山間にあるその土地は大雨が続くと周囲の山々から雨水が集まり、田んぼの土手は崩れ、小さな川はたちまち氾濫してしまう。“突然の出来事”に、突然一人になってしまったその男は、黄色い雨着を着こみ、家族とともに守ってきた先祖代々の田畑を巡回していた。
件の小川の様子を見るため、田んぼと田んぼの間を通る小道を歩いていると、大粒の雨の向こう、川の畔に黒い影が見えた。
何だろう、猪か?と目を凝らす。
雨着の男は、走り出した。崩れた土手の修復用に持っていたシャベルを頭上に掲げて。
だめ。だめ。
少女は頭を横に振りたかった。
しかし首を男の両手が固定しているため、頭が動かせない。
喉を抑え付けられているため、声も出せない。
だから目で訴えるしかなかった。
やめて。邪魔をしないで。
裸に剥かれた少女に男が覆いかぶさっている。それだけでも十分に緊急事案だったが、男の両肩から伸ばされた手は、少女のか細い首を締め上げ、今にも砕いてしまいそうな勢いだ。見ると、少女が必死の形相でこちらに助けを求めているではないか。
雨着の男に躊躇う理由はなかった。持っていたシャベルを振りかざし、横薙ぎで男の側頭部を狙い打った。
自分の首を絞めていた男が、ボロボロに泣きながら首を締め上げていた男が、鈍い音と共に視界から消えた。シャベルを振り抜いた雨着の男は、さらに追撃を掛けようとしているのか、再びシャベルを振りかざしながら、視界の外へと行ってしまった。
途端に、潰されていた気道に空気が吹き抜け、猛烈な吐き気に襲われる。停滞していた血液が噴水のように脳を駆け巡り、凄まじい頭痛が走る。
弾かれるように起き上がった少女は、今度は地面に這いつくばり、背中と腹を大きく波打たせながら激しく咳き込んだ。
生理現象からくる涙が止め処なく目から溢れる。それを一生懸命拭いながら、男と、雨着の男が消えていった先を見た。
地面にひれ伏した男に、雨着の男が何度も何度も、シャベルを振り下ろしている。頭に、腕に、背中に、足に。まともに狙いも定めず、時には空を切って地面を抉りながら。何度も。何度も。
やめて。
叫びたかったが潰れた喉が声を響かせない。
身体で止めに入ろうにも、足がしびれて立ち上がれない。
少女が泥濘でもがいている間に、シャベルはさらに男の身体を痛めつけていった。
雨着の男は、痛めつけた男が動かなくなったのを確認して、少女の方へと駆け寄った。
「なんてこと…ああ、なんてこどだ。君、大丈夫か」
背中で雨を受け続ける少女の裸身を案じ、肩にでも掛けてやろうと思ったのか。男は自身が着る雨着を脱ごうとしながら、喉と胸を押さえ、咳き込む少女の側に跪いた。
途端に悲鳴。
ひっくり返り、尻餅をつく雨着の男。
その悲鳴に、俯いていた少女の顔が上がる。
「ああああ!!」
たちまち雨着の男の悲鳴が大きくなる。
雨着の男は尻餅をつきながら、ずるずると後退する。
雨着の男の腕が上がり、震える手が少女の顔を指さした。
「その目…!その髪…!」
ようやく吐き気が収まり、呼吸も落ち着いた少女は、胃酸の臭いと味に顔をしかめながら雨着の男を見た。
恐怖に慄く者の顔を。
「ああああ!!」
再び叫び出す雨着の男は、まるで化け物とでも相対しているかのように、腰を抜かしたままさらにずるずると後ずさる。
少女はそんな雨着の男に手を伸ばした。途端に、
「来るな!こっち来るな!」
その白くてか細い手が、死神の鎌にでも見えたのか。半狂乱に陥ったように雨着の男は叫び続けた。
「俺も連れていくのか!俺の家族のように、どこかへ連れて行ってしまうのか!」
少女が伸ばす手を振り払おうと、雨着の男はシャベルを握った腕をぶんぶんと振り回し、少女と距離を取ろうとさらに後退した。
だめ!危ない!
少女は叫びたかったが、潰された喉は一向に声を響かせてはくれなかった。
少女が伸ばした細く白い手の向こう。
雨着の男が、荒れ狂った川の中へと転がり落ちていく。
少女が落水した時よりも、川はさらに凶暴さを増していた。雨着の男の顔は、瞬く間に土色の水に飲まれ、消えてしまった。
ようやく踏ん張りを取り戻した足で立ち上がった少女は、すぐさま川下へと駆け出した。川は、50mほど下ったところで広がり大きく蛇行する。先刻はこの蛇行したところで葦の群れに引っ掛かり、少女は助かった。きっと雨着の男も。
そんな少女の期待はあっさりと裏切られる。細い脚を懸命に伸ばし、50mを一気に駆けた少女。しかし少女が辿り着いた先にあったものは、葦の群れも水没し、土色の水一色に染まった川面。方々に目をやるが、雨着の男の姿はどこにも見当たらなかった。
諦め悪く、少女はさらに川下へと駆ける。
見ず知らずの、名前どころか顔さえよく見ていない男を捜して駆ける。
だって…!だって…!
川沿いを懸命に走り続けて10分。
増水した川はついに氾濫し、周囲の放置された田畑に水が溢れ出している。
川の水が浸入している田んぼの隅っこに転がる、黄色い布にくるまれた物体。
目ざとく見つけた少女は、黄色い雨具に向かって田んぼの土手を滑り落ちた。
うつ伏せに倒れている男の雨着を引っ張り、ひっくり返す。
生気のない顔。真っ青な顔。
すぐに雨着の男の胸に、耳を当てる。
何も鳴らない。何も響かない。
すぐさま雨着の男の腹にまたがり、両手で男の胸を押した。
全体重を掛け、何度も何度も。
雨着の男の肋骨を突き破る勢いで、何度も何度も押し続けた。
極一部を除いて、他人の命に無関心だった少女が、見ず知らずの、名前さえ知らない男の止まった心臓に再び鼓動を宿そうと、懸命に、死に物狂いで押し続けている。
だって。
今、この場で、この瞬間に死ぬべき者は、この人じゃない。
人の生き死にに運命というものがあるのかどうかは知らないが、少なくとも、今、この瞬間、この場で死ななければならないのは、この人ではない。この人に死ぬべき理由はどこにもない。死ななければならない道理が一片もない。
今、ここで死ぬべき者は…。
死神の鎌が振り下ろされるべき者は…。
死を抱くのに、最もふさわしい者は…。
世界がその死を認め、
あの人がその死を望み、
自らもその死を受け入れている者は…。
何十回、何百回と押し続ける。叩き続ける。
雨着の男の胸が、命のリセットボタンであると信じて。
自分の命はリセットが効いた。
あの少年と一緒に押した世界のリセットボタン。世界ですら不完全ながらもリセットできたのだ。
きっと、この人の命もリセットが効く。そう信じて。
胸を押し続けて、叩き続けて。
それでも雨着の男の心臓が、再び動き出すことはなかった。
10分で駆けた距離を、30分掛けて歩いて戻る。
小道の端っこでは、男がうつ伏せに倒れている。
少女はゆっくりと男の側に膝を折り、男のシャツを引っ張って仰向けに転がした。
「…うう」
側頭部から伝う血。ボロボロのシャツの穴から見える、どす黒く腫れ上がった皮膚。両足は、ありえない方向に曲がっている。
「う…ぅ…」
それでも、男の口からは微かな呻き声が漏れた。
そうだ。この人も、今ここで死ぬべき人ではない。
今、ここで死ぬべき者、…それは。
少女は地面に投げ出された男の両手首を握り、持ち上げた。
力の入っていない、だらんとした腕。
腕の先の、男の両手を、自身の首へと持っていく。男の両親指が、自身の喉ぼとけに来るように。
男の腕を、ぐいっと引き寄せる。
男の親指を、自身の喉ぼとけに擦り付ける。
少し咳き込むだけ。
呼吸が苦しくなることもなければ、視界が暗転することもない。
今、死ぬべき者…。
…ここで、死ぬべき者。
目の周りが温かい。
雨で滲んでいた視界が、さらにぼやけて狭くなる。
それが生理現象によって目から溢れたものではないことくらい、少女にも理解できた。