正義と、大義と。   作:新田良

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第三話 迷い子

 

 

 

 

 人生において大切な物はなんであるか。

 

 石槍で戦争をやっていたような大昔からボタン一つで都市を吹っ飛ばすような現代にいたるまで、この手に話題は尽きることはない。お金が大事だと人目を憚らずに言う人は大勢いるだろうし、何を成し遂げたかが大切だと自分に酔ってしまっていそうな事を言う人だって大勢いるだろう。逆に最期に人生を振り返って幸せだったならそれでいい、と結論の気が長い人だってまた大勢いるのかもしれない。

 

 一夏は一五年しか生きていない。残りの人生を平均寿命と比較すれば四倍五倍分は残っているのだが、すでに人生でこれが一番大切なのではないかと答えを出していた。

 

 織斑一夏が思う人生で最も大事なことは、やはり人脈ではないかと。

 少し恥ずかしい言い方をすれば「絆」とも云う。自分の家族は当然のこと、友人知人、どれだけの人と知り合えたか、織斑一夏の人生についての価値はこれではないかと考えている。

 人は同じであるはずなのに千差万別違う生き物のようだ。であるので、そんな生物がつながりを作れるのは素晴らしいことなのではないかと思っている。たとえば、百獣の王ライオンの群れは大体二〇頭いれば大きな群れと云える。対して人の場合人の数だけ繋がりを作ることが可能なのだ。ならば、どうせ多く持って損をするものでもないのだし人との繋がりはたくさん持っていたほうがいい。

 

 ここまでなんとも高尚なことを書いてきたわけなのだが、実のところ一夏の交友関係はそこまで広くはない。

 友達百人計画など実行していないし比較的遊ぶ友人も大体三人。クラスメイトとは近すぎず遠すぎずと、不良など明確な敵はいれどこれと云って親しい人間は少数だ。他には、よく近所のオバ様がたにおかずの御裾分けや近所の幼女に飴玉を貰うことぐらいだろう。いたってどこにでもあるような広さの交友関係である。

 

 そんな一夏の交友関係にもIS学園へと入学したことにより大きく変化した。

 

 幼馴染である箒や鈴と再会できたし、IS学園に入学しなければ得ることはなかったであろう外国人の友人も多数できた。IS学園に入学が決定した時は暗鬱とした気分でいたがいざ来てみれば得られるものは多くある。

 

 しかし、IS学園特有の悩みと云うものがあって一夏は困っている。

 それは、『自分以外に男子がいない』。

 

 世界最強たるISは女性しか扱えないと云う欠陥がある。となれば、それを専門的に運営する学校となれば当然のことながら生徒から教職員にいたるまで女性ばかりなのだ。もちろん学園が保有する訓練機の保持の整備員には男性が多数含まれているが、ISの保管庫や整備するガレージは機密と防衛上の理由からIS学園地下にある。一介の生徒でしかない一夏がそのようなところに用事も許可証もあるはずがなく、いまだに門の警備員以外にIS学園内で男性を見た記憶はない。整備科志望の生徒は授業で地上の整備棟で会うこともあるらしいが、生憎一夏は一般科だった。

 こうして織斑一夏は下手をすると数週間も女性しか出会わないと云う、ある意味ユートピア、ある意味ディストピアな学園生活を強いられるコトとなったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「俺は男に飢えている」

 

 「ど、どうしたの一夏……」

 

 今はSHR前。あと数分で予鈴が鳴ると云うなか、今日も今日とてIS学園一年一組のクラスは騒がしい。

 

 シャルロット・デュノアは、突然想い人から漏れ出した汚水のような濁った呟きにちょっと引いた。

 

 シャルロットはフランス人だ。フランスの代表候補生でありその柔和な美少女の裏腹に戦闘でも優等生である。うなじで一本に結ばれた狐の尾のような金色の髪をさらりと垂らして、机に頬杖をついている一夏の顔を覗き見る。見事に濁り切っていた。淀んでいるとも云う。

 うわーやさぐれてるなー、とシャルロットは顔を引き攣らせた。

 一歩間違えなくとも特殊な性癖が露呈してしまっている発言であるが、まさか本当にそうなのかとも心配した。

 

 しばらく、ぬぼーと覇気のない目線を彷徨わせていた一夏であったが、今のヤバい失言にハッと我に返った。

 

 「いっ、いやそのだなシャル! 今の男に飢えていると云うのは俺がホモとかそう云う意味じゃなくてだなっ……」

 

 「……一夏」

 

 「俺はいたって健全健康な男児であって女の子の薄着の目のやり場にも困ってるしたまに下着のラインが見えたらどきっとするし芯の通ったカッコイイ女性が好きだと云うちゃんとした女性の好みもあってだな―――」

 

 「おりむらくん?」

 

 「さらに距離が開いてしまったーーっ!?」

 

 数歩引いたシャルロットに慌てた一夏は必死の弁解を続ける。

 イロイロ漏れ出る本音にシラッとした白い悲しげな目を向けていたシャルロットだったが、ひとしきり遊んだところで破顔した。

 

 「あはは。冗談だよ一夏。念願の男の子が転校して来るかもしれないって云う噂に舞い上がってるんでしょ?」

 

 「シャル! わかってくれたか!」

 

 「もちろんだよ、一夏」

 

 さりげなく私は貴方のコトちゃんと理解してますよアピールで一夏との距離を確かに縮めたシャルロットはまさに狐のような策士であった。

 

 そんなシャルロットの優しさに感動していた一夏は件の噂の信ぴょう性を高めようと意気込んだ。一夏待望の男子生徒が転校してくると云う噂は多数の生徒が噂していたが実際に男子生徒を見たと云う生徒はラウラを含め誰もいなかったのだ。

 

 「ところでシャルはそいつを見たのかっ?」

 

 「うーん、僕は見てないけど山田先生はもう会ったらしいよ。副担任だから当然なんだけどね」

 

 これで勝ったも同然と一夏は拳を固く握りしめてガッツポーズをする。

 今にも踊りだしそうな勢いで喜ぶ一夏の姿にシャルロットを含めた周りの生徒ははくすくすと微笑う。

 

 笑みを浮かべて喜んでいた一夏ははたと時計を見た。

 

 「おっと。シャルロット、そろそろ予鈴が鳴るぜ。織斑先生は予鈴を合図に来るから座わんねぇと」

 

 「うん、そうだね。一夏、仲良くなれそうな人だったらいいね」

 

 「おう」

 

 シャルロットは以前『男子生徒』として入学してきた時の一夏の喜びよう知っていた。今まで女性しかいないことに苦労してきたコトを知っているシャルロットの言葉に一夏はありがとなと笑い返した。

 

 シャルロットも笑みでどういたしましてと応えて踵を返す。

 そして誰にも見えないようこっそりと涙を流した。

 

 「でも、一夏の好みのタイプってやっぱ織斑先生なんだよなー……」

 

 シスコンの壁は大きい。まさに山の如し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時をやや巻き戻して日曜日。

 初夏にしては厳しい日の下、櫻井千奈は警備員の奇異な視線を受けつつも、入場許可証をチラつかせてIS学園の校門をくぐった。太陽は櫻井を焼き殺さんと真上で輝いている。

 

 「暑い、広い」

 

 IS学園の校門を抜けると大きな広場となっていた。なるほど、いざというときは心置きなく火砲を展開できるな、と櫻井は無粋な感想を抱いた。火砲をこの広場に展開するような事態となればすでに最悪な全面戦争の事態に転がっている。そうなったら櫻井の収容範囲を超えてしまっている。そんな事態にならないと断言できないのが難儀だなと櫻井は他人事のように辺りを見渡した。

 

 さて、ここからどうしたものかと思案する。IS学園に向かえと言われたがそれからは何も指示されていない。そもそも織斑一夏の周辺についての情報などは多くもらったが、櫻井が今からどうするかについての指示は何ももらっていない。完全に丸投げされた気分だ。

 とりあえず歩いて受付にでも行こうかと考えるが先ほどの警備員の対応を見る限りそこで問題が解決する期待は薄い。無関係のなかに溶け込むことは容易いがこうも世界が狭いとそれも難しい。

 

 櫻井はIS学園について早々に途方に暮れた。

 

 「おい、転校生」

 

 突然、櫻井は歩き出そうとしたところで凛とした低い声に呼び止められた。

 

 櫻井が右を向けばそこには黒いスーツを着た女性が道の淵に植えられた街路樹の木陰に立っていた。ぴったりとしたスーツとタイトスカートは女性の美しいラインをくっきりと描いていた。スレンダーな印象を受けるが恐ろしくスタイルがいい。街を歩けばほとんどの男が振り返るであろう。

 

 意志の強そうな眼が櫻井を射ぬいた。縫いとめられたように動けない。倒れそうなほどの炎天下の下どうすることもできずに櫻井は立ちすくんだ。

 やがて呆れた溜め息とともに先ほどとは違って柔らかい声がする。

 

 「そんなくそ暑いところにいつまでも突っ立っているな。こっちに来い」

 

 「……織斑、千冬」

 

 「いきなり人の名前をフルネームで呼び捨てか。いい度胸だなお前」

 

 「一応の確認です。間違いないようで」

 

 「ああ、私がお前の担任を務めることになった織斑千冬だ」

 

 なんとも淡白な自己紹介がすんだところで櫻井はキャリーバッグを引っ提げて千冬のいる木陰へと入った。木陰の中はひんやりとしていて心地がいい。

 

 「涼しいですね」

 

 「ここが涼しいんじゃなくて外が暑いんだ」

 

 前髪をかきあげた千冬がうんざりした様子で訂正した。仕事上、黒のスーツを纏うことの多い彼女には夏の日差しはツラい。

 千冬は櫻井のつま先から順に頂点までをなぞるように観察する。

 

 「若いな」

 

 「そちらには僕についての資料が送ってあると思いますが」

 

 「ああ、確かに見た。実際に見てさらに若いと言ったんだ。護衛の任務に就くにしても、お前は若すぎる」

 

 千冬の目にわずかに警戒の色が浮かぶ。確かに櫻井は今年で一八だ。彼女よりも年下どころか警護対象である弟とさほど変わらぬ年齢だ。普通に考えれば目の前の少年は普通ではない『異常』に分類されるだろう。

 千冬の不審の視線を櫻井は冷めた眼で見返す。その声は凍土よりも冷たく、なお固かった。

 

 「別に珍しくもないでしょう。今時、その手の『専門家』が必要なんですよ。いつの時代にだっている“都合のいい人間”が」

 

 「……、」

 

 千冬は無言だったがその眼には怒りと軽蔑を宿らせていた。子供が兵士になる、その道を選んだ櫻井に対してか。それともそれを強いた世界に対してか。なぜ千冬がこのような感情を抱くのか初対面の櫻井には判断できない。むしろ不思議だ。理解できない。

 

 「まあ、僕の身の上話はこの際置いておきましょう。僕が織斑一夏の警護に就く事になった櫻井千奈です」

 

 声色は変わらないのに明らかに櫻井の態度が穏やかになったコトに千冬は驚く。そしてたじろぐ。なぜなら櫻井が千冬の顔をじっと観察するように見ていたからだ。まさか何かついているのかと少しだけ不安になる。

 

 「な、なんだ」

 

 「いえ、資料で見るよりか美人だと。正直驚きました」

 

 これ以上にない真顔で言われた千冬は目を見開いて驚いたあと、我にもなく顔が赤くなったことに気が付いた。これまで薄っぺらな賛辞は腐るほど聞いてきたがここまで真剣に言われたのは初めてだった。要するに、このとき千冬は照れてしまったのだ。

 薄暗い木陰で助かった。千冬は意趣返しのつもりで睨み返したが今度は呆気を取られた。先ほどから冷めきった様子だった櫻井だったが今は微笑んでいる。もしかしたら櫻井なりのあいさつだったのかもしれない。

 

 「まあ、僕の妹のほうが美人ですが」

 

 「それは結構。それにしても妹がいるんだな」

 

 「義理のですが。それに一度もお兄ちゃんと呼ばれたことないですし、昔にわたしはあなたの妹じゃないって断言されちゃいましたけどね」

 

 「それは難儀だな」

 

 千冬もやんわりと微笑んだ。千冬のなかで櫻井千奈の印象が大きく変わる。

 想定以上の好印象となった初対面を果たした二人は連れ立って校内を歩く。

 

 「校内案内をしてもいいところだが」

 

 「校内の主要な施設は事前に地図で確認済みです。それにこの炎天下のなか歩き回りたくない」

 

 「それはよかった。私もさっさと冷房の効いた部屋に引っこみたいんだ」

 

 千冬はガキ大将のような笑みを浮かべ、それに櫻井は苦笑で返す。こうしてみるとなかなか互いに相性がいいのかもしれない。

 

 事務課棟を通りすぎて一年棟へと直進する。時折通り過ぎる教職員から警備員と同じく奇異の目を向けられている事に櫻井は敏感に察していた。

 しばらく歩いて、櫻井は一年棟三階の端にある一際小さな小汚い部屋へと通された。千冬の執務室だと説明される。櫻井は驚愕した。

 

 “執務室……?”

 

 櫻井は冷や汗をたらりと流して怪訝に辺りを見渡した。神に喧嘩を売らんと積み上げられた段ボールと書類の山が。アレが崩れたら確かに言語を失いそうだ。床は明らかに掃除の行き届いていない砂埃が積もっていて粉雪のよう。まさかこんなものに粉雪なんて表現を使う日がこようとは。机の隅にはいつ飲んだかもわからないかぴかぴのカップと幾本もの缶コーヒーの空き缶が。なるほど、部屋の真ん中にドデンと置かれた粗大ゴミだと錯覚していたモノは千冬の文机か。

 

 それにしても―――

 

 “いったいなんでこのヒトはドヤ顔でふんぞり返ってるんだ!?”

 

 櫻井は戦慄したが、それをグッと堪えて問いをぶん投げた。苦しげにぶん投げた。

 

 「どのくらいの職員が僕の転入を知っているんです?」

 

 「え、あ、ああ。教職員の三割と云ったところだな。事務課のほうはほとんど知らされていないと思ってくれてもいい」

 

 と云うことは必要最低限の人員にしか知らされていないのかと櫻井は判断した。櫻井の転入は織斑一夏並みのレアケースだと言ってもいい。実質一国家の軍人である櫻井が派遣されると云うことは学園に軍が介入すると受け取られてもおかしくない。実際には織斑一夏は日本人であるのでそれを警護するのは日本であるのが当然であるのだが政治とはそんな正論が容易く通じる世界ではないのだ。

 

 IS学園にはISの開発可能な主要国家から大体均等に教職員が派遣されている。禁止されているがなかには軍人上がりの諜報員も交じっているだろう。教職員が互いを互いに監視しあうことによって越権や自国の生徒に対する抑止力としているのだ。

 今回も余計な火種を事前に広めぬよう、櫻井の転入は辞令が下りる前日に理事長が独断で采を取り、転入手続が下りたのはつい昨日のコト。噂が噂である内にさっさと入れてしまおうと云うものだ。入れてしまえばこっちのもの。日本人である織斑一夏を日本人である櫻井千奈が警護するのはおかしい話でもないし、櫻井はIS学園に入学する『条件』をクリアしている。このことに後から各国が気がついても遅い。すでに織斑一夏の警護する大義名分もなく各国が互いをけん制して雁字搦めとなってまた身動きが取れなくなっている。

 

 櫻井に一通りの学校についての説明をして、千冬は尋ねた。

 

 「他に何か質問はあるか?」

 

 「そうですね。ひとまず僕は今日からこの学園で生活するわけなんですが、今日の部屋は?」

 

 説明を受けた限り寮職員も櫻井について知らないと判断してもいい。知らせるにしても明日からだ。となると今日はどこで寝ればいいのだろうかと当然の疑問が湧いて出てくる。

 

 問いに対して千冬は悩ましくこめかみを抑えた。

 

 「あーそのだな。実はこちらも知らされたのがあまりに急だったからお前の部屋は用意できてない」

 

 「そうですか」

 

 櫻井はさして落胆したわけでも失望したわけもなく応えた。予想はできていたし野宿も慣れている櫻井には何の問題もない。

 ―――何の問題もなかったのだが、

 

 予想通り過ぎて真っ平らな声色で返したため、それを落胆と判断してしまった千冬は慈愛の微笑みを櫻井に向けた。

 

 「この部屋を特別に使っていいぞ」

 

 「なん……ですと……ッ!!!」

 

 続く言葉がない。絶句とはこのことか。

 櫻井はもう一度、この部屋の惨状を見渡して無理だと判断した。これ以上の不衛生な環境で寝泊まりした経験は多々有れどこれはベクトルの違う不衛生だ。大昔にクソッタレと連呼したい実父と住んでいた生活を思い出すから全力で逃げ出したい。首をふるふると、弱々しく振った。

 

 それを遠慮だと勘違いした千冬はさらに続ける。

 

 「遠慮するな。今日はもうこの部屋は使わないからな」

 

 「……仕事は? 仕事を増やしてる僕が言うのはなんですが、かなり仕事がためこんであると思いますが」

 

 「問題ない。お前の転入手続は職員室の机でもできる」

 

 つまりこの部屋は私物化されているのか。あまりの無法地帯に櫻井は愕然とした。最新設備の搭載されたIS学園からこの部屋だけ隔絶されている。

 仕方なく櫻井は千冬に現実を突きつけた。

 

 「こんな汚い部屋に人が住めるわけないでしょう」

 

 遠慮するなと言われたので正直に言った。

 

 千冬はがはっと血反吐を吐きそうな勢いで傷つく。どうやら気にしていたらしい。ならばどうして片付けないんだと櫻井は呆れる。

 落ち込んでいた千冬が勢いよく顔を上げる。涙目だった。

 

 「女性の部屋を汚いとか言うなッ」

 

 「無理です、無理を言わないでください。だいたいどこに寝ると言うんですか、こんな埃にまみれた床で寝られませんよ」

 

 「そこにソファーがある」

 

 見れば大きめのソファーが確かにある。この部屋の惨状と比べて幾分か新しい、ように見える。応接にはやや大きすぎる豪勢な革張りのソファーだった。ただ、その上に丸まった毛布が転がされているのを見る限り千冬の仮眠ベッドとなっているのだろう。

 どうだ良いソファーだろ高かったんだぞ、とドヤ顔で得意げに自慢する千冬への印象株価が櫻井のなかで急落している。

 

 「ちなみにこの惨状を織斑一夏は知っているのですか?」

 

 この問題はこれから一夏と同部屋になる櫻井には死活問題だった。執務室でこれだとしたら部屋はもっと酷いのだろう。その千冬と同じDNAを持っている一夏も同じだとしたらうっかりわざと拉致暗殺させて櫻井は任務完了とばかりに退散しかねない。そのぐらいに櫻井にとって日常の汚さは忌避するものだった。

 問われた千冬は挙動不審になる。

 

 「はっ? 一夏に? 一夏に言えるかこんな状況。この前も寮の自室を見られて怒られたばかりだと云うのにっ」

 

 だめだこのヒト。誰か早く何とかしてあげて。千冬への印象株価が暴落した。

 櫻井は偏頭痛を抑える。

 

 「入学手続きなら今晩でもいいですよね?」

 

 「え、あ、ああ。確かに今晩でも十分間に合うが……」

 

 「掃除、しましょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから時を戻し場所を変えた月曜日の早朝。

 

 櫻井は一年棟の一年一組のクラスの前で待たされる。

 教室のなかでは千冬がクラスのじゃじゃ馬たちの手綱を引いている。にわかの喧騒も収まっていく。

 

 「ちゃんとすればいいのになんであんな残念なんだ」

 

 思わず零れた呟きに同じく部屋の惨状を知っている副担任の山田真耶は苦笑いを浮かべた。

 

 「人には得意不得意がありますから……」

 

 「アレは得意不得意ではなく、ただ単にだらしないだけです」

 

 にべもない物言いに真耶はうっと呻く。真耶にとって千冬は尊敬できる先輩であるが庇いきれない。千冬は公然では完璧であるが日常面では壊滅的だった。

 

 「まさかIS学園に来て初仕事が部屋の掃除だとは思わなかった」

 

 「えっ、あの部屋が片付いたんですか!?」

 

 「いつゴキブリが湧き出るかも知れない部屋で寝泊まりしろなんて嫌ですよ」

 

 掃除が大嫌いな千冬はかなり渋ったが最後はごり押しで掃除させた。

 

 櫻井はここ数日ですでに疲れ切ってしまった。自分はいったいこれからどうなってしまうのだろう。それは櫻井には見当もつかない。

 なんとももっともらしい屁理屈を付けた辞令が下りて有名人の護衛任務。それから実家に顔を出してしばらく帰れないと告げ妹を泣かせてしまい、織江に電話で助けを求めると自分で何とかしなさいあと妹泣かせるなと切られてしまった。いざIS学園に到着すれば教師の部屋の掃除に初日を潰す羽目となる。

 

 いままでを思い返してなんとも平和なことだ。

 櫻井は呼ばれて真耶について教室に足を踏み入れる。ドアから見る光景は異質だと感じた。整頓されて並ぶ同年代と大きな窓からは空と海が見える。差し込む光が眩しい。

 踏み出す足に勇みも怖れもない。いつも通りの胸に興奮も期待もない。輪郭をなぞる視線に意味もない。手にした鞄にはまだ中身がない。

 

 櫻井は先がまったく見通せずにいるまま教壇の隣に立った。

 

 「櫻井千奈です」

 

 自分の名前を名乗るが、実感はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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