告白   作:hekusokazura

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第二幕 其の四

 

 2人きりとなった室内。テーブルを挟んで1人は椅子に、1人は車いすに座っている。

 男は再び眠気が湧いてきたとみえ、大きな欠伸をし、寝そべるように車いすの背もたれに寄りかかり、うとうとし始めている。

 

 男の顔を、青年は眺める。

 平穏そうな顔。

 男と青年とで、振り返れば僅かでしかない共有した時間の中で、こんな穏やかな表情の男は記憶されていない。知らない者がみたら、この静かに寝息を立てる、顔中に深い皺を刻み、白髪交じりの髭をたくわえた、実際にはまだその年齢に達していないにも関わらずすでに老人の域に片足を突っ込みかけたような風貌のこの男が、世界を崩壊の危機に追いやった首班であるとは、夢にも思わないだろう。

 

 かつて面会した白髪の老人の証言を思い出す。

 男の目的は、とどのつまり、彼の妻との再会にあったという。

 実際には彼が彼の妻を失う以前からその計画は彼の許にあったというが、白髪の老人の見解では妻との再会こそが計画を推し進めるための彼の原動力となり、いつしか男の中では当初の目的よりも彼個人の目的の方が比重を占めるようになっていったのだという。

 全人類を一緒くたにすることがどうして彼の妻との再会に繋がるのか。白髪の老人の説明を聞いてもよく理解できなかったし、何より妻との再会という至極個人的な理由に、全人類を巻き込もうとする男の思考回路が青年には理解できなかった。

 

 心から愛した者を失った時、人はそんな狂気の沙汰に身をやつしてしまうのだろうか。

 青年には分からないことだった。

 

 だが、眉間に皺を寄せつつも満ち足りているようである男の寝顔を見ていると、男がそうまでして得たかった物が、何であるかまでは朧気ながらに理解できるような気はした。

 そして今、穏やかな寝息を立てる男。欲したものを、ついに手に入れたかのように、満ち足りた顔で夢の世界に身を委ねている男。

 男が欲したものをもたらした者が、誰であるかも青年は分かっていた。

 

「…ありがとう、綾波」

 たとえそれが偽りのものであったとしても。極めて歪なものであったとしても。

 青年は男の唯一の肉親として、彼女に感謝した。

 

 そして青年は、こうも付け加えた。

「ごめん…、綾波」

 その言葉は、彼女が懸命に作り上げ、必死に守ってきた、彼と、彼女の生活を破壊する者として呟いた。

 

 

 

 

 父さん。

 

 父さん?

 

 父さん、本当に何も分からないの?

 

 綾波が優しくしてくれるから、って、分からないフリをしてるんじゃないの。

 

 父さん。

 

 …本当に分からないんだね。

 

 あれから5年経ったよ、父さん。

 

 父さんが、父さんたちが、…僕らが世界をむちゃくちゃにしてから、5年が経った。

 

 世界では、まだ3割の人が戻ってきいないんだ。僕の周りでも、大切な人を失くし、今もその還りを待っている人たちが大勢いる。

 

 僕は何度か死にそうな目に遭った。

 

 アスカなんて本当に死にかけたよ。

 彼女の身体には、今もあの時負った大きな傷が残っている。

 でも彼女は強いんだ。あの時のことも、一生背負わされた傷痕のことも、世界を破綻させた主犯としてやり玉に挙げられたことも、全部遠くに投げうって前に進んでいる。今度こそ自分自身の人生を歩もうとしているんだ。

 

 世界だってそうだ。

 結局人間は、命がある以上営みをやめるわけにはいかないんだね。多分、あの日起こったことを受け入れている人なんて世界中探しても一人もいないと思うよ。でも、スーパーに行けば商品が並んでいるし、喫茶店に行けば温かいコーヒーがカップに注がれる。何処に向かっているか分からない道を、父さんが踏み入れるのを恐れていたこの道を、世界は今もコロコロと転がり続けてるんだ。

 あの日の前と変わらずにね。

 

 人間は、父さんが思っているほど弱くはなかったようだね。

 それとも、あんな事が起こっても、いつもと変わらない日々を送ることしかできない事こそが、人間の弱さの証なのかな。

 

 いずれにしろ、父さんが…父さんたちが…、…僕らがやったことは。その結果は。

 全人口の3割を削ったこと。

 それだけなんだ。

 それだけしか、僕たちの手には残されなかったんだ。

 

 なんてことをしたんだろうね。

 まったく、なんてことをしてしまったんだろう。

 

 そんなに母さんを失ったことが辛かったのかな。

 僕に母さんの代わりはできなかったのかな。

 僕では、父さんの心の穴を埋めることはできなかったのかな。

 

 碇ゲンドウ。

 僕は碇シンジ。

 あなたの息子です。

 

 あなたが僕のことをどれだけ忌み嫌おうと、あなたが母さんと唯一血を分け合ったのは、世界中どこを探しても、僕しかいないんです。

 

 僕はもっと早く、それに気付くべきでした。

 

 

 

 青年は音もなくゆっくりと椅子から腰を上げた。全身を支配するだるさを感じ、テーブルに左拳をついて身体を支える。ズボンの後ろポケットに右手を忍ばせた。

 

 車いすの軋む音。すっかり寝入っている男が、車いすの上で身じろぎをしている。お尻か腰でも痛くなったのか。何度かお尻の位置を変え、ようやく収まりのよい位置が見つかったのか、ふう、と深い息を吐き、その息はそのまま寝息へと変わった。

 

「…ああ、分かっているよ、ユイ」

 

 寝言を漏らしている。よほど居心地のよい夢を見ているのか、いつの間にか眉間の皺も消えた男の顔はどこまでも穏やかだ。

 

 寝言ですらも、その口から漏れるのはあの人の名前。

 その頭の中には、あの人しか残っていない。

 夢の中にも、あの人しかいない。

 僕も、彼女すらもいない。

 不幸に陥れた人たちのことも、めちゃくちゃに壊してしまった世界のことも。

 現実の世界にも、そして僕らにもこれっぽっちも目もくれず、夢の世界で、あの人と2人っきりで睦まじく過ごしている。

 

 テーブルについていた左拳が強く握りしめられた。

 

「…男だったらシンジ、女だったらレイと名付けよう」

 

 後ろポケットに忍ばせていた右手を出し、左手と同じようにテーブルにつかせ、両手で身体を支えた。そうしないと、震えている足が今にも膝から折れてしまいそうだったから。テーブルに突いた両拳も、微かに震えていた。

 テーブルの木目をなぞっていた青年の目が真ん丸に開かれていた。漆黒の瞳が、微かに潤んでいた。

 固く閉じられていた口が少し開き、微かに嗚咽が漏れていた。

 

 ―――なぜ、僕たちは家族になれなかったんだろうね。

 

 潤んだ目を右手の甲で拭き、一度だけ鼻を啜る。

 顔を上げ、窓に目をやった。やや高い位置にある窓ガラスからは時々女性の頭部が覗く。右に左に。彼女が炊事場と思しき場所を忙しく動き回っている様子がうかがえる。

 包丁がまな板をたたく音。何かしらの食材を水で洗う音。かまどに鍋を置く音。

 「彼女が料理を?」と最初は耳を疑ったが、窓の向こうから聴こえる音はリズムよく、手慣れており、淀みない。

 

 青年には母親と過ごした記憶がなかった。だから、母親が台所に立つ姿というものも、想像できなかった。

 すっかり傾いた陽の光が差し込む室内。きれいに片づけられたテーブル。テーブルを囲むように男と青年。台所からは夕餉の準備を進める音。

 母親が作る料理を食卓で待つ父と子。

 はるか昔から、世界のいたる所で繰り返されてきた、ありふれた家族の風景。

 

 西日が差し込む窓を見つめながら、青年は微かに笑った。

 

「…綾波の料理、…食べたかったな」

 

 青年は目を閉じるとすっと鼻で息を吸った。

 そこからは、一度も呼吸をすることなく一連の行為を済ませた。

 

 ズボンの後ろポケットから小型の拳銃を取り出す。見た目はおもちゃのような、手のひらに収まる小さな拳銃だった。

 拳銃は右手で構えた。構えたと同時に、親指で安全装置を外す。

 

 発砲。

 見た目同様、まるで癇癪玉が破裂したような軽い銃声。空薬莢が床をコロコロと転がる音。

 

 もう一度発砲。

 

 さらにもう一度発砲。

 

 

 発砲をやめると室内はたちまち静寂。

 陽光の筋の中を硝煙がたゆたい、火薬の匂いが鼻をくすぐる。

 

 外から足音。

 片足を引きずるような足音。

 落ち葉を踏む足の主の心情を示すかのように、乱れた足音。

 青年の背後のドアが勢いよく開け放たれる。

 青年は発砲した時の姿勢のまま、背後を振り返った。

 

 上気したように赤くなった頬。額に浮かぶ汗。汗で顔に張り付く髪。激しく上下する肩。その肩からはだけるカーディガン。

 今までに見たことがない、取り乱した姿の彼女が立っている。

 

 息が整わない女性は苦悶の表情を浮かべながら、青年の肩越しに「それ」を見た。

 見た瞬間は息を吐くことを忘れてしまい、呼吸不全になってしまった女性は咳き込むと、一度前屈みになり、深く息を吐いた。肺の中を空っぽにすると、今度は一度だけゆっくりと深呼吸をする。呼吸が落ち着いたことを確認した女性は、ゆっくりと体を起こした。

 

 青年は、そんな女性を眺めながら、律儀に銃を構えたまま待っている。女性が、この場で何が起きたかを理解しやすいように。

 

 青年の肩越しの「それ」を見届けた女性は、今度は青年の顔を見た。

 瞳に光はなく、息をしているかさえ怪しくなるほど、表情が動かない青年の顔を。

 

 二人はただ見つめあった。

 室内の酸素と、決して戻ることはない時間だけを浪費しながら。

 

 

 沈黙を破ったのは電子音。

 ピピピ、と控えめな電子音が、青年が履くズボンの左ポケットから流れてくる。

 主張控えめな音に、二人とも絡めた視線を解くことはしなかったが、青年は左手を動かしてポケットの中身を探った。

 ポケットから取り出した折り畳みの携帯電話。親指で携帯電話を開け、左耳に当てる。

 青年は無言。

 携帯電話のスピーカーからは、男性の低い声。

『……状況は進行中か…?』

 電話の相手の低い声に、青年はようやく口を開いた。

「はい。…いいえ、たった今、終了しました」

『…君の銃からの発砲信号を確認したが』

「はい。対象を射殺しました」

『……報告せよ』

「一六〇〇時に対象を発見。一七三〇時に対象に向けて三発発砲し全て命中。対象は死亡しました」

『了解した…。こちらも現在向かっている。君は引き続き現場保存のためその場に待機せよ』

「分かりました」

 電話のスピーカーからは、通話終了を告げる電子音。青年は携帯電話をたたみ、左ポケットに収めた。

 

 再び沈黙が場を支配する。

 青年は変わらず右腕で拳銃を構えたまま、顔だけを女性に向けている。

 女性は青年が電話で会話をしている間も、瞬き一つせず青年を見つめていた。

 

 

 

 先に動いたのは女性だった。

 青年から再び「それ」へと視線を移すと、ゆっくりと「それ」に向かって歩み寄り始めた。

 青年の側を通る。女性の耳には、青年の息遣いが微かに聴こえた。

 彼のまっすぐに伸びた右腕。握られた拳銃。

 巨大兵器に搭乗し、誰よりも上手くその兵器を操った青年なのに、ちっぽけな拳銃の構え方は酷くぎこちない。

 ぎこちなく構えられた拳銃の銃口が見つめる先には、車いすに座る彼の父親がいる。

 

 自分の側を通り過ぎ、ゆっくりと車いすの男に向かって歩く彼女の後ろ頭を、青年は黙って目で追った。ようやく、拳銃を握った右腕を下ろす。

 

 車いすの前に、女性は立つ。

 車いすの上には、背もたれに深く背中を預け、両腕をひじ掛けに乗せ、寝そべるように座っている男。

 彼女が目の前に立てば、すぐさま「彼女」の名前を呼び、その手を握ってくる男が、今は名前も呼ばす、手を握ろうともせず、動かない。

 女性の右手が、いつもなら男の握られているはずの右手が、所在ないように何度か虚空を握った。

 

 男の顔を眺める。

 下がった顎。うとうととしているような半開きのまなこ。緊張感のない垂れ下がった眉。

 視線を少し下に落とす。

 男の胸の中央からやや左に、3つの赤い斑点。斑点の中央には穴。

 女性の視点からは見えないが、車いすの下では大量の赤い液体が大きな円を作り、今もその面積を広げている。

 

 女性は腕を伸ばした。

 女性の左手が、車いすのひじ掛けに乗せられた男の手の甲に触れる。女性の小さな白い手が、男の厳つい手を包み込む。いつもなら骨が軋むほどに握り返してくるが、男の手は女性の手に触れられるままに形を変えるだけ。

 彼女の手が男の手を離れ、次に男の額に触れる。中指と薬指がくしゃりと男の前髪を潰した。手は男の顔の上を滑り、深い皺が刻まれた眼尻、皮膚の下に骨を感じる頬、白髪交じりの顎髭をなぞり、そして首に辿り着く。

 その首に、人差し指、中指、薬指をやや強めに当てる。

 指の先端が何も感じない事を確認した女性は、再び男性の顔に掌を滑らせ、顎、口、鼻を辿った手は、男の双眸に辿り着いた。

 一度男性の両目を覆った女の手が、再び顎の方へと動く。

 女の手に隠れていた男の目が現れる。

 少しだけ開いていた男の瞼が、完全に閉じられていた。

 

 女性が男の顔から手を離し、男の手を再び握ったころ。

 

 彼女の背後では、青年が拳銃を構え直している。

 

 

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