告白   作:hekusokazura

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第四章 其の一

 

 絞られた引き金。

 

 癇癪玉のような乾いた銃声。

 

 音と同時に訪れるはずの顎から口、そして脳へと突き抜ける大きな衝撃に身構えた。

 

 ところが、待てど暮らせど自分の命を絶つはずの衝撃がこない。本当なら今頃は頭頂部がぱっくりと破裂していて、血やら脳髄やらを周囲にまき散らしながら自分は床に倒れているはずなのに。

 自分はまだ、立っている。

 

 頭部のかわりに、別のところが痛かった。

 痛いのは右腕。拳銃を自分の顎に突き当てていたはずの、右腕。拳銃を顎に突き当てるために肘を畳んでいたはずの右腕。その右腕が今は肘をぴんと伸ばされ、拳銃を握る右手は天井へと向けられていた。痛いのは、突然に、そして無理矢理に肘を伸ばされてしまったので、筋を痛めてしまったのかもしれない。

 

 視界に広がるのは白髪交じりの栗色の髪。

 

 栗色髪の彼女が、自分の腕にしがみ付いていた。

 

 彼女の右腕が自分の右の二の腕に絡みつき、彼女の左腕が自分の右手首を握りしめ、拳銃を持つ自分の手を天井に向けて強引に伸ばしている。

 

 銃口から立ち昇る硝煙。おそらく天井には、豆サイズの小さな穴が開いているはずだ。弾丸は、間違いなく拳銃から放たれた。でも、その弾丸は自分の頭を貫かなかった。天井に穴を開けるだけだった。自分を解き放ってくれたはずの弾丸は、このあばら家に雨漏りの種を増やしただけだった。

 何故か。

 

 それは、彼女が邪魔したから。

 

 何故自分はまだ立っているのか。

 何故自分はまだ呼吸をしているのか。

 何故自分の心臓はまだ鼓動しているのか。

 何故自分はまだこの世界に留まってしまっているのか。

 何故自分はまだ生きてなければならないのか。

 

 彼女が。

 それは彼女が、余計なことをしてしまったから。

 

 

 

 咄嗟にしがみ付いた彼の腕。

 自分でも気付かない内に、勝手に、そして俊敏に動いた身体。不自由な左足のこともすっかり忘れて。

 

 間に合ったかどうかは分からなかった。

 しがみ付いた時には、銃声がしていた。

 

 しがみ付いた彼の腕に、力が宿る。私が無理に伸ばした肘関節を、彼は再び畳もうとしている。

 それで、ようやく彼が生きてることを知った。

 生きてくれていることが分かった。

 

 

 

 彼は自身の腕は肘を折り畳もうとして、腕にしがみ付く者が邪魔だと感じるや、しがみ付く者を腕から引き離そうと、空いた左手で彼女の右腕を掴み、背中と肩を反り返し始めた。

 彼と彼女の体格差は大きい。最後に別れた時は、彼と彼女は、彼女が少し目線を上げる程度の身長差しかなかった。ところが5年の歳月を経て、彼女の身長はあまり変わらなかった一方で、彼は彼の父親を超えるほどの背丈を誇っていた。

 背中と肩を反らしただけで彼の肘や手首は、彼女の手が届かないところまで離れてしまいそうだった。

 それでもしがみ付くのを止めようとしない彼女は、腕を精一杯に伸ばし、右手で彼の腕をにぶら下がりながら、左手は、彼の右手が決して彼の方に向かないよう彼の右手首を懸命に握り続けた。

 

 今度は何者かに、もの凄い力で後ろに引っ張られた。

 見ると、彼女の右腕を掴んでいたはずの彼の左腕が、今度は彼女が着るカーディガンの襟を下の白のブラウスの襟ごとむんずと掴み、それを容赦のない力で引っ張っていた。ただでさえダルダルに伸びていたカーディガンの後見頃が裂け、留めていたブラウスのボタンの幾つかが弾け跳んだ。

 ブラウスの前がはだけ、少しだけ彼女の胸が露わになってしまったからか。

 襟を引っ張る彼の力にほんの僅かながら躊躇いが生じる。

 その瞬間を、彼女は見逃さない。

 

 もはや大人と子供くらいの体格差。このまま取っ組み合うだけだったら、いずれ彼の腕力に屈してしまうことは目に見えている。

 だから彼女は武器を使った。今、彼女が所持している唯一の武器を。

 

 右腕に激痛が走る。上腕に、焼けつくような痛み。

 彼女が、彼の腕に噛み付いている。

 小さな口を目いっぱい広げ、彼の力こぶに齧り付いている。彼女の歯が、皮膚を破り、肉に食い込む感触。

 凄まじい痛みに彼はもはや彼女を気遣う余裕はなくなり、上半身をまるで炎にでも包まれているかのように激しく暴れさせ始めた。

 彼女の軽くて小さな身体は簡単に床から浮き、しがみ付く彼の腕にされるがままに振り回される。

 それでもしがみ付くことも齧り付くことも止めようとしない彼女に、ついに彼の足の方が根負けした。いくら軽いとはいえ人1人分。その重みを激痛が走る片腕だけでは支えきれなくなり、足がもつれ、腕にしがみつく彼女ごと、彼の身体は床へと倒れこんだ。

 

 薄暗い部屋に人2人分が倒れる大きな音。

 続けて、カタン、カタン、と木の床の上を、固い金属のものが転がる音。

 

 倒れた衝撃で呻く彼。おまけに一緒に倒れた彼女の膝が鳩尾にめり込む。

 彼の身体の上に倒れたことで幾分衝撃が少なかった分、早く立ち直ることができた彼女は、何かが転がっていった方へ向かって飛び込んだ。

 飛び込んだ先には、床に転がった拳銃。

 彼女の手は拳銃を拾い上げる。

 彼女の身体は、ころころと床の上を転がる。

 突っ込んだ先の木製の椅子をバラバラにしたところで、ようやく彼女の身体は止まった。

 

 仰向けになった彼女は、手にした銃を両手で構えた。

 間髪入れずに引き金を絞る。

 両腕に衝撃。

 1発目で肩が痛くなったが、躊躇わず、2度目の引き金。

 3度目。

 

 4度目になって、引き金を絞る時の感触が途端に弱くなり、おもちゃのような拳銃は撃針が空を切る貧相な音だけを響かせるようになった。

 それでも安心し切れず、5度、6度と引き金を絞り続ける。

 10度目を終えて、ようやく引き金から指を離す。

 それでもなお安心し切れず、床に寝っ転がったまま左手に握った拳銃を投擲。彼女の手から離れた拳銃はテーブルを越え、車いすの上を越え、ベッドを越えて窓へ到達。

 首尾よくガラスを割り、窓の外の彼方へと飛んでいった拳銃を見送った彼女は、肩で息をしながら後頭部を床に預けた。

 視線の先には天井。

 雨漏りの種が、さらに3つ増えた天井。

 彼の方からうめき声が聴こえたので、頭だけを起こして床に倒れたままの彼に視線を送った。

 

 鳩尾に膝を入れられ激しく咳き込む彼は苦痛に歪んだ表情で左手でお腹を摩りながら、一方の右手はズボンの右ポケットの中を探っている。

 

 「それ」を見ていた彼女は、心の底からうんざりしたように溜息を吐いてがっくりと肩を落とし、そしてもう起き上がるのも面倒とばかりに両膝と両手を床に付いて四つん這いになると、ドタドタと音を立てながら彼の元まで這い寄った。

 彼の近くまで這い寄ると、上半身を投げ出すように、彼の折りたたみナイフを握った右手に飛び込む。

 

 ポケットから取り出したナイフの切っ先を、すぐに喉に突き立てようとしたところで、右腕に急激に重みが加わった。その重みで腕が動かせなくなる。

 見ると、自分の右腕に覆いかぶさるように、またもや白髪交じりの栗色の髪。

 それを見た彼は心の底からうんざりしたように喉の奥底で唸り声を上げると、執拗に邪魔をする彼女にもはや容赦はしないとばかりに、自由な左手で彼女の頭を鷲掴みにする。

 

 彼の右腕に必死にしがみ付いていたら、誰かが頭を掴んだ。

 頭皮に激痛。床に突っ伏していた自分の顔が、強引に引き上げられる。彼が、自分の髪の毛を鷲掴みにし、引っ張り上げているらしい。髪を引っ張りながら、彼の腕から彼女の身体を無理やり引っぺがそうとしているようだ。

 彼の性格にらしからぬ、暴力的な行為。

 そっちがその気ならばこっちももはや容赦はしないとばかりに、彼女は髪の毛を掴まれていることも構わず彼の手に逆らって強引に顔を下げると、再び彼女の唯一の武器を行使した。

 小さな口を目一杯に広げ、今度は彼の前腕に思いっきり噛み付く。口の中に、血の味が広がった。

 途端に彼の悲鳴。

 彼女の口を腕から引き剥がそうと、髪を引っ張る彼の手が更に暴力的になる。彼女の耳にはブチブチと、自身の髪の毛が引き千切られる音が届いたが、彼女はそれには構わずに犬歯を彼の腕に突き立てると、まるで捕食した獲物を食い千切る肉食獣のように、頭を左右にぐりぐりと揺さぶりながら彼の腕に歯を食い込ませていった。彼の腕から血が噴き出し、彼女の口の周りを真っ赤に染め上げていく。

 

 あまりの激痛に足をばたつかせる彼。彼女の細い顎の何処にそんな力があるのか。皮膚や肉だけでなく、その下の骨まで砕いてしまいそうな勢いの彼女の顎。兎にも角にも彼女に自分の腕を食い千切るのを止めさせようと、彼女の髪から手を離し、今度は彼女の顔面を鷲掴みにして腕から引っぺがそうとした。彼女の端正な顔が、福笑いのように歪んだ。

 再び彼の悲鳴。

 彼女がその小さな顎に、さらに力を込めたようだ。

 痛みに耐えきれなくなり、ついに彼の右手が開いてしまった。コトリ、とナイフが床に落ちる音。

 彼は床に落ちてしまったナイフを拾い上げようと、慌てて上半身を起こした。

 

 ついに、彼の手からナイフがポロリと零れ落ちた。

 彼女はすぐさま噛み付いていた彼の腕から口を離し、すぐさま膝立ちをする。

 

 床の上に、鈍い光を放ちながら落ちているナイフ。その光は、彼にとっては救いの光。残された最後の希望。

 彼女に先を越される前に、そのナイフに向かって飛び込んだ。

 しかし彼が飛び込んだ先は床の上のナイフではなかった。

 彼の視界に広がる濃紺の布。それは彼女が履いていたスカート。

 彼が飛び込んだ先は、突き出されていた彼女の膝小僧だった。

 

 部屋の中に響く鈍い音。

 それは出会いがしらの見事な膝蹴りだった。

 突き出された彼女の膝に、彼は自ら顔面から飛び込んでしまう形となった。

 

 背中を大きく反らし、派手な音を立てながら床に倒れこむ彼。両方の鼻の孔から、盛大に血が噴き出す。頭蓋の中で脳味噌が撹拌し、視界のそこら中に火花が舞った。

 意識が混沌とする中、胸に感じる重み。

 明暗を繰り返し、揺らぐ視界には、彼女の顔。

 床に仰向けで倒れている彼の胸に、彼女が馬乗りになっている。

 

 ボサボサに逆立った髪。

 真っ赤に血塗られた口。

 肩から胸までがはだけ、ボロボロになった衣類。

 激しい息遣い。

 その姿を見上げる彼には、彼女の姿が人肉を食らう餓鬼にでも見えたのかもしれない。彼がその気になれば、軽い彼女を彼の身体から引きずり下ろすことは造作もないはずだ。それでも彼は彼を見下ろすか細い彼女のその姿に表情を引き攣らせると、怯えたように両腕で顔を覆った。

 

 股の下の彼が、まるで怯えた幼子のように頭を抱えて縮こまっている。もはや抵抗する気は失せたらしい。

 自分よりも遥かに体格で勝る彼を完全に支配下に置いた彼女は、一度ふんっ、と鼻を鳴らして息を整えると、おもむろに右手を頭上に掲げた。その手を、股の下の彼の顔面に向かって、彼の顔を覆う腕の隙間を狙って、振り下ろす。

 

 バチン、と鈍い音。

 

 赤く染まる彼の左頬。突然走った左頬への衝撃に、自分が何をされたか分かっていないのか、茫然とした表情の彼。

 彼女は左に降り抜いた右手を、返す手の甲で続けて右側へと降り抜く。再びバチン、と鈍い音。今度は、彼の右頬が赤く染まった。

 俗に言う往復ビンタは、一往復では止まらなかった。まるで彼に余計な考えを巡らせる暇は与えないとばかりに、彼女の右手は何度も何度も彼の顔の前を勢いよく行き来する。その度にバチン、バチンと鈍い音。彼の顔が、右に、左にと、交互に揺れた。

 

 何十回と続く平手打ち。全く止む気配のない彼女の制裁。

 両腕を使って懸命に彼女の平手打ちを防ごうとするが、彼女の右手は彼の腕の隙間を狙って的確に頬に振り下ろされていく。

 平手打ちの雨を腕で防ぐのは無理と判断したのか、彼はならば顔を隠してしまえと上半身を捻って俯せになろうとした。ところが彼女はそれも許さず、空いた左手で彼の顎を鷲掴みにして彼の後頭部を無理やりに床に押し付け、頭を固定する。そして往復ビンタを再開。

 バチン、バチン、と、規則正しい音が鳴り響く。

 もはや彼は腕で防御することも諦め、平手打ちの雨を受け続ける。

 バチン、バチン、と彼女の手が、彼の頬を殴る音。

 バチン、バチン、という音と共に、彼の痛みに呻く声。

 バチン、バチン、という音と共に、彼の嗚咽。

 バチン、バチン、という音がする度に、彼の瞼から涙が溢れ出す。

 

 バチン。

「…ごめん…なさい…」

 

 バチン。

「…ごめん…なさい…」

 

 バチン。

「…ごめん…なさい…」

 

 バチン。

「…ごめん…なさい…」

 

 バチン、バチン、バチン、バチン

 

「…ごめんなさい…、…ごめんなさい…、…ごめんなさい…、…ごめんなさい…」

 

 彼女の手が頬を打ち付ける隙間を縫って、泣きながら「ごめんなさい」を繰り返す彼。

 

 バチン。

「ごめんなさい…」

 

 バチン。

「ごめんなさい…」

 

 バチン。

「ごめんなさい…」

 

 パチ。

「ごめんなさい…」

 

 パチ。

「ごめんなさい…」

 

 パチ。

「ごめんなさい…」

 

 ペタ。

「ごめんなさい…」

 

 ペタ。

「ごめんなさい…」

 

 ペタ。

「ごめんなさい…」

 

 ―――。

「ごめんなさい…」

 

 ―――。

「ごめんなさい…」

 

 ―――。

「ごめんなさい…」

 

「ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…」

 

 いつの間にか室内に響くのは彼の嗚咽と繰り返される謝罪の言葉のみ。彼女の右手は、頭上に掲げられたままそこで静止していた。その右手が、ゆっくりと下ろされる。彼の顎を拘束していた左手も離した。浮かしていた腰を彼の胸に下ろし、両腕をぶらんと下ろした。

「ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…」

 見下ろす彼女に向かって、泣きながら繰り返し呟き続ける彼。

 そんな彼を、彼女は何も言わず、ジッと見つめ続ける。どこまでも深く、光を宿さない、静かな眼差しで。

 その視線に耐え切れなくなったのか、彼は目をギュッと瞑った。それだけでは足りなかったのか、彼の両腕が上がり、彼の両手が彼の顔を覆っていく。

 そして彼は泣きなら繰り返す。

「ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…」

 

 両目を両手で覆えって何も見えなくしてしまった彼。彼女は深く俯き深く溜息を吐くと、一度口を大きく開き口の中の液体を舌下に集め、その集めた液体をペッと床に吐いた。唾液混じりの赤い液体が、床を汚す。 

 まるでそれが合図だったかのように、彼女の全身を急激に痛みと強い倦怠感が襲った。

 彼の身体に跨る彼女の身体がぐらりと揺れ、転げ落ちるように床へごろんと倒れこむ。そのまま一回転し、床に仰向けになった。

 床に大の字になる彼女。

 胸が大きく激しく上下する。

 ハッハッ、と荒い息遣い。

 身体の節々が痛んだ。

 おそらく生まれて以来最も力を使った顎が、今はガクガクと震えて力が入らない。

 口の中に広がる血の味。

 もしかしたら、歯の何本かが欠けているかもしれない。

 全身がとても熱いのに、ブラウスのはだけた胸と右肩の周りだけがひんやりと冷たい。

 その胸の中におさまる心臓が、自分の耳にも聴こえるほどにバクバクと強く脈打っている。

 

 自分の吐息と、脈打つ生命の音と。

 それ以外の音が、すぐ隣から聴こえる。

 顔は天井に向けたまま、瞳だけを動かして隣を見た。

 

 「ごめんなさい」はすでに止んでいたが、悲嘆に塗れえた嗚咽と苦痛に苛まれた呻きを口から漏らし続けている彼。

 

 殴られ続けた頬が痛いのだろうか。それとも取っ組み合いをした時に、大きな怪我でもしたのだろうか。あるいは齧られた腕が、とても痛むのだろうか。

 でも往復ビンタを食らっただけで死ぬ人間はいないし、自分のようなひ弱な女ともみ合って出来る怪我なんてたかが知れているだろうし、腕だって別に切り落とされたわけでもない。

 だから、今は放っておくことにした。

 今は自分も体中が痛いから。

 

 嗚咽と呻き声の合間に、彼の呟く声。

 

「…もう、…無理なんだ…」

 

 掠れた、彼の声。

 

「…僕が…、僕たちが…壊してしまった、…この世界に、これ…以上、…留まり…続けるなんて、もう…僕には…耐えられない…」 

 

 彼女は分からなかった。

 彼はその告解を、誰に聴かせようとして呟いたのか。

 

 分からなかったから、今はとりあえず無視することにした。

 今は全身が火照っていて、あれこれ考えるのも面倒だから。

 

 彼は両手で顔を塞いだまま背中を丸め、彼女に背を向けるように横にゴロンと転がり、膝を腹に抱えて縮こまった。

 彼の顔が見えなくなったので、彼女は瞳を天井に向ける。

 

「…助けて。…誰か、…僕を助けて…よ…」

 

 彼の救いを求める声が聴こえる。

 

「…アスカ…」

 手に触れることが出来るものなら何でもいい。

「…ミサトさん…」

 自分を救い出してくれる者だったら誰だっていい。

「…トウジ…、…ケンスケ…」

 まるで今にも溺れそうになり縋りつくものを求めるかのように、手あたり次第に名前を挙げていく彼。

「…カヲルくん…」

 しかしその呼び掛けに応える者は誰も居ない。

「…父さん…」

 彼の声は、空しく虚空へと消えていく。

「……母さん……」

 それを最後に彼の口から意味のある言葉は出てこなくなり、呻き声も消え、嗚咽のみが聴こえるようになる。

 その頃には彼女の息遣いも落ち着いていた。

 

 静かになった小屋の中。

 一人は大の字になって天井を見上げながら、一人は身体を縮こませ、顔を手で覆いながら、狭い小屋の板張りの床に寝っ転がっている。

 

 割れたガラス窓から差す西日は、小屋の中を少しずつ移動していく。板張りの床の上を、綺麗に磨かれたテーブルの上を、彼女身に纏うボロボロのカーディガンの上を、彼の顔を覆った手を、車いすの車輪を照らしながら、少しずつ移動していき、やがて音もなく静かに消えていった。

 

 

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