加東圭子にサヨナラを。 著・加藤敬(フォトグラファー) 作:矢神敏一
「空が震える」とは、このようなことを指すのだろうな。という状況が続いている。
それはすなわち、敵ネウロイによる砲爆撃が至近に降り注いでいるという事を意味している。そしてこれは同時に、リリー准尉が作戦本部への通報をつつがなく終わらせたという事も意味している。
「電波は既に全て遮断してある」
息も絶え絶えに彼女は語る。
「これでしばらくは延命できるだろうが……」
既に、身の回りには瓦礫が散らばっている。今現在籠城中のこの建物も、そうしばらくは持つまい。
「どうやら、ここが我々の墓場となりそうだ」
「そのようですね」
私はそう答えて、その場に穴を掘った。建物の中であるとは考えられないほどに、その床はよく穴が掘れた。もっとも、海外では特段目づらしいことではないので、そこまで驚きはしないが。
「墓穴を掘っているのか?」
彼女の軽口に、私は「まさか」と答えた。
「メモリーカードを埋めるのです。電子媒体は衝撃に弱いですから、少しでも離隔します」
「なるほど、そりゃあいい」
彼女はそれを鼻で嗤った。
「作戦本部はなんと?」
「大慌てて、ここへ援軍を送ると……」
「ハハァ、彼らもまんまと裏をかかれたってわけですな。その慌てる顔をカメラに収めたくなかったかと聞かれると、否定はできませんね」
「まったく、ブンヤは趣味が悪い……」
「これはお手厳しい」
私は話し相手をしながら、メモローカードを埋め終わる。
手元には、LeicaⅡ。フィルムカメラだけが残った。
「それは埋めないのか」
「ええ。最後の最後まで、これは写真を撮り続けます」
「データがダメになってしまわないか」
「Leicaは頑丈ですから。撮影ができない状態になっても、中のフィルムは無事かもしれません。さすれば、我々の骸を回収しに来た者たちが、これも一緒に回収し、未来へつなげてくれるかもしれません」
その言葉に、彼女はこんどこそ呆れた笑いを見せた。
「願望に願望を重ねた論だ」
「そんな願いを聞き届けてくれるのが、Leicaですから」
そう、それが加東圭子のLeicaなのだ。と、私は今でも信じている。
もっとも、これが加東圭子の使用したものであるのか、結局わからずじまいなのだが。
惜しむようにそれを見つめる私に、リリー准尉は唐突に語り始めた。
「私にとっても、トブルクは重要な場所だった」
だから、焦ってしまったのだ。もう少し慎重に、状況を見定めてから街に入っても遅くはなかった……。そう訥々と語る彼女の方は、齢相応に震えていた。
その横顔からは、16才の少女らしい、あどけなさが見え隠れした。
「貴様はたしか、伝説の第31統合戦闘飛行隊……”ストームウィッチーズ”を追いかけていたのだったな」
「ええ、私は加東圭子を追いかけて、ここへ来ました」
「なら、知っているはずだ。私の祖母の名を」
彼女の言葉に、私は耳を疑った。
「私の祖母は……。ライーサ・ペットゲンだ」
彼女はくたびれた顔をこちらへ向けた。
「お笑いだろう? かつてハンナ・マルセイユと共に空を駆けたウイングの末裔は、地を這う陸戦兵だ」
「立派じゃないですか」
「ありがとう。だが、私はそう思わなかった」
彼女は力なく首を振った。
「私は空を飛びたかった。陸戦ウィッチが劣った身分だとも思わないし、航空ウィッチが素晴らしいとも思わない。だが、私は祖母のように、偉大な者と共に空を駆ける存在でありたかった」
そして彼女は、肩を落とす。
「トブルクに行けば。祖母の約束の地に行けば、なにかが吹っ切れる気がしたんだ。……それが、このザマだよ」
笑えるだろう? と彼女は言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
「そうか、貴様も似たような理由か」
彼女は始めて、私に慈しみのような視線を投げかけた。それは同類相哀れむというべきか、そんな感情が複雑に絡み合ったそれであった。
「お察しの通り、私は加東圭子に呪われている」
私はLeicaⅡを取り出した。もうすでに崩壊しかけている建物の隙間から、陽光が差し込む。そこに、このカメラをかざしてみる。
「私の勘違いでなければ、だが」
リリー准尉はそう前置きしてから、この話の核心を突いた。
「カトウ・ケイとカトウ・ケイコはとても響きがよく似ている」
その通り、と私は答えた。
「これは運命だと思いました。名前のよく似た彼女は、私と同じ道を歩き、そして私のはるか前方に立っているのです。報道写真界の寵児と呼ばれた、この私の!」
自慢ではないが、これでも功績を残してきた方だ。
長きに渡った人類最大の戦争、南極戦の取材を筆頭に、様々な現場を渡り歩き、撮ってきた。ピューリッツァ賞受賞時には、扶桑最高の戦争カメラマンとまで呼ばれた。
この私でさえたどり着けないような場所に、加東圭子はいるのである。
「どうして彼女はあんな写真を撮れたのか。どうして彼女はあの境地にたどり着くことができたのか。それが分かれば、私はもっと高みへ至れる。そう考えたのですが……」
アハハ、と笑い声が聞こえた。リリー准尉のものだった。
「同じだな、我々は」
「ええ、まったくの同類だ」
「なら、はじめから仲良くしておくのだった」
彼女は、ちょっと残念そうにそう言った。
「だが、私は今やっと、吹っ切れたかもしれん」
彼女は、差し込む陽光を忌々し気に見つめながら、そうつぶやいた。
「あなたは、至りましたか」
「ああ……。結局のところ、最高の仲間と共に戦うことができれば、それでよかったんだ」
きっと彼女の脳裏には、星見君の姿があることだろう。
あのコントレイルに背中を預けながら、人類の戦場で地を這う。きっと、ただそれだけでよかったのだ。
「皮肉なものだ。若さゆえの悩みが解決に向かおうとしているこの時に、私は生涯を閉じようとしている」
「生涯をかけた問いに決着がついたのですから、それはそれでいいじゃありませんか」
「ああ、悪い気分じゃない」
彼女は、口元から垂れた血をぬぐうと、私の方に向き直った。
「そう言えば、私の骸を撮ってくれるという約束だったな」
「ええ、そういえばそうでした」
「貴様がそのカメラを最後までとっておいたのは好判断だ。これで貴様は、私との約束を果たすことができる」
彼女は両手で手早く身なりを整えると、今にも崩れ去りそうな瓦礫にその背中を預ける。
そして、その表情を幽かな微笑みで充たした。
「撮ってくれ」
私はカメラを向ける。彼女は微笑みを絶やさない。レンズに向けて、いや、レンズの先にある私に向けて、彼女は微笑んだままでいる。
その瞬間、私の脳は激情に駆られたように激しく脈動し、その鼓動が視界をまるで火花が散る様にチカチカと明滅させた。
―――悔しい―――
そんな感情が、私をこの慟哭の渦に突き落とした。
視界はもはやぐしゃぐしゃで、何も見えない。
耳元では常に、砲爆撃の音がする。
私はなにも見えぬまま、なにも感じ取れぬまま、シャッターボタンを押し込んだ。
わずかな作動感と、舌打ちのように静かでささやかなシャッター音が微かに手に伝わる。
「ああ、撮れた」
この写真がどんな出来上がりになっているか。私にはもはや、確認する術は残されていない。だが私は、この写真がどんな写真になったか、手に取るようにわかる。
数十年物間、写真業界の最前線で戦い続けた経験と、技術と、そして勝負勘が、私に告げている。
自分は、今まさに、今生で最も素晴らしい写真を撮った。
加東圭子の呪いを、解いた。彼女にサヨナラを告げた。
いや、もはやこの考え方自体が愚かだったのである。
彼女はずっと、私に導きを与えていたのだ。
彼女はずっと私に寄り添い、希望を与え続けていてくれたのだ。
私にかけられていたのは、呪いなんかじゃない。加東圭子の祝福だったのだ。
それを今、あともう少しで事切れるという今、やっと理解できた。
なんと素晴らしいことだろう。
そしてなんと愚かしいことだろう。
全てを理解できたというのに、これを書き残す時間すらない。
私は今、ただただ悔しいという想い以外に、この両手に感情を抱けない。
「よかった。
彼女は片足をずりながらにじりよると、私の手を取った。
「私達は本当によく似ている。
「ええ、本当に」
リリー准尉は無線機の電源を再び入れ、受話器に向かってこう語りかけた。
「こちらは敵に包囲されている。脱出は不可能。友軍による爆撃処分を望む」
そう言って、彼女は受話器を放り投げた。
爆音が激しくなる。
瓦礫がまるで生きているかのように蠢き、不安定に揺れる。
「ブッキョウではライセがあるんだったか?」
「ああ、その通りだ」
「では―――」
彼女は私の手に、その手を重ね合わせた。
「ライセでは、友人として巡り合おう」
「ええ、こんどは自由な空の上で」
次の瞬間、ひときわ大きな轟音が耳を苛む。そして視界がくらむように開ける。
私はついに、全てを覚悟した。
ポジティブフィルム
リバーサルフィルムと呼称するのが一般的。
現像済みのフィルムを灯りに透かした時、実際の明るさや色をそのまま得ることができるという特徴を持つ。
ネガティブフィルム
ネガ、などと呼称される。
フィルムには実際の色や明るさを反転させたものが記録されており、そのままでは実際の色や明るさを得ることはできない。
現像・焼き付けの際にこれを更に反転して実際の色や明るさを得ることができる。
なお、映画撮影や資料保存などにおいては、ネガフィルムをネガフィルムで撮影してポジ像(実際の色や明るさが記録されている状態)を得ることもある。