学生の本分は学業である。
これはすべての学生が通る道であり、誰も避けて通ることはできない。
勉強とは洗脳と似ている。
一人の教師が多くの生徒を教え導き、これは正しいことなのだと薄っぺらな教科書を片手に熱弁している。教師は今勉強しておけば君の人生は輝かしいものになる、と言う。
国語はまだいい。日本人として日本語を学ぶのは当然の事である。
算数もまだいい。簡単な数の計算と合理的思考ができない人間はもはや生きては行けまい。
理科は楽しい。科学の実験は昔テレビで見たマッドサイエンティストの真似事のようで心が躍った。
社会はなかなかに面白い。過去の英雄の歴史を知るのは下手な小説よりも興味深いものだ。
しかし、考えて欲しい。
学校で習うコトが本当に人生を輝かしいものへと変えるのか?
いいや、そんなことない。なにもすべてが美しいわけではない。大人の小汚い屁理屈だってある。
たとえばアレ。学校の教師が叱るときに言う、「来年○年生になるんでしょ」。いつになっても終わることのない永久の呪縛である。男には、今やんちゃしなければならないコトもあるのだ。たとえばお姉ちゃんとお風呂に入るとか。今やろうと言えば鉄拳制裁ものであるがあの時代は許された。無邪気の時代とは素晴らしく、光陰矢のごとしと云う言葉が目に浮かぶ。
そんな子供の貴重な時間を奪い、狭い教室に箱詰めにし、一年すれば疎遠になるであろう風で消し飛ぶような「みんな仲良くお友達」を強いる。本当に孤高のぼっちの子供がかわいそうで仕方がなかった。
そのうちきっと腐った眼で「人生が豊かになりましたー」などと言いかねない。
だから、――― 織斑一夏はここに断言しよう。
「人生において回転体の体積とか求めるコトなんてないと思うんだ」
「わかったわかった。いいから早く問題を解け」
時刻は八時半。
日の入りが遅くなった夕焼けも完全に沈みだした自由時間。夕食も入浴も済ませてしまえばあとは自由時間である。生徒はみな各自で友人の部屋に遊びに行くなど思い思いの自由を楽しんでいる。寮生活となれば自学時間と云うものが設けられるものであるが、自学時間とはそもそも勉強のできない生徒のためのものであり、IS学園に入学するほどの才媛たちは自分の裁量でしっかりとやっている。
織斑一夏も自分が不出来であると自覚があるため、友人たちに助力を貰って勉強に勤しんでいたのだが、そんな時に漏らした愚痴に対して友人たちの反応は芳しいものではない。
箒は机に向かったまま邪魔と言わんばかりに手のひらをひらひらとさせる。エレナは窓際のベッドに転がって小説を読みふけっていた。一応、一夏の愚痴を聞いていた様子だがこれと云って反応はない。
そして、櫻井はさきほどから簡易キッチンで作業をしているため気が付いてすらいない。
「くっ、これだからできるヤツはっ!」
悔しさに一夏は身体を打ち震わせる。
溜め息をついて、箒は机の上のノートと教科書から一夏に視線を移す。その目はどこか鬱陶しげである。
「数学はやらないとできないぞ。いいから解け、手を動かせ。お前はそれだけが取り柄だろう」
「ひ、酷いな。俺にだって他に取り柄ぐらい……」
「勉強の役に立てばいいがな」
そう言われるとぐうの音もでない。むしろ、俺の長所ってなんだ、と空しい自問自答をする始末。
しかし考えるのは途中でやめてしまう。なぜなら自分の長所が見つからなかったらそれはショックだからだ。最低自分には自分が自信を持ってやりたい。
一夏の相手などしてられないと、箒はまたノートと教科書と睨めっこをはじめる。
それはそうと。
一夏は胡乱な目をエレナに向けた。
「エレナは勉強しなくていいのか? 宿題、出てたぞ」
「ああ、大丈夫っス。他の授業中に終わらせちゃったっス」
「内職かよ……」
とはいえ、それで学業をしっかりできる彼女は要領がいいのだろう。少なくとも、できない一夏よりはマシである。
それを感心半分羨望半分で眺める。
一夏が心を打ち砕かれたところで、櫻井がキッチンから顔を出しに来た。そして、表情が完璧な無表情へとなった。
「……エレナ・クロスフォード、なんで僕のベッドで寝ているんだ。それと、その本は僕のだが」
櫻井の声色はマリアナ海溝のように低く、チベット山岳氷河の如く冷たい。黒いエプロン姿からオーラでも滲み出ているようだった。
あまりの寒気に一夏は背筋を震わせた。本当に六月の末なのか疑問に思う。冷房の効きすぎか?、と確認してみれば二七度である。地球にもお財布にも優しい温度設定だ。
そんな櫻井の対応はすでに慣れっことばかりにエレナの表情はちらとも変わらない。このなかで一番肝っ玉が図太いのは彼女なのかもしれない。笑って手のひらをひらひらとさせて言う。
「そんな細かいコト言っちゃダメっスよ」
櫻井の苦言などエレナにはどこの吹く風と云った様子だ。
静かに怒り出すかと思いきや、なにやら複雑な表情だった櫻井は、そっと溜め息をついてキッチンへと踵を返す。そして、オーブンの中身を確認して納得顔で頷くと何かを取り出す。
それを切り分けて小皿に移す。トレイに小皿を載せて持ってきたのは、
「なんスかそれっ! でっかいプリンっスか!」
不思議そうにそれを眺めていたが、その正体を見定めるや否や、エレナはベッドの上から俄然跳ね起きた。
皿の上では弾力のある黄身色のそれの上にはカラメル色の液体がかけられていた。バニラエッセンスの暖かな香りがほんのりとする。
確かに見た目はまさしくプリンであるが、櫻井はエプロンを外しながら
「いや、正確にはプリンケーキだ」
そう言われて見れば、プリン生地の下がスポンジ生地になっている。
一夏は唸った。とてもおいしそうだった。
カラメルの香ばしい匂いにエレナが「おおっ!」と子供のように目を輝かせた。
櫻井が小皿を箒と一夏のそれぞれの机に置いた。櫻井とエレナの分である二皿はベッドサイドテーブルに置かれる。
目を丸くして箒が恐る恐ると云ったふうに尋ねる。
「食べていいのか?」
「むしろ食べてもらわないと困る」
エレナが感動した顔でもう一度「おおっ!」と目を輝かせる。
対して、言われて箒が難しい顔で唸った。
「食べたいが……」
そう言って時計をチラリと見る。時刻は午後九時。
なるほど、女性としては甘いケーキなどはできれば遠慮したい時間帯である。女性は体重計が天敵なのだ。入浴後に体重計に乗ってしっぺ返しにあうかもしれない。
櫻井の好意と女性としての慎みに板挟みになる箒。
それを察したのか、食器棚からフォークを取り出して櫻井が言う。
「問題ない。砂糖の代わりにメイプルシロップを使っている。牛乳も豆乳で代用した」
「あれ? メイプルシロップってカロリー高くないんっスか?」
喜び勇んで皿を手に取ったエレナが首を傾げる。彼女はそもそもカロリーすら気にしていない。
「メイプルシロップは砂糖や蜂蜜よりも甘みが強くてカロリーが少ない。甘みが強い分だけ使用量も少なくて済む。食べ過ぎなければ些細な程度だ」
「ほへー、なるほどっス」
エレナは感心した様子で櫻井からフォークを受け取る。
一夏も甘いものは好きだ。自然と浮き立ちながら、受け取ったフォークでプリンケーキを小さく切り分けてから口に運んだ。豆乳の使用や砂糖を使っていないわりには確かに甘い。そして甘みのバランスとプリン生地の固さがちょうどよく、スポンジ生地とプリン生地が渾然一体となっていてかなり美味しかった。
しげしげと絶品プリンケーキを眺め、今度は一夏が尋ねた。
「でもよ、甘味料とかじゃダメなのか? あれはノンカロリーだぜ?」
「甘味料はジュースやヨーグルトには向いているが焼き菓子には向いてないんだ」
こちらに顔は向けずそう答えて、櫻井はまたキッチンに引っこんで行く。キッチンではお湯が沸かされていた。
「せっかくセンナくんがここまで用意したっス。箒も貰っちゃおうっス」
「うむ、そうだなせっかくだし」
箒自身も勉強疲れで甘いものが欲しいと思っていたところだった。
それにしてもいいことを聞いた。これからは自分もメイプルシロップを使ってみようとお菓子づくり計画を立てながら、箒は櫻井が用意したプリンケーキを口に運ぶ。
そして、箒は停止した。見ればエレナもフォークを咥えて体の動きを一切止めていた。二人の顔には影が差している。
別にマズかったわけではない。むしろかなり美味しい。
「どうしたんだ、二人とも?」
「いや……」
「なんでもないっス」
呑気な一夏に二人は手を振った。
櫻井の所作に問題はない。ただ問題なのが、櫻井のケーキは乙女の自信を打ち砕いてしまうほどに美味しかったコトだろうか。
美味しいハズなのに精神的に堪えた二人は静かに沈んだ。
そこへ櫻井がティーカップを用意して持ってきた。その作法として完璧さはセシリアがこの場にいれば絶賛していただろう。
櫻井は手慣れた手つきで人数分の紅茶を用意していく。ティーカップには濃いオレンジ色の液体がなみなみと注がれていく。とたんに空調された室内にほのかな花の香りが広がる。
「ディンブラだ。カラメルやメイプルシロップに合う紅茶だからこのプリンケーキにちょうどいい」
その細々とした甲斐甲斐しさに箒とエレナが追い打ちに怯む。さすがのエレナも女性としてのプライドはあった。が、たった今見事に打ち砕かれた。
一夏は櫻井が音もなくソーサに置いたティーカップを持ち上げた。シンプルであるが要所要所に細かい綺麗な装飾が施された白いティーカップだ。
「なあ櫻井。これってお前の私物か?」
一夏はこのティーカップがキッチンに置かれていた記憶がない。湯呑とコップは置かれていたがこんな高尚な代物はなかったはずだ。
紅茶を配り終えて櫻井が微笑んで頷いた。
「ああ、そうだ。貰いものだが、代物は上物だ」
「確かに綺麗なカップだな」
言われて箒もカップを持ち上げ頷いた。
以前、一夏がセシリアの部屋に招かれたときにも紅茶は御馳走になったが、セシリアのティーカップは青一色の下地に金色の模様細工が施された宝石のようなティーカップであった。あれはあれで綺麗であったが、一夏としてはこちらのほうが幾分か落ち着く。
差し出された紅茶はクセのないさわやかな風味があった。紅茶を飲みなれていない箒も、渋味が少なく穏やかで親しみやすい香味に顔をほころばせる。
控えめな味わいは、確かに甘いメイプルシロップのプリンケーキにはぴったりな紅茶だった。
「でも悪いな櫻井。こんなに御馳走になって」
「いや、こっちも料理に関してはここ数カ月おざなりだったからな。勘を取り戻すのにはちょうどいい」
「おおっ! ということは、センナくんの部屋に来れば毎日おいしいものが食べられるってコトっスね!」
「毎日来られてもな……。あとセンナくん言うな」
呆れたような声で、そして最後にひと睨みして、それはそうとと言って、櫻井は一夏のほうに視線を投げかける。
「そっちは進んでいるのか?」
櫻井が出した課題の事だ。
甘いものを食べて幸せに浸っていたのだがあっさりと現実に引き戻されて、一夏はうっと呻く。
その反応にティーカップから口を離して櫻井は溜め息をついた。櫻井が一夏から取り上げたノートの中身は見るに堪えない出来だった。
「織斑一夏、この程度を解いてもらわないと進級も難しいぞ」
「うぅっ!」
「というか、お前が留年でもすれば自動的に護衛である僕も留年するから勘弁願いたいのだが?」
「ううぅっ!!」
大変な迷惑をおかけしていますと一夏は項垂れた。
「だいたい、教科書に例題の解き方が書いてある。なのにできないなんて。お前の頭のなかはチーズでも詰まってるのか?」
「だったらお前にも解いてもらおうかぁああああああっ!」
さすがにキレた一夏が櫻井からノートをブン捕って、まだ手付かずだった問題を指示した。完全な逆切れであったが、もはや勢いだ。箒も呆れてそれを眺める。
何と言おうか諦めて、紅茶を飲みながら櫻井は一夏が指示した問題を見た。ノートを見ればサイクロイドの面積を求める問題だ。サイクロイドとは定直線に沿って円が滑らずに回転するときの円周上の定点の軌跡のコトである。
「ああこれか。
―――サイクロイドというのはx=a(θ-sinθ)、y=a(1-cosθ)というθを媒介変数として表される曲線のことだ。
それから、ここでいうところの面積はx軸とで囲まれた最初の部分の面積を指す。周期は2πだから、
面積は∫0~2π ydx=∫0~2π y(dx/dθ)dθとなる。
ここはdx/dθ={a(θ-sinθ)}'=a(1-cosθ)だから
……なんか難しい顔してるから一から説明すると、
= ∫0~2π a^2(1-cosθ)^2 dθ
= a^2 ∫0~2π (1-2cosθ+cos^2 θ) dθ
= a^2 ∫0~2π (1-2cosθ+(1+cos2θ)/2) dθ
= a^2 ∫0~2π (2/3 - 2cosθ+1/2cos2θ) dθ
= 3πa^2―――で、答えの面積は『3πa^2』というわけだ」
わかったか?、と一息に答えて櫻井が問う。
聞いていた箒はドン引きしていた。興味なさげだったはずのエレナも口を開けて絶句している。
一方、きれいさっぱり理解できなかった一夏は頭を抱えて悶えていた。
「だから数学って嫌なんだよ……ッ!! アレだけ数式縦に並べて、出た答えがたったの三文字かよ!」
しかし、数学とは算数とは違い結果ではなく、合理的な過程を重視する学問であるので答えが簡単になるのは当たり前である。
理解不能の不条理に身悶えしている一夏に櫻井は憐みの視線を向ける。
「これはまだ半径が1だから随分と楽なほうだ」
「聞きたくなかった! それは聞きたくなかったッ!!」
これから待ち受けるであろう悲惨な未来に一夏は現実逃避に走りたくなる。一年生のこの時期から勉強に躓くなど、進学校なら落ちこぼれ確定のお先真っ暗な未来である。いや、IS学園は倍率一万倍の超進学校だった。どうしよう、このままでは確実に己の留年が全世界に知れ渡る、と一夏は戦慄に身を焦がす。
さしものエレナも呆れかえっていた。そんなコト誰でもできたら気味が悪い。
「アレっスか、センナくんは頭にコンピューターでも埋め込んでるんスか」
「脳は立派なコンピューターだ。機械盤なんかよりよほど優秀だ。なんせそのコンピューターを創ったのが人間の脳だからな。あとセンナくん言うな」
「いや、そうっスけど……」
最期は無視してエレナが納得いかない顔で小説をまた読み始める。が、ほどなく読み終えてしまった。本を読むのも飽きたとばかりに大の字に転がって身体を投げ出す。
ふと、エレナは顔を上げ、櫻井を見る。
「そーいえば、センナくんには弟とか妹とかいるんスか?」
「いったいどうした、藪から棒に」
エレナは小首を傾げた。どうやら『藪から棒に』の用語の意味がわからなかったらしい。
「……突然どうしたと訊いたんだ」
「いやだって、手慣れすぎっスよ。だから弟くんとか妹ちゃんとかいるのかなって」
「ああ、眼に入れても痛くない妹が二人いる」
ちなみに、昔は眼に入れたら死ぬほど痛い妹がもう一人いた。
櫻井の返答にエレナはむーっと唸っている。まったく意味が不明だった。
目を細めて一夏が神妙に問う。
「櫻井はアレか。シスコンか」
「いや、一夏には言われたくないだろ」「イチカくんには絶対言われたくないっス」
「……、」
一斉に反撃にあって一夏はシスコンの称号を頂戴した。
当の櫻井はさらりと無視して食器の片づけをはじめていた。残りのケーキはサランラップをかけて保存。後で千冬のところへ持っていきちょっとした貸しをつくるのだ。
「お菓子だけにな」
「ほんっとお前のセンスはダメだな一夏」
最期に箒はそう酷評した。
勉強ができない人間と云うのは、やはりできない理由があるのだ。
頭が良くても怠惰であったり、要領が悪かったり、あとは集中力がないからか。しかし、それらを超える勉強のできない理由がある。それは環境である。
勉強をしようとしても、周りの人間が邪魔するとその人もずるずると落ち込んでしまうのだ。
「ふっふっふっ、じゃあいくっスよーっ!」
「よしコーイっ!」
場所は夜の屋上。
生ぬるい風が頬を撫でる。星は出ていないが月明かりが朗々としていた。また都会からのネオン光も照り付けており、夜の屋上でも明かりには困ることはなかった。
IS学園寮の屋上は解禁されているが、落下防止のために背丈よりも遥かに高いフェンスでぐるりと囲まれている。それが檻に見えなくもない。アルミフェンスを枠に夜空を眺めるとどうしようもなく空が遠い。
屋上はそれなりに風が強かった。屋上と云う理由もあるが、沿岸部のIS学園は強風に晒されている。櫻井にはそれが都会の孤島の縮図に見える。
そんな学園寮屋上では、なんとも平和な光景が広がっている。
「で、なんで野球なんだ。エレナ・クロスフォード」
「息抜きっスよ。それにみんなでベースボールすれば仲も深まるっス」
意味の分からないアメリカンシンキングに櫻井は呆れ果てる。何か言っても聞きそうにない。
「……これだからアメリカ人は」
昔に任務でとある米軍人に散々苦労させられた櫻井は忌々しげに吐き捨てる。
一夏、櫻井、エレナの三人は屋上で野球をしていた。ボールとグローブはエレナが数個所有していたものを。バッドは新聞紙を何重にも筒状に丸めて創作したもので代用していた。強度は木製バッドに当然比べ物にならないが、屋上で野球をする以上は逆に飛んで行ってもらっては困る。とりあえず前に飛べば打ち返しだ。
櫻井の物言いに、エレナがボールを突き出して憤慨する。
「あーっ、なんスか。センナくん差別っスかーっ!」
「エレナ・クロスフォード個人に言ったと思ってくれていい。あとセンナくん言うな」
一夏は苦笑を浮かべて新聞紙バッドを構え、櫻井が気だるげにグローブを構える。そしてエレナがぷんすかと怒りながら赤い縫い目の目立つ白球を投げた。
低い重心の安定したオーバースローから放たれる球筋は鋭かった。櫻井の目にはしっかりとまっすぐな球筋が見えた。
一夏がコンパクトに新聞紙バットを振るうが、掠ることもなく。
「三振。アウトだ」
「ぐぉう……!」
一夏の膝が無様に折れる。
それも無理はない。なぜなら織斑一夏はこれで三〇球一〇打席連続三振だったからだ。可哀そうに思えてしまうほど凄惨たる有様だ。
櫻井は一夏に同情した。
なぜなら―――
“この女、めちゃくちゃ野球がうめぇ……ッ!”
一夏と櫻井の感想は見事に一致した。
それほどまでにエレナ・クロスフォードと云う少女は凄かった。正直、女性野球リーグがあればメジャーをお世辞抜きで目指せるレベルだった。
目算140km代のストレートとツーシームとの組み合わせで凡打の山を築きあげ、多種多様の変化球は鋭く深い角度でストライクゾーンに突き刺さる。
野球経験がないとはいえ、櫻井も先ほどから手も足も出ない有様だ。
「なんなんだコイツは。代表候補生として通う学校間違えてない? それとも本名は実はほむらちゃん? パツキンだけどさ」
「おぉ…、櫻井ってパワプロくん知ってたんだな。意外だ」
「馬鹿言え。おそらく僕ほど暇な自衛官はいないぞ。あまりに暇すぎて携帯ゲーム版のほうは全作品キャラ作成数限界までサクセスをやり込んだぐらいだ」
「それはヒマすぎるだろ!?」
もしかすると学生である俺よりも暇なんじゃ、と愕然とする一夏。
実のところ、櫻井は特殊な立場上、忙しいときは忙殺されるほど忙しいが、暇になると二カ月ぐらいはほぼ仕事なしと云った状況になるのだ。給料泥棒と言われても文句は言えまい。であるので今では開き直って胸を張っているが、織江にそれを言うと自衛隊のISテストパイロットになってしまったのだから複雑なのである。織江も似たように高給取りだが暇を持て余すことがよくある。
それはそうと、いくら櫻井が携帯野球ゲームの廃ゲーマーであろうと現実には反映されることはない。それからもエレナの独走は続いた。
「センナくんもイチカくんも弱すぎるっス!」
「いや無理だ。そもそもこんな暗いのに打てとかなんていう無茶ぶり」
「それなのに容赦なく変化球とかドSか」
「気合で打つっス、気合を出せーっ!」
そうしているうちに気がつけば一時間も経っている。
見上げれば空には月があるが星がなく、代わりに都会の街に星の光が灯されている。その光は虚偽であるのかもしれないが美しい事に変わりはない。潮風は生ぬるいは汗ばんだ肌を優しく包み込む。
エレナは楽しそうに都会の夜空に踊る。笑い声をあげて童女のようによく笑う。
最後に、エレナは櫻井と一夏にそれぞれ野球ボールを手渡した。
一夏のボールは新品同然に磨かれ、櫻井に渡されたボールは小汚くところどころを真新しい糸で新たに縫い直されている。
「これは二人に持っていて欲しいっス」
「……渡されても使い道が。というか、織斑一夏との差はなんだ。遠回しの嫌がらせか?」
「おやおや? センナくんも新しいボールが欲しいっスか?」
そう言って、意地悪気に微笑うエレナが小憎たらしくて櫻井はそっぽを向いた。
「いや、別に。あとセンナくん言うな」
もちろん、エレナがそれに従うはずもない。
「それでなんなんだ? 別に織斑一夏に一つ渡せば済むだろう。一人でキャッチボールをする趣味はない」
櫻井はそう苦言を漏らした。
エレナは櫻井とそのボールを見比べ、なぜか寂しそうな微笑を浮かべたあと、振り切るように昇降口へと踵を返す。
「それはセンナくんに持っていて欲しいっス。いつか絶対必要になるっスよ」
そう言ってエレナはまた振り返る。そこにはいつもの子供のような笑みがある。
「それじゃ、おやすみっス。また明日っス」
幸せそうな満面の笑みを浮かべて、今度こそ別れた。