告白   作:hekusokazura

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色々とガバガバな内容ですが細かい事気にせずご覧ください。


―――これまでのあらすじ

サードインパクトから数年後、親父の行方を捜し続けてきたシンジくんは、何やかやあった末に親父を見つけ出し、ついでに親父と一緒にいたレイと再会し、何やかやあった末にレイと兄妹となり、何やかやあったか知らんがアスカと恋人同士となり、何やかやあってシンジとレイとアスカと3人で住み始めて、さてそれからそれから。

ちなみにレイはサードインパクト発生時点での全人類の記憶を持つというチートスキル所持中。


おまけ(女ジャックバウアー伝説・起)

 

 

 

 その兄妹はどこか落ち着かない様子で長椅子に腰かけていた。

 

 両拳を両膝に乗せ、背筋をピンと伸ばした姿勢で、目の前の扉を固唾を飲んで見つめる兄。室内は十分に空調が整っているのに彼の額と頬には汗が滴り、右膝はがくがくとせわしなく貧乏ゆすりを繰り返している。

 その左隣に座る妹は、そんな兄を落ち着かせようと彼の左拳に自分の右手を添え、軽く握っているが、彼女自身も冷静で居られているようではなく、左手は自身のシャツの胸の辺りを鷲掴みにしており、その手は胸の中に収まる心臓の激しい鼓動を感じていた。

 

 兄が目の前の部屋から追い出され、外で待っていた妹と長椅子に座り、一言の言葉も交わさないまま1時間。

 

 扉が開き、女性が顔を出した。

 2人の顔が強張る。

 女性に呼ばれ、兄はすぐさま立ち上がり、ぎこちない足取りで部屋に入っていった。

 扉から顔を出した女性は妹にも「入らない?」と聴くが、妹は肩を竦ませたまま首を横に振る。緊張のあまり腰が抜け、立ち上がれなくなってしまった様子だ。女性の顔が引っ込み、扉は再び閉じられる。

 椅子には、妹だけが残った。

 

 兄が入っていた扉を、妹は全身をカチコチに凍らせたまま見つめる。

 

 暫くして、扉が開き、兄が顔を出す。

 デレデレ顔の、何とも締まりのない兄の顔が。

 

「レイ、おいで」

 手招きする兄。

 未だ緊張から解けていない様子の妹は、「動けない」と首を横に振り、長椅子に腰かけたままだ。

 そんな強張った表情の妹とは対照的なデレデレ顔の兄は、長椅子まで歩み寄ると妹の意思を無視してその細い腕を引っ張り強引に立ち上がらせ、そのまま扉の中へと引き込んだ。

 

 扉の中には数人の看護師や医師。彼ら彼女らに囲まれるようにある大きなベッド。

 そのベッドには、妹の親友が横になっていた。

 憔悴し切った様子の親友の顔。それでもその顔はとても晴れやかで、そしてやはり兄と同じようにデレデレ顔。

 親友の腕の中には白いバスタオル。そのタオルに包まれたもの。

 

 医師も看護師も、兄も、親友も。

 その部屋にいる全ての者が笑顔だ。

 ただ一人、妹を除いて。

 

 兄は妹をベッドの側に立たせてタオルの中のものをしっかりと見てもらおうと握った妹の腕をさらに引っ張ろうとした。

 ところが妹はそれに抗い、兄の手から自身の腕を引っこ抜く。

 兄は「どうしたの?」と再び妹の腕を掴もうとしたが、妹は自身の両腕を胸元に寄せて、兄に掴めないようにした。

 その時になって、頭の中が完全にお花畑になっていた兄はようやく妹の異変に気付いた。

 

 妹はそのまま後ずさり、壁に背中を付ける。

 赤い瞳が、ベッドの親友と、その腕に抱かれた白いバスタオルを凝視していた。

 

 大きく膨らんでいたはずの親友のお腹。

 そこには何もなかったはずの親友の腕の中。

 

 今、親友のお腹はすっかりしぼんでいて、そして親友の腕の中には、ほんの少し前まではこの世界に存在しなかったはずのものがある。

 

「レイ…」

「レイ…?」

 兄と、ベッドの上の親友に呼ばれ、妹は弾かれたように顔を上げ、2人を見た。

 

 兄は妹の赤い瞳の中に、深く渦巻く戸惑いと混乱を見た。

 

 妹は背中を壁にぴったりくっ付けたまま扉に向けて移動していく。そして扉を少し開けると、その隙間に身を滑りこませ、そのまま部屋を出て行ってしまった。

 

「レイ…!」

 兄は妹の名を呼んだ。

「シンジ…」

 妻は夫の名を呼ぶ。振り返った夫に続けて言う。

「追いかけて」

「えっ、でも…」

「あたしのことは…」

 言いかけて、妻は頭を横に振る。

「あたしたちのことは大丈夫だから…」

 

 

 待合室に妹の姿はなかった。

 ふと、西に大きく傾いた陽の光が差し込む窓の方へ眼を向けると、バルコニーに佇む妹の背中が見えた。

 

 

 バルコニーの手すりに体を預けながら、ぼんやりと赤い太陽を見つめていると、すぐ横に人の気配を感じた。それが自分を心配して追い掛けてきてくれた兄であるということは見ないでも分かったため、視線は太陽に向けたままぽつりと言った。

 

「…ごめんなさい」

 

 おそらく、あの部屋はこの世界で最も喜びに満ちた場所であり、あの瞬間は誰もが手放しで祝福するべき時間であったはず。

 それを、自分は汚してしまった。

 2人にとって。いや、3人にとって、最も忘れがたい幸せな時間であったのに、自分はそれに水を差してしまった。

「気にしなくていいよ」

 そう言って、兄は項垂れている妹の頭を腕で柔らかく包み込み、ぽんぽんと頭を叩いてやる。

「僕だって頑張って立ち合おうと思ったけど、ひたすら狼狽えるだけで結局看護婦さんに邪魔だと追い出されちゃったからね。きっと今日のことはこれからずっとアスカにはなじられ続けらるんだろうな」

 恐妻に一つ弱みを握られたことを、それでもどこか幸せそうに呟く兄。

 そんな兄の横顔を見て、妹はやはり兄には自分の心の内を打ち明けておきたいと思った。

 

「初めて見たわ」

「僕だって初めてさ」

「命は…、あんな風にして…生まれるべき…なのね…」

 その妹の呟きに、兄はようやく妹の瞳に宿っていた大きな戸惑いと混乱の意味を知った。

 

 自然の摂理から生まれる新たな生命。

 この世界が誕生してから、幾度となく繰り返されてきた生の営み。

 代を重ね、どんなに進化が進もうとも、そこだけは汚されることのない、生命の聖域だったはず。

 

 おそらく妻の姿を目の当たりにして、妹は思ってしまったのだろう。

 自分は、違う、と。

 皆と、違う、と。

 自然の摂理から、一人外れた存在なのだ、と。

 

「私、やっぱり…変だわ…」

 あの部屋に入った瞬間、ベッドに横になる親友とその腕に抱かれたものを見た途端、自分という存在がとてつもなく不自然なもののように思えてきたのだ。ベッドで力尽き果てたようにぐったりと横になりながらも、慈しむように腕の中のものを抱きしめる親友と、その傍らで喜びに満ちた表情で立つ兄。非の打ちどころのない、完璧な姿で、自然の摂理の上に立つ彼ら。その中に、こんな不可解な存在の自分が入り込むことなど、とても許されないと思ったのだ。

「私、やっぱり…人じゃ…な…」

 言いかけたところで、頭を抱いた兄の腕にぐっと力がこもった。痛くはなかったが、言いかけた言葉はぐっと喉の奥に飲み込んでしまった。

「関係ないさ。君がどんな存在だとか、そんなこと」

「でも…」

 

「君は僕たちの家族」

 

 兄の口から何の躊躇いもなくとても自然に零れ出たその言葉は、妹の心をまるで柔らかな毛布のように温かく包み込んでいく。

「それ以外で君の存在を確認するために必要なことって、ある?」

 妹の強張った表情が緩んでいく。

 妹は遠慮がちに、頭を横に振った。

「だろ?」

 遠慮がちに頷く妹。

「今日は僕たちにとって、特別な日だ。僕たちってのは、もちろん僕とアスカだけじゃない。レイのこともだよ」

 

 兄は思うのだ。

 生まれた場所も境遇も性格も全く違う3人。でもどこか似た者同士。3人とも、家族という環境の中で育つことができなかった者同士。その3人がいつしか出会い、いつの間にか一緒に暮らし、そしていつの間にか家族になっていた。

 こんな素敵な家族は、世界中を探しても、そうはないだろう、と。

 

「今日は僕ら家族の中に、もう一人、新しい家族を迎えるんだ。それは誰かに与えられたものでも、預けられたものでもない。僕ら3人が一緒に頑張って、僕たちでゼロから育んだ命なんだ」

「…頑張ったのはお兄ちゃんとアスカだわ」

 妹の言う「頑張った」というのが、一体どの行為を指しているのか。思わず赤くなってしまう兄である。

「アスカが言ってたよ。本当にレイには感謝してるって。家事は全部やってくれたし、通院も付き添ってくれたし、つわりが酷い時は一晩中背中をさすってくれたって」

 兄にそう言われ、妹は少し照れたように頬を指で掻く。

「君には、誰よりも祝福してほしい。僕たちの新しい家族のことを…」

 

 妹は太陽を見つめ直した。真っ赤な瞳の中に、日没間近で煌々と燃える太陽が宿る。

 瞼を閉じ、そして開くと兄を見つめた。

 うん、としっかりと頷く。

「じゃあ、行こうか。僕たちの新しい家族を迎えに」

 そう言って自分の腕を引っ張る兄の手に、妹は抗うことなく付いていった。

 

 

 再び分娩室に入ると、医師や看護師の姿はすでになく、親友と「それ」のみがベッド上に残っていた。

 親友の顔は相変わらずデレデレ顔。

「何やってたのよ、レイ。早くこっち来て」

 親友に言われ、おずおずとベッドに近づく。

「ごめんなさい…、アス…」

「んなことどーでもいいーから。ほら見てよ。ちょー可愛いの」

 いつもと変わらない親友の口調。でもその顔つきは分娩室に入る前に見た時と、明らかに違う。

 穏やかで柔らかで慈愛に満ち溢れた親友の顔。

 何かの本で読んだような気がする。女性は「それ」を経ることで、生まれ変わるのだ、と。

 彼女は生まれ変わったのだ。

 そして、彼女を生まれ変わらせた存在が、今、彼女の腕の中にいる。

 妹は白のバスタオルに包まれたそれを覗き込んだ。

「ね?ね?めっちゃ可愛いでしょ」

 

「……」

 タオルの中身を覗き込んだまま固まってしまったレイ。

 正直なところ、レイはアスカの言葉に同意しかねた。

 

 人間社会に放り出されて早7年。どこか欠けていた自分の中の情緒というものもそれなりに確立され、美的感覚というものもそれなりに養われたと思っていた。

 それでも。

 今、親友の腕に抱かれたそれ。

 しわくちゃのそれ。

 閉じられた瞼の辺りがぽっこりと突き出たそれ。

 鳥のくちばしのような口をしたそれ。

 ピンク色に染まった肌のそれ。

 自分と同じようにそれを覗き込んでいる兄の顔を見る。

「かあ~い~ね~」

 相変わらずデレデレ顔の兄。どこから出しているのか分からにような、甘ったるい声でそれに呼び掛けている。

 親友の顔を見る。

「もう可愛すぎでしょう」

 レイはおずおずと頷いた。

「…うん、かわいい、かわいい」

 人間社会に放り出されて早7年。「場の空気を読む」というスキルを身に付けていたレイである。

 

 膝に手を付き、前屈みになって白のバスタオルの中のそれを興味深く見つめていたら、アスカが突拍子もない提案をしてきた。

「ほら、レイ。抱いてやって。ね?」

 そう言われた途端、レイは弾かれたように上半身を起こし、咄嗟に両手を背中に隠した。ふるふると、頭を横に振る。

「なんでよ。あんたもこの子が生まれるの、あんなに楽しみにしてたじゃない」

 アスカはそう言いながら、レイの方にバスタオルに包まれたそれを差し出す。アスカの言う通り、レイはアスカが産休に入ってからというもの殆どの時間を彼女と過ごし、暇があればお腹に向かって話しかけ、暇があれば自身の耳をお腹に引っ付け、お腹からの蹴り返しがあれば目を丸くしながら喜んでいたものだ。

「そうだよ。ほら」

 シンジはアスカが差し出すバスタオルに包まれたそれを大事そうに受け取るとレイに近寄ろうとする。

 途端に、頭を横に振りながら後退りを始めるレイ。

 

 シンジは妹の気持ちがよく分かった。自分も、初めて妻の手からそれを差し出された時は、どうやって抱いてやればよいのか分からず、大いに躊躇ってしまったものだ。それはこの世で一番大切なもので、この世で一番脆く儚いもの。自分なんかが抱いてしまって、もし壊してしまったら。落としてしまったら。いらぬ不安が頭を過ってしまうのだ。何の躊躇いもなく当たり前のようにそれを抱いている妻の姿が、何とも偉大に見えたものだ。

 しかし一度抱いてしまえば、それはこの世で一番の宝物。一度抱いてしまえば、二度と手放したくないもの。抱く者を、この世で一番の幸せ者にするもの。

 もしかしたら自分の半生の中で感じた一番の幸せを、ぜひ妹にも味わってほしかった。

 だからシンジは、この世で一番の宝物を、妹に向かって差し出そうとした。

 ところが妹がその宝物を受け取るのを躊躇っている間に、宝物のただでさえしわくちゃの顔が更にしわくちゃになり、ぐずつき始め、そして遂には鳥のくちばしのような口を一生懸命開けて泣き始めてしまった。

「わあ、どうしたどうした。よしよし」

 シンジは腕の中のそれをゆっくりと丁寧に揺さぶる。人差し指で、優しくそれのピンク色の頬を撫でた。

 新米パパは頑張ってそれをあやしているが、それは一向に泣き止みそうにない。自分の中にある全ての力を搾り出すかの勢いで、懸命に泣いている。

「もう、なにしてんのよ」

 泣き止まない宝物に狼狽えている夫の姿が見ていられず、新米ママは宝物を返してもらおうと両手を差し出す。

 夫が無力感に苛まれながら、妻のもとに宝物を返そうとしたその時だった。

 

 

 それは無意識のうちの行動だった。

 

 兄の腕の中で一生懸命泣き叫んでいるそれ。

 気が付けば、体が勝手に動いていた。

 兄の手から、親友の手へと渡ろうとしていたそれ。

 それを少しばかり強引に、自分の手の中へ。

 

 見た目以上に軽いそれ。

 それでも、ずっしりと腕に感じるそれの存在。

 まともに腕を動かすことも、脚を動かすことも出来ず、今できる事はただ泣き叫ぶことだけの、無力極まりないそれ。

 この世界に勝手に産み落とされたことにまるで強く抗議しているかのように、ただ泣き叫んでいるそれ。

 

 大丈夫。

 大丈夫。

 この世界はとても残酷で、とても辛いことばかりだけど。

 でも、とてもステキなところよ。

 

 相変わらず身体は勝手に動く。

 まるでそうすることをこの身体は知っていたかのように、それの後頭部に左手を回して背中を支え、肘窩を枕代わりにし、股の間から右手を差し入れてお尻を支え、そしてその小さな体全体をそっと胸に引き寄せる。

 

 

 若い夫婦は、彼らの妹(義妹)のその姿を呆気に取られて見ていた。

 彼らの生まれたばかりの赤ん坊を、抱きかかえるレイの姿。

 ゆっくりと上半身を揺らし、赤ん坊をあやすレイの姿。

 

 アスカは思わずシンジに訊ねてしまった。

「レイって、…もしかして子持ち?」

「…いや、…そんなはずはないんだけど…」

 

 いつの間にか赤ん坊は泣き止んでいて、今はスヤスヤと小さな寝息を立てている。

 そんな赤ん坊に、レイは小さな声で子守唄を聴かせてやっている。

 

「ねえ?」

「なんだい?」

「よりによって、どーしてあの歌なの?」

「ごめん、アスカ。碇家の家訓で、我が家の子守唄はあの歌って決まってるんだ」

「…そうなの。…ま、魚嫌いにはならないで済みそうね…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 アスカは慌ただしく支度を済ませると、玄関に向かった。

 その後をトテトテと、どこか危なっかしい足取りで追いかける小さな影。

「ママー、きょうははやくかえってきてね」

 玄関で外履きに履き替えたアスカは振り返り、膝を折って目線を低くしながら答える。

「ミチルが言いつけをちゃんと守ってたら夕飯前に帰ってくるわ」

「ほんとにー?」

「いいこと。お外から帰ったら?」

「てをあらう」

「ご飯を食べたら?」

「はをみがく」

「お昼を過ぎたら?」

「おひるねする」

「あとは?」

「レイちゃんのゆーことをよくきく」

 台所からエプロン姿のレイが出てくる。

「アスカ、お弁当忘れてるわ」

「あーごめんごめん。ありがと」

「ほんとにー?ほんとにはやくかえってきてくれる?」

「ええもちろん」

「でもこないだはまもってたのにはやくかえってくれなかった」

「え?そ、そうだったかしら」

「ええ。アスカは先週の金曜日は早く帰ると言いながら夜遅くに帰ってきた」

 レイは淡々と指摘しながら、足もとの子供を抱き上げた。

「うっ。あんた、たまにはあたしの味方をしてよ…」

 レイはふふ、と微笑みながら子供を抱きしめる。子供も、慣れた様子でレイに抱き着いている。

「ごめんなさい。私は3年前の今日、決めたから。どんなことがあっても、誰を差し置いてでもこの子の味方になろうって」

 アスカもふふ、と笑う。

「まあそりゃ何とも頼もしい守護天使ですこと」

 冗談ではなく、本気でそう思うアスカである。

 

「ねーママー」

 レイに抱かれた子供。

 肩まで伸びた栗色の髪を後ろで2本に分けてまとめ、黄色の吊りスカートを履いた蒼い目の女の子は、甘えるように母を呼ぶ。

「分かってるって。今日は絶対に早く帰ってくるから。たとえ天変地異が起ころうとも、フォースインパクトが起きようとも、使徒が襲ってこようとね」

「シトってなーにー?」

「使徒とは10年前に人類を襲った巨大生命体。その名は聖書に記された天使の名を…」

「余計なことは教えなくていいの。じゃ、ミチル、行ってくるわ。レイ、お願いね」

「いってらっしゃい」

「いってらっしゃい、ママー」

 10分前にシンジが出て行った玄関を、今度はアスカが出て行く。

 それを見送るレイと、ミチルという名の女の子。

 これが碇家のいつもの日課だった。

 

 

 5年前に某大手法律相談事務所に就職したアスカは、いずれは弁護士を辞めて貯めたお金で何か新しいことを始めたいとレイに打ち明けていたが、子供が生まれたことで暫くは安定した収入が必要となったため、5年経った今も比較的子育て世帯に理解のある事務所に職場を移して弁護士を続けている。

 シンジはようやく仕事が軌道に乗り、レイに宣言していた通りに仕事場を郊外の自宅から街中の雑居ビルの一室に移した。レイはミチルが就学するまでは子守りをすることになったため、レイを秘書にするというシンジの夢は叶っておらず、新たに雇った数人の助手と共に事務所を運営している。

 

 朝食の後片付けや洗濯物干し、掃除を済ませたレイ。

 掃除機を押し入れにしまっていると、ミチルがトテトテと歩み寄ってきた。

「レイちゃん、おわった?」

 レイは柔らかく微笑みながら頷く。

「じゃあ、いこー」

 そう言って、レイの手を引っ張る。

 

 2人して長靴と、汚れてもいいズボンと上着、そして麦わら帽子という格好で裏庭に出る。

 ミチルの子守りと家の家事に担うようになってから、レイは貯めていたお金で家の裏の遊んでいた空き地を買い取り、畑にしていた。作物、つまりは命を育てるという行為にレイはたちまち熱中する。かつての逃亡生活中には大型農園に勤めていたこともあるレイだが、その農園は分業化が進んでおり、レイは主に草刈りと収穫物の選別作業に携わっていいたため、作物を一から育てるのはこれが初めてだった。最初は一家4人の食事のおかずに出せる程度の野菜が採れる小さな畑は、今や趣味の範疇を超えた広い農地と化している。採れる野菜はとても4人のお腹だけでは消費し切れず、畑に面した道路の脇に小さな屋根付きの棚を作って余った野菜を青空市場として出しているが、近所の評判は上々で朝に出した採れ立ての野菜は昼前には全て売り切れており、無職となったレイの貴重なお小遣いとなっている。

 細腕で鍬を振りながら畑を耕しているレイの少し遠くでは、ミチルが菜の花の上をひらひらと舞う蝶々を追いかけている。様々な生命が充満している畑は、ミチルにとっては格好の遊び場だった。ミチルの母親が見たら卒倒してしまいそうな、ウネウネと動くミミズや芋虫を平気で摘まんでは、足場の悪い畑の中をうんせうんせと歩いてレイに見せに来る。レイは見せられる度に手を止めて、膝を折って目線をミチルに合わせ、ミチルの小さな手の中で動く虫を一緒に眺めるのだった。

 

 昼前には家に戻り、泥だらけのミチルと一緒にシャワーを浴びると、台所のテーブルで昼食を済ませる。

 食後は風が良く通る畳の間で一緒に横になり、お昼寝。

 

「ねえ、レイちゃん」

 遊び疲れて横になった途端にくてっと寝付くミチルだが、お昼寝から先に起きるのはいつもミチルの方だ。ミチルに起こされ、寝ぼけ眼のレイ。

「もう2じだよー」

 ミチルに促され、レイは寝ぐせがついた髪を適当に梳くと、いつものようにニット帽を被り、色付きメガネを掛け、がま口の入った買い物用の手提げかばんを手に取る。ミチルにはお出かけ用のバケット帽を被せ、手を繋いで外に出た。

 途中の公園で軽く遊んでいき、商店街で買い物を済ませる。家路に付く頃にはミチルはすっかり歩きくたびれているので、レイは左手に手提げ鞄、右手にミチルを抱きかかえて帰る。これもいつもの2人の日課だった。

 

 台所で料理をしていたら、お尻にミチルが抱き着いてきた。

「レイちゃん、きょうのばんごはん、なーにー?」

 甘えたようにまだまだ小さく短い足や腕をレイの足に絡めてくる。

「なんでしょーねー」

「なんだかいつものごはんとちがうねー」

「そーかーなー」

「しろいこなたくさん。たまごたくさん。ぎゅーにゅーもたくさん」

「なにができるのかなー?」

 レイはできてからのお楽しみとばかりに返事を濁しながら、ボウルの中身を泡立て器でかき混ぜ始めた。

「きょう、ママとパパ、はやくかえってくるかなー?」

「大丈夫。今日はパパもママも、絶対に早く帰ってくる」

「ほんとにー?」

「ええ、本当よ」

「うそついらハリせんぼんのますんだよー」

「そんなに飲んでしまったら死んでしまうわ」

「えー…」

 ミチルはレイの濃紺のスカートをぎゅっと掴む。

「レイちゃん、しんじゃうの…?」

 幼子相手に不穏当な事を言ってしまったと反省するレイである。

「大丈夫。私は死なないわ」

「ほんとにー?」

「ええ、本当よ」

「ハリせんぼんのんでもー?」

「ええ」

「けんじゅうでうたれてもー?」

「ええ」

「レイちゃんってつよいんだね」

「ええ、そうよ」 

「でも…、ミチルは…、けんじゅうでうたれたらしんじゃうんだよ…?」

「大丈夫」

 レイは料理の手を止め、腰に抱き着くミチルの頭をしっかりと抱き締めてやる。

「ミチルちゃんは死なないわ。私が守るもの」

 

 

 陽が暮れる前には、シンジが帰ってきた。

 包装紙に包まれた、何か大きなものを抱えて。

 

 陽が暮れてから暫くして、ようやくアスカが帰ってきた。

 最寄りのバス停から走ってきたらしく、肩で息をしている。

「ぜー、はー、ぜー、はー。セ、セーフよね…」

「ママー、おそーい」

 出迎えたミチルは、フリルのついたちょっとしたドレスを着ている。頭のてっぺんには大きなリボンが乗っかっていた。

「あら、可愛いじゃない、ミチル」

「レイちゃんがきせてくれたの。ねえ、きょうはすんごいごちそうだよー」

 ミチルに引っ張られてリビングに向かうと、なるほど、テーブルの上には大きな皿が幾つも並べられ、その上には色とりどりの料理が盛られている。

「わっ、こりゃすごい。レイ、頑張ったわね」

「本当に。ありがとう、レイ」

 アスカとシンジに言われ、恥ずかしそうにもじもじと両手を揉むレイである。

「ねえ。はやくたべよーよー」

 テーブルに両手をつき、ぽんぽんと跳ねるミチル。このままだとせっかくの料理をひっくり返してしまいそうなので、シンジはミチルを抱き上げた。

「ちょっと待って。ねえ、ミチル」

 アスカは、シンジが持ち帰った大きな包みを抱きかかえながら言う。

「なーに?」

「今日は何の日だ?」

「えー?なんのひだろー」

「今日は感謝の日よ」

「かんしゃのひ?」

「そう。ミチルがパパとママと、そしてレイのもとに来てくれて、ありがとー、って日」

「へー…」

「…よく分かってないようね。とにかく…」

 アスカが包み紙を破り、その中に入っていた特大のクマの縫いぐるみを出したと同時に、アスカ、シンジ、そしてレイは口を揃えて言った。

「「「誕生日、おめでとー!」」」

 

 

 レイが用意した料理やケーキをあらかたお腹に収めた4人。

「お姫様が綺麗におめかししてくれていることだし、せっかくだから写真でも撮ろうか」

 ミチルが生まれてからというもの、シンジの趣味はすっかりカメラになった。愛娘の写真はもちろん、事あるごとに家族の様子を写真に収めており、リビングの壁にはプリントされた写真が何枚も飾られている。

 三脚に乗せたデジタルカメラを置くと、タイマーをセットする。

「はーい、じゃあみんな笑って笑って」

「にー」

 シンジ、アスカ、ミチルはもちろんのこと、未だに意識して笑うことが苦手なレイも、にっこりとした表情でカメラの前に立つ。

 シャッターが切られる音。

「じゃあつぎはへんがおー」

「出た」

「ミチル、好きだねー」

 最近のミチルは写真に写る時はいつもにらめっこをした時のような所謂変顔で写りたがる。父母としては娘にはお淑やかに育ってほしいものだが、今日の主役の希望に逆らうわけにはいかない。

 もう一度カメラのタイマーをセットする。

「はーい。みんなへんがおしてー」

「いーーーー」

「ううううう」

 シンジは舌を出し、ギョロっと剥いた目の瞳を斜め上に向けた、まるで歌舞伎のキメ顔のような表情で。

 アスカは人差し指で鼻先を思いっきり突きあげ、いーーーと食いしばった歯を見せた表情で。

 ミチルは両手で顔を横から挟み、唇を尖がらせたしわくちゃのタコ入道のような表情で。

 それぞれがぞれぞれの変顔をして写真に収まる。

 カメラの液晶画面で撮った写真を確認するシンジ。皆の変顔に、思わず吹き出してしまう。それを横から覗き込んだアスカも、ぷぷっと吹き出した。しかしそのアスカの顔も、シンジの顔も、写真の隅に写る人物の顔を見てすぐに真顔になる。

「レイ…」

 2人の視線が自分に集まって、きょとんとしているレイ。 

「レイ。相変わらずあんたの変顔ってすごいわね…」

「うん。ちょっとレイの顔だけ別に印刷して、魔除けにでもしようか…」

 

 パジャマに着替えた3人が、3人の寝床のある2階へと上がっていく。寝床が1階にあるレイは階段を上がっていく3人を見送る。

「レイちゃん、おやすみ」

 ミチルは今にも寝てしまいそうな半分閉じた瞼でレイに言った。

「レイ、今日はありがとう」

「レイ、おやすみなさい」

 アスカもシンジもレイにおやすみの挨拶をすると、3人で2階へと消えていく。

 それを胸の前で小さく手を振って見送ったレイは自室に入ると、ベッドの布団に潜り込んだ。

 シンジがプリントしてくれた4人で写った写真を見つめる。そこに収まる全員が笑顔の写真。

 相変わらず、他の3人と比べて自分の笑顔はなんてぎこちないのだろう、と思ってしまう。それでも、ミチルが生まれたあの日に感じた、この3人の中に自分が収まる違和感というものは、随分薄れたような気がした。

 

 ―――僕たちは家族なんだ。

 

 あの日。5年ぶりに彼に会ったあの日に、彼が言ってくれたこと。あの日からの5年間は自分にとって、彼らと本当の家族になるための5年間だった。

 自分は、本当に彼らの家族になれただろうか。

 きっと。いや、間違いなく彼らは自分を家族の一人と認めてくれるているだろう。彼らはそういう人たちだ。

 

 では自分はどうか。

 

 正直なところ、よく分からない。家族になれたような気もするし、でも本当にそうなのか?と問うてしまう自分がいる。

 

 でも、まあいっか、と。

そんなことわざわざ考えなくてもいいや、と思う自分もいる。

 

 今日みたいな特別な日や、そうではない何でもない日々を積み重ねていくこと。たったそれだけをすることで、身に余るような途方もない幸せを自分は今享受しているのだから。

 明日も朝6時に起きて、朝ご飯の準備をして、2人を送り出して。掃除、洗濯を済ませてミチルと一緒に畑に出て。新しく作った畑は先々週に石灰を撒いて先週は肥料を撒き、下準備は出来ている。明日はミチルと一緒にトウモロコシの苗を植えよう。植えてから収穫できるまでは凡そ4カ月。もぎ立てのトウモロコシの甘さを、ミチルはまだ知らないはずだ。今から4カ月も先が楽しみでならない。

 頭の中で明日の予定をあれこれ巡らせているうちに、いつの間にかレイは写真を手に持ったまま、静かな寝息を立てているのだった。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「じゃあ、お外から帰ったら?」

「てをあらう」

「ご飯を食べたら?」

「はをみがく」

「お昼を過ぎたら?」

「おひるねする」

「あとは?」

「レイちゃんのゆーことをよくきく」

「よし。じゃあ行ってきまーす」

「いってらっしゃーい」

「いってらっしゃい」

 いつものようにパパとママを送り出した2人。

 いつものように午前中は畑に出て、お昼ご飯を食べ、お昼寝をして、買い物に出かける。

 

 商店街に行く前に、いつものように公園に寄り道し、遊具で遊ぶ。

 ブランコに揺られながらミチルは言う。

「ねえ、レイちゃん」

「なに?」

「きのうはごちそうだったね?」

「そうね」

「きょうもごちそうだよね?」

「それはどーかなー」

「えーー、ミチル、きょうもごちそうがいい」

「ご馳走は特別な日に食べるものよ」

「とくべつなひ?」

「そう。たとえばミチルちゃんの誕生日とか」

「じゃあ、つぎはママのたんじょうびだね」

「ふふ、そうね」

「そいで、つぎはレイちゃんのたんじょびだね」

「わたしの?」

「うん」

「私の誕生日も、…祝ってくれる?」

「もちろん。レイちゃんのたんじょうびは、ミチルがごちそうつくってあげる」

「ふふ、ありがとう」

 

 レイはブランコに乗るミチルの背中を押してやりながら、公園を見渡す。

 普段から人気のある公園ではなく、昼下がりのこの時間帯も構内は閑散としている。それでも構内には何組かの親子連れが居て、ミチルと年齢の近い就学前の子供たちが遊具で遊んでいて、その近くでは親たちが立ち話に興じている。

 レイはミチルに聞いた。

「ミチルちゃん」

「なーにー?」

「ミチルちゃん、友達、欲しくない?」

「ともだちー?」

 ミチルには同年代の友達がいなかった。そして友達が居ない理由の一端は、自分にあるとレイは思っている。

 時々、親たちからこちらに向けられる奇異の視線。こんなのどかな昼下がりの公園で目深にニット帽を被り色付きメガネを掛けてる自分は、世間知らず未だ克服中の自分であっても場違いな存在だと思ってしまう。

 ミチルは間違いなく地球上で一番可愛い生き物だ。それは全人類誰しもが認めるところだろう。それでもその隣にいる自分というけったいな存在が、周囲の子供たちや親たちを遠ざけてしまっていると思うのだ。

 アスカもああ見えて「ママ友」という面倒くさい関係は嫌うため、休日にミチルと公園に遊びに行っても周囲の親子連れの輪の中に入っていこうとはしない。シンジは博愛主義者の本領発揮とばかりに、ママ友パパ友の数は共に2桁を越しているらしいが、シンジが言うには2人で公園に出かけてもミチルは人見知りの本領を発揮してなかなか子供たちの輪の中に入れていないという。

 

「ともだちならいるよ」

「それは誰?」

 何となく答えの予想はついたが、一応訊いてみる。

「レイちゃん」

 レイはふふ、と微笑むと共に、心の中で小さく溜息を吐いた。

 ミチルのためにも友達というものを作ってやりたいと思うのだが、如何せん自分自身がこの半生の中で友達と呼べる存在は一人しか居ない。ミチルのためにできる事はなんでもしてやりたいと思うのだが、悲しいかなこの件で自分はまるで役に立つことができないのだ。

 

 

 ご機嫌なミチルはレイの手を引っ張りながら商店街へと向かう道を歩いている。レイは不自由な左足を引きずるように歩くため、レイよりもずっと小さいミチルとの歩くペースが丁度良い塩梅らしい。この歳ならそれなりの距離を歩くときはベビーカーを使っているママさんたちも多いが、ミチルはレイの畑仕事に付き合っているおかげか同年齢の子供たちと比べて足腰はよく発達しているようで、商店街までのそれなりの距離を平気で歩く。今も、スキップするような軽い足取りで、レイの前を歩いている。

 

「ミチルちゃん」

「なーに?」

「だっこしてあげよーか」

「えー、まだいい」

 行きは元気一杯目一杯で歩くミチルだが、所詮は余力を残しておくことを知らない子供である。帰る頃にはくたびれ果てて、レイに甘えて彼女の腕に抱かれて帰るのがいつもの日課だったが、この日はまだ商店街に向かっている途中で、レイの方から抱っこしよう提案してきた。

 余力を使い果たすまで疲れというものを感じ取ることができない子供であるミチルは、まだまだ自分で歩くぞ、と足を大きく振り上げ、繋いだレイの手と一緒に自分の腕をぶんぶんと振っている。

「だっこしてあげる」

「だいじょぶだよ。ミチル、まだつかれてない」

「うん、分かってる。でも私は今、だっこしたいの」

「いいよ。ミチルじぶんであるけるから」

「ミチルちゃん、だっこするよ」

「え?レイちゃ…」

 レイの顔を見上げようとした時には、すでにミチルはレイに抱きかかえられていた。

「レイちゃん。あついよー」

 自分の意思を無視され、むくれたように言うミチル。

「ごめんね、ミチルちゃん」

 レイは謝りながらもミチルを抱えたまま降ろそうとせず、そして歩みを速める。どうしても左足の踏ん張りが効かないため、レイが歩くたびにカクカク、とミチルのおさげが揺れた。

 

 レイはまずいと感じていた。

 公園から商店街へと向かういつもの道。こっちの方が近道だからかと、表通りではない、この裏道をいつも使っていた。

 まだ陽が高い時間帯でもどこかうす暗い道。道幅は小さい車が何とか通れる程度で、人通りはまるで無い。

 

「レイちゃん…」

 レイの何時もと違う様子に気付いたミチル。怯えたように、レイの名を呼んだ。

 そのミチルの頭をレイは抱き締め、胸元に寄せる。ミチルの視界を塞ぐように。

 レイの歩みが止まった。

 

 

 幼子を抱きニット帽を被った女性の前を、2人の屈強の男性が立っている。

 行く手を塞がれた女性はすぐに足を止め、踵を返そうとしたが、背後には先ほどから自分たちの後をつけてきていたもう一人の屈強な男が、間近まで迫っていた。

 前にも後ろにも行くことができず、幼子を抱きしめたまま立ち往生する女性。

 大きく深呼吸し、口を開き、そして叫ぼうとした。

 

 しかしレイが叫ぶよりも早く、背後から迫っていた男が一気にその距離を詰めると、その厳つい手でレイの口を塞いでしまった。さらに空いた腕をレイの腰に回し、完全に拘束してしまう。ミチルを抱き締めて両手がふさがっているレイには、抵抗する術がなかった。

 レイが拘束されている間に、前方の2人も距離を詰めていた。その内の1人はポケットからナイフを取り出すと、レイが抱き締めているミチルの後頭部にナイフの先端を突き付ける。

 その瞬間、レイの瞳に未だかつてない怒りの感情が宿り、体を激しく暴れさせ拘束の手から逃れようとするが、レイの腰回りくらいありそうな男の腕はびくともしない。レイが暴れた拍子に、色付きの丸渕メガネがレイの顔から地面に落ちた。

 ナイフを突き付けた男は押し殺した声で言う。

 

「声を出したら子供を殺す」

 

 レイはその真っ赤な瞳を男に向ける。

 自分の中に渦巻く憤怒の感情を全て瞳に集めて、それを相手に叩き付けるように。

 

 普段ならレイの瞳に見つめられた者は途端に怯み、恐怖に苛まれる。ましてや、激情を込めた今のレイの視線に射抜かれた者は、卒倒すらしかねない。

 ところが目の前の男は脅えるどころか、

「おおおっ」

 男は目を見開かせ、感動でもしているかのように瞳を輝かせた。

「間違いない…、あの御方だ…」

 ナイフを握る手が震えていた。

 男は高揚が収まりきらないのか、少し上擦った声で話す。

「危害を加えるつもりはない。私たちと一緒に来てほしい」

 男のその申し出に、レイは目を細めた。もう一度体を揺すってみるが、背後の男の腕はやはりびくともしない。

 レイは一度目を瞑る。そして開いた目を一度男に向けて、そのまま自分が抱くミチルの後頭部へと向ける。5秒ほどミチルの後頭部を見つめ、そして再び男に視線を戻し、請うような眼差しを向けた。

 男はレイが言わんとすることを察して頭を横に振る。

「駄目だ。その子も連れていく」

 

 男の返事を聴いて、レイの選択肢は1つに絞られた。

 レイは再び目を閉じる。

 

 観念した様子のレイを見て、男は人質にでもしようというのか、レイの腕からミチルを奪い取ろうとした。

 

「ぐあっ!」

 男の手がミチルの体に触れようとした瞬間、男は呻き声を上げてその場に蹲った。

 

 目の前の男の股間を蹴り上げてやったレイは、背後の男の手に塞がれていた口を強引に開き、今度はその手に噛み付く。

「いてえ…っ!」

 急所攻めも噛み付きも、レイの十八番だ。

 噛み付かれて背後の男の手による拘束が緩んだ瞬間、レイはすぐに身を捩らせて、今度は背後の男の股間に向けて膝小僧を突き上げてやった。

 

 股間を押さえ、地面に蹲って悶えている2人。

 僅か5秒の間に2人の屈強な男を無力化してしまったレイ。

 しかし敵はもう1人残っている。油断していた2人とは違い、最後に残った男は、もはやレイに対しか弱い女性という認識は持っていない。最後の男は、警戒しながらレイににじり寄ってくる。

 レイは集中した。

 

 

 その男は1988年に西欧の島国のとある街で生まれた。国内でも有数の貧困地区であるその街において彼の家も例外なく貧しく、ドラッグとアルコールが蔓延する危険と隣り合わせの環境下で彼は過酷な現実を生き抜くために腕っぷしを磨き、喧嘩に明け暮れる少年時代を過ごす。学校を卒業しても貧困の沼から抜け出すことはできず、日雇いの生活で得られる収入は僅かで、職にありつけなかった日は寒空の下でボランティア団体の炊き出しの列に並ぶ惨めな日々だった。そんな彼の将来を切り開いたのは、幼い頃に彼を危険な環境から守った彼自身の腕っぷしだった。ひょんなことからジムのトレーナーに目を掛けられ、アマチュアの格闘技大会で勝利を飾ると翌年にはプロデビュー。以後は瞬く間にスターダムへと駆けあがり、海を渡って国際格闘技大会のチャンピオンにも昇り詰め、世界で最も有名な格闘家となった。

 2016年当時、ライト級とフェザー級の2冠に輝き、パウンドフォーパウンドの一人と目されていた彼は、破天荒な生活ぶりや粗暴な立ち振る舞いとは裏腹に、オクタゴンではステップバックからのカウンターパンチを必勝パターンとする巧妙なストライカーだった。

 

 

 ドサっと大きな音。

 レイの足もとに、屈強な男が前のめりに倒れていた。

 

 レイを抱いた子供ごと拘束しようと正面からにじり寄ってきた屈強な男。レイがまるで怯んだかのように後退ったため、男は好機とばかりに両手を広げながらレイに向かって突進。

 餌に飛びついた男に、後は自分が突き出した右拳を男の顎に合わせるだけだった。

 

 「記憶」の中の技術は拝借できても、体そのものはか弱い女性の体でしかない。男の顎を撃ち抜いた細い右拳がじんじん痛んだ。

 しかしレイに、痛む拳にかまっている時間はない。

 左腕だけで抱いていたミチルを改めて両手で抱きかかえると、踵を返して走り始める。

 

 腕の中でミチルが言う。

「レイちゃん、つよいんだねー…」

 その声は半分は恐怖で震え、半分は瞬く間に男3人をのしたレイに対する感動で震えていた。

 レイはミチルがこれ以上怖がらなくていいように、厳しいその表情はそのままに声だけは落ち着かせて腕の中の子の耳に囁いた。

「言ったでしょ。私は強いの」

「うん!」

 元気よく返事するミチルの声からは、すっかり恐怖が消えていた。

 

 走っているうちに右拳だけでなく、不自由な左足の古傷もじわじわと痛んできたが、前方の角を曲がってもう少し走れば、人通りの多い大通りに出られる。

 もう少しの我慢だ。

 あと少し。

 もう少し。

 

 ところが角に差し掛かったところでレイの思惑は外れてしまう。

 

 角の向こうに待ち構えていたのはさらに5人の男。服装はばらばらだがその佇まいは何処か物々しくとてもただの通行人には見えず、さきほどレイが倒した3人の仲間であることは一目でわかった。

 5人のうちの1人が呟く。

「ちっ、あいつら逃がしやがって…」

 狭い道を塞ぐ5人の隙間を縫って大通りに出ることはとても無理そうだ。レイは立ち止まると、再びミチルの目を自分の胸で覆うように抱き直した。

 後ろを振り返る。

 顎を殴られた男はまだ失神しているが、急所を蹴られた2人はすでに復活し、ふらふらしながらもこちらに向かって歩いてくる。さらに道の奥からは、別の男3人の姿もあった。他に道はなく、完全に退路を塞がれてしまった。

 

 10人の男に囲まれる。

 レイはミチルに囁いた。

「大丈夫。あなたは私が守るから」

 ミチルはレイの胸に顔を埋めたまま小さなを頭を縦に振った。

「しっかり掴まっていて」

 レイの首に回したミチルの腕に力がこもった。

 

 レイは右拳をぎゅっと握った。たった一発で痛めてしまった拳だが泣き言など言っている場合ではない。今は足掻けるだけ足掻くしかないのだ。

 

 

 

「ねえ、ちょっと」

 女を囲んだ輪の一番外に居た男は、不意に後ろから肩を叩かれた。

「今取り込み中だ。別の道を回んな」

 赤の他人に首を突っ込まれては厄介だ。男は振り返らずぶっきら棒にそう答えて、背後の誰か、おそらく声の主は女だろう。その女に向かって手をひらひらさせ、何処かに追い払おうとした。

「なんなのよ。こんな美人が声掛けてんのよ。ちっとはこっち向きなさいよ」

「うっせーな。そっちは間に合ってんだ。あっち行けよ」

「失礼ね!あたしを何だと思ってるのよ!」

「うるせーババアっっッ!」

 

 背後でドサっと音がした。

 女を囲んでいた全員が振り返る。

 輪の一番後ろに居た男が、仰向けに倒れていた。

 

 地面に倒れた男の向こう。

 すらりとした体つきの黒髪の女性が、片方の脚を天高く突き上げた格好で立っていた。

 

「…誰が…ばばあですって…」

 微妙なお年頃の女性は額に青筋を浮かべながら怒りに震えた声でそう呟くと、男の側頭部に上段回し蹴りを食らわせた右足をすっと降ろす。

「野郎!」

 右隣に立っていた男が黒髪の女性に向かって鉄拳を見舞おうと右腕を大きく振りかぶった。

「ぐふっ!」

 しかし女性は降ろしたばかりの右脚をすぐさま水平に突き出し、そのつま先が男の鳩尾にめり込んだため、男は惨めな呻き声を上げながら地面の上をのた打ち回る羽目になる。

「レディに対して何て言葉使うのよ」

 あっという間に2人の男を地面に這い蹲らせた黒髪の女性。残りの8人が呆気に取られている間に、今度は左隣に立っていた男の頭を両手で鷲掴みにすると、ぴょんと跳躍。膝小僧が男の顎を割り、やはりドサっと音を立ててその男は膝から崩れ落ちた。

 3人目を倒され、ようやく石化の魔法から解放された残り7人の男たちは、一斉に女性に向かって襲い掛かる。

 

 突然の闖入者によって、レイを囲んだ男たちの集中が全て闖入者へと向いた。

 レイはミチルをしっかりと抱き締めると、黒髪の女性が現れたところから反対方向へと向かって駆け出した。

「ちょ、ちょっと!レイ!」

 黒髪の女性の呼び止める声は無視する。兎にも角にも、今の最優先事項はミチルの安全確保だ。

 駆け出した先。レイのカウンターパンチを浴びて倒れていた男がようやく意識を取り戻し、顎を擦りながら起き上がろうとしている。レイはその横を駆け抜け様にもう一度、今度は右のつま先を四つん這いの男の顎に食らわせてやった。

 

 

 1978年生まれの彼は公務員の両親のもと何不自由のない少年時代を過ごした。学業は優秀でそこそこ有名な国立大学の理工学部に進学し、卒業後はそこそこ有名な自動車メーカーの技術開発部に就職。セカンドインパクト後の混乱期の中にあってもそこそこ充実した順風満帆な日々を過ごしているかに思われた。そんな彼の人生を足もとから掬ったのは彼自身のギャンブル癖にあった。学生時代から賭けマージャンで友人相手にすでに借金を作っており、就職し定期的にお金が入ってくるようになってからは一度に賭ける金額も大きくなり、終いには裏賭博にまで手を出し、闇金相手にとても一個人では払い切れない程の借金を作ってしまった。後は典型的な転落人生。回収業者には昼夜問わず自宅職場問わず押し掛けられ、職を失った彼はいよいよ自分の臓器を売るか売らないかの瀬戸際まで追い詰められた。そんな時に彼は自分の中に培われた技術を活かすことで袋小路の自分の人生を切り開く手段を思いつく。即ち、自動車の窃盗である。彼は自動車メーカーの技術開発部の中でも、セキュリティ関係を任される立場にあった。 

 2015年につまらない保険詐欺で逮捕されるまでに、彼は一個人としては国内犯罪史上最大級の数の自動車を盗んだ伝説の自動車窃盗犯となっており、イモビライザーだろうがハンドルロックだろうが、彼に掛かればどんな車もものの数分で彼にものになってしまうのだった。

 

 

 軍隊仕込みの格闘術を持つ女性も、さすがに屈強な男10人を同時に相手にするのは分が悪い。

 一人にはどてっ腹に後ろ回し蹴りをぶち込み、一人には脳天に踵落としを食らわせ、さらに人数を2人削ったが、体力的にも微妙なお年頃の女性。すでに息が上がっている。おまけに最初に倒した3人も復活して戦列に復帰しようとしており、何人かは刃物を持ち出していた。

 ここまでは女性相手に手も足も出ていない男たちだが、取っ組み合いが長期化すれば頭数と体力という点で形成は徐々に男たちの方に傾いていくことは、双方にとっての共通した認識だった。ここまでコケにされっ放しの男たちだが、その表情には次第に余裕が浮かび始めている。

 

 しかし女性には焦りはなかった。男たちは気付いていないが、女性が着る黒のジャケットに隠れている脇のホルスターには、大きな拳銃をぶら下がっているからだ。

 だがこんな街中で発砲したくはない。このまま徒手で格闘を続けるか、それとも騒ぎが大きなることを覚悟で発砲するか、それとも逃げるか。

 女性が迷っている、その時だった。

 

 男たちの背後から、立て続けに大きなクラクション。

 振り返ると、狭い道幅ギリギリの中を、軽自動車がこちらに向かって猛然と突っ込んでくる。

「うわああ!!」

「どわああ!!」

 男たちは悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように道路脇へと逃げだす。一人は逃げ道がなく右往左往している間に突っ込んできた車のボンネットの上に乗り上げてしまい、背中からフロントガラスに激突。そのまま天井をくるくると回って道路に転がり落ちた。

 

 呆気に取られている女性の前で、フロントガラスにヒビが入った軽自動車が急停止する。

 窓ガラスが開き、中から空色髪の女性が顔を出した。

「乗りますか?」

 仏頂面で尋ねてくる空色髪の女性。

 黒髪の女性はぎこちなく頷きながら、後部座席へと乗り込んだ。

 

 

 黒髪の女性が乗り込んだのをバックミラーで確認したレイは、瞬時にブレーキペダルからアクセルペダルへと足を乗せ換え、思い切り踏み込む。エンジンが唸り声を上げると共に急発進する軽自動車。後部座席の黒髪の女性が悲鳴を上げる一方、助手席のミチルは絶叫マシーンでも楽しんでいるかのようにきゃっきゃと笑い声を上げていた。

 

「レイ…」

 後部座席から呼び掛けられ、バッグミラー越しに黒髪の女性に視線を送るレイ。

「どうしたのよ。この車」

 そう言われ、レイは前方とバックミラー越しの女性の顔を何度か交互に見た後、ぼそりと呟いた。

「……道に落ちていました」

 女性はこめかみを手で押さえる。

「何てこと…。あのレイがいつの間にこんな悪い子になっちゃったのかしら…」

 レイは冷たい声で言う。

「逮捕しますか?」

「別にあたしはケーサツじゃないんだから」

 ではあなた誰ですか?とはレイは訊ねなかった。

 

 後部座席に座る黒髪の女性。

 葛城ミサトのことはもちろん知っている。

 かつてレイがネルフに所属していた頃の直属の上官だ。だがネルフはとうの昔に解体されている。では今のミサトの肩書は何なのか。

 

「で…、この子がもしかしなくてもミチルちゃんね」

 ミサトが後部座席から乗り出し、助手席のミチルを見る。

「わーー可愛い!シンちゃんにそっくりじゃない。いや、目もと辺りはアスカ似かな?」

 そう言いながら、ミチルに手を伸ばすミサト。

 途端に、

「触らないでください」

 レイから何時になく厳しい声が飛んだ。

「何よー。人をばい菌扱いしなくてもいいじゃない」

 唇を尖がらせながらのミサトの抗議をレイは無視する。バックミラー越しにレイの厳しい視線を受け、ミサトは溜息を吐きながら後部座席のシートに背を預けた。

「レイとも10年振りじゃないの。もっとこうさ。再会の喜びとかあってもいいんじゃない?」

 明らかに不穏なレイの表情に、ミサトは空気を和らげようと殊更明るい声で話しかける。しかし「空気を読む」スキルを身に付けているレイも、この時ばかりは空気を読まなかった。

「なぜ?」

「へ?」

「なぜ、葛城三佐があの場にいたのですか?」

「ちょっとー。私ももう軍属じゃないんだから。これからはミサトって呼んで」

「質問に答えて下さい」

 つっけんどんなレイの態度にミサトは再び溜息を吐きつつ、それでもあの人形のようだった女の子が久しく会わないうちに随分と人間らしい感情を出すようになったものだと少し嬉しくなった。それが苛立ちという、受け手にとってはあまり好ましいものでないものであったとしても。

「ま、それについてはシンジくんやアスカを交えてから話しましょ。今日シンジくんは?」

「…把握されてるのでは?」

「ネルフん時みたいにパイロットたちを常時観察とかできないわよ。そんな人員もお金もないの。私「たち」の最優先観察対象はあくまで…」

 

 

 

 

 

 反転する世界。

 

 地面が上へ。空が下へ。

 

 粉々に砕けた無数のガラス片が車内をポップコーン菓子のように弾け飛ぶ。

 

 アスファルトに引きずられる天井からは火花が散る。

 

 衝撃と同時に急速に膨らんだエアバッグが視界を塞いだ。

 

 

 

 

 朦朧とする意識。

 ロックされたシートベルトが座席に体を貼り付けさせ、宙吊りのような状態。

 割れた窓ガラスの向こうで、前面がへこんだSUVタイプの大きな車が見えた。そこから、3人の男が降りてくる。何やら言い争いをしながら、こちらに近寄ってくる。

 

 レイはそこら中に痛みが走る体に懸命に鞭打ちながら、震える手を動かし、シートベルトのバックルを外す。途端に重力に体が引っ張られ、頭から天井に落ちる。

 助手席に目を向けた。シートベルトとエアバッグに守られたミチルは、気は失っているものの、少なくとも外見だけではどこか大きな怪我を負っているようには見えない。

 レイは膨らんだエアバッグを押しのけると、割れた窓ガラスから外へと這い出た。

 

 

 

「奴の車を止めるだけで良かったのに、あんな猛スピードで突っ込むバカがいるか!ひっくり返っちまってるじゃねえか!死んでたらどうする!」

「うるせえ!俺も車で突っ込むなんて今日が初めてだったんだよ!加減なんて分かるか!」

「おい、いいじゃねえか2人とも。ほら、ちゃんと生きてるぜ」

 見れば、確かにひっくり返った軽自動車の運転席から空色髪の女が這い出てきた。酷い有様で、服はボロボロ、額から、顎から、肩から、脚から、血が滴っている。

 

 女はふらふらになりながらもゆっくりと立ち上がっている。そんな有様でもまだ抵抗を試みようというのか、道に転がっていた拳大の石を握っている。その石を武器にでもしようというのか、女は近寄ってくる男3人を乱れた髪の隙間から睨みつけては、今にも倒れてしまいそうな膝を震わせて、石を握った手を大きく振り翳している。

 男の一人は腰のホルスターに下げていた奇妙な形をした銃を取り出し、女に向けて撃つ。

 銃の先端からコード付きの電極が飛び出し、女の腹に突き刺さる。

 途端に女の脚や背筋がピンと伸び、次の瞬間には全身が痙攣したかのようにガクガクと震える。

 男が奇妙な形をした銃の引き金から指を離すと、女は糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちる。

 

「俺は女を回収する。お前は子供を確保しろ」

 スタンガンを撃った男は別の男にそう指示すると、女のもとに歩み寄った。路上に倒れた女は白目を剥いて口もとからは泡を吹き、電流が途切れた今もぴくぴくと身体を震わせている。

「ちっ、最初っからこうすればよかったんだ」

 男は忌々しそうに言うと、女の頭髪を鷲掴みにし、頭部を引っ張り上げた。

「良かった。ガキは無傷だ」

 軽自動車の向こう側から子供の回収に向かった男の声がした。

「おう、さっさと確保しろ。人が集まってきやがった」

 そう言いながら、男は女の両脇に腕を滑りこませ、女を抱え上げようとする。

 

 ふと、女の目と視線が合った。

 

 視線が合う。

 女がこっちを見ている。

 真っ赤な血のような瞳が、こちらを睨みつけている。

 

 男は慌ててスタンガンの引き金を引こうとした。

 しかし男が人差し指を引き絞る前に、レイは右手に握っていた拳大の石を、男の右目に向かって突き出してやっていた。

「ぎゃっ!?」

 男は潰れた右目を両手で押さえながら短い悲鳴を上げる。

 その隙にレイは男の手から零れ落ちたスタンガンを拾い上げ、自分の腹に突き刺さったままの電極を引き抜くと、男の胸に突き立てた。

 間髪入れずにスタンガンの引き金を引く。

 すぐさま眩い火花が舞い散り、男は全身を痙攣させながら派手に倒れた。

「貴様!!」

 もう一人の男が駆け寄ってくる。レイは倒れた男の胸から電極を引き抜き、迫ってくる男に対して身構えようとしたが、男の方が僅かばかりに早かった。

 男は駆け寄り様にレイの胴体を渾身の力で蹴り上げた。

 レイの細い体が地面から浮く。

 

「おい!何やってんだ!」

 軽自動車の向こう側で、助手席から引きずり出した子供を抱えた男が怒鳴った。

「こいつ!亀田をやっちまいやがった!とんでもねー女だ!」

「いいからさっさと女を回収しろ!逃げるぞ!」

「分かってる!」

 男は乱暴に返事を返し、念のためもう一度、今度は顔を蹴り上げて女を完全に無力化しようとした。

 ところが、女の腹を蹴り上げた自分の右足が動かない。

 見れば、女が口から吐瀉物をアスファルトにまき散らしながらも、両目を開け、鋭い眼差しでこちらを睨んでいる。彼女の両腕が、男の右足を抱え込んでいた。

「ふざけんな!しつこいんだよ!」

 男は女の執念にゾッとしながらもまだ自由な左足を上げ、女の横っ面に踵を落とそうとする。

 

 パンッ!

 

 強烈な破裂音と共に、レイに踵を落とそうとしていた男の額がぱっくりと割れた。

 盛大に血と脳髄をまき散らしながら、男の体が地面に倒れる。

 

 レイは背後を振り返った。

 

 軽自動車の後部座席から、上半身だけを乗り出した血だらけのミサトが、拳銃を構えていた。

 

「おい水谷!水谷!おいマジかよ!」

 ミチルを抱えた男は地面に倒れた仲間の名前を叫ぶが、すでに絶命している仲間が返事するはずもない。

 ミサトはすぐさま最後の男に銃口を向ける。

 パンっ、と発砲音。

 男の足もとのアスファルトが弾けた。

「ひっ!?く、くそっ!」

 男はミチルを抱えたまま自分たちが乗っていた車へと走り出す。

 ミサトは逃げる男の背中に照準を定めるが、脳震盪から目覚めたばかりの目は焦点がなかなか合わない。下手をすればミチルに当ててしまう。

 ミサトが躊躇っている間に、ミチルを抱えた男は車に乗り込んでしまった。

「くそっ」

 悪態をつくミサト。

 ふと見ると、そこに倒れていたはずのレイが居ない。

 

 

 男は助手席に乱暴にミチルを投げるとすぐにアクセルを踏み込んで車を走らせ始める。

 ハンドルを切って、郊外の広い幹線道路へ向かおうとした。

「わああ!」

 途端に男の悲鳴。

 車の行く手に、あの女が立っている。

 

 

 車が猛スピードで向かってくる。

 鉄の塊が、こちらに突っ込んでくる。

 行く手に立ち塞がったところで、何ができるだろう。

 紙切れのように吹き飛ばされるだけだ。

 だからどうした。

 私は誓ったのだ。

 絶対に守ると。

 

 

 前方で両手を広げて仁王立ちする女。

「ちくしょう…、ふざけんな…、ふざけんなよ!」

 

 何が天使だ。何が神の御使いだ。

 教祖様はあんなこと言ってたけど、とんでもない間違いだ。

 こいつは悪魔だ。

 世界を滅ぼしかけた、悪魔だったんだ。

 殺してやる。

 そんな奴は俺が轢き殺してやる。

 

 男は手の甲に血管を浮き立たせてハンドルを握り締めると、アクセルを目一杯踏み込んだ。

 

「レイ!!」

 

 猛然と駈け込んできたミサトは地面を蹴るとレイの細い体に向かって飛び込んだ。

 胴に腕を回し、レイごと道路の脇に集められたゴミ袋の山の中に突っ込む。ミサトの宙に浮いたつま先を、車のサイドミラーが掠めた。

 

 ミチルを乗せた車が土煙を立てながら走り去っていく。

 レイはミサトの腕の中でもがいた。まだ追い掛けようとしているらしい。

「レイ…、もう無理よ」

 ミサトはレイを落ち着かせようと言い聞かせながら、彼女の体を必死に抑え込む。レイの方がミサトよりも遥かに大怪我だ。それでもレイはミサトの拘束から逃れようとし、遥か遠くになってしまった車に向かって手を伸ばしている。

「レイ…、今はもう諦めて…。私が…、私たちが絶対にミチルちゃんを取り戻すから…」

 ミサトはレイを背後から抱き締めながら、自分自身も悔しさに表情を歪ませながら囁いた。

 

 ついに車は見えなくなった。

 レイの伸ばされた手が虚空を掴む。

 

「……ぅぅぅぅうううああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」

 

 自分でも信じられないような唸り声を上げながら、レイは意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

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