かつて起こった極大事象により未だ混乱の最中にあるこの国で、生きているかどうかも定かではない一人の男を捜すという行為は、藁の山の中で小指の先程もない小さな針を捜す行為に等しいものだった。
ましてや、対象は今や世界で最も有名な人物の一人となった男である。そんな対象の情報は毎日巨大な滝のように手もとになだれ込み、そんな大量の情報の中から有益な情報を拾い上げようものなら、それこそ大海に浮かぶ小さな木片を探し求める行為に等しいものだった。
それでも生真面目な性格の青年は、毎日のように転がり込む情報を一つ一つしらみつぶしに当たっては徒労に終わるという作業を、この数年間ひたすら繰り返した。
もはや対象の男は生きていないかもしれない、あるいは、国外に脱出しているかもしれない、という可能性に目を瞑りながら。
『軽トラックに乗る男を見た』
『軽トラックの助手席には女性が座っていた』
この情報も最初は日々浮いては沈む不確かな情報の一つに過ぎなかった。
そもそも、何処に行くにしても大型ヘリコプターを繰り出し、運転手付きの高級車に乗っていたあの男が、軽トラックに乗っていたという時点で違和感しかない。それでも青年は、一般人から寄せられたこの怪しさ極まりない目撃情報についても、生真面目に調査した。
すると、同様の目撃情報が他にも幾つか浮かび上がったのである。
これらの目撃情報については時間や場所の統一性がなく、この情報の信憑性が取り立てて高いわけではなかった。しかし、青年の心はこの情報に強く惹かれた。
掴んだ情報全てが目撃証言のみ。乗車する男の顔や、同乗していたという女性の顔、軽トラックの映像など、監視カメラ等による有力な物証がないにも関わらず、これらの証言が他の情報を差し置いて注目せざるを得ない魅力を放っていたのは、「軽トラック」という同じ乗り物を使いその傍らには必ず女性が座っていた、という共通項があったからだった。
目撃証言は時間も場所もてんでばらばら。それがかえって、これらの証言に潜む連続性を感じさせる。潜伏を試みる男が潜伏先を定期的に変えているとしたら、目撃証言の時間と場所がばらばらであっても不自然ではないからだ。潜伏先を変えても乗り物は変えていないという点が、どうも間抜けに感じてしまうが。
手もとに集まったこれらの証言が、男が女性を伴って全国各地を移動しているところを、目撃された証言だとしたら。
そう。
これらの目撃証言には、男の傍らに必ず女性が居るのである。
青年はこれまでずっと続けてきた捜索方法を、変えることにした。
捜索の焦点を男から、男の傍らに居たとされる女性に移すことにしたのである。
男が行動を共にするであろう女性。青年の脳裏に浮かぶのは、1人だけだった。
もちろん、青年が男の交友関係を全て把握しているわけではないし、むしろ青年が知らない交友関係の方が多いだろう。女性が、青年が知る者であるとは限らないのだ。
だが、可能性の枠を広げてしまえば、調査すべき対象が鼠算式に増えてしまい、たちまち自身の能力を超えてパンクしてしまうのは目に見えている。
だから青年は、まず頭に浮かぶその女性の行方を追うことにした。
女性は科学者だった。男が統括していた組織における技術部門のトップだった。男が抱く野心の成就のためにあらゆるものを差し出していた。そして最後に男に裏切られていたことを知り、自棄に駆られた末に、男の計画の要となる巨大な水槽に浮かぶ虚無の群れを破壊した。
裏切り、裏切られた間柄であるこの二人が、果たして今も行動を共にしているのか、甚だ疑問ではあったが、青年は女性科学者の情報を集め始めた。
数カ月の調査の末、ようやく女性の身内を発見した。すでに女性の両親は他界し、女性は結婚もしていなかったが、地方都市の養老院に身寄りのない高齢者として入所している寝たきりの老婆が、女性の祖母であることを突き止めた。
養老院に残されている老婆の面会記録を調べたが、老婆が入所して以来誰かが会いに来たという記録はない。老婆に届く手紙は役所関係のものばかり。資産も調べたが怪しい金の動きはなく、養老院の費用は老婆の年金と公費のみで賄われていた。新聞やラジオの尋ね人欄などにそれとなく老婆の情報を流し、実際に養老院で張り込みを行ってもみたが、老婆のもとに訪れる者はいなかった。
女性科学者が老婆に接触した形跡はない。老婆から女性科学者の行方を辿るのは諦めた方がよいのか。青年が、以前から女性科学者の行方を追っていた仲間たちとそう相談し始めた頃。
女性科学者の行方は思わぬところから、それも極めて近い場所から拍子抜けするほどあっさりと発覚した。
何かヒントがあればと老婆が入る養老院の部屋の同室者のことも調べてみたところ、老婆のベッドの真向かいに眠る寝たきり老人が引っ掛かった。その老人は身元不明者としてこの養老院に引き取られていたが、身元不明者にも関わらず、数カ月前から1月に1回何者かが面会に訪れているというのだ。
張り込みを行っていた期間中も、確かにその老人のもとを訪れている者を確認している。老人は自身が何者かも名乗れないほど老衰が進み意思疎通もままならず、食べる時以外はベッドで横になっている日々だ。来訪者はそんな老人が横になるベッドの側の椅子に座り、30分ほど滞在した末に帰っていっていた。
再び養老院の張り込みを始めてから2週間。
女性科学者は青年の仲間たちによって拘束された。
張り込みの交代で拘束の場面に立ち会えていなかった青年が、女性科学者との面会が許されたのはそれから1週間して後のことだった。
面会室に入ると、部屋を二つに分かつ透明なアクリル板の向こうに、青年の知る顔があった。女性科学者は短く切り揃えられた黒髪をしていたが、太目の眉と目の下のほくろは最後に会った時と変わっていなかった。
「お久しぶりです。リツコさん」
「そうね。シンジくん」
青年の月並みの挨拶に微笑みで返す女性科学者。その笑みは懐かしい者に出会えた喜びもあったかもしれないが、かつての仲間(少なくとも同じ組織に所属し共通の敵を相手に戦った者同士)の手によって拘束されてしまった間抜けな自分に対する嘲笑が多分に含まれていた。
様々な機関や組織から追われている身であることは重々承知していた。だから誰とも連絡を取らず、どこにも定住せず、身を潜め続けたのに、半年前に何故か余計な情報が自分の耳に転がり込んできた。
祖母が某市の養老院にいる。
長期にわたる「一人」での逃亡生活。孤独は、どんな病よりも強力に女性の心と体を蝕んでいた。
一目見るだけ。もちろん正面から会いにいくような愚は侵さない。同室者の面会を装い、離れた場所からベッドに横たわる祖母を眺めた。
一目見るだけで終わるはずだった面会は、2回、3回と重ねられた。
あらゆるものから逃げ続けていた女性にとって、1月に1回、養老院に足を運ぶこの時だけが、自身を蝕む孤独から解放することができた。もはや足を止めることはできなかった。
結果、そこに付け込まれ、今は虜囚の身である。
常に冷静な観察眼を持つことが求められる科学者は、あらゆるものに対して感情を持ち込んではならない、と自身に言い聞かせてきたが、思えば極めて優秀な科学者だった母は情動に駆られた末に自ら命を断ち、コンピュータに姿を変えてもなお女の情を優先させたのだ。自分はその娘なのだから、その末路は推して知るべきである。
「みんなは元気にしているの?」
挨拶を交わしたきり、話しを切り出そうとしない青年に、女性の方から声を掛けた。
部屋に入ってきた青年をみて、月日の流れを感じてしまった女性である。背が伸び、体は同年代の男性に比べるとまだ華奢な方だが、かつての中性的な印象を持たせた少年の面影は薄くなっている。
しかし性格は見た目のそれに追いついていないようで、引っ込み思案なところは変わっていないようだ。挨拶をするためだけに、わざわざここに来たわけではないだろうに。
「あの頃の仲間とは、そんなに会えてはいないですけど。ああ。アスカは元気にしてますよ。ちょっと元気すぎるくらい」
女性に話題を振られることで、青年はようやく滑らかに話しをすることができた。青年は、彼が知る限りの「あの頃の仲間」の今の話を女性に聴かせた。
女性の口から笑い声が漏れる。
「そう、マヤが活躍してるのは結構なことだわ」
二人の共通の思い出を確認しあうことで、場の空気が少しだけ和らいだ。
青年は切り出す。
「父さんの…。碇ゲンドウの行方を捜しています」
女性は意地悪そうに目を細める。
「なぜ、それを私に聴くの?」
「目撃者がいるんです。碇ゲンドウがいて、…その傍らに女性がいる…っていう」
「それが私だっていうの?」
女性は声を上げて笑った。
青年の前では一度、彼の父親に対する恨み辛みを吐き出す醜態を晒している。その後に自分が及んだ凶行も目撃していたはずだ。彼の父親をどんなに憎んでいるか。彼はそれを知っているはずなのに。
「リツ子さんは、その…。父さんを好きだったから…」
「そうね。あなたの父親がその好意に付け込んで、散々利用し、弄んだ挙句に、不様に捨てられた女の一人よ」
不愉快を隠そうとしない女性に、青年は奥歯を噛みしめ、視線を床に落とした。
青年を落ち込ませることは本意ではなかったので、女性はすぐに語気を和らげた。
「ごめんなさいね。でも、本当に知らないのよ。私はあの時からあなたの父親とは一度も会っていないわ」
「そう…ですか」
青年は視線を落としたままだった。沈んでいく語尾に吊られるように、肩まで落としてしまっている。
女性は深くため息をついた。
「ねえ。タバコない?」
「すみません。まだ未成年なんで」
「そう。私は高校生の頃から吸ってたけど」
青年は苦笑いする。ようやく視線が上がった。
「お父さんを捜してどうするの?」
「適切に処置します」
青年は彼にしては珍しく迷いのない、そして無感動な声で答えた。
「そう。でもそれは別にあなたがやらなければならないことではないでしょう」
大人たちの事情で無理やり戦いの場に駆り出されていたあの少年が、今も大人たちがやり散らかした事の後始末をさせられているのかと思うと、女性は今更ながらに青年が不憫に思えた。
「特に、他にやりたいこともないので…」
後頭部を掻きながら答える青年の仕草に、どこか「誤魔化し」を感じたが、父親を捜す彼の動機についてはこれ以上触れないことにした。そして父親を捜すためにわざわざ自分を探し当てた彼の労力に、少しは報いてやれたらと思った。不思議と自分を虜とすることに手を貸した彼を恨む気持ちはなかった。
「もしあなたの父親が女と一緒に居ると言うのなら、私じゃなくてもっと他に思い当たる女がいるんじゃないかしら?」
「そう…ですか?」
「いたでしょう。いつもコバンザメのように引っ付いていたあの女が」
自分があの男を最後に見た瞬間も、その少女は彼の背中の陰に居た。
「それはありえませんよ」
強めの否定。人と目を合わせることが苦手だったはずの青年の視線が、まっすぐにこちらに向けられたので、女性は少したじろいでしまった。
「彼女はもう、この世界には居ないのですから」
青年は話を続けるために、深呼吸を一つ挟んだ。
「僕は願ったんです。もう誰にも傷つけられたくない。誰も傷つけたくないって。そんな世界に行きたいって。でも彼女が叶えてくれた世界は違ったんです。僕が望んだものじゃなかった。そして僕はもう一度願った。もう一度、みんなに会いたい、と。その僕の願い…いや、わがままを、彼女は叶えてくれた。叶えて、…そして消えたんです」
青年は最後の言葉を腹の底から絞り出すように吐き出し、一息ついたところで、自分が柄にもなく捲し立てるように喋っていたことに気づいた。そしてその内容があまりにも抽象的で支離滅裂であったため、女性はさぞ困惑していることだろうと恥ずかしく思った。
女性を見る。
女性は困惑などしていなかった。口の両端を吊り上げ、目を丸くしてこちらを見ている。
「あなた…。あの時のことを覚えているのね…!」
いや、覚えているどころの話ではない。この子は、あの時、正にあの渦中に居たのだ。
時間にすれば1分にも満たない彼の独白。しかしそこからもたらされた情報量はあまりにも膨大であり、それは彼女が半生を掛けて費やした研究の成果をいとも簡単に過去のものにしてしまったのだった。
彼の独白を非常に乱暴にまとめるとこうだ。
彼は世界を望まなかった。だから世界は破壊された。
しかし彼は世界の再生を望んだ。だから世界は再び生まれた。
彼自身の力でそんな大それたことが成し遂げられた訳ではないだろうが、そこには彼自身の意思が多分に反映されていることは間違いなかった。
世界を破壊し、世界を創造する。
なんという事だろう。
そんな事ができる存在を、私は一つしか知らない。
「…あ…ぅ…」
何かを言いたくて、しかし発してよい言葉が見つからず、女性はみっともなく呻いてしまった。
―――今、目の前にいる彼は、自分が生涯に出会った中で最高の研究対象ではないか!
人としてではなく、観察対象として向けられる眼差し。あの頃から、女性科学者から時折向けられるこの視線が、青年は苦手だった。
居心地が悪そうな表情の青年を見て、女性は彼方に飛ばし掛けていた理性の紐を手繰った。
「ふっ…」
思わず吹き出してしまう。
「…おかしいですよね」
青年は出来る事ならすぐにでも自身の発言を撤回したかった。自分だって、あの時のあの体験はまるで現実味がない。誰かに説明したくても、今喋ったこと以上のことを上手く説明できる自信はない。おそらく自分が出会ってきた人々の中で、一番頭の良いこの人ならば、自分の拙い説明でも少しは理解してくれると思ったが。
「いや、ごめんなさい」
自分の笑みの意図を青年は勘違いしているようだ。だから女性は謝った。
自分が可笑しい。
数年間に及んだ逃避行。最初の数年は、捕まる事への恐怖に苛まれた日々。そして後半の数年は、孤独という恐怖に蝕まれた日々。
自分たちが莫大な時間と労力を積み重ねて引き起こしたあの事象に対する研究心など、抱く余裕はこれっぽっちもなかったのに。科学者としての自分は、あの日死んだと思っていたのに。
もう逃げなくてもいい。そんな安堵感が、本来の自分を取り戻そうとしているようだ。状況次第で盤上の駒が白にも黒にもなるパズルゲームのよう。どうやら自覚していた以上に、自分は軽い女のようだ。
―――感謝しなければならないかもね。
その切っ掛けを与えてくれたのは、今も困惑したように不安げな視線をこちらに向ける青年だ。
この部屋に入ってきた時から暗いままだった表情が、より一層暗くなっている。早くも自分の発言に後悔している様子であった。
誰も分かってくれない、分かろうとしてくれない。自己を否定することから始め、終いには世界全てを否定してしまう、多感な思春期にありがちな思考が、表情から読み取れる。思春期と呼べる年齢はとうの昔に過ぎているだろうに。あれから数年経ち、それなりの経験を積み重ねているだろうに。
この青年にもう少し自己肯定感というものが芽生えれば、良い大人に成長するだろうに。私たちのようなろくでもない大人ではなく、もっとまともな大人に。
再び笑みが漏れる。青年の心情どころかその成長過程まで慮る自分が可笑しかった。自分にはそんな資格などありはしないのに。
私ができる事と言ったら、取り戻しつつある科学者としての立場から、ささやかな助言を述べることくらいだろう。
「私はあの時、あなたの父親に殺されたわ」
柔和な笑みを浮かべる女性科学者の口から放たれた言葉は、ただでさえ落ち込んでいた青年の心をさらに打ちのめすものだった。耳に届いた言葉を頭が上手く消化することができず、青年はただ「えっ…」と聴き返すことしかできなかった。
物騒な告白とは対照的に、女性科学者は穏やかな表情を崩さない。心の中で「これは推測にすぎないけれど」と注釈を入れた上で話を続けた。
「あの時、あの瞬間。全てのものが自己の形を捨て、混ざり合った。文字通り、全てのものが。あの時世界を満たしていたものは、言わば原始の海。まだ何も始まっていない、そして何事も起こりうる、ただあらゆる可能性のみが漂うだけの世界」
女性科学者は、言葉を一つ一つ丁寧に選びながら青年に語り掛ける。
「私はあの時、あなたの父親に殺された」
女性科学者の右手が無意識に鉄の塊に貫かれたはずの胸に触れた。
「でも私は生きているわ」
自身の心臓が奏でる鼓動が伝わってくる。
「あそこでは何事でも起こりうるわ。…何でも、ね」
青年は書き込んだメモ帳を胸ポケットにしまうと、腰掛けていたパイプ椅子から立ち上がった。
「では僕はこれで」
「そう。ありがとう。わざわざ会いに来てくれて」
青年の目的は自分に会うことではなく、自分が持っている情報を聴き出すことであったろうが、それでも女性は感謝した。
青年が浮かべる笑顔が少しだけ柔らかい。
「銘柄はなんです?」
「え?」
「たぶん今度来る時は、二十歳になっていると思いますから」
「いいわよ。そう何度も来るものじゃないわ」
「せめて進捗状況くらいは報告させて下さい」
「ふふ、分かったわ。それじゃお願いしようかしら」
青年は胸ポケットにしまったメモ帳を取り出し、女性が愛喫していた銘柄を書き留める。青年が紙に走らせるペンの音は、どこか軽やかだ。
「ねえ?」
そんな青年の姿を優し気な眼差しで見つめながら声を掛ける。
「なんです?」
「ミサトはどうしているの?」
先ほど青年が知らせてくれた「昔の仲間」の近況の中に、女性の親友の名前はなかった。青年はメモ帳を閉じ、ゆっくりとした動作で胸ポケットにしまった。
「…あれからミサトさんとは会っていません。陸自の記録ではあの時の戦闘で死亡したとありました。国の『帰還者』リストにもミサトさんの名前はありません」
「…そう」
「…はい」
「……そうじゃないかな、って思ってたわ」
女性はそう呟き、優し気な微笑みは浮かべたままで、目を伏せる。
「…でも」
「…なに?」
「…あそこでは、何でも起こりうるんですよね?」
青年のその言葉に、女性は少し吹き出してしまう。自分が言ったばかりの言葉を、彼はもう彼自身のものにしている。そう言えば、彼は人間関係には不器用だったが、それ以外のことについては比較的飲み込みの早い器用な少年だった。
「ふふっ、そうね。それじゃ頑張ってね。報告楽しみにしてるわ」
「はい。また」