトを言ったりもするが、今では可愛らしいものに思えてくる。

 

 驚いたことに彼は本当に一般人だった。裏社会の常識なんていっさい知らないようだ。いったいどうして更識の家なんかに来たのかはまだ聞けていないが、いつかは訊ねてみるつもり。

 

 今日は何が教えられたか、あるいは教えられなかったか。明日は何を教えようか、どこまで教えようか。

 最近は、それを考えるのが夜の日課となっていた。

 気がつけば月がとっくに中天を過ぎていることだってあった。

 

 それが明日にこれと言って希望のなかった私の初めての感覚。次の日を楽しみにする、なんて言葉を私は初めて知った。

 

 今日もそう。いつものように明日の授業について考えていた。

 

 だからだろう。頭は冴えていて、暗闇に浸っていた感覚は鋭敏だった。

 

 ―――誰かが来た。

 

 知らない足音が聞こえる。数は十。静かで規則正しいが不愉快な音。

 

 侵入者だ。

 

 屋敷は無駄に広い。そして入り組んでいる。

 侵入者たちは幾つかに別れて行動し始めた。

 素人か。いや、おそらくこちらの人数の構成を知っての行動か。更識は表向きは大領主の金持ちという触れ込みで、屋敷には普通の使用人が何人か出入りしている。その使用人たちから何をしているかバレないようにするのも訓練の一つ。

 しかし、足音は重武装。おそらく更識がどんな家なのかわかっての襲撃だ。大方、何も知らない使用人を捕まえて中の状態を知っているのだろう。

 

 私は息を殺しながら部屋を移動した。寝室の場所はバレているからとどまるわけにもいかない。それに、どの部屋が使用されているのかがバレているのなら、逆に利用するまで。

 

 私は別の部屋に忍び込む。そこは使われていない客間の一つ。しかし、襖を開けた反対側は普段は使用人が休憩や仮眠をするために用意されている。

 

 足音が近づく。すると、私の耳は囁き声を拾った。普通なら聞き取れないが、私はとびきり耳が良い。英語だった。

 

 「ちくしょう、なんだこの家は。ホントに住んでんのか?」

 

 「情報のすり合わせができていないからな。下っ端のメイド一人二人の情報なんてこんなもんだ」

 

 短い会話。しかし、それだけで大いに役立った。

 どうやら彼らは杜撰な計画できたらしい。いや、これは少し彼らに失礼か。屋敷の使用人を捕まえて吐かせたのなら即日決行するしかない。次の日に使用人が屋敷に来なければ怪しまれるからだ。

 

 生憎だが、この屋敷には私と祖父、そして数日前から加わった彼しかいない。両親と妹は基本的に別の屋敷に寝泊まりしている。寝泊まりしている屋敷に使用人もそっちだ。なにせここは『楯無』の屋敷なのだから。

 

 ……あ。

 

 私は心臓が縮まり青ざめるのを自覚した。

 

 ……そう。この屋敷には彼がいる。無関係、とまではいかないけど、彼を更識の事情とは巻き込んではいけない。

 なぜか、私はそう考えてしまった。

 

 このまま闇夜に紛れて逃げ回ればあの妖怪みたいな祖父が侵入者を片付けるだろうけど、彼はどうなるのだろうか―――?

 

 私は襖を開けた。

 目の前には山のように大きな影。人数は二人。私の思惑通り、まさに使用人たちの部屋に入ろうとした彼らは、まったくノーマークだった部屋の襖がいきなり開いたことに驚いていた。

 

 私は男の装備を見る。真っ先に目についた腿のシースからナイフを掴む。手の内で返したナイフの切っ先を太ももの根本に突き入れた。

 

 「ぎっ―――」

 

 痛みで崩れた身体。私は抜いたナイフで、ちょうど手が届く位置まできた喉元を掻っ捌いた。気道だけ上手く切れば返り血はほとんどない。男はこほーと間抜けな息を吐いて倒れた。

 

 相方の男は私に掴みかかってきた。いきなり仲間が殺されて焦ったのか。一方で私としては、銃を安易に使用できない襲撃者がどんな行動を取るかだいたい予想がついていたので澱みなく動けた。伸びた手を掴むと、まるで障害物でも越えるかのほうに伸び切った腕を飛んで捻じりおる。子供の私は力が小さいが、さすがに本来想定していない身体の動きで、子供とはいえその全体重を支えるほどの力を人間は持ち合わせていない。小気味よい音を立てて、男の腕全体の関節が破壊される。

 

 人間、いきなり予想外のことが起きるとたとえ大惨事でも頭が機能を失う。それは痛みでも同じこと。

 男はしばらく何が起きたか分からないらしく、捻じくれて折れた腕を呆然と見ている。私は足をひっかけて倒れた男を悲鳴をあげる前に喉にナイフを突き刺した。

 

 手際よく片付けたが少しだけ音がでてしまった。離れないといけない。

 

 私は屋敷の配置を思い出しながら、立ち上がった。彼にあてがわれた部屋は離れているが、少し奥まったところにある。それに出入りしている屋敷の使用人は彼のことを知らないのでそうそう危険にはならないだろうけど―――

 

 角を曲がった瞬間、顔に衝撃が奔った。一人だけ別の男が潜んでいたとわかった時にはもう遅い。男は力が抜けた私の寝間着の襟首を掴むと、物凄い力で大きく振りかぶった。

 

 あまりの勢いで寝間着の帯が外れた。弾かれるように私は飛ばされて、廊下から飛び出して庭の石に背中から叩き付けられた。

 

 痛い、痛い痛い。どこが痛むのかわからないぐらいだった。それでも叫ばなかったのは顎を殴られて意識がもうろうとしたせいだ。

 

 「床に叩きつけるつもりだったがすっぽ抜けやがった。ニッポーズはおかしなパジャマを着てやがる」

 

 そう吐き捨てて、男は剥ぎ取った寝間着を丸めて池に捨てた。

 

 地面の砂利が肌に食い込んで痛い。しばらくは動けそうにない。

 

 男が近づいてくる。

 私は顔を苦しく歪めた。とてもだがあの少年を助けに行くことができそうにない。その事実が、裸で庭に転がされているコトよりも辛かった。

 

 大きな男の足が、剥き出しの胸を強く踏んだ。無理やり空気が吐き出され、私は喘ぐことすらできない。

 

 身体に力が入らない。入ってところで、暗器を忍ばせた寝間着は捨てられ裸の私にできることなんてないが。

 

 朦朧とした意識の中、月が朧月となって綺麗だった。

 

 このまま圧死と窒息死、どっちが楽なんだろうと考えた時だった。

 

 

 「なに、やってんの?」

 

 

 声が聞こえた。聞き慣れたあの声が私の意識をすくい上げる。

 

 男も驚いたように顔を上げる。

 

 「な、なんだお前……」

 

 情報になかった異分子の登場。

 

 彼の姿はやはり異質だった。

 月明かりに照らされた美しい庭園。そのなかに佇む彼は明らかに存在が背景から浮いていた。暗い薄明かりの中にまるで亡霊のように立っていた。

 

 どこにでもいそうなのに、なんてことないはずなのに、その姿を見てたしかに恐怖を感じた。

 

 少年は滑るように歩いてやってくる。男は銃を突きつける。

 しかし、彼の歩みは止まらなかった。

 

 そのはずだ。なぜなら彼は銃の脅威を見たことない。だから銃で脅すなんて行動は無意味だった。

 

 少年は一歩進めばすぐに触れられる位置まで来て、なんと私に話しかけた。

 

 「なにやってんの? てか、この人ダレ?」

 

 ……信じられなかった。

 

 まるでふざけているとも取れる言動を、彼は本気でしている。その目には本当の疑問をたたえ、それを私にだけ向けている。

 

 男もこの異常性を感じ取ったらしい。薄気味悪さは、"理解できないもの"への恐怖心へと姿を変えた。

 

 胸をおさえていた足をどけた男は少年へと身体を向けた。

 

 開放された私は逃げろと言いたかったが詰まっていた息を吸うだけで精一杯。

 彼はその場から動かず、男に初めて目を向けた。

 

 逃げ出さない子供を見て、男はナイフを抜いた。そして振りかぶり、その無防備な眉間へと突き立てようとした。

 

 直後だった。

 

 まるでスイッチが切り替わったみたいに目の色を変えた少年が一歩前に踏み出す。それだけでナイフは標的を失った。そして、男の膝を足場にした彼は、男の両目に指を突き入れた。

 

 「いぎ―――ッ」

 

 男はバランスを崩して倒れる。

 

 少年はのろのろとした動きで別のナイフを倒れた男の装備から抜き出すと、馬乗りになって振り下ろした。

 

 振り下ろされたナイフはまず唇あたりに当たり、男の前歯が折れた。続いて頬を中途半端に削ぎ落とす。鼻が潰れる。守ろうとした手ごと眼窩に押し入られる。

 

 「ひぎゃ、や、やめ……、ぎッ―――」

 

 男はなんとか止めようと血だらけになった手を振り回す。少年の顔を押しのけようとするが、その動きはすでに弱々しかった。

 

 何度も何度も。少年は滅茶苦茶にナイフを振り下ろした。それは男が完全に動かなくなるまで続けられた。

 

 やがて、彼は立ち上がると動けない私のところにきた。彼の顔は真っ赤に血だらけで、黒い眼だけがぽっかりと穴のように白い顔に浮かんでいる。

 

 殺されるかもしれない。

 

 そう思ってしまった裏腹に、彼は興味を失ったようにナイフを捨てると和装の寝間着を脱いで私に差し出した。

 

 「もう秋だからパンツ一枚だと風邪ひくよ」

 

 私はしばらく呆けたように固まってしまった。

 

 彼はまるで何事もなかったかのように私に話しかけてきた。本当になんでもないのだと彼の目が語っている。

 

 私はこの時、彼の異常性を理解してしまった。

 彼はたった今の行為を本当になんとも思っていない。今行われた殺人行為も彼にとっては食事や睡眠と同じ"生きるための生産行為"なのだという認識しかない。そこには罪の意識も良心もない。

 

 相手が殺そうとしてきた。だから生きるために殺した。

 

 単純で、当たり前だけどその事実が何よりも恐ろしかった。

 

 私は祖父の言葉を思い出す。

 

 ―――もっと『人』を知れ、そして怖がれ。

 

 コミュニケーションをとり、共同体として生きるのが『人』ならば、彼はそれに分類できない。

 

 彼の在り方は、生き物として当たり前なのに、『人』は嫌悪し恐れ軽蔑するだろう。

 

 彼が理解されるのは難しい。なぜなら生きようと選択した彼の行動を、人は理屈で罪だと判断するからだ。

 彼は間違いなく『特別』な人間だ。人なのに人だと分類されない。

 それはなんて、孤独なのだろうか。

 

 「……どうかしたの? 寒くないの? っていうか、なんで泣いてるの?」

 

 それはあなたの在り方があまりにも悲しすぎるからだバカ。

 

 私は涙を乱暴に拭いて彼から服を受け取った。彼はどうやら和装の寝間着の下に何故かジャージを着ていたらしい。

 それを指摘してみると思い切り首をかしげられた。

 

 「え、これってこの屋敷で寝る時の制服じゃないの? みんな着てるし。ところで着るの大変なんだけどこれボタンとかないの?」

 

 ……。

 

 図らずも、私は吹き出してしまった。

 

 どうやら、彼はみんなとお揃いになろうと生真面目に頑張っていたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を開けると空はすっかりと赤くなっていた。時刻は六時半とあたりをつけて時計を見ればあたっていた。

 

 ふかふかとはいえ寝返りもうてないソファーで長く寝ていたせいか、身体のあちこちが固くなっている。私は寝転がったまま猫のように身体を伸ばした。

 

 「お嬢様。よく眠れましたか?」

 

 虚ちゃんは寝る前と変わらない様子で椅子に座っている。

 そして、どうしてか私の顔をじっと見てくる。

 

 「な、なに? どうしたの虚ちゃん?」

 

 「それは私のセリフです。……どうかされたのですかお嬢様」

 

 虚ちゃんに言われて、私は自分の顔に泣いたあとがあるのに気がついた。これはちょっと恥ずかしい姿を見られた。

 

 照れ隠しに笑った私はまたソファーに身体を沈めると、そのまま目を閉じた。

 

 「うーんとねー、おかしくて悲しくて切なくて愛おしい恋物語の始まりの夢を見たの」

 

 「はあ…」

 

 虚ちゃんはよくわからないといった様子で首をかしげている。

 

 久しぶりに思い出した。

 

 あの日からだ。彼の背中を追い求めたのは。

 もしも彼が、誰にも理解されない『特別』になってしまっても、私は彼の味方でいてあげよう。

 

 私はにやけそうになる顔を努めて冷静に律して、カッコよく締めくくるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突然、勢い良くドアが開かれた。山のような紙束を抱えて入室してきたのは櫻井千奈。

 ちらっと私の姿を見たけど、彼は私に目もくれずに虚ちゃんの机の上にドンと抱えていた書類をおいた。机の上に積み上がっていた先客の行列が危うげに揺れた。

 

 「はいこれが、今月の生徒会主催の週末トーナメントの訓練機使用許可証とアリーナ使用許可証。見直したかった警備体制の見直し案が四つ。今月に来る各国からの積み荷の目録にその運航スケジュールが七つ。夏休み期間にある部活の大会の臨時予算案の内訳とその予算が少なすぎるというクレームがたくさん来ているがそれはもう無視してもらっても構わないお菓子代寄越せとかふざけんてんのかこの学校は。それと全国高校美化運動で花壇の手入れや植える花の希望が華道部から来てるけどアイツら花壇で生花するつもりだからやめさせろ。日本の大臣やら国連から今月までの襲撃事件のレポート要請、自衛隊というより倉持技研からこの前撃ったミサイルの一部負担申請やらその他多数が山のように。防衛省には僕が送ったが国連はよろしく頼んだ。それとレンガ道の補修と寮のトイレが詰まったという報告がそれぞれ四つ、学習室のコピー機の故障と紙の補充の必要金額。ついでに学習室のパソコンとコピー機使ってBL漫画描いてる馬鹿野郎がいるらしいから犯人特定と厳重注意。ついでにそんな劇物を大量に放置するなと言っておけ。嫌いな食べ物を頑として食べない生徒がいるという食堂のおばちゃんからの応援要請に僕は行きたくない。それとこれはテニス部からの予算申請だがてめえこんなふざけた予算出すとか暑さで頭わいてんのかと一字一句違わず伝えておけ」

 

 「はいはいわかりました。ボイスレコーダーにメモしましたのでやっておきましょう。でも、警備体制はお嬢様の意見も訊いてからにしてください」

 

 「え、わ、私!?」

 

 突然の指名に驚いたが、よく考えたら当然だった。

 櫻井くんもそれもそうかと言って警備体制修正案を見せてくる。

 

 受け取った中で一番無理がなくて効果的なものを選び、さらに幾つか修正を加える。これだけですでに最終審査を合格出来るだけのものが完成した。

 虚ちゃんがそれを受け取って頷いた。

 

 「では私が理事長に提出しておきますので」 

 

 櫻井はよろしく頼んだと言って足早に立ち去ろうとする。

 

 私は慌てて呼び止めた。ただでさえ最近忙しくて会う機会がないのにこれでお別れとは悲しすぎる。

 

 「ちょ、ちょっとまって櫻井くん!」

 

 「……なに?」

 

 櫻井くんがドアの前で振り返る。

 

 呼び止めたのはいいが、何も考えてなかった私はさらに慌ててしまった。それでもなんとか会話につなげようと話題を探し―――

 

 「あ、えーっと、その……櫻井くん最近忙しそうね。……あ」

 

 言った後で私は失敗したと直感的に悟った。虚ちゃんも顔を覆っている。

 

 櫻井くんは込み上げる何かを押さえ込もうと震え、頑張ったようだけど、決壊した。

 

 「忙し、そうね……? ああ、忙しいよ忙しいに決まってるだろ! 護衛任務にきたはずなのに通常の書類仕事が毎週山のように送られてくるし、パソコンを開ければメールボックスには隊員から雷同二佐が鬼畜過ぎます助けてってクレームの嵐がいっぱいで雷同二佐も雷同二佐で仕事用のメールアドレスに元気だせよとか言ってエロサイトのリンク貼ってきたせいでIS学園の情報審査係に事情を説明しにいかなきゃいけないわ白い目で見られたわで大変だったし織斑一夏の勉強はテストまであと二日しかないのにぜんぜん合格ラインに達しないのに頭を痛めてたら織斑教諭のゴミの山から仕事書類は引っ張り出さないといけないわ掃除させないといけないっていうのに今度はセシリア・オルコットがお菓子の差し入れとか言って持ってきた毒物を織江が食べちゃって保健室にいくとになることになったと思ったらラウラ・ボーデヴィッヒが処分しようとトイレに流した差し入れが詰まってトイレ掃除が終わったのが昨日の夜中でエレナがいきなり野球をしようとか言うのを黙らせた途端に誰が織斑一夏に勉強を教えるかでいきなり喧嘩しだした篠ノ之箒と凰鈴音とシャルロット・デュノアを叩き出したと思ったら巻き込まれて織斑一夏は気絶してるしこれでやっと自分の仕事をできると思ったら生徒会の仕事を布仏本音が持ってきやがったんだぞ忙しいに決まってんだろパンツ晒して呑気に寝てる暇があったら少しは手伝って働けよNEET会長ッッッ!!!」

 

 物凄い早口で叫ぶとそのまま肩を怒らせて去っていった。

 

 私は一歩も動けず、呼び止めた姿勢のまま身じろぎさえもできなかった。 

 

 虚ちゃんに助けを求めると、

 

 「お嬢様の自業自得ですね」 

 

 「わーんっ! 虚ちゃんお仕事ちょうだーい!」

 

 私はガチ泣きしながら虚ちゃんにすがりついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 ふう、疲れた……


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