告白   作:hekusokazura

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序幕

 小さな湖のほとりを通る道を、青年は歩いていた。

 砂利に草むら、そして時々水たまりが交互に続く未舗装の道は、一般車両1台分の道幅しかない。青年は最近手に入れたばかりのマイカーでこの土地までやってきたが、運転技術の未熟さは自覚しており、この細道にマイカーで進入する自信はなかった。

 正面から吹き抜ける風。右手には静寂に包まれた湖。左手には林立する広葉樹。新緑の隙間からは午後の強い日差しが漏れ出て、彼の歩く道に光と影のまだら模様を作っている。

 一般道に車を停め、日差しが照り付ける荒れ気味の細道を30分歩いた末に辿り着いた湖畔の道。汗だくになっていた彼にとって、涼やかな風と木陰に覆われたこの湖畔の道は、まるで天国のような場所だった。

 

「…らしくないな」

 

 青年は呟いた。

 

 彼はある人物を訪ねるべく、この道を歩いている。

 先ほどからその目当ての人物の印象を、眼前に広がる清涼感に包まれた光景に重ねようと試みるが、心に思い浮かぶのはまるで不出来な合成写真のようであり、とても不似合いで、らしくないのだ。

 実のところ、この道の行く着く先に、目当ての人物がいるという確証は得られてなかった。青年の中では80%くらいの確信は持っていたが、状況証拠のみしか揃っておらず、客観的にみた確率は半々といったところだろう。

 そして進めば進むほど、その人物の印象と解離していく爽やかな風景。

 彼の中での確率が急降下していく。

 青年は、ともすれば来た道を引き返してしまいそうになる足を叱咤しながら、道の奥へと歩みを進めていった。

 

 

 彼の中での確率がそろそろ50%を割ろうとしたころ。

 

 青年は、小屋の前に立っていた。

湖畔の畔に立つ小屋。木造の朽ちかけた小屋。一応、屋根と柱と壁はあるが、屋根と壁の至る所に苔が生い茂っており、柱も少し傾いている。何とか頑張って建っている、辛うじて雨露が防げている、そんな粗末な小屋だった。

 ずっと続いていた道が、この小屋で途切れている。見落とした可能性はゼロではないが、道の途中に分岐はなかったはず。湖畔と、この小屋のために用意された道。

 彼の中での確率は、30%を割ろうとしている。

 

 小屋を観察してみる。

 朽ちた柱や屋根、苔が生い茂った壁。一見して、建てられてから相当の年月が経っているように思える。

 ただし、放棄されているようにも見えない。小屋の周辺の草は踝の辺りまでで刈り取られており、広葉樹に囲まれながらも落ち葉に埋もれた様子もなく、板張りのポーチは綺麗に掃除されている。

 視線を小屋より奥の方へと向けてみると、小屋の右手には軽トラックが停められていた。暫く使われていないのか、落ち葉を被っている。一方で小屋の左手には炊事場のような場所がある。こんな場所にガスが通っているはずもなく、あるのは前時代的なかまどだ。そのかまどの方は落ち葉は被っておらず、火は消されているものの、くべられてまだそう時間が経っていない薪が積まれている。

 そこかしこ生活の跡。

 

 小屋には、誰かが住んでいる。

 

 ―――こんなところに。

 

 青年は生唾を飲み込んだ。

 その小屋の雰囲気と、目当ての人物の印象は、やはり頭の中でこれっぽっちも一致しないが、彼がかき集めた情報が、あの男はここに居る、と言っているのだ。

 ふと、自身の右手を見下ろす。

 右手が、小刻みに震えていた。

 青年は咄嗟に左手で右手首を握りしめ、震えが収まるよう念じた。

 うろたえるな、覚悟は決めていただろう…と、自分に言い聞かせる。

 

 小屋の板張りのポーチに上がる。コトリ、と靴で板を踏む音が響いた。つま先で板をこんこんと叩き、靴の裏についた泥を払い落とす。

 ノックをするべきかどうか迷ったが、未だに震えが収まらない右手は、直接ドアノブへと伸びた。

 時計回りに捻ってみる。

 

 回らない。

 

 ドアは鍵が締まっている。青年は困った様子もなく、ポケットから取り出した針金を慣れた手つきで鍵穴に突っ込み、上下に動かす。針金の先に神経を集中させているうちに、右手の震えは消えていた。

 固く結ばれていた金属同士が、解放される音。

 再度、ドアノブに手を掛ける。歪んだ小屋のドアだったが、錆びた蝶つがいの嫌な音が響いただけで、抵抗なく開いた。

 

 小屋の中はドアの位置からその隅々が見渡せるほどの小さな部屋だった。

 中央には小さなテーブルと椅子が一つ。その奥には鉄製の骨組みと薄いマットだけで出来たベッドが壁付けに置かれ、ベッドの上の壁にあるこの部屋唯一の窓から陽の光が射し込んでいる。

 

 その窓と対面にあるドアに立つ青年は、正面から射す陽の光に目を細めた。狭い部屋だったが、逆光でベッドの周辺だけがよく見えない。しかしそれほど強い光でもないため、目はすぐに慣れ、そして彼の双眸はその男の影を捉えた。

 

 男が壁際のベッドに腰を掛けている。

 青年が立つドアと対面するように、男が座っている。

 

 男の存在を認めた途端、青年は呼吸を忘れてしまう。

 

 ドアを開けるまでは、半信半疑だった。

 本当に、自分の推論は正しいのだろうか。

 間違っていなかっただろうか。

 

 そして、男が居る。

 こちらと対面するように、男が座っている。

 

 青年の頭は、咄嗟にあの部屋のことを思い出してしまう。人一人のために用意されたにしては無駄に広い部屋。その広さに反比例して、奇妙に照明が少ない部屋。これまた人一人のために用意されたにしては無駄に大きいテーブルに、あの男が両肘を付き、組んだ手の上に顎を乗せて、サングラス越しにこちらを見据えている。

 

 あの部屋に鎮座する男の姿が頭に浮かんで、そして今、目の前にいる男の姿にそれを重ねて。

 

 異変はすぐに気づいた。

 

 頭に浮かぶのは、行く手を塞ぐものは全て排除せんとする強固な意思を全身に滾らせながら、静かに座る男の姿。

 

 目の前にいる男は、項垂れるように、首を垂れ、肩を落とし、四肢を投げ出してベッドに座っていた。

 目は微かに開いていたが、何処か焦点の合わない瞳から放たれる虚弱な視線は、木板で出来た床を力なく彷徨っている。涎が滴り落ちる口からは、時折ぶつぶつとその男の声が漏れ出ていた。

 

 頭に浮かぶ男と、一致しない目の前の男の姿。

 

 青年は男に会うために、長い道のりと時間を越えてここまでやって来た。

 現地に入り、1週間以上の調査を重ねた末に、男がこの湖畔の近くに居ると、そう確信しても、青年はすぐに男に会いにいくことができなかった。数日の逡巡。その数日の遅れが、男が行方をくらませるための猶予を与えたかもしれないのに。

 いや、あるいはそうであってほしいと願っていたのか。

 この日、この小屋のドアの向こうには、誰も居なかった。

 そんな間の抜けた結末を、青年は心の何処かで期待していたのかもしれない。

 

 しかし男はそこに居た。

 

 ひと間違いではないか?別人ではないか?

 ここに至って。目的の男に相対してなお、青年は期待した。

 自分の記憶とはかけ離れている男の姿。もともと短く切り揃えられていた頭髪は、さらに短く丸刈りになっている。さっぱりとした頭髪とは対照的に、髭は顎だけでなく鼻の下まで蓄えられている。以前掛けていたサングラスはない。何より違うのが目。冷たい瞳の奥に宿る、恐るべき野心の炎を宿していた目が、今は空虚に満ちている。

 

「あなたは、…碇ゲンドウ…ですか?」

 声が掠れてしまう。

 喉が、舌が、乾いて張り付いてしまっているのは、歩き続けて大量の汗を流してしまったから、だけではないだろう。

 

 ここまでノックもなしに突然やってきた来訪者に対して何の反応も見せなかった男が、青年の呼びかけにようやく頭を上げた。虚ろな目が青年の姿を捉える。

 

 青年は繰り返す。

「特務機関ネルフ総司令官、碇ゲンドウですね?」

 

 男の表情に変化はなかった。数秒間だけ、青年の顔を見つめ、その視線はやがて天井へと移り、そしてゆっくりと、ぐるっと部屋の中を回って、再び床の上に落ちる。そして誰も居ない床に向かって、ぶつぶつと何事かを呟く。

 

 青年にとっては否定の言葉を期待しての呼びかけだった。「違います」と言ってくれたら、「ああそうですか。ごめんなさい」と言って、帰ってしまってもよかった。しかし肯定も否定もされず、無視という形での返答は、青年の心にもどかしさだけを残す。

 もどかしさが苛立ちへ、そして焦燥感へと変わり、彼を実力行使に走らせることにそう時間は掛からなかった。

 青年は大きな足音を立てて男の側に歩み寄る。前屈みの男の背中を青年は見下ろした。

 

「…返事を」

 静かな、しかし強く迫るような声を、男の背中に落とす。

 

 男からの返事はない。

 

 青年は行動に移した。男の肩からぶらんと垂れ下がった右腕を掴み、自身の胸元に引き寄せた。自らの右腕に引っ張られる形で、男の顎が浮く。

 男と青年の視線が、間近で交差した。

 

「あなたは碇ゲンドウですか」

 冷たいナイフのような声。

 

 もとよりこの場所に来ること自体が青年の心を穏やかならざるものにしていた。彼の脚を何重にも絡めていた逡巡の糸をようやく振り払い、この小屋までやってきたのだ。

 この期に及んで、あなたに無視されるために、ここまで来たんじゃない。

 

 せめて返事を。

 是でも否でもいい。

 返事をしてさえくれたら。

 僕は、自分が取るべき行動を決断できるのに。

 

 青年の呼びかけにも、なお無言を貫く男。

 

 青年の手に、力がこもる。

 戸惑いと怒りで頭が真っ白になりかけた。

 

 そんな青年の視界の片隅に、それはあった。

 青年が掴んだいた男の腕。男の手のひら。

 

 古い火傷の痕。

 男の手のひらに、こびりつく様に、それはあった。

 

 真っ白になりかけていた青年の視界が、急速に広がり、色彩を帯びていく。

 限界にまで高まった胸の鼓動が、少しずつ落ち着ていくのを青年は自覚した。

 

 青年は手の力を緩める。

 

「…久しぶりだね。…父さん…」

 

 青年の口から漏れ出た声は、落胆に塗れていた。

 

 

 その時だった。空虚に支配され、変わることのなかった男の表情が大きく歪んだのは。

 見開かれた双眸が、青年を睨んでいた。

 

「…誰だ…」

 

 男の口から初めて聞くことができた、意味のある言葉。

 

「…お前は、…誰…だ」

 

 数年前と同じ低くて、しかし酷く掠れた声。耳をそばだてなければ、聴こえないような弱弱しい声。

 青年の顔も、男同様に歪んだ。

 

「僕だよ。父さん」

 

 最後の別れから数年が経つ。成長期只中だったかつての少年は、身長も伸び、幼さを残していた顔貌も精悍なそれへと変化し、少年は青年へと成長を遂げていた。数年ぶりに突然現れた彼を、男が認識できないのも無理からぬことかもしれない。

 それは青年も分かっている。

 だとしても。

 

「…知らん。…誰だ」

 

 僕を知らない…?

 

 僕の人生をめちゃくちゃにした癖に。

 僕の大切な人たちを次々と不幸に陥れた癖に。

 

 僕を知らない…だと?

 

「僕だよ!父さん!」

 あえて名乗らない。

 この男の口から、自分の名前を聴くまでは、絶対にこちらから名乗ってやるものか。

 

「知らん…、知らん…」

 男は繰り返す。

「お前など知らん。誰だ。離せ、離せ、この手を離せ。誰だお前は。離せ離せ離せ離せ!離せ!離せ!!離せあああああああ!!!!」

 

 ついに狂乱した男は自身の腕を掴む青年の腕を振り払った。その拍子に男の体が大きく揺らぎ、男はベッドから滑り落ちる。

 床に這いつくばる男。

「うぅ…、知らん、…知らん。…お前など…知らん…」

 背後に立つ青年を背中で拒絶するように男は繰り返し呟いた。

 

 

 ―――なんだ…これは。

 

 

 無様な男の背中を見下ろし、立ち尽くす青年。

 

 なんなんだ…これは。

 

 苦々しく眉根を歪め、じたばたと床の上でもがく男を、手を差し伸べるでもなく見下ろしている。

 突然の訪問者に恐怖している様子の男は、床を這いながら青年のもとから離れようとする。

 青年は気づいた。

 

「…歩けないのか…」

 ふと視線を上に向けると、男が這って行こうとする先に、くたびれた車いすが置かれてあった。

 

 おそらく男の唯一の移動手段になるのであろう車いすに、男は腕の力だけを頼りに這い寄ろうとしていた。観察してみる限り、男の両足、特に膝から下が随意的に動いているようにはみえない。

 

 まるで大きな芋虫のように、床を這って行く男の背中。

 かつて、青年がこの世で最も恐れ、憎んだ男の背中は、そこにはなかった。

 困惑の沼に深く沈んでいく一方で、急速に冷めていく青年の心。

 

 見ていられなくなり、男の側に寄り、ひざまずく。

「起きて。父さん」

 男の肩に手を回し、体を起こそうとした。

 

「触るなぁ!」

 男の左手が青年の肩を襲った。その痩せこけた体からは想像できない力で青年は突き飛ばされ、背後のベッドで背中を打つ。

 青年の助けで上半身だけ体を起こすことができていた男は、尻餅をついたまま後ずさり、車いすに背を着けた。脂汗がしたたり落ちる額。小刻みに揺れる顎。ギョロっと見開かれた双眸から放たれる視線は、何かを求めるように忙しなく宙を舞っていた。

 

「ユイ…」

 小刻みに触れ合う歯がカチカチと嫌な音を立てる口から零れた名前。

 背中に痛みを堪えながら起き上がろうとしていた青年の動きが止まる。

 

「ユイ…どこだ…、ユイ。どこにいる…。…ユイ…」

 

 青年は頭を抱えた。頭を抱えるだけでなく、耳を塞ぎたくなった。

 この小屋に入ってからというもの、うんざりすることばかりだ。

 

 呼んだとて、どこからも返事が返ってくるはずのない名前。

 この世の何処にも存在しないその名を、真剣に呼び求める姿。

 

 認めるしかない。

 探していた男は確かにここに居た。

 しかし、自分が求めていた男は、ここには居ない。

 今ここに居るのは、畏怖と増悪の象徴であった男の、ただの抜け殻。

 

「俺を…一人にしないでくれ…」

 

 冷めていた青年の心の中からどす黒い衝動が溢れ出し、全身を滾らせる。

 

 この男の口からそのような言葉がこの世界に放たれることは、青年にとっては許しがたいことだった。

 まとも歩けもしない男の顎を蹴り上げ、浮いた顔面に膝を入れ、仰向けに倒れた男の腹部に踵を落とす。

 もし背後でドアが開く音がしなかったら、青年は衝動に突き動かされるままに、それらを実行したに違いなかった。

 

 開いたドアから流れ込んでくる柔らかな風。

 開いたドアの向こうに立つ人の気配。

 

 青年はあえてドアの方を見ない。

 

 醜い怒りに支配されそうになった自分の顔を見せたくなかったから。

 

 開いたドアの向こうに立っている者の正体を知っていたから。

 

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