告白   作:hekusokazura

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第三章 其の六

 それは、おそらくあの雨着の男の家なのだろう。田んぼを見下ろす丘の上に、ぽつんと立つ一軒の民家があった。雨着の男は点けっぱなしで出てきたのか、家の中には灯りが点っていたが、人の気配はない。

 前庭には白い軽トラックが駐車されている。鍵は挿しっぱなし。捻ってみると、ブルルンとエンジンの音が鳴り響く。運転席に乗り込み、薄い鉄板のドアを閉める。ハンドルを握り、シフトレバーを後退に入れ、ゆっくりとアクセルを踏んでみた。

 首を傾げた。

 エンジンの音は高鳴るのだが、軽トラックは動かない。少し強めにアクセルを踏んでみる。エンジンは吠えるのだが、やはり軽トラックは動かない。

 サイドレバーというものの存在をようやく思い出し、左手で運転席と助手席の間にあるレバーを握った。親指でボタンを押し、レバーを倒す。

 途端に、後ろに向かって急発進する軽トラック。

 何かを破壊する音、押しつぶす音。

 咄嗟のブレーキ。急制動する軽トラック。拍子に小さな鼻をハンドルにぶつけてしまう少女。

 痛む鼻を押さえながらバッグミラーを見ると、後ろにあった納屋が半壊している。

 シフトレバーを前進に切り替え、ブレーキペダルからアクセルペダルに足を乗せ換える。

 

 訓練の一環として自動車の運転の講義は受けてはいるが、実用車を運転する機会は殆どなく、もちろん軽トラックは乗るのも初めてだ。おまけにこの軽トラックはかなりの年季ものらしい。アクセルの踏み加減が分からない。

 そして運転席に座るその少女は、儚げな見た目と控えめな立ち振る舞いとは裏腹に、何事に対しても躊躇いというものを知らない性格の持ち主だった。

 

 玄関が全壊した。

 

 納屋、玄関、庭に停めてあったコンバインに大八車、物干し竿、鉢植えを破壊したところでようやく運転の感覚を掴み、ほどよい加減でアクセルを踏みながらハンドルを切って前庭から道路に出ると、丘から下る一本道をゆるゆると走っていく。

 

 何事にも躊躇わない性格の持ち主である少女だが、さすがに倒れている男の側に軽トラックを駐車させる時は慎重だった。

 運転席から降り、荷台からラダーレールを引き下ろし、地面から荷台へのスロープにする。

 自分よりも遥かに大柄の男のシャツを、うんせうんせと引っ張り、荷台へと引きずり上げる。右手人差し指と中指だけでなく、手の全ての指の爪がボロボロになった。

 もう何時間も雨ざらし状態の男に、ブルーシートを掛けてやる。

 運転席に乗り込み、丘の上の家に向かって軽トラックを出発させた。

 

 

 とりあえず、家の中で一番広い畳の部屋に男を寝かせる。

 人の住まいと言えば、自分が住んでいた集合団地のあの部屋と、女性上官のマンションの部屋しか知らない。一軒家の日本家屋というものに立ち入ったのは、これが初めてだった。

 それでも、脱衣所にタオルの類が置いてあるのは、どの家でも共通らしい。ある限りのタオルを持ち出し、男のもとへと戻る。

 

 痛みにうなされ続けている男の顔をタオルで拭いながら、側頭部の傷を別のタオルで圧迫する。白いタオルは、たちまち真っ赤になった。2枚目のタオルを傷に押し当てる。しかしこれだと片手が傷を押さえることだけに塞がれてしまい、びしょ濡れの身体を拭いてあげることがでいない。見ると、部屋の隅っこに粘着テープが転がっていたので、傷に押し当てたタオルごと、粘着テープで頭をぐるぐる巻きにした。近い将来、男の毛髪が悲惨な運命を辿ることを、この時の少女はまだ知らない。

 

 シャツを脱がせると、あちこちに痛々しく腫れあがった痣ができている。台所に行き、流し台の蛇口の栓を捻る。世間は色々と大変なことになっているらしいのでどうかと思ったが、蛇口から勢いよく水が落ちてきたのをみて、少女の顔に少しだけ安堵の表情が表れた。

 何枚かのタオルを水に濡らし、しっかりと絞ると、男のもとにもどって、熱を帯びて真っ赤になっている痣一つ一つに濡れタオルを押し当て、患部を冷やしていく。

 

 バスタオルで男の上半身を拭き終えると、今度はズボンを脱がす。途端に男のうめきが悲鳴へと変わる。少女は無視して強引にズボンを引っ剥がそうとしたが、ズボンは水分を吸って体に密着しているため、なかなか脱がせることができない。見ると、部屋の隅っこにハサミが転がっていたので、そのハサミを使って男のズボンをチョキチョキと裁断し始めた。異性の裸体と言えば、あの毛も生えそろっていないような少年の裸しか見たことがなかったので、ズボンの下から現れた毛むくじゃらの男の足を見た時、思わず、うっ、と呻いてしまう少女である。

 

 上半身も悲惨だったが、下半身も負けず劣らず悲惨なことになっている。

 右足は下腿がおかしな方向に曲がっていた。左足は膝がぐにゃぐにゃになっていた。どちらも痛々しく大きく腫れている。

 部屋の周囲をくるりと見渡す。

 それは見慣れぬ引き戸だった。格子状の木枠に真っ白な紙な紙が貼られた引き戸である。少女はその珍しい引き戸に歩み寄ると、木枠を手に取り、ガタガタと揺らしてみた。引き戸は思いのほかあっさりと外れた。

 引き戸の全面に貼られていた白い紙は全て正拳突きで破る。半壊した納屋から持ち出した鉈を、格子状の板に向けて何度も何度も振り下ろし、板の隅を削っていく。生まれて初めての「ドゥ イット ユアセルフ」に、慣れていない少女の手から鉈が何度もすっぽ抜け、園芸用の鉢を割り、襖を突き破り、時には畳みに寝る男の頭上の柱に突き刺さることもあったが、1時間掛けてどうにかこうにか引き戸を縦横1mくらいの大きさにまで小さくすることができた。

 部屋の窓に掛かったカーテンを引っぺがし、ハサミを使って手ごろな大きさに切る。

 小さくした引き戸を、男の下半身の下に敷く。男の両足に厚めのバスタオルをぐるぐる巻きにする。そして格子にカーテンの切れ端を通し、バスタオルでぐるぐる巻きにされた男の足を、さらにカーテンでぐるぐる巻きにする。男の両足首、両膝下、両膝上、両鼠径部、そして胴と、計9か所をカーテンで結び、その下の格子状の引き戸に固定して動かせないようにした。即席の添え木の完成である。

 

 家の奥に行くと、誰かの寝室と思しき部屋があった。部屋の端っこに畳まれた布団一式を運び出し、男が寝ている部屋へと運ぶ。雨に打たれてすっかり冷え切った男の身体に、布団を掛ける。

 

 男は明らかに重傷であり、本来ならすぐにでも病院に駆け込むべきであることは分かっている。そしてこの家には電話があり、救急車を呼ぶには「1」「1」「0」を押せばよいことくらい、少女も分かっていた。ちらりと見えた真っ黒な電話は、不思議なことにボタンがなく、何か丸い皿のようなものが貼り付けられていたような気がしたが、おそらくそれは見間違いなのだろう。

 だが、もしそれを実行すれば、結果的に男を窮地に陥れることになることも、少女は分かっていた。

 今、自分が男にしてやれることは、これまでだ。

 殺されてやることもできない自分ができることは。

 

 

 

 脱衣所に立つ。

 洗面台には、大きな鏡があった。

 

 薄汚れた鏡に映る少女。

 乾きかけのボサボサの頭。長時間雨に晒され、血の気を失っている肌。

 

 濁流の中に消えていった雨着の男の顔が思い浮かんだ。

 実際にはもう雨着の男の顔は忘れてしまっているため、土色の水の中に沈んでいく男の顔は、畳の部屋で横になっているあの人の顔だったが。

 

 あの人の顔が土色の水に沈みながらこう言っている。

 

 ―――その目!

 

 頬に手を触れ、下に引っ張ってみる。下目蓋が開き、中に収まる眼球がぎょろりと押し出される。

 眼球の真ん中には、血の色のような禍々しい瞳。

 

 あの人の顔が土色の水に沈みながらこう言っている。

 

 ―――その髪!

 

 ボサボサに逆立っている髪に触れる。髪を指に絡め、軽く梳いてみる。ブチブチっと音がしたので梳いた手を見てみると、指に何本もの髪が絡みついていた。

 指に絡みつく、色素が抜け落ちたような奇妙な色の髪。

 

 視線を手から鏡へと移す。

 あちこちに擦り傷や切り傷。わき腹に浮き出る肋骨。憔悴し切った顔。首には、人の手の形をした痣が、くっきりと張り付いている。

 どぶ川にでも打ち捨てられた、出来の悪い人形のような姿。

 そんな体のてっぺんに乗っかった奇妙な色の髪と、顔の一番目立つところに収まる禍々しい色の二つの瞳。

 

 しばらく見つめていると、鏡に映る奇妙な髪と瞳の女の顔が、自分に語り掛けてくるような錯覚に襲われる。

 

 誰?

 あなた、誰? と。

 

 奇妙な髪と瞳の女だけではない。その背後から、幾つもの顔が水の底から湧き出る気泡のようにうようよと浮かび上がってくる。

 

 それは自分たちを助け出してくれたあの運転手だったり、そのトラックでビスケットを分けてくれた老婆だったり、毛布を配ってくれた男性だったり、食料を配ってくれたお姉さんだったり、自分のフードを引っぺがした大男だったり、腕に縋りついて写真を見せてきた女性だったり。

 幾つも、幾つもの顔を浮かび上がって、そして皆が口々にこう叫んでいる。

 

 お前は誰だ! と。

 

 誰だ?誰だ?誰だ? の大合唱。

 

 

 奇妙な髪と瞳の女の視線に耐え切れず、少女は鏡から視線を逸らした。逸らした先には洗面台の棚。

 棚には歯磨き用のコップに、4本の歯ブラシ。歯磨き粉に櫛やカミソリ。そんな洗面用具に混じって、栗色のチューブ容器があった。チューブ容器には「ヘアカラートリートメント」と書かれている。

 

 

 チューブ容器の説明書きには「30分待ってください」とあったので、脱衣所に投げてあったヘアキャップを被り、その間家の中を回ってみることにした。

 一家は4人暮らしだったようだ。畳の部屋の棚に写真立てがあり、その中に収められた写真には中年夫婦に老婆、そして中高生くらいの女の子が映っている。写真の日付は一月前。全員笑顔。この数週間後に、ここに映る四人のうち、三人が忽然と消えてしまい、そして残る一人も濁流の中に消えてしまうことになるなど、誰も想像していなかったことだろう。

 

 そこはおそらく写真に写っていた女の子の部屋。

 ベッドに学習机。カーテンやベッドに敷かれた布団のカバーは、この田舎然とした家には不釣り合いなポップな柄をしている。

 同世代の女の子の部屋に入るのもこれが初めてだった。学習机の棚には教科書やノートではなく、おおよそ勉学に必要のないもののように思えるマスコットキャラクターの人形などの小物がずらりと並び、本棚は漫画本やCDが占拠している。

 そしてベッドの上には、淡い色をしたブラウス。ベッドの下には淡い色をしたロングのフレアスカート。

 整頓が行き届いている部屋にあって、その衣類だけは不自然にベッドの上と下に脱ぎ捨てられている。一方で、ブラウスはボタンが上から下まできっちりと留められたままだ。ブラウスとスカートが落ちている周辺は、何かの液体で出来たシミのような痕がある。

 おそらくこの部屋の持ち主は、この服に身を包んでいて、ベッドに寝そべろうとしたか、それともベッドから起き上がろうとしたその瞬間に、「あの時」を迎えたのだろう。

 部屋の持ち主に降りかかったことまでは想像ができるが、それ以上に部屋の持ち主について思いを馳せることができない少女は、部屋の持ち主の父親が「あの時」以来一度も手を付けることがなかったそれらの衣類を無造作に拾い上げ、部屋を出ていった。

 

 

 酷い疲れに眠りの底に引きずりこまれたかと思えば、全身に広がる熱と両足の激痛に強制的に覚醒させられる。

 何度目かの強制的な覚醒に頭を叩かれ、うっすらと目が開く。

 板張りの天井。

 視線を足もとに向ける。

 縁側のガラス戸。その向こうには、雨が降り続く外の世界が広がる。

 視線を左に向ける。

 仏壇がある。

 視線を右に向ける。

 

 部屋の奥の方に、誰かがいる。

 土色の壁に背中を預け、畳に腰を下ろし、膝を抱えて蹲っている。

 

 淡い色のスカートに、淡い色のブラウス。

 膝を抱える腕にスカートの下から除く素足。雪のような白い肌。

 

 そして、栗色の髪。

 

 狭かった視界が大きく広がった。

 瞼が、限界まで開かれる。

 焦点を合わせようと瞳孔が収縮を繰り返す。

 

 布団から這い出た。

 途端に下半身に違和感。下半身が何かに固定されている。

 それでも構わず、畳を這った。下半身を拘束する板状の何かごと、畳の上をずるずると這っていった。

 全身を焼く熱や足の激痛など、どこかに溶けて流れ出してしまったかのよう。

 

 手を伸ばせば触れるほどの距離。

 伸ばす手が震える。

 

 顔は見えない。

 栗色の髪で隠れてしまっている。

 

 栗色の髪に触れようとして、一瞬躊躇い、しかし意を決して、壊れ物でも扱うようにそっと髪に触れる。

 掻き上げられる栗色の髪。

 髪の向こうに、女性の顔。

 柔らかな曲線を描く小さな鼻。白磁のような頬。

 長く繊細なまつ毛に包まれた瞼は閉じられ、薄く開いた桃色の唇からは規則的に吐息が漏れている。

 

 視界がぼやけた。

 頬を、熱い液体が伝う。

 

 男は女性の髪を優しく愛しむように掻き上げると、さらに自身の身体を女性に寄せた。

 

 

 誰かの手が自分の髪に触れ、頬に触れている。

 触れる手の平はごつごつとしているけれど、その撫で方は限りなく優しい。

 誰かに呼ばれた気がした。

 眠りの底に落ちていた意識がゆっくりと浮上していく。

 目を開くと、視界一杯に男の顔が広がった。

 

 点滴や注射の太い針は何度も血管に突き刺されたし、細い管を鼻の穴や口の中に突っ込まれたこともある。異物が身体の中に進入してくるのには、慣れっこのはずだった。

 しかし、今、唇をこじ開け、口の中への進入を試みている、ぶよぶよとした生暖かい「何か」には、未だかつてない、強烈な嫌悪感が全身を駆け巡った。全身に鳥肌。髪の毛から産毛までが全て逆立ち、頭の血が一気に足もとまで引いてしまったかのよう。胃腸がひっくり返り、心臓が今にも破裂してしまいそうに激しく脈打つ。

 反射的に、固く口を閉じた。

 何としてもその「何か」の侵入を拒もうと。

 

 それが、人間同士において特別な想いを伝えあうための行為であることは、少女でも知っていた。

 でもこれは違う。

 何かが違う。

 これを認めてしまうと、もはや自分が自分でなくなってしまう。

 自分という存在が粉々に砕け散ってしまう。

 そんな予感に襲われた。

 それは言わば迫りくる存在の危機に対する純粋な防衛本能。

 この身体が、ここまで素直に自己保存のために力を尽くすのはこれが初めてだったかもしれない。

 

 頑なまでに閉じられた唇。

 「何か」は一旦少女の唇への進入を諦めたらしい。唇から感触が消えた。

 頬に、ぬるい感触。相手が、頬同士をくっ付けてきたらしい。相手の髭が、ちくちくと痛い。

 

 耳元で囁かれる。

 

 それは人の名前。

 

 この場には居ない人の名前。

 

 この世のどこにもいない人の名前。

 

 まがい物ではない、ホンモノの人の名前。

 

 砕ける。

 砕け散っていく。

 たった一言。

 その囁きで、心の壁が音を立てて崩れ去っていく。

 ホンモノの人の名によって。

 まるでホンモノの人が、私の胸に拳を振り下ろしたかのよう。

 粉々に砕かれた心の壁。

 壁が無くなり、無防備になった器に、それはいとも容易く侵入してきた。

 

 

 ―――私が溶けていく。

    私が壊れていく。

    私が無くなっていく。

 

 

 再び唇に生温かいものが触れ、「何か」が口の中へと進入を試みようとしてくる。

 

 もはや拒むことはできなかった。

 この身体は、拒むことをしなかった。

 

 相手の重みに押され、背中が畳に付く。

 覆いかぶさってくる相手の身体を受け止めるため、相手の背中に両腕を回した。

 

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