告白   作:hekusokazura

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第三章 其の八

 

 

「綾波…」

 

 

 

 それは5年ぶりに人の声から聴く音だった。

 

 今や、それが本当に自分の名前だったのかどうかすら記憶が怪しい。

 

 でも、彼が呟いてくれた音。

 

 それは、紛れもなく私の名前。

 

 

 外で洗濯ものを取り込んでいたら小屋の方から何やら怒鳴り声が聴こえたため、最近少なくなっていた癇癪がまた出てきたのかな?とドアを開けたら、彼が立っていたのでとてもびっくりした。

 しかし驚いた以上に、彼の声で数年ぶりにこの世界に響かされたその音は、私の凍てついた心を少なからず震わせた。

 

 

「綾波は…大丈夫なの?」

 私の名前を呼びながら、私の身を気遣ってくれる彼の声が嬉しかった。

 なぜ、ネギのことを訊こうとしてきたのかはよく分からないけれど。

 

 

「一応聴くけど、ちゃんと毎日洗ってるよね?」

「農作業中はちゃんと日焼け予防はしている?」

「手もほら。荒れ放題じゃないか」

 あれこれ世話を焼こうとしてくれる彼の態度はちょっと鬱陶しかったけれど、でもこのやり取りは何かしら懐かしいものを感じた。

 

 

「アスカは凄いんだよ」

「トウジもすごいよ」

「ケンスケは…」

「洞木さんは…」

 

―――私は、あなたが知っている綾波レイではない。

 

 私の知らな人たち。知っているけど知らない人たちの話を嬉々として喋る彼の姿はちょっと不愉快で、だからあんな冷たいことを言ってしまった。

 

 

 小屋の中から。壁の向こうから、私を呼ぶ声がする。

 私ではない、ホンモノの人の名前で、私を呼ぶ声がする。

 戻らなくてはならない。

 私ではない、誰かに、戻らなければならない。

 

 ―――手が震えた。

 

 

―――あなたが、許してくれさえしたら。

 

 なぜあんなことを言ってしまったのだろう。

 私に許しを求めることなんて、許されないはずなのに。

 

 

「食卓を囲んで話そうじゃないか」

 あの人のその提案にはひたすら戸惑ったし、彼の奇妙な笑顔もどこか気味が悪かった。

 でも、彼と、彼の父親と、そして私と。

 3人で囲む食卓。

 その光景を想像すると、いや、想像しようにも想像できなかっけれど、その想像できない光景が待っていると思うと、心の中が少しだけ温かくなるのを感じた。

 

 

 あっ。

 そうか。

 

 きっと、そう。

 

 それは私には許されないことなのだ。

 罪びとである私には許されないことをしようとしてしまい、想像しようとしてしまい。

 

 これはきっと、その罰なんだ。

 

 そうかしら。

 よく分からない。

 

 

 でも、これだけは分かった。

 

 それはこの身体に魂を放り込まれたあの日以来、繰り返してきた問い。

 

 この手に掴めそうで、でも掴みかけたそれが本当に正しいものなのか確信が持てなくて、今日まで宙ぶらりんのままで来てしまった私の存在意義。

 

 

 何のために、私は生きているのか。

 

 その答えが、今、目の前に横たわっている。

 5年間積み重ねてきた私の「生」の行きついた先が、目の前に横たわっている。

 それが本当に正しいことなのかどうかも分からず、遮二無二、必死に守ってきたものの成れの果てが、目の前に横たわっている。

 

 何のために生きているのか。

 

 それは…。

 

 それは彼と。

 

 彼の父親とを。 

 

 引き合わせるため。

 

 「あの日」以来、離れ離れになってしまった彼と彼の父親とを。

 いや。もしかしたら、彼の母親が消えてしまったその日から離れ離れになってしまっていた、彼と、彼の父親とを、引き合わせるために、私のこの「生」はあったのだ。

 

 そして、意味も分からずに生きてきた5年間のその結果が、目の前に横たわっている。

 「結果」とは、即ち「答え」。

 答えは出た。

 これだけは、間違いない。

 

 地下で見つけたあの人。

 あのまま放っておいたら、地下の空間が崩れて死んでしまっていたあの人。

 トラックを呼び止めなければ衰弱で死んでしまっていたあの人。

 食糧を調達してこなければ栄養失調で死んでしまっていたあの人。

 川に飛び込まなければ濁流に飲まれて死んでしまっていたあの人。

 雨着の男を濁流に落とさなければ死んでしまっていたあの人。

 

 何度も何度も命の危機に晒されたあの人。

 その度に、守ってきた。

 それが本当に正しいことなのか、必要なことなのか、あの人自身がそれを望んでいるのかも分からないまま、とりあえず、成り行きで、たまたま側にいたから、だから懸命に守ってきた。

 あの人を生きながらえさせるために、世間から身を隠し。

 あの人を生きながらえさせるために、働き。

 あの人を生きながらえさせるために、身の回りの世話をした。

 

 あの人を生きながらえさせるために。

 生きさせるために。

 

 そして。

 

 

―――あなたに、殺させるために―――

 

 

 ごめんなさい。

 

 ごめんなさい、碇くん。

 

 私がしてきたこと。

 

 誰に命じられるでもなく、求められたわけでもないのに。

 あの人には一度首を絞められるほどに拒絶されたのに。

 他にすることがなかったから、仕方なく、ただ続けてきたこと。

 

 あの日以来、私がしてきたこと。

 

 それは。

 

 あなたに、

 

 あなたの父親を、

 

 殺させることになってしまった。

 

 

 ごめんなさい。

 

 

 碇くん、…ごめんなさい。

 

 

 

ああ。分かった。

これは、その罰ね。

 

 

そう。これは罰。

 

目に映るあらゆるものに無関心を決め込み、

 

ただ言わるがまま、流されるがまま、

 

全ての判断を他者に委ね、

 

自らは何も考えようとしなかったワタシ。

 

ワタシの生き方に対する、これは罰。

 

 

 

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 

 私の罪は、あたなの身に消しようのない深い傷痕を残してしまった。

 

 

 

 

 冷たくなっていく男の手を握る。

 男の顔に、苦悶の表情はない。

 日ごろから傾眠がちな人だった。きっと微睡んでいるときに逝ったに違いない。

 おそらく正確に心臓のある位置を狙った3発の弾丸は、撃たれた本人が撃たれたことを自覚しないうちに彼の生命を消し去ったに違いない。

 優しい心の持ち主である彼らしい配慮だと思った。

 頭を狙えばもっと簡単だったろうに。無駄に身体と部屋を汚すまいとするのも彼らしい。

 

 さあ今度こそ。

 今度こそ、私の生きる理由はなくなった。

 

 一人の女性科学者を奈落に落とした一つ目の「生」。

 一つの街を吹き飛ばした二つ目の「生」。

 世界中全ての人々に厄災をもたらした三つ目の「生」。

 一人の青年に、親殺しという人として最大級の罪を負わせた四つ目の「生」。

 

 もういい。

 

 もう十分。

 

 

 背後で鉄が擦れる音。

 彼が、私の後ろで、銃を構えなおしているらしい。

 

 きっと、銃口の先にあるものは。

 

 それは私にとっての福音。

 

 2度と、この命が再生産されることがないことを願って。

 

 

 ふと、ガラス戸に目をやると、ガラスに映った彼の姿が見えた。

 

 銃を構える彼。

 

 その銃口は、彼の顎に押し付けられている。

 

 

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