彼の独白が始まったのは、彼に温かいマグカップを渡してから暫くしてのことだった。
途切れ途切れに、掠れ声で語らるその内容はあまりにも断片的過ぎて、それを聴く唯一の人物は、彼が何の話をしているのか、何を話したいのか、おそらくよく理解できていないのだろう。あるいは、はなから聴き取ろうとする努力を放棄しており、適当に聞き流していただけなのかもしれない。
彼女は、注意して耳を傾けないと聴き取れないような彼の独白中も、時々手にあるマグカップを口に運んでは、中身の温かいスープをずずずと音を立てながら啜っていた。
ランタンの光に朧げに照らされた室内。部屋の真ん中に置かれたテーブル。床にはバラバラに分解された木製の椅子。こんもりとした山になっている、所々に赤い斑点が広がる白いシーツ。ベッドの上に、寄り添うように座る凸凹の彼と彼女。二人の手には湯気が立つマグカップ。
「…ごめん、…綾波」
名前を呼ばれ、彼女の視線は自分の隣に座り、体重を自分の右肩に預けてくる彼に向けられる。
しかし隣に座る彼は、名前を呼んだっきり、それ以上は何も喋らず押し黙っている。
ごめん、綾波。
君の、君たちの。君が懸命に作り上げ、守ってきた生活を壊してしまったのは、命令のためでもない。社会的制裁のためでもない。世界への責任のためでもない。
それはとても、至極、個人的な理由。
自分が許されたかったから。
単に、楽になりたかったから。
だから壊した。
後戻りができないまでに。決定的に。
君の事情など、お構いなしに。
壊してしまった。
余計に身勝手だと思うのは、自分の個人的な理由を押し通した結果生じた未だかつてない強烈な自己嫌悪に、小康状態になっていた自死への欲求が急速に高まったことだった。
息子として、部下として、パイロットとして、世界への責任さえ果たせば、自分にもこの世界に留まれる資格が与えられるのではないか。この世界の片隅に、ほんの少しでも自分の居場所を用意してもらえるのではないか。そう信じていたのに、いざ責任を果たしてみれば、残ったのは早く楽になりたかっただけの卑怯者な自分だけだった。卑怯者に優しくしてくれるほど、今のこの世界に余裕はない。
逃げ出したい。
一刻も早く、この世界から逃げ出したい。
それはとても自然な流れだった。あまりにも自然過ぎて、銃口を自らの顎に突き付けていたことに、自分自身が気づかないほどだった。
だから「それ」を邪魔されたとき、邪魔をした彼女がとても腹立たしかった。「それ」はお腹が減ったらご飯を食べる、催したらトイレへ行く、眠たかったら布団に入る、と同じように自身の欲求に素直に従っただけの、極当たり前のような行為なのに、彼女は全霊をもって邪魔したのだから、それは腹立たしくもなる。
だから、2度も「それ」を邪魔された時にはついついカッとなってしまい、彼女の髪を引っ張ったり顔面を鷲掴みにしてしまったりと、少々、いや、女性相手にかなり乱暴な対応をしてしまった。結果、あっさりと返り討ちに遭ってしまい、右腕に思い切り噛み付かれた挙句、顔面に膝蹴りを食らう羽目になってしまった訳で。自分よりも遥かにか細い女性相手にマウントを取られ、三桁を超える平手打ちを食らう羽目になってしまった訳で。殴られながら、涙を流しながら、ひたすら謝らされる羽目になった訳で。あまりに惨めな自分の姿に、自死への欲求すら屈服させられてしまった訳で。
誰かに命令でもされなければ、周囲の事柄に自ら積極的に関わろうとはしないはずの彼女。その彼女が、どうしてこうも執拗に「それ」を邪魔しようとしたのか。少し冷静に考えてみれば分かることだった。今まさに自ら命を絶とうとしてる者を目の前にして、人間が取れる行動は2つに1つだ。1つは、何もできずにただ事の成り行きを見守ること。もう1つは、やめさせようと試みること。人が死んだらその後始末はとても大変なことになってしまうので、ただでさえこの部屋では人が1人死んだばかりなのに、それがもう1人増えたらその後始末の苦労が倍になることを考えたら、彼女が後者を選択したのは実に彼女らしい合理的な考えだと思った。
そして彼女は、それが必要な行為であると認識したら、躊躇いなく徹底的にやる性分なのだ。結果、彼女が傷つくことになったとしても、身に纏うものがボロボロになったとしても、口の周りを真っ赤に染めたとしても、人の腕に歯型を残すことになったとしても、往復ビンタのやり過ぎで己の手が痛々しく腫れ上がってしまうことになったとしても。平気で無茶をする。
それが必要であれば、死の熱線の前にも躊躇いなく飛び出すし、組織の備品も平気で壊すし、爆弾を抱えて突っ込むし、自爆してしまうし、世界中の人々すべてを溶かしてしまうし。
そして事が終わってしまえば、何事もなかったかのように平然としている。
今も隣で、何事もなかったかのように、呑気にマグカップの中身を啜っている。
彼女は変わらない。
何人目であっても。
世界が変わってしまっても。
僕が人知れず、苦しんでいたとしても。
変わる世界。
変わっていく取り巻く人々。
激しく揺らぎ、本来の姿さえもはや見失ってしまった自分。
でも君だけは…。
彼女は言った。
「私はあなたが知っている綾波レイではない」と。
そうかもしれない。
いや、きっとそうなのだろう。
彼女は僕の知る限りでは3人目。
見てくれはすっかり変わってしまった。生活様式も以前の彼女とは似ても似つかない。
でも。
やっぱり、君は君。
君は揺らいでいない。
「あの時」以前と、「あの時」以後で。
誰しもが変わらざるを得なかった「あの時」を越えてもなお、変わらないままでいてくれる君。
荒涼とした大地の上に深く打ち込まれた道しるべのように。
嵐の中で煌々と灯る灯台のように。
時が経てば必ず宙へと昇る月のように。
変わらずに、そこにいてくれる君。
そんな君が、僕の側にいる。
それが僕には、とっても居心地よくて…。
気づけば、自分の右手が、彼女の右腕のカーディガンの袖を握っていた。まるで彷徨った樹海の中でようやく見つけることができた道しるべにしがみ付く放浪者のように、ぎゅっと彼女のカーディガンの袖を握っている。迷子になるまいと必死に母親の手にすがる幼子のように、彼女のカーディガンの袖に爪を立てている。
「…逃げて。…綾波…」
視線は足と足の間の床に落としたまま、隣の彼女に囁く。
「…もう少しで、…僕の仲間がここに来る。…その前に」
対象と行動を共にしている彼女の存在は仲間たちも知っているが、彼女が現場に居合わせていることまでは仲間たちは知らない。彼女がこの場から姿を消せば、「彼女は居なかった」だけで事は済む。
でも、分かっていた。彼女の返答が、否、であることくらい。
触れ合う彼女の肩が揺れている。それを目視で確認した訳ではないが、彼女が頭を横に振っていることは、見ないでも分かった。
彼女が自分の保身のために逃げていたとは考えられない。
その彼女が5年もの間身を隠し、逃げ続けなければならなかった理由。
その理由を壊してしまったのは、誰でもない、自分自身なのだから。
もはや、彼女に逃げなければならない理由はない。
嫌になるのは、彼女のその返答を予想していた自分。予想していて、次のセリフを準備していた自分。そのセリフのために、彼女の袖を掴んでいた自分。
床に這わせていた視線を、彼女に向ける。彼の視線と彼女の視線とが絡み合った。カーディガンの袖を握った手と同様に、縋りつくような眼差しで。
「…じゃあ、僕と一緒に、逃げないか」
「逃げないか」。この期に及んで、決定権を相手に委ねる自分の言い方が憎らしかった。
「…誰も居ない。誰も僕たちのことなんて知らない場所に逃げて、そこで一緒に、…死ぬまで、…ずっと…」
この世界を壊した君と、壊させた僕とで、ずっと、ずっと…。
彼女が去ってしまわないように。答えを強要するように、彼女のカーディガンの袖を掴む手に力を込めた。
その提案に、彼女の目が虚を突かれたかのように少しだけ丸くなっている。しかしそれはほんの僅かな時間だけで、瞬きした次の瞬間にはいつもの彼女に目に戻っており、そして絡み合っていたお互いの視線を解き、テーブルの上のランタンを見つめた。彼女の鳶色の瞳の中に、ランタンの朧げな光が宿った。
彼女は手に持ったマグカップを口もとに運ぶ。少しだけ唇を尖がらせ、その唇をカップの淵に付け、カップを傾ける。中のスープが唇に付いたら、ずずずとそれを啜り、口腔内へと注ぎ入れる。口から離したカップは膝の位置に戻し、喉を鳴らして口の中のスープを胃の中へと落とした。
口の中が空っぽになったら、鼻の穴を膨らませて、肩を上げて、大きく息を吸う。
そして今度は口の周りを膨らませ、肩を落とし、深く、長く、息を吐く。
その、彼女にしては珍しい芝居じみた所作に、彼は彼女の口から直に返答を聴く前に彼女の返答を理解した。
彼女の袖を握る手の力を緩める。
彼女は視線を天井の隅っこに投げながらこう呟いた。
「…今度は、息子の面倒を看ることに…なるのね」
無感動な声音で呟かれたそのセリフ。彼女がどのようなつもりでそのセリフを呟いたのか、その真意までは彼は分からなかった。
それは彼女なりの皮肉だったのかもしれないし、あるいは彼女なりの冗談だったのかもしれない。もし、そのセリフが皮肉であり、冗談だったのならば、何事にも整然と簡潔に答え、遠回しな表現をするということを知らない彼女が、この5年間で皮肉や冗談まで言えるようになったのかと、かえって感心してしまう。
いずれにしろ、彼女のそのセリフを承諾の言葉として受け取れるほど、彼の頭の中はお花畑ではなかった。
あのような状態になってしまった父親の面倒を5年間。そして、自棄になってしまった息子の面倒をこの先何十年。
自分の身に置き換えて想像すると、途端に胸やけがしてくる。
自分はとんでもない提案を彼女に迫っていたようだ。
彼は、彼女の袖からそっと手を離した。