極端に悪い視界の中で、トラックの運転手がその存在に気付いたのは、ちょっとした奇跡だったかも知れない。大粒の雨の向こうで、この雨の中では余計に目立たない緑色のローブを羽織った人物が、控えめに手を振っている。
少しびっくりしてしまった中年男性の運転手だが、しかしすぐに口元を綻ばせ、咥えていたタバコを灰皿に押し付けると、続けてブレーキをゆっくりと踏んだ。
少女の目の前に、少しずつスピードを落としていたトラックが停車する。
今時珍しい手動式のハンドルで窓ガラスが開き、運転手が顔を出した。運転手は開口一番「やあ、あんたで8人目だ」と弾んだ声で言った。
運転手の話しによると、今現在、世界を未曾有の大異変が襲っているらしいが、この近辺は近辺で、数日前に発生した巨大な爆発で、かつて第3の首都の名を冠した大きな街が丸ごと吹っ飛んでしまったらしい。この国も世界も未曾有の大異変で混乱の極みに達しているため被災地への救助活動が遅れている中、都市の近郊に住んでいた運転手は居てもたってもいられなくなり、自らが経営する運送会社のトラックを走らせ、生存者の救出にあたっているのだと言う。
「君は一人だけか?」
暗がりの中で見ると、まるで幼い子供のように見えるローブを纏った少女。その少女が自分の足もとを指さしている。その少女の仕草に、運転手はようやく少女の足もとで蹲っている男の存在に気付いた。
「二人か?」
頷く少女。
「親子か?」
運転手のその問いに、少女は何の反応も示さなかった。
まあいい、と男は呟き、トラックの荷台を指さす。
「乗りな。避難所まで連れてってやる」
少女は蹲る男の背中を控えめにとんとんと叩いた。少女の呼びかけに反応がないことはいつものこと。少女は右手で男の左手首を掴むと、左手で男の左肘を支え、そっと引っ張った。男は少女の手に促されるままに、のそっと立ち上がる。
運転手を見た。顎で、トラック後部の幌付きの荷台を指している。
少女は頷き、男の手を引いてトラックの後部へ向かった。
2人の背中をサイドミラーで見送る運転手は、何とまあ淡泊な親子なんだ、と少し不満そうに鼻を鳴らした。これまで何人かの生存者を救い出してきたが、皆が皆、涙を流しながら感謝したものだが。そして暗がりのなか、トラックのライトに一瞬だけ照らされたフードの下の少女の髪が、妙な色をしていたような気がした。あんな10代半ばくらいの若い女の子が、早くから髪をあんなけったいな色に染めてしまって、あの父親もさぞかし苦労していることだろう、と同情の念を抱き、そして方々探し回っても未だ見つからない自分の娘の身を案じ、少しだけ涙ぐんだ。
トラック後部に回ると、幌の隙間から中年女性が顔を出していた。濡れ鼠の二人を見て、「可哀そうに」と呟きながら、乗車を手伝おうと手を差し伸べてくれた。
少女はまずは彼をと、男を先に荷台へと上がるタラップの前に立たせた。男はぼんやりと、差し伸べられた中年女性の手を眺めている。何かが欠落したような表情。男のその様子を見て彼の状況を察してくれたのか、女性は何も言わずに男の手を握り、引っ張ってやった。女性に引っ張られるがままにタラップを昇っていく男のお尻を、少女が押してやる。男が幌の中に入っていくと、少女もそれに続いた。
幌の中は天井にぶら下げられた白熱電球で照らされていた。新たに加わった少女と男のほかに、運転手に助け出されたと思しき7人の男女が座っている。
男をタラップの側に座らせる。決して広いとは言えない荷台は9人も乗ればほとんど隙間がなくなってしまい、少女も男と身を寄せ合うようにして座った。
荷台の奥の小窓から運転手が顔を覗かせている。新たに助け出した2人が座ったのを見届けて、アクセルを踏んだ。
水分を拭き取れるようなものがなく、とりあえず自分の手の先で雨に塗れた男の顔の水滴を拭い落してやっていると、誰かに肩をとんとんと叩かれた。
振り返ると、隣に座る老婆が、少女に向かって手を差し出している。老婆の手のひらを見ると、一欠けらのビスケット。お食べ、と手のひらを少女に寄せてくる。
少女はおずおずと老婆の手に自身の手を伸ばし、ビスケットを受け取った。
「記憶」の箱をひっくり返す。脳に蓄積された「経験」を総動員させる。
誰かに何かをしてもらった時に、とるべき行動。
「あの時」は、咄嗟に「感謝の言葉」が出たようだけれど、この場では老婆に対してお辞儀をすることで、謝意を示した。
少女は貰った一欠けらのビスケットを自らの口に運ばず、そのまま隣に座る男の口元へと持っていった。薄っすらと開く男の瞳は自分に近づけられたビスケットを見たが、それ以上の動きはない。仕方なく、少女はやや強めに、男の唇にビスケットを押し付ける。すると反射的に男の口が開いたので、少女は男の上唇と下唇の間に、そっとビスケットを滑りこませた。
男の口から、ポリポリと咀嚼音が聴こえた。
与えられたビスケットを、自らは一口も口にせずまっすぐに男の口に運ぶ少女の行為を好ましく思い、微笑んでその様子を見守っていた老婆。
しかしフードの隙間から少女の髪の毛が見えて、老婆の表情は青ざめた。
9人の人間がすし詰め状態となっているため、9人分の体温に温められて荷台の中は暖かかった。
男はビスケットを食べ終えるとすぐに眠りに落ち、疲れ果てている少女もくてんと首を傾け、静かに寝息を立て始めた。
トラックが停車した反動で、これまで続いていた小刻みな縦揺れが止まり、大きな横揺れが前へ後ろへと1回ずつ。無防備に寝ていた少女はその前後の揺れに前のめりに倒れこんでしまい、少女の前に座る若い男性に頭から寄り掛かってしまった。
大きな横揺れと、倒れてしまった衝撃と、そして若い男性の「ヒッ」という短い悲鳴に、少女は泥濘のような眠りから覚醒させられる。
開いた目の先には、知らない若い男の顔。若い男性は、目をひん剥いて少女を見つめ返していた。僅かに開いた口は、短い悲鳴を上げた時の形のままで、固まってしまっている。
若い男性の表情に少女は居心地の悪さを感じながら、密着していた身体を離した。
身体を離しても、若い男性の表情は変わらない。恐怖に慄き、動けなくなってしまったような表情で少女を見ている。
少女はすぐに気づいた。
若い男性だけではなかった。
その荷台にいる、全ての者が少女のことを見ていた。
無言のまま、瞬きもせず、息を潜めて、若い男性と同じように、何か、この世ならざるモノでも見ているような表情で。
少女はトラックに揺られている間にはだけてしまっていたらしいフードを被りなおし、自分の空色の髪を隠した。
髪を隠しても注がれ続けられる皆からの視線に、逃げるように、そして助けでも求めるかのように少女は隣に座る男を見上げた。
男も、少女を見ていた。
ビスケットを胃に収めて少しは回復したようで、生気を取り戻した目で、少女を見下ろしている。
救いとは程遠い、それこそ「敵」を睨みつけるような表情で。
幌の出入り口から運転手が顔を出す。
「着いたぞ。みんな降りてくれ。足もとに気をつけてな」
中年女性は、今度はタラップの昇降を手伝ってはくれなかった。
「腹が減ってたらあっちで飯を配ってる。調子が悪かったり怪我してたら、向こうの救護所には医者がいっから。あっちの方では役所の連中が身元確認してるんで、落ち着いたら行ってくれや」
運転手はそう告げるとトラックに乗り込み、荒野へと戻っていった。
トラックから降ろされた9人は、それぞれ思い思いの場所へと散らばっていく。何度か、少女の方を振り返りながら。
ぽつんと残された2人。
少女は男を見上げるが、男はやっぱり横目で少女を睨むだけで、何も言ってくれない。男が何も指示してくれない以上、自分で考えて行動するしかない。それは少女にとってはとてもとても不慣れな事で、誰の指示にも命令にもよらず、自分の明確な意思で行動したことなど、この人を裏切った「あの時」しかなかった。
周囲を見渡す。
どこかの小さな町の公民館らしき敷地内に設営されている避難所。公民館の前庭や駐車場に天幕が並んでおり、その間を避難してきたと思しき人々がのろのろと、そして避難所のスタッフと思しき人たちが忙しそうに動き回っている。
雨は止む気配を見せず、被災した人々と、救援に駆け付けた人々を容赦なく濡らせていく。
とりあえず、今一番欲しいのは屋根だ。
そこに思い当たった少女は、男の手を引き、公民館へと向かった。
ところが、皆考えることは同じのようで、公民館の中は人・人・人でごった返しており、とても2人が入り込めるような隙間はなかった。2人と同様に全身ずぶ濡れになっている人々が、入り口に長蛇の列を作っている。避難所に押し寄せた避難者の数に対して、避難所を運営するスタッフの数はあまりにも少ないようで、誰かが入場整理をしている様子はない。そこかしこで「早く入れろ!」だの「子供を優先させて!」だの怒号が飛び交っている。
少女は公民館の中に入ることを早々に諦め、まだ人の密度が少ない公民館の裏手に回り、公民館の屋根の軒先を借りる事にした。時折風に煽られて雨が入り込んでくるが、空の下に居るよりは遥かに雨をしのげる。公民館の白い壁を背にして、男を座らせる。少女は男に目で、ここに居て、と告げ、先ほどの運転手が指さしていた方へと駆けていった。
当面の食料品や生活用品が配られている天幕の間は、それこそ人で溢れかえり、何処の天幕にも長蛇の列が出来ていた。
学校には行ったことがない。以前行っていた「らしい」学校は、2人目によって跡形もなく吹っ飛ばしてしまっている。その2人目も、学校はさぼり気味で、たまに授業に出ても教師も黒板も見ることなく外の景色を眺めることに殆どの時間を割いていた、そんな授業日数ギリギリの不良学生だった「らしい」少女は、ここにきてせめて家庭科の授業くらいは真面目に聴いてほしかった、と2人目を心の中で呪った。
衣・食・住。それが「生活三大要素」と呼ばれていることは少女も知っているが、どれから優先させるべきなんだろうと悩んでしまう。でもこういったものは大抵優先順位の高いものから並んでいるのものだから、まずは「衣」を確保するべきなんだろう。
この避難所では「衣類」の配給は行われていないようだが、毛布が配られているようだ。少女は毛布の配布が行われている天幕の、列の最後に並んだ。
30分くらいして、ようやく少女に順番が回ってくる。
額を汗で光らせている受け付けのおじさんが、少女に向かって「何枚?」と聴いてくる。少女は右手でピースサインをする。おじさんは「オーケー」と言って、奥に積まれている毛布の山から2枚取り、雨に濡れないようビニール袋に入れてくれた。
「頑張りなよ」と声を掛けながら、少女に毛布が入ったビニール袋を差し出す。
少女は経験則に従い、お辞儀をすることで謝意を示しながら、おじさんからビニール袋を受け取る。
受け取る為におじさんとの距離が縮まり、フードに隠れていた少女の顔がおじさんに見えたようで、おじさんの顔が一気に青ざめたが、少女はそれを無視してその場から足早に立ち去った。
公民館の軒先に戻ると、男が30分前と変わらぬ姿勢で座っていた。少女はビニール袋を濡れない場所に置くと、男の前に膝を折った。
男の胸に手をやり、ぐっしょりと濡れたジャケットを脱がせていく。ぼけっと虚空を眺めていた男は少女が側に膝を折った瞬間、少女を睨むことを再開したが、ジャケットを脱がされることには抵抗せず、肩までは簡単に脱がせることができた。しかしジャケットはもともとタイト気味でおまけに水分を吸っているため、腕から袖を引っこ抜くのに苦労した。
十分に水を吸い重くなっているジャケットを上下に何回か強く降って水分を飛ばし、地べたに投げる。投げようとして、これは自分の服ではないのだ、と思いとどまり、丁寧に畳んで(本人は丁寧に畳んだつもりで)地面に置いた。
ビニール袋から毛布を一枚取り出し、男に掛けてやる。体の芯まで冷え切っていたらしい男は、掛けられた毛布を素直に羽織った。
続いて「食」の列に並んだ。
「食」の天幕の柱にはラジオがぶら下げられていて、そのスピーカーからは落ち着いた、しかしどこか疲れたような男性の声が流れていた。
『……とし、当面の間、所在不明の総理に代わって、内閣官房長官が総理代理として内閣の指揮を執るとのことです。会見の終わりでは、今回の事象について、その関与が疑われる結社「ゼーレ」に倣い、正式に「サードインパクト」と呼称すると共に、「ゼーレ」の構成員であるキール・ローレンツ、碇ゲンドウらを重要参考人として指名手配することが発表されました。これを受けて警視庁公安部は……』
「何人?」
それが自分に掛けられた声だと気づいて、はっとする。いつの間にか順番が回ってきていたようで、バンダナを頭に巻いたお姉さんが、受け付けテーブルの向こうで少女に顔を向けている。
少女は右手でVサインをした。お姉さんは「オッケー」と返事し、空の段ボール箱の中に非常食が入った袋を二つと、バナナ2本、ミネラルウォーター2本、それに湯銭していた缶コーヒー2本を入れ、少女に差し出した。
段ボールを受け取る為にお姉さんとの距離が縮まり、フードに隠れていた少女の顔がお姉さんに見えたようで、お姉さんは「ひっ」と引き攣ったような悲鳴を上げたが、少女はそれを無視してその場から足早に立ち去った。
温められた缶コーヒーは有難かった。握っているだけで冷え切った手がじんわりと温かくなり、身体の緊張が溶かされていく。
2本渡された缶コーヒーは、それぞれ無糖と加糖。
少女はコーヒーを飲む習慣は全くなかったが、男と会食した時に男がいつも食後に用意されるコーヒーの中に、大量のスティックシュガーを流し込んでいた「記憶」が掘り起こされたので、加糖の缶コーヒーを男に握らせた。
内臓から身体を温めようと、少女は自身の手に残った無糖の缶コーヒーのプルタブに人差し指の爪をひっかける。水分を摂取するといったら、水道の蛇口を捻るか、組織から支給されるペットボトル飲料水くらいでしか経験がなかった。「記憶」には、かつての女性上官がアルコール飲料の入った缶を開けるところが何回か刻まれているため、どうやったら中身を飲めるかは分かるものの、今回少女自らが初めて相対することとなった缶飲料。長時間雨に打たれてふやけていた所為もあり、何度目かの挑戦でプルタブがこじ開けられた時には、少女の人差し指の爪はボロボロになっていた。
中の真っ黒な液体を啜る。
少女が幼い顔を目一杯歪めている横で、男は缶コーヒーを両手で握ったままでいた。
まだ9割以上残っている残りの缶コーヒーをどうしようか悩んでいた少女は、一向に缶コーヒーを飲もうとしない男を見て、せっかくの温かさが冷めてしまうと思い、とりあえずこれは一旦とばかりに無糖の缶コーヒーを地べたに置いた。男の手から缶コーヒーを引き抜き、今度は中指の爪をボロボロにして何とかプルタブを開けると、男に両手で缶コーヒーを握らせた。そして少女の手で男の両手を支え、缶コーヒーの口を男の口へと近づける。そこまでやって、ようやく男は自ら缶コーヒーの口を自身の口へと近づけ、中の液体を啜った。
缶コーヒーをちびちびと啜る男の横で、少女は段ボールからバナナを取り出し、ヘタを毟って皮を剥く。男が啜っていた缶コーヒーを口から離したところを見計らって、剥いたバナナを差し出した。実はこの時初めてバナナというものを触った少女は、バナナは皮を剥いて食べるということまで辛うじて知っていたが、皮は全てを剥いてしまわずに残った部分をカバー代わりに使うことで手が汚れないで済むという誰もが知っているような一般常識を弁えていなかった。皮を全て綺麗に剥いた状態のバナナを男に差し出す。可憐な少女の手に、剥き身で直にしっかりと握られたバナナ。それを喜ぶか嫌がるか興奮するかは、受け手の趣味嗜好に委ねられるところであるが、この時の男はその点には何の反応も示さず、素直にバナナを受け取り口にし始めた。
その様子を暫く眺めていた少女は、残されたもう一本のバナナを自分用に剥き、小さな口を丸く開けて、クリーム色の先端にかぶりついた。
「世の中にこんな美味しいものがあったのか」とでも言いたげな少女の顔である。こんなに甘いのであれば、と、うっちゃっておいた無糖缶コーヒーを手に取り、中の真っ黒な缶コーヒーを啜り、続けてバナナをぱくつく。
少女はこの時「生まれて」初めて、「食べ合わせによる相乗効果」というものを体験したのだった。
バナナ一本で腹が膨れた少女は、まだちびちびとコーヒーを啜りながら大人しく座っている男を確認すると、もう一つの用事を済ませようと立ち上がり、天幕の方へと向かった。
そこもやはり長蛇の列。しかも今までの列と違い、動きが遅い。これはかなり待たされることになると覚悟した少女は、時々投げかけられる自分への視線から守るように、頭を被うフードをさらに深く被った。
なるべく見られないように。目立たないように。
自宅と本部。普段行く場所と言えばその2つだけの、言わば一種の箱庭のような環境で生活してきた少女にとって、これだけの奇異の視線に晒されるのは初めてのことだった。
そして誰にどんな風に見られようが気にしない性分だったはずの少女にとって、他者の視線をここまで意識することも、初めてのことだった。
その老婆は、まるで不出来な案山子のような姿の子供に声を掛けようかどうか迷っていた。今も、その案山子の側を通る若い男が、通り過ぎざまに二度見していて、少女が気の毒になってくる。
見ていられなくなり、意を決した老婆は、その案山子に近づいて肩をとんとんと叩いた。
案山子がゆっくりと振り向いてくる。目深に被ったフード。フードの奥から、案山子の視線を感じた。
「あんたこれ使い。孫のお古で申し訳ないが」
そう言って、老婆は手にしていた継ぎ接ぎだらけのズボンを差し出した。
表情は見えないが、差し出されたズボンの意図が分からずキョトンとしているらしい様子の案山子。
老婆はそんな案山子の手を取り、強引にズボンを握らせ、押し殺した声で言った。
「今履きなさい。今すぐ」
案山子は頷くと、ズボンの口を両手で広げ、右足を中に入れようと片足立ちをした。
ローブの布の端から見え隠れしていた案山子の小ぶりなお尻が、片足立ちしたことで丸見えになる。老婆は、野郎どもの嬌声が上がった方向に向かって、「このロリコンどもが」と睨んだ。
右足にズボンの袖を通した案山子は、残った左足も入れてしまおうと、再び片足立ちになる。今度は少しバランスを崩してしまい、その拍子に目深に被っていたフードがずれてしまった。
老婆の目に映る、案山子の赤い瞳と、空色の髪。
たちまち悲鳴を上げて走り去っていく老婆の背中をぼんやりと見送っていた案山子は、仕切り直して改めて左足をズボンの袖に収めると、膝で止めていたズボンの口を腰まで上げ、そしてフードを目深に被りなおした。
列の前の方では、雨着を着た女性が列に並ぶ一人ひとりに声を掛けていた。雨に濡れないよう雨着の下に隠しているバインダーの書類に、聴き取った内容を書き留めている。
少女の番になった。
「どこか具合が悪い?」
少女は頭を横に振る。本当は、何日も前から身体の失調を自覚しているが、ここであれこれ問診されると後々厄介なことになりそうなので、ここは否定しておいた。
「どこか怪我してる?」
やはり頭を横に振る。
「いつも飲んでる薬がある?」
少女は、相手にしっかり伝わるように、大きく2回頷いた。
「オーケー。処方箋か薬袋か、薬の内容が分かるものある?」
頭を横に振る。
「飲んでる薬の名前とか量は分かる?」
頭を縦に振る。
「んじゃ、これに書いて」
女性から紙切れとペンを渡される。少女はささっと、慣れた様子で紙切れに書き込んだ。
「うん。これなら在庫があると思うからすぐに渡せるよ。あっちが薬剤師のいるテントだから、あの列に並んでね」
そう告げて、女性は少女の次に並ぶ人の聴き取りに移った。
ようやく長い列が途切れ、少女の番になった。
テーブルの向こうに座る、「薬剤師」と書かれたゼッケンを身に付けた若い女性に、紙切れを渡す。その紙切れに書かれた数種類の薬の中に、厳重管理対象の薬剤がないことを確認した薬剤師は、天幕の奥に引っ込んだ。
暫くして、薬剤師が戻ってくる。手には、小さなビニール袋。
「今日はあくまで緊急措置だからこのまま渡すけど、落ち着いたら必ず医療機関を受診して下さいね」
そう言って、少女にビニール袋を差し出す。
少女は、頷きながら差し出されたビニール袋を受け取ろうとした。
目深に被ったフードで狭まれていた視界が、急に開けた。
何者かにフードをはぎ取られたことに気づいた少女は背後を振り返る。
そこに、フードの端を掴んだ若い大男が立っている。
無礼にもいきなりフードをはぎ取ったにも関わらず、少女に振り返られた大男は一歩後ずさってしまった。そして少女の顔を真正面から見ることになった大男の目が、大きく剥かれる。フードを掴んでいた大男の手が、ゆっくり離れた。その手が小刻みに震えている。その気になれば5秒で畳んでしまえそうな体格差のある相手に、大男はまるで蛇に睨まれた蛙のように怯えていた。
無礼にもいきなりフードをはぎ取ったにも関わらず、固まってしまった大男をぼんやりと見上げていた少女は、何事もなかったかのように大男から解放されたフードを被りなおそうとした。
その少女の小さな手を、大男の、少女の頭を鷲掴みに出来てしまいそうな厳つい手が止めた。
フードをはぎ取り、今度は手首を握ってきた大男を、少女は少し迷惑そうに見上げた。
少女の視線を受け、大男はようやく口を開く。その体格に似合わず、掠れるような声が大男の口から洩れた。
「俺は、…あんたを知らない…」
これがナンパだったら、なんとも斬新な一言目だったが、大男の目はいたって真剣だ。
「今日、初めて会ったはずなんだ…。なのに…、さっきからあんたの顔が見える度に、…あんたのその髪や、目が見える度に…、…なんなんだ、…これは。…よく分からない、…なんだこれ。…なあ、説明してくれよ?誰なんだ、お前」
か細い少女と大柄な若い男という、奇妙な組み合わせ。その二人が何やら揉めている様子である。少女の小枝のような細腕を、丸太のような腕をした大男の手が掴んでいる。一見すれば、大男の方がその体格差を活かして、か弱い少女を一方的に暴力的に拘束しているように見えるが、お互いの顔は対照的で、涼やかに、と言うよりも無感動に大男を見上げている少女に対し、大男の表情にはなんの余裕もなかった。
ただでさえ長蛇の列ができていた天幕。その先頭で揉める二人に、自然と周囲の視線が集まった。すると、そこかしから短い悲鳴のような声が上がる。
「…なあ、何なんだよ。何か言ってくれよ」
いたいけな少女に詰め寄る大男。下手をすれば大男はこの場で犯罪者にされてしまう可能性もあったが、大男はそんな危険を顧みず、顧みる余裕さえなく、少女への詰問を止めようとしない。
「何か言えったら!」
大男は自分が成人男性の平均身長を大きく上回り、肩幅も広く、顔もどちらかと言えば怖い方だと自覚している。それなのに、そんな自分に手首を乱暴に握られ、詰め寄られても、無言を貫く、それも別に怯えているわけではなく、困惑しているわけでわけでもなく、平然とした顔でいる少女に対し、ついに大男の口から大声が出た。
「何なんだよ!お前!」
大声を出した拍子に、自然とか細い腕を握る手にも力が入った。握られた腕の痛みに、ようやく少女の顔に苦悶という表情が浮かぶ。
何を言っても怒鳴っても、まるで自分の存在など無視するかのような態度だった少女が、初めて表情を変えたことに小さく満足した大男。握る手にさらに力を込めようとしたが、そんな大男の腕に痩せた中年男性が触れた。
その痩せた男は揉めているらしい二人の仲裁に入ろうとしたのだろうか。
いや、そうではなかった。痩せた男は、大男と同じような表情で、少女を見つめている。
「俺も…、お前を知っているぞ」
痩せた男のその一言が引き金になった。
いつの間にか少女らを囲んだ群衆のそこかしから、同様の声が上がった。
「私も知ってる」
「会ったことがある」
「いや、会ったことはないが、でも知ってる」
「え?何?有名人?」
「なんだかよく分からないけど、あの子見てると動悸が激しくなる」
「気持ち悪い。なに?あの髪の色」
「夢で見た?いや…違う」
「うわー、なんだか気持ち悪い」
「おい。これどうゆうことなんだよ」
「みんな同じこと言ってる。おかしいだろ!」
「なあ、あんた!何か言ったらどうだ!」
「そうだよ!説明しろよ!」
「いつまで黙ってるつもりだ!!」
突然、大男に握られていない方の腕に、誰かが抱き着いてきた。
見ると、やはり目を剥いた余裕のない表情の中年女性が、少女の腕に絡み付いている。
「ねえあなた。この人知らない?」
震えた声でそう話す中年女性の手には、一枚の写真。写真に写るのは、その中年女性と、その傍らに笑顔で立つ中年男性。
「私の旦那。「あの日」に消えちゃってから、戻ってきていないの。散々探し回っても見つからないの。子供たちも毎日泣いちゃってて。警察に行っても今は非常時だからと全く取り合ってくれないの」
そのように少女に訴える中年女性は、何故自分はこんなことを少女に言っているのか、自分の身内の行方を、「見ず知らず」の少女に訊ねているのか、おそらく理解していない。それでも、何故か少女の姿を見ていると、訊ねずにはいられなかった。
「ねえ教えて!後生だから!あの人を私たちに返して!」
中年女性の必死の嘆願に覆いかぶさるように、怒号にも似た声があちこちから上がった。
少女の顔の前には、次々と人の顔が写った写真が突き付けられる。
「ねえ、この人は?」
「この子を知らない?」
「こいつだよ。なあこいつのこと、知ってるんだろ?」
「まだ生まれて3か月も経ってないもの。一人でどっかに行くなんてありえないわ!」
「お前がどこかに連れていったんだろ!」
「なあどこに隠したんだよ!教えてくれよ!」
「あんたさっきトラックに乗せてやったじゃないか!だったら娘のことくらい教えてくれてもいいだろ!」
「返して!返して!返せ!返せ返せ返せ!」
「返せ!」
「返せ!」
「返せ!
「返せ!」
「なんで黙ってばっかなんだよ!」
「なんか言えよ!」
「返して!」
「返せ!」
「返して!」
「返せ!」
大男に掴まれた手首。中年女性に抱き締められる腕。
それだけではなかった。ほうぼうから伸ばされる手が、少女の二の腕を、肩を、脇腹を、足を、顎を、首を、頬を、耳たぶを、空色の髪を、掴み、引っ張り、捻り、毟っていく。何本かの腕は少女が纏うローブにも手を掛け、引っ張るため、ローブがはだけ、下の裸体が露わになるが、少女が半裸に剥かれている状況にも、周囲の大人たちには誰一人として我を取り戻すものは居なかった。
ええそう。これは罰。
たった一人の男の願望を叶えるために、
人々の魂を、
それぞれの事情などお構いなしに勝手にかき集め、
一つの小さな器に放り込み、混ぜっ返した挙句、
たった一人の少年の願いを叶えるために、
人々の魂を、
無責任にも地上にばら撒いてしまったワタシへの、
これは罰。
全身に広がる痛みをどこか他人事のように、鼓膜をつんざく人々の怒号をどこか遠くで鳴り響く雷鳴のように、目に映る人々の狂気に満ちた顔を作り物の仮面のように、ぼんやりと無感動に感じ、聴き、見つめている少女。
そんな少女だったが、どこかで囁かれたその言葉は聞き逃さなかった。
「こいつ。確か男と一緒にいたはずだぞ」
それまで全くの無抵抗でなされるがままだった少女は、その声を聴いた瞬間、懸命に腕を、足を、頭を、全身を振り回し始めた。何とかして人々の手から逃れようと暴れてみたが、しかし非力な少女の力では人々の拘束する手はびくともしない。それどころから、暴れ始めた少女をねじ伏せようと、拘束する手はその力を増すばかりだ。
もはや暴れることさえままならなくなり、少女がその痛みにうめき声を漏らし始めた時。
バリバリバリ、と耳を劈くような爆音。
上空から轟くその激しい爆音に、その場にいた全員が空を見上げた。
音に少し遅れて、地上の空気が急速に巻き上げられる。天幕が飛びそうになり、そこかしこから悲鳴が上がった。
見上げる彼らの視界を、巨大な機影が塞いだ。
低空を旋回するヘリコプター。
地上の人々があ然とその黒色の機体を見上げている中、一人だけ空に注意を向けていない者が居た。
皆が上空に注意を向けている間、地上の少女は瞬時に行動に移す。緩んでいた拘束の手から両腕を引っこ抜くと、一番近くにいた大男の腹に、肩から思いっきり突っ込んだ。
普段ならこんなか細い少女の体当たり程度ではこゆるぎもしない大男だが、上空を見上げていたために突如腹に食らった衝撃に面食らってしまい、少しだけ後ろによろめいてしまった。大男がよろめいてくれたおかげで少女と人々との間で隙間ができたため、少女はその空間を利用して身を翻した。
振り返った先では、空を見上げて呆気にとられている薬剤師。少女は薬剤師の手にあった薬が入ったビニール袋を奪うようにむしり取ると、テーブルに手を付き、ぴょんと跳ねた。
テーブルの上に仁王立ちする少女。目の前の2本の足を、唖然と見上げる薬剤師。
少女ははだけていたローブを羽織りなおし、フードを目深に被りなおす。
「この野郎…!」
か弱い乙女に向かって放つべきではない言葉を放った大男は、すぐさま少女を再拘束しようと両腕を広げて少女の脚に向かって突っ込む。再びぴょんと跳ねる少女。少女の足の下すれすれを、大男の頭が通り過ぎていく。
テーブルが倒れる音、物が散乱する音、大男に覆い被された薬剤師があげる金切り声。
少女の裸足は大男の頭へ音もなく着地。そして大男の頭の上で、再びぴょんと跳躍。隣のテーブルへと飛び移る。そしてそのままテーブルの上を駆け出した。
「おい!逃げたぞ!」
痩せた男が叫ぶ。
人々の手が、テーブルの上を走る少女を引き摺り下ろそうと少女の足に伸びてくるが、少女の細い脚はそれらの手を寸でのところで躱し、テーブルの上を駆けていく。
テーブルの端っこに辿り着いたら、またもやぴょんと跳ね、次の天幕のテーブルへと飛び移る。
いきなりテーブルの上に飛び乗ってきた、不出来な案山子のような恰好をした人物。
血圧を測っていた中年女性は悲鳴をあげ、その隣で看護師に火傷の治療をしてもらっていた子供が泣き叫び、テーブルの上の医療器具を蹴散らかされた看護師が怒鳴り声を上げる。たちまちこの天幕もパニック。案山子は周囲の狂騒を気にせず、テーブルの上を駆け抜ける。パニックが大きくなれば大きくなるほど、逃げる案山子にとっては都合がいい。
テーブルの端っこに辿り着いたら、次のテーブルへまたぴょんと跳躍。
しようと思ったら、次のテーブルとの間で、突然天幕の中から現れた、患者を乗せた担架を運び出そうとする一団に遭遇。担架を持つ先頭の男に衝突してしまった。
「何をする!危ないだろうが!」
担架を抱えていた消防団の男はそれなりに鍛えた身体の持ち主で、軽い軽い案山子に衝突されても、よろける程度で抱えていた担架を死守した。地面に転がった案山子に向かって怒鳴り散らす。
顔面から地面に突っ込んでしまった。その拍子に両手に抱いていたビニール袋を放り出してしまい、ビニール袋から薬が入った包装シートが地面に散らばる。少女はじんじん痛む鼻を押さえながら身体を起こす。地面に散らばった包装シートを慌ててかき集め、立ち上がろうとする。
飛んだり跳ねたりと無理な動きをしたからか、それともサイズが合っていなかったからか。ビリリ、とズボンが大きく割けた。裂けた布が足に絡み付き、動きづらい。
案山子の手が、躊躇いなく破れたズボンをさらに引き裂き、脱ぎ捨てている。ズボンの向こうから現れた真っ白な足。一目で分かる女の、しかもまだ年端も行かない少女の素足。おまけにパンツも履いていない。
呆気に取られてその様子を見守る担架を運ぶ一団の視線の先で、下半身が素っ裸になった案山子が立ち上がる。
隣の天幕では激しい怒鳴り声が幾つも飛び交う。
「何処に行った!」「探せ!」「早く見つけろ!」
担架を運ぶ一団がそれらの怒鳴り声に気を取られ、そして再び案山子の様子を見ようと視線を地面に戻した時には、すでに案山子の姿は消えていた。
素っ裸になった下半身は動きやすかった。全ての拘束を打ち捨てた脚を縦横に駆使して駆ける。
小さな鼻の下から、赤い液体が滴った。
目的の公民館の軒先に辿り着いたところで、少女は愕然とすることになる。
そこにあるのは濡れたジャケットと捨て置かれた毛布。
男が居ない。
白い壁に背中を預けて座り、コーヒーをちびちびと啜っていたはずの男が居ない。
群衆に囲まれ、怒声を浴びせつけられた時でさえ、せいぜい腕を酷くに掴まれて苦悶したくらいだった少女の顔に、深い焦燥が映し出せれた。
男の姿を求めて、周囲をきょろきょろと見渡す。何度も右往左往し、裸の足が地面に転がる空の缶コーヒーを蹴る。
近くで、やはり壁に背中を預けながら座っていた男性が、そんな少女の様子を見て声を掛けた。
「そこに居た男ならあっちに歩いていったよ」
少女はすぐさま男性が指さした方へと走りだそうとしたが、少し思いとどまり、段ボールの中にあった非常食が入った袋を持つと、改めて走り出した。
案山子のようななりをした人物が駆けていく後姿を見送っていた男性。
その目が、驚愕に染まる。
「あいつ…、なんでパンツ履いてないんだ…」