公民館の敷地を出て、道路に出る。周囲をキョロキョロと見渡す。
幸いにも、男の姿はすぐに見つかった。
雨の向こう。街から離れ、田んぼに向かう小道を、男は歩いている。
少女の顔に安堵の表情が浮かんだ。
小走りで、男の後を追う。
男は足早に歩いていた。小走りで追ってきた少女は、ほどなくして男の背中に追いついたが、あと数mのところで小走りをやめ、男の歩調に合わせた。
歩く男の背中の、数歩後ろをついていく。
数歩前を歩く、男の背中。
それは、少女にとってとても見慣れた光景だった。
田んぼが続く田舎道を歩く。
今更になって、人々に掴まれ、引っ張られ、捩じられ、毟られた体のあちこちが痛くなってきた。見れば、白磁のような肌のあちこちに、人の手形の痣が出来ている。普段することがない大立ち回りもしてしまって、身体中の色んな筋が痛い。
それでも、数歩前を足早で歩く男の背中を、懸命に追いかける。
男の手を引っ張りながら歩いていた時のことを考えれば。男の重い重い身体を引っ張りながら、その背に男の鋭い視線を受けながら、道なき道を自らが行き先を決めて歩き続けた時のことを思えば、こんな痛みは気にならない。必要な薬も飲んで、感じていた身体の失調も和らいできた。
時々、男の足が止まった。
男に合わせて、少女の足も止まる。男が動き出すのを、じっと待つ。
男が頭だけを動かし、背後を振り返る。
背後の少女を見つめる。
睨みつけるような、あの眼差しで。
そんな視線を投げつけられる時は、少女はただ俯くしかなかった。まるで嵐が過ぎるのを、木陰に潜みただ待つことしかできない小鳥のように、男の刺すような視線が自分から離れていくのをひたすら待ち続けた。
暫くすると、男は歩き始める。その背中を、少女は追う。
雨を降らせ続ける黒い雲。日没を待つ前に、地上は暗くなってしまう。
道端に屋根のあるバス停があり、男はバス停のベンチに腰を下ろした。歩き通しで疲れたのか、ふうとため息を吐き、天井を見上げ、そして目を閉じている。
路上で佇む少女は迷っているらしい。暫く男の様子を観察していた少女は、意を決して男の側に歩み寄ると、近寄ってくる少女を薄目を開けて睨んでいる男の顔を見ないようにしながら、腕にぶら下げていた袋の中に手を突っ込み、取り出した乾パンを男の側に置いた。そして自分はベンチには座らずにバス停を出て、バス停の近くにあったお地蔵様が安置されている祠の軒先に座った。
座ってしまうと、男以上に疲れている少女にもたちまち眠気が襲ってきてしまう。
暗いバス停の中の男の姿が、どんどんぼんやりと薄くなっていく。
暫くして、雨の音に混じって、バス停の方から包装紙を破る音。少しして、ボリボリと、何かを咀嚼する音。
安心した少女は、閉じかけていた瞼を完全に閉じ、眠りの奈落へと転がり落ちて行った。
薄ぼんやりとした視界。目に映るのは、水たまりが張った道路、雨が止んだ灰色の空、放棄された荒れた田んぼ、そして誰も居ないバス停。
お地蔵様の足もとに抱き着くようにして寝ていた少女は飛び起きた。たちまち頭が祠の屋根に当たり、頭に鈍痛が響く。涙目でたんこぶができた頭を撫でながら、少女は周囲を見渡した。
すでに歩き始めている男の背中が見つかり、ほっと安堵のため息を漏らす。
すぐに追おうとして、立ち止まって、男が座っていたバス停を見ると案の定、まだ半分以上残っている乾パンがベンチの上に捨て置かれていたので、それをしっかりと回収し、男の後を追った。
男は前日と変わらず足早に歩く。
そもそも大人と子供の体格差であるため、同じ歩調であっても歩幅が違う2人の距離は自然と離れてしまう。所々で少女は小走りし開いた距離を詰め、一方男も時々足を止め、振り返って後ろの少女を睨んだ。
並んで歩くわけでもなく声を掛け合うでもなく、時に離れながら、時に近寄りながら、時に見つめ合いながら、時に目を逸らしながら。奇妙な2人組は、無言で田舎の小道を歩いていく。
結局、数日ぶりに止んでいた雨は昼前に再びぽつりぽつりと雨を降らせ、そして昼を過ぎた頃には再び土砂降りの雨となった。傘も差さずに歩く奇妙な2人はずぶ濡れになりながらも、歩みを止めようとしない。
すでに人里は離れ、山道を行き、峠を越え、今は山と山の間の狭い土地に作られた田んぼの中の小道を歩いている。一度も休憩を取らず歩き通しのため、男を追いかける少女の疲労は濃く、さらに男は土砂降りとなってからは足を止めて後ろを振り返ることを止めてしまい、男との距離を詰める機会が失われてしまった少女との距離はどんどん開いていく。
まるで滝のような大粒の雨に視界が塞がれ、前を行く男の背中が見えなくなってきた。少女はすぐにでも走って男の背中をその目に捉えたかったが、今や痛む膝に両手をつきながら辛うじて歩いている有様だった。
このまま置いて行かれてしまうのだろうか。
捨てられてしまうのだろうか。
雨にまみれた少女の顔が、焦燥にもまみれ始めた頃。小道の真ん中で佇む男の姿を見つけ、少女は痛む膝に顔をしかめつつもほっと安堵の表情を浮かべた。
男が遅れた自分をわざわざ待っていてくれているはずがない。なぜ立ち止まっているのだろう。
雨の中の男の姿がはっきりとするに連れ、少女が抱いた疑問の答えが見えてきた。
男が立つ小道の向こうに川がある。連日の雨で増水し、土の色をした川の水が濁流となって暴れている。立往生する男の向こう岸には、男が立つ小道と同じ幅の小道が続いている。川の水面では橋脚の跡らしき木の柱が見え隠れする。どうやら、川に掛かっていたはずの橋は、流されてしまったらしい。
対岸までは5mほど。晴天の日は橋がなくても歩いて渡れそうな小さな川だが、増水し橋がない今は、対岸ははるか彼方だ。
立往生したまま川の中の濁流を見つめる男。
そんな男の耳に聴こえる音。雨の音と、濁流の音に混じって聴こえる音。
背後から、ペタペタと、「あれ」が近寄ってくる音。
奥歯を噛み締める。
橋なき荒れ狂う川を前に立ちすくむ男に、少女があと少しで追いつきかけた頃、男は予想外の行動をとった。なんと荒れ狂う川の中に足を進め始めたのである。
この国の成年男子の平均を上回る体格を誇る男だったが、片足を川に突っ込んだ瞬間、その体が大きく揺らいだ。濁流がまるで幾つもの手のように男の足に絡みつき、その激しい流れの中に引きずり込もうとする。男の腰が引け、上半身が右に左に大きく揺れた。一歩目ですでに男の歩みは封じられてしまっていたが、それでも男は諦め悪く、もう片方の足も川に突っ込もうとしている。
そんな男のシャツを、何者かが引っ張った。振り返ると、少女が両手で男のシャツを引っ張っている。頭を横に振り、それ以上行くな、と無言で訴えている。
「あああ!!」
最初、その唸り声が目の前の男から放たれたものとは、少女は分からなかった。男は唸りながらシャツを引っ張っていた少女の手を振り払うと、ついにもう片方の足を川の中に突っ込んでしまった。
途端に男の両足が濁流に攫われ、膝を折られた男は川の中に尻もちをつくように倒れてしまった。腰から下が水の中に浸かってしまった男の足に、腕に、胴に、肩に、濁流の手が次々と絡みつく。男の体は瞬く間に胸まで沈んだ。男は手足をばたつかせる。かつて冷徹に組織を統括し、冷酷に任務を遂行していった男は思えないほどの狼狽ぶりだった。
濁流に揉まれる男のすぐ側で、小さな水柱が上がった。
土色の水面に、空色の髪が揺れる。
男に比べれば遥かに小柄で軽い少女の体は、瞬く間に川底に引きずり込まれそうになったが、少女も懸命に手足をばたつかせ、男の体に密着するとか細い腕を男の腕に絡めた。
もし少女が何の手立てもなく飛び込んでいれば、結果は絵に描いたような二重遭難になっていただろうが、少女は纏っていた布切れの端っこを先端が折れた橋脚に引っ掛け、それを命綱替わりにして荒れ狂う川の中に飛び込んだのだった。
左手で懸命に布切れを握りしめ、右手で男の大きな身体を支える。濁流の中でも何とか姿勢を保つことができるようになった。川岸まではそう遠くはないので、あとは男が手を伸ばし、川岸に生える草でも何でもいいから掴んで、岸の上に這い上がってさえくれたら助かる。
少女は男が身を守る行動に移ってくれることを期待したが、男はここでさらに予想外の行動をとった。
「あああああ!!」
再び大きく唸り、暴れ始めたのである。少女の腕から逃れようと。まるで自分の腕に絡む少女の腕が、化け物の触手でもあるかのように。
男が暴れるせいで少女の小さな顔が何度も川の下に沈む。その度に、大量の水が少女の口に、鼻に入ってくる。
意識が遠のきかけ、男の腕を絡める腕から力が抜けた。
男は少女の腹を押し蹴ると、ついに少女の腕から逃れ、自らは少女とは逆の方へと手を伸ばし、川岸の草を掴む。もう片方の手でも草を掴むと、川岸を這い上がり始めた。少しずつ男の体が濁流の中から抜け、腰までを陸まで上げたところで、地面に倒れこんだ。地面に腹ばいになりながら、肩で激しく息をする。何度かせき込み、口の中から土色の水が零れ落ちた。
飲み込んだ水を吐き出し、少しだけ呼吸が落ち着いた男は、上半身を起こし、後ろを振り返った。
布切れに必死にしがみつく少女が、濁流の中で揉まれている。
男が川岸に這い上がったところを見届けた少女。しかし息つく暇もなく、今度は自分自身が生命の危機に晒されていることを思い出す。
両手で必死に布切れにしがみつく。男の重みが無くなってしまったため、軽い身体は激しい流れの中で面白いように回転した。
両手で布切れにしがみついていたが、いつまでもこのままでいるわけにはいかず、覚悟を決めて右手を布切れから離す。途端に全体重が左腕に掛かり、ずるずると布切れを握る左手が滑った。
右腕を川岸に向かって伸ばす。川岸の草でもなんでもいい、とにかく掴めるものがあればと手を伸ばすが、少女の小さな手は水を掴むばかり。
必死に腕を伸ばしながら、少女は心のどこか冷静な部分で思った。
自分はなぜ、こんなに必死になって助かろうとしているのだろう、と。
生命の危機に瀕し、それは至極真っ当な反応であるということは少女も分かっていたが、それでも自分の必死さがどこか滑稽だった。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、ついに水ばかりを掴んでいた右手が何か形のあるもの、固いものを掴んだ。
少女の手は反射的にそれを固く握る。握って、手の中に収まったその形に、少女は掴んだ「それ」がなんであるか、すぐに気づいた。
それは川岸の男の右足首だった。
水の中の少女が必死にもがいている。川の底へと引きずり込もうとする濁流から逃れようと、無様に足掻いている。
男はその様子をただ黙って見つめていた。
水の中で何か、何でもいいから何かを掴もうとする少女の右手は、幾度か水に浸かった男の足の側を掠った。男が少しでも少女の手に自らの足を寄せてあげていれば、少女の手は男の足を掴むことができただろう。しかし男は何もせず、水の中でもがく少女をただ見下ろしていた。
やがて少女の手が、自力で男の足首に触れた。少女の手は縋りつくように、男の足首を握りしめる。
自分の手が男の足首を握っている。その足の延長線上に、川を見下ろす男の顔がある。まっすぐに少女を見下ろす男の顔がある。
少女の体力は限界だった。掴んだ腕に自らの身体を手繰り寄せ、川岸にまで近寄れるほどの体力が、もはや少女には残されていなかった。
自分が助かるには、この濁流から抜け出すには、足を掴まれた男がこちらに手を差し伸べてくれるか、掴まれた足を陸にまで揚げ川の中から少女ごと引きずり出してくれるか。いずれにしろ、少女の命は男の一挙手一投足に委ねられた。
少女の頭はほとんど水の中に沈んでいる。濁流の揺れで時々鼻の辺りまで顔が押し上げられ、その時だけ水の中から出た赤い瞳が、男の顔を見ることができた。
おそらくまともに息もできず、どんどん川の水を飲み込んでいる自分の顔は、ひどい顔をしていることだろう。見る者によっては目を背けたくなるよな、また見る者によっては無様すぎて滑稽に見えるような、そんな顔をしていることだろう。
しかし、そんな少女の顔を唯一鑑賞している男の顔は、どこまでも無感動だった。蟻にたかられ全身を食い千切られている芋虫を、冷静に観察している子供のような眼差し。
そして少女の命を握っている男は、少女に手を差し伸べることもなく、足を動かすこともなく、かといって少女の手を振り落とそうともせず、ただ今にも溺れようとしている少女の顔を、黙って見つめている。
すでに左手は布切れの端を手放している。
男の足首を掴む右手からも、徐々に力が失われていった。
男の顔が離れていく。
男の姿が、遠くになっていく。
視界が半透明の土色になった。
二つの赤い光が消え、しばらく空色の髪が土色の水の上を漂い、そしてその髪も水の中に沈でいった。
濁流に飲まれ、消えていった少女を見送った男は、水に浸かっていた下半身を陸に揚げると、身体を引きずるようにして少しだけ川から離れた場所に移動し、そこに腰を下ろしたまま膝を抱えた。
少女が消えていった川を、黙って見つめた。
男の足首から手が離れた途端、支えを失った身体はあらゆる方向からの水圧に晒され、あっという間に錐もみ状態となった。たちまち平衡感覚は失われ、どちらが空でどちらが川底かも分からなくなる。水が、鼻から、口から、耳から、目の隙間から、次々と入り込んでくる。体内に入ってくる水と引き換えに、酸素がどんどん身体から失われていく。
少女はもはや抗わなかった。
激しい水の流れにも。体内に侵入する水にも。迫りくる死にも。
川岸から見つめる男のあの顔が、今の自分の全てを物語っていたと思う。
ところが、状況はそんな少女の覚悟などお構いなしに変化する。
荒れ狂う川は、しかし少女が流された場所から50mほど下ったところで川幅を広げ、そして大きく蛇行していた。流れは緩やかになり、少女の身体はそのまま岸辺へと運ばれる。
―――まだ生きている。
気づけば少女の身体は、岸辺に茂った太い幹の葦に引っ掛かり、肩から上を川面に出してぷかぷかと浮いていた。
このままでいれば、いずれ川の流れが自分を引き込み、あの濁流へと戻されるのではないかと待ってみたが、本流の流れが嘘のように岸辺の流れは穏やかで、いくら待っても身体は引っ掛かった葦から離れることはなかった。
少女は仕方なく、葦伝いに川岸に近づき、そして陸へと這い上がる。布切れは命綱替わりに使って手放してしまっていたため、数日ぶりの素っ裸になった少女の身体が、川岸に倒れこむ。
体力は削げ落とされ、加えて数分間水の中に浸かっていたため身体がいつも以上に重力を感じる。立ち上がろうにも立ち上がれない。忘れていた膝の痛みもぶり返してきた。
それでも少女は結局立ち上がった。地面に自分を縛り付けようとする重力と、地面から逃すまいとする膝の痛みに逆らって。
なぜ、自分は立ち上がるのだろう。
立ち上がらなければならないのだろう。
そんな疑問を抱えながら。
田んぼのあぜ道を使って川上へ歩く。
ふらふらと、おぼつかない足取りで。
ふと、一度だけ読んだことがある怪奇小説の「記憶」が掘り起こされる。挿絵がない古い本だったため、墓場から這い出てくる生ける死者の姿というものがどうも想像できなかったが、ああなるほど、今の自分が正にソレだ、などと場違いなことを考えながら、川上を目指した。
しばらくして、川辺で膝を抱えて座る男が見えた。
膝を抱えながらぼんやりと、少女が消えていった川の水面を眺めていた。
周囲からは様々な音。頭上から降り注ぐ雨の音。目の前を流れる荒れ狂った濁流の音。田んぼから響く蛙の鳴き声。
それらの音に混じって、川下の方から、ペタペタと、「あれ」が近寄ってくる音。
奥歯を噛み締めた。
視線を上げるのもしんどく、地べたを見つめながらふらふらと歩いていると、視界のすみの地面に小石が転がった。
歩みを止め、視線を上げる。膝を両腕で抱えていたはずの男の右腕が肩の位置まで上がっていた。
男に向かって歩みを再開する。すると男の右手で地面を這い、何かを掴むと、その手を大きく振った。男の手から放り投げられた小石が少女の足もとに転がる。
さらに男に近づこうと歩みを進めると、再び男の右手が地面を探り、掴んだ石を少女に向けて投げてくる。
そこからはもう止まらず、男は地面から少しだけ腰を浮かすと、周囲に転がる石を手あたり次第に拾っては、少女に向かって投げ始めた。
すでに足を止めている少女に、次から次へと石が向かってくる。少女は避けようともせずに、ただ棒立ちになってそれを受ける。いくつかの小石は、少女の細い腿に、肋骨が浮き出たわき腹に、肉付きの悪い二の腕に当たった。
男の手が、人のこぶし大の石を掴んだ。男の大きな手に掴まれた石は地面から離れると、宙に放物線を描きながらゆっくりと回転し、そして少女の真っ白な額に到達する。
少女の足もとに、ごとりと大きな音を立てて石が落ちる。
自分の額から少なくない血が滲み出ているのは、拭わなくても分かった。
それでも少女は動かない。棒立ちを止めない。額からボタボタと流れる血を拭おうともしない。まるで子供のように、男がぽいぽいと投げてくる石を、今も二人を濡らす雨と同じように、それが当然とでも言うように、受けている。
投げるべき石が足もとから無くなってしまい、男はまるで無くしてしまった大切な宝物でも探すかのように、石を求めて周辺に視線と両手を這わせる。しかし周辺にも手ごろな石が見つからず、
「あああ!」
まるで玩具を取り上げられた子供が地団駄でも踏むかのように、男は両拳の腹で地面を殴った。
一度では気分が収まらなかったのか、男は唸り声を上げながら何度も地面を殴る。何度も。何度も。
それを少し離れた場所から見つめる少女は、地面を何度も殴る男の拳が本当に殴りたかったものは、きっと自分なのだということを察していた。
何度も何度も地面を殴る男の拳の皮が裂けはじめ、血が滲み始めたのを見て、男の本来は他傷であるべき自傷行為を止めさせようと、少女は再び男に歩み寄ろうとした。
途端に、
「来るな!!」
それは目覚めて以来、男が発した初めての意味ある言葉だった。
「来るな来るな来るな…」
地面を殴ることを止めた男は、かわりに地面についた両拳に額をつけ、蹲っている。
男の拒絶する言葉を受け、少女は歩みを止めざるを得ない。
「なんなんだお前は…。なぜ俺に付きまとう…」
男の顔が上がり、少女を睨み見る。
「誰なんだお前は!!」
物凄い形相で睨んだと思ったら、次の瞬間には男の吊り上がっていた眉は垂れ下がり、「へ」の字になった口は戦慄き、情けないまでの、今にも泣いてしまいそうな表情に歪んだ。
「なぜ…、ユイのような顔をして俺に近づいてくる…!」
普段は瞬きの少ない方である少女の瞼が、忙しく開閉される。瞼が閉じ、そして開かれる度に眼窩に収まる瞳は、きょろきょろと違う方向を向いている。両肩からだらりとぶらさがる腕の先の手が、意味もなく開閉する。心臓が控えめな胸から今にも飛び出さんばかりに激しく脈打ち、それに合わせるかのように呼吸が浅く小刻みになるのに対し、脳味噌からは急激に血液が引いていくのを感じた。
今までに経験したことがない身体の変調。
何度も大怪我をし、何度も死に掛け、実際に2回(3回?)は死んだけれど(死んだ時の「記憶」はないけれど)、これほどの身体の変調を感じたことはなかった。
視界の右側が、急に真っ赤になった。
思考がぐちゃぐちゃになっていた少女にとって、その視界の変化は混乱から狂乱へ転がり落ちるには十分な変化だった。
少女は取り乱したように両手で顔を覆う。右目に纏わりついた赤い何かを引っぺがそうと、爪を立てて瞼を引っ掻く。
額から滴っていた血は少女の爪ですぐに拭われたが、爪は血だけでなく瞼も引っ掻き、抉り、たちまち皮膚は裂け、血が溢れ出す。
右側どころか視界全てが真っ赤に染まり、少女の狂乱はますます深みにはまっていく。まるで熱せられた鉄板の上に放り投げられたかのように細い足をぴょんぴょんと跳ねさせ、両手は瞼だけでなく顔全体を引っ掻きまわしている。
もはや顔だけでは足りず、少女の手は喉元をも掻き始めた。自然と少女の顎が上がり、自身の手に覆われていた視界が広くなる。
すぐ目の前に、男が立っていた。
男は何やら意味不明なことを叫びながら、両手を前に突き出した。
突き出された先には、少女の細い細い首。
少女の喉は、うめき声を上げることすら許されなかった。
気づけば後頭部が地面についていた。後頭部だけでなく、背中もお尻も、腿の裏も。
真っ赤な視界。
赤い色に遮られて朧げに見えるのは、男の上半身。
男の両肩から生えた腕が、自分の方へと伸びている。
腕の先にある自分の首には強烈な圧迫感。
仰向けになり、顔の正面から受けることになった天から降る雨は、眼球を覆っていた赤い「何か」を洗い流し、視界の赤を消し去った。
見えるのは男の顔。
今にも泣きそうな、いや、すでに大粒の涙を零し、情けなくも鼻水を流し、戦慄くしまりのない口の端からは涎を垂らしている男の顔。
戦慄く男の口からは、雨でかき消されそうなほどのか細い声で。
「まがい物まがい物まがい物まがい物まがい物まがい物まがい物まがい物…」
激しい雨の音。すでに遠のきかけ始めている意識。
その中でも、男の呪詛のような呟きは、しっかり少女の鼓膜を刺激した。
ええそう。これは罰。
偽りの入れ物。偽りの魂。偽りの「生」。
偽りにまみれた、ワタシへの罰。
なぜ、私は生まれたのか。
自動化されたサイクルの中でこれまで通りつつがなく再生産されたのが私。
では何のために、私は生きるのか。
生産されるのと同時に付加されるはずの私の「生」の目的。
いくら探し回ってみても、見つからなかったけれど。
ああ、やっぱり。
やっぱり私に授けてくれるのはあなただった。
私の全てを決めるのは、あなただった。
あなたを裏切ってしまった私。
あなたの生涯を汚辱にまみれさせてしまった私。
そしておそらく、あなたの心を壊してしまった私。
贖罪などという生易しいものでは、あなたに対する私の罪は贖えない。
あなたの心に渦巻く憎しみ。憎悪の全てをこの身で受け止めてこそ、初めてあなたに対する私の罪は許される。
きっと。
きっとこの「生」は、あなたに殺されるために授けられたものなのだ。
あなたに殺されるために、この命は与えられたのだ。
すべてが腑に落ちた。すべてが。
まるで陶磁器のような透き通った白い肌。
小枝のような細い首。
あともう少し力を込めてしまえば、簡単に砕けてしまいそう。
見れば見るほど、最愛の人に瓜二つ。
でも違う。
彼女は、そんな不気味な色の瞳はしていなかった。
彼女は、そんな不可解な色の髪はしていなかった。
その端正な顔には柔らかな微笑みが絶えず、
慈愛に満ちた声は、耳にした全ての者を幸福へといざなう。
貴様がどんなに彼女の見てくれに似せようとも、彼女には一歩たりとも近づけない。
そこは我々の聖域。
彼女を汚すな。
彼女を冒涜するな。
貴様がやっていることは、俺にとって最も許しがたい行為だ。
少女の両腕が地面から離れる。
白い、小さな手が、少女の頚動脈を締め上げる男の腕に触れた。手は、滑るように男の腕を登っていく。肘に触れ、肩に触れ、鎖骨に触れ、そして首に触れ。
男の髭を蓄えた両頬が、少女の小さな手に包まれた。
うっ血し、真っ青になっている少女の顔。血と酸素が届かない脳が悲鳴を上げているのだろう。苦悶に満ちた少女の表情。しかし半分だけ開いた赤い目はまっすぐに男の目に向けられ、そして顔に残った血液全てがそこに集まったかのように、両頬にはほのかに赤みがさしている。
どこか恍惚とした表情を浮かべる少女の両手は、やがて男の頬を離れ、再び男の首、鎖骨、肩を辿り、両腕を滑り落ちる。少女の小さく真白い手が、男の大きな浅黒い手に重なった。白い手は何度か浅黒い手の甲を撫でた後、少しだけ引き返した。
白い手は、浅黒い腕の手首で止まった。
白い手は、浅黒い手首を握る。
白い手は、握った浅黒い手首を、自分の方へと引き寄せた
一刻も早く、彼の願いが叶うように。
一刻も早く、自分に課せられた使命を果たせるように。
両足が地面の上をもがく。踵が何度も地面を抉る。
苦しい、苦しい、苦しい、と、自分の意思に反し、身体が勝手に暴れる。ともすれば自分の身体に覆いかぶさる男の腹を蹴飛ばしそうになる足を、意思を総動員して抑え付けた。
もう少し。
あともう少し。
視界がゆらぐ。
視界がぼやけてくる。
視界が暗くなっていく。
男の表情もよく見えなくなってしまった視界の片隅に、知らない男が立っている。