すっかり陽が暮れて、明かりは闇夜に浮かぶ月の光と小屋の窓から洩れる灯りのみだった湖畔。
そこが今は、眩い閃光に包まれている。
小屋の周りを取り囲むように停められた数台の車。
車のヘッドライト。設置された照明器具。
車と車の間を、忙しそうに動き回る数人の人影は皆同じジャケットを羽織り、そのジャケットの背には二つの木の葉をあしらった内閣府のマークが貼り付いている。
その光の中で、青年は背広姿の男性、この国の成人男性の平均身長を上回る背丈の持ち主の青年よりも、さらに頭半分ほど背の高い、がっちりとした体格の男性と話している。
狭い未舗装路を車で走っていると、ヘッドライトに照らされた前方に、粗末な小屋が現れた。
小屋の前には、こちらに手を挙げて合図するアルバイトの青年。
車を降りて、青年のもとに歩み寄る。
青年は、まるで守るように、小屋のドアの前に立っている。
「対象はこの中か」
「はい」
問いかけに、短く答える青年。
次々と小屋の周りに駐車される車。その中の一台に向かって、目配せした。車の中から鑑識班が機材を入れたケースを抱えながら降りてくる。
「彼女も…」
青年に視線を戻す。
「彼女も中に居ます」
少し思いつめた表情の青年。
「そうか」
短いやり取りをしている間に、鑑識班がドアの前にやってきた。
ドアを、守るように立つ青年。
「入ってもいいか」
現場に入るための許可を、わざわざ部下から得る必要はない。
それでも、この小屋の中は彼にとっての聖域のような気がして、そこにドカドカと足を踏み入れるのは気が引け、断りを入れずにはいられなかった。
青年は頷くと、ゆっくりとドアから離れる。
「入る人数は最小限にしろ。それと、中に居る女性には一切構うな」
上司から命じられた鑑識班は短く返事をすると、ドアを開け、小屋の中へと入っていった。
「…対象を撃った拳銃はおそらくあの窓の周辺にあると思います。真っ暗だったので、まだ探していません」
ことの顛末を話し終えた青年は、「以上です」と言葉を切った。青年の報告を手帳に書き留めていた背広の男は、視線を手帳から青年へと移す。
「対象は、何か言っていたか?」
なぜ対象は拘束でなく、殺害されたのか。なぜ我々は、この青年に実の親を殺させたのか。
それは、彼の父親が持つ情報を全て封印するため。
世界を転覆しかねない情報を、その持ち主ごと抹殺するため。
青年が、父親から何か危険な情報を受け取っていないか。つい数時間前に実の父親をその手に掛けたばかりの青年に酷な質問をしているとは分かっていたが、確認しないわけにはいかなかった。上司として出来ることは、なるべく報告の時間を手短に済ませることで、彼をこの酷な時間から早く解放してやることだけだった。
「…どうした?」
背広の男は困惑しながらそう言った。
青年の口もとが笑っている。
場違いな彼の表情。ますます彼の心境が憂慮された。
上司の問いかけに、青年は頭を掻きながら答えた。
「はい。「一緒に夕食を食べよう」。父はそう言っていました」
「…そうか」
青年から返ってきた何とも素朴な返答に、拍子抜けしたような声を出してしまう背広の男である。
「はい」
何かを懐かしむように、今も小さく笑っている青年の表情。冗談を言っているようには見えなかったし、何かを隠しているようにも見えなかった。
「報告書を明日正午までに頼めるか?」
「はい」
「そうか。…大丈夫か?」
背広の男が青年の肩にそっと手を置く。
行きつく先が自分の父親の死というイバラの道を4年間も歩み続けてきた彼。熱心に仕事に励むその姿は傍から見ていて、煮え立った地獄の窯に父親もろとも落ちていこうしているようにも見えた。
4年間も一緒にやってきたのに、彼のチームに対するどこか余所余所しい態度が変わることはなかった。まるでこの広い世界に立った一人で立っているような、そんな雰囲気を、常に彼から感じていた。
肩を叩いてやることが、今の彼にとって何の足しにもならないことは分かっている。
でも、上司は部下に伝えたかった。
君は一人じゃない、と。
「はい。僕は大丈夫です」
そう答える青年。
緊張から解放された、どこか憑き物が取れたような穏やかな顔。
この4年間、一度も見ることがなかった、光を宿した瞳。
そんな部下の顔に、虚を突かれたようにきょとんとしてしまう上司である。
「その…大丈夫か…?」
全く同じ言葉を繰り返してしまった背広の男。青年の心境ももちろん心配だが、それと同時に彼の身体のことも心配だった。
青年から受けた報告は極簡単なものだったので、この小屋の中で繰り広げられた事の詳細は、明日にでも青年から提出される報告書で確認しようと思っていた。それにしても青年は彼の父親と、よほど激しい格闘を繰り広げたらしい。痛々しい青年の姿。彼の鼻の周りに残る血の痕。赤く腫れた両頬。右腕に巻かれた2つの包帯のうち、前腕に巻かれた方からは血が滲んでいる。
何故か同じ質問を繰り返す上司に対し部下は少し困ったような表情を浮かべたが、上司の視線が自分の腕に巻かれた包帯に注がれていることに気付く。そして上司の言葉の意味を理解した部下は、前腕に巻かれた包帯を何処か愛おしそうに撫でた。
歯を見せて笑う。
「知ってますか?工藤さん」
名前を呼ばれ、背広の男は「何がだ?」と眉根を寄せた。
「ネルフの女はね、とても強いんですよ」
小屋のドアが開いた。鑑識班の1人が出てくる。
「鑑識終わりました。仏さんを…」
そう言いかけて、青年の姿が目に入り、咄嗟に口を噤む。
背広の男に続きを促され、咳払いを入れる鑑識の男。
「ご遺体を運び出したいのですが」
「分かった」
許可を得た鑑識の男は、駐車された車の中では一番大きいワゴン車のバックドアを開けると、中から担架を持ち出し、そして再び小屋の中へと消えていった。
5分後。
外で作業をしていた全員の手が止まった。
全員の目が、「それ」へと集まった。
開いたドアから出てくる、鑑識2人と、彼らに抱えられた担架。
担架の上には、赤い斑点が浮かぶ白いシーツに包まれたもの。
そしてその側には1人の女性。
担架にぴったりと寄り添うように歩く、栗色の髪をした女性。
女性は、もともと不自由な左足と痛めてしまった右膝で、たいそう歩きづらそうにしながら、懸命に担架に付いていっている。白いシーツの隙間から覗く、浅黒い手を握りながら。
担架の上の白いシーツと、それに寄り添う女性の姿に、青年は目を奪われた。
そろそろ自分の仲間たちが到着する時間になって、小屋から退出していた青年。ボロボロのなりの彼女に、男所帯の彼のチームがやってくる前に着替えておくよう促したからだ。女性は青年にわざわざ退出しなくてもよいと言っていたが、その辺の感覚も5年前と変わっていないことに彼は苦笑しつつ、小屋の外で待っておくことにした。
そして着替えた格好で出てきた彼女。こげ茶色のカーディガンを脱いだこと以外はまるで変わっていない、濃紺のロングスカートと長袖の白いブラウス。しかしスカートには青年の鼻血の染みはなく、ブラウスも胸元まできっちりとボタンが留められている。5年前も彼らが通う中学校の制服以外の服を持っていなかった女性は、きっと今も同じスカートとブラウスの組み合わせしか持っていないのだろう。
その濃紺のスカートが、人工の照明の強烈な明かりに照らされて、青年の目には淡い青色。彼らが通った中学校の女子制服のスカートの色に見えて、青年の心臓は僅かばかり高鳴ったのだった。
はっとして、青年は同じように女性の姿に目を奪われていた上司の顔を見る。
背広の男は青年の気持ちをすぐに察し、頷いた。
青年は上司に頭を下げると、担架に向かって駆け出した。
右膝の痛みを堪えながら、じっと担架の上の白いシーツに浮かぶ赤い斑点を見つめ、歩いていた。
ふと、身体の右側が軽くなる。
見ると、いつの間にか側に立っていた彼が、自分の右脇に手を差し込んで、歩きやすいように身体を支えてくれている。
5年間、彼女が献身的にその身の回りの世話をしてきた人。
その半生の大半において、彼女の心の大部分を占めていた人。
そしてきっと今でも、彼女にとって、とても大切な存在であることに変わりない人。
そんな人との別れを、自分がそうさせてしまった足の痛みで、邪魔したくはなかった。
だからせめて彼女の歩みを助けようと、彼女の右脇に手を差し込み、身体を支えようと思った。
ところが、彼女は白いシーツの下から覗く浅黒い手を握っていた左手を離し、その手で彼女の右脇に差し込んでいた彼の腕の手首を握った。
彼女の手に、くいっと、腕を引っ張られる。
引っ張られた先にあるもの。
白いシーツの隙間から覗く、浅黒い手。
彼女の顔を見た。
私はもう十分だから。
何も言わない彼女の顔が、そう言っているような気がした。
彼女のその顔に、彼女のその手に促されるままに、その浅黒い手を握った。
すでに氷のように冷たくなっている手。
ごつごつとした厳つい手。
古い火傷の痕がある手。
父さんの手に触れたのはいつ以来だろうか。
ましてや、父さんの手を握ったことなんて。
最後の最後まで、自分に心を砕いてくれる彼女に感謝した。
きっと、ここで彼女に促されなければ、自分は父親の手の大きさというものを、一生知らずにいただろうから。
父親の手の感触を心に刻むように、じっと、結ばれた自分の手と浅黒い手を見つめていた。
ふと思い、視線を側に立つ彼女に向ける。
彼女に、空いた右手を差し出す。
きょとんとしている彼女。
そんな彼女の左肩からぶら下がっている腕の先の、彼女の小さな手を、半ば強引に握った。
左手に父親の手、右手に彼女の手を握って。
二人の様子を足を止めて、黙って見守ってくれていた担架を抱える鑑識の男に、頷いてみせる。
鑑識の男は頷き返すと、止めていた歩みを再開させた。
彼らは、びっこを引きながら歩く彼女の歩調に合わせて、ゆっくりと歩いてくれた。
小屋からワゴン車まではほんの僅かな距離。
いくら彼女の歩みがゆっくりだと言っても、ワゴン車にたどり着くまでの間はほんの僅かな時間。
そんな短い時間であっても、ついつい想像を膨らませてしまう。場違いなことを考えてしまう。不謹慎にも口許に笑みを浮かべてしまう。
それはいつだっていい。どこだっていい。
青い空の下の公園でも、夕暮れ時の河川敷でも、たくさんの人々が行き来する商店街でも、波が押し寄せる浜辺でも。
左手に父親の手。
右手に彼女の手。
家族と手をつなぎながら歩くって、きっとこんな感じなんだろうな。
自分の手から浅黒い手が離れ、担架がワゴン車の中に乗せられる。
「さよなら、父さん」と呟くと、つないでいた彼女の手に、ぎゅっと力がこもった。
ドアは閉じられ、黒い排気ガスを残して、狭い道を走り去っていくワゴン車。
残された2人は、手をつないだまま、黙って、薄れていくテールライトの光を見守っていた。
背広の男が二人の前に立つ。
最後の別れの時間を与えてくれた上司に、青年は深くお辞儀をする。青年の謝意を頷くことで受け取った背広の男は、青年の横に立つ女性を見た。
「綾波レイ…だね?」
背広の男の問いに、女性は黙って頷いた。
自分から名前で呼びかけ、そして相手からそれを認める応答があったにも関わらず、背広の男は困惑の表情を浮かべている。
国から莫大な予算が湯水の如く注ぎ込まれていたにも関わらず、徹底した秘密主義によってその資料が殆ど表に出ることはなかった組織。情報の殆どはかの極大事象によって破壊尽くされた本部と共に紛失しており、組織が所有していた巨大兵器のパイロットの一人であった女性についても、捜査機関が手に入れることができた情報は極僅かだった。背広の男が事前に確認できた彼女についての資料はA4サイズの書類一枚に収まる程度で国のデータベースには戸籍すらなく、手に入れることができた彼女の写真も、彼女の14歳のころの1枚のみだった。
証明写真と思しき1枚。そこに映る、じっとカメラを見つめる少女。
1度目にすれば2度と忘れることはないであろう、特徴的な容姿。
真白い肌。空色の髪。真紅の瞳。
その顔を見ていると、何故か心臓を鷲掴みにされているような錯覚に陥る。
自分だけではない。
新たに捜査対象に加わった女性の写真を部下全員に配ったところ、全員が1度見ただけで十分、あるいは2度と見たくないとでも言うように、その写真を返却している。
今、目の前に立つ女性。
その写真が撮影されたと思われる年から5年以上も経過していれば、ある程度容姿が変わっていたとしても仕方ないが。
自然光ではない、人工の照明が当てられるこの場では断言はできないが、今、目の前にいる女性の髪は栗色で、瞳は鳶色をしているような気がする。
たった1度見ただけで脳の奥底にこびりついてしまったあの写真の中の少女と、今目の前に立つ女性とはあまりにその容姿が違うので、「自分がそうである」と認められても、にわかには信じられないのだ。
背広の男が、名前を問うたまま、固まってしまっている。
相手の迷いを察した女性は、何かを思いついて、顔を伏せた。
青年とつないでいた左手を離し、両手で右目に触れる。
右の目もとをゴソゴソした後、続けて左目。
何度か瞬きして、そしてすっと顔を上げた。
真紅の瞳に見つめられる。
途端に、心臓を鷲掴みにされるような錯覚。背中を伝う冷や汗。
5年前の、あの一瞬の、空白の記憶を、掻き混ぜられたような感覚。
自分よりも遥かに小さくて細く、その気になれば3秒で畳んでしまえそうな女性に見つめられ、咄嗟に視線をそらしてしまう。
そんな背広の男をよそに、女性は右手に持っていた2つのカラーコンタクトレンズをぎゅっと握りしめて潰してしまうと、手を開いて地面にそっと捨てた。
「我々に同行してもらうが、よいか?」
なるべく彼女の瞳を見ないように、彼女の小さな鼻を見つめながら話した。
その鼻が、縦に揺れる。
「工藤さん…」
青年は上司の名前を呼んだ。
背広の男は腕時計に目をやる。
「3分やる」
そう告げて、背広の男は彼らに背を向けると数歩ほど遠ざかった。
一度離してしまった彼女の手を、もう一度握りなおす。
彼女の、ルビーのような瞳。複数の光源に照らされているからか、万華鏡のようにきらきらと光っている。
そんな瞳に見つめられて、たった3分しかないのに、彼は掛ける言葉を見つけることができずに、押し黙ってしまった。
そんな彼の様子を見て、困ったような表情を浮かべる彼女。自分から時間が欲しいと申し出たくせに何も話せないでいる彼に対して、勇気を与えることができたと思ったのに未だにくよくよしている彼に、まだまだ心配ごとが尽きないといった表情だ。
「ありがとう…、碇くん」
一向に喋れないでいる彼に、仕方なく彼女の方から声を掛けた。まったく、寡黙な性格はむしろこっちの方であるはずなのに。
「そ……」
そんなことない、と言おうとしてしまい、辛うじて一文字目で止めることができた。
一言目には否定の言葉。「でも」「いや」「そんなことない」。自分の口癖。悪い癖。
「僕こそ…、ありがとう、綾波」
気の利いた言葉が思い浮かばず、結局彼女の言葉をオウム返しするだけになってしまった。
気の利いた言葉のかわりに、握っていた手に少しだけ力をこめる。
きっと聡い彼女は、心の温かい彼女は、これだけで自分の気持ちが伝わると思うから。
そして、彼女の手の温もりを感じることができるのは、これで最後になるかも知れないから。
これから彼女が辿る運命。
それは彼にも予想できないことだった。
自分たちの時は、未成年のいちパイロットとして問われた責任は最小限に留められ、むしろ保護される対象になった。
でも彼女はどうだろうか。彼女が、自分たちと同じ扱いを受けるとは限らない。あの頃と情勢は変わってきているし、それに彼女と組織との関りは、自分たちと比べて遥かに深く、そして複雑だった。
当時の組織が彼女に関わるあらゆるデータをその都度抹消してくれていたし、あの爆弾証言を残した老人も大人としての最後の責任を果たすべく、当時子供だったパイロットたちに不利に働くような証言は一つも残さなかった。青年らが拘束した元組織関係者も彼女の詳細について知る者は殆どおらず、あの女性科学者はその証言を取る前にこの国と海の向こうの大国との間で交わされた密約により国外に連れ去られてしまった。だから、彼の仲間たちに、彼女の組織内での重要性について気づいているものはいない。せいぜい、組織の最重要人物が特に可愛がっていた子供、という認識。なかには彼女はあの男の愛人だったという突飛な説を唱えているものもいたが。
でも、調べが進めばいずれ彼女の正体が知れることになるかもしれない。
彼女の情報がまるで残っていないのは、単に本部を襲った巨大な爆発と極大事象によって情報が紛失してしまったのではなく、組織が意図的に消去していたことに気づく者が、いずれ現れるかもしれない。
彼女の姿を見た者が例外なく、恐怖にも似た感情を抱くことを、極大事象との関係に結び付ける者も現れるかもしれない。実際、それは正解なのだが。
いや、真実が明かされなかったとしても、世界が恐れ、抹殺を望んだ男と、5年間も行動を共にしていたという事実を、彼らは軽視しないだろう。彼女が、あの男から何かしらの情報を受け取っていないか。世界を転覆させてしまうような恐るべき情報を、あの男から吹き込まれていないか。
いずれ、彼女は容赦のない尋問に晒されるに違いない。
それは、自分たちが受けたものとは比較にならないほどの、苛烈なものになるだろう。
彼女の取り調べは公安警察が行うため、その身柄は内閣府直属の青年らのチームから公安に引き渡されることになる。そして下っ端の自分が公安の取り調べに立ち会うことなど許されないし、父親を捜し出したことでお役御免となる自分には、面会すら許されないはずだ。
もし、彼女が自分の父親と同じように、彼女の存在そのものが危険であると判断されてしまったら。
世界にとって、都合の悪い存在であると判断されてしまったら。
自分の知らないところで、彼女の運命が人々の都合の良いように決められてしまったら。
「……?」
握られた手が少し痛くなった。
強張った顔の彼を見つめる。
「…碇くん?」
その呼びかけに、彼は2回ほど瞬きをした。
彼女の赤く輝く瞳に見つめられ、彼の顔が何かを決心したように一瞬引き締められ、そして和らぐ。
「綾波」
彼の呼びかけ。自分よりもずっと身長が伸びてしまった彼の顔を見つめるのは、ちょっと首が疲れてしまう。
「…なに?」
「また会おう。綾波」
迷いのない、光を宿した瞳が、自分を見下ろしている。
彼女は少し目を伏せて、ゆっくりと首を横に振った。
「もういいのよ。碇くん」
それは彼の提案を拒むものであったが、決して撥ねつけるような強い拒否ではなく、彼の言葉を優しく受け流そうとする声だった。
彼女自身もおぼろげながら分かっている。
この先、自分を待ち受けている運命に。
きっと、今日、この日が、自分の旅の終着点なのだろう。
そう考えると、自分の「生」はとても恵まれているように思える。
もし人にはそれぞれに生まれた瞬間から課せられた使命というものがあったとして。
生きている内に自らに課せられた使命に気付くことできる人がどれだけ居るだろう。
ましてや、自らに課せられた使命を全うできる人が、一体どれだけ居ることだろう。
私は間違いなく幸せだ。
自分に託された使命を全うし、こんな満ち足りた気持ちで終着点を迎えられた人は、世界中を探してもそうは居ないだろうから。
もう私は、向こう岸に辿り着いた者。
だから、あなたはもう私に関わる必要はない。過去の残照でしかない私には。
もう過去には縛られず、父の手からも、母の手からも、ネルフからも、エヴァからも、私たちが壊してしまったこの世界からも、…そして私の手からも解放されて、自由に生きてほしいの。
彼女が僕の提案を拒むことは予想できることだった。
だから僕は戸惑わない。
そんなことで、僕の決心は揺らがない。
「君の気持ちなんて関係ないよ。僕はまた君に会いたいんだ」
ははっ。我ながら、なんて身勝手な物言いなんだろう。
きっと君はこう思っているんだろうね。僕に、過去には縛られず、父からも、母からも、ネルフからも、エヴァからも、僕たちが壊してしまったこの世界からも、…そして君からも解き放たれて、自由に生きてほしいと。
違うよ綾波。そうじゃない。僕はもう逃げない。全てを受け入れることに決めたんだ。過去も、父も、母も、ネルフのことも、エヴァのことも、みんなのことも、この世界のことも、…そして君のことも。全て背負って生きていくことに決めたんだ。
たくさんのものを背負ったはずなのに、不思議と今の僕の心と身体は軽く感じるんだ。だからこんな発言をしてしまったのだろうか。
いつになく強気な僕の発言に、彼女は目を丸くしている。
強気な僕の目が少しきつかったのか、彼女は目をそらしてしまった。
「…でも、きっともう無理」
いつになく弱気な彼女の発言。そうかもしれないね。でも。
「そんなことない。今回だって見つけられたんだ。次もきっと見つけるよ」
根拠なんてまるでないけれど。
でも出来る気がするんだ。色んなものを受け入れた今の僕だったら、なんだって出来てしまうような気がする。君たちからたくさんの素敵な贈り物を受け取った今の僕は無敵なんだ。
「絶対に見つける。君がどこに居ようと。たとえ月の裏側にいたって」
無敵な僕の強気な気持ちはどんどん加速度を増していく。
「そして君を僕のもとに取り戻すよ」
止まらないんだ。軽くなった僕の足はもう止まらない。
「君は僕の……」
止まらないはずなのに。
「僕の……」
続く言葉が出てこなくて。
「……」
…止まってしまった。
君は…僕の…。
何なんだろう。
同僚?
クラスメイト?
友達?
親友?
戦友?
恩人?
愛しい人?
恋人にしたい人?
どれも正解のようで、正解じゃないような気がする。
何というか。
君と僕は、他人同士がある種の契約によって結ばれるような関係ではないような気がする。
お互いがお互いを認め合うことで初めて成立するような、そんなあやふやな関係ではないような気がする。
僕は、ずっと昔から、君のことを知っていたような気がする。
それこそ生まれた時から。
いや、もしかしたら生まれる前から。
君はずっと僕の側に居てくれていたような気がする。
もちろん、そんなことはあり得ないんだろうけれど。
なぜかそんな気がするんだ。
僕がこの世に生まれた瞬間に、一番側に居て。
一緒に居ることがとても自然と思えるような存在。
そんな関係を、いったい何て呼べばいいんだろう。
この表現が果たして適切なのか分からないけれど。
でも彼女がその紅玉の瞳を僕に向けて、じっと次の言葉を待っているから、考えなしの僕はとりあえずとばかりにこの言葉を使ってみてしまった。
「君は僕の…家族なんだ」
そう口走ってしまった途端、ああ、何だかその言葉がとても当たり前のように、ごく自然に、君と僕の周りを包み込んで、じんわりと温かいもので満たしていくような気がする。
そして僕がその言葉を口にした途端、彼女の顔が肩ごとぴくんと跳ね上がった。
「君は僕に残された唯一の家族なんだ。…家族は近くに居るべきなんだ。だから絶対に君を見つけ出す…、絶対に君を僕のもとに取り戻してみせる…」
驚いたように僕を見上げる君の顔。
君もそんな顔、するんだね。耳まで真っ赤じゃないか。
その顔は喜びが半分、でも驚きと戸惑いも半分。
まだ僕の言葉が信じ切れないかな?
「…どうやって?」
「…え?」
「どうやったら、私は、あなたのもとに戻れるの?」
僕の行き当たりばったりな思考を見抜いているのだろうか。
それでは不安とばかりに、具体的な方法の説明を求められてしまった。
「どうやって、って…」
「……」
「…その…」
「……」
「…えっと…」
「……」
「…うー…ん…」
「……」
「……」
「……」
「…いざとなったら、また一緒にフォース・インパクトでも起こしちゃおうよ」
まるでイタズラでも画策する子供のような表情で言う青年。
「またみんなで混ざり合っちゃえば、きっと出会えるさ」
もちろんそれは、まったくの無策のままただ思い付きで喋っていた彼が、彼女に具体的な方法の説明をせがまれ、進退窮まった末に漏らしてしまった冗談に過ぎない。
冗談に過ぎないのだが、その言葉の意味を分かる者が聴いていたら、ゾッとするような、とても笑い事では済まされない冗談だった。
そして、その言葉が意味するものを、この場で唯一理解できるのは彼女だけ。
その彼女はちょっと困ったように、眉毛をハの字に曲げている。
「碇くん。お父さんと同じようなこと、言っているわ」
彼女の指摘に、彼は照れ臭そうにはにかみながら言う。
「しかたがないじゃないか。僕は碇ゲンドウの息子だもの」
彼の返答に、きょとんとした表情をする彼女。
やがてその表情が、柔らかな微笑みへと変化する。
「ふふ…、そうだったわね」
眩いライトの光の中で、彼女は少しぎこちなく、それでいて精一杯笑った。