告白   作:hekusokazura

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第五章 其の三

 

 彼は、正直に、しょ・う・じ・き・に心の中で呟いた。

 

 まずい、と。

 

 口の中に含んだスープ。

 ネギの味しかしない。申し訳程度に塩がまぶしてあるようだが、口の中を支配するのはネギ、ネギ、ネギ。体に良いからと薬膳スープとして押し通せなくはないのかもしれないが、これが毎日食卓にのぼることを想像すると、それは一種の拷問ではないかとすら思ってしまう。

 毎日これを飲み続けた父親を思うと同情を禁じ得ない上に、ちょっとばかし尊敬してしまう。心の底から愛した人が作ってくれたスープなのだ。きっと彼女の機嫌を損ねまいと、心の中ではもがき苦しみながらも笑顔でスープをおかわりしていたに違いない。コップの中身を一気に煽ったあと、「まずい!もう一杯!」と叫ぶ父親を想像してしまい、思わず心の中で笑ってしまった。

 それでも自分は気づいてしまっている。彼女が。隣に座るこのスープを作った彼女が、髪の隙間から覗かせる瞳で、固唾をのんでこちらを見守っていることを。いっそのこと、口の中に含んでしまったものを、そっとカップの中に戻してしまおうかと不届きなことも考えたが、彼女の視線に気づいてしまったからには、この口に含んでしまったものを、吐き出してしまうことは許されない。もはや自分に逃げることは許されないのだ。

 

 こく、こく、こく、と喉を鳴らして口の中のものを胃の中へと落とし込んでいく。

 胃の奥から口の中へと湧き上がってくるネギの匂い。カップを口に付けた瞬間は、鼻の孔に脱脂綿が突っ込まれたまんまであったことを思い出し、鼻が塞がれたままだと飲みにくいのではと危惧したが、それはむしろ幸いだった。鼻の孔が脱脂綿で塞がれているにも関わらず、噎せ返ってしまいそうになるほどの強烈な臭い。涙が出てきそうだ。鼻が塞がれていなかったら、倍化された臭いに吐いてしまっていたかも知れない。

 何とか口の中に含んだものだけでも食道を通過させることに成功し、すぐにカップを口から離して、ふう、と口の中のネギ臭を外に追い出す。

 そっと横目で彼女の顔を覗いたら、こちらに向けていた視線はいつの間にかテーブルの上のランタンへと移っていた。

 表情の変化は見られないが、どこかしら満足げな彼女の横顔。

 まったく、人の気も知らないで…。

 

 でも。

 

 ああ、でも。

 

 これで僕の願いの一つが叶ってしまった。

 心残りの1つが解消された。

 

 彼女の。

 綾波の料理を食べることができた。

 

 ちょっと思ったのと違ったけれど。

 でもこれはこれで、彼女らしい。

 

 ああもう。

 もうこれで、思い残すことはないんじゃないだろうか。

 

 4年を費やした末にあの人を探し出して。

 

 この世界への責任を果たし。

 

 彼女との再会を果たし。

 

 彼女の手料理を口にすることができた。

 

 世界への責任を果たすことで、僕の心は楽になるかもしれないと思ったけれど、それは大きな間違いで。やって来たのは以前よりも増して強力な自己に対する殺人衝動で。

 

 でも、そんな荒み乾き切った心を、彼女が救ってくれた。

 彼女はやっぱり変わらず、揺るがず、超然としていて。

 それでいてどこかトンチンカンで。

 

 今、僕の心はとても穏やかだ。

 今、僕の心はとても満ち足りている。

 僕は、もう満足だ。

 

 ―――そう。こんな時だ。

 

 こんな時こそ、「あれ」はやってくる。

 心が穏やかで、満ち足りていて。

 こんな時こそ、「あれ」は鎌首をもたげてくる。

 無防備な僕の心に、「あれ」は音もなく入り込んでくる。

 

 「あれ」が囁いてくるのだ。

 「今は穏やかでも、いずれその心はさざ波立つだろう」と。

 「今は満ち足りていても、いずれその心は乾いていくだろう」と。

 

 隣の彼女にとても、とても感謝しながらも、僕の目は無意識に床に視線を這わせてしまう。「あれ」に囁かれるままに、それを求めてしまう。

 ああそうか。拳銃は彼女が撃ち尽くしてしまって、おまけに外に投げてしまったのだった。床に落としてしまったナイフもいつの間にか無くなっている。おそらくそれも彼女が処分してしまったのだろう。まったく、彼女は周到だ。

 他に何か都合のよい代物が落ちていないだろうか、と部屋を見渡しているうちに、僕の脳裏にあの時の光景が浮かび上がってくる。

 僕に馬乗りになって、鬼の形相で(少なくとも僕にはそう見えた)、僕の顔面に平手打ちの雨霰を降らせた彼女の姿が。

 途端に身震いしてしまう。身体が硬直してしまい、「それ」を求めて部屋の隅々に視線を這わせていた自分の行為が、この世で最もやってはならない、恥ずべき行為であるような気がして、思わず目を瞑ってしまった。

 

 僕はあの時、「ごめんなさい」と何度も言いながら、同時に彼女に誓っていたのだ。

 ごめんなさい。もうしません、と。

 まるで母親から折檻された子供のように、泣きじゃくりながら、謝りながら、宣誓させられていたのだ。

 まったく。彼女のあの姿が頭に焼き付いている限り、僕は、僕の心は、僕の身体は、「それ」を選択することができそうにない。「それ」を実行することができそうにない。まったく…、彼女は周到だ…。

 

 だから僕は2度と「あれ」の囁きに耳を傾けることはないだろう。2度とその囁きに乗せられることはないだろう。

 

 ―――でも。

 

 でも綾波。

 

 やっぱり辛いんだ。僕は辛いんだ。

 

 僕の心と身体に君が頑丈な鍵を掛けてくれたけれど、それでも「あれ」は構わず囁き掛けてくるんだ。

 「逃げろ」「逃げてしまえ」と。

 僕の心のどこかに、その囁きに乗ってしまいたいという想いの欠片がある。その囁きに身を委ねてしまいたいという想いの欠片がある。

 そいつらが、閉じられた僕の心の扉を内側からドンドンと拳を立ててこじ開けようとしているんだ。でも、君が掛けた頑丈な鍵がそれを許さない。そいつらが扉の外に飛び出して、囁きの手に自らの手を伸ばそうとするが、君が掛けた頑丈な鍵がそうはさせまいと、そいつらを心の扉の中に頑なに閉じ込めている。

 僕の胸を何かが突き破って出てきてしまいそうで、本当に気持ち悪い。内と外とのせめぎ合いの狭間で、心と身体がバラバラいなってしまいそうなんだ。 

 なぜ、こんなに辛い思いをしてまで、人は生きていかなければならないのだろう。

 なぜ、望まぬ「生」を強いられているのだろう。

 なぜ、僕は、生まれてきてしまったのだろう。

 

「どうして、…僕なんかが…生まれてきたの…かな…」

 自分の中で渦巻く闇を纏った問い掛けが、自分も気付かないうちに口から漏れ出ていた。

 隣に座る彼女は、両手でマグカップを握ったまま、無言でいる。

 

「どうして、…僕は…、碇ゲンドウ…と、…碇ユイ…の息子として、…生まれてきたの…かな…」

 彼らの子供としてさえ生まれてこなければ、こんな苦しみを味わわずに済んだはずなのに。

 隣に座る彼女は、テーブルの上のランタンを見つめたまま、無言でいる。

 

「……僕は…、これから…も…、人間として…、生きていけることが…できるのかな…」

 世界を壊してしまった自分は、本当に真っ当な人間なのだろうか。

 生と死の狭間をひたすら行き来している自分は、本当に生きていると言えるのだろうか。

 

 隣で息を呑む音が聴こえた。

 見ると、テーブルの上のランタンを見つめていたはずの彼女が、いつの間にかこちらに顔を向けている。まん丸と見開かれた鳶色の双眸で。

 しかしその視線はすぐに伏せられ、床へと落ち、テーブルへと向かう。瞳の動きに引っ張られるように、彼女の顔もテーブルの方へと向いていき、ぼんやりと何処か呆けた表情でランタンを見つめ直した。彼女の両手が何処か落ち着きなく、両手に収まるマグカップを揉んでいる。

 

 

 

 ―――あれはいつだっただろう。

 

    どこだっただろう。

 

 

 遠い遠い昔。

 いつか、どこかで、私は今の彼と同じ問い掛けを、あの人にしたような気がする。

 あの時、あの人は何と言っただろう。

 何と、答えてくれただろうか。

 思い出せない。

 思い出せない。

 とてもとても昔の話しで。

 私はあの頃から今日まで、ぼんやりと生きてきて。

 きっと大切なことも忘れてしまっているのだ。

 

 彼の問いに、今の私は何も答えることができない。

 彼の問いに答えを用意できるだけの経験値も、そして資格もない。

 だって…。

 

 ―――もういい…、もう十分。

 

 あの時、あの瞬間。

 私の想いは、彼の想いと同調していたはずだったから。

 彼の願いは、そのまま私の願いでもあったはずだったから。

 

 私に、彼の「それ」を止める資格はなかったはず。

 彼を傷付けてまで、彼を泣かせてまで、彼の「それ」を阻止する資格も権利も、私にはなかったはずなのに。

 

 なぜ私は彼を止めたのだろう。

 なぜ私は彼の願いを叶わせなかったのだろう。

 なぜ私は彼の苦しみを断ち切らせなかったのだろう。

 

 なぜ私は彼を生き続けさせようとしたのだろう。

 

 これではまるで。

 そう、これではまるで、5年前にあの人に対して始めたことと、一緒ではないだろうか。

 私はまた、あの過ちを繰り返すことになるのだろうか。

 行き着く先に、とてつもない悲劇が待っていたというのに。

 彼の行き着く先に、更に大きな悲劇が起こらないとは限らないのに。

 

 でも、私の身体は動いていた。

 考える前に、勝手に動いていた。

 ガラス戸に映る、彼が自身の顎に拳銃の銃口を突き付けているのを見た瞬間に、私の身体は勝手に動き、いつの間にか彼の腕にしがみ付いていた。

 そこからはもう完全に成り行き任せ。だって、一度止めてしまったものは、もう後戻りはできないから。一度始めてしまったことは、もうやめることはできないから。

 彼の腕に噛り付いてでも、彼の顔面に膝を入れてでも、彼の胸に馬乗りになってでも。

 一度止めてしまったから、とりあえず成り行きに身を任せ、たまたたま側にいたから、だから懸命に懸命に何度も何度も何度も彼の頬に平手打ちを食らわせた。

 彼を生きながらえさせるために。

 彼が望んでもない「生」にしがみ付かせるために。

 

 なぜ。

 なぜ。

 ―――なぜ?

 

 いいえ。

 その疑問はおかしい。

 その答えを、私はもう分かっているはず。

 

 それは「あの人」がそうさせたから。

 私の中にいる「あの人」が。

 「あの人」が、私の身体をそのように動かしたから。

 

 今の私に、彼の問いに答えることはできない。

 でも。

 そう。

 「あの人」なら。

 きっと「あの人」ならば…。

 

 

 ふと、左腕に感触があった。

 見ると、彼女がその細い両腕を彼の左腕に絡めている。そして彼の左肩に寄り掛かるようにして、彼の左腕に自身の体重を掛けていった。彼が何処にも行ってしまわないように。

「あや…」

「…わたし」

 彼女の名前を呼ぼうとした彼の声に、彼女のか細い声が重なった。

「…わたし、ずっと思っていた。…この身体に入れられる…そのずっと、前…から」

 横から覗く限り、彼女の表情はいつもの彼女の表情だ。ランタンを見つめる鳶色の瞳は、何の揺らぎもない。でも、彼女の小さな口から紡がれるか細い声は、ひどく震えている。

 

「わたしの、このカラダは、…わたしの…もの…じゃない。…いつも、…違和感があったわ」

 彼女の視線がランタンから離れ、彼の腕にしがみ付いている彼女自身の両腕に注がれる。

 

 

 自分の中の自我というものを自覚した時から始まった違和感。

 魂を次の身体に移植される度に感じた、まるで身体が無理やり入ってきた魂を異物として認識し、拒否反応を示しているかのような違和感。あるいは侵入してきた魂に対して、身体が魂に侵食してくるような、そんな違和感。

 その違和感は、あの人から、あの人の妻の名で呼ばれるようになって、そして会う人会う人が自分の名前を呼ばなくなって、より鮮明なものになっていった。

 魂の形と、器の形が、合っていないような違和感。

 自分が、自分でない感じ。

 身体が魂に問うてくる。

 あなた誰?

 あなた誰?

 あなた誰? と。

 

 

「最近になって、ようやく分かったの」

 果てしなく、自分の「記憶」と向き合った時間。

 果てしなく、自分の身体の遺伝子に潜った時間。

 「最近になって」と言ってしまったが、本当に分かったのはつい先ほどだ。

 

 眩い光の中、対面した赤く光る実を手に持った男の子。

 男の子に向かって声を掛ける、私であって、私でない誰か。

 その声は限りなく優しく、その瞳から男の子に注がれる眼差しは慈愛に満ち、伸ばされた両腕は今にも男の子を温かく抱き留めようとしている。

 

 

「このカラダは、わたしのものじゃない。わたしのために使っていいカラダじゃない、って」

 

 

 彼女のこの、自分とは違った意味で、自分自身の価値を徹底的に矮小化してしまう、ともすれば簡単に自分の身を犠牲にしてしまうような姿勢。昔から、そんな彼女の姿を見るのが痛々しくて、辛くて。だから、

「そんなこと…」

「分かるの。自分のカラダのことだもの」

 そんなことない、と否定しようとして、再び彼女の言葉と重なる。

 

 「わたしのものじゃない」と言っておきながら「自分のカラダのことだから」とか言ってしまっている自分。矛盾したことを言っていることは自覚していた。でも、うまく言葉にすることができないのだ。あれだけたくさんの本を読み漁り、たくさんの活字に触れてきたくせに、全く実になっていないことに、我ながら呆れてしまう。

 でも、もういい。自分が感じている違和感のことなんて、今はどうでもいい。

 今、彼に伝えたいことはそんなことじゃない。

 それは今、彼が隣に居ることで自分の身体から溢れ出てきそうな何か。指から、手から、足から、瞳から、口から、身体のありとあらゆる所から、彼に向かって溢れてしまいそうな何か。

 それはきっと、「あの人」の…。

 そう、きっと…。「あの人」の…想い。

 

 しがみ付くように彼の腕に絡めていた手の、左手を彼の腕から離す。

 手のひらを見つめた。

 

 言葉だけで伝えられる自信が無いのであれば、彼に直に感じてもらうしかない。

 理論よりも実践だ。

 

 

「分かるのよ…。この手は…」

 

 

 この手。

 私のものではない、誰かの手。

 この手がしなければならなかったこと。

 この手がずっとずっと、したかったこと。

 それはきっと、本を開くことでもなく、エヴァの操縦桿を握ることでもなく、学生鞄を持つことでもなく、雑巾を絞ることでもなく、軽トラックのハンドルを握ることでもなく、平手打ちをすることでもなく、包帯を巻くことでもなく、マグカップを渡すことでもなく。

 それはきっと。

 

 

 ドキっとした。

 自分の腕から離れた彼女の左手が、いつの間にか僕の頬を撫でている。

 少し冷たい彼女の手。僕の顔の隆起に合わせて、形を変えていく彼女の柔らかい手の平。

 

 

「…この手は、きっと、あなたを抱きしめるためにあったの」

 

 

 ほらやっぱり。

 どんな人、どんなものよりも、コレに触れている時が、一番しっくりくる。

 コレに触れていると、自分のものではないようなこの冷たい手が、少しずつぽかぽかしていくような気がする。

 間違いない。

 自分のものではないこのカラダは、でも不幸にも自分の魂が入ってしまったこのカラダは、本来はコレのためにあるのだ。

 もう迷わなくていい。

 

 少しだけ、彼女の左手に力が入った。視線だけを向けていた彼の顔が、やや強引に彼女に向けられる。鳶色の瞳が、まっすぐに彼の瞳を射抜いた。

 

 

「…この瞳は、きっと、あなたを見守るためにあったの」

 

 

 再びドキっとした。

 彼女の顔が、少しずつ近づいていくる。

 間近に迫る、彼女の瞳、頬、鼻、そして唇。

 

 彼女の右手のマグカップが、辛うじて引っ掛かっていた指からポロリと落ちた。ゴトンという音と共に床に落ち、倒れたカップ。中身のスープが床に広がっていく。

 彼女の顔が近づき、全身に緊張が走った彼の手からもカップが落ちる。底から床に落ちたそのカップは派手な音と共に砕けた。

 しかし2人は見つめ合ったまま。

 床に落ちた2つのカップを見ようともしない。カップが立てた音すら耳に入っていない。

 

 目を逸らしてはいけない。目を瞑ってはいけないと、顔中を緊張させ、必死に堪えていた。しかしそんな彼の覚悟と期待をよそに、彼女の顔は彼の頬を掠めるようにそっと横にそれていき、そして彼の左肩がすとんと僅かばかり重くなった。

「…この声は…」

 自分の左肩に顎を乗せえた彼女の唇が、左耳のすぐ傍にある。彼女が声を発するたびに、耳に彼女の吐息が掛かり、少しこそばゆかった。

 

 

「…この声は、きっと、あなたに子守唄を聴かせるためにあったの」

 

 

 

 彼が幼いころに消えてしまった「あの人」。

 彼を抱きしめることができなくなった「あの人」の手。

 彼の成長を見届けることができなかった「あの人」の瞳。

 彼に子守唄を聴かせることができなくなった「あの人」の声。

 彼のお喋りを聴くことができなくなった「あの人」の耳。彼と一緒に歩くことができなくなった「あの人」の足。

 

 彼を。

 気が付けば、彼の姿を追い求めるようになったのは、遺伝子がそう囁くから?

 私の全てだったはずの人の期待を裏切ってまで彼の願いを優先させてしまったのは、遺伝子がそう囁いたから?

 彼の願いを無視してまで彼の命を生きながらえさせようとさせたのは、遺伝子がそう囁いたから?

 「息子を守って」と、あの人の遺伝子が囁くから?

 

 記憶と魂は受け継がれても、その心までは受け継がれない。そう博士は言っていた。

 

 でも、ふつふつと湧き上がってくるこの感情。

 

 それは遺伝子が囁くから?

 

 私のカラダが、遺伝子に操られているから?

 私のココロが、遺伝子に侵されているから?

 

 遺伝子によって操られてしまう自分の行動。自分の感情。

 それはとても悲しいことだろうか。

 それはとても空しいことだろうか。

 以前の私なら、そう思っていたに違いない。

 昨日までの私なら。

 

 自分の自由にならないカラダ。

 自分の自由にならないココロ。

 ココロとカラダの乖離が、私を薄い紙きれのように引き裂いていく感覚に襲われ続ける毎日。

 こんなカラダは早く棄て去ってしまいたい。

 こんなココロは早く砕いてしまいたい。

 そう思い続けた日々。

 

 でも、今はそうは思わない。

 

 「あの人」のカラダ。

 リリスの魂。

 群体の器。

 幾つもの継ぎ接ぎだらけの記憶。

 

 これが。

 これこそが「私」という一つの個体なのだから。

 

 それらを全て含めた存在が、「綾波レイ」なのだから。

 

 そう思えば全てが受けいれられるような気がした。

 矛盾に満ち満ちた「私」という存在が、「私」の中の不可解な感情が、全て肯定されるような気がした。

 

 だから、自分のこの感情も、きっと間違いではない。

 悲しいものではない。

 空しいものではない。

 きっと、人が人を想うココロに、正解や不正解はないのだから。

 

 

 

 

だからそう。

 

ええ、きっとそう。

 

 

カノジョの。

 

カノジョたちの。

 

私の中に残るカノジョたちの想いも、きっと。

 

きっと。

 

 

 

 

「碇くん…」

 彼の、耳元に唇を近づけたまま、彼の、名前を呼んだ。

「…綾波…レイ…は…」

 カノジョたちの想いを、心に浮かべて。カノジョたちのココロを、その身に宿らせて。

 

 

 全ての「記憶」が色あせた写真、擦り切れてしまった古い古い動画フィルムのよう。

 私という存在がこの世に生まれた時から、捲り捲る「記憶」のページは、全てがモノクロの、何の彩りもない寂しいものだった。

 そのページを捲るのは、実に退屈な作業。

 誰も二度と顧みようとは思わないだろう、埃を被った萎びたアルバム。

 

 ところが、ある時期から。いや、特定の場面だけ、そのページは他のページとは様変わりし、とても瑞々しく、豊かに彩られている。

 

 

 包帯姿のまま、床に投げ出されてしまったワタシを抱き上げてくれた彼。

 

 病院の廊下ですれ違った彼。

 

 非常招集のため呼びに行ったら、校舎裏に倒れていた彼。

 

 突然、ワタシの部屋に訪れた彼。

 

 彼の父親の悪口を言い、ワタシにひっぱたかれてしまった彼。

 

 なぜ、エヴァに乗るのか問う彼。

 

 灼熱と化したエントリープラグからワタシを助け出してくれた彼。

 

 

 ―――「笑えばいい」という彼。

 

 

 そう。

 この頃から。

 この頃から、「記憶」のページは、急速に色彩を帯び始める。

 

 赤毛の女の子と仲良く踊る彼。…少し心がざわめく。

 

 丘の上から、全ての灯りが消えた街を、ワタシと、赤毛の女の子と、一緒に見下ろす彼。 

 

 ワタシの隣でラーメンを啜る彼。

 

 彼の匂いがする、初号機のエントリープラグ。

 

 エレベーターの中で、ワタシを「お母さんみたい」と言う彼。

 激しい動揺。

 ワタシの秘密を、彼が知っているかもしれないという恐怖。

 なぜそんなことに恐怖してしまうのか。分からず、余計に動揺してしまうワタシのココロ。

 初めての経験。

 

 虚無の海から生還し、ベッドですやすやと寝息を立てている彼。

 

 ワタシの散らかしっぱなしだった部屋を片付けてくれた彼。

 ア・リ・ガ・ト・ウ

 感謝の言葉。初めてのコトバ。

 

 親友の傷ついた姿に心を痛め、去ってしまった彼。

 

 それでも戻ってきて、ワタシたちを救ってくれた彼。

 

 33日ぶりに、ワタシたちのもとに還ってきてくれた彼。 

 

 ―――途切れてしまう、「記憶」のページ。

 

 

 3度目の目覚め―――。

 

 再開される「記憶」のページ。色褪せてしまっている「記憶」のページ。

 

 ワタシの淡泊な反応に戸惑っている彼。

 ごめんさい。碇くん。

 この時はまだ、遺伝子が囁かなかったみたい。

 

 心を赦せあう初めての男の子を、自ら手に掛け、絶望してしまった彼。

 

 アダム、そしてリリスと同化し、肥大化したワタシに恐れおののく彼。

 

 ワタシの膝枕に横になる彼。

 

 ワタシのもとを離れ、地上に戻ることを選んだ彼。

 

 ワタシのもとを離れ、地上に還っていく彼。

 

 

 彩り豊かに光を放つページ。

 そこには、いつも、碇くんが居た。

 彼と居るときだけ、その場面だけは、喜びと、悲しみが、満ち溢れ、ココロがどよめいていた。

 

 

 その「感情」が何なのか、「私」はまだ知らない。

 

 でもその「感情」を何と呼べばいいのかくらいは、「私」でも知っている。

 

 

「碇くん…」

 

 

 これは私の「ココロ」ではないから。カノジョの、カノジョたちの想いだから。

 だから私を抑えて、カノジョたちをその身に宿したつもりで、彼の耳もとに囁いた。

 

 

 

「…綾波…レイ…は…、碇くんを…愛してたわ。

 

 …心から……。

 

 誰よりも…愛おしいと思っていた」

 

 

 

 2人目?

 いや、3人目?

 どっちでもいい。

 どっちであろうと、この「感情」に間違いはない。

 私の言葉はカノジョたちのココロを、正確に表しているはず。

 

 

 右腕でしがみ付いていた彼の腕が、一瞬強張ったのを感じた。

 それが、耳元で囁かれてこそばゆかったのか、それとも囁かれた内容に驚いてしまったのかは分からない。でも、その後、急速に溶けていく彼の腕の力に、彼が自分の言葉を受容してくれたとを感じた。

  

 カノジョの、カノジョたちのココロを、私は伝えることができた、と思う。

 

 だから。

 ここからは。

 

 そう、ここからは、私自身の想い。

 

 カノジョたちのココロをこんな栗色の頭で喋ってしまったら、彼を戸惑わせてしまうだろうから、自分の髪が見えないようあえて彼の耳元で囁いてみた。

 

 ここからは、もう、違うから。

 ここからはもう栗色の頭を隠す必要はないから。

 

 だから、彼に密着していた顔を離した。

 彼から少し離れ、彼の顔をまっすぐに正面から見つめた。

 

 ああ、なんて顔をしているのだろう。

 あなたも、もう二十歳のはず。

 年齢の上では、もう大人のはず。

 私の中の遺伝子がこう言っているよ。

 大の男が、泣いちゃだめって。

 

 勇気をあげたい。

 彼に勇気を。

 生きるための糧を。

 

 

「覚えておいてほしい。

 

 あなたは色んな人から愛されていたことを。

 

 いつもではないかもしれないけれど。

 

 でもきっと、愛はいつもそこにあったわ」

 

 

 自分の想いだからだろうか。

 先ほどまでと違って、すらすらと、淀みなく滑らかに言葉が溢れていく。

 

 

「きっと、これからも、あなたを愛してくれる人が現れるわ…。

 

 だって、あなたは…ワタシたちに愛された…、ステキな人なん…だもの…。

 

 きっと…、…大丈夫…」

 

 

 ああでも。

 やっぱり何だか恥ずかしい。

 だって、自分の想いを言葉にすることなんて、初めてのことだもの。

 自分の想いをさらけ出すのは、やっぱり恥ずかしい。

 

 

「…きっと。…カノジョたちも、…そう…、信じて…いる…」

 

 

 自分はずるい女だと思った。自分の想いのはずなのに、最終的にはその言葉の責任をカノジョたちに丸投げにしてしまい、おまけに言葉もたどたどしくなってしまった。

 こんな意気地のない私を、カノジョたちは「情けない」と何処かでため息を吐いているかもしれない。

 

 アナタの、アナタたちの気持ちは、彼に十分に伝わっただろうか。

 ついにその口から伝えることができなかった、伝えたくても、その時間が与えられなかったアナタたちの気持ち。

 私の口は、それを過不足なく彼の耳に届けることができただろうか。

 

 ええ、そうね。

 きっとカノジョたちは私を褒めてくれていると思う。

 

 割れた窓ガラスから、心地よい涼やかな風が入ってくきて、私の前髪をさらさらと撫でている。

 きっと、カノジョたちの手が、風を通して、私の頭を撫でてくれている。

 「ありがとう」、と。

 「よく、頑張ったわね」、と。 

 それはおそらく、私の勝手な思い込みなんだろうけれど。

 穏やかな風は、今も私の前髪を、そして彼の前髪を、優しくさらさらと撫でていてくれている。

 

 

 私は理解した。

 

 ただ機械的に、自動的に再生産された私の4つ目の「生」。

 生まれた理由も、生きるための使命もなく、ただただ空っぽだった私の4度目の「生」。

 私という器。

 空っぽの器。

 なんにもない、なんにも残っていない。そう思っていた器。

 でも違った。

 空っぽの器。何も残っていない器。

 でも、その底。器の、一番の底。

 奥底に、こびりつくようにの残っていた何か。

 干からびていて、今にも蒸発してしまいそうな何か。

 乾いていて、でも、その分、かつて器を満たしていたどんなものよりも遥かに濃いもの。

 少し水を垂らせば、たちまちそれは潤いを取り戻し、豊かな光を湛え、芳醇な香りを漂わせ、あっという間に膨れ上がり、器から溢れてしまいそうになる。

 

 

 なぜ生まれたのか。

 なぜ生きるのか。

 

 罰を受けるため?

 そうかも知れない。

 

 贖罪のため?

 そうかも知れない。

 

 地下で死に掛けていたあの人を助けるため?

 そうかも知れない。

 

 人々の行く先のない慟哭の受け皿になるため?

 そうかも知れない。

 

 あの人に殺されるため?

 そうかも知れない。

 

 あの人の一番大切な人を演じるため?

 そうかも知れない。

 

 あの人と、彼を、再び引き合わせるため?

 そうかも知れない。

 

 彼に、彼の父親を殺めさせるため?

 …そうかも知れない。

 

 

 でも今、私は理解した。

 いいえ、私が、そうである、と、勝手に決めた。

 

 身勝手な私。

 でもよくよく振り返ってみれば、私はとても身勝手な生き方をしてきた。

 あの人の命令であれば、あの人のためであるならば、たとえその結果が多くの人々の不幸を招くことになると分かっていても、どうでもよかった。自分が必要ないと思えば、たとえ相手が求めてきたとしても、与えるということを一切してこなかった。身勝手に身勝手に生きて、そして挙句の果てには、あの人を裏切った。

 身勝手極まりない私。

 だから、この「生」では色んな罰を受ける羽目になってしまった。

 もう色んな罰を受けたらから。

 だから、もう怖くない。

 もう怖くないから、とことん身勝手になってやった。

 どんな罰でも受けてやる。

 10分後に私の頭上に隕石が落ちてきたって構わない。

 

 

 そう。

 

 きっとこの「生」は、今、この瞬間、この時のためにあったのだ。

 

 

 私という器の底に残っていた「愛」。

 こびりついていた「愛」。

 遺伝子に刻まれた「愛」。

 カラダに染み込んでいた「愛」。

 「記憶」に彩られた「愛」。

 それは彼への「愛」。

 彼に向けられた「愛」。

 彼のためだけの「愛」。

 あっという間に膨らんでしまった「愛」。

 器から、溢れ出てしまいそうなった「愛」。

 

 その「愛」を、次の器へと注ぐため。

 

 そのために、私は今日まで生きながらえてきた。

 もしかしたら4つ目の「生」だけでなく、「ヤナミレ」と呼ばれる存在それ自体が、今、この瞬間、この時のために生み出されたのではないか。そう思えてしまうほどに、この結論は私の心の中にすとんと納まった。

 

 私を再びこの世界に立たせたのは、人々の運命を司る天上の何某様ではない。

 きっと、この「愛」だ。

 

 あの地下で、私とあの人が引き合わされたのは、贖罪のためではない。

 無気力な「私」が器の中身を腐らせてしまわないよう、そして自らその器を砕いてしまわないよう、あの人は私の許へと遣わされたのだ。

 

 私が、彼とあの人を、引き合わせたのではない。

 あの人が、彼と私とを、再び引き合わせてくれたのだ。

 あの人の息子に、私の中に託された「愛」を届けさせるために。

 自分の命を賭してまで…。

 

 なんて身勝手なロジックだろう。

 なんて都合の良い解釈をしてるんだろう。

 でも、もう結果は生じてしまっている。

 だからもう、過程なんてどうでもいいじゃないか。

 

 

 今、「愛」は受け継がれたのだ。

 次の器へと。

 一滴残らず。

 

 

 ああ。

 これでもう本当に空っぽだ。

 私の器に唯一残っていたものが、次の器へと注がれ、もう私には本当に何もなくなってしまった。

 

 なんて晴れやかな気分なんだろう。

 なんて清々しい気分なのだろう。

 器の底に最後に残っていた欠片が吐き出され、ようやく魂が器にぴったりと収まったような気がする。

 心と身体がとても軽くて、今だったらこの不自由な左足でも、軽やかにスキップが、生まれてこの方一度もしたことがないスキップができてしまいそうだ。

 

 

 

 どこか高揚していて、ふわふわぽかぽかとした気分で天井を見上げている彼女の横では、深く深くこうべを垂れた彼がいる。その肩は小刻みに震えていて、膝の上に置かれた固く、固く握りしめられている両拳の甲には、目から溢れ出したものが滴り落ち、ちょっとした水溜まりを作っている。

 

「…ありがとう。…ありがとう…、綾波……」

 

 喉と顎が小刻みに震えてしまって、まともに声が出せないらしい。

 彼の口から繰り返されるその呟きはまともな形を成さず、彼女の耳には届かなかった。

 

 

 

 一人で自己満足な気分に浸ってばかりもいられなかった。

 

 彼が泣いている。

 声にならない泣き声をあげて、咽び泣いている。

 困った。

 自分の使命は果たせたと喜んでいたけれど、その事後処理のことまでは考えていなかった。

 自分の中に溢れていた「愛」を、本来持っているべき彼に届けたのだが、渡された相手がどんな反応を示すかまでは考えていなかった。

 彼が泣いている。

 大泣きしている。

 今までとは比べ物にならない程の勢いで泣いている。

 

 こんな時、どうすればいいの?

 

 「記憶」の箱をひっくり返す。脳に蓄積された「経験」を総動員させる。

 泣いている彼の隣で、困ってしまっている私。そう…、それはまるで…。

 

 ―――笑えばいいと思うよ。

 

 それはワタシたちの記憶の中でも、とても特別で大切な「記憶」。

 まるで魔法のような言葉だったけれど、でも今はちょっと違うと思うからちょっとあっちに行ってて。

 笑顔を向けようにも彼は俯いてしまっているし、何より私はこの身体に魂を放り込まれて以来、一度も笑っていないはずだから、きっと上手に笑えないと思う。

 

 どうしたらいい?

 どうすればいい?

 

 軽いパニック。

 

 

 そうだった。

 ああそうだった。

 答えはすぐ傍にあったんだっけ。

 

 さっき、自分で言ったばかり。

 あまりに気分がふわふわぽかぽかしていて、すっかり忘れてしまっていた。

 

 この手は、そのためにあるんだった。

 

 

 彼女は、彼の左腕に絡めていた両腕を離した。

 彼女の右腕が彼の背中に回り、首筋をなぞり、そして頭部へと。

 左腕は彼の右肩へと。

 彼の上半身を、自分の方へと引き寄せる。

 彼の身体からは、抵抗を感じなかった。

 彼の頬が彼女の胸に当たり、お腹を辿り、そして彼女の膝へとたどり着く。

 彼女は、膝の上に収まった彼の頭を、両腕でふんわりと包み込むように、そして自分の体温が伝わるようにしっかりと抱きしめた。

 

 この瞳は、そのためにある。

 

 彼の肩に自分の顎をそっと置く。

 肩越しに、今も咽び泣いている彼の横顔を見つめる。

 幼子が泣き止むのをそっと見守る母親のような穏やかな眼差しで。

 

 そしてこの声は。

 

 この声は…。

 

 …この声は…。

 

 

 さあ問題はここからだ。

 咄嗟にああは言ってみたものの、私は「子守唄」なるものを知らない。

 それどころか、生まれてこのかた歌というものを唄ったことがない。

 さっきは私の中の遺伝子に囁かれるがままに、そう口走ってしまってしまったのだけれど。

 残念ながら遺伝子は想いは提供してくれても、記憶までは提供してくれないようだ。

 今さら取り消すわけにもいかない。

 どうしよう。

 どうしよう。

 

 仕方がない。

 仕方がないから、私が唯一知っている歌。覚えている歌。

 子守唄では決してないだろうけれど。

 これしか私は知らないから。

 それを口ずさむことにした。

 歌詞までは覚えていないから、旋律のみをハミングで口ずさんだ。

 

 

 

 

 太陽が沈み、夜の帳がおりた湖。いつもなら虫や蛙の鳴き声が響くが、この夜の湖はしんと静まり返り、波紋の一つもない穏やかな湖面には真ん丸の月が浮かんでいる。

 湖の畔にぽつんと建っている小屋。唯一の窓のガラスは割れていて、その窓からは暖色系の淡い光と、小さな歌声が漏れ出ている。

 ランタンの朧げな光で照らされた部屋。ベッドに座る二人。

 一人はもう一人の膝の上に上半身を預け、もう一人はそんな相手の頭を優しく抱きしめている。

 膝の上の男性の頭を抱きしめる女性は、その耳元で、歌を口ずさむ。

 彼の後頭部に当てられた彼女の左手が、自身が口ずさむ歌に合わせるように、とん、とん、と軽いタッチで彼の頭を叩いている。

 

 それは母と子の姿。

 

 泣きじゃくる幼子を慰めようとする母。

 

 寝つきの悪い赤ん坊を、膝の上に乗せてあやす母。

 

 はるか昔から、世界のいたる所で繰り返されてきた、ありふれた家族の風景。

 

 

 

 

 歌声が聴こえてくる。

 

 小鳥のさえずりのような歌声。

 

 小川のせせらぎのような歌声。

 

 突然自分の中へと注がれた「愛」。

 止めどない「愛」。

 まじりっけのない、どこまでも純粋な「愛」。

 

 自分の中に洪水のように流れ込んできた純度100%の「愛」は、しかし自分の中に存在していた「あるもの」と反応しあう。

 

 そう。

 それは以前から自分の中にあったもの。

 ずっと前から、自分の中に存在していたもの。

 生まれた時から、確かにそこにあったもの。

 ずっとずっとそこにあったはずなのに、ずっと気づかないふりをしてきたもの。

 

 

 誰かが僕を呼ぶ声がする。

 色んな人が、僕を呼んでいる。

 

 真っ先に頭に浮かんだのはあのコの声。

「何やってんのよ。バカシンジ」

 

 ジャージ姿の彼。

「どないしたんやシンジ。なんや悩み事か。ほんならワイを一発殴ってみい。スッキリするで。ほんでその後はワイがお前を殴ったる」

 

 メガネを掛けた彼。

「なんだよ碇。そんなことで悩んでんの?それよりさ。今度横須賀にオーバーザレインボーが…」

 

 ソバカスの彼女。

「碇くん。アスカのこと、泣かせたらダメなんだからね」

 

 白銀の髪と紅玉の瞳を宿した少年。

「ありがとう、シンジくん。君に逢えて、嬉しかったよ」

 

 上官であり、同居人であり、仮初めの家族でもあったあの人。

「おかえりなさい、シンジくん」

 

 彼らだけではない。

 様々な人々の声が、僕を呼んでいる。僕に語り掛けてくる。

 

 彼ら彼女らから投げかけられるものは、時に憎しみだったり、時に怒りだったり、時に悲しみだったり。

 しかし、その中に混じって、確かに「それ」はあった。

 

 そして彼ら彼女らに混じって、あの人も僕の名を呼んでいる。

 

「よくやったな。シンジ」

 

 あの人も、僕の名を呼んでいる。

 

「そう…。よかったわね…、シンジ」

 

 

 彼女の言う通り。

 確かに「それ」はあった。

 いつも、僕の側に、いや、僕の中に「愛」はあった。

 

 その「愛」が、隣の彼女から注がれる大量の「愛」と反応しあい、たちまち何倍にも何十倍にも膨れ上がっていく。

 

 急に膨らんだ「愛」に慣れない胃がびっくりしてしまって、彼女が頑丈に掛けたはずの心の扉の鍵もいとも簡単に突き破ってしまい、嗚咽となって口から洩れてしまいそうになった。

 もったいなくて、だから口から洩れてしまいそうになったものは、感謝の言葉に変えて外に出した。

 

 ありがとう、綾波、と。

 

 

 慣れない、ただひたすら注がれ続け、溢れ続ける膨大な量の「愛」に、戸惑っていた自分の身体。

 戸惑い、強張っていた身体。それを、頭上から舞い降りてくる歌声は、温かいお湯に浸したように、じんわりとほぐし、ゆったりと溶かしていく。

 どこまでも温かく、どこまでも穏やかで、どこまでも満ち足りていて。

 いつまでもこうしていたい。

 いつまでも。

 

 歌声は同じ旋律を繰り返す。

 歌詞はない。

 彼女の鼻歌のみで繰り返される旋律。

 耳に馴染む旋律。

 いつかどこかで聴いたことがあるような旋律。

 

 記憶の遥か奥底に眠った、母親の記憶。

 母親に抱かれてた記憶も、子守唄を唄ってもらった記憶も、思い起こすことはできない。

 でも、ここでこの身を置いた、穏やかで、不可思議な体験の中で、もしかしたら沈んでいた記憶が揺り起こされ、掘り起こされたのかも知れない。

 自分はこの歌を知っている。

 彼女の口で奏でられるこの旋律を、僕は知っている。

 

 おそらく、子守唄になるよう、原曲よりも遥かに遅いデンポで奏でられる歌。

 ゆっくりと脈打つ心音に合わせるような落ち着いたテンポ。

 長調を基調とした、穏やかで、そしてどこか楽し気な旋律。

 

 「サビ」が終わり、歌は再び「Aメロ」に戻る。

 低い音階を行き来するやや平坦で、単調なリズムの旋律。

 歌は「Bメロ」へ。

 少し音階が上がり、続く「サビ」に向かってホップステップでもするかのような、軽やかな旋律。

 

 そして歌は「サビ」へと跳躍を踏む。

 

 そう。

 僕はこの「サビ」を知っている。

 この歌を知っている。

 

 

 

 抱きしめ、その横顔を見つめ、彼の心音に合わせてゆっくりと頭を撫で、子守唄を聴かせる。

 少しは癒されてくれたのか、腕の中の彼の身体はすっかり脱力していて、ただただ私の腕にその体重を預けてくれている。何の疑いもなく、全幅の信頼をもって、その身体を私に委ねてくれている。

 いつまでこれを続けていたらいいのだろうか。

 やめ時が分からない。

 やめようとは思わない。

 やめたいとも思わない。

 なんて贅沢な時間。なんて芳醇な時間。

 誰かを抱きしめているだけで、こんなに満たされた気持ちになれるなんて。

 とても素敵な時間。手放したくない空間。

 

 ところが、その時間は唐突に終わった。

 

 腕の中の彼の肩が、小刻みに震えている。

 今の今まで、すっかり脱力していた肩に、力が戻っている。

 小刻みな震えは、いつしか肩を頭を、上半身全体大きく揺らす震えへと変化した。

 見れば、彼の唇の隙間から綺麗な歯並びの歯が見え、ぎゅっと食いしばられている。

 

 そして、ついには彼は、彼を抱きしめる彼女の腕の中に自身の腕を滑り込ませ、その拘束を解こうとし始めた。

 彼の動きに抗うわけにはいかない。

 彼女は、彼の頭を抱きしめていた腕から、力を抜いた。

 彼はするすると彼女の腕からすり抜けると、上半身を起こす。

 

 今の今まで、彼の重みを感じ、彼の温もりを感じていた腕。

 ぽっかりと空いてしまった自分の腕。

 唐突に終わってしまった贅沢な時間。芳醇な時間。

 名残惜しむかのように、自分の腕を見つめる。

 

 そんな彼女の横で、彼はベッドに右手を付いて身体を支えながら、必死に左手で顔を覆った。

 堪えよう。堪えよう、と。

 せっかく彼女が与えてくれた癒しの時間に、これじゃあまりにも彼女に失礼だと、内からこみ上げてくるものを抑えようとし、内からこみ上げてくるものに負けそうな顔を隠そうとした。

 でも、ごめん、綾波。

 やっぱり無理だ。

 

 

「はっはっはっはっはっは…!」

 

 突然、声をあげて笑い始めた彼を、目を真ん丸にして見つめる。

 なぜ笑うのだろう。

 今のこの時間に、彼を馬鹿笑いさせる要素があっただろうか。

 

「くっくっくっく…くは、…はっ…ははははは…!」

 彼なりに何とか笑いを堪えようとしているのか、お腹を押さえ、声を押し殺そうとしていたが、ダメだったようだ。再び彼の馬鹿笑いが、小さな部屋の中に木霊する。肺の中を空気を全て吐き出すかのような大笑い。笑い過ぎて彼の鼻の両孔からスポンと吹き出し、放物線を描いて彼方へと飛んで行った脱脂綿を見送った彼女は、彼の笑い顔をまじまじと見つめる。

 知る限り、「記憶」のページを捲る限り、彼はどちらかと言えば控えめな性格で、表に出す感情も控えめで、少なくとも声をあげて笑う人ではなかったように思う。

 もしかしたら、これはとても貴重な場面に巡り合っているのかもしれない。

 彼の破顔を、興味深く見つめた。

 

 なぜ笑うのだろう。

 何がそんなに可笑しいのだろう。

 

 思い当たる節は……

 

 ある。

 

 何せ、初めて歌ったのだ。

 初めて、人に歌を聴かせたのだ。

 

 きっと、それはとても酷い代物だったに違いない。

 きっと、相当に音痴だったに違いない。

 聴くにも堪えない本当にどうしようもない歌声だったに違いない。

 

 でも。

 そうだとしても、何もそんなに笑わなくてもいいのに。

 あなたに手料理を食べさせる時もとても緊張したけれど、あなたに歌声を聴かせるのはもっと緊張したのに。もしかしたら、生まれて一番緊張していたのかも知れないのに。身体中の勇気を総動員させたのに。

 …そこまで笑わなくてもいいのに。

 

 私は子守唄というものを知らない。

 そもそも歌を知らない。歌を唄ったことなんて、一度もない。

 だから、唯一、覚えていた歌をあなたに聴かせた。

 

 どの街で暮らしても耳にした歌。

 どの街でも、聴かないことがなかった歌。

 どの街の、どのスーパーマーケットでも流れていた歌。

 お魚売り場、鮮魚コーナーの周囲では、必ずエンドレスで掛かっていたこの歌。

 何度も何度も聴いているうちに、自然と覚えたこの歌。

 私の唯一の持ち歌を、あなたに聴かせたのに。

 

 今も彼は、腹を抱えて笑っている。

 

 

 

 見れば、いつの間にか君が恨めし気にこちらを見つめている。

 いや。僕がとっても失礼な態度をとっていることは分かってるんだ。

 でも。

 いや、まさかこの場面で、あの歌を口ずさまれるなんて思ってもみなかったから。

 まさか君の口から、あの国民的ソングが出てくるとは思わなかったから。

 

「…ご、ごめん。ごめん…くくく…」

 

 誰にでも耳に残る、思い出の子守唄があるという。

 親に育てられた記憶がない僕には、それがなかった。

 でも今日から僕にも、思い出の子守唄ができた。

 もしいつか未来で、僕に何かの間違いで、僕なんかに子どもができてしまったとして。

 もしその子を寝かしつける役を与えられたら、きっと僕はなかなか寝付かない、泣き止まない子どもに向かって、今日君が僕にしてくれたように優しく抱きしめながら、今日君から聴いたこの歌を、僕の子どもに子守唄として唄い聴かせるんだろうな。

 「魚を食べると頭がよくなる」ことを説いたこの歌が子守唄に相応しいかどうかは分からないけれど。

 

 

 ようやく笑いが収まった彼。

 気づかないうちに、私はムッとした表情で彼を見つめていたらしい。

 目じりにたまった涙を拭いながら彼は言う。

 

「まったく…。やっぱり綾波には、敵わないよ…」

 

 そして朗らかに笑う彼。

 

 いったい何が敵わないのか分からないけれど。

 結局どうして彼が声を上げて笑ったのか分からないままだけど。

 

 柔らかな彼の笑顔を見て。

 

 頬がピンク色になっている彼の顔を見て。

 

 自然と私の顔も和らいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

司令。

 

碇司令。

 

今、どこに居ますか?

 

まだ、どこか近くにいらっしゃいますか?

 

それとも、もう「あの人」の許へと行ってしまったかしら。

 

 

司令。

 

聴こえていますか?碇司令。

 

あなたの子の笑い声を。

 

見えていますか?

 

あなたの子の笑顔を。

 

今、あなたの子は、笑っています。

 

あなたが、あなたの愛する人とこの世界で唯一血を分け合った子が今、

声を上げて笑っています。

 

あなた方の子にとって辛いこと、

苦しいことしかないこの世界で、

なおも彼は笑ってくれています。

 

 

 

 

ありがとう、碇司令。

 

私をこの世界に生まれさせてくださって。

 

ごめんなさい、碇司令。

 

あなたの期待を裏切ってしまって。

 

あなたの願いを引き裂いてしてまって。

 

 

こんなものが、あなたへの謝意になるとは思えないけれど。

 

贖罪になるなんてとても思えないけれど。

 

あなたの遺志を、

 

あなたの想いを、私なりに引き継いでみました。

 

 

不完全な群体の人類。

 

足りないものを補完し合い、

溶け合い、

使徒とすら混ざり合い、

一つの個体へと、

完璧な存在へと昇華する。

 

 

あなた方の計画を、私なりに真似てみました。

 

 

私の中にあった「愛」。

 

とても膨大で濃厚で、それでいてとても歪な「愛」。

 

その「愛」は今、

彼の中にあったとても繊細で、

脆くて、

今にも砕け散ってしまいそうな「愛」に注がれ、

互いに補完し合い、

溶け合い、

混ざり合い、

とても強靭な「愛」へと昇華し、

今、彼を優しく包み込んでいます。

 

きっとその「愛」は彼の中でさらに大きく豊かに育まれ、

やがては彼の器の中からも溢れ出し、

そして次の器へと注がれていくのでしょう。

 

その器で育まれた「愛」はさらに次への器へと、

いくつもの器へと、

引き継がれていくのでしょう。

 

そしていずれこの「愛」は、

地球と世界中の人々を温かく、優しく包み込むのでしょう。

 

その「愛」の中には、

紛れもなくあなたの「愛」も存在しています。

 

あなたはこの世界から旅立ってしまったけれど。

 

あなたの「愛」は失われません。

 

あなたの子が生きている限り。

 

きっとカノジョたちの「愛」も…。

 

碇くんが、笑っている限り…。

 

 

 

ようやく思い出しました。

 

司令。

 

碇司令はおっしゃいましたね。

 

あの日。

 

あの時。

 

あの場所で。

 

あなたは私に言いました。

 

それに私はもう一つ加えようと思います。

 

人類は、あなた方のように強くはないから。

 

あなたが愛した人の言葉に、

 

もう一つだけ、加えることを許してください。

 

 

太陽と、

 

 

月と、

 

 

地球と、

 

 

そして人々の「愛」があれば、

 

 

大丈夫。

 

 

彼らはきっと、強く生きていける。

 

 

 

 

 

司令。

 

 

碇司令。

 

 

こんなもの。

 

 

たったこれっぽちのこと。

 

 

それはあなたが思い描いていたことに比べれば、

 

 

取るに足らない、

 

 

とてもちっぽけなことかも知れませんね。

 

 

 

でも司令。

 

 

碇司令。

 

 

あなたの子は今、

 

笑っています。

 

 

 

あなたと、

 

 

あなたの愛する人とがこの世界に残した唯一の「愛」の証が、

 

 

今、笑っています。

 

 

 

 

これが私の、

 

 

 

 

私なりの、

 

 

 

 

 

身の丈にあった、

 

 

 

 

 

 

 

 

精一杯の、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――人類補完計画です―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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