告白   作:hekusokazura

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第二幕 其の三

 

 壁の向こう側から、小屋の中から声がした。

 最初は壁に阻まれ曇った声しか聴こえなかったが、徐々にその声は大きくなり、誰かの名前を叫んでいることが分かった。

 車いすで部屋の中を動き回っているのだろうか。小屋がミシミシと、音を立てて揺れている。

 小屋の軋む音が止む。少し経ち、今度は急にドアノブがガチャガチャと激しく回り始めた。

 ドアの向こうから、人の名を叫ぶ声が聴こえる。ドアを開けようと試みているのか、しかし鍵が掛かっているドアは開かない。中の者を出すまいと、薄い板に貧弱なノブのドアはその見た目に反して健気に頑張っている。

 

 壁の向こう側で繰り広げられている騒動を、青年は呆気に取られて見ていた。

 ふと、隣に座る女性を見た。最初にベンチに座った時と同じ格好で、背筋をぴんと伸ばし、膝の上に交差した両手を乗せ、視線はまっすぐに湖の水面に注がれている。隣に座る青年のことも、彼女が背にする壁の向こう側のことも、全ては別世界での出来事とでも言うかのように、ただ座っている。

「…あや…っ」

 そんな彼女の名前を呼ぼうとして、青年はすぐに声を飲み込んだ。

 同じ、ではない。

 彼女の交差した両手が、微かに震えている。

 

 青年はドアの方を見た。ドアノブは静かになっていたが、ドアの向こうからは変わらず、名前を呼ぶ声がする。

 ベンチから立ち上がろうとする青年。

 ドキッ、と心臓が波打つ。いつの間にか、女性の右手が青年の左足に触れていた。青年の動きを制止したその手は、そのままするすると青年の身体の上を滑るように移動する。彼女の、触れられているのか触れられていないのかも判別できないような軽い手の感触に、青年の顔は見る間に紅潮した。その手が行き着いた場所は青年の左肩だった。彼女の手は、やはり触れているのか触れていないのか分からないほどに軽く、微かな重さしか感じられなかったが、それでも肩に乗せられた女性の手は、浮いていた青年の腰を再びベンチに押し戻した。

 青年が座りなおしたのを確認すると、女性の手は青年の肩から離れた。

 女性は音もなく立ち上がる。ベンチの側にある小さなテーブルの湯飲みに手を伸ばし、中の水に浸していたカラーコンタクトレンズを人差し指に乗せる。二つのコンタクトレンズが女性の瞳に収まり、彼女の真っ赤だった瞳は鳶色に染まった。

 左足を引きずりながら、ドアに向かう。ロングスカートのポケットに手を突っ込み、中から鍵を取り出す。

 開錠の音、ドアノブを捻る音、蝶番の軋む音。

 開いたドアの隙間に、女性は頭だけを突っ込んだ。

「…どうしたの?」

 ドアの向こうからは男の怒鳴り声。

「大丈夫。私はどこにも行かないわ」

 男が何やら喚いている。

「ごめんなさい。お客さんが来ていたの」

 女性をなじる男の声が、少しだけ小さくなった。

「そう。私の古い知り合い。もう帰ってもらうから」

 そこまで言って、女性は背後を振り返った。

 いつの間にかベンチから立ち上がっていた青年が、女性の背後に立っていた。

 青年は何も言わず、ただ女性の目を見つめた。青年の無言の訴えを理解したのか、女性の目に僅かな逡巡が走る。そして再びドアに向き合い、隙間から頭だけを入れた。

「お客さんをお招きしたいのだけど」

 男の低い声。渋っているらしい。

「大丈夫。優しい人よ」

 「優しい人」。その人物評が、彼女の本心なのか、それとも男を落ち着かせるための方便なのか、青年には分からなかった。

「そう。分かったわ」

 女性はドアを目一杯に開放すると、自らは少し端により、青年が中に入り易い様に空間をつくった。

 青年は再び小屋の中に足を踏み入れる。

 車いすに座った男が、そこには居た。

 

 女性はテーブルに備えてあった木製の椅子を引き、青年に座るよう促した。そして自らは男の方に向かい、車いすの側のベッドに腰を下ろす。すぐに男の右手が女性の方に伸び、彼女の左手を握りしめた。加減のない男の手の力に、女性の手は見る間に歪んだが、女性は少しも痛がる素振りを見せず、空いた左手で男性の手の甲を撫でた。青年の方を見ないようにしている。

 

「…父さんは、いつからこうなの?」

 勧められた椅子に座った青年は小声で話し出す。

「分からない」

「父さんは…その。記憶がないの?」

 女性は小さく頷いた。

「新しいことも、すぐに忘れてしまう。あなたのお父さんが覚えているのは、あなたのお母さんのことだけ」

 男が一人息子のことすら覚えていないという事実は、青年にとっては驚きではあっても受け入れられないものではなかった。もともと子供の頃から何年も放置されてきた身であり、忘れ去られていたようなものだったから。ただ、男の中に残っているものが、自分は顔さえ覚えていない母親だけということが、ただでさえ遠い存在だった男を、更に彼方へと追いやっていった。

「歩けないの?」

「…一度は医者に診せるべきなんでしょうね」

 女性は頷きながら答える。それは世間が許さないということは、青年も分かっていた。

「……綾波は、ずっと父さんを看てきたの?」

「…ええ」

「誰かの助けは?」

 女性はゆっくりと頭を横に振る。

 

 小さな国家規模の予算が投入されていた組織の長だった男。その逃亡には、きっと外部から何らかの支援があるに違いない。青年も、その仲間たちもそう考えていた。きっと自分たちがまだ把握してない謎の組織があって、彼らが男に資金を提供し、潜伏先を提供し、その足跡を巧妙に隠していく。まるで映画の中での出来事だが、男の価値を考えればそんな謎の組織の力が働いてもおかしくないはずだ。青年も、仲間たちも、本気でそう考えていた。

 ところが蓋を開けてみれば、男の逃亡を助けていたのはたった一人の女性で、しかも当の男がこんな状態なのであれば、実態はこの女性の独力のみによるものとなる。

 青年とその仲間のみならず、男を追っていた各国の捜査機関や組織が、数年間に渡り(極大事象後でその捜査能力が著しく低下していたとは言え)たった一人の女性に振り回されていたという事実に、青年は唖然とするしかなかった。

 

「このまま、2人での生活を続けていくつもり?」

 青年の問い掛けに、女性はゆっくりと頭を縦に振る。

「この人には…、もう他に誰もいないもの…」

 男の手を撫でる。

「…私にも、…もう他に誰も…いないもの…」

 

 女性の言葉に、青年は少なくない苛立ちを覚えた。

 自分に対する当てつけなのではないか、とすら思った。

 

 似たような言葉を以前にも彼女から、いや「カノジョ」から聴いたことがある。

 あの頃はまだ出会って幾ばくも経っていない頃で、自分とカノジョとの間に途方もない距離を感じていた頃で。それでも少しだけカノジョのことが分かり始めた頃で。そして、二人で一緒に死線を越えて。

 「他に何もない」

 カノジョが言ったその言葉は、そっくりそのまま当時の自分に当てはまるものだった。でも様々な経験を経たことで、自分の中には様々な絆が育まれた。

 カノジョに直に確認したわけではない。でもきっと「他に何もなかった」カノジョの中にも、自分と同じように様々な絆が育まれていたのではないか。少なくとも、自分はカノジョとの絆を確かに感じていた。

 

 今の彼女の発言は、カノジョたちと共に死に物狂いで生き抜いたあの日々を、根底から覆されてしまったように感じた。

 大切な大切な絆を、否定されてしまったような気がした。

 

 青年は何かを言いかけた。しかし機先を制するかのように、女性は強い眼差しを青年に向ける。

 

「あなたが、許してくれさえしたら」

 

 彼女が言う「許し」の意味を、青年は正確に理解していた。

 男の唯一の肉親である青年に請う「許し」。

 彼女が必死で守ってきたものを、壊すか否か、その決定権を握る者への「許し」。

 

 迷いのない眼差し、に見える。

 本当にそうだろうか、と青年は思った。

 

 では何故、君の手はあんなに震えていたのか。

 

 小屋の中は照明の類がなかったが、一つしかない窓からは西に傾いた陽の光が差し込み、意外なほどに明るい。

 しかし青年には小屋の中が真っ暗に見えた。

 車いすの男と、その隣に座る女性。彼らの周りから黒い絵の具が大量に湧き出ていて、部屋の中のあらゆる物が黒一色に塗りたくられていくような、そんな錯覚を覚える。黒一色の背景の中に佇む2人も、2~3種類の絵の具のみで描かれた、とても出来の悪い肖像画のように見えた。2人を見ていると、自分までもが黒い闇に飲まれ、不出来な肖像画に描き替えられてしまいそうで、青年は咄嗟に視線を天井へと向ける。

 

 朽ちかけ、今にも落ちてきそうな梁。

 剥がれかけた屋根。

 傾いている柱。

 

 歪んでいる。

 この部屋は、とても歪んでいる。

 

 歪んでいるのはこの小屋が古いから?

 刻まれた年月が、この部屋を歪ませている?

 

 いや、違う。

 歪ませているのは…。

 

 青年は目を閉じる。

 軽く、深呼吸をした。

 

 開いた目を、男に向ける。

 呑気に眠りかけている車いすの男に。

 もう、彼女は見ない。

 もう、見る必要はない。

 

「やあこんにちは。碇ゲンドウさん」

 突然の張りのある晴れやかな声に、女性は目を丸くして声の主を見つめた。

 名前を呼ばれた男は、閉じかけていた瞼を何度かしばたかせ、急に大きな声を出した青年をぼんやりと見た。

「…誰だ君は」

 なるほど。確かに新しいことも忘れてくれる。青年は笑顔で続けた。

「初めまして。僕は碇ユイさんの知り合いなんです」

「ユイの知り合いなのか」

 確認するように女性を見る男。女性は青年の行動の意図が分からず困惑の表情のまま頷いた。

「ユイさんには昔から良くして頂いていて。素敵な旦那さんがいると聞いていたから、いつかご挨拶をしたいと思っていました」

「そうかそうか」

 男の顔が急に綻ぶ。自分たちを仲睦まじい夫婦と認める青年の発言が嬉しかったらしい。

「ユイとはいつ?」

「冬月先生の研究室でお世話になっていました。いやぁ、それにしても羨ましい。ユイさんには時々研究室のみんなに手料理を振る舞ってもらっていたんですが、これが実に美味しかった。彼女の手料理を毎日食べられるなんて」

「はっはっは。確かにユイの料理は絶品だ」

 こんな笑顔の父親は見たことが無い。ある種の不気味ささえ感じながら、青年は張り付けたような笑顔で続けた。

「特にあれ。なんだったかなぁ。あれは本当に美味かった」

「チキン・シュニッツェルだろう。ユイの得意料理だ」

 聴いたこともない料理名だ。

「そうそう。それです」

「昔はよく作ってくれたのに、最近は作ってくれないな。なあユイ」

 二人の奇妙なやり取りを呆気に取られて見ていた女性は、急に話を振られ、ただ言われるままに曖昧に頷くしかできなかった。

「そうだ。わざわざ訪ねてきてくれたんだ。夕食を食べていきたまえ」

 突拍子もないことを言い出した男を、女性は目を丸くして見た。

「え?いいんですか。嬉しいな。久しぶりのユイさんの手料理」

 その話に乗っかる青年を、これまた目を丸くして見る。

「ほら。ユイ。もういい時間だ。そろそろ夕食の準備をしてくれないか」

「…でも」

「構わないじゃないか。君の知り合いなのだろう?積もる話しもあるんじゃないか?食卓を囲んで話そうじゃないか」

「……」

 女性は黙って立ち上がった。青年を見るが、青年は女性の方を向こうともせず、嘘くさい笑顔を続けている。

「…分かりました」

 女性はテーブルに畳んで置いてあったエプロンを腰に巻くと、左足を引きずりながらドアに向かった。

 ドアの前で、もう一度青年の横顔を見る。やはりこちらを見ようともしない。少し振り返り、男を見た。笑顔で、女性に早く行くよう促している。

 女性はドアから外に出ると、小屋の裏の炊事場へと向かった。

 

 

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