加東圭子にサヨナラを。 著・加藤敬(フォトグラファー) 作:矢神敏一
私史上最高の写真、は結局のところお蔵入りとなった。
撮影に失敗したわけではなく、ただ単に出版社が食いつかなかったというだけである。
あの写真はひとつのポートレート写真としての価値はあったが、報道写真としての価値はそこまで認められなかった。それに、一人の少女が戦士として血を流している姿というのは、この人間社会に在ってはあまりにも都合が悪かった。
それをあえて報じようなどという反骨精神は、今や業界から消え去って久しい。
もっともそれでよかったと思っている。この写真は、私と彼女達だけの、かけがえのない一枚だ。
きっと、加東圭子も、そう思ったに違いない。
「しかしまさか、そこのリリー氏が軍をやめて扶桑まで来るとはね」
私はエヌのラボにやってきていた。そして、そこには星見君とリリーもいた。
「星見さんは休暇というから話は分かるが、リリーさんまでいらっしゃるとはね」
「軍は辞めた。私は私の自由意思に従って、扶桑へ至った」
そう話す彼女の口調は固い。が、厳しいのは口調だけで、その表情は柔和だった。これはきっと、まだ扶桑語に慣れていないだけだろうと、私はそう思う。
「それで、だ。加藤」
エヌは私に詰め寄った。
「君がたどり着いた答えを、教えてもらいたい」
「元からそのつもりだよ」
私がそのあっけない結論を言おうとする前に、星見君が待ったをかけた。
「その話をする前に、お呼びしたい人が居るんです」
彼女がそう言うと、ラボの扉が開いた。
そこには、驚くべき人物が立っていた。
「稲垣真美と、申します」
その小さな老婆は、さらに小さくお辞儀をした。その姿は折り目正しく、彼女が由緒正しい軍人であったことを彷彿とさせる。
「かつては第三十一統合戦闘航空団……アフリカに、所属しておりました」
まごうことなき、加東圭子の僚機である。なぜ彼女がこんなところに、と呆けた顔をしていると、星見君が口を開いた。
「真美おばあちゃんは、私の祖母なんです」
「祖母ぉ!?」
私とエヌは驚いて飛び上がった。
その横でリリーが涼しい顔をしている。
「なんだ、知らなかったのか」
「先生にはお伝えしていなかったんです。まさか、加東圭子研究をなさっていたとは知らなくて……」
星見君はやってしまった、とばかりに首をすくめながら、稲垣氏に目線で何かを促した。
「お二人がケイさんの撮った写真を探しているとお聞きしたもので、今日はこれをもってまいりました」
彼女が差し出した写真。それは、カラーフィルムで撮影された彼女のポートレートだった。
私はそれを一目見て、いやこの場に居る誰もが、この写真の撮影者が誰かを理解した。
「これはもしや、加東圭子氏が撮影されたものですか?」
「はい。ケイさんが私の為に撮ってくれた、大切な一枚です」
退色が進み判別が困難になっているものの、それは確かにカラーリバーサルフィルムで撮影された写真だった。
「そういえば、ウワサがあっただろう!」
エヌは興奮気味に私に詰め寄った。
「ホラ、あのウワサだ。加東圭子がリバーサルフィルム・コダクローム64で撮影した写真があるという、あのウワサだよ!」
私は言われて思い出した。私がアフリカに行くかどうかでもめていた時に、彼の口から飛び出したものだ。そして私は、加東圭子が使ったかもしれないコダクローム64を持って、アフリカへと挑み、あの写真を撮った。
「やはりアレは本当だったんだ。加東圭子は、コダクローム64で撮影をしていたんだ!」
大発見だ。だが、加東圭子研究の第一人者であるこの私はどうしてか、こんな途方もない真実を前にしても、心が揺さぶられることは無かった。
「どうした。なぜ君はそんなにも冷静なんだ」
「それは、ね」
私はエヌに向かって微笑みを浮かべながら、その写真を稲垣氏へお返しした。
「稲垣さん。この度は大切な写真を拝見させていただき、ありがとうございます。よろしければ後身の研究に役立てたいと思いますので、今度また改めてお伺いさせてください」
稲垣氏が快く了承してくれたのを確認してから、私はエヌに向き直った。
「彼女がどんな機材を使っていたか、なんて。彼女がどんなフィルムを使っていたか、なんて。あまりにも些細な問題だったからだよ」
私はその結論の正しさを、この写真の奥で笑みを見せる彼女を見たことで、更に補強することになった。
「なんだ、もったいぶらずに教えてくれよ」
逸るエヌに、私は一つの問いを投げかけた。
「ここで星見君のグラビアを撮る。と、考えてくれたまえ」
そう言った瞬間、星見君が赤面し硬直する。
私はそれを見届けてから、エヌに問いかけた。
「さあ、どうする?」
「そうだね」
エヌは防湿庫に保管されていた中から、カンノン社の一眼レフカメラと、135㎜の望遠レンズを取り出した。
「まずは中望遠程度で遠くから狙い、様子をうかがう」
「それから?」
「しばらくすれば、カメラを向けられるというシチュエーションに慣れてくる。その頃合いを見計らって、105㎜、80㎜……と、だんだん広角のレンズに変えていき、彼女との距離を詰めていく」
「そして?」
「私と彼女の、この場の信頼関係が構築されてくる。そうしたらレンズを標準から広角に切り替え、更に近寄っての撮影を……」
そこまで言って、彼は何かに気が付いたようだった。
「まさか」
「さすがは扶桑きっての写真家だ。やはり気が付いたか」
私は乾いた笑い声を出すことしか、できなかった。
「そう。加東圭子は、心で撮っていたんだよ」
私がたどり着いた恐るべき真実。それは、加東圭子はカメラマンであると同時に、軍人であり、記者であり、戦士たちの
私を呪った、加東圭子撮影のあの写真。黎明薄暮の空を悠々と飛ぶハンナ・U・マルセイユ。
モノクロの画面の中に、彼女の勝気な表情も、上気した肌の色も、仲間を信じる瞳の温度も、平和を取り戻した空の色も、全てを落とし込んだ一枚。
なぜ、彼女にそんな写真を撮ることができたか。
それは、マルセイユが加東圭子を信じていたからに他ならない。
写真を撮るときに必要なこと。
それは機材であったり、媒体であったり、光源であったり、技術であったり……。だが、それは表面的なことに過ぎない。
写真を撮るうえで一番大切なこと。それは、被写体との信頼関係だ。
写真家とは被写体にとって観察者だ。そしてこの観察者は残念なことに、常に観察対象に対し影響を与え続ける。
私のアフリカでのアプローチは、観察対象に影響を与えないように、自分を極力無に近づけうというものだった。そしてそれは、ことごとく失敗した。
それに対して加東圭子のアプローチは全くの逆である。彼女は被写体たちと緊密で強固な信頼関係を築いた。だから被写体たちは、加東圭子に対し自らその美しさを許したのである。
それが「居合撮影」とも呼ばれる彼女の撮影スタイルにもよく表れている。
「加東圭子は居合の要領で瞬く間にカメラを取り出すと、気が付かない間にシャッターを切り、そして気づいたころにはカメラはもうすでにその懐の中にあった。」(鈴木2013)
彼女のこの魔法のような技術を解体すれば、それはあまりにも簡単なことだった。
加東圭子と信頼関係を結んだ被写体たちは、加東圭子がカメラを取り出しシャッターを切ったッとしても、それを特段警戒することはなかった。なぜなら、加東圭子を信じ切っていたからである。
そしてもし、加東圭子の行動に気が付いたとしても、彼女達は特段気にも留めないか、笑って受け流すくらいで済ませただろう。
居合撮影のタネは、彼女が撮影をしても咎められることのない心理的環境づくりの成果だったのである。
そしてこれらのことは、写真家としてやっていくのであれば、当然に知っていることだった。
「いくらストリートフォトのまねごとをしてみても、答えにたどり着かないわけだ。加東圭子のアプローチは、ストリートフォトのそれではなく、我々がポートレートを取る時にごく普通にしているそれだったのだから」
私はゲンナリという顔を見せる。その面前で、エヌも同じ顔をしていた。
「なんだい、あまりにも当然の事を見逃して、我々はアフリカまで行ったのか」
「まさに灯台下暗しだよ」
私は肩をすくめることしかできない。
「答えは全部、ここにあったんだ」
私は胸の奥を指さした。
加東圭子は私を呪っていたんじゃない。
私にとっての”あたりまえ”を、思い起こさせようとしてくれていただけだったのだ。
そして私はそれに気が付かず、四苦八苦していただけだった。
「彼女がウィッチだとか、Leicaのどのモデルを使っていたかだとか、レンズはなんだとか、フィルムはなんだとか……。全ては、どうでも良いことだったんだ」
「加東圭子はカメラマンである前に記者でありウィッチだった。だから、戦士たちの心に入り込むことができたんだ」
「ある意味で彼女は、巧みなコミュニケーションと誠実さで、写真を撮っていたと言える」
「本当に、基礎のキじゃないか」
エヌは疲れたようにそこに座り込んだ。
「なるほど。それに君のウデは気が付いていた。だからあんな写真が撮れたんだ」
「ああ。その通りだ」
私は改めて、リリーの方へ向き直った。
「リリー、ありがとう。君のおかげだ」
「礼はいらない。我々は友人だろう」
彼女はまた、私に美しい笑みを見せた。それがなによりの証明だった。
稲垣氏は用事があるとのことで、早々にその場を辞された。
帰り際、彼女は私にこう言った。
「ケイさんも、貴方と同じことをおっしゃっていましたよ」
私はその言葉だけで胸がいっぱいだった。
「それで、だ」
エヌはお茶を入れながら私に尋ねた。
「これからどうするんだ?」
「そうだねえ」
私は手の中にあるLeicaⅡをもてあそびながらしばらく考えた後で、ふいにそれを星見君へと差し出した。
「もし君さえよければ、これをもらってはくれないかい?」
星見君は驚いてお茶を吹き出しそうになった。
「待ってください先生! これは貴重な……」
「ほんのお礼だよ。教え子の君に助けてもらったばかりか、大切なことに気が付くきっかけまでくれた。感謝してもしきれない」
そう言って、私は彼女の前にそれを置いた。
彼女は暫くそれをしげしげと見つめた後で、私にこう聞いた。
「いいんですか?」
「ああいいさ。だって……」
私はチラッとリリーの方を見ながら、こう答えた。
「機材が何であるかは、さしたる問題ではないから」
彼女は、大切にします、といってそれを大事に仕舞い込んだ。
「それに、今回の件で良く思い知った。私はやはり、前線に出ているときが一番調子がいい」
私がそう言うと、エヌは苦笑いで返した。
「まったく、私がいつも言っていたことじゃないか」
「ああ。今回ばかりは君が正しかった。全面的にね」
「それじゃあ、復活するんだな? 戦場カメラマン・加藤敬が」
彼の問いかけに、私は短く答えた。
「ああ。もちろんだ」
「それなら、護衛が必要だな」
間髪を入れず、リリーがそんなことを言い出した。
「……なんのことだ?」
「わたしはやはり、あなたが再び戦場へ出ると、そう考えていたよ。予想は的中したようだ」
彼女はそう言うと、彼の前に立ちふさがって挑戦的な顔を見せた。
「前に約束しただろう。私の骸を必ず撮ると」
「ああ、それはそうだが」
「その約束は、まだ有効だからな」
私はここで、やっと彼女の意味していることが分かった。
「おいおい、もしかして私の撮影についてくるつもりじゃなかろうね」
「当然、そのつもりだが? 私は軍を辞め、フリーランスの傭兵としてあなたを警護しよう」
「おいおい冗談だろう!?」
うろたえる私に向かって、リリーは嘯いた。
「安心しろ。私と君が組んだ案件の生還率は、100%だ」
「これは一本取られたな」
エヌはそう言うと、無責任に笑った。
私は狼狽して、どうしようかと必死に頭を回した。そんな私に彼女は、こう言った。
「あなた以外に私の笑顔を撮られるのは我慢ならなくてね。これからも
それを満面の笑みで言われてしまっては、私はもうどうすることもできなかった。
そんなこんなで私は、アフリカへと帰ってきた。
隣には新しい私の相棒となった、リリーがいる。
彼女はいつも通りの陸戦兵装に身を包み、常に私の隣にいる。
その姿はまるで、マルセイユ専属護衛であったマティルダ氏を思い起こさせる。
今日もアフリカでは敵弾と人類の英知が交じり合う。
ここで私は、私たちは、生きている。