告白   作:hekusokazura

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第四章 其の二

 

 先に動き始めたのは、彼女の方だった。このままでいるとこの部屋はたちまち真っ暗になって、身動きが取れなくなってしまうことを住人である彼女は知っていたからだ。

 テーブルの脚を支えに、上半身を起こす。椅子に突っ込んだ背中がピシリと痛んだ。

 ブラウスのボタンが飛び、はだけて露わになってしまっている胸。そう言えば、もみ合う前に彼が誰かと電話をしていたことを思い出す。5年前に突然人間社会に放り出され、5年間それなりに世間に揉まれてきたことで、それなりに社会通念というものを身に着けてきた彼女は、恥じらいというものこそないものの、最低限の身だしなみとしてダルダルになってしまって後ろ見頃も裂けているカーディガンの前をボタンで留めておくことにした。

 ボタンに手をやろうとして、しかし右手の指がボタンの上を滑り、上手くボタンを掴むことができない。右手が思うように動かない。と言うか、右手の感覚がない。不思議に思い右手を見たら、甲が水膨れのようにぷっくりと腫れ上がっていた。ひっくり返して手のひらを見ると、紫色の痣になっている。どうやら百回以上繰り返された往復ビンタは彼の心を屈服させるだけでなく、彼女の右手も破壊してしまったらしい。

 痛々しく腫れてしまった右手を、何度かグーパーと開閉させてみる。そうしている内に次第に右手に感覚が戻ってきて、それと同時にジワジワと痛みが広がっていった。痛いの痛いの飛んでけとばかりに右手をぶんぶんと降ってみたが、もちろんそんなことで痛みは何処かには飛んでいってくれない。

 彼女は諦めて、痛みを我慢しながら両手を使ってボタンを留めた。

 視線を右にやると、床に転がる折りたたみナイフ。それを左手で拾い上げる。

 

 

 テーブルに手をつき、不自由な左足を庇いながら立ち上がる。テーブルから手を離し、全体重を両足へと乗せてみたら、ズキリと右膝が痛んだため、再びテーブルに手をつくことになった。彼に決定的なダメージを与えた会心の膝蹴りは、どうやら彼女の膝をも破壊してしまったらしい。仕方なく、右膝に体重を掛けないようにしながら立ち、足もとを見下ろした。

 

 足もとには彼。

 両手で顔を覆う彼は、今は嗚咽も漏らず沈黙に陥っている。時々鳴らすのは鼻を啜る音だけ。

 彼女はテーブルから手を離すと、一瞬だけ膝の痛みに顔を顰めた後、彼の頭上を跨いだ。彼女の足首まで覆うロングスカートの裾が彼の前髪を撫でるが、彼は顔を両手で塞いだまま動かない。跨いだ先には戸棚。戸を開け、一番上の棚からランタンを取り出す。ランタンは電池式で、底の部分を捻ると淡い暖色系の光がランタンのガラス筒の中に灯った。

 ランタンを右手に持って、後ろを振り返る。ぼんやりと、小屋の中が照らし出された。

 

 血溜まりの上の車いすで、胸に穴を開けて横たわっている父親。

 腕から血を流し、顔を血だらけにして、床に倒れている息子。

 親子の間に、髪の毛を逆立て、口の周りを血まみれにし、左手にナイフを握り締めて立つ女。

 

 心臓の弱い者であれば卒倒してしまうようなスプラッタ―映画の一場面のような光景だったが、それらを唯一目にしている彼女の表情は少しも変わらず、そしてランタンを持ったまま、再び彼の頭上を跨ぐ。ランタンで部屋が明るくなった今、頭上を跨がれた彼からスカートの中身は丸見えのはずだが、彼女は一切気にする風なく彼の頭を跨ぎ、彼の手も彼の顔を覆ったまま微塵も動かない。

 

 彼女はテーブル伝いにひょこひょこと歩きながら、ベッドの方へと向かう。

 ベッドの向こうの壁には割れたガラス窓。念のため、ナイフの柄を使って窓に残っていた尖ったガラスを砕いておく。全てのガラスが砕け落ち、木枠だけになった窓。風通しがよくなり、外から心地よい風が吹き抜けた。その窓に向かって、ナイフを投げる。ナイフは鈍い光を放ちながら外の闇へと消えていった。

 窓から目を離し、下のベッドを見る。ベッドの白いシーツには、割れたガラス片が散らばっている。彼女は手に持ったランタンをテーブルに置くと、手でガラス片をベッドの中央に集め、ベッドの側に置いてあったごみ箱の中に落としていった。

 ベッドから白いシーツを引きはがす。

 埃を払うため、何度かシーツをふりさばく。シーツが上下に振られるたびに埃が床に寝っ転がる彼に掛かったが、彼は顔を両手で塞いだまま動かない。

 

 白いシーツをまとめ、小脇に抱え、ベッドから離れる。

 

 車いすの前に立った。

 

 すぐ側で繰り広げらた「妻」と、息子の大立ち回り。

 親子の大げんかにも、男はどこ吹く風。

 男は、1時間前と変わらない姿で車いすに寝そべっている。

 

 緩やかに閉じられた瞼。

 緩やかに閉じられた口。

 顔中の筋肉からすっかりと脱力したような表情。

 とても幸せな夢でも見ているような、穏やかな寝顔。

 

 

 

 この人の「生」は一体どんな結末を迎えるのだろうか。

 

 長い長い2人暮らしの中で、時折そんな想像を巡らせることもあった。

 自分と同じくらいの業を背負っている人。

 その結末が、平穏な訳がない。

 

 そして実際に迎えた結末。

 それは考えうる中で、最も悲劇的な結末。

 それは第三者から見れば、悲惨極まりない結末であったに違いない。

 

 それでも。

 そうだとしても。

 

 今、こうして、目の前で、全ての苦悩から解放されたかのように、穏やかな顔で人生の終幕を迎えているという事実。

 

 「愛する人」が作る夕食を待ちながら逝く。

 

 それはあるいはこの人にとって、最も幸せな形でのこの世界からの旅立ちではなかっただろうか。

 

 彼女は、そっと、男の頬を撫でた。

 彼女は、そっと、男の手を握った。

 

 男の顔に、そっと、顔を近づける。

 男の耳に、そっと、唇を近づける。

 

 

 

―――おやすみなさい。…あなた―――

 

 

 

 どうか、そのまま、安らかな夢を見続けてくれますように。

 

 どうか、旅立ったその先に、私などではない、あなたの傍らにいるべき人との再会を果たせますように。

 

 

 脇に抱えていた白いシーツを翻す。

 シーツは宙に広がり、そしてゆっくりと、ふんわりと、大きな羽根のように舞い降りていく。 

 

 男の顔が、シーツの向こうへと消える。

 男の胸が、シーツの向こうへと消える。

 男の手が、シーツの向こうへと消える。

 男の足が、シーツの向こうへと消える。

 

 こんもりとした小山になった白のシーツ。

 名残惜しむように、白いシーツの小山を見つめる。

 しばらくすると、小山の真ん中の辺りに、赤い斑点が広がった。

 

 

 

 ランタンを手に取り、踵を返す。再び彼の頭の上を跨ぎ、戸棚の前に立つ。2段目の棚から、救急箱を取り出す。姿が見えない「妻」を探すために不自由な身体であちこち動き回り、生傷が絶えなかった男のために、救急箱の中は充実した品揃えとなっている。

 救急箱を床に置いて、彼女自身も床に座る。膝が痛いので、足を伸ばしたまま座る。

 彼女が腰を下ろした側では、今も両腕で顔を塞ぎながら、いつの間にか仰向けになって寝っ転がっている彼。

 その右腕の上腕と前腕には、それぞれ一個ずつ三日月のような曲線で並ぶ小さな歯型。歯形からは血が滴っている。

 救急箱からガーゼを一枚取り出し、前腕の歯型に押し付け、圧迫する。右手でガーゼを押し付けながら、ガーゼをもう1枚取り出し、前腕に比べれば比較的傷の浅い上腕の歯型の血を拭き取る。赤く汚れた2つのガーゼを丸めると、ベッドの側にあるごみ箱に向かってぽいっと投げた。丸めたガーゼはゴミ箱には飛び込まず、ベッドの脚に当たってそのまま床の上をコロコロと転がっていった。

 取りに行くの面倒くさいのか、彼女は床に転がる丸めたガーゼを無視し、救急箱から脱脂綿と消毒液が入った小瓶を取り出す。小瓶の蓋を開け、脱脂綿に消毒液を染み込ませる。

 アルコールの匂いがたっぷりと染み込んだ脱脂綿を、彼の腕の歯型に当てた。すると彼の上半身が小さく痙攣するようにほんの僅か動いた。傷口に消毒液が染みて痛かったのかもしれないが、あるいは単に鼻を啜っただけなのかもしれない。だから彼女はそんな彼の反応を無視し、ペタペタと歯形に消毒液を塗りたくっていった。

 消毒液が染み込んだ脱脂綿を丸め、ぽいっとゴミ箱に投げる。今度はテーブルの脚に当たって、床を転がっていった。

 救急箱から2枚のガーゼと包帯を取り出す。真っ新なガーゼの1枚を前腕の歯形に当て、そしてその上から包帯をぐるぐると巻いていく。慣れた手つきで包帯の端できゅっと結び目を作った。2枚目のガーゼは上腕の歯型に。やはり包帯でぐるぐる巻きにし、結び目を作る。

 これで腕の治療は終了とばかりに、ぽん、と結び目と軽く叩いてみたが、治療される間もずっと顔を両手で塞いでいた彼は、今も顔を塞いだまま動こうとしない。

 彼のこの反応を彼女は特に気にした様子もなく、続いて救急箱から2つの脱脂綿と1枚のガーゼを取り出す。彼の顔を覆っている両手の隙間から、ひょっこりと覗く彼の鼻。今も鼻血をダラダラと流し続けている彼の鼻。幸い、折れてはいないようだ。

 ガーゼを左手の人差し指に巻き付けると、その指を彼の右の鼻の穴に無遠慮に突っ込み、ほじほじして鼻の穴に詰まった血を掻き出す。彼の鼻が「ふがふが」と間抜けに鳴ったが、彼女は気にせずに今度は左の鼻の穴に指を突っ込み、やはりほじほじする。血塗れになったガーゼを指から剥がし、丸めると、もうゴミ箱に投げ入れることは諦め直接床に捨てる。そして2つの脱脂綿を丸め、彼の2つの鼻の穴にそれぞれを突っ込んだ。

 救急箱の中の脱脂綿は残り少ない。彼女は残った脱脂綿全て取り出す。もう大事に取っておく必要はないから。左手で彼の顎を鷲掴みにし、少し力を入れて彼の口を強引に開かせる。右手で、脱脂綿を口の中に突っ込んだ。口の中は、逆流した鼻血で満たされていた。脱脂綿で、彼の口腔内の血を拭き取ってやる。彼女の手が彼の口の中で動く度に、彼の喉からもがもがと無様な声が漏れた。

 あらかた口の中を拭き取ったところで、涎と血塗れになった脱脂綿を彼の口から引き抜き、やはり床に投げ捨てる。涎と血塗れになった自身の手は、腰に巻いていたエプロンの端っこで拭った。

 鼻の孔に指を突っ込まれ、口の中に手を突っ込まれている間も、彼はなされるがままで両手は彼の顔の上から動かなかった。

 小瓶と包帯の余りを救急箱に片づけると、戸棚を支えにしながらうんせと立ち上がる。救急箱を戸棚に仕舞うと、3段目に並ぶ食器類を眺めた。お皿も、お茶碗も、お箸も、スプーンも、どれも2つずつ。その中から、やはり2つ並べられたマグカップを取り出す。右手に2つのカップ、左手にランタンを持ち、ひょこひょこと歩きながらドアへと向かった。

 

 ドアノブを回す音。蝶つがいの音。片方の足を引きずる足音。ドアが閉まる音。

 彼女が小屋を出ていくと、小屋の中は途端に暗くなる。

 闇の中に、こんもりとした小山となっている白いシーツだけが、薄ぼんやりと浮かび上がる。

 動くものは何もない、暗闇と静寂の部屋。

 暗闇に居るのは、動かなくなった父親と、動けなくなった息子と。

 

 不意に、「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」と唸り声。

 どこからか轟く唸り声に、床に倒れたままの彼の身体が驚いたようにビクっと強張った。

 唸り声は止まない。長く長く続く、唸り声。

 その唸り声は、ガラスが割れて風通しがすこぶるよくなった窓から流れ込んできているらしい。唸り声のもとは小屋の外。

 不意に、唸り声が鳴り止んだ。続いて、ペッと、口から何かを吐き出す音。

 そしてすぐに「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」と再びあの唸り声。今度はすぐに鳴り止み、そして続けてペッと、口から何かを吐き出す音。

 どうやら、小屋の外の彼女がうがいをしているらしい。彼の血で塗れた口の中を水でゆすいでいるようだ。

 彼女のうがいは2回で終わった。それからは彼女が立てる小さな物音だけが小屋の中に響いていた。

 

 

 

 暫くして、彼女が戻ってきた。

 やはり右手には2つのマグカップ、左手にはランタン。少し違うところと言えば、カップの口から薄い湯気が立ち昇っているところと、血で汚れていた彼女の口回りが綺麗に拭き取られていたところ。逆立っていた髪も、手で梳いたのか少し落ち着いている。

 彼女はランタンをテーブルの上に置くと、右手に2つ持っていたカップのうち、1つを左手に持ち替えた。2つのマグカップを2つの手で持ち、彼の側に立つ。足もとに寝っ転がる彼は、小屋を出た時と変わらず両手で顔を覆ったままでいる。

 そんな彼を見下ろしながら、彼女は2つのカップを持ったまま、ただ立っていた。

 ただ立っていた。

 ただ、突っ立っていた。

 彼が自分から動き出すのを待って、ただ見下ろし、ただ突っ立っていた。

 

 右膝が痛くなってきた。

 彼はぴくりとも動かない。

 我慢比べには自信があったのだが、今回は根負けしてしまった。

 

 彼女は彼の傍から離れ、テーブルの上に2つのカップを置いた。再び彼の元へと歩み寄り、彼を見下ろす。

 やはり彼は動かない。彫像のように動かない。

 彼女は前屈みになった。膝を曲げると痛いので、腰だけを曲げて床の彼に近づくと、手を伸ばして彼のシャツの両肩を握った。うんせ、と、彼の上半身を起こす。上半身は少し重かったが何とか起こすことができた。

 両肩を掴んだまま、しばらくその姿勢で待ってみる。でもやっぱり彼は動き出そうとしない。

 彼女は、彼が再び床に寝っ転がってしまわないよう肩を掴んだままで、彼の背中に回り、彼の背後に立った。

 彼の右脇に自身の右腕を、彼の左脇に自身の左腕を差し込む。彼の両脇を通り抜けた手を、彼の胸の前で組む。一回息を深く吸い込むと、うんせ、と彼の上半身を持ち上げた。彼の腰が、床から浮き上がる。

 何といっても、5年間も両足が不自由な、そして自分よりずっと大きい男の面倒を看てきたのだ。動かない人間の身体のどの部分を抱え、どのように力を加えたら動かし易いか、彼女はよく理解していた。

 しかしこの時の彼女は、彼との取っ組み合いですっかり体力を失い、おまけに膝も痛めていた。

 腰が浮いた彼をそのままベッドに引きずり上げようとしたのだが、思うようにいかず、彼を背後から抱えたままで背中からベッドに倒れこんでしまった。

 

 見事なジャーマンスープレックス。

 

 しかし柔らかいベッドの上なので、掛けられた側に大したダメージはない。一方、掛けた側は掛けられた側の下敷きになってしまう形となり、顔が相手の背中に押しつぶされ、息ができずうーうーと呻いていた。

 何度か身体を左右に揺り動かし、何とか上半身だけを彼の背中から脱出させる。せっかく梳いた髪がまたもや逆立ち、顔を真っ赤にした彼女の顔が、彼の背中から這い出てきた。肩で息をしながら、背中越しに彼の顔を見る。

 プロレスの大技を決められたにも関わらず、相も変わらず両手で顔を覆っている。

 女性を下敷きにしておきながらなおも自分から動き出そうとしない彼にいい加減苛立ってきたのか、彼女の綺麗な眉間に縦皺が寄ったが、すぐに諦めたようにため息を吐くと、未だ彼のお尻の下敷きになっている下半身を、彼の身体を両手で押しながらうんせうんせと引きずり出した。

 膝から下はベッドの外に下ろし、ベッドに寝っ転がっている彼。そのすぐ隣で、やはりベッドに寝っ転がり、顔を真っ赤にして肩で息をしている彼女。

 暫く茫然と天井を眺めていた彼女は、気だるげに上半身を起こす。

 彼を見下ろすが、やはり彼の両手は変わらず彼の顔の上。

 仕方なく、彼女は彼の背中に腕を回すと、彼の上半身を起こしてベッドの端に座らせる。そのまま前屈みにさせ、彼の両肘それぞれを彼の両膝に付けさせて腕をつっかえ棒にさせ、彼の座位を保たせようとした。しかしその腕にはまるで力が入っていないので、彼女が彼の身体から手を離すと彼の上半身は途端に前のめりに倒れそうになってしまう。これでは元の木阿弥と、慌てて彼の身体を支える彼女。背中の角度、両腕の広げ具合、頭の位置などを調整し、彼の上半身が自立しないかまるでバランスゲームでもするように試行錯誤してみたが、結局調和のとれた完璧な姿勢を見出すことができず、面倒になってきた彼女はベッドの隅に転がっていた枕を取ると、それを彼の膝と腹の間に強引に差し込んだ。彼から手を離すと、厚みのある枕が前のめりになることを防いでくれて、ようやく彼の上半身は自立した。

 

 ベッドから立ち上がり、テーブルの上に置いたマグカップの一つを手に取る。

 振り返り、彼の前にカップを差し出す。

 受け取ろうとしない彼に、いい加減彼の態度に慣れてきた彼女は、待つことなくすぐに彼の右手首を掴み、引っ張った。顔を覆っていた手の片方が離れ、ようやく彼の表情が半分が露わになった。悲嘆に暮れたように目をぎゅっと瞑り、目尻からは大量の涙を流し、鼻からは孔に突っ込まれた脱脂綿の隙間から滲み出てきた血の混じった鼻水が垂れ、歯を食いしばった口の端からは涎が垂れている。

 何とも情けない顔であり、見ようによっては滑稽ですらある顔だったが、そんな彼の顔の唯一の鑑賞者である彼女は憐れむ様子も噴き出す様子もなく、彼の右手にカップの取っ手を握らせた。握らせたものの、彼の指には全く力が入っておらず、彼女のもう片方の手がカップから離れてしまうと、たちまちカップは床に落ちてしまうだろう。彼女は片方の手でカップを支えながら、空いた手で今度は彼の左手首を掴み、引っ張った。顔を覆っていた手が2つとも無くなり、支えを失った彼の頭はカクンと落ちたが、膝と腹の間に挟んだ枕が良い塩梅に支えとなり、彼の身体がベッドの下に倒れこむことはなかった。

 だらりと垂れた鼻水と涎が彼女の右手を汚したが、彼女は気にせず彼の左手の平をカップの底に当てさせ、さらに彼の膝の上の枕にカップと彼の手を乗せる。

 ようやくカップが安定した形で彼の手に渡ったことを確認した彼女は、まるで丹精込めて完成させた彫像を見つめる芸術家のように、どこか満足げにカップを持ったままうなだれている彼の姿をしばらく眺めた。そして彼の鼻水と涎で汚れた右手をエプロンで拭うと、テーブルに置いていたもう一つのカップを手に取り、彼の横に座った。

 彼の上半身が横に倒れてしまわないよう自分の身体で支えるために、彼の隣に、ぴったりと、寄り添うように座った。

 マグカップに口をつけ、中身を啜る。

 彼女の控えめな喉仏が、コクコク、と上下する。

 マグカップから、彼女の唇が離れる。

 

「ふぅ………」

 

 ようやく一息つけたとばかりに、深いため息を吐いた。

 

 右肩に、彼の重みと体温を感じながら。

 

 

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