告白   作:hekusokazura

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ただ綾波にお○○ちゃんと言わせたかっただけのお話しです。



おまけ(無敵のシンジさん伝説)

 

 

 とある2階建てアパートのドアの前で男と女が対峙している。

 アパートの住人であるタンクトップを着た長身茶髪ロン毛の男は、目の前に立つ紺色のスーツを着た、背中まで伸びる赤い髪を後頭部で束ねている女性を見下ろしながら、苛立ちのこもった声で言った。

「だから何度も電話で言ったじゃねえか!んな金はねえって!」

 自分よりも頭二つ分長身で、日焼けした肌にいわゆる細マッチョ系の引き締まった体躯の持ち主である男性の恫喝にも似た声にも、女性は物怖じ一つせず、腰に両手を付き、胸を張りながら言い返した。

「あんたの経済事情ははなっからお見通しなのよ。だからこっちも月10万円ずつの分割払いに応じたんじゃない。その支払いが3ケ月も滞ってるのよ。ほら、さっさと耳を揃えて出しなさいよ」

「こちとらあんたの訴訟の所為で職場をクビになっちまったんだよ!ったく、どーしてくれるんだ!」

「今後は人様に手出しする時はそれなりの覚悟を持ってからすることね。いい社会勉強になったじゃない。ほら、さっさっと授業料払う!」

「うっせーな!何度も言わせるなよ!クビになってこっちは金がねえんだ!なんだったらまた裁判所に訴えるか?差し押さえられるような財産なんて一つも無いけどな!」

「だから言ってるじゃない。あんたの経済事情はお見通しって。調べはついてるのよ。あんたの実家が地元じゃそれなりの名士で資産家だってことくらい。ほら。今からでもパパさんママさんにでも電話掛けて30万円くらいぱぱっと揃えてもらいないさいよ。なんだったら示談金と慰謝料合わせて400万円、パパさんママさんに工面してもらったら?」

「んなことできるか!」

「どーして。親子なんだからそれくらしてもらいなさいよ」

「できねーもんはできねーんだよ!分かったら帰れ帰れ!」

「どーしても支払いに応じないつもり?」

「何度も言わせんな!」

「ふーん。そっちがそのつもりなら、こっちにも考えがあるわ」

「んだよ?やろってのか?」

 これ見よがしに鍛えた二の腕を見せびらかす男。結局最後は腕力に物言わせようとする男に、女性は呆れたようにため息を吐いた。

「レイ…」

 赤毛の女性に呼ばれ、その背後にまるで影のように立っていたもう一人の女性が音もなくすっと一歩前へと進み出た。

 

 男は赤毛の女のことはよく覚えていた。何しろ自分がさんざん嫌がらせをし、アパートのドアや壁に落書きをしまくってやった相手だし、法廷ではけちょんけちょんに負かされた相手だったから。しかし、その赤毛の女の後ろに立つ、けったいな格好をした女には見覚えがなかった。

 濃紺のロングスカートに白のブラウス。そこまでは普通だが、首の上からが何処か奇妙だ。頭の上に乗っかった似合いもしないカンカン帽。その下から覗く襟元で切り揃えられた髪は、帽子に隠れてよく見えないがどこか現実離れした色をしている。そしてこれまた似合いもしない色付きの丸渕メガネ。

 まるで最終兵器の登場とでも言わんばかりの赤毛の女性の呼び込みに一瞬身構えた男だったが、出てきたのが赤毛の女性よりも頭半こ分低く、貧相な細い体つきをした女性だったので拍子抜けしてしまった。

 

 やや俯き気味の姿勢で前に出てきたカンカン帽姿の女性。

「レイ。懲らしめておやりなさい」

 まるで最後は「カッカッカ」と高笑いする諸国漫遊中の爺さんのような物言いをする赤毛の女性に促され、カンカン帽姿の女性はゆっくりとした動作で男の前に立つと、すっと顎を上げ、男を見上げた。

 

 油断し、あからさまに相棒を見下したような表情をしている男に、赤毛の女性は密かにほくそ笑んだ。あと少し待てば、相棒の口からは当人が身を捩らせたくなるほどの黒歴史大暴露大会が開始され、どんな相手でも最終的には土下座しながら「幾らでもお支払いしますから」と泣きついてくるのだから。

 あと少し待てば。

 待ちさえすれば…。

 よいはずだが…。

 

 相棒は、標的の男を見上げたまま黙っている。

 

 相棒が言うには、「それらの記憶」はまるで図書館の本のように彼女の記憶域の中に蓄積されているようで、「その記憶」を見ようと思ったら自ら本を探し出して閲覧しなければならず、自分自身の記憶とは違って自然に勝手に思い出したりすることはないのだという。例えば名前とか顔とか生年月日とか住所とか、相手の事前情報があればあるほど「記憶」の特定はし易く、今このように本人を前にして名前も分かっていれば「記憶」の特定は比較的容易のはずだが。

 

 相棒は今も男の顔を見つめたまま黙っている。

 

 もしかして標的の男の「記憶の本」に、黒歴史なるページは一枚も無いとでも言うのだろうか。

 この、見るからに脛に傷のありそうな男に、脅迫…もとい、素直に支払いを促せるような材料が無いとでも言うのだろうか。

 長い沈黙。

 

「なんなんだよ、こいつ」

 痺れを切らした男が、カンカン帽姿の女性の肩を小突いた。

 貧相な体つきの女性は、一突きで簡単によろける。

「ちょ、ちょっと」

 赤毛の女性は咄嗟に後ろに倒れかけた相棒の背中を支えたが、その衝撃でカンカン帽と丸渕メガネが地面に落ちてしまった。

「あ、やば」

 赤毛の女性は慌ててカンカン帽と丸渕メガネを拾い上げる。

 

 どん、と音がした。

 見上げると、男が背中をドアに貼りつけ、相棒を凝視している。

 驚きと、恐怖に満ちた表情で。

 

 男の目の前に立つ女。

 髪はどこか現実離れした空色。

 瞳は、禍々しい血の色。

 

 理屈は赤毛の女性にもよく分からないが、相棒の素顔を直視してしまった者は、皆一様にこのような反応をする。余計なトラブルを起こさないためにも、相棒の兄からは外に連れ出す時は他人にはあまり素顔を見させないようにと言われているため、赤毛の女性が用意したカンカン帽と丸渕メガネをさせていたのだが。

「まずっ」

 赤毛の女性が慌てて相棒の頭にカンカン帽を被せ、丸渕メガネを掛けさせた時にはもう遅かった。

 

「お、おまえは…、あの時の…!」

 男は脂汗を滴らせた顔で何かを言いかけ、そして飲み込む。

 そのまま固まってしまった。

 

 恐怖に満ちた表情の男。

 慌てた様子の赤毛の女性。

 そんな2人を他所に、当の空色髪の女性はずれたカンカン帽とずれた丸渕メガネというちょっと間抜けな出で立ちで、何事もなかったように涼やかな態度で相棒の赤毛の女性を見た。

「…行きましょう、アスカ」

 空色髪の女性は細い声でそう告げると、相棒の返事も待たずにアパートの階段を下りてしまった。

「え?ちょっ、ちょっと待ってよ!レイ!…んもう!」

 色々と想定外の事態に赤毛の女性は地団駄を踏む。

「これで終わりと思ったら大間違いなんだからね!覚えてなさいよ!」

 まるで小悪党の逃げ口上のような言葉を残しながら、慌てて相棒の背中を追いかけた。

 男はいつの間にか、ドアに背中を付けたままその場に尻餅をついていた。

 

 

 道を歩きながら赤毛の女性、惣流アスカは隣を歩く相棒に声を掛けた。

「レイ?何があったのよ?どうして何も言わなかったの?まさかあいつの過去に何の後ろめたいこともなかったなんてことはないわよね?」

 アスカの横を不自由な左足を庇うようにひょこひょこと歩く空色髪の女性、綾波レイ(本名:碇レイ)は首を横に振る。

「何よ。あるんだったらいつものように言ってしまえばよかったのに」

「あの場で言っていいものか、アスカの判断を仰ぎたかったから…」

 レイの言葉にアスカは軽くため息を吐く。

「ま、あたしの意見を尊重してくれるのは嬉しいんだけどさ。あんたもそろそろ自分で色んなこと判断できるようにならないと。あんたももういい大人なんだから」

「…そう?」

「そうよ。あんたの仕事っぷりをあたしはそれなりに評価してるんだから」

「そうなの…」

「ほら。自信持って」

「うん…」

「あんたはやれば出来る子よ!」

「…うん。分かった…!」

「よし!んじゃあ今からでも引き返してバシっと言ってやりましょう!」

「うん。言うわ。「あなた、人を殺したわね」って」

「はーい、ちょっと待ったー」

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

「いや、そりゃもうすぐに警察に行くべきでしょう」

 テーブルの対面に座る青年、碇シンジのその一言に、アスカは鼻から盛大にため息を吐く。

「…あんたって、ホントーにつまらない男ね」

 シンジがレイの説明を受けている間、ずっと不愉快そうに押し黙っていたアスカ。ちなみにこれが2人にとって半月ぶりの会話であった。

 アスカからのあからさまな不機嫌さをまとった鼻息に、シンジはびくつきながらも常識的な、アスカに言わせればつまらない発言を続ける。

「だ、だってそうじゃないか。これは殺人事件だよ?警察に任せるべきだよ」

 レイは隣に座るアスカを見た。腕を組み、足を組み、だらしなく椅子に座りながら明後日の方向を向いている。仕方なく、アスカに代わって遥かに口下手のレイが健気に続けた。

「遺体がないの…」

「…モノがなきゃ警察は動かないでしょうが」

 レイの言葉に、アスカの嫌味ったらしい呟きが続く。

「そ、そっか…」

 

 レイの片言の説明(それでも以前に比べれば遥かに流暢に話すようになっている)を総括すると、アスカが示談金と慰謝料の滞納分の督促を迫った男、斎藤タカシは、レイの中に蓄積されている「記憶」によれば、人を一人殺しているのだという。

 レイの能力はシンジも認めているところである。何しろ、シンジとアスカの一度目の破局の原因は彼女の能力によって暴露されてしまった彼史上最大の黒歴史に寄るものであったからだ。その能力の正確さは身に染みているのだ。

 そのレイが言うのだから、斎藤という男が過去に大きな罪を犯しているのは間違いないのだろう。

 

「それで…、僕はどうしたら?」

 レイはアスカを見た。やはり、不機嫌満載な顔で明後日の方を見ている。レイは仕方なく続けた。

「相手の人の名前と顔までは分かっているの…」

「殺された相手の素性を調べればいいんだね?」

 頷くレイ。

「はい、これ。手付金」

 そう言って、やや乱暴気味に万札をテーブルに置くアスカ。

「い、いらないよこんなの」

「なんでよ?あんたに仕事振ってんだから、受け取んなさいよ」

「身内だもの。受け取れないよ」

「はあああ?身内ですってえええ?」

 面白いように眉毛を吊り上げ、口を「へ」の字に曲げるアスカ。表情筋を自在に操る彼女を、何処か羨ましそうに見つめるレイである。

「ご、ごめん」

「ふん。レイ。先にシャワー浴びちゃうわよ」

 アスカは立ち上がるとレイの返事も待たずに部屋を出ていってしまった。

 

 落ち込んで項垂れている、恋人との3度目の破局を迎えているわが兄を見つめる。

 暫しの沈黙。

「…アスカ、僕のこと何か言ってた?」

 頭を横に振るレイ。

「……そう…」

 レイはテーブルの上の彼の手に自分の手を重ねた。

 少しヒンヤリとした手。それでもその手を通して、彼女の温もりが伝わってくる。シンジの表情が少しだけ和らいだ。

「…うん、ありがとう、レイ」

 

「…シンジさん…」

「なんだい?レイ」

「私の先月分のお給料、まだ頂いてないのだけれど…」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「…もう少し待ってくれるかな?」

「……シンジさん…」

「なんだい?レイ?」

「…そーゆーことろだと思うの」

 

 

 項垂れるシンジを残して部屋を出たレイ。ドアの向こうに、アスカが所在なさげに立っていた。もじもじしながらアスカはレイに言う。

「…あいつ。あたしのこと、何か言ってた?」

 首を横に振るレイ。

「なんなのよ、あいつ。さっさと謝りにこいっつーの」

 そう小声で怒鳴りながら、隣室のシンジに聴こえない程度の音で壁を殴る。

「あいつ、ちゃんとお金は受け取ったの?」

 アスカが置いていった万札はきちんとシンジのポケットに収められたので、レイは頷く。

「しばらく見ない間に痩せちゃってるじゃない。ちゃんと食べてるの?あいつ?」

「…心配なら、一緒にご飯、食べればいい」

「嫌よ。前はあたしの方から折れちゃったからあいつを付け上がらせることになっちゃったんだから」

「アスカが居ないと、食卓が寂しい…」

「う…」

「せっかくみんなで一つ屋根の下で暮らしてるんだもの。食事くらいみんなで摂りましょう」

「か、考えとくわよ…。ってか、あいつの仕事は上手くいってんの?」

「先月の依頼受注は5件」

「5件?たったの?ってかそのうち3件はうちの事務所からの調査依頼よね?」

 頷くレイ。

「だああ!ほら!だから言ったのよ!探偵業なんてそんなにうまくいきっこないって!」

「依頼数そのものはそこそこある。でも従業員が2人しかいないから、受注できる数が限られてくる」

「儲けは出てるの?」

「私のお給料は先月分がまだ未払い。…どこ行くの?」

「やっぱあいつのこと、一発殴ってやろうと思って」

「やめて。これでも彼、精いっぱい頑張ってるの」

「あんたはあいつのこと甘やかしすぎなのよ!」

「私はアスカからの報酬で十分お金があるから。今は彼の夢を支えてあげたいの」

「…あんた」

「なに?」

「もし誰かと付き合うことになったら、その時は絶対に私に相談しなさいね」

 なぜ?と首を傾げるレイ。

「相手がどうしようもない甲斐性なしだったらどうすんの?貢ぎまくって身を滅ぼしてしまうこと請け合いでしょう、あんたは」

 恋人の開業資金を半分出してやったあなたが言えたことじゃないでしょう、というセリフは飲み込んだレイである。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

「この中に該当の人はいる?」

 シンジがテーブルの上に並べた若い男性が写った数枚の写真。レイは即座に一枚の写真を指差す。

「ん…。彼は○△県○×市出身の木下トオルだね。199×年生まれ、当時は□△大学の学生だったようだ」

 シンジは鞄から取り出したファイルを読み上げる。

「サードインパクトの2週間後に両親の名前で警察に捜索願が出てる。知っての通り、当時の警察は、って今もだけど個々の捜索願に人手を割く余裕なんてなくて、ろくな捜査もされないまま「未帰還者リスト」入りになったようだね。つまり、国の記録上では彼はサードインパクトでの行方不明者扱いとなっているようだ」

 その後もシンジは「キノシタトオル」なる人物の個人情報を次々と読み上げていく。

 それをレイの隣で聴いているアスカは、今さらながらに国の捜査機関仕込みであるシンジの調査能力に感服した。彼女が勤める法律事務所が彼に様々な調査依頼をするのも、決して身内贔屓というわけではなく、たった1日で名前しか分からない人間をここまで詳しく調べ上げる彼の才能を買ってのことだ。

 

(だから報酬単価をもっと上げろって言ったのよ…!)

 

 シンジの探偵業の報酬設定。それが、彼と彼女の3度目の破局の原因である。自ら開業したとは言え、いきなり強気の報酬設定をするほど自信家ではないシンジはお手頃価格の報酬を設定したが、開業資金の半分を出した身であるアスカはきっちりと儲けが出るようシンジが設定した倍の報酬にしろと訴えた。3日3晩に渡って繰り広げられた喧々囂々の口論は、アスカの3度目の「あたしたち、もう別れましょう」の言葉で幕を閉じられたのだった。

 ちなみに1度目の「もう別れましょう」の後は、レイのアスカに対する「仲直りしないと取り立て手伝わない」の一言で3日で復縁。2度目の「もう別れましょう」の後は、朝ごはん担当のレイが毎日ネギスープを出すようになったので、2人の「もう仲直りしますから勘弁してください」で1週間で復縁した。

 アスカは密かに今回もレイがシンジとの仲を取り持ってくれるのではないかと期待していたが、3度目の破局からすでに半月。レイからそれらしいアクションはなく、悶々とした日々を過ごしているのだった。

 

 あらかた情報を読み終わって、シンジは2人に聴いた。

「被害者の身元はこれではっきりしたけど。…これからどうするの?」

「この…、木下くんだっけ?彼の遺体が見つからないことにはどうしようもないわね」

「…彼が今、何処にいるかは私にも分からない。でも、彼が何処で死んだかなら私、分かる…」

「…あんた。もう警察に就職しなさいよ。あんたが居れば未解決事件、大方解決するんじゃない?」

「…三億円事件の犯人なら分かるけど…」

「まだ生きてんの?」

「2016年の時点では…」

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

 田舎道を走る、ガタピシ音を響かせるオンボロ軽自動車。運転席にはカンカン帽と色付きの丸渕眼鏡をした女性が、助手席には赤毛の髪の女性が座っている。

 

 所々陥没している路面。そこを猛スピードで走る軽自動車の貧相な車体が面白いように跳ねる。

「あんたって、相変わらずハンドル握ると性格変わるわね」

「アスカも早く免許取ればいい」

 5年間無免許運転を続けてきたレイにとって、正規の運転免許の取得は容易いことだった。一方で人型兵器の操作には天性の才能を見せ、ドイツ時代には戦闘機も乗り回していたアスカは、教習所に通い始めて早3年。未だに普通自動車免許取得に至っていない。なんでも「私の辞書に後退の文字はない」「エヴァも戦闘機も後退は必要なかったから」だそうだ。

 エヴァに乗り、戦闘機に乗ってきたアスカにとって、揺れる軽自動車の車内など揺り籠の中に等しいが、座り心地最悪の座席シートが路面の衝撃をもろに腰に伝えてくるのがいただけない。おまけに今、ハンドルを握っている空色髪の女の運転がなかなかに乱暴で、急加速急制動を繰り返すため余計に衝撃が腰に響く。

 3人の中で運転免許証を所持し、安全運転を心がけている唯一の人物は今日は同行していない。彼は可愛い妹から「クルマ貸して」と言われ、「お願いだから無事に返してよ」とその顔に不安を色濃く浮かべながら愛車の鍵を渡し、仕事に出かけたのだった。

 

「本当にこの道で合ってるの?」

 念のため地図を用意していたアスカだが、レイは初めて通る道であっても一度も確かめることなく車を走らせている。

「今、彼の記憶と目の前の景色を重ね合わせながら走ってる。当時と殆ど変わっていないから間違いない」

「何よ、その便利なVRナビは」

「あっ」

「な、何?」

「お爺さんが道端でおしっこしてた」

「…いちいち言わなくてよろしい」

 

 

「…いつつつ…」

 腰を摩りながら車のドアから出てくるアスカ。

 先に降りていたレイは、クルマの周囲を見渡している。

「ここなの?」

 アスカの問いにレイは頷く。

 

 2人が住む街から車で20分ほど走った郊外の田園地帯。その田園の外れの小高い丘の上にある溜池。その溜池周辺を整備した公園に2人は立っていた。公園の三方は溜池を囲むように森林が生い茂り、残りの一方は丘の下の田園風景を眺めることができる展望台になっている。郊外の公園で訪れる人も少ないのか、構内には人っ子一人いない。「事に及ぶ」場所としては、決して悪いロケーションではなかった。

 

 レイにとっては初めて訪れた場所。

 でも知っている場所。記憶にある場所。

 曖昧で鮮明な既視感に襲われる感覚は、あまり気分の良いものではなかった。

 

 2人で遊歩道になっている溜池の畔を歩いていると、ふとレイが足を止めた。

「どうし…っ」

 声を掛けようとして、アスカは言葉を飲み込む。

 ただでさえ白いレイの顔が青ざめ、頬を脂汗が伝っていた。

 

 

 

 

 目の前に男性が立っている。

 池の畔の遊歩道の真ん中に、彼は立っている。

 知っている顔。

 あの写真の顔。

 首元が隠れるやや長めの髪。美青年といって差し支えない、整った顔立ち。どこか中性的な印象の男性。

 

 その彼が何か怒鳴っている。

 こっちに向かって怒鳴っている。

 

 彼の言葉に、「私」は激昂してしまったらしい。

 怒りに支配され、視界が真っ赤に歪む。

 

 「私」は彼に掴みかかる。

 華奢な彼は「私」に簡単に地面に組み敷かれる。

 「私」は着ていたジャケットのポケットから用意していた果物ナイフを取り出す。

 

 彼の胸に刺す。

 もう一度刺す。

 さらに刺す。

 念のためまた刺す。

 止まらず刺す。

 刺し続ける。

 めった刺しにする。

 

 気が付けば血まみれの両手。

 血まみれのジャケット。

 血まみれの彼。

 

 「私」は慌てて池に駆け寄り、綺麗とは言えない池の水で両手を洗う。

 手の血を洗い流したら、今度は血まみれのジャケットを脱いで池の水で洗う。洗うがジャケットに染み付いた血はなかなか落ちず、もう面倒臭くなり、ジャケットをそのまま池の中へ放り投げた。水を吸い、沈んでいくジャケット。血まみれの果物ナイフも、池の中へ投げ込んだ。

 

 「私」の体から彼の血が消え、「私」は少しだけ落ち着いた。

 

 その時だった。

 

 青かった空が、真っ赤に染まったのは。

 

 まるで洗い流したはずの血を大量にぶちまけたように、空が深紅に埋められていく。

 

 毒々しい赤い空。

 

 大罪を犯した「私」を天上の誰かが見ていたのか。その彼らが地獄の蓋でも開けたのか。

 

 一瞬にして赤に染まった世界に「私」は怖れおののき、頭を抱えて喚いた。

 

 背後に気配。血まみれの彼が居る方に気配。

 

 振り向く。

 

 そこに横たわっているはずの、彼が居ない。血まみれの姿で倒れているはずの彼が居ない。

 彼が着ていた服だけがそこに残され、地面には液体か何かが滴ったような痕が残っている。

 

 居ない彼に代わって、「それ」は居た。

 白い女。

 どこかの学校の制服を着た、少女。

 真っ白な肌。

 空色の髪。

 今の空のような真っ赤な瞳。

 

 「私」は叫んだ。来るな、来るな、と。

 しかし「それ」は「私」の訴えに逆らって、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

 「私」よりも遥かにか細い「それ」は、まるで大罪を犯した「私」を裁きにきた天子様のように、絶対的な存在感をもってこちらに近づいてくる。

 

 突然真っ赤になった空。

 突然現れた白い少女。

 異変は続く。

 

 少女の体が、崩れ始めたのだ。

 少女の顔が、瞳が、鼻が、口が、頬が。

 少女の腕が、胸が、足が。

 まるで火で炙られた蝋人形のように、溶けていく。

 

 あらかた溶けて蝋の山となった少女の体。

 今度はその山が、再び人の形を作り始めた。

 

 足が、腕が、胸が。

 頬が、口が、鼻が、瞳が。

 

 まるで動画を逆再生したように、溶けた蝋の山が人の形に戻っていく。

 しかし、再び成したその形は少女ではなかった。

 

 それは「彼」。

 「私」が今しがた殺したばかりのはずの「彼」。

 「私」がナイフでめった刺しにしたはずの「彼」。

 

 「彼」が、微笑みを称えた顔で、近づいてくる。

 

 すでに半狂乱に陥っていた「私」は、完全に発狂してしまい、自分のものとは思えないような叫び声を発しているうちに、視界は暗転。

 

 真っ赤な世界は漆黒の世界へと姿を変えた。

 

 

 

 

「…ッ!……イッ!……レイッ!…ちょっと、レイったら!」

 気が付けば、目の前には赤毛の相棒の顔。その顔が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。

「…アスカ」

 彼女の名前を呟いて、ようやくレイの瞳に光が宿った。

 

 

 突然地面に倒れこんだレイ。アスカは慌てて彼女の上半身を抱き上げたが、こちらの呼び掛けに対する応答はなく、軽く頬を叩いても反応はなく、薄く開かれた瞼の奥の瞳は呼び掛けるアスカの顔を見ようともせず虚空を見つめている。

 明らかな意識障害。

 彼女の意識が回復したのは、アスカが携帯電話で119を押そうとした寸前の時だった。

 

「レイ?ここが何処か分かる?」

 頷くレイ。

「ちゃんと声に出して言って」

「…○△市郊外…の、□×自然…公園…」

「今日は何月何日?」

「…6月…2日…」

 掠れてはいたが、しっかりと呂律の回った声で答えるレイに、アスカはようやく安心したようにほっと溜息を吐いた。

 

 それからアスカは足元がおぼつかないレイに肩を貸しながらオンボロ車まで戻ると、制止するレイに「前進だけだったらあんたよりも上手いわ」と言い放ち、法に仕える身でありながら帰りの道を無免許運転で帰ることになった。郊外の車一台がやっと通れるような狭い道。前から黒塗りのベ○ツが来ようがB○Wが来ようが一度も譲らず前進を押し通したのはさすがであった。

 

 

 

 

 お互いに向き合いながら膝を抱えて座る2人。

「ちょっとは良くなった?」

 アスカの問い掛けに、レイは俯いたままで小さく頷く。

 顔色こそ良くなったものの、レイは帰り道も帰宅してからも、ずっと黙ったままだ。そんなレイにアスカは手を伸ばし、少し乱れた空色の髪を梳いてやる。

 レイはぽつりと言った。

「初めて…見たの…」

 ようやく話し始めたレイに、アスカは急がせないよう柔らかい声で聴き返す。

「…何を?」

「「あの日」のこと…。世界中の…みんなが、溶けた…「あの日」の誰かの記憶…」

 抱えた膝小僧を見つめながら掠れた声で語る。

「私は…、世界中全ての人々に…、あのような光景を…見せたの…ね…」

 そう呟いて、再び黙ってしまうレイ。

 レイの言う「あの日」とは、6年前のことを指しているのだろう。彼女の告白は短く、なおかつ断片的だったが、レイが今何を思っているか、アスカは手に取るように想像することができた。

 抱えた膝に顎を乗せてぼんやりとしているレイに、アスカは自分の顔を近づける。レイの額に、コツンと自身の額を当てた。

「…バカね」

 その言葉とは裏腹に優しさと憂いに満ちたアスカの声。

「あんたがそんなことで思い悩む必要なんて全然ないじゃん」

「…でも」

「デモもへちまもないの」

 今度はゴツンと、少し強めに額を当てる。

「あんた、あたしが言ったこと覚えてる?」

 何を?と首を傾げるレイ。

「あんたは人形だって。命令があれば何でも言うことを聴く人形だって」

 そう言えば、確か「2人目」だったかがいつかどこかで言われたような気がする。レイは頷いた。

「あんたはあん時否定したけどさ。やっぱあんたは人形だったのよ。物よモノ。ネルフの備品」

 酷い言われようだと少しムッとした表情をするレイに、このコもあの頃に比べれば随分表情豊かになったものだと微笑ましく思うアスカである。

「人を刺殺したところで包丁に罪はない。人を撲殺したところで「バールのようなもの」に罪はない。それと一緒よ。あんたは頭がどうかしちゃってた大人たちに、いいように使われた人形でしかなかったの。だからあんたが「あの事」について罪を背負う必要なんてこれっぽっちもないのよ」

 物凄い論理の飛躍に、いまいちアスカの言葉を消化しきれてない様子のレイ。

「もう!鬱陶しい顔してんじゃないの!」

 そう言って、アスカはレイの足もとに自分のつま先を伸ばし、足の親指と人差し指の間でレイの脛の皮を摘まんで捻ってやった。

「…痛いわ」

 仏頂面でそう呟くレイ。

「痛かったら痛そうにしなさいよ。あんたはもう人形じゃないんでしょ」

「…そうね」

 今度はレイがアスカの脛の皮を、自身のつま先で挟んで捻ってやる。

「いったああああ!」

 顔中の筋肉を使って痛みを表現するアスカを見て、レイは口もとに手を当てながらクスクスと笑った。

「人が痛がってるの見て笑ってんじゃないわよ!この!」

 2倍返しとばかりに、今度は両手を使って湯舟のお湯をばしゃばしゃとレイに掛けてやる。

 負けじと、レイもお湯をアスカに掛け返す。

 2人が入って只でさえ狭いバスタブの中で、2人はすらりとした腕を足を大いにばたつかせながら、お湯の掛け合いっこに興じた。

 

 

 外仕事から帰り、家で書類の処理をしていたら、2人が何やら深刻そうな顔で帰ってきた。わが愛妹は青ざめていて、どこか足取りも悪い。急いで駆け寄り「どうしたの?」と声を掛けたら、破局中の恋人に睨まれながら「すぐにお風呂沸かして。お湯はぬるめで」と言われ、慌てて風呂場に駆け込んだ。

 指示された通りぬるめのお湯をバスタブに満たし、2人が居る部屋に行くと、破局中の恋人が愛妹の服を脱がせている最中だったので、慌てて別の部屋へと逃げ込んだ。

 2人がお風呂へと入る音。

 風呂場の外で、聞き耳を立てながら様子を覗っていた。

 沈黙は30分ほど続いた。

 心配になり、声を掛けようとしたところで、「いったああああ!」と破局中の恋人の悲鳴。

 風呂場に駆け込むべきかどうか迷っていたら、今度は「きゃっきゃ」と2人のはしゃぐ声が聴こえてくる。

「なんなんだよ、まったく…」

 ほっと胸を撫でおろすシンジである。

 風呂場のすりガラス越しに見える2人の影。うら若い乙女2人が、バスタブの中でお湯の掛け合いっこを楽しんでいるらしい。

 シンジは男なら誰しもが思うことを呟く。

「…僕も混ざりたいなぁ…」

 苦笑いしながら庭に干しているバスタオルを取りに行った。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

 翌日。アスカは一人で件の自然公園に来ていた。レイも一緒に行くと言っていたが、さすがに昨日の今日なので、レイには自宅療養を命じていた。

 それにしても困った。

 レイの話しによれば、斎藤はサードインパクトが起きた正にその時にこの場所で木下くんに対して事に及んだらしい。そして斎藤にめった刺しにされたはずの木下くんの体は、サードインパクトによって液体化してしまったという。レイの「記憶」はここまでだ。

 その後木下くんはどうなったのか。液体化したままなのか。それともアスカ自身がそうだったように、サードインパクト直前に命を断たれた者の中には、サードインパクト後に生きて帰還した者もいるし、遺体のままで実体化した例もあるらしい。

 もし木下くんが生きているのであれば、それはそれで「ああ良かったね」で済ましてしまえばいい。しかし液体化したままなのであればもはや木下くんの遺体を発見するのは不可能で、斎藤の罪を立証するのは途端に難しくなってしまう。仮に遺体として還ってきたのであれば、きっと斎藤がその遺体を処理してしまっているはずだ。もう6年前のことだし、斎藤が自ら口を割らない限りは遺体の在処を探すのは極めて困難だろう。

 この公園が殺人現場であることは間違いないし、溜池を攫えば木下くんを刺したナイフが見つかるはずだが、いずれにしろ遺体がなければ警察に通報のしようがない。

 もうここに居ても仕方がないと、アスカはヘルメットを被って原付バイクにまたがった。エヴァにも戦闘機にも乗れなくなったアスカが自ら運転できる動力付きの乗り物は、今や原チャリだけになった。ちなみにアスカが乗る原付バイクは世界で最も売れているもので、赤く塗装された限定モデルだ。とても気に入っているので「郵便屋さんですか?」とからかってくる輩は片っ端から張り倒してやっている。

 

 

 来た道を戻っていると、田んぼを囲む土手の上に一人の老紳士が立っていた。作業着を着たその老紳士は股を開くとズボンのチャックを降ろし、モノを出して土手の下の用水路に向かって放水を開始。

「…あのクソジジイは…」

 乙女になんてもの見せるんだと毒付きながら、老紳士の方は見ないようにして通り過ぎようとした。

 昨日のレイの言葉を思い出す。

 

『お爺さんが道端でおしっこしてた』

 

 きっと、レイが言っていたお爺さんとはあのクソジジイのことなんだろう。おそらく「自分の田畑だから」とこうやって毎日好き放題立小便しているのだ。

 いや、ちょっと待って。

 あれだけ堂々と放尿していたら自分も気付いているはずだが、昨日の道で自分はあのクソジジイの立小便姿は目撃していない。もしかしたら、レイが言っていた立小便ジジイは、彼女がVRナビとして利用していた斎藤の「記憶」にある立小便ジジイだったのかも知れない。

 であるとしたら。

 慌ててブレーキレバーを握り、方向転換する。

 

「ちょっと!そこのお爺ちゃん!」

「ん?なんじゃあ?」

「ちょっ!まずはそれをしまって!」

 

 立小便ジジイのもとに歩み寄ると、斎藤の写真を見せた。

「こいつのこと。見たことない?」

「ん?誰じゃあこりゃあ?知らんのお」

「そっか。…えっと、…じゃ、じゃあさ。あの日。6年前のあの日。お爺ちゃん、何処にいた?」

「あの日?おお、あの日か。あの日じゃったら、儂は…。おお、そうそう。あの日じゃったらほら。今と同じようにここで小便かましよったでよ。がはははっ」

「…どんぴしゃね。じゃあさ。その時誰か見なかった?」

「うーん?そうさのお。そう言えば、あん時は何じゃ大きなバイクがえらいスピードでこの先の公園に向かって走っとったのお」

「バイク…」

 確か、斎藤のアパートの駐車場には大型のバイクが停めてあったような気がする。

「そのバイク乗り。何か怪しいところなかった?」

「うーん。別にないのう」

「…そう」

「じゃがのう」

「え?何?」

「そのバイクはあの日の次の日も来よったんじゃ。そん時はバイクの荷台に大きいシャベルを載せよったんじゃ。タケノコの季節でもないのに、おかしいのう思うとったわい」

 

 原付バイクを走らせながら頭の中を整理する。

 立小便ジジイの話しが本当であれば、残念ながら木下くんはもうこの世にはいない。バイクの主が斎藤であったと仮定して、「事に及んだ」次の日に、斎藤が現場にわざわざ大きなシャベルを持ち込む理由なんて、一つしかない。おそらく木下くんはサードインパクト後に遺体として戻ってきたが、あるいは生きて戻ってきて再び斎藤に殺められたか。バイクで遺体を何処かに持ち運ぶことなんてできない。

 木下くんは今も、あの自然公園の何処かに、埋められている。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

「そりゃさ。アスカが僕の腕を買ってくれてるのは嬉しいよ。でもさ」

 夕刻の商店街を歩く兄と妹。シンジは両手に買い物袋、レイは肩に買い物袋をぶら下げて、肩を並べて歩いている。買い物の内容は主に食料品や日用品の類で、行く店もスーパーマーケットや雑貨店など若い男女がわくわくしながら行くような場所ではないが、週に1回か2回、仕事でなかなか時間が作れない兄と一緒に行く買い物を、レイは楽しみにしていた。シンジも、妹の身の安全を考えてなるべく一人で外出することを避けさせているため、妹の数少ない外出の機会であるこの買い物を貴重な時間と捉えている。もっとも最近では、破局中の恋人が毎日のように妹を連れ出してくれており、それはそれで兄として(破局中の恋人として)寂しい思いをしているのだが。

 アスカと出かける時は色付きの丸渕メガネにカンカン帽と、余計に目立つのではないかと思うような心配な格好で出かけているレイだが、シンジと出かける時はシンジが用意したレンズに薄い色が付いたの○太くんメガネで目の色を変え、頭にはニット帽を被ることで空色の髪を隠している。以前のように髪を染めたりカラーコンタクトレンズをすればもっと自由に出掛けることができるのだが、シンジは何となくそれは妹にはさせたくなかったのだった。

「初っ端から報酬高くしちゃったら、来る客も来なくなっちゃうだろ?それで後から慌てて安くしちゃったら、それこそかっこ悪いじゃないか。それをアスカは分かってないんだよ」

 今日のシンジは終始、破局中の恋人に対する愚痴である。自分の1歩前を歩く兄の背中を、レイは少し困ったように、それでいて小さく微笑みを浮かべた表情で見つめている。

「アスカはシンジさんにもっと自信を持ってもらいたいだけよ」

 兄の自尊心を保たせつつ、相棒の肩も持ってやる。2人との生活を続けていくうちに、こんな気遣いもできるようになったレイである。

「僕も自信が無いわけじゃないさ。自信がなければ自分で開業なんてしようとは思わないさ。でも自己評価と世間の評価が一致することなんて、まずないじゃないか。本当の評価ってのは、その差を摺り合わせて摺り合わせて、少しずつ決まっていくものなんだから。報酬だって、評価がある程度定まった時点で改めて設定すればいいだけの話しだろ?」

「でも、一度そのお値段に慣れてしまったお客さんは値上げした途端に蜘蛛の子を散らしたように去っていく、って高梨さんが言ってたわ」

「(うーん、いい加減、その高梨さんに会ってみたくなったな)そうかもね。そうかも知れないよ?でもまずは最初の顧客を掴まなきゃ話にならないじゃないか。今は種を蒔いている時期なんだ。花が咲くにはもう少し待たないと」

「咲くまでに私のお給料は頂けるのかしら」

「実際にアスカの事務所は僕の腕を買ってくれて、少しずつ仕事を回してくれているんだし。アスカの事務所は大きいから、きっと口コミで色んな所から依頼が来るようになるよ。それで儲かるようになれば人も増やすことができて、たくさん仕事が受けられるようになるよ」

「人を増やしてしまったら私のお給料は払えなくなるんじゃないかしら」

「人が増えたらさ。今の事務所じゃちっちゃいからどこかのビルの一室でも借りようよ。それでちゃんと固定電話も引いて。ホームページなんかも作ってさ」

「……」

「レイは今は台所のテーブルを仕事机代わりにさせちゃってるけど。新しい事務所に移ったら専用の部屋を用意してあげるよ。肩書も事務員から秘書とかに変えちゃったりして」

「……」

「そんで折角だから僕もスーツを新調しよっかなって思うんだ。……ってレイ?」

 自分が語る夢想についに呆れてしまったのか、背中からのレイの相槌が消えてしまったため、振り返った。

「レイ…!」

 一歩後ろを歩いていたはずのレイの姿が、そこには無かった。

 

 

 

 それは人通りが少なくなったところを見計らって襲ってきた。

 背後から接近してきたその男は、ニット帽を被った女の右腕を掴み強引に背中に回すと、もう片方の手で女の口を塞ぎ、そのままビルとビルの間のうす暗い路地に女を引きずり込んだのだ。

 

 背中と後頭部に衝撃。どうやらビルの壁に、乱暴に打ち付けられたらしい。

 視界には男の顔。

 男は右手で女の胸倉を掴み、右肘で女の腹を押し付け、ビルの壁から女の体が動けないように固定し、左手で女の口を塞いでいる。

「…声を上げたら殺す…!」

 低い声で女を恫喝すると、男は左手で女のニット帽とメガネを剥ぎ取った。

 途端に男の目が見開かれる。

 襲ってきたのは男の方で、相手を支配下に置いているのも男の方なのに、空色の髪、真っ赤な瞳、真っ白な肌の女の素顔を見た途端、表情が恐怖に歪んだのは男の方だった。

「お前…、やっぱり…、あの時の…」

 戦慄する男とは対照的に、拘束されている女の表情は涼やかなものだ。

「あなた…、やっぱり木下さんを…」

「その名を口にするな!!」

 男の怒鳴り声と共に降られる男の左手。男の手の甲は女の頬に当たり、女の小さな体がコンクリートで固められた路地に倒れこんだ。男はそのまま女の体の上に覆い被さると、女の細い首目掛けて両手を突き出す。

「やっぱり見てたんだな…!お前さえ死ねば…!」

 ぶつぶつ呟きながら女の首を締め上げていく男。

 

 首に強烈な圧迫感を感じながら、レイはぼんやりと考えていた。

 つくづく、自分は首を絞められる運命らしい。

 聴くところによれば「1人目」は女科学者に首を絞められて殺されたようだし、6年前にも今や戸籍上では義理の父に首を絞められた。「1人目」はまだこの世に生を受けて間もない頃だからろくに抵抗できなかっただろうし、6年前の自分はとても無気力で、むしろその命を自ら進んで義理の父に捧げようとしていた。

 でも今は違う。

 今は違うから。

 今はとても幸せだから。

 隣に彼が居て。隣に彼女が居て。

 この幸せを手放したくないから。

 今の私はとても我がままだから。

 だから…!

 

 

「ぐあっ!」

 突然男はうめき声をあげ、女の首をから手を離し、その場に蹲る。

 男の股間を蹴り上げた女は男が悶絶している間にその体の下から這い出ると、明るい方へ、光が射す方へ、商店街の表通りへと向かって駆け出した。

「待ちやがれ!」

 男は苦痛に表情を顰めながらも立ち上がり、逃げ去ろうとする女の背中に手を伸ばす。

 

 背後から迫る男の気配。

 もう一度捕まったら、男はすぐさま自分を殺してしまうだろう。

 嫌だ。

 死にたくない。

 今は絶対に死にたくない。

 助けて!

「お兄ちゃん!!」

「レイ!!」

 シンジは駈け込んできたレイを胸にしっかりと抱きとめると、彼女の後ろから手を伸ばして迫ってくる男に対し、自らの拳を突き出してやった。

 男の頬にめり込むシンジの拳。男の口から小さな白い塊が飛び出し、鮮血が迸る。

 男の大きな体が、地面に転がった。

 

 ビルとビルの間のうす暗い路地から逃げてくる妹。その後ろを追いかけてくる茶髪ロン毛のタンクトップを着た長身の男。それを見た瞬間、シンジの理性はプッツンした。

「俺の妹に何しやがるんだこの野郎!」 

 男に渾身の一発を見舞ってやったシンジは、完全にキャラクターを失った様子で倒れた男に馬乗りになると、男の頭部に次々と拳を振り落としていく。

 しかし如何せん喧嘩慣れしていないシンジくんである。最初の一発はカウンター気味でもあったため見事なものだったが、マウントからのパウンドはまるで拳に力が入っておらず、男に追加ダメージを与えられていない。

 その間に最初の一撃からの昏迷から脱した男は、伸ばした手が触れたビールの空き瓶を掴むと、それを馬乗りになる優男に向かって振り上げた。

 派手な音を立てて底が砕け散るビール瓶。額から血が噴き出すシンジの体が吹き飛ぶ。

 形勢逆転した男は、底が砕けて鋭利な刃物と化したビール瓶を、倒れているシンジの首目掛けて振り下ろす。

「シンジさん!!」

 か細い叫び声と共に、背中から衝撃。

 レイに背後から体当たりされて、男の握ったビール瓶はシンジの首から僅かにずれてコンクリートの地面に達し、今度こそ完全に砕けた。

 

 表通りから人の声。

 路地の騒ぎを聞きつけた野次馬が集まってきたらしい。

「くっ、くそっ」

 男は観念し、悪態をつきながら路地の奥へと走っていく。

 

「シンジさん!シンジさん!」

 路地に、兄の名を呼ぶ妹の悲痛な叫び声が響いた。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

 自然公園から帰宅したアスカ。

 リビングに入ると、フローリングに敷いたカーペットの上に2人が向かい合って座り込んでおり、破局中の恋人の血が滲む額に、相棒が脱脂綿に含ませた消毒液を当てているのを見てまず驚いた。その相棒の左頬には湿布が貼られているのを見て、ゾッと寒気がした。そして相棒から事のいきさつを聴いて、カッと頭に血が昇り、すぐさま踵を返した。

「アスカ。どこ行くの」

 可愛い妹に傷の手当をしてもらってデレデレ顔だったシンジの顔が少し険しくなり、出て行こうとした破局中の恋人を制止する。

「決まってんでしょ!警察よ!」

「駄目だよアスカ。行っちゃだめだ」

「どうして!相手は実力行使に出たんだから!探偵ごっこはもうおしまい!」

「でも行っちゃだめだよ」

「あたしが悪かったわ。うかつだった。あんたの言う通り、最初っから警察に相談すればよかったのよ。今からでも遅くない」

「うん。でもだめだ」

「なんでよ!あんたレイが危ない目に遭って平気なの!」

「平気なわけないじゃないか。でも今は行かないで」

「ああもう話しになんない。あたしやっぱ行くわ」

「行くなアスカ!!」

 シンジの怒鳴り声にアスカだけでなく、レイもびっくりして肩を竦ませた。

 シンジは震える自身の両手を見つめながら言う。

「僕の妹に…。こんな可愛い妹に手ぇ出しやがったんだぞ…。そんな万死に値する罪を犯した奴を…、ちんけな傷害罪なんぞで終わらせていいはずないじゃないか…」

 シンジの顔にサイコな笑みが宿った。

「後悔させてやる…。ふふふっ…。一生ブタ箱に押し込んでやる…。クックック…。一生臭い飯を食わせてやる…。それとも手っ取り早く○×組の若頭に頼んでコンクリート詰めにして駿河湾にでも沈めてやろうか…、ヒッヒッヒ…」

 何とも形容し難い、強いて言えば手負いの初号機で第14使徒を追い詰めた場面(もちろんテレビ版)の確変シンジさんのような笑みを浮かべているシンジに、完全に引いてしまっている2人。

 アスカは足元に座るレイのお尻をつま先で小突いた。何?と顔を上げるレイ。

「どうにかしなさいよ。あれ、あんたの兄貴でしょ?」

 アスカに言われ、兄の顔を見る。今も薄ら笑いを浮かべながら何やらぶつぶつと不穏当な発言を繰り返している兄を。

 アスカの顔を見る。

「あなたの恋人よ?」

「いや。あたしたち、もう別れてるんだから…」

 責任の押し付け合いを始めた2人をよそに、シンジはポケットから携帯電話を取り出し、どこかに電話を掛け始めた。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

「どっもー、こんにちわー」

「ちわーす」

「私たち、□○家庭裁判所の依頼を受けて参りました、調査会社の者たちでーす。はい、これ名刺でーす」

「な、なんなんだ、あんたら」

 いきなりアパートを訪れた背広姿の男性2人組を怪訝な顔で迎えた斎藤。

「はい。惣流アスカさんからあなたに対する慰謝料・示談金等の未払いの訴えがあり、家庭裁判所が近々あなたに対する強制執行、つまり財産の差し押さえをすることになりましたので、私たちはあなたの財産の事前調査に参りました。はい、これ家庭裁判所の令状でーす」

「やろう…、本当に訴えやがった…」

「これは裁判所命令なので拒否することはできません。もし拒否するのであれば、次はもっと大勢を引き連れて…」

「ああいいぜ構わないぜ。どうせ差し押さえられる財産なんてないんだ」

 斎藤は素直に2人をアパートの部屋に引き入れた。

 

 30分後。

「いやあー、あなたのおっしゃる通り、本当に何もありませんでしたねー」

「だから言ったろ。仕事クビになって、あらかた質屋に入れちまったんだ。その金も全部パチンコですっちまったけどな」

「こいつ。ほんまもんのクズやの」

「ああん?何か言ったか?」

「ああいやいや何も。ところで駐車場のあのバイクはあなたのものではないのですか?」

「あ、いやあれは違う。あれは俺のもんじゃねえ。俺はバイクなんて持ってねえ」

「はあそうですか。それで、これは惣流さんからの情報なんですが」

「なんだよ?」

「あなた、実は隠し財産持ってらっしゃる」

「は?隠し財産?」

「ええ。惣流さんがそう仰ってました」

「俺が?隠し財産?はっはっはっは!バッカじゃねえの!」

「へえ。違うと?」

「何言ってんだ、あいつ。やっぱ頭おかしいぜ。俺が何処に財産隠してるってんだ?」

「□×自然公園」

 メガネを掛けた背広の男のその一言に、斎藤の頬がぴくりと動く。

「…□×自然公園…」

「ええ。その公園の名前に聞き覚えは?」

「…知らねえなあ」

「ここから車で30分くらいのところにある公園なんですがね。本当に知らない?」

「だから知らねえって」

「そうなんですか。いや、惣流さんからの情報じゃあ、あなたがよくそこに通ってるって。ちょっと昔にはシャベルを持って行くあなたの姿を見た者もいるって。だからてっきりその公園のどこかに隠し財産でも埋めてるんじゃないかと思いましてね。本当に知らない?」

「知らねえって言ってるだろうが!」

「なんやこらあ!」

「ま、まあまあ、斎藤さん落ち着いて。知らないんだったら結構です。いや、良かった。面倒ごとにならずに済んだ」

「はあ?面倒ごと?」

「ええ。実はなんでもあの公園で遺跡が見つかったそうで、来週から発掘調査が行われるらしんですよ。公園の周りは全て掘り返されるそうなんですが、もしあそこにあなたの財産が埋められてて、それが掘り起こされちゃったら、それがあなたの財産であることを証明しなければこちらも差し押さえできませんから、色々と面倒だなー思ってたんです。いやー、良かった」

「ほんまこいつ。なんも持ってないから、わいらも楽させえてもろーたわ」

「ちょっと余計なこと言うなよ…。どうも斎藤さん。今日はご協力ありがとうございました」

「ありがとやした」

 

 

「やあ。2人ともご苦労さん」

「どや。わいらの演技もなかなかのもんやったろ」

「何言ってんだよ。こっちはいつ喧嘩になるかとヒヤヒヤだったんだぞ」

「ごめんね。せっかく久しぶりに休日が合って、3人で飲もうってことになってたのに、こんなことに巻き込んじゃって」

「まあいいさ。貴重な体験をさせてもらったよ」

「そや。こないオモロいことやったら、いつでも付き合うで」

「で、どうなの?新しい職場は?」

「んー、慣れんことばっかしや。社会人がこないめんどーとは思わんかったわ。今からでも大学生活に戻りとーてしゃーない」

「でも意外だったよな。この3人で唯一の大卒で会社勤めなのがお前だなんて」

「僕なんて中卒だよ?今の仕事が立ち行かなくなったらホントどーしよ、って思うんだ」

「そん時は陸自に来いよ。いつでもウェルカムだぜ」

「それよりもお前は惣流に養ってもれえりゃええやろ。あいつ色々荒稼ぎしとんのやろ?」

「…先月の稼ぎは僕の30倍らしいよ…」

「惣流も色々あくどいことしとんのやろうけど、お前もたいがいやぞ。そんな甲斐性なしで綾波んことまで養えるんかい」

「レイはアスカと組んでるから、むしろ僕よりも稼いでる…」

「かーー!相変わらず女2人の尻に敷かれとんのー!」

「そ、そっちはどーなのさ。アスカが言ってたよ。最近の洞木さんからの電話は同居人の愚痴ばっかりだって」

「う、うっさいわい!ヒカリの奴。一緒になる前んはあのーにしおらしかったのに…。一緒に住むようになったらいちいち小言ばかりでうるそーてかなわんわ。なんやあいつは。うちのオカンかっちゅーねん」

「結局さ…」

「何?」

「なんや?」

「こうやって、野郎だけでつるんでるのが、一番楽なんだよな」

「…ですよねー」

「…そうやなー」

「旦那、旦那。こないだねー、駅裏にいいお店見つけちゃったんですよー。粒ぞろいっすよー。」

「ほー、そりゃ結構ですなー」

「興味ありまんなぁー」

「行っちゃいましょーかー」

「行きましょう」

「行かいでか」

「はっはっは」

「へっへっへ」

「かっかっか」

 3バカの友情は永遠であった。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

 陽が傾きかけた時間帯。

 人気のない公園。

 波紋一つない静かな溜池の畔で、ザクッザクッと、シャベルで地面を掘る音が響く。

 溜池の側を走る遊歩道が尽きる場所。そこから少し山の方へと入った茂みの中に、長髪をタオルで巻いたタンクトップの男がいる。

 男は手に持ったシャベルで、懸命に地面を掘っている。穴はすでに男の腿の深さまで掘られているが、まだ目当てのモノまで到達しないのか、男は掘る手を止めようとしない。

「くそっ!くそっ!くそっ!」

 シャベルの刃を地面に立てるごとに悪態を吐き続けながら、汗だくの男は穴を掘り続ける。

 

 カツン!

 

 地面にシャベルの刃を立てること何百回目か。シャベルの刃に、土とは明らかに違う感触が当たり、男は手を止める。シャベルを地面から浮かし、何かが当たった場所を覗き込んだ。

 男はすぐさまその場に蹲り、手で地面を払う。何度か地面の土を払いのけていくうちに、その下から白い何かが出てきた。

 男はごくりと唾を飲み込む。

 土の中から出てきたのは頭蓋骨。

 頭蓋骨の下の土をさらに払いのけていくと、次から次へと白骨が現れていった。

 

 

「それが木下さんなんですね」

 頭上からその声が降ってきた時、男は胸の心臓が破裂したかと思った。

 地面に四つん這いになったまま、顔を上げる。

 穴の縁に立ってこちらを見下ろしている、額に包帯を巻いた青年。その包帯の下にある怪我は男自身が負わせたものなので、男は彼の顔をよく覚えていた。

 

「これで証明されたわね。あんたの罪が」

 その声は背後から降ってきた。

 振り返る。

 こっちもよく知った顔。自分が徹底的に虐げてやって、その後手痛いしっぺ返しを食らわしてきた赤毛の女。

 その隣に立つ女。こっちは忘れたくても忘れられない女。「あの日」、この場所で、自分が大罪を犯す瞬間をすぐ側で見ていた女。空色髪の女は、無言でこちらを見下ろしている。

 

「て、てめえら」

 穴の中の斎藤はシャベルを武器として構えようとする。

「往生際が悪いんだよ貴様あ!!」

 この日も絶好調なシンジさんは斎藤がシャベルを構える前に、手に持っていた金属バッドを思い切り振り切ってやった。

「ぐはあっ!!」

 金属バッドの先端にわき腹を抉られ、その場に蹲り悶絶する斎藤。

 レイは思わず目を閉じ、アスカも咄嗟に顔を顰めてしまう。

「もうてめえは逃げられないんだよ。無駄なことに体力使う暇があったら、今のうちに腹いっぱい吸っとくんだな。もうてめえには一生吸うこたできねー娑婆の空気ってのをよぉ」

 

 アスカは茫然としながら隣の相棒に言う。

「…あれ誰?」

「あなたの恋人よ…」

「いや、だからあたしたち別れたんだって…」

 

 シンジさんはポケットから携帯電話を取り出し、番号を押すと耳に当てる。相手が出たのか、先程までのドスの効いた声が嘘のような半オクターブほど高い明るい声で喋り始めた。

「ああ、どうもどうも工藤さん。お久しぶりです。どうですか、新しい部署は?へー、そうですか。それは良かった。え?やだなー、所長とは言っても従業員2人だけの零細企業っすよ。もう貧乏暇なしっすわあ」

 相手は旧知の間柄なのか、ニコニコしながらお話を続けるシンジさん。

「え?あ、そーそー。それがちょっとお願いがありまして。今、○△市の□×自然公園に来てるんですが、パトカーを2~3台寄越してくれませんかねー。いやー、それが殺人事件なんですよねー」

 

 

「ねえ」

 アスカは穴の下で蹲っている斎藤に声を掛けた。まだ痛みに悶えているのか、斎藤は背を向けたまま返事をしない。

「ここには木下くんの遺体。池を攫えば木下くんを殺めた刃物もあんたの血塗れのジャケットもきっと見つかるわ。もうあんたに言い逃れは出来ない。だから教えてほしいの」

 少し呼吸が落ち着いた斎藤は這いつくばりながら肩越しにアスカ達の方を見やる。

「なんで、殺したの?」

 当然の質問を投げかけてくるアスカに、斎藤は再び視線を地面に落とした。

「うるせえ。どうしててめえに言わなきゃなんねえ」

「そこのオタンコナスが調べたところによれば」

 ニコニコしながら携帯電話で話を続けているシンジを顎で指しながらアスカは続ける。

「あんたたち、大学のサークル仲間だったそうね。でも周囲の証言によれば、同じサークルってだけで特に接点は無かったって話なのよ。そこのドテカボチャがいくら調べてもあんたが木下くんを殺さなければならない理由が見つからないの」

「だから言わねえって!」

「いいじゃない減るもんじゃないし。どうせ警察に捕まれば嫌でも白状させられることになんのよ?」

「うるせえ!!黙ってろ!!」

 そう怒鳴り散らすと斎藤は地面の土を掴み、アスカの足もとに投げつけた。

「な、何よ…!」

 アスカは戸惑う。シンジがよく見ているテレビの2時間サスペンスとかだと、追い詰められた犯人は自分から勝手にすらすらと白状していくものだが、それにしてもこの斎藤の頑なな態度はなんだ。人を一人殺したのだからそれなりののっぴきならない理由があったのだろうが、こうまで証言を拒む動機とはいったい何なのだろう。

 

「…アスカ…」

 そのぼそりとした呟きは不意に隣から投げかけられた。

 アスカは隣に立つ相棒を見る。穴の中の男を無感動な眼差しで見つめる空色髪の相棒を。

「なに?」

「個人的動機による殺人は統計的に分ければ主に3つ…」

「「憤懣・激情による殺人」、「怨恨による殺人」、「痴情のもつれによる殺人」の3つよね」

「この事件も特殊な事例じゃない…。あなたが3つ目に挙げたよくある理由」

「え?じゃあ、三角関係とか?片方が相手の女を寝取ったとか?」

 不謹慎にも目を輝かせてしまうアスカである。

 レイはゆっくりと頭を横に振る。

「これはあくまで彼と木下さんの、2人だけの問題…」

「え、じゃあどうゆう…」

「彼はゲイよ…」

「え?」

 

 固まってしまうアスカ。

 空色髪の女の暴露に、斎藤はがっくりと地面に膝を落とし、歯を噛み締めて地面を睨む。

 

「木下さんもゲイ…」

「そ、そうなの…」

 予想外の展開にアスカの目が泳いでしまう。少し頬を赤らめた顔で、穴の中の斎藤を見下ろした。

「へ、へー。そうなんだ。…世の中にはそんな人も居るってことは知ってたけど…、へ、へー」

 性的マイノリティに初めて会うような態度のアスカを、不思議そうな顔で見つめるレイ。

 

「碇くんはバイよ」

 

「え゛っ!?」

 

 斎藤を見下ろしていたアスカの顔が物凄い勢いでレイの方へと向けられる。

「な、な、ななな何て?」

 顎を震わせるアスカとは対照的に、表情一つ動かさず続けるレイ。

「バイセクシャル。両性愛者。両刀使い」

「えっ、ちょ、ちょまっ、えっ…、え、え」

 レイと、穴の向こう側で携帯電話で話している破局中の恋人を交互に見つめる。

「渚カヲルとの一件を知らない?」

「誰よそれ!」

 初耳だと言わんばかりのアスカの物言い。あ、そう言えばフィフスチルドレンが来たのはアスカがあっちの世界に行っちゃってた時か、と思い出したレイ。アスカから視線を逸らし、ゆっくりと穴の向こう側で携帯電話で話している兄に向ける。

「話すと色々とややこしい…」

「ちょっ!後でちゃんと説明しなさいよ!」 

 

 穴の向こう側で可愛い妹と破局中の恋人が何故かこちらを見つめてくる。

 シンジは顔から携帯電話を離し、「何?」と2人に視線を送る。

 

 笑顔のままでこちらを見てくる両刀使い。

 その笑顔を正面から受け止めきれず、アスカは思わず「ウッ」と呻いてしまう。隣の相棒の腕を肘で小突いた。

「…あれ、…あなたの兄貴よ」

「あなたの恋人よ」

「だ・か・ら、あたしたち別れてんのよ」

 アスカのその言葉に、レイは呆れたように鼻からをため息を吐く。

 両刀使いは一旦携帯電話を耳から離した。

「え?何?」

 笑顔のまま訊ねてくる両刀使い。

 アスカはぼそりと呟いた。

「シンジ…。あんたもつくづく難儀な男ね…」

「ん?」

 両刀使いの問いかけに、アスカは「なんでもない」とゆっくりと頭を横に振る。

 両刀使いは「そう」と返事すると、再び携帯電話で話し始めた。

 

「ったく。どーなってるのよ、碇家って…。みんな一癖も二癖もあり過ぎなのよ…!」

「身内が色々と迷惑を掛けるわね」

「言っとくけど、あんたもたいがいだからね?」

「え?」

「むしろ初めて会った時はあんたが断トツで変人だったんだからね」

「今は?」

「周囲の変人インフレが異常過ぎてむしろまともに見えてきたわ」

「そう…」

「あーー、でもどーしよ…!」

 アスカは両手で顔を覆う。

「この数日でいくらなんでも情報が氾濫し過ぎ。整理が追い付かない。ってかバイでサイコでシスコンって何よ?属性てんこ盛りし過ぎじゃないのあいつ」

「…バイでサイコでシスコンだけ?」

「は?」

「バイでサイコでシスコン。それだけ?」

「次は何が出てくるってーのよ…」

「知りたい…?」

「知・り・た・く・な・い!…ああ、でも知っておかなきゃなんないのかなー…」

 頭を抱えたまま身をよじらすアスカ。

「でも無理。私、自信ない。バイでサイコでシスコンでその他諸々のあいつを今まで通りに見ることなんてできそうにない」

「簡単なことよ…。碇くんは碇くん。ありのままを受け入れたらいい…」

「あんたはキャパ大き過ぎなのよ…!」

「いいの?」

 レイはアスカの目をまっすぐに見つめた。

「な、何がよ」

「まごまごしてて、…いいの?」

 細くて、それでいてどこか圧のある声でレイは問いかけてくる。

「碇くんの愛は深くて広い。それこそ私なんて足もとも及ばないくらいのキャパシティ」

「そ、そうなのよ。あいつ、去年くらいからなんか博愛精神に目覚めたのよ。「世界中に愛を蒔いていくんだ」とか訳の分からないこと言い始めたの。ラブ&ピースしだしたの。お前はレノンかっちゅーの。あたしはヨーコなんてまっぴらっつーの」

「そう。碇くんの愛は限りなく広く、世界中全ての人々に向けられている」

 

「死刑は無理ってのは分かってますよ。でも無期懲役くらいはできるでしょ?え?初犯だったらせいぜい5年くらい?いやいや。このクソヤローがたったの5年ですか?それじゃこれでどうです。殺人と死体遺棄と証拠隠滅と傷害罪の合わせ技でどうだあー!…え?それでも10年くらい?頑張って15年?なんでだああ!」

 

「あれのどこが愛が限りなく広いですって?」

「……何事にも例外はある。とにかく、碇くんにとって、世界中全ての人々が愛しい対象なの…」

「む…」

「これまではアスカにとって、碇くんとの恋のライバルはせいぜい周囲の女性くらいだったはず」

「そ、そうね」

「でもバイで博愛主義者の碇くんは無敵。あらゆる垣根が存在しない」

「……」

「世界人類。…未成年は犯罪になる可能性があるから除外するとして…、…ねえ、アスカ」

「何…?」

「地球上に成人の人類は何人いると思う?」

 

 気のせいだろうか。

 レイの両隣りにカッターシャツの前をはだけさせた男性2人が見えるのは。 

 

「…35億」

 

「これまた微妙に古いネタをぶっ込んできたわね…」

「…あと5000万人」

「うっさい」

 何故アスカに頭をはたかれたか分からず、涙目になりながらもレイは続ける。

「碇くんの前には35億、あと5000万人のライバルが居る。そのことをアスカは忘れてはいけない」

「う…」

「アスカ。もう一度言うわ」

 レイは再びまっすぐアスカの目を見つめる。

「まごまごしてていいの?」

 レイの圧のある視線と圧のある言葉に、アスカは頬を赤らめながら視線を明後日の方向へ向け、眉をハの字に曲げ、口をへの字に曲げた。

 強情な相棒に、レイは頬を緩める。

「私だって…」

 アスカは視線をレイに戻した。彼女の真っ白な頬が、気のせいか少しだけ赤い。

「私だって…、いつだって碇姓から綾波姓に戻してもいいのよ」

 口角を少しだけ上げた、どこか挑発的なレイの表情。

 アスカは再び視線を明後日の方向へ向け、唇をとんがらせた。

「…分かったわよ…、もう…」

 そんなアスカの横顔を、レイはニッコリとしながら見つめた。

 

 ―――35億の有象無象よりも、あんた1人の方がよっぽど脅威だわ…。

 

 

 

「俺のことは無視かあああ!!」

 穴からの大声。

 斎藤が、2人を見上げている。

「ああ、ごめん。もういいわ言わなくて。2人がそうゆう関係だったってんなら、動機はだいたい想像がつくから。あたしも悪かったわね。無理に聞き出そうとして」

「くっ…」

「あのレノン被れが集めた木下くんの写真。どれもどこか女性的な雰囲気の服装だったし、きっと顔は薄化粧してたわね。おそらく木下くんは自分がゲイ、…もしかしてトランスジェンダーでもあったのかしら。…そんな自分のことを何処かでカミングアウトするタイミングを探っていたのね」

 アスカの言っていることが正しいのか。斎藤は何も答えず、再び地面を睨む。

「サークル仲間の話しでは、木下くんは社交的な性格で誰とでも仲良くなれて、でもちょっと出しゃばりでお節介焼きで独りよがりで一人で突っ走ってしまいがちで。それが周囲とトラブルになることもあったらしいわ。…きっと木下くんは自分がカミングアウトする時と一緒に、あんたと交際していることを世間に言うつもりでいたのね。あんたはそれをやめさせようとしたけれど、木下くんは聴き入れてくれなかった。あんたはそれが許せなかったんだわ」

「あいつは…」

 斎藤は押し殺した声で語り出す。

「あいつは…分かっていないんだ。この世界は弱者には…、少数派にはとことん厳しいってことが。少しでも世界が決めたルールから逸れてしまったら、奴らは容赦しないんだ…。現に、俺は親にばれちまって、今は勘当同然さ…」

「そうよね…。世界は残酷よね…」

 相棒の声音が少し変わったような気がして、レイは隣の赤毛の女性の横顔を見つめた。

「弱者は虐げられる。少数派は蔑ろにされる。奴らは「その他大勢」、ただそれだけの旗印のもとに、みんなで寄って集って徹底的に嬲ってくるのよね。その行為には何の正義も正当性もありはしないのに…」

 アスカは話しながら自分自身が少し暴走しかけているのを自覚していた。自覚していたが、その口はもう止まりそうになかった。

 目の前に去来する様々な記憶。日常的に浴びせられた暴言。知らない人間に通り過ぎざまに飲み物を掛けられ、スカートを切り裂かれ。常に背中に恐怖を感じた帰り道。家に帰れば何度消してもすぐに現れ、増えていくドアや壁の落書き。

「あんたはそれが分かっていながら……!どうして……!あたしに……っ」

 

 声が大きくなりかけたところで、ふと、右手に感触。

 見ると、隣に立つ空色髪の女性の左手が、自分の右手をそっと握っている。

 そして、空色髪の女性が、何も言わず、ただ自分をじっと見つめている。

 どこまでも深い深い、深紅の瞳が見つめている。

 

 レイの、少しヒンヤリとした手の感触。レイの、何を考えてるんだか分からないような、それでいて何処か柔らかな眼差し。

 アスカの沸騰しかけていた頭は急速に落ち着きを取り戻していった。

 アスカは遠慮がちに握ってくるレイの手に自身の指を絡め、しっかりと握り直す。すると、レイの握る手にも力がこもるのを感じた。

 

 右手に彼女の存在を感じながら、穴の向こう側に立つ青年を見やる。

 今も、こっちのことなんて気にも留めずに、携帯電話で呑気に話し続けている。

 

 「なんでもアリ」の彼女がすぐ側に居て。

 無敵の男が手の届くところに居て。

 

 アスカはふふ、と笑った。

「ああ、なんだか色んなことがどーでもよくなっちゃった」

 あえて声に出して言ってみたら、不思議と本当に過去の色んなことがどうでもよくなっていくような気がした。

 そんなアスカの横顔を見て、レイもふふ、と小さく笑った。

 

「斎藤」

 穴の中で項垂れている男に声を掛ける。

「もういいわ。あんたの400万。全部ちゃらにしてあげる」

 アスカの突飛な申し出に、斎藤は顔を上げた。

「その代わりあんたはしっかりと自分の罪を償いなさい」

 アスカの言葉を彼の心は消化しきれなかったのか、斎藤は呆然としたままゆっくりと視線を落とし、地面を見つめた。

 暫くしてぼそりと斎藤は言う。

「……だ」

「は?」

「…嫌だ」

「え?」

「嫌だ…!俺は、刑務所なんかには行きたくねー!」

「えっ、ちょっ、今、いい流れだったじゃない」

 アスカの耳にはすでに岩崎宏○の歌声が流れ始めていたのだが、現実は火サス(1981年~2005年)のよういはいかないようだ。

「俺はムショには絶対入らねーぞ!!」

 そう叫びながら穴の中から這い出て、駆け出す斎藤。

 

 逃亡である。

 

「あ、あいつっ!ホントーに往生際の悪いっ!やっぱ今のなし!絶対に400万回収してやるんだから!」

 

 

「ええ。んじゃ、お願いします。ああ、できればダイバーも2、3人連れてきて下さい。池の中攫う必要があるんで。はい、はい、はーい。ではよろしくお願いしまーす。…ん。あれ?斎藤は?」

 ようやく携帯電話を切ったシンジにレイがぽつりと答える。

「逃げた」

 

 

 遊歩道に停められた大型バイク。それに跨った斎藤は鍵の差込口に手をやる。しかしいつもあるはずのものがない。

「か、鍵…!鍵どこだ…!」

「不用心ね。バイクを離れる時は鍵を抜いとかないと」

 斎藤のあとを悠然と追いかけてきたアスカは得意げに言いながら、人差し指に引っかけたキーホルダー付きの鍵をくるくると回して見せた。

「く、くそっ!」

 

「この野郎!俺から逃げられる男はこの世にゃ居ねえんだよ!」

 金属バッドを振り回しながら物凄い形相で追いかけてくるシンジが巻き舌で言い放つ言葉を、ついつい深読みしてしまい顔を赤らめてしまうアスカである。シンジの後ろを、レイがひょこひょことびっこを引きながら歩いてくる。

「ちくしょう!」

 ただならぬシンジの気配に怯えながら、再び駆け出す斎藤。駆けっこには男にも負けない自信があるアスカは慌てて追いかけようとはしない。

「おーおー、逃げよる逃げよる。…ん、あれは」

 斎藤が走っていく先には、3人が乗ってきたオンボロの軽自動車。斎藤は軽自動車まで走り寄ると、ドアのノブに手を掛けた。

「バカね。開くわけないじゃない。…って、あれ?」

 軽自動車のドアを開け、中に乗り込んでしまった斎藤。

「バカね。鍵が無けりゃ、動かせるわけないじゃない。…って、おおい!」

 ブルルンとエンジン音を響かせる軽自動車。

「あ、鍵、付けっぱなしだった…」

「お前もかい!」

 シンジの頭を思いっきりど突くアスカである。

 

 どす黒い煙を吐きながら動き出す軽自動車。

「ちょ、ちょっとどーすんのよ!」

 慌てるアスカの隣ではシンジが頭を抱えて喚いていた。

「ああ!ぼ、僕の初号機が!」

「あんた。アレにそんな名前付けてんの?」

「まだローンも残ってるのに!」

「あんな超オンボロを分割で購入したんかい!」

 斎藤を乗せた軽自動車を走って追いかけていくシンジ。

「もうっ!レイ!あんたはここで待ってなさい!」

 

 道を走り去っていく軽自動車。その後を走って追いかける男と女。それらを見送るレイ。左足が不自由なレイは、2人のように走って追いかけることなんてできない。もっとも、2人であっても走行中の車を足で追いかけようなど、どだい無理な話だが。

 何も出来ない自分をもどかしく思い、珍しく歯噛みするレイだったが、そんなレイの視界の隅に光るものがあった。

 それは地面に落ちた鍵。おそらく、アスカが落としたものだろう。

 レイはそれを拾い上げる。

 手に収まった鍵を見つめる。

 そして少し遠くに停められた大型バイクを見つめる。

 再び鍵を見る。バイクを見る。交互に2つを見る。

 視線の行き来を何度か繰り返し、レイは鍵を握りしめるとバイクに向かってひょこひょこと走り出した。

 

 バイクの差込口に鍵を突っ込む。

 そしてハンドルを握りながら、バイクシートに跨ろうとした。

 跨ろうとしたのだが、履いた濃紺のロングスカートの裾が邪魔になって、シートの位置が自分のお腹の位置にあるような大型のバイクに上手いこと跨ぐことができない。

 レイは躊躇することなくスカートの裾をたくし上げる。レイの真っ白な脛、膝小僧、そして太腿までを露わにすると、余った裾を巻いて縛った。

 下半身がすっきりしたレイは、右足でぴょんと跳ねると今度こそバイクに跨った。

 

 しかし跨ったはいいが、レイにはバイクを運転した経験がない。

 自転車に乗ったことくらいはあるので、ハンドルに付いているレバーがブレーキなのだろうな、ということまでは想像できるが、足もとにも何だか色々なペダルやレバーがくっ付いて、何が何やら。

 

 しかしレイはもちろんそんなことは承知の上でバイクに跨ったのだ。

 レイは知らなくても、「記憶」は「知っている」から。

 レイはバイクに乗ったことがなくても、無数の「記憶」は幾らでもバイクに乗ったことがあるから。

 

 レイは目を瞑り、ふぅ、と息を吐いた。

 

 

 

「返せーー!僕の初号機ーー!」

 シンジの背中が遠くなる。何せ初めて自分で購入した車だ。あんなオンボロとはいえ、それなりに、それこそ名前を付けてしまうくらいには、思い入れがあるのだろう。アスカはシンジにも駆けっこで負けない自信があったが、アスカの体力をシンジのマイカーに掛ける想いが上回ったらしい。

「ぜっ、ぜっ、ぜっ、…もう無理…」

 遥か彼方のシンジの背中を見つめながら、肩で息をする汗だくのアスカはついに地面に膝を折ったのだった。

「くそっ。このままじゃ逃げられる…」

 マイカーに掛ける想いはマックス200%のシンジであっても、いくら何でも走行中の車に追いつける訳がない。

 悔しそうに地面を殴るアスカの背後から、それは聴こえてきた。

 

 ドッドッド、と。

 オンボロ軽自動車が鳴らすガタピシ音に比べて、遥かに景気の良いエンジン音。

 

 なに?と後ろを振り向こうとした時には、それはすでにアスカの横を風を巻き込みながら走り過ぎていた。

 ばたつく髪を手で押さえながら、通り過ぎていった何かを見つめるアスカ。

 

 思わず吹き出してしまった。

 

 そして両腕を天に向けて突き上げる。

 

「行っけええええ!!レーーーーイ!!」

 

 相棒の名を叫んだ。

 

 そして呆れたようにこう呟いた。

「まったく…、本当に何でもアリね、あの子って」

 

 さらにこうも付け加える。

「パンツ丸見えじゃない…」

 

 

 

 

「待てっ!…へっ、へっ、へっ、待ちやがれ、このクソ野郎…へっ、へっ」

 無敵のシンジさんもさすがに息が上がってきた。すでに愛しの初号機の姿は遥か彼方。もう見えない。

 

「……!……さん!……ンジさん!」

 酸欠で目の前が真っ白になりかけた頃。何処からか自分の名を呼ぶ声がする。

 気が付けば、愛しの妹の姿が横にあった。

 あれ?レイ。いつの間に足が良くなったの?

 

「シンジさん!」

「ってあれ!?レイ!えっ!ええ!?」

 レイが跨っているものを見て仰天するシンジである。

「ちょっ!ってかパンツ!パンツ見えてる!」

「いいから早く!」

 妹のあられもない姿にさらに仰天してしまったシンジだが、レイの滅多に聴くことができない貴重な怒鳴り声にそれ以上何も言うことができず、伸ばされたレイの手を握る。そしてレイの腕に引っ張られながらレイが駆る大型バイクのタンデムシートに飛び乗った。

「掴まって!」

「は、はい!」

 レイに言われるがままに彼女の腰に腕を回すシンジ。

 途端に体が後方に引っ張れるような急加速。

 レイはアクセルを目一杯引き絞っていた。

 

 周囲の風景が次々と流れていく。鋼鉄の塊とLCLに守られたエヴァで全力疾走した時とは全く異なる高速の世界。剥き身の体を襲う空気の塊。足もとすれすれを高速で過ぎていく地面。

 アスカから聴いていはいたのだ。妹の運転は相当に乱暴だ、と。

 合法的に妹の体に抱き着くことができてラッキーと一瞬でも思わなかったかと言ったらウソになるが、少しでも気を抜けばたちまち振り落とされてしまいそうな妹の運転にそんな不届きな感想を抱く余裕はすぐになくなった。路面が荒れてようが急カーブがあろうが、妹が駆るバイクは常にフルスロットルだ。路面の凹凸を通過する度に大きく跳ね、カーブに突っ込む度に右に左に大きく傾く2人を乗せたバイク。レイの細くて柔らかい体に、必死にしがみ付く。

「うわあ!レイ!前、前!」

 シンジが叫ぶ。

「ちぃっ!」

 前方で、土手の上でいつもの放尿を終えた立小便ジジイが呑気に道路を横断しているのを見て、レイは軽く舌打ちをしながらハンドルを切った。

 バイクは立小便ジジイの側すれすれを通り抜け、道路を飛び出て、用水路を飛び越し、土手へと突っ込む。

「げふ!」

 後ろのシンジの呻きとも悲鳴ともとれる声を聴きながら、レイはその細腕で暴れるバイクの挙動を必死に制御し、なおもアクセルを全力で引き絞る。2人が乗るバイクは土手の斜面を所謂壁走りをしながら駆け抜けていく。

 立小便ジジイをやり過ごしたレイは再びハンドルを切る。バイクは土手の斜面を降りると再び用水路を飛び越え、道路に着地。

「ごふ!」

 再び背後でシンジの悲鳴が聴こえた。

 

 

 

 バックミラーを見る。健気にも足で走って追いかけていた2人の姿は見えなくなった。

 追われる身になってしまったものの、当面の危機を脱した斎藤はほっと溜息を吐き、背もたれに背を預けた。

「うおぉぉわわあ!!?」

 背を預けたその瞬間に運転席の窓ガラスが音を立てて割れたものだから、斎藤は盛大に悲鳴をあげてしまった。散らばるガラス片が斎藤の体に降りかかる。

「てめえ!!俺の初号機を返しやがれえ!!」

 砕けた窓ガラスの向こうで無敵の男が金属バッドを構えていた。

 

 シンジは本当は泣きたかった。中古車ディーラーの隅っこに打ち捨てられたように置かれていた愛しの初号機。乏しいバイト代をコツコツと貯めて何とか頭金を捻出し、血の涙を流しながら組んだ24回払いで購入した愛しの初号機。暇があればせっせと磨き、エンジンはすぐに不機嫌になるが修理に出すお金もないので何とか自己流で調節し、大切に大切に乗ってきた愛しの初号機。

 そんな手塩に掛けた初号機の窓ガラスを、自らの手で砕き割ったのだから。

「降りろ!!今すぐ降りろ!!」

 もうこれ以上初号機を傷付けたくはない。金属バッドの先端を初号機の割れた窓ガラスの中に突っ込み、斎藤を小突き回す。

 

「くそがあっ!」

 斎藤は咄嗟にハンドルを右に切った。

 

「きゃっ!」

「わあ!!」

 レイとシンジの悲鳴が重なる。

 並走していた軽自動車が急に右に振れ、バイクの後輪に接触したのだ。左に横転しかけるバイクのハンドルをレイが必死に右に切り、タンデムシートのシンジが懸命に自身の体を右に傾け、バイクを引き起こす。2人の息の合った動きでバイクは何とか横転を免れた。

 横転しかけたバイクが減速した隙に、軽自動車は黒い煙を吐き出しながら加速していく。

 しかしながら所詮はオンボロの軽自動車。再びレイがアクセル全開にしたバイクは、いとも簡単に軽自動車に追いつき、追い越した。また軽自動車に当てられないよう、右前方に陣取るバイク。

 バイクに接触して割れた軽自動車のヘッドライドを見て、シンジは絶望したくなった。泣きそうな顔で訴える。

「僕がどうなったっていい!世界がどうなったっていい!だけど初号機は!せめて初号機だけは…!」

「シンジさん!」

「え?今いいとこ…」

 セリフを遮られ、不満げにレイを見る。そのレイの赤い瞳は、左後方の軽自動車のフロントガラスを見つめている。

 レイが言わんとしていたことを察したシンジ。

「で、でも…!」

「シンジさん!」

「そ、そんな…!」

「シンジさん!」

「ぼ、僕にはできないよ…!そんな…、残酷なこと…!」

 そんな態度の兄に、呆れたように眉を顰めるレイ。一度深呼吸して、そして背中の兄を怒鳴りつける。

 

「バカシンジ!!早く!!」

 

 

「どわあああ!!」

 再び悲鳴をあげる斎藤。

 急に目の前が真っ白になったのだ。

 それが、バイクのタンデムシートに乗った無敵の男の金属バッドの一振りによって、軽自動車のフロントガラスが割られ、ガラス一面に蜘蛛の巣状のヒビが広がったのだと気付いた時には、目の前に電柱があった。

「くそがあ!」

 咄嗟に電柱を避けようとハンドルを右に切った。

 

 

「くぅっ!」

 再び軽自動車の急接近。接触を避けようと、レイもハンドルを右に切りながらバイクを急加速させる。

「うわあ!」

 しかしレイがハンドルを切った瞬間、愛しの初号機のフロントガラスに金属バッドの一撃を入れて放心状態だったシンジはバイクの急加速に耐え切れず、バランスを崩してしまった。

 

 

 咄嗟にハンドルを切ったのだが、間に合わなかった。

 電柱に突っ込む軽自動車。ボンネットがひしゃげ、フロントガラスが完全に砕け散る。

「うっ、うぅ…」

 斎藤は額から血を流しながらも逃亡への執念の火は消えることなく、歪んだドアをこじ開けると外に這い出た。全身に痛みを感じながら、立ち上がる。

 

 

 空が、地面が、何度も何度もひっくり返る。ひっくり返る度に、頭に、腕に、足に鈍痛が走る。

 ようやく空が上、地面が下と、視界が定位置に定まった。とは言っても、普段の視界に比べて視点はかなり低い。

 自分が地面に仰向けに寝っ転がっている事に気付くと同時に、近くに誰かが立っていることにも気付いた。

 

 

 無敵の男が地面に横たわっている。全身血だらけで。無防備な姿で。

 見れば、無敵の男が持っていた金属バッドが地面に転がっていた。

 

 

 額からダラダラと血を流している茶髪ロン毛のタンクトップ男が、金属バットを拾い上げた。そしてこちらに近づいてくる。

 逃げねば。

 今すぐ逃げないと、あの金属バッドの先端は、自分の頭に振り下ろされる。

 逃げないといけないのに。

 でも、全身が痛くて体が動かない。

 骨が折れてるわけではなさそうだし、筋が切れてるわけでもなさそうなのだが、全身くまなく打ったため、あちこちが痛くて体が言うことを聴いてくれそうにない。

 タンクトップ男が何か喚いている。おそらく精一杯悪態をついているのだろう。

 何かを喚きながら、握った金属バッドを頭上に掲げるタンクトップ男。

 自分の体は地面に張り付いたまま。

 歯を噛みしめながら金属バッドの先端を見つめた。

 

 

「お兄ちゃん!!」

 

 

 誰かに呼ばれたような気がした。

 次の瞬間には、斎藤の姿は視界から消えていた。

 

 何が起きたのか分からず、シンジはくらくらする頭の中で、記憶の映像を巻き戻し(ビデオテープ世代)してみた。映像の中で、再び金属バッドを構えた斎藤が現れた。巻き戻しを中止し、再生開始。次の瞬間には、まるで大掛かりな手品の人体消失のようにパッと消えている斎藤。再び巻き戻し、今度はコマ送りで再生してみる。

 金属バッドを構えて立っている斎藤。

 その右横から、何か黒いもの。

 コマ送りを進めていくうちに、画面の中に黒い何かがはっきりと現れる。

 それはバイクの前輪。

 さらにコマ送りを進めていくと、前輪は斎藤の顔に接触。

 たちまち歪む哀れな斎藤の顔。

 次のコマでは、斎藤の上半身はすでに画面の外へとフレームアウトし、そして次のコマでは下半身もフレームアウトし、斎藤の姿は画面から完全に無くなった。

 画面に残るのは前輪を浮かせた、所謂ウィリー走行をしているバイク。

 バイクを駆るのは、空色髪の我が妹。

 コマを進めていくうちに、バイクも妹の姿も画面の外へと消えていった。

 

 

 バイクを捨てたレイは地面に倒れた血だらけの兄のもとへと駆け寄ると側で膝を折った。

「シンジさん…!」

 兄の上半身を抱き上げ、その顔を覗き込む。

「れ、レイ…」

 掠れた声で妹の名を呼ぶシンジ。

「さ、…さ…」

 何かを言いかけて、痛みに言葉を飲み込んでしまう。

 レイは悲痛な面持ちで、シンジの声に耳を傾けた。

 シンジは唇が切れた口で何とか言葉を紡ぎ出す。

「さ、さっき…、な、なん…て?」

 「何のこと?」とシンジの顔を見つめるレイ。

「何…て、言った…?」

「…シンジ…さん?」

 シンジは頭を横に振る。

「ち、違う…、その…前…」

 レイは頭の中の記憶を手繰った。

 少しレイの頬が赤くなる。

 俯きがちに、こう呟いた。

「…おにい…ちゃん…」

 それを聴いた瞬間、シンジの頭ががくんと落ちた。

「もう…死んでもいい…」

 幸せ一杯目一杯の表情で気を失った兄に、妹は恥ずかしそうに「ばか」と呟きながらその頭を抱きしめる。

 遠くから、パトカーのサイレンの音が響き始めた。

 

 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 

 

 カーテンの隙間から午前の爽やかな陽光が差し込む。シンジは3人掛けのソファに寝そべりながら、うーんと背伸びをした。

 ここは街の隅っこにある2階建ての一軒家。シンジとレイと、そしてアスカがお金を出し合って借りた、3人の住処である。普段はシンジとアスカが2階を、レイが1階を寝所としているが、目下2階の2人は家庭内別居の真っ最中であるため2階はアスカが独占し、シンジは寂しくリビングのソファで寝泊まりをしていた。ちなみにリビングはシンジが生業とする探偵業の事務所も兼ねている。

 探偵事務所の事務員であり一家の主婦業の大半を担っているレイは、事務員の席であるリビングの隣にある台所のテーブルからソファで伸びをするシンジを見て優しく微笑んだ。

「…どう?」

「うん。まだちょっと肩が痛いけど、もう大丈夫」

 バイクから振り落とされて血だらけになったシンジはすぐに救急車で病院に運ばれ検査を受けたが、幸いに大きな怪我はなく翌日には自宅に帰された。今も額や腕など、服に被われていない肌には痛々しく包帯が巻かれているが、シンジの表情はいたって元気だ。

 頭を打っているため、医師からは念のた数日は安静にするようにとの指示を受けており、シンジは事務所開業以来初めての連休を楽しんでいる。

 書類仕事に勤しむレイの姿を満足気に見つめたシンジは、ソファの近くのテーブルに手を伸ばす。何枚かのパンフレットを手に取ると、寝っ転がったままその中身を眺め始めた。

 

「なに、読んでるの…?」

 台所の方からレイの問い掛け。心なしか、声が冷たい様な気がする。

「え、えっと…」

 後ろめたいことでもあるのか、シンジは返事を濁した。

 レイの目が光ったような気がした。

「自動車の…パンフレット…」

「う、うん…」

「どうして、そんなもの、見ているの?」

 レイは手もとにある自動二輪車の一発試験ガイドとディーラーのパンフレットを、他の書類の下にそっと隠しながら訊ねる。

「え、えっと…、やっぱり、車は、必要かな…、って」

「……買うの?」

「う、うん…」

「……どうしても?」

「……うん」

「……」

「……」

「……」

「……」

「…ごめん。レイのお給料は、近いうちに必ず渡すから…!」

 レイは溜息を吐いた。それは遠慮がちな溜息だったが、今のシンジにとっては遠慮なしのアスカの溜息よりもよっぽど怖い。

「…買う必要は、ないと思うの」

「い、いや。探偵はフットワークが命だからさ。どうしても車は必要なんだ。機材をたくさん積まなきゃなんない時もあるから、原チャリでも…だめ…なんだ…」

 無言のレイの視線が痛い。

「……だめ?」

 兄の縋るような視線に、レイはうー、と困ったように唇をとんがらせた。

 

 兄と妹の間に暫しの沈黙が続いた時。

 

「やったわよー!!惣流アスカ!!無事、400万円回収いたしましたああ!!」

 バン!とドアを勢いよく開け放ち、景気の良い声を上げながら入ってきのはアスカ。

「え?もう回収したの?」

「あいつの実家に行ったら親御さんがすーぐにお支払い下さいましたー」

 破局中の恋人の問い掛けにもアスカは上機嫌に返事する。

「…よく実の息子が殺人犯になったばかりの親の所に押し掛けられるね…」

「うっさいわね。あっちもこれが手切れ金とばかりにあっさりと用意してくれたわよ。息子も息子なら親も親ね。そんなことよりさあレイ!いつものようにご褒美食べにいきましょうかあ!」

 アスカの呼びかけにレイは腰掛けていた椅子を押し倒す勢いで立ち上がりながら言った。

「セン○キ屋!」

「…セ○ビキ屋って、あんた…。そう簡単に超高級パーラーに何度も行けると思わないでよ…。すっかり舌肥えちゃってから…。まあ、お金はあるんだし行けないことはないんだけどさ…。…んー、やっぱダメダメ。今日は○△町のカフェでフローズンパフェ食べるって、前から決めてたでしょ。ほら準備準備」

 アスカに急かされレイはトコトコと、左足を引きずりながらもどこか軽い足取りで自室に駆けていく。

 

 リビングの隅の姿見で本日のコーディネートを鼻歌混じりに確認しているアスカ。

 そんなアスカの後姿を、シンジはソファからじっと見つめる。

「…あ、あの…アスカ」

「何よ」

「ぼ、僕も一緒に行きたいな~……なんつって…」

「はああ?」

 鏡越しに睨まれ、シュンとするシンジ。

 扉が開き、レイがいつものカンカン帽と丸渕メガネ姿で現れた。 

「んじゃレイ。行きましょうか」

 アスカはレイの肩をぽんと叩き、さっさと出て行ってしまった。

「レ、レイ!」

 シンジは今度はレイを呼び止めた。

 扉の前でレイは立ち止まり、シンジの方へ振り返った。

 妹を見つめる、兄の縋りつくような眼差し。

「ほおらレイ!さっさと行くわよ!」

 アスカの声が聴こえる玄関の方と、ソファのシンジとを、レイは困ったように交互に見つめた。

「レーーイーー!」

 再びアスカの呼ぶ声。

 レイは一度視線を床に落とし、そしてシンジに向けた。

「…レイ…」

 期待をこめたシンジの声に、レイは答える。

「…お兄ちゃん…」

「なに?」

「私は妹だから、仕方ないけど…。アスカと付き合おうと思うのなら、もっと頑張って、相応しい男にならないと…」

 そう言い残し、レイはリビングを出て行った。

 

 レイが出て行ったドアを呆然と眺めるシンジ。

「…なんだよ…それ…」

 そう呟いて、ソファに倒れこむ。

「なんだよぉぉ…、それぇぇ…」

 呻くように繰り返した。

 

 とっても可愛い妹が居て。

 とっても素敵な恋人が居て。

 

 この家に引っ越した当初は、とても素晴らしいバラ色の日々が始まるのだと、そう思っていた。

 多分自分は世界で一番幸せ者だと、そう思っていた。

 

「なんか思ってたんとちがうー!」

 ソファに顔を押し付けながら叫ぶシンジ。

 ダーク(親父)サイドに堕ちるまでもう少し。

 

 

 

 

「彼、叫んでるわ…」

 道路に立つレイは、玄関の方を見ながら呟いた。

「いや…、あんたの最後の一言が効きすぎたんじゃないの?」

 アスカもレイと同じ方向を見ながら呟く。

 レイはアスカに「どうする?」と視線を向ける。

「もう少し待ってみましょ…」

 てっきりあの甲斐性なしは追い掛けてくるものとばかり思っていたのだが、甲斐性なしはやっぱり甲斐性なしだったようで、2人のアテは外れてしまったようだ。

 

 2人して玄関を眺めている。

「ねえ。レイ」

 アスカに呼ばれ、レイは振り返る。

「あんた。もう私の取り立て、手伝わなくていいわ」

 「なぜ?」と首を傾げるレイ。

「危ない目に遭わせちゃったし。それによくよく考えてみたら、他人の「記憶」を覗き見するなんて、あんまし良い気分じゃないでしょ?」

 自分を気遣ってくれるアスカの気持ちが嬉しかったのか、レイは微笑み、そして頭を横に振った。

「なんで?嫌じゃないの?」

 レイはぽつりぽつりと言う。

「おに…、碇くんの側に居ると、心がぽかぽかする…。アスカと一緒に居ても、心がぽかぽかする…。だからもっと、続けたい…。アスカと一緒に…」

 レイのまっすぐな眼差しを、アスカはぼーっとした表情で見つめた。

「あんた…」

「なに?」

「あんた、もういっそのことあたしと付き合わない?ってか結婚しない?」

 微笑んでいたレイの表情が、さっと真顔になる。

「碇家には、LGBTじゃない者もいるの」

「…ちょっと待って。その言い方だと、碇家には他にも居るってことになるじゃ…、もしかしてあの親父…!」

「私は副司令との関係を怪しんでる…」

「ちょっ、マジ!?ちょ、ちょっと、ちょっと。ちょいと親父さんの「記憶」を覗いてみなさいよ」

「私になんてもの見せようとしているの?」

「いいじゃない。ちょっとだけ、ちょっとだけよ」

「私にも見たい「記憶」と見たくない「記憶」を選ぶ権利くらい、あるわ」

「うううーー、知りたーい…」

 歯噛みするアスカに、レイは呆れたように溜息を吐いた。

 

「それにしても…さ」

 アスカは2人の間にあるモノを改めて見る。

「結局あたしたちって、あいつに対して大甘なのよね…」

 そのアスカの言葉には、レイは素直に同意する。

「仕方ないわ。だって私もあなたも、おにい…碇くんのこと、大好きなんだもの」

 そのレイの言葉にアスカは素直に同意したくないのか、うーと唸りながらも顔を真っ赤にさせてそっぽを向いてしまった。そんな態度のアスカに、レイは再び表情に微笑みを宿らせる。

「ああーーもうーー!何やってんのよあいつ!さっさと出てきなさいよね、まったく!」

 照れ隠しにそう怒鳴りながら、アスカは玄関の中へと消えていくのだった。

 

 アスカの後姿を見送ったレイは、数歩ほど後ろに後退し、改めてソレを見つめた。

 レイの前にある、玄関前に停められた一台の自動車。

 かつて欧州の島国の自動車メーカーが生産していた、可愛らしい小さなボディが特徴の車。セカンドインパクト以降生産終了となっているが、愛好家が多く中古車としてよく出回っており、これも市内の中古車ディーラーで見つけたアスカが即決したものだ。購入資金の半分を出したレイは、その隣にあった真っ白な軽トラックの購入を強く推奨したのだが、真っ赤に塗装されたこの車をいたく気に入ったアスカによってその提案はあっさりと却下されている。

 2人で市内の自動車屋さんを回って、この車を見つけたのは昨日の6月5日。

 今日は6月6日。

 現金一括払いし、無理を言って自動車屋さんに今朝届けてもらったのだ。

 

 レイは車の周りをゆっくりと歩きながら、その赤く光る車体をじっくりと眺めた。

 軽トラックの方がよっぽど頑丈で実用的なのに、と今も思うのだが、こうして眺めていると、これもそう悪くないな、と思えてきた。

 助手席のドアを開けてみる。

 小さな見た目だが中はそれなりに広い4人乗り。しかしながら2ドアタイプなので、後部座席に乗ろうと思ったら前席のシートを前に倒すと言うひと手間が必要だ。アスカ曰く「不便さを楽しんでこそ大人の趣味」なのだそうだ。

 昔から運転席と助手席は恋人同士が座ると相場が決まっているらしい。それくらいは弁えているレイは、助手席のシートを前に倒すと、後部座席へと乗り込む。ドアを閉め、助手席のシートを元に戻す。

 2人掛けシートの、真ん中に座ってみた。背もたれに深く背中を預ける。

 

 今は目の前は空っぽの運転席と助手席だけど。

 あともう少ししたらそこには大好きな兄と、大好きな親友がそれぞれの席に収まるはずだ。

 目的のカフェまでは、海沿いの道を走って1時間くらい。今日は快晴で、海は太陽の光をキラキラと反射させてとても綺麗だろう。絶好のドライブ日和だ。

 運転手には邪魔になるかもしれないけれど、2人掛けのシートの真ん中に座って、ラジオから流れるFMと2人のお喋りに耳を傾け、時々2人の間に身を乗り出してお喋りに割り込んで、時々シートの右端によって、右手に広がる海を眺めて。

 ただ車に乗って、みんなで出かける。たったそれだけのことに、こんなに心がワクワクする日が訪れるなんて、少し前までは考えもしなかった。

 シートの左側に寄り、おでこを窓ガラスに張り付けて玄関の様子を覗う。

 今頃中では親友が兄の尻をひっぱたきながら出かける準備をさせているだろう。

 それともすっかり仲直りして、口づけの一つでも交わしているかもしれない。

 

「…早く来ないかな…」

 

 レイは弾んだ声でそう呟くのだった。

 

 

 

 


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