告白   作:hekusokazura

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第三章 其の七

「初診ですか?」

 受付のお姉さんの問いに、どう答えてよいのか分からず、ぽかんとしたままお姉さんを見つめる。

「この診療所は初めてですか?」

 頷く。

「それではこちらにお名前を書いて、それと保険証をお願いします」

 首を傾げる。

「健康保険証はお持ちでないですか?」

 再度、首を傾げる。

 

 軽トラックに乗り込み、来た道を引き返す。

 峠道を越え、1時間掛けてたどり着いた町。小さな町なので、医療機関を探し出すのには苦労しなかった。世界的な混乱の中で通常営業しているのは珍しいのか、小さな町にも関わらずその小さな診療所には多数の外来患者が詰めかけており、受付のお姉さんにたどり着くまでに30分も待たされる羽目になった。ところが、ようやく順番が回ってきたところで、受付のお姉さんに「ケンコウホケンショウ」なるものの提示を求められてしまったのである。

 その特有の体質と職業柄のため、少女にとって医療機関とは2番目の我が家と言えるほどに馴染み深いものであったが、受診・入院先はいつも組織内にある病院だったため受診も入院もフリーパスであり、受診のための手続きなどしたことがないし、「ケンコウホケンショウ」なるものも見たことがなかった。

 峠道を越え、丘の上の一軒家に戻る。軽トラックの運転にも慣れたもので、丘までの細い坂道を、次に出掛けるときに出易いよう、バックで上がった。

 

 軽トラックから降り、その光景を見たときには少し呆れてしまった。

 前庭で、男が地面に這いつくばっている。下半身を格子状の板に固定されたままで。

 軽トラックから降りてきた少女を見るなり、

「ユイ!どこに行っていたんだ!」

 と怒鳴り散らす男。

 

 少女が少しでも姿を消すと、男は彼の妻の名を叫びながら、重傷の身体を引きずって家の中を這いまわっていた。格子状の板を引きずりながらのため、家の畳や床、壁のあちこちに傷ができている。これではおちおちトイレにも行けやしない。(ちなみにそのトイレは少女が見たこともないような形のトイレだったので、未だにどう座ったら正解なのか分からないでいる)

 この日はこの家に居候を始めて以来、初めての外出だった。男を留守番させることに不安はあったが、街まで彼を連れ出すわけにもいかなかった。

 

 男を布団に寝かしつけると、家の中を「ケンコウホケンショウ」を求めて探し回る。お姉さんの口ぶりからすると、「ケンコウホケンショウ」なるものは誰もが当たり前のように持っているものらしい。

 世間知らずではあってもそれなりに聡い少女は、「ケンコウホケンショウ」が誰でも当たり前のように所持しているものなのであれば、そして病院の受付で受け渡しするようなものなのであれば、それはそんなにかさ張るようなものではなく、おそらく手のひら大に収まるようなもの、例えばカードのようなものではないかと推理した。そうであれば、保管していそうな場所はある程度絞られてくる。家の中の戸棚や、小物入れを中心に探していく。探し始めて30分。ようやく「国民健康保険証」と書かれたカードを探し当てた。保険証にはそれぞれ個人名や生年月日、住所などが書かれてあり、そこで初めて少女はその保険証が単に皆に配られているものではなく、一人ひとりが自分専用のものを持っていることを知った。つまりこの保険証は、かつて少女が組織本部に出入りする時に使っていたIDカードと一緒で、本人以外の者は使えない仕組みになっているようなのだ。幸いなのは、この保険証には顔写真が貼られていないことであり、また機械に通さなければならないような読み取りコードがないことだった。

 その家では一家全員のものを一まとめに保管していたらしい。4枚の保険証のうち、自分と性別が同じで歳が近い生年月日のものを選び出す。

 

 

 翌日。

 出かける準備を整えた少女は、男が寝る布団の側に膝を折った。

 男は布団の中でうんうんと唸っている。昨日、無理に動いた所為で、少し引いていた熱がぶり返したらしい。深刻なのは両足の骨折で、折角添え木で固定していたのに、縁側から庭に落ちた衝撃でさらに患部に損傷を受けたようで、どちらもさらに腫れ上がり、強い熱を帯びている。

 しばらく男の額を撫でていると、その手を男が握ってきた。

 縋りつくような、男の眼差し。

「…ユイ。…俺を見捨てないでくれ…」

 

 軽トラックの薄いドアを開ける。

 乗り込もうとして、ふと、庭の隅に転がっているコンクリートブロックが目に入った。

 乗り込むのを止め、ブロックに歩み寄る。

 しばらく足もとのブロックを見下ろす。

 顎を上げ、顔を横に向け、縁側のガラス戸の向こうに見える、畳に敷かれた布団に目をやる。布団の隙間から覗く、男の足。

 再びブロックを見下ろす。

 

 前屈みになり、ブロックを両手で抱える。ブロックを腰の位置にまで持ち上げると、一旦右膝をブロックの下に入れて支えとして一息つく。少なく見積もっても20kgはあるブロック。生まれてこの方学生鞄以上に重いものを持ったことがない少女にとっては、未知の重さであった。そのブロックを、そこからさらにうんせと抱え上げ、右肩に乗せる。

 両手と肩で何とかそのブロックを支える少女の顔は真っ赤になり、両手はぷるぷると震え、足もとは今にも転倒してしまいそうなほどにふらふらだった。

 痩せた頬を大きく膨らませ、何回か深呼吸し、おへその下に力を込めると、何とか姿勢を正す。

 少しブロックの重さに慣れてきた少女は、姿勢は正したままで目だけを動かした。

 視線の先には、少女の左足。

 

 少女はそれが必要であると認識したら行動に移すのに一切の躊躇いを持たない性格だった。

 そして少女の身体は、あらゆる痛みに慣れっこだった。

 

 ブロックを、左足の甲に向けて落とした。

 

 

 

 

「ヤマモトヒロコさん」

 看護婦の声が、待合室に響く。

「ヤマモトヒロコさん」

 もう一度。

「ヤマモトヒロコさん、居ませんか?」

 さらにもう一度。

 少女は慌てて長椅子から腰を上げた。

 

 受付のお姉さんにその保険証を差し出した時、少女は珍しく緊張していた。嘘がバレてしまったら。そして事が大きくなってしまったら。

 ところが、お姉さんは保険証を受け取ると疑う素振りなど一切見せず、保険証に書かれた番号をコンピューターに打ち込みながら、「お名前が呼ばれるまでそちらでお待ちください」と長椅子に座るよう勧めてきた。拍子抜けするほどにあっさりと、受付を通ってしまったのである。

 

 受付があっさりとしていたのなら、診察もあっさりとしたものだった。以前、別の病院で薬を処方されていたと説明したら、眼鏡をかけた老人医師は何の検査もせずにあっさりと「では同じものを出しましょう」と答えてくれた。続いて痛々しく腫れあがった左足の甲を見せたら、「では鎮痛剤と湿布を出しましょう」と、ろくに検査もせずにあっさりと薬を出してくれた。それなのに「えらい目が真っ赤ですね。大丈夫ですか?」という余計な問診をしてきたので、「寝不足」と答えて誤魔化した。

 

 左足を引きずりながら軽トラックに乗り込み、峠を越え、丘の一軒家へと戻る。軽トラックの運転にも慣れたもので、以前は片道1時間掛かっていたものが30分で行けるようになり、つづら折りの峠道は一度もブレーキを踏まなかった。

 

 家にたどり着くと、この日も布団から這い出ていた男が少女を出迎えた。ただし今回はありとあらゆる出入り口に鍵を掛けていたので、庭にまで這い出ることはできなかったようだ。

 ガラス戸の向こうの縁側で仰向けに倒れている男は、少女の姿を見るやいなや、

「ユイ!どこに行っていたんだ!」

 とお決まりのセリフ。

 病院に行っていたことを説明すると、途端に心配そうな顔をする。

「…どこか具合が悪いのか?なんだその目は!真っ赤じゃないか!」

 自分のことは「寝不足」と答えて誤魔化し、男を布団に寝かしつけ、そして診療所で貰ってきた鎮痛剤を男に飲ませ、湿布を男の患部に貼った。

 

 

 

 死者への弔いとは何か。

 それを理解するには、少女は圧倒的に経験が足りなかった。ただ、この国では人が死んだら火葬にしなければならない、ということは知っていた。

 

 軽トラックで川沿いの道を走り、目的の場所で停める。トラックの側には、黄色い布に包まれた何か。運転席から降りた少女は、黄色い布の側に歩み寄る。撥水加工された黄色い布をはぎ取ると、そこには男の顔。腐敗がかなり進み、青紫色の肉の下から白い骨が露出した男の死体。布をはぎ取った瞬間、死体に集っていた大量の虫が宙に舞い始める。

 少女は軽トラックの荷台からラダーレールを下ろすと、死体を黄色い布ごと引っ張った。腐敗が進んだおかげで死体は随分軽くなっており、左足を痛めた少女の細腕でも何とか動かすことができた。うんせ、うんせとラダーレールの上に死体を滑らせていく。最初は自分の顔にも集ってくる虫たちを手で一生懸命払っていたが、払っても払ってもしつこく集ってくるので、死体をレールの半分まで引き上げた時にはもう諦め、鼻に入ろうが耳に入ろうが好きにさせてやっていた。異物が身体の中に入ってくるのは慣れっこなのだ。

 運転席に乗り込み、丘の上の一軒家に向かう。

 

 一軒家が見えたところで、少女はすぐにブレーキを踏んだ。そして、そっとエンジンを切る。ハンドルに隠れるように、身を低くした。

 少女の視線の先。丘の上の一軒家に向かう一本道を、知らない軽トラックが走っていた。

 

 軽トラックから降りた少女は、走って丘の上の一軒家に向かう。走るといっても左足を庇いながらの今の少女の走りは、常人の早歩き程度にしかならなかった。

 正面の一本道は目立ちすぎる。丘の裏手にある、細い道を使って一軒家へ。

 家が近づいてくると、男たちの声が聴こえ始めた。

 

「なあ、ヤマモトさんはどこに行ったんだ」

「あんたは何もんなんだ。なんでヤマモトさんちに居る?」

 

 誰かを問い詰めるような声。それらに混じって、

 

「知らん!知らん!ユイ!ユイはどこだ!」

 

 あの人の声が聴こえた。

 裏庭から家の敷地内に進入すると、生垣の陰からそっと家の中の様子を覗った。

 

 いつも男が寝所として使っている畳部屋で、2人の作業着を着た中年男性が、男を囲んで立っていた。作業着の男たちは、何を聴いても「知らん知らん」と繰り返す、最近になってようやく添え木代わりにしていた格子状の板から解放され、テープでガチガチに下半身をテーピングされた男に、途方に暮れている様子だ。そして「出ていけ」と怒鳴っている男に、片方の作業着の男は自分の頭を人差し指でさすと、それをクルクルとさせ、最後にパーとしてみせ、それを見ていたもう片方の作業着の男も、それに同意したかのように肩を竦めてみせた。

「あれか。「あの後」でキチ〇イになった奴が大勢居るって話だが、こいつもそのクチか」

「だろうな。とりあえず、救急車でも呼ぶか。酷い怪我しているぞ、こいつ」

「いやいや、それよりも警察に通報した方がいいんじゃないか。ヤマモトさんに、こんな知り合いが居るなんて聞いたことないぞ」

「そうだな。最近、空き家を狙った空き巣や不法滞在が多いって言うしな」

 

 少女は転がるように坂を下っていく。実際に坂の最後の3分の1は、痛めた左足がつんのめってしまって、コロコロと転がりながら下っていったが、痛めた足で下るよりは転がって下った方がむしろ速くて好都合だった。

 あちこに擦り傷や打ち身を作った身体で軽トラックに飛び乗る。実際には痛めた左足を庇いながらのそのそと運転席に這い上がったのだが、本人のイメージでは飛び乗った感じで運転席に座った。シートベルトを念入りに締めた。

 バックミラー越しに、背後の窓ガラスから荷台に乗せられた黄色い布に包まれた「それ」を見る。

 心の中で、ごめんなさい、と呟いた。

 

 

 作業着の男の一人が、携帯電話を耳に当てている。しかし、

「だめだ。ここ、携帯電話が繋がらん」

「俺のもだ。どっかに宅電ないかな?ん?」

 作業着の男の一人が、何かに気づいて縁側の外に目を向けた。途端に、

「わ!わ!わ!」

「え?何?どわああああああ!!!」

 

 2人の目に、前庭を突っ切って、こちらに突っ込んでくる軽トラックが映りこんだ。

 

 凄まじい衝撃。その衝撃を予想してハンドルを握る両手にあらん限りの力を籠め、耐えようとしたのだが、全速の軽トラックで家に突っ込むという衝撃は少女の細腕に籠められた力をいとも簡単に粉砕。小さな身体が前後に激しく揺れ、少女の頭は固いハンドルと固いヘッドレストの間を何度も行き来した。もちろん、エアバッグなんてこ洒落たものはこの20年落ちの軽トラックは備えていない。ひしゃげるボンネット。全面に白いヒビが広がるフロントガラス。

 朦朧とする意識を懸命に叱咤する。

 霞む視界で、周囲を確認した。

 縁側を突き破り、ガラス戸を粉砕し、畳の上に乗り上げ、部屋の奥まで到達した軽トラック。その軽トラックを挟んで、左側に腰を抜かして畳に座り込んでいる作業着の2人。右側に、やはり腰を抜かして目を丸くしている男。この軽トラックは、なかなかに都合の良い場所に突っ込んでくれたらしい。

 少女は歪んでしまったドアを体当たりするように強引に開けると、外に滑り落ちた。

「ユイ!」

 運転席から降りてきた栗色髪の少女を見て、すぐさま声を張り上げる男。そして、

「ユイ!どこに行っていたんだ!」

 と、お決まりのセリフ。

 全身に痛みを感じながら這い上がるようにして何とか立ち上がった少女は、男の問いは無視して、軽トラックで突貫する前にダッシュボードの中から回収し、スカートのポケットに入れておいたものを右手に握りしめる。

 赤い筒状のもの。筒の蓋を開けると、蓋に貼られている擦り板で、筒の先端をザっと擦った。たちまち、先端から真っ赤な火を上がる筒状のもの。

 少女は、火が点いた発炎筒を高々と掲げた。

 「色々なもの」が欠落してしまった男だが、仁王立ちする少女が右手に握った光る筒状のものを高々と掲げるその様は、彼が幼少期に熱中した光の戦士の変身シーンにそっくりで、心のどこかからか湧き上がってくる感動に男は目を潤ませていた。左手が腰に当てられていたならばもう完璧であったのだが、そんなことはどうでもいいし知ったことではない少女は、すぐに身を翻すと、火花を上げている軽トラックに駆け寄り、給油口を開け、火が点いた発炎筒をその中に放り込んだ。

 再び身を翻し、男の方に向かって飛び込む。続けて襲ってくる衝撃から男を守るように、男に覆い被さった。

 

 少女の背後で爆発音。

 一瞬の閃光の後、猛烈な炎と黒煙を上げる軽トラック。

 火の粉が飛び散り、男の上に覆いかぶさった少女の身体の上に降りかかる。身に纏っていたブラウスとスカートのあちこちに、火が点いた。少女は畳の上を転げまわって服に点いた火を消すと、軽トラックに乗って光の戦士が現れたと思ったら突然の爆発という訳の分からない状況に半狂乱に陥っている男のシャツを引っ掴み、畳の上をずるずると引きずっていく。途中、戸棚に置いてあった薬袋を掴み、両手を自由にするために薬袋を口に咥えた。爆発炎上する軽トラックの向こう側では、やはり半狂乱に陥っているらしい作業着の2人の喚き声が聴こえた。

 

 それは文字通りの火事場の馬鹿力であった。

 少女はその細腕で、痛めた左足で、一人ではまともに動けない男を炎上する家から引きずり出すと、作業着の2人が乗ってきた軽トラックの助手席に男を引きずり上げた。自らは運転席に乗り込むと、挿しっぱなしのカギを捻り、エンジンに火を入れ、シフトレバーを後退に入れ、今回は忘れずにサイドブレーキも外すと、思いっきりアクセルを踏んだ。

 丘を下る一本道を土煙を上げながら猛烈な勢いで後退する軽トラック。

 どんどん小さくなっていく丘の上の一軒家。

 その家から、這う這うの体で逃げ出しているただただ気の毒な作業着の2人。

 大きな炎と黒煙に包まれる家。

 炎の中心には、家をめちゃめちゃに破壊し、潰れてしまった軽トラック。

 その荷台には…。

 

 これはこれで、火葬になっただろうか。

 

 などと少女は頭の隅っこで考えながら、ハンドルを切った。 

 

 

 

 真夜中の山道を走る。あの炎上した家から飛び出してから、一度も休憩せずに。

 いくら少女が世間知らずだったとて、これだけの騒ぎを起こしてしまったら、もうあの地には居られない、どこか遠くに行かなければならないということくらいは理解できた。

 あの丘の上の一軒家に住み着いて約2月。人通りが皆無な山間のたった一つの家。蛇口を捻れば水が出るし、スイッチを押せば電灯がつくし、半壊した納屋を捜せば収穫したばかりの野菜があったり台所の戸棚には日持ちのする食品があったりする。

 その小さな住まいは、2人にとっては安住の地となる予定だった。

 あの家で、あの人の世話をしながら、時々軽トラックで街に買い物に出て、薬が無くなる頃にはコンクリートブロックで左足をしっかりと潰した上で診療所に行って、「ヤマモトヒロコ」を名乗る。あの家に住み着いて、約2月。ようやくこのルーティンに慣れてきた頃だった。これからも、ずっと、ずっとこのルーティンを繰り返しながら生きていく。それは決して愉快な未来予想図ではなかったが、そう生きていくことで、少なくともあの人の身の安全は確保できたかもしれなかった。

 でも、もうその甘い考えは捨てなければならない。

 

 一晩中山道を走り通して、目がしょぼしょぼしてきた。隣を見ると、件の男は狭い助手席で器用に身体を畳んで、すやすやと眠りこけている。

 ずっと田舎の細道を走ってきたが、やがて幹線道路と合流。大きな道路に出ると、あちこちで衝突事故を起こしたクルマが放置されていて、道路を狭くしていた。それらのクルマを縫うように慎重に軽トラックを進める少女。前方に、それなりに大きな街が見えてきた。

 

 街に入る前の、まだ周囲には田舎の空気が残っている郊外の道端で、少女は軽トラックを停めた。

 そこで、夜になるのを待った。

 

 闇の中を、じっと見つめる。

 田んぼや畑の合間に点在する民家。その中から、昼間から人の出入りがなかった家のうち、夜になっても明かりが点いていない家を探す。

 一つの家に目星をつけ、ヘッドライトは消したままで軽トラックをゆっくりと走らせた。

 

 呑気に眠っている男は助手席に残しておき、一人で暗闇の民家へ向かった。

 玄関には鍵が掛かっていなかった。玄関にはいくつかの靴が並んでいた。でも、家の中に人の気配はない。家に上がり、廊下の奥へと向かう。

 

 それは、おそらくこの家の食卓。

 台所の中央に置かれたテーブル。テーブルには、真ん中に大皿、大皿の両脇に中皿、それらを囲むように、茶わん、取り皿、箸。大皿の上には何かの根菜類を煮込んだものが盛られ、両脇の中皿の片方には菜っ葉、片方には柔らかく白い塊のような何か。そして茶わんにはそれぞれ白米が盛られ、取り皿には大皿や中皿からめいめいが取ったと思われる煮物や菜っ葉、白い塊が乗せられている。箸は、不自然にテーブルの上に散らばっている。そしてテーブルに付けられた4つの椅子には、脱ぎ散らかされたかのように、服が、下着も含めて上下一式投げられていた。

 

 それらを確認した少女は思った通りだと心の中で安心した。そして幾つかの戸棚を確認し、「ケンコウホケンショウ」を捜し出しすとそれをスカートのポケットに入れ、次にボストンバッグを拝借し、続けてタンスを開けて当面の着替えなどをバッグに詰め込んだ。食卓の上のものはすっかり腐っていたが、冷蔵庫の中身は無事なものもあり、幾つかの食品をバッグに詰め、それを肩に抱えると、家を出て軽トラックに向かった。

 

 トラックに乗り込み、エンジンを点ける。

 エンジンの音と、エンジンの揺れに、眠りこけていた男が目を醒ます。

「…ユイ。…今日は、どこに行こうか?」

 家族旅行に行っている夢でも見ていたのだろうか。

 栗色髪の女の小さな口が開く。

「……どこに…行きましょうか?」

 遠慮がちに、隣の男に問うてみた。

 男は身じろぎをしてお尻の位置を変えて、再び目を閉じる。

「どこでもいい…。君となら…」

 落ち着いた低い声でそう呟く男。

「…そう…ですか」

 やはり遠慮がちに返事をする栗色髪の女。

「ユイ…」

 男が呼んでいる。

 今まで聴いたことがない、穏やかな男の声。

 「記憶」の中に刻まれた、男が「私」を呼ぶどんな声よりも遥かにずっと、ずっと、ずっと、ずっと、慈しみに満ち溢れた声。

 運転席に座る栗色髪の女は返事をしない。

 男はすでに微睡みかけている。そして、ぼんやりとした声で。

「ユイ…、ずっと…一緒だぞ…」

 

 少女は少しだけ、下唇を噛んだ。

 0時の位置でハンドルを握る両手が、微かに震えた。

 少女の控えめな喉ぼとけが大きく上下し、生唾を飲み込む。

 胃の中に落ちた生唾に逆らうように、胃の底から何かが溢れ出てきそうで、少女は思わずハンドルを握る手に額を当てた。

 細い肩が小刻みに震える。

 

 少女の口が静かに開いた。

「…司令…」

 男の名を呼んでみた。

 それはほんの数カ月前。あの組織がまだあった頃、男の肩書がそうであった頃に、あの人に声を掛ける時と同じ口調で、呼びかけてみた。

 返事はない。スヤスヤと、寝息が聴こえてくる。

「…碇…司令…」

 再度呼んでみる。やはり返事はない。

 少女は構わず続けた。

 

「…司令、…なぜ、私を…造ったのです…か?」

 その問い掛けに、答える者は居ない。

 

「…なぜ、…私を、…あの人の身体に…放り込んだのですか?」

 その問い掛けに、答える者は居ない。

 

「…人類を、完璧な個体へと昇華させる…。それが…あなたの補完計画では…なかったのですか?」

 その問い掛けに、答える者は居ない。

 

「では…なぜ…、あなたが造った人間は…、…こうも不完全な…出来損ない…なんですか?」

 その問い掛けに、答える者は居ない。

 

「…どうして、…私を…造ったのですか…?」

 その問い掛けに、答える者は居ない。

 

「…私は、…これからも…人として…、…生きることが…できるのでしょう…か?」

 その問い掛けに、答える者は…。

 

「…だ…」

 助手席の方から声がして、驚いた少女は伏せていた顔を上げ、隣を見た。

 いつの間にか目を開いていた男が、じっとこちらを見ている。てっきり男は寝込んでいると思っていた少女は、今の独白を聴かれたかと思い、何度も目を瞬かせた。

 男は、じっと、強い眼差しで、しかしそれは決して以前の鋭い睨むようなものではない、抱擁感のある柔らかな眼差しで、少女を見つめていた。

「…大丈夫だ…」

 男からの意外な一言に、少女ははっと息を呑む。

 男から向けられる柔らかな眼差し。その顔はあの時と。あの灼熱と化した鉄の器の中で、扉をこじ開けて自分の安否を確認し、安心したようにほっと溜息を吐いたあの時の顔と重なった。

 少女はそんな男の表情を懐かしく思い、まじまじと男の顔を見つめていたが、しかし男は眠気に誘われるままに目を閉じ、羽織っていた毛布を被り直し、身じろぎをして少女とは反対の方へと顔を向けてしまった。

 男は小さく欠伸をしながら続けた。

「…太陽と、…月と、…地球があれば…、人は…生きて行ける…」

 

 少女は左手で自分の胸を押さえた。

 小さな心臓が、トクトクと、いつもよりも明らかに強めの鼓動を打っている。

 指示、命令、時々の体調に対する気遣い。この人の口から、それら以外の言葉を掛けられたことがなかったから。まさかこの人の口から、こんな抽象的で感傷的で詩的な言葉を、自分に対して掛けられるとは思っていなかったから。

 

「…碇…司令…」

 気が付けば、自分にしては珍しく少し熱っぽい声で、隣に座る男の名前を呼んでいた。

 目頭が熱くなるのを感じた。

 

 すでに半分眠りかけている男は、少女に背を向けたまま言った。

「…そう言ったのはユイ。…君じゃないか…」

 

 栗色髪の女は男から視線を外し、フロントガラスの向こうに見える暗い田園風景に目を向けた。

 運転席の薄い背もたれに、深く、深く、背中を預ける。

 

「…そうでしたね、…あなた…」

 

 シフトレバーを前進に入れ、サイドレバーを下ろし、ハンドルを切りながらアクセルを踏む。

 やや乱暴な出発に、眠っていた男の額が窓ガラスに当たった。

 

 

 

 

 

 世界中から、大量の人が消えたままらしい。

 この国も、3割以上の人々が居なくなったままらしい。

 こんな情勢の中で、他人の名前と身分を手に入れるのは簡単なことだった。

 「ゼイキン」と「ホケンリョウ」さえ収めていれば、何も疑われなかった。

 

「オオツカノリコさん」

 

「テラダヤヨイさん」

 

「シミズエリさん、でしたっけ?どんな仕事を希望ですか?」

 

「ササキカナさん」

 

「はーい、今日から入りましたミズタニノアちゃんでーす。皆さん可愛がって下さいね~。ほら、ノアちゃん、挨拶して。…ほら、何やってんの?挨拶は?ちょっと…!」

 

「だからねユウミちゃん。紫外線を甘く見ちゃいけないのよ。その油断が将来大きなしっぺ返しを呼ぶことになるの」

 

「エンドウミチルさん」

 

「シノザキアユミさん」

 

 知らない名前。

 他人の名前。

 一定期間を過ぎたら、捨ててしまう名前。

 

 自分が自分でなくなる感じ。

 

 自分が消されていく感じ。

 

 私は誰?

 

 私は誰?

 

 私は誰?

 

 あなたは誰? 

 

 

 周囲の人々が私を呼ぶ名前が次々と変わっていく中で、あの人だけは、いつも同じ名前で私を呼んだ。

 

「ユイ」 と。

 

 時に愛しむように、時に甘えるように、時に優しく、時に激しく。

 「ユイ」と呼んだ。

 

 

 真綿で少しずつ首を絞められているような感じ。

 

 足から少しずつ肉をそぎ落とされていくような感じ。

 

 ホンモノの人に、少しずつ自分が乗っ取られていくような感じ。

 

 

 それは少女にとって、未だかつてない苦しみであり、最も深刻な罰だった。

 

 

 

 

これは罰? 

 

ええそう。これは罰。

 

罪びとであるワタシの、存在そのもに対するこれは罰。

 

 

 

 

 ではこれは?

 

 

 これは一体何に対しての罰?

 

 

 

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