暗闇の世界に徐々に光が差し、ぼんやりとした光景が浮かび上がってくる。
度の強い眼鏡を掛けさせられたような視界。
白い天井、白い壁。
部屋の奥に、兄の姿が見えた。その隣に、親友の姿もある。彼らと対面しているのは医者だろうか。白衣を着ている。
兄も親友も、憔悴し切った顔。親友の方は手にハンカチを握り、頻りに目もとを拭いている。
兄がこちらの視線に気付いた。医者との会話を中断し、こちらに歩み寄ってくる。
その表情は笑顔だ。
でも、それが無理に作った笑顔であることくらい、人の心の機微に疎い自分でも分かった。
兄の手が伸び、私の頬を撫でる。
兄は何かを言っている。
だが、鎮痛剤でも効いているのか私の頭の中はぼんやりとしていて、兄の言葉がうまく聴き取れない。おそらく私が無事であったことを喜んでいる、とでも言ってくれているのだろう。何も心配いらないよ、とでも言ってくれているのだろう。
私の心は今粉々に砕け散っていて、だから彼の柔らかい表情が、温かい手がとても心地よく、全てを彼の優しさに委ねてしまいたかった。
もちろん、そんな事、今の自分には許されないことは分かっている。
突然、彼の優しい顔が遠ざかった。
彼を押しのけるようにして、親友の顔が現れた。
怒りに塗れた、親友の顔が。
親友は両腕を突き出し、私の病衣の胸倉を掴むと、私の体を激しく揺さぶった。
親友は何か怒鳴っている。
相変わらず私の頭はぼんやりとしていて、親友の言葉をうまく聴き取れない。おそらく、彼女の宝物を守れなかった私を責めているのだろう。どんなことがあろうと守ってみせるといった誓いを破った私を責めているのだろう。
彼女の私に対する糾弾は長続きせず、彼女はすぐに泣き崩れ、その場にへたり込んでしまった。
兄は妻の震える肩を抱き、立ち上がらせると、彼女と一緒に病室を出ていく。
医者がベッドまで歩み寄り、何かを言っている。おそらく私の容態の説明をしているのだろうが、やっぱり私の頭はぼんやりとしていて、医者の言葉をうまく聴き取ることができない。医者は一方的に話し終えると、そのまま病室を出ていった。
医者と入れ替わるように、兄が戻ってきてくれた。
今の妹は、まるで初めて出会った時のことを思い出させるような姿だった。頭に腕に包帯を巻いた痛々しい姿。
シンジはベッドの端に腰掛けると、妹の額に手を当てた。
「ごめんね。アスカは今、動転してるんだ」
妹の赤い瞳がシンジを見上げる。どこか焦点の合わない、虚ろな瞳。
「僕もちょっと混乱してる。警察からの詳しい説明もまだだからね」
妹の手がゆっくりと上がりシンジの手を掴むと、包帯が巻かれた額ではない、頬の方へとシンジの手を移動させる。包帯越しではなく、直にシンジの手のひらに触れたい、と。シンジは自分の手を妹のしたいようにさせながら続ける。
「とにかく、君が無事で良かった」
それは嘘偽りのない、シンジの本心だった。
「君「だけ」でも…」
シンジの手を握る妹の手に、ギュッと力がこもった。
見れば、妹の手が小刻みに震えている。手だけでなく、妹の体全体が震えていた。
妹は泣いていた。
「…ごめんなさい」
目覚めてから初めての妹の言葉。
それを皮切りに、まるで堰を切ったように、普段無口な妹の口から言葉が溢れ出す。
「ごめんなさい…、ごめんなさい…、ごめんなさい…、ごめんなさい…」
まるで言葉はその5文字しか知らないとばかりに、同じ謝罪の言葉を繰り返すレイ。
いつの間にかシンジの手はレイの両手に握られていた。
「ごめんさい、ごめんさい、ごめんさい、ごめんさい…」
涙が止め処なく溢れ出していた。
* * * * * * * * * * * * *
シンジたちの家には警察署長自ら訪れて、事件の概要を説明した。もっとも、署長とシンジは旧知の間柄で、署長はシンジがかつて国の捜査機関でアルバイトしていた時の上司であり、彼のチームが人類史上最悪のテロを引き起こした主犯格を探り当てたことで彼は一躍出世コースに乗り、今や30代半ばで地方警察の署長の座に収まっていた。
「今、署総出で娘さんの捜索に当たり、検問も敷いている。今夜中には広域捜査に切り替わり、近隣の所轄全てが協力体制を築き、機動隊も動くはずだ」
「…ありがとうございます」
シンジが署長に対し頭を下げた時、署長の携帯電話が鳴った。署長はシンジに断りを入れながら、電話に出る。
電話の相手と二言三言交わした後、署長の顔が険しくなり、言葉も荒くなった。
何事か、と署長の様子を見守るシンジ。最悪の事態を思い浮かべ、一気に顔が青ざめる。
電話を切った署長は、苦々しい表情を浮かべながらシンジに言った。
「すまん、碇くん。我々はこの件から手を引かなければならない」
「…え?っえ、ど、どうして…!」
署長はソファから立ち上がると、無言で玄関に向かう。
「ま、待ってください!工藤さん!説明を!」
無言のままの署長は靴を履くと玄関のドアを開ける。その表情が、一層苦々しくなった。
「説明か…」
「ええ。いくら何でもこれはあんまりです」
「説明なら…彼女に訊いてくれたまえ」
シンジには背中を向けたままそう言い放つと、署長は玄関を出ていった。
署長が去り、そこに居たのは葛城ミサトだった。
かつての上官であり、1年間寝食を共にした女性。
額や頬に大きな絆創膏を貼ったミサトをリビングに通したシンジは、紅茶の入ったカップをミサトの前に置いた。
「ありがとう。シンちゃんが淹れた紅茶なんて10年ぶりよ」
ミサトは心底嬉しそうにカップを手に取り口に付ける。
「これくらい、訪ねてくれたらいつでも淹れてあげましたよ」
やや棘のあるシンジの言い方。
「ごめんなさいね。せっかく「還って」これたのに。すぐにまた行方くらましちゃって」
シンジは自身のカップの紅茶を啜りながら言う。
「ミサトさんがこの5年間、何をしていたかは興味ありません。僕が知りたいのは娘の行方だけです」
「そうだったわね…」
シンジのその態度から2人の間に5年ぶりの再会を喜ぶ余裕はないことを再確認したミサトは、カップをテーブルに置くと持っていた鞄から資料が入った幾つかのファイルを取り出した。
「アスカは?」
シンジの妻の姿はリビングにはない。
「ちょっと話しを聴ける状態ではないんで。今は鎮静剤を飲んで2階で眠ってます」
「そう。それがいいかもね」
そう言いながら、ミサトは一枚の写真をシンジに差し出した。
受け取った写真を眺める。
その写真には、白髪交じりで眼鏡を掛けた痩身の男性が写っている。
シンジの手に力が入り、写真に皺が寄った。
「その顔は、知っているって顔ね」
眉間に皺をよせ、歯を食いしばっているシンジの顔を見ながらミサトは言った。
「宮部モトノリ…」
「そう」
「黒い月教団…。僕が公安に拘束されていたレイを助け出すために利用した宗教団体の教祖…」
シンジが口にしたのは、5年前に最盛期を誇り、その後急速に勢力が衰えた新興宗教団体の名前であり、それはセカンドインパクトとサードインパクトを神が驕った人類に対して降した天罰であり、どん詰まりとなっていた人類への神の救いの御手であり、近い将来起こるフォースインパクトでは教団の信者のみが神の御手に救われ、新世界へと旅立てると説いた、排他的なカルト教団だった。
5年前、シンジはレイを公安の手から解放にするために、彼らにレイが「神が遣わした御使いである」と信じ込ませ、彼らを利用していた。
「つまり…、これは奴らの僕に対する復讐だ…と?」
シンジの声は震えていた。
教団がレイを「神の御使い」と信じてしまった以上、将来教団からレイに対して何かしらの接触があることは十分に予想された。せっかく自由になり、ようやく誰のためでもない、自分自身のための人生を歩み始めたレイを、狂信者が集う教団に利用されてはたまったものではない。だから、シンジは先に手を打っていた。調べれば、次々と出てくる教団の違法行為。中には準テロ行為と呼べるようなものもあり、シンジは彼が掴んだ教団の暗部の資料を公安にリークしていたのだ。多くの逮捕者を出した教団は、その後急速に勢力を弱め、今では公安監視のもと片手で数えられる程度の拠点で細々と活動するまでに縮小していた。
自分の妹のために利用した挙句、教団を瓦解させた自分。教団に自分の所業がばれないよう慎重にやったつもりだが、どこからか連中に漏れてしまったのだろうか。彼らが社会にとって極めて危険な狂信者集団であったため、自分のやった事については聊かの後ろめたさもなかったが、それが自分の家族に多大な危険を今まさに及ぼしているとなると話は別だ。シンジの中で、教団に対してというよりも、むしろ浅はかだだった自分自身への怒りがこみ上げてくるのだった。
シンジの左膝の上に置かれた左拳が震えている。
「落ち着いて、シンジくん。彼らの標的はシンジくんじゃない。あくまでレイよ…」
ミサトはそう言いながら、もう一枚の写真をシンジに渡した。
「これは……」
受け取った2枚目の写真を見たシンジはふと何かに気付き、1枚目の写真と2枚目の写真とを見比べた。
「気づいた?」
1枚目の写真に写っている老齢に差し掛かっていると見える男性。そして2枚目の壮年の男性。一見して別人のように見えたが…。
「これは、同一人物…ですか?」
「そう。よく分かったわね。おそらく整形してると思うから人相が変わっているけど、その写真は2人とも同じ人物よ。もっとも、2枚目の写真の男は三条ヨシタカと名乗ってたけど。1枚目の宮部は、その三条の10年後の姿、という訳」
「10年後…。っていうか、僕、この三条って人、知ってます…」
そのシンジの言葉に、ミサトはよく覚えていたわね、とでも言いたげに目を少しだけ見開いた。
「この人、ネルフに居ました…」
三条ヨシタカ。当時ネルフの技術開発部技術第一課に所属していた、赤木リツコ配下の複数の助手のうちの一人だった。当時のリツコの人事評価には、優秀ではあったが一流にはなり切れない、1.5流の科学者と記されている。エヴァの起動実験等にも何度か立ち会っていたため、パイロットたちとも面識があった。
「…元ネルフの科学者で…、今は教団の教祖…」
話しの繋がりが見えず、困惑した表情を浮かべるシンジ。そんなシンジに、ミサトは説明を続ける。
「宮部、当時の三条にはね、もう一つの顔があったの。見えてこないかな?当時のネルフに居て、そのネルフが無くなった10年後にはフォースインパクトを待ち望む教団の教祖様になっている男の正体」
シンジは数秒ほど考えて、呟いた。
「……ゼーレの関係者?」
「そっ。さすがね」
ネルフとは人類の天敵たる使徒を撃退し、人類を破滅に追いやるサードインパクトを防ぐことを至上命題に置いた人類の最終防衛組織。当時のネルフ職員はほぼ全員がそう信じてその職務に身を捧げてきた。
ごく一部の者を除いて。
1.5流の科学者だった三条が、その「ごく一部の者」であったとは考えにくい。その三条が、ネルフが消滅した後に主義主張を180度変えたと考えるよりも、元からそのような思想に染まっていたと考えた方が自然だ。
「加地から受け取った資料の中に、三条の名前があったわ。彼はゼーレが送り込んだスパイだってね」
その資料にはこうあった。科学者としては一流であるかも知れないが、スパイとしては三流だと。ネルフも人手不足だったが、ゼーレはそれに輪を掛けて人材不足だったようだ、とミサトにとっての元恋人の皮肉交じりのコメントが添えられていた。ネルフ側も彼がゼーレのスパイであると早々に見抜いていたため、三条は徐々に重要な実験から外されていき、ネルフの科学者としては飼い殺しにされ、そしてゼーレのスパイとしてはまともに活動できないままで、「あの日」を迎えてしまったらしい。
「その三条…、今の宮部が、レイを利用してフォースインパクトを起こそうとしている…と?」
俄かには信じられないというシンジの表情。
そんなシンジに、ミサトはさらっととんでもない事を口走った。
「実を言うと、フォースインパクトはもう起きてるのよ」
「え?」
「ちょっとこの表現は正しくないんだけどね。一応、私たちは暫定的にニア・フォースインパクトと呼んでるわ」
ゼーレの遺志を継ぐため、三条から宮部と名を変え、活動のための資金調達と隠れ蓑にするために教団を興した彼は、かつてネルフの本部が存在した場所。今はその半径30kmが立ち入り禁止区域に指定されている旧芦ノ湖周辺に秘密裏に侵入し、そこからあるサンプルを持ち帰った。1.5流とは言え、腐っても科学技術の最先端を行くネルフの技術開発部門に所属ていていた宮部は、そのサンプルからあるものの再生に成功した。
「…アダムを…、再生した…んですか?」
「おそらく…ね。でも、再生したその瞬間に、それは起きた」
「…ニア・フォースインパクト」
サードインパクトが人為的に引き起こされたものであると広く知れ渡って以降、当然のように世論は次なるインパクトの到来を危惧した。一度(実際には2度)起こすことができたのだ。次に、別の誰かが引き起こすことになっても不思議ではない、と。
海の向こうの大国は世論の高まりに応える形で国防組織にフォースインパクト阻止を目的とした専門の捜査機関を設置する。
「それに元ネルフの私がスカウトされたってわけ。シンちゃんが公安にスカウトされたのと一緒ね」
説明の途中で、ミサトは簡単に自分の身の上話を加える。
ミサトが上級捜査官として国防組織で働き始めて半年経ったころだった。組織が全世界に張り巡らせた監視網が、アンチATフィールドの発生を確認したのは。
「そん時はもう大わらわだったわ。私の上司なんてこの世の終わりだー、なんて泣き叫んでいたわね」
懐かしむように笑顔で当時を回想するミサト。
「でもアンチATフィールドの発生は極僅かな時間に過ぎずすぐに収まり、範囲も極小に過ぎなかった。私たちはただちに捜査を開始したわ。その捜査線上に浮かんだのが」
「…宮部モトノリ…」
「そう。シンジくんはあなたが公安にリークした資料があの教団の瓦解を誘発したと思ってるでしょうけど、実際は私たちの破壊工作の方が影響は大きかったでしょうね」
「そうだったんですね…」
「教団を瓦解させたところまでは良かったんだけど、宮部をはじめ教団の中枢人物たちは今も雲隠れしたまま。教団の本部に残された資料から彼らが何をしようとし、何をしたかまでは何となく掴めたんだけど、結局ニア・フォースインパクトはどこで起きたのか、再生されたアダムは今どうなっているのか、肝心なところは分からないままなの」
「経緯は分かりました。でも、そこに何故レイが関わってくるのかが分かりません」
「おそらく、だけど。彼らはアダムを再生できたまでは良かったんだけど、所詮はコピーものの粗悪品だったのね。アダムが出すアンチATフィールドは安定せず、彼らが思い描くようなフォースインパクトの発生までには至らなかったんだと思うわ。でも「あの日」のレイは、あの現象を完璧に起こし、操っていたわ」
「レイがいれば、彼らはあの現象を思うままに起こせる、ということですか?」
「少なくとも彼らはそう信じている」
「バカバカしい…」
「いずれにしろ、彼らは今回初めて強硬手段に出た。派手に動いて私たちに目を付けられることになったとしても、お構いなしって感じね。おそらく資金が尽き欠けて、なりふり構ってられなくなったのね」
「ミチルはレイを服従させるための人質にされた、ということですか?」
「…でしょうね」
シンジは紅茶を飲み干したカップをテーブルに置いた。ミサトを見る。
「ミサトさんたちのこれからの捜査方針を教えて下さい」
「ネルフほどではないにしろ、一応私たちも国家機密組織なんだけど」
「…そうですか。だったら僕は独自に動きます」
ミサトは苦笑した。あの奥手でナイーブな少年だった彼とは思えない発言だったからだ。
「レイがその身を投げうってくれたおかげで、拉致犯の一人を生きたまま捉えることができたわ。スタンガンに撃たれて気を失ったままだけどね。奴が意識を回復し次第、尋問に掛かるわ」
「レイが…」
シンジの脳裏に、全身に包帯を巻いた姿で病室のベッドに寝ていたレイが思い浮かぶ。
「それに、そろそろ連中からシンジくんに対して何かしらのアプローチがあってもいいと思うのだけど?」
シンジは頭を横に振る。シンジも拉致犯から何か連絡があるものと思っていたが、彼らからは電話もメールも届かない。
「そう。いずれにしろ彼らの目的はレイ。再び拉致しようと襲ってくるか、それともミチルちゃんとの交換を申し入れてくるか。拉致犯が尋問で何か吐くなり、新しい情報がない限りは、連中の次のアクションを待つのが賢明よ」
「そう…ですね」
「大丈夫よ。人質としての価値があるうちは、彼らはミチルちゃんには手を出さない。レイの病室には私たちの警護が付いてるし、ここにも何人か警護と連絡員を残していくわ。警察には引き続き検問を行わせている」
「僕にできる事は、何かありませんか?」
自分の家族を助けるために、守るために、ただ座して待つことなど今のシンジには出来ない事だった。
そんなシンジの顔をミサトは柔らかい眼差しで見ながら、頭を横に振る。そして天井、すなわち2階へと視線を向けた。つられて、シンジも天井を見上げる。
「今はアスカの側に居てやって」
シンジは視線を床に落とした。
「…そう、ですね」
ミサトはソファから立ち上がると、シンジの側に寄り彼の肩に手を置く。
「ミチルちゃんは私にとっては姪っこみたいなものよ。大丈夫。絶対に助け出してみせるわ」
そのミサトの言葉に、シンジは苦笑いする。
「ミチルに40歳のおばさんが居たとは知りませんでした」
ミサトは不機嫌そうにシンジの頬を軽く抓った。
「失礼ね。まだぎりぎり39よ」
「じゃ、私は一旦支部に戻るわ」
ミサトはテーブルに広げていた資料を鞄にしまう。シンジはソファから立ち上がると、ミサトに対して深々と頭を下げた。
「はい。ミチルのこと、お願いします」
「うん。任せといて。…ちょっとトイレ借りてもいい?」
「ええ。玄関の横の廊下の突き当りです」
灯りの点いていない薄暗い洗面台で手を洗うミサト。鏡に写る自分の顔を見つめる。
シンジは、少年時代だった10年前に比べてすっかり大人になった。廊下の棚に並ぶ家族写真に写るアスカも、実に魅力的な大人の女性へと成長している。鏡の中の自分の顔も、当時と比べて目じりに皺が増え、化粧も幾分濃くなった。
鏡の中の顔は、苦虫を噛み潰したような表情をしている。
「…嘘つきってとこだけは変わらないのね。あんたは…」
そう鏡の中の顔に言い聞かせた直後に、ミサトは息を呑む。
ジャケットのポケットから携帯電話が鳴った。
ミサトは鏡を見つめながらポケットから携帯電話を取り出し、耳に当てた。
電話の相手は彼女の部下の声。
捜査官の男は開いた窓を見つめながら言った。
「対象Bが姿を消しました」
そこは病室。窓に張られていたカーテンやベッドのシーツは全て剥ぎ取られ、窓枠からはそれらを一本のロープのように結ばれたものが3階下の庭に向かって垂れ下がっている。
「そう」
部下からの報告を受けてもミサトは驚かない。
「対象Bの捜索は別のチームにやらせるわ。あなた達はこっちと合流して、連中のアジトの捜索に加わりなさい」
電話を切って、ポケットにしまう。
「…まったく。本当に悪い子に育っちゃったみたいね。怪我人は大人しくしてなくちゃいけないって、学校で教わらなかった?」
ミサトは振り返りながら、背後に立っていたレイに言った。
全身に包帯を巻いた病衣姿のレイは仏頂面のまま答える。
「学校には殆ど行けませんでしたから」
レイのその返事にミサトは苦笑いする。
「シンジさんとの会話を聴いていました」
「窃盗に脱走に盗聴?あんた、ほんとやりたい放題ね」
ミサトは冗談めかして言うが、レイがミサトを見る厳しい視線は少しも揺るがない。
「シンジさんに言ったこと。あれはどこまでが本当ですか?」
「全部本当よ。なに?私がシンジくんに対して嘘を言ってるとでもいうの?」
不愉快そうな表情で少し語気を強めたミサトに対し、レイは質問を変える。
「シンジさんには、本当に全てのことを伝えたのですか?」
そのレイの問いに対し、ミサトは無言だった。
「彼ら…、拉致犯の本来の目的。それは私だけではなく、ミチルも含まれていたのでは?」
ミサトは無言を続ける。
「彼らの行動は私だけでなく、明らかにミチルも標的にしていました。ただの人質目的とは思えません」
ミサトは無言を続ける。
「ナターシャ・カミンスキーという名をご存知ですか?」
唐突にその名を出され、ミサトは困惑の表情を浮かべる。
「ええ…。かの国の女スパイであり、凄腕の殺し屋。2年前にうちの諜報機関に捕まって死刑になったけど…」
「彼女はスパイや暗殺以外にも、尋問官としても一流でした。その方法は相手の神経の一部を切り裂くことで頭から下を動かせなくさせ、全身の痛覚は保たせたままで、ありとあらゆる苦痛を与えるというものでした。彼女はその尋問方法を、その気になればボールペン1本でもできたそうです」
ミサトは、ふとレイの包帯が巻かれた右手を見た。
その手には、ボールペンが握られている。
今度はレイの顔を見た。
凍てつくようなレイの赤い瞳。とても旧知の間柄の相手に向けるような眼差しではなかった。
ミサトの背中を、冷や汗が伝う。
「シンジくんやアスカには聴かせたくないの」
ミサトは小声でそう言った。レイは頷き、視線はミサトに向けたままで、顔を勝手口の方へと向ける。
裏庭に出たところで、ミサトは鞄から取り出したタブレット端末を起動させ、レイに一枚の画像を見せる。
それを見たレイの頭の上に疑問符が浮かぶ。
「これが何か分かる?」
「…人の体の、断面図写真」
それは人の体を水平に断層撮影した画像だった。白と黒だけの画像の中に、人の形をした枠とその中の内臓らしきものが輪切りにされて映し出されている。
何故ミサトがこのようなものを見せたのかも分からないが、それ以上にレイが不可解に思ったのが、その画像に写し出された人体の断面図そのものだった。
一応心臓があり、肺があり、肝臓があり、胃があり、腸があり。写真の人物は女性であり、しかも妊娠中らしい。子宮には赤子の影もあるのだが。
どれも位置が微妙におかしいのだ。心臓がお腹にあったり、胃が胸にあったりだとか、そのような明らかな違いではないものの、心臓がやや右の位置にあったり、膵臓が胃の前にあったりと、まるで間違い探しのように、本来あるべき場所から微妙にずれている。
レイには思い当たることがあった。
「これは、アスカ…ですか?」
ミサトは頷いた。
アスカの妊娠が分かった時、レイはアスカから打ち明けられていた。自分の体の構造は、原始の海から再構成された時にどうもテキトーに再生されてしまったらしい、と。再構成されたばかりの時は「中身」がもっとバラバラで、最初に担ぎ込まれた大学病院の先生が何とかそれらしい位置まで戻してくれたらしい、と。
アスカは怯えていた。こんな体で、丈夫な赤ちゃんを産めるのだろうか、と。そんなアスカを、レイはシンジと一緒に励まし続け、何とかミチルの誕生へと漕ぎつけたのだった。
「何故アスカの体の再構成がこんなに歪んでしまったのか。はっきりとした事は分からないけれど、おそらく本来のアスカの体にはなかった異物が再構成された時に入り込んだからだろう、とうちの分析屋は言ってるわ」
「異物?」
「分からない?お腹の辺りにある黒っぽいもの」
レイは目を凝らして写真の人体に写る腹部を見つめた。確かに子宮の中に、黒い点のようなものがある。
「それ。ロンギヌスの槍の破片よ」
レイの細められた目が瞬時に広がった。
「正確には、槍の模造品」
「あの日」。「決戦の日」。アスカが操る弐号機は量産期による徹底した辱めを受け、その体は複数の槍の模造品によって貫かれた。その破片の一部が、アスカの体が再構成された時に体内に紛れ込んだのだという。
アスカが妊娠・出産のために通った病院は、かつてネルフに勤めていた医師が開業したものだ。病院側はチルドレンたちの実情をよく承知していたため、アスカたちも気兼ねなく利用することができ、レイも顔を隠さずにアスカの通院や入院に付き合うことができた。レイの普段の薬もその病院から出してもらっていた。
アスカの体内の異変に気付いた医師は、本人には「念のための検査」として全身スキャンを行い、子宮の中にあった異物を発見。その情報が紆余曲折を経て、ミサトのもとに届いたのだった。
「じゃあ次にこれを見てくれる」
ミサトはタブレットに2枚目の画像を映し出した。
やはり内臓の位置が微妙におかしい人体の断面図写真。しかし1枚目とは大きな違いがある。子宮がすっかり萎み、その中がすっきりしているのだ。その画像がアスカの出産後のものであることは、聴かないでも分かった。
そしてもう一つの変化にも、レイは気付いた。
1枚目の画像にあった、黒い点がないことに。
レイの頭に、最悪な予感が巡った。
「そしてこれが最後の画像」
タブレットに映し出された3枚目の画像。
今度は先の2枚とは明らかに別人の断面図写真。一目でわかる、幼い子供の体内を写した写真。
その子供の体内の真ん中に、黒い点がある。
「槍の破片は、今はミチルちゃんの体内にある」
ミサトは彼女が初めて目にするレイの動揺が広がる横顔を見ながら続けた。
「さっき、病院の看護師の一人を拘束したわ。病院の職員全員を調べ、彼女が教団の信者と繋がりがあったことが分かったの。おそらく彼女から教団にこの情報が流れたのね」
レイは画像の黒い点を見つめながら呟く。
「ロンギヌスの槍。ATフィールドを無効化できる、唯一の物質…」
「…そう。そしてアンチATフィールドを制御することができる唯一の物質でもある…。槍本体や模造品全てが失われた今、連中には喉から手が出るほど欲しいものでしょうね」
ミサトはレイの手からタブレットを受け取ると、鞄の中にしまう。
「これが現状で私たちが掴んでいる事の全てよ…」
ミサトの声が届いていないのか、レイはぼんやりと虚空を見つめている。ミサトはそんなレイの病衣の袖を、少し強めに引っ張った。レイのぼんやりとした目が、ミサトへと向けられる。
「釘を刺しておくわ。余計なことはしないで」
レイは何も答えない。ミサトは努めて優しい声で話しかける。
「あなたは身を挺してミチルちゃんを守ろうとした。本当に立派だったわ。だから私もあなたの要求に対して誠意を見せた。今度はあなたが私の誠意に応えてほしい。今は私たちを信じて。この家で、シンジくんたちと吉報を待っていてほしいの」
レイはゆっくりと視線を動かし、ミサトを見つめる。その視線に、ミサトは「ねっ」と念押しをしてくる。
レイはゆっくりと視線を動かし、2階を見上げた。うっすらと光が灯る、シンジたちの寝室。今、そこでは親友が一人でベッドに眠っているはずだ。愛娘を攫われ、心を打ちのめされた状態で。
さらにゆっくりと視線を動かし、リビングの窓へと視線を動かす。カーテンの隙間から、ソファに深く腰を沈め、両手で顔を覆っている兄の姿が見えた。
レイはシンジのその姿を見つめながら呟いた。
「葛城三佐、1つだけ、質問、いいですか?」
「もう。だからミサトって呼んで」
ミサトのそのおどけた返事にも、レイは一切表情を崩さない。
「あなた方…、いいえ…、葛城三佐にとっての優先事項は、ミチルの命ですか。それともフォースインパクトの阻止ですか」
おどけていたミサトの顔が、瞬時に真顔になる。
「…その質問に、…私が答えられると思っているの?」
レイの真っ赤な双眸が、ミサトを見つめる。
「葛城ミサト…」
見慣れたはずのミサトでさえもゾッとするような深い深い紅の瞳。
「1986年生まれ。南極でセカンドインパクト阻止に失敗した葛城調査隊の唯一の生き残り」
ミサトは目を細めてレイを睨む。
「あの日、お父さんを失ったあなたは、その後の全てを使徒に対する復讐とサードインパクトの絶対阻止に捧げている。ネルフに入職し、対使徒の最前線に立ち、使徒殲滅とサードインパクトの阻止のためであれば、泣いて拒否する年端もいかない少年までも無理やりエヴァに乗せて、あなたの目的のために利用した」
気が付けば、ミサトは相手が怪我人であることも忘れてレイの胸倉を掴み、彼女の体を家の壁に押し付けていた。
何かを言い返そうとして。
しかしミサトは遂に自分の頭から、レイの言葉に対する反論を見つけ出すことはできなかった。
「あなた達には、悪いことをした…。本当にそう思ってるわ…」
ミサトの声と手が震えていた。
レイは表情を崩さない。
「構いません。過去の事について、私は誰かを責めるつもりも、そして資格もありません。…それに」
レイはゆっくりと自分の胸倉を掴むミサトの手を自身の左手で包み込む。
「私にとって、過去とは今と未来を予測するための判断材料に過ぎません」
自分の胸倉から、ゆっくりとミサトの手を離させる。
「当時のあなたの行動は自分の目的に沿って、一貫していました。だから訊いておきたいのです」
レイは自分よりも頭1つ分高いミサトの目を、覗き込むように見つめた。
「あなたはミチルの命と、フォースインパクトの阻止と、どちらを優先させますか」
「……」
ミサトは何も答えなかった。答えられなかった。
レイは静かに言う。
「その沈黙が答えだと受け取ります」
「レイ…!私たちはフォースインパクトを絶対に阻止しなければならない…!でも信じて…!私たちはミチルちゃんの命も……!」
レイを説得しようとして、しかしミサトの口が止まる。ミサトは何かを言おうと必死に口を開閉させるが、何故か喉から声が出ない。
レイはミサトの手を離し、一歩遠ざかった。
ふと、ミサトは自身の右手に何かで刺されたような痛みを感じた。
レイはゆっくりと右手を上げ、右手に握っていたものをミサトに見せる。
それは小さな注射器。
「葛城三佐」
薄れゆく視界の中で、レイが語り掛けてくる。
「私も24歳になりました。年齢の上ではもう大人です。大人だから。だから葛城三佐の事情もよく分かっているつもりです」
遂に堪えきれなくなり、その場に膝を折るミサト。頭から地面に倒れてしまうのを防ぐため、レイは優しくミサトの体を抱きとめてやる。
「でも私は誓ったんです。ミチルに。絶対に守るから、と。その約束は私にとって、何よりも優先させなければならないものです。…だから…」
視界が暗転する。
「ごめんなさい…」
遠くで、レイがそう呟いたように聴こえた。
「ミサトさん!?」
裏庭で倒れているミサトを発見したシンジは慌てて彼女のもとに駆け寄った。
「ミサトさん!ミサトさん!」
彼女の上半身を抱き起し、揺り動かす。すると、彼女の口から小さな呻き声が漏れた。
その様子を見て、少なくとも彼女が生きていることを確認したシンジは、ほっと安堵の溜息を漏らす。
ふと、彼女のジャケットの胸ポケットに、不自然ににねじ込まれた紙切れが目に入った。シンジはそっと、胸ポケットから紙切れを抜き出す。
中身を開いた。
妹の部屋へと駆け込む。
そこに脱ぎ捨てられた、所々に血の痕が付いた病衣。それを拾い上げたシンジは、力なく妹のベッドへと腰を下ろした。
「…どうしたの?シンジ…」
ドアの隙間から、妻が顔を出した。泣き腫らし、目が真っ赤になっている。
夫は黙って妻に右手を差し出す。妻はその手の指に挟まれた一枚の紙切れを受け取った。
しわくちゃの紙を広げる。
一目で分かる、義妹の特徴的な文字。
―――ミチルを迎えに行ってきます。
朝ご飯までには帰ります。
「…あたしが…、あたしがあんなこと言ってしまったから…。あのこ、責任感じて…」
シンジはベッドから腰を上げると、紙切れの文字を凝視しながら肩を戦慄かせる妻を抱き締めた。
「君の所為じゃない…、君の所為じゃないよ…」
シンジはアスカの頭をぽんぽんと叩き、彼女を落ち着かせるとドアへと向かった。
「どこ行くの?」
「決まってるじゃないか。彼女が助けに行ったのは僕たちの子だ。親が何もしないままでどうする」
シンジのその言葉に、アスカは唇を噛み締めながら頷く。
アスカもシンジの後を追って、廊下へ出ようとした。しかし出た瞬間に彼女の顔は夫の背中に当たり、その歩みを止められることになる。
「どうしたの?」
立ち止まっているシンジの背中に問いかけた。
シンジの返事に代わって、
「行かせないわ」
アスカもよく知った声が答えた。
シンジの肩越しに玄関の方を見る。背広を着た数人の異国の男たちが玄関に陣取り、その真ん中に葛城ミサトが立っていた。
「…ミサト」
「や、アスカ。久しぶりね」
その軽い口ぶりとは対照的に、ぐったりとした様子で隣の白人男性の肩を借りながら何とか立っているミサト。
「ミサトさん…、この人たちは…」
「彼らはあんた達の護衛兼監視役」
「監視役って…、どうして僕たちを監視する必要があるんですか!」
「これ以上引っ掻き回されたくないからよ。そんなの、レイだけでたくさん…」
吐き捨てるように言って、ミサトは男たちに目配せした。ずかずかと、男たちはシンジたちの家に上がり込んでいく。
背の高いシンジよりもさらに高く、肩幅も広い男たち数人に囲まれた2人。
「ミサトさん!」
「ミサト!!」
アスカはミサトに食って掛かるように男たちの隙間を縫って身を乗り出した。たちまち男の大きな手にアスカの腕は捻り上げられ、アスカは小さな悲鳴を上げる。
「妻を離せ!」
「ミサト!!」
身動きが取れなくなったかつての部下たちを、ミサトは冷たい目で見つめた。
「ミチルとレイの身に何かあったらあんたの喉を食い破ってやる!」
憎悪のこもったアスカの声をミサトは無視して部下たちに指示する。
「2人はリビングにでも監禁しておいて。くれぐれも丁重にね」
そう言い残し、ミサトは玄関を出ていった。
玄関の前では一人の青年がミサトを待っていた。白人の若い男性。ミサトの直属の部下だ。
「報告を」
「UAV(無人機)が拉致犯が乗り捨てたと思われるSUVを、現場から10km離れた場所で発見しました。おそらくそこから別の車に乗り換えたかと…」
「警察の検問は?」
「今のところ空振りです」
「もう包囲網の外に出たと考えた方がいいわね。拘束した拉致犯は?」
「意識が回復したという報告はまだありません。今、□○病院で治療を受けています」
「そいつの尋問はまだ無理か…。UAVはあと何機飛ばせそう?」
「今飛んでいる1機だけです」
「1機だけ?世界の破滅の危機だっていうのに?」
「使える監視衛星が1機ありますので、そちらと併用していくしかありません」
「…マイナー部門の弱みね。この期に及んで軍は非協力的か…」
「葛城主任…」
「なに?」
「対象Bの件は…?」
「…今の私たちに2つの対象を同時に捜索できるほどの余裕はないわ。今は対象Aの確保を優先。逃走車両の特定を急いで。SUVが発見された場所から半径50km圏内の監視カメラを全て確認。警察の検問を今の倍に拡大させなさい」
「分かりました」
「私は□○病院へ行くわ。何かあれば些細なことでも報告を」
そう若い部下に言い残し、ミサトは車へと乗り込んだ。
* * * * * * * * * * * * *
その男は10代のころから天才的なハッカーとしてその世界に名を轟かせていた。当初は各国の中枢サーバーに侵入し、そこに痕跡を残しては相手の反応を面白がるという単なる愉快犯だったが、サードインパクトという世界的な事変の後は体制側に対するサイバー攻撃に熱を入れ始める。彼の最も大きな仕事は、秘匿されていたサードインパクトの元凶とされる組織のナンバー2が残した証言を、世界に向けてリークしたことである。しかしその後に世界に巻き起こった動乱を目の当たりにした彼は急速な変節を見せ、サイバーセキュリティの専門家として体制側に協力。現在は国防本部に勤め、外部からのあらゆるハッキングに監視の目を光らせる日々を送っている。
唐突にアラームが鳴った。
椅子に腰かけながらカフェインをたっぷり含んだコーヒーを啜っていた男は、カップをテーブルに置くと身を乗り出して目の前に置かれた端末モニターを覗き込み、キーボードを叩き出す。
「どこのどいつだ?俺が当直の日に迷い込んできたお間抜けさんは…」
モニター上には外部からのハッキングを示す警告。しかし男は慌てた素振りを見せるどころか、嬉々とした表情を浮かべる。
「ははっ」
男は笑った。
「こりゃまた。随分古いプログラムを使ってんだな。10年以上前のものじゃないか。こんなもので、俺が作ったセキュリティを破ろうってのか?」
超一流のピアニストのようにキーボードの上を走っていた男の指が、まるで倍速再生でもしているかのようにさらに加速していく。
「はーい、捕まえた。逆にあんたがどこの誰だか探ってやる。国内だったら10分後には即応部隊が突入しちゃってるよーん」
男はけらけら笑った。
彼がこの職に就いて5年。以来、国防本部のサイバーセキュリティが破られたことは一度もない。いつしか国防本部のサーバーは絶対に侵入不可能と言われ、かつては毎日何百件もあったサイバー攻撃も今や数日に1件という数にまで減っていた。
たとえ相手がお粗末なハッカーであっても、彼にとっては久しぶりの獲物である。興奮した面持ちでキーボードを叩き続けた。
「…ん?」
そんな彼の眉の片方が上がった。
「ちょっと待て…」
そして眉根に皺が寄る
「…お前、誰だ…?」
物言わぬモニターに向かって語り掛ける。
「なんでお前が、このプログラムを使っている…」
キーボードを叩き続ける指が、少しずつ遅くなっていく。
「お前は………俺か?」
ついには指が止まってしまった。
モニター上に表示された侵入を仕掛けてくる相手側のハッキング用プログラムのデータ。
それはかつて彼が国防総省のサイバーセキュリティを破った時に一度だけ使用した、彼が独自に組んだプログラムだった。
茫然とモニターを見つめる彼の手が止まったのは、ほんの数秒に過ぎなかった。
しかしその数秒が、この場では致命傷となりうる。
「Goddamn!!」
我に戻った時には、敵はすでにセキュリティの第1防壁を突破していた。
「ふざけんな!」
彼は悪態をつきながら慌ててキーボードを叩き始める。
「くそっ、速い!」
ひと度防壁を突破した敵は瞬時にウィルスをサーバー上にばら撒き始めた。まるでハッカーとして暗躍していた彼の全盛期を思わせるような早業だった。
ウィルスは高レベルの極秘ファイルが保管されているサーバーの第2防壁にも食い付き始める。瞬く間に浸食される第2防壁。
「舐めんなよ!」
彼もすぐにアンチウィルスを投入。モニター上で貪り合いを始めるウィルスたち。
異変に気付いた同僚たちが彼のもとに走り寄ってくる。
「何やってんだ!第2防壁も突破されてるぞ!」
「うるさい!これは超ド級のハッカーだ!このままじゃサーバーが乗っ取られちまう!」
彼の警告を受け、顔を青ざめさせた同僚はモニターの横にある赤いスイッチに指を掛けた。
それはサーバーを物理的にシャットダウンする、外部からのハッキングに対抗する言わば最終手段であった。
「待て!もう少し、あと少し!」
彼は額中に汗を浮かび上がらせながら、凄まじい勢いでキーボードを叩き続ける。
「これで……どうだ!!」
彼の人差し指がエンターキーを叩きつけた。
途端に第2防壁を食い散らかしていたウィルスが消滅し始める。
続けてサーバー上にばら撒かれたウィルスも消滅し、第1防壁の修復が始まる。
「ひええええええっ…」
彼は奇妙な溜息を洩らしながら椅子の背もたれに寝そべった。
「肝冷やしたぜ…」
* * * * * * * * * * * * *
携帯電話に出る。
「葛城です。…え?本部から?…サーバーに侵入を許した?へー、アルバートが珍しくヘマしたのね。でも、それをどうしてわざわざ私に報告するの?」
電話相手の話しを聴き、ミサトは思わず腰を浮かし、頭を車の天井に打ってしまった。
上官の様子に気付き、運転席と助手席に座る部下が怪訝そうにバックミラー越しに後部座席のミサトを見る。
電話を切ったミサトは2人に告げた。
「本部のサーバーが外部からハッキングを受けたわ。侵入先はこの町の図書館のパソコンから。閲覧されたデータは教団の資料よ」
きょとんとしている2人。
「分からないの!彼女が、対象Bが動き始めたのよ!このままだと彼女に引っ掻き回されるわ!病院に急いで!」
病院に辿り着くなり、ミサトは拉致犯の治療に当たっている医者に詰め寄った。
「彼の容態は」
「バイタルは安定しています。あと数時間もあれば意識も回復するでしょう」
「今すぐ」
「え?」
「今すぐ彼を起こしなさい。あらゆる薬物を投与して」
「な、何を言ってるんだ。薬物による強引な意識覚醒は脳に深刻な障害を…、下手をすれば命にかかわる…」
「いいから!」
ミサトは医者の首からぶら下がる聴診器を毟り取り、壁に投げつけた。
あまりと言えばあまりのミサトの態度に、医者は激昂する。
「無礼な!今すぐここから…!」
続く言葉は出てこなかった。鼻っ面に拳銃の銃口を突き付けられていた。
拳銃の主は言う。
「役に立たないのなら出ていくのはあなたよ。他の医者にやらせるまでだわ」
「くっ…、悪魔め…」
ミサトは薄く笑う。
「いいわ。あの大厄災を防げるなら、鬼にでも悪魔にでもなってあげる…」
輪郭が徐々にはっきりしてくる。
視界の真ん中に、黒髪の女性の顔が見えた。
「はーい、こんばんわ。良いお目覚めね」
その女には見覚えがあった。自分たちの仲間のうちの5人を、瞬く間に叩きのめしてしまった女。
咄嗟に起き上がろうとして、しかし全身に力が入らない。
「あー、動かないで動かないで。医者は絶対安静って言ってるから。ま、心臓に直接電気流されたんだから当然よね」
「き、きさま…」
「おお良かった。喋れるようね。だったらさっさと教えて。あんた達のアジトはどこなの?捕まえた子供を、どこに運ぶ予定だったの?」
「誰が…言うか…」
「まあそうよね。神に仕えるあなたが、そう簡単に仲間を裏切るはずないものね。じゃあどんどん進めていきましょ。これって何かなー?」
自分の目の前に突き出された女の手。その手に摘ままれているもの。
それは指。
それは…。
「ふ、ふざけんな…、それは…」
「あ、やっぱり分かった?そりゃそうよね。自分の結婚指輪くらい分かるわよね。でも世の中不公平だわー。どうしてあんたのような奴が結婚できて、私はまだ独身なのかしら。あー、ちなみにこっちが先に切っておいたあんたの小指よ」
「ふざけんな!ふざけんな!ふざけんな!」
「じゃあ次は中指を切ってあげるわよー。まだ18本もあるから、ゆっくりじっくりやっていこうね❤」
「やめろおおおおおおおおおお!!!!」
「じゃあ今すぐにおっしゃい!!」
女に前髪を掴まれる。鬼のような形相だった。
「この世界を破滅させようって奴が、自分の指切られたくらいでピーピー喚いてんじゃないわよ!あんたの先達は、自分の息子の身すら計画に捧げたのよ!それくらいの度胸もない奴がフォースインパクトを起こそうなんてちゃんちゃらおかしいわ!」
処置室のドアを荒っぽく開けてミサトが出てきた。駆け寄る部下たち。
「吐いたわ。即応部隊に連絡!」
「はい!」
* * * * * * * * * * * * *
ドアを押し破る。
ショットガンを構える者を先頭に、黒尽くめの集団が次々と内部へと侵入する。
2つ目のドアを蹴破ると、中には数人の男。
銃器を持った集団に突然押し入られ、男たちは慌てて手近にある武器。と言ってもナイフや鉄の棒といった、銃火器に比べれば貧弱極まりないものを手に取った。
「動くな!!」
ショットガンを構えた黒ずくめの男が叫ぶ。
ショットガンの男の背後にいた集団も、次々と男たちの胸に銃器の銃口を向ける。
もはや反撃を試みる暇もなかった。
「クリア!」
「クリア!」
他の部屋へと押し入った分隊から、次々と報告が上がってくる。
黒ずくめの集団の中央に居た、即応部隊の部隊長に隊員の一人が駆け寄る。
「制圧完了です」
最後の報告を受け、部隊長は無線のスイッチを押す。
「こちら突入班。建物内の制圧完了。なお、対象Aは発見できず。繰り返す。対象Aは発見できず」
作戦指揮車となっているワゴン車の中でその報告を聴いたミサトは、思わず掛けていたヘッドセットを外して壁に投げつけた。スライドドアを開け、外に飛び出る。
「くそっ!」
八つ当たりするように地面を蹴り上げる。しかし悔しがっている暇も今は惜しいので、すぐに即応部隊が突入した建物、郊外の廃工場へと駆け出した。彼女の部下もそれに続く。
錆塗れの廃工場の一室。
そこに拘束された男たちが集められていた。
ミサトは屈強な隊員たちの人波を掻き分けて、拘束された男たちの前に出る。男たちは全員後ろ手に縛られ、目隠しをされ、膝立ちをさせられていた。
「捕まえたのはこれで全員?」
部隊長に話しかける。
「ああ。構内はくまなく調べた」
「ふーん」
ミサトは男たちの目隠しを取りながら、一人一人顔を確認していく。
全員の顔を見終わって。
「ちっ…」
舌打ちをし、親指を噛む。
「この中には居ないわね…」
ミサトの苛立ちを表すように、彼女の踵がカツカツと忙しなく床を鳴らしていた。
「とにかくこいつらから聴き出すしかないわね。一人ひとり、別室に隔離して尋問始めて」
「はい」
ミサトの部下や突入部隊の隊員たちが、男たちを移動させるため部屋の片方に集中した、その時だった。
部屋の隅にあった用具入れが突然開いた。
中から男が一人飛び出て、そのまま廊下へ繋がる扉へと駆け出す。
ミサトたちは用具入れとは反対の場所に集まっていたため、初動が遅れた。
「待て!!」
ミサトの直属の若い部下が叫びながら後を追う。
廊下に出た男は、廊下の突き当りにある屋外への扉へと全力疾走する。
「くそっ!待ちやがれ!」
言われて待つバカは居ないが、それでも部下は叫びながら男の背中を追った。
男が外へと出る扉のノブに手を伸ばした、その時だった。
部下の背後で破裂音。
続けて部下の耳元を何かが高速で掠めていく衝撃。
「ぎゃっ!?」
追いかけていた男が悲鳴を上げ、前のめりに倒れ、閉じられたままの扉に顔面から突っ込んだ。
部下は振り返る。
廊下の奥で、拳銃を構えたミサトが立っていた。
銃口からは煙が立ち昇っている。
銃弾が掠めた耳を押さえる部下の隣を、ミサトは何事もなかったかのようにツカツカと歩いて通り過ぎた。
肩を撃ち抜かれた男は床を血だらけにしながらも、それでも外に逃れようと手に掛けたドアノブを捻ろうとしている。
ミサトは、そんな逃亡への執念を見せる男の大きな穴が開いた肩を、すらりとした足で容赦なく踏んづける。
「ぐえっ!」
潰れたカエルのような悲鳴を上げる男。
ミサトは男のシャツの襟首を鷲掴みにすると、強引にこちらに振り向かせる。
にっこりと笑った。
「ようやく知った顔に出会えたわね」
ミサトが拳銃で肩を撃ち抜いた男。それは、ミサトの銃撃から逃れ、ミチルをSUVで連れ去った男だった。
扉を背に床に倒れている男の、血まみれの肩を改めて念入りに踏んづける。
「ぎゃあっ!」
男の悲鳴。
自分の足の下で激痛に悶絶する男の反応を、ミサトは無視して話し掛ける。
「私が知りたいことは1つだけよ。女の子はどこ?」
「…知るか…!」
男は顔中を脂汗に濡らしながら答えた。
「へーー、そーなんだー」
「ぎゃああああああ!」
ミサトが男の肩を踏んづける自分の足に体重を掛けていくたびに、男の悲鳴も比例して大きくなっていく。
男は呼吸不全にでも陥っているのか、息も絶え絶えに訴えた。
「知らないんだ…!本当に…!」
「ただの下っ端ってわけね…。じゃああんたが知ってることを全部話しなさい」
「知らない…!俺たちは何も知らされ…」
パンッ!という破裂音。
「ぎゃああああああああ!!!!」
ミサトが手に握った銃。銃口は床へと向けられている。その床には、男の右太腿。
「知ってることだけでいいの。あんたが何か思い出してくれるまで続けるわよ~、次は左足かな~?」
血がどくどくと溢れ出す太腿を両手で押さえる男は、泣きながら言った。
「俺たちは…、女とガキを攫ってここまで連れてくることまでが役目だったんだ…。あの子は…、幹部の車で…、どっか行っちまった…」
「幹部の車の行き先は?」
「ほ、本当に知らないんだ!信じてくれよ!」
「幹部の人数は?」
「2人だった…」
「車種は?」
「ステーションワゴンだった…と思う…」
「ここを出たのはいつ?」
「30分前…」
「どっちに向かったの?」
「東方面だった…」
「そっ」
ようやくミサトは男の肩から足を離す。
拘束から解放されて気が緩んだのか、男はそのまま床へと倒れ、気を失った。ふと見ると、男を踏んづけていた靴の裏に血がベットリ付いている。ミサトは男が着るジャケットの袖に靴の裏を押し付け、血を拭った。
振り返る。
若い部下をはじめ、廊下に立つ男たち全員が棒立ちのまま、扉の前の女性捜査官を見つめていた。
「何ぼーっと突っ立ってんの?」
「は、はい!」
ミサトは気を失った男の上を跨ぐと、扉を開けて外に出て行った。その背中を、若い部下は耳を押さえながら追いかけていく。
指揮車に上がり込んだミサトはすぐさまオペレーターに怒鳴った。
「すぐに衛星に繋げて!この辺り一帯の映像をモニターに出すの!」
指揮車内のモニターに、高度200km上空から地上を写した映像が映し出された。
最大にまでズームされた映像。ミサトらが乗る指揮車の天井が見える。そこから映像は引いていき、廃工場の全貌、廃れた街、と徐々に映し出される範囲が拡大していく。
「車で30分前に出発したとしらもうかなりの距離を移動しているでしょうね。この映像をここから10km東に移動させることはできる?」
「はい」
「じゃあやって」
映像が東に移動するにつれ、徐々に夜の暗闇を照らす人工的な光が減っていく。
「郊外の、しかも深夜です。走行中の車は僅かです」
ぽつぽつと灯りが点在する映像。その灯りの幾つかは、移動している。
その移動する光の一つ一つを、ミサトは凝視する。
暫くして、ミサトは首を横に振った。
「…違う、この中にはいない…。さらに10km東に移動させて」
「はい」
さらにモニター上の灯りが減る。
その中で、やはり移動する光一つ一つを凝視するミサト。
「…違う。もっと東に動かしてみて。それで居なかったら別の方角を検討する必要があるわね」
「はい」
さらに灯りは減り、山中なのか、モニター上はほぼ真っ暗になる。
暫くして。
「これよ」
ミサトは一つの光を指差した。
「こいつ…ですか?」
「ええ。こんなド深夜の、しかも対向車なんてほぼ居ない道路で律義に法定速度を守り、一時停止を守ってる。慎重すぎる運転よ」
「ただの模範運転者では?皆が皆、主任のような運転ではないですよ?」
冗談交じりにミサトの判断に疑問を呈する黒人女性のオペレーター。ミサトはそんなオペレーターの頭を肘で小突いた。
「だったら他に見分ける方法なんてある?ここは女の勘を信じなさい」
「りょーかい」
「すぐにUAVを向かわせて」
「ですが、UAVはもう燃料が…」
「構わないわ。ギリギリまで飛ばして」
「捉えました。モニターに出します」
オペレーターの声と共に、モニターに白と黒の映像。深夜の暗闇であっても、風景をはっきりと映し出す赤外線映像が映し出された。
上空から地上を捉える映像。その道路上に、一台のステーションワゴンが走っている。
尋問(拷問?)した男の証言と合致したため、ミサトは思わずパチンと指を鳴らした。
「車内の様子は分かる?」
ミサトに聞かれ、オペレーターはモニターを熱感知映像に切り替えた。
車内にはオレンジ色で形作られた人の影。
「2人居ますね…」
「これは…!」
車のトランクルーム。そこにもオレンジ色で形作られた丸い「何か」が収まっていた。
「これよ!このトランクルームの中に対象Aが居るわ!」
ミサトの言葉を聴いた即応部隊の隊長は部下たちに怒鳴った。
「聞いての通りだ!全員車に乗れ!出発だ!走れ走れ!」
黒づくめの部隊員たちが、次々とワゴン車へと乗り込んでいった。
ミサトはオペレーターに問う。
「部隊がこのステーションワゴンに追いつくまでの所要時間は?」
「飛ばせば30分ほどでしょうか」
「UAVの残り飛行時間は?」
「…5分です」
「ギリギリまで監視を続けさせて。以降は衛星に監視を引き継がせるわ」
「主任…それが…」
「何よ」
歯切れの悪いオペレーターを睨みつける。
「この区域は間もなく衛星の監視区域から外れます。これ以上の空からの監視継続は不可能です」
ミサトは唇を噛んだ。
「この先の道路の状況は?」
「分岐が続きます。上空からの監視がないと、追跡は困難です」
「主任…」
ミサト直属の若い部下がモニターを睨むミサトの背中に声を掛けた。
返事はない。
「主任…!」
「何よ」
ミサトはモニターを睨んだままおざなりに返事をする。
「提案があります」
「言ってごらんなさい」
若い部下は一度生唾を飲み込んだ。
「我々の最大の使命はフォースインパクトの阻止です」
「そんなこと、あんたに言われなくても分かってるわ」
「それには教団に槍の破片が渡らないこと。これだけは絶対に死守しなければなりません」
「何が言いたいの」
「UAVには対地ミサイルが積んであります」
ざわつく指揮車内。
ミサトはモニターを睨んだまま。
「今なら槍の破片を破壊できます。奴らに渡さなくて済む!」
「あなた。気は確か?あんたが言う槍の破片は、まだ3歳の女の子のことよ」
「そんなこと、分かってます!」
ミサトはようやくモニターから視線を外し、部下を睨んだ。
「だったら言葉を濁さずはっきり言いなさい!ミサイルであの女の子を殺せと!」
激しいミサトの剣幕。それでも部下は引き下がらない。
「ええ!今すぐあの子を!碇ミチルをミサイルで爆殺するべきです!跡形もなく!奴らに槍の破片が渡る前に!」
「ふざけないで!」
ミサトの拳が指揮車の壁を抉った。
「たった3歳の女の子の犠牲のもとに成り立つ世界の平和なんて、私は許容しません!」
「許容するかしないかは主任が決めることではありません。世界が決めることです」
「世界…。ふっ、…世界ね…」
ミサトは若い部下の言葉を鼻で笑った。
「この世界なんて、ほんとは10年前に滅んでたはずなの。今の世界なんて、たまたまおまけで続いたような、何かの気まぐれで始まったボーナスステージのようなものなのよ。そんなちんけな世界に大の大人たちがみっともなくしがみ付いてんじゃないわよ!あんたたちもプロならね!子供も世界も、両方とも守ってやろうっていう気概を見せたらどうなの!」
睨み合う主任と部下の間を縫うように、オペレーターの怯えたような細い声が通った。
「UAVの残り飛行時間、1分です」
若い部下は無線通信用のヘッドセットをミサトに差し出す。
「主任…、爆撃の命令を…」
ミサトは首を横に振る。
「主任…、世界が滅ぼす気ですか…」
「まだ、私たちは、追い詰められてはいない…。この選択は早すぎるわ…」
「UAVの残り飛行時間、30秒です」
「主任…、私たちに…世界を滅ぼした悪魔になれ、と言うのですか…」
「鏡が無いのが残念ね…。今、私の目の前に悪魔の誘惑に負けた男の顔があるわ…」
「UAVの残り飛行時間、10秒」
「主任…」
ヘッドセットを差し出す部下。
ミサトは受け取らない。
「5秒、4、3」
「主任…!」
ミサトは受け取らない。
「燃料ゼロです」
UAVから送られてくる映像を映し出すモニターに徐々にブロックノイズが混じり始め、やがて画面は真っ暗になった。
「UAV、高度が下がります」
淡々と状況を報告し続けるオペレーター。
「高度ゼロ…。UAV、墜落しました…」
静まり返る指揮車内。
たっぷりの沈黙の後、若い部下は乾ききった唇をようやく開いた。
「主任…」
「なに…?」
「僕は、家族をあの厄災で失いました」
「……」
「彼女は…」
若い部下は目線で黒人女性のオペレーターを指す。
「彼女の両親は、厄災後の混乱期に暴徒に襲われ、殺されました」
指揮車内を見渡す。
「皆、同じです。ここにいる全員が、あの厄災で家族を失ってるんです。ここにいる全員が志願です。皆が、二度とあの厄災を起こすまいと、自ら志願してこのチームに参加したんです」
拳を握り締めながら、上官の顔を見つめた。
「あなたはそんな僕たちの心を裏切った」
腹の底から絞り出すようにそう言った若い部下は、ミサトに渡そうとしていたヘッドセットを自分の耳に掛けた。コンソールのつまみを回してチャンネルを合わせ、回線を開く。
「ジョン・マキュアンです。はい…。…はい、その通りです。ええ。彼女の指示です。はい…。はい…」
無線の相手と30秒ほど話した部下は、ヘッドセットを外すと、再びミサトに差し出す。
ミサトは、今度は黙ってヘッドセットを受け取った。耳に掛ける。
『支部長のハワードだ』
「はい」
『判断を誤ったな、ミス.カツラギ』
「私はそうは思いません」
『そうか。いずれにしろ君は解任だ。指揮権をマキュアンに引き継ぐように』
* * * * * * * * * * * * *
明滅を繰り返す蛍光灯。薄暗い洗面台。薄汚れた鏡。
そこに映る女。
女は頭に巻かれた包帯を外し、その下に貼ってあったガーゼを剥がす。額の傷口を縫合した痕が現れた。動いた所為か、傷の隙間から血が滲んでいる。蛇口を捻ると少し濁った水が出てきた。水を手で掬い、額に当て、血を洗い流す。傷口が染み、女は思わず顔を顰めた。
傷口を洗い終えた女は、顔を鏡に近づけた。
自分の顔を睨む。怪我と疲労で憔悴した顔。
女は口を広げる。ピンク色の舌の周りに、綺麗に並んだ歯。
女は吟味するように、鏡に口を近づけながら、歯の一本一本を確認していく。
女は丁度いい一本を見つけたようだ。
洗面台に置いていたペンチを手に取る。
ペンチの刃先を、右下の第一大臼歯に当てる。ペンチで歯を挟んだ。
あらゆる痛みに慣れっこな女であっても、これから自分の身を襲う痛みにはさすがに身構えた。
女の鼻息が荒くなる。
意を決し、ペンチの柄を握り締めた。
顎を通して、ゴキッという嫌な音が聴覚に伝う。
薄暗い洗面所に、女の悲鳴が鳴り響いた。