告白   作:hekusokazura

32 / 33
おまけ(女ジャックバウアー伝説・転)

 

 

 

 ノックの音がしたため、男は鉄扉の中央よりやや上にある覗き窓を開いた。

 ギョッとする。

 覗き窓の向こうに立っていたのは、バイクのフルフェイスヘルメットを被った人物。

 あからさまに怪しい。

 何より今日の、こんな深夜帯に、この場所に、人が訪れる予定などない。

 ヘルメットのフェイスガード越しに見える相手の目を凝視しながら、男は問う。

 

「何だ」

 

「…大師を」

 

 ヘルメットを被っていることを差し引いてもか細く聴き取りづらい声。

「は?」

 男は聞き返した。

「小野寺ヤスオ大師に…会わせて下さい」

「誰だそいつは。んな奴はいねーよ。帰んな」

 男は乱暴に覗き窓を閉じた。

 

 

「…誰が来たんだ」

 暗く狭い室内で椅子に座っていた初老の男性は焦燥に苛まれた顔で、来訪者を確認しにいっていた部下の男に尋ねた。

「分かりません。ですが…」

 焦った様子で帰ってきた部下は壁に立てかけていた自動小銃を手に取る。

「あんたがここに居ることを知っていた…」

 部下のその言葉に初老の男は腰を浮かした。

「…警察か?」

「分かりません。ですが…」

 部下は手に取った自動小銃を鉄扉に向けて構える。

「何だ…」

「あれは変だ…。何かおかしい…」

 ヘルメットのフェイスガードに隠れた相手の双眸が、彼には赤く光って見えたような気がした。

 

 部下が自動小銃を構えてから1分。

 彼が覗き窓を閉めてから何の変化も見せない鉄扉。

「…帰った…のか?」

 部下がほっと胸を撫で下ろし、自動小銃を下ろしたその時だった。

 

 爆発的なエンジン音が響いたと思った次の瞬間には、鉄扉が音を立てて吹き飛んだ。

 

「わあああ!!」

「ひぃっ!?」

 吹き飛んだ鉄扉の隙間から現れたのは車輪。

 続けて大型バイクの本体が水蒸気と土煙を巻き上げながら室内へと踊り込む。

「ぐへぇっ!!」

 不運にも鉄扉の正面に立っていた部下は突入してきたバイクの車輪の下敷きになる羽目になった。

 突然のことに床に尻餅をつき、腰を抜かしてしまった初老の男。

 目の前には、大型バイクに跨った人物。

 全身を純白のライダースーツに包み白のヘルメットを被った、一目で女性と分かる細いシルエット。

 その女性はバイクから降りると、バイクの下敷きになっている部下の手から自動小銃を取り上げ、壮年の男にその銃口を向けた。

 

「小野寺ヤスオさん…ですね?」

 

 厳ついバイクで鉄扉をぶち破って室内に乱入してきた者とはとても思えない、落ち着いた、と言うよりも凍てついた女性の声。

 問われた小野寺はぎこちなく頷いた。

「あなた方の教祖…。宮部モトノリに会わせてください」

 

 小野寺ヤスオは黒い月教団の東海地区を統べる幹部だった。この日、教団の関係者が一般人を拉致したという情報が舞い込み、当局による弾圧を恐れた彼は教団支部を離れ、側近の一人を連れてセカンドインパクトで廃墟化した街のこの小屋に身を隠していたのだった。

 

 女の問いに、小野寺は首を横に振る。

「知らん。教祖の行方は、2年前から我々も知らんのだ…」

 彼が否定した途端、女が構えた銃口が火を噴いた。彼の股の間の床が弾け飛ぶ。

「ひぃっ!?」

「小野寺ヤスオ。ゼーレの下部構成員。宮部モトノリが三条ヨシタカであった頃、あなたがゼーレとの連絡員であったことは「知っています」。ここがあなたと三条が連絡を取り合う場として使っていたことも」

「…な、なぜそれを…」

 それはゼーレもネルフも崩壊した今、彼らの教祖と自分しか知りえない事実だった。

「サードインパクト以前から宮部と繋がりのあるあなたが、宮部の行方を知らないとは考えられません」

 そう言いながら、女はヘルメットを脱いだ。

 

 小野寺の目が大きく剥かれる。

 ヘルメットの舌から現れた空色の髪。

 

「宮部に伝えなさい」

 自身の目を、真っ赤な瞳に射抜かれた。

「御使いが会いに来た、と」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 小野寺が携帯電話で連絡を取り始めた。

 レイは自動小銃から弾倉を引き抜き、小銃ごと床に捨てる。しばらく様子を見守るため、部屋の隅にあるテーブルに腰かけた。

 

「…ああ、…ああ、そうなんだ。…まちがいない…、綾波レイが…ここにいる…。お前に会わせろ…と」

 

 小野寺は小声で相手と話している。

 しばらく続きそうなので、レイは部屋の真ん中に陣取る自身が乗ってきたツアラーの大型バイクに目を向けた。

 

 硬い鉄扉に高速で突っ込みぶち破ったバイクは、前輪からフロントフォーク、ハンドルがひしゃげ、エンジン部分からマフラーまでも大きくへこんでいる。

 物に対する執着心というものが希薄なレイであったが、無残な姿の愛機を見つめるその目にはさすがに憐憫の情が浮かんでいた。

 

 成人を迎えるまで趣味というものと全く縁がなかったレイが、初めて持った趣味がバイクだった。

 ひょんなことから初めて乗ったバイク。タンデムシートに兄を乗せて、田舎道を疾走させたバイク。

 神経接続までして乗るエヴァ以上に感じた、機体との一体感。

 さっそく一発試験で普通自動二輪車免許取得後、すぐに一発試験で大型自動二輪免許を取得。溜めていたお金で中古の大型バイクを購入し、暇があれば郊外へのツーリングを楽しんでいた。2人乗りが可能な車種なので、兄や親友を度々タンデム走行に誘ったが、何故か2人には頑なに拒否され、3人でお出かけの日には仕方なく2人が乗る赤い小さな車をレイがバイクで後ろから追い掛けていた。

 ミチルが生まれてからはツーリングに行く暇もなく、新たに畑仕事という趣味も加わったため、今日このバイクに跨ったのは久方ぶりだった。

 

 レイには密かな野望があった。

 今はまだ3歳だから無理だろうけれど、ミチルがもう少し大きくなったら、タンデムシートにミチルを乗っけて遠乗りでもしたい、と。ミチルの親は大反対するかもしれないけれど。密かに子供用のライダースーツも買っていて。自分とお揃いのスーツを着て、まるで着ぐるみの頭のような大きなヘルメットを被ったミチルの姿を想像すると、ついつい一人でニヤケてしまう。

 しかし肝心の愛機がこんな有様。

 おそらく廃車は確定だろう。

 

 まあいい。ミチルが大きくなるまで、もう少し時間があることだし。

 またコツコツお金を貯めて、少し排気量大人し目の子供に優しいバイクをまたいつか買おう。

 

 そう心に決めているレイに、小野寺が声を掛けた。

「教祖がお会いになるそうだ…」

 

 

 

 

 小屋の前に一台のステーションワゴン車が停められた。

 中から男2人が下りてきて、小屋に入っていく。

 大型バイクが突っ込みしっちゃかめっちゃかになっている小屋の奥で、白いライダースーツを纏った女性がテーブルの上にちょこんと座って待っていた。

 2人の男は女性に近づくと恭しく頭を下げる。

「お迎えに上がりました」

 男の一人が女性に近づく。

「失礼します…」

 テーブルに座る女性の前に跪き、すらりとした足のつま先に両手で触れる。そのまま踵、脹脛、膝、太もも。続いて、もう片方の足もつま先から太ももまで入念に触る。

 見も知らぬ男のいきなりのセクハラ行為にも、女性は表情一つ崩さない。

 男はさらに女性の腰、お尻に触れる。

 その男の手が、女性のお尻にあるポケットの中に滑り込んだ。

 ポケットの中から、携帯電話を取り出す。

 男はその携帯電話を床に落とすと、踵で勢いよく踏み付けた。

 粉々に割れる携帯電話。

 自分の所持品を断りもなしに破壊され、しかし女性は相変わらず表情一つ崩さない。

 男の手はさらに上半身へと上がっていき、わき腹、胸、首回り、両腕、耳の裏、髪の中まで丹念に調べていく。

 ようやく男は女性から手を離すと、一歩下がり、再び恭しく頭を下げた。

 今度はもう一人の男が一歩前へ出る。

「申し訳ありませんが、こちらを…」

 男は女性に手錠と目隠し用の頭巾を渡した。

 女性は素直に自ら両手首に手錠を掛け、頭巾を被る。

 男に手を引かれて小屋を出ると、車の後部座席に乗り込んだ。

 

 

 真っ暗な視界の中で、女性は口の中をもごもごとさせていた。

 舌で、歯の裏を触る。

 右奥から3番目の歯の裏を舌先で押し当てた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 現場指揮を解任されたミサトは車の後部座席に乗せられ、支部へと移送されているところだった。

 携帯電話が鳴った。ジャケットのポケットから携帯電話を出す。

「?」

 ディスプレイに表示される「1234567890」という表示。

 あからさまに怪しい番号だが、支部に着くまですることがないミサトは電話に出てみることにした。

「…もしもし」

 応答してみるが、相手からの返事はない。

「もしもし」

 繰り返し相手に呼び掛けてみる。

『………』

 すると、微かにだがスピーカーにノイズが走るのが聴こえた。

『………はどこに……ですか?』

 ノイズに混じって女性の声。

 その声に、ミサトは聞き覚えがあった。

「あんた!もしかしてレ…!」

 相手の名前を言いかけて、運転手がバックミラー越しに怪訝そうにこちらを見ているのに気づき、ミサトは慌てて押し黙る。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 真っ暗な視界。車の走行音だけが耳に届く。

 レイは口を開いた。

「この車はどこに向かっているのですか?」

「それは答えられません」

 隣に座っているらしい男が答えた。

「これから行く場所に、宮部モトノリが居るのですか?」

「はい。あなた様のご到着を首を長くしてお待ちしておられます」

「ミチルは…。あなたたちが攫った子供は……」

「ご安心を。丁重にお預かりさせて頂いております」

 男の言葉を信じるに足る根拠はどこにもなかったが、それでもレイは胸を撫で下ろさずにはいられなかった。

「あなたたちが望むものは何でも与えましょう。だからあの子は。子供は必ず両親のもとに返すと、そう約束して頂けませんか」

「申し訳ございませんが、それを決めるのは教祖です。さあ、目的地まであと2時間は掛かります。それまではどうぞお休み下さい…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 指揮官の交代という異常事態に直面し、チーム内は混乱の最中にあった。

 女上司から指揮権を奪った青年捜査官だったが、UAVも監視衛星もない今、人手を動員して周辺を手あたり次第に探していくという凡庸な指示しか出せていなかった。

 

 指揮車の中で各チームから上がってくる情報を端末で整理している黒人女性オペレーター。

 教団に怪しい動きがあるとの情報が届いたのが先週。その日から始まった激務の日々。さすがに疲れが溜まっており、日付が変わった頃から強烈な眠気に襲われていた。オペレーターは端末のキーボードを叩く指を止め、大あくびをしながら大きく伸びをした。

 だらしなく開いたオペレーターの口。それを、背後から伸びてきた手が塞ぐ。

 目を白黒させるオペレーター。咄嗟に悲鳴を上げようとした。

「お願い…!シー…!シー…!静かにして…!」

「か、葛城さん…!?」

 背後からの声がつい30分前にチームを追い出されたばかりの女上司のものだと気付き、回転いすをくるりと回して背後に立っていた人物を見た。案の定、葛城ミサトが立っている。

「何やってんですか…!支部に戻ったんじゃなかったんですか…!」

「だから静かにしてって…!マキュアン坊やにバレちゃうでしょうが…!」

「何言ってんですか。マキュアンには私から報告します」

「ちょっ、お願いだから待ってよ。言い訳させて」

「言い訳って。そもそもどうやってここに戻って……あ…」

 オペレーターの目に入ったのは指揮車の近くに止められた車。ミサトを支部に連れて行くはずだった車。その助手席で、ミサトを支部まで移送させるはずだった彼女の同僚が、白目を剥いてぐったりとしている。

「あんたほんと何やってんですか!もう完全に叛逆行為じゃないですか!」

「いいからコレ!」

 ミサトはオペレーターの鼻っ面に自分の携帯電話を突き出す。  

「これ、聴いて」

 

『これから行く場所に、宮部モトノリが居るのですか?』

『はい。あなた様のご到着を首を長くしてお待ちしておられます』

『ミチルは…。あなたたちが攫った子供は……』

 

 ノイズ交じりのその音声に、オペレーターの表情が変わる。

「これって…」

「会話は途切れちゃったけど、通信はまだ繋がったままなのよ。あんただったら中継器を遡って通話相手の居場所特定することくらい、訳ないでしょ」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「着きました。足もとに気を付けて下さい」

 声の主に手を引かれ、レイは車から降りた。

 靴の裏に地面の感触。

 レイは小声で呟く。

「…乾いた空気。…乾いた土」

 頭巾を被った頭を左に右に大きく動かしてみる。

「…反響を感じない…、…広い…静かな場所…」

 それでも遠くからは、

「…虫や鳥の鳴き声。…人工的な音…なし…」

 そして、

「…錆びた鉄の匂い…」

「何かおっしゃいましたか?」

 男の問いかけに、レイは静かに「いいえ」と答える。

「こちらにどうぞ」

 男に手を引かれるままに歩く。靴の裏に土の感触。時々少し大きな石を踏む。少しずつ湿り気を帯びてくる空気。

 男が足を止めたのでレイも足を止める。

 男が何かのスイッチを押した。すると頭上から何かの駆動音がし始め、鉄の軋む音が鳴り響いた。それは鉄のケーブルを巻き上げる音。

「エレベーター…。地下に行くのですか…?」

 レイの問いに、男は答えない。

 目の前で、ガタン、と大きな音。キーッと鉄の扉が開く音。

「どうぞ」

 男に促され、数歩前に進み出る。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 モニターに映し出された波形データ。それが急に大人しくなった。

「通信、途切れました」

 モニターを睨んでいたオペレーターがそう告げた。

「地下に潜ったのね。はい地図、地図出して」

「ちょっと待ってくださいよ」

 ミサトに急かされるオペレータがキーボードを叩くと、モニターには地図が表示された。 

「電波の追跡から発信地はこの辺りですが…」

 オペレーターの指が地図上に半径10km程度の円を描く。

「…結構広いわね。でもレイの言葉から推測すれば、レイは今は山の中。山の中のある程度の広い場所で、山の中なのに鉄の匂いがして、地下へ降りるエレベーターがある場所と言ったら」

「…鉱山?」

「そ。この辺りの鉱山は?」

 地図上に2つのマーカーが表示される。

「この2カ所です。いずれもセカンドインパクト前に閉山されていますが。…どっちでしょうか?」

 ミサトは地図上に示されたマーカーを交互に睨む。

 5秒ほど考えて。

「…こっちよ」

 片方のマーカーを指差す。

「また女の勘ってやつですか?」

「違うわよ。こっちの鉱山はすぐ近くに川があるわ。だったらレイが川の存在を知らせてくるはず」

「じゃあこっちの鉱山に宮部が…あっ……」

「よしよしきたきたきたわよこれ。んじゃ、あとは車かっぱらって…ん?」

 背後に気配を感じ、ミサトは振り返る。

 

 1時間前にミサトを現場指揮官から解任させたばかりの若い部下が、額に青筋を浮かべながら立っていた。

 彼の背後では、指揮車の側に止められた車の助手席で伸びていた男が、別の部下の手によって介抱されている。

 

 ミサトは引き攣った笑いを浮かべた。

「マ、マキュアンちゃん。言い訳させてくれる…」

 年甲斐もなく上目遣いをしてくるミサトに、若い部下は深い溜息を零した。

「で、宮部を見つけたんですか…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 エレベーターが下降を始めたところで、ようやく視界を塞ぎ続けていた頭巾と手錠が外された。

 前時代的な水銀灯の鈍い光が照らすエレベータ内。剥き出しの鉄筋製で、目の前をゴツゴツとした岩肌が高速で下から上へと過ぎ去っていく。

 やがてエレベーターは最下層へ。隣に立っていた男が鉄柵の扉を開け、エレベーターを降りる。そこからは、トロッコ用のレールが敷かれた広い横穴が続いていた。レールとレールの間を歩く男の後をレイは付いていく。

 

 坑内は物々しい警備だった。30mごとに自動小銃で武装した警備員が立っている。

 深い深い、延々と続く横穴。15分ほど歩いて、ようやく目の前に巨大な鉄扉が現れた。

 男は鉄扉の脇にあった大きなボタンを押す。すると厚さ20cmはあろうかという鉄扉が大きな軋む音を轟かせながら開き始めた。

 ここまで数m置きに天井にぶら下がった水銀灯の頼りない光しかなかった坑内。少しずつ開く鉄扉の隙間から漏れる眩い光に、レイは思わず目を細めた。

 

 開いた扉の向こう。

 そこに数人の白衣を着た人々がいる。

 その白衣集団の中央。

 メガネを掛けた痩身の男性。

 

「やあ。久しぶりだね。綾波レイ」

 宮部モトノリが立っていた。

 

 

「こんばんわ。三条博士」

 レイの挨拶に宮部は苦笑する。

「その名で呼ばれるのは10年ぶりかな。僕はすっかり老け込んでしまったよ」

 宮部はこの10年間ですっかり白くなった頭髪を掻く。

「君は少しも変わらないね」

 まるで当時彼女が着ていたプラグスーツのような真っ白なライダースーツを着ているレイを、宮部は眩しそうに見つめるた。

 

 「変わらない」と言いながらも、宮部は10年ぶりに目の前に現れたレイの立ち振る舞いに少々驚いていた。

 零号機の起動実験にも幾度か立ち会った宮部。パイロットであるレイと顔を合わせる機会もあったが、当時の彼女は最高司令官の側にぴったりくっ付いて離れようとせず、データ収集のためにこちらから話しかけても「はい」「いいえ」だけの極々短い返事をするだけで、ましてや挨拶をするようなことは一切なかった。

 

「いや、君も少しは変わったようだね。ちょっとは大人になったのかな」

「三条博士」

 レイの凍てついた声が飛ぶ。

「私は昔話をしに来たのではありません」

「ふっ。そうだったね」

 レイは一歩前に出る。

「私はあなたの計画に全面的に協力します。その代わり…」

「あの子を自由にしろ…かな」

 何かの実験室なのか。部屋には様々な機器やモニター類が並んでいる。その部屋の隅を、宮部は見つめた。

 レイはつられて宮部の視線を追う。

 

「ミチルちゃん!」

 

 そのレイの叫び声に、宮部はまたも驚くことにいなる。ネルフに所属していた頃にレイと関わった数カ月の間に、レイが大声を上げる姿は一度も見たことがなかったからだ。

 

 レイの視線の先。やはり白衣を着た中年の女性に、ミチルが抱きかかえられていた。

 女性の腕の中で眠りこけていたミチル。レイの呼ぶ声にうっすらと目を開け、頭を起こすと寝ぼけ眼で周囲を見渡した。

 レイを見る。

「レイちゃん…!」

 途端にミチルの叫び声。

「レイちゃん!レイちゃん!」

 今すぐにでもレイのもとへと駆け寄ろうと、ミチルは自分を抱く白衣の女性の腕から逃れようと懸命に手足をばたつかせるが、女性はミチルの腰にしっかりと腕を回し、それを許さない。

 

「ミチルちゃん…」

 ミチルを見るレイの瞳が動揺に染まる。

 

 持ち主の感情を露骨に表す彼女の瞳。何事にも揺らぐことのなかったレイの瞳に、感情が宿っている。

 宮部は眉を顰めた。

 

「レイちゃん!たすけて!たすけて!」

 女性の腕の中で泣き始めるミチル。

「ミチルちゃん。大丈夫。大丈夫だから」

 レイは動揺する自身の心にも言い聞かせるように、ミチルに言った。

「あなたのことは私が守る。約束したわ。だから…大丈夫」

 レイの声は彼女が少女だった頃と同じようにか細いまま。それでも、不思議とレイの声はよく通った。

 レイの言葉が耳に届いたミチルは、涙と鼻水をしゃくり上げならも何とか泣き止むと、健気に頷く。

「そう。いい子ね」

 そう言って、レイは微笑んだ。

 

 レイの微笑みを見て、宮部は不快そうに呟く。

「…使徒もどきが人間ごっこか…」

 

 レイは宮部に向き直った。

「あの子をすぐに両親のもとに返す。それが協力するための条件です」

 宮部は不快そうな表情をすぐに打ち消し、小さく笑った。

「よろしい。リリス自らの助力となれば僥倖というほかない。約束しよう」

 背後に控える部下の一人に小声で話しかける。

「…すぐに実験の準備を。アダムの解凍に取り掛かりたまえ」

「今すぐに…ですか」

「ここが当局に見つかるのも時間の問題だ。それまでに我々の大願を成就させる。今日を新世界の始まりの日とするのだ」

「はい!」

 指示を受けた部下はすぐに壁際のコンソールへと駆け寄り、何かの操作を始めた。

 そして宮部は部屋の隅に立つミチルを抱く女性に目配せした。

 女性は頷き、腕に抱いたミチルを地面へゆっくりと下ろす。

 

「レイちゃん!」

 地面に下ろされたミチルは他の誰にも目もくれることなく、その小さな体躯を精一杯伸ばしてレイの方へと向かって走り始めた。

「ミチルちゃん…」

 

 

 リリスの模造品がその表情に満面の笑みを浮かべながら、駆け寄る幼子を胸で受け止めようと膝を折り、両腕を広げて待っている。

 宮部は思った。

 

 誰だこいつは。

 こいつは、本当に私が知っている、綾波レイか。

 

 ふと思いつき、宮部は護身用に持っていた拳銃を白衣のポケットから取り出した。

 

 

 涙と鼻水塗れのミチルが駆け寄ってくる。絶対に守り抜くと誓ったこの世界で一番の宝物が駆け寄ってくる。

 あともう少しで、その宝物を抱き締めることができる。

 

 駆けてくるミチルの、その向こう。

 ミチルの背後に立つ宮部。

 宮部が構える銃口が、ミチルの背中を狙っていた。

 

 

 剥き出しの岩石の壁に反響する発砲音。

 

 

「うぅっ!」

 乱反射する発砲音に紛れて呻き声。

 

 

 良かった。

 

 この世界で一番の宝物を抱き締めることができた。

 

「レイちゃん…」

 

 腕の中で、一番の宝物の可愛らしい口が、まるで天使のような声で私の名前を呼んでくれる。

 

「…レイちゃん」

 

 ああ、でも。

 天使のような声が震えてしまっている。

 

 そうよね。

 こんな赤いものを体からどくどく流していたら、怯えてしまうよね。

 

「レイちゃん!レイちゃん!」

 

 大丈夫。

 私は強いんだから。

 

 大丈夫。

 拳銃で撃たれても、死なないんだから。

 

 

 

 急に轟いた銃声。

 実験を始めるためコンソールを操作を始めていた科学者たち。

 咄嗟に銃声がした方向を見る。

 そこには拳銃を構えた彼らの教祖。

 銃口の先には、太ももから血を流して倒れている、神の御使い。

 

 白のライダースーツが瞬く間に真っ赤に染まる。

 ミチルを庇うように抱きしめたレイの左太ももから、血が流れ出ている。

 

 その様子を見て、一番驚いていたのは誰あろう、レイの足を撃ち抜いた宮部本人だった。

 

「なぜだ…」

 拳銃を握った手が震えた。

「なぜ、お前が撃たれてるんだ…」

 拳銃を撃ったのは自分自身なのに、なぜレイが血を流しているのか理解できていない様子だった。

 

 レイは焼け付くような痛みに表情を歪ませながら、宮部を睨んだ。

「ちっ!」

 宮部は再び拳銃を構える。

 咄嗟に、レイはミチルを隠すように腹に抱きかかえ、宮部に背中を向ける。

 

 立て続けに発砲音。

 レイのすぐ足もとの地面が弾け飛び、空色の髪を鉄の塊が掠める。

 

 腕の中のミチルが大声で泣きわめく。

 レイはそんなミチルを抱き締め、目を瞑りながら銃弾の嵐が止むのを待った。

 

 弾倉が空になる。

「おのれえええ!!」

 今までの落ち着いた振る舞いが嘘のように、宮部は叫ぶと拳銃を地面に叩き付けた。

「何故だあ!」

 幼子を抱き締めたまま地面に蹲る女に怒鳴りつける。

「何故ATフィールドを発生させない!なぜこんな豆鉄砲がお前の足を貫いてるんだ!」

 ゆっくりと顔を上げたレイは、目を細めて肩越しに宮部を見た。

 ミチルを危険に晒した宮部に対する怒りを露わにした表情で。

「その顔…、やはり…」

 感情に満ちたレイの顔。

 

「貴様、ただの人間になり果てたな…!」

 

 宮部は悔しそうに地面を蹴る。

「本宮!」

「は、はい!」

 突然拳銃を撃ち始めたかと思えば発狂したように叫び出した教祖様を呆気にとられて見ていた部下の一人は、自分の名前を呼ばれ慌てて宮部のもとに駆け寄る。

「リリスは使えん…!やはりあの子を…、槍の破片を使うしかない…!」

「では…」

「ああ。すぐに手術の準備をしろ。開腹し、あの子の体から槍の破片を取り出す」

「分かりました」

 部下に指示を終えると、宮部は地面に這いつくばるレイを冷めた目で見下ろした。

「…所詮はネルフの夢の抜け殻か…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 ミサトは機上の人となっていた。

 

 彼女が搭乗するのは武装した軍用ヘリコプター。ミサトが乗る機に率いられるように、3機のヘリコプターが編隊を組んで闇夜を飛んでいた。

「あんたもやるわね。いつの間にこんな良いもの手配したの?」

 真っ暗な眼下を眺めながら言ったミサトに隣に立つ若い部下が言う。

「軍が用意してくれました」

「ちっ。あいつら、あたしがUAV貸してってお願いした時はたった1機しか寄越さなかったくせに」

「あなた挙句の果てにその1機を墜落させてるでしょうが。日ごろから根回しってものが大切なんです。ネルフの時みたいに上から高圧的に迫れば誰でも言うこと聞くと思ったら大間違いなんですよ」

 部下からの叱責に、ミサトはバツが悪そうに舌を出した。

「とにかく、こいつだったら車で2時間掛かるところを30分も掛からずに行けるわ」

「でも大丈夫でしょうか」

「何が?」

「ヘリの爆音を轟かせながら近づいていったら、連中泡食って拘束した子供を…」

 部下はそこで言葉を切った。

「大丈夫よ…」

 ミサトは暗闇の地上を睨みながら言う。

「あの子は、絶対にレイが守り抜くわ…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「教祖さま…」

 明らかに苛立っている様子の宮部に、部下の一人が恐る恐る声を掛ける。

「なんだね…」

「地上から連絡が。緊急のようです」

 宮部は部下が差し出す受話器を受け取った。

「宮部だ」

『西の空から何かが近づいてきます。おそらくヘリコプターかと』

「弾圧者どもだ。武装した者は4分の1を残して全て地上に上げろ。奴らを地下に近づけるな」

『分かりました!』

「20分持ちこたえよ。さすれば君たちにも新世界への扉が開くだろう」

『はい!』

 受話器を置いた宮部は部下たちに向けて怒鳴った。

「急ぎ実験開始だ!当局がここを嗅ぎ付けた!」

 

 

「レイちゃん…、レイちゃん…」

 レイに抱きしめられたままのミチルが震えた声で囁く。髪の隙間から覗くレイの表情、荒い鼻息。そして自分のスカートを汚す真っ赤な液体。幼いミチルであっても、レイの身に重大な危機が迫っていることは分かった。

 それでもなお、

「大丈夫…。大丈夫よ…、ミチルちゃん…」

 レイは笑顔でミチルの顔を見つめる。

「ミチルちゃん…」

 レイはミチルの汚れた髪を優しく梳きながら名前を呼ぶ。

「なに?」

「これから私がすること…。それはとってもお行儀の悪いことだから…、絶対に真似しちゃだめよ…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 操縦室より突如けたたましい警報音が鳴り響いた。

「警告!レーダー照射警告!」

 操縦士がそう叫んだ瞬間、搭乗員の全員が一斉に機の周辺を見渡した。その1秒後、警報音が一段階甲高い音に変わる。

「ちくしょう!ロックされた!」

「全機!回避運動!」

 機長がそう叫んぶと同時に、3機で編成されていた綺麗な編隊が急速に崩れ、それぞれが別の方向へと急旋回し始めた。

「ちょ、ちょっと!大丈夫なんでしょうね!」

 ミサトは機長たちが座る操縦席に身を乗り出して叫んだ。

「何かに掴まって!振り落とされるぞ!」

 耳を劈く警報音が、一際その音量を上げる。

 上空の獲物を狙う鉄の矢が発射された合図だ。

「何処からだ!何処から来る!」

 操縦士も機長も共に首から上がもげそうになるほどの勢いで頭を振り回し、闇に光る閃光見つけ出そうと目を凝らす。不快な警報音の音程がどんどん上がっていく。機体に何かが急接近している合図。

「あれよ!2時の方向!ほら!」

 ミサトが指さす方向には、確かに光の尾を引きながら向かってくる飛翔物。

「機首上げ!!左へ急旋回!!」

 機長に命じられるよりも早く、操縦士は操縦桿を引き起こしていた。

「うわわっ!?」 

 急速に機体が浮き上がり、尻餅をついたミサトはそのままコロコロと後部のキャビンへと転がっていく。

「フレア射出!同時に機首下げ!」

 ヘリコプターの後部から眩い光を放つ幾つもの火の玉が発射される。さながら闇夜に咲く花火のようだ。

「ぐへえ」

 今度は急降下し、体が急速に重力を失い内臓がひっくり返るような感覚。ミサトは思わず胃の中のとんこつラーメンとレバニラ炒めを戻しそうになり、慌てて口を両手で押さえた。

 闇夜を切り裂くように飛んでいた飛翔物が、ヘリコプターではなくヘリコプターが夜空に置いていった花火の方へと吸い込まれていく。

 爆発。

「やった!ミサイル、外れました!」

「馬鹿やろう!もっとと高度を下げろ!敵さん、また撃ってくるぞ!」

「は、はい!」

 機体ががくんと傾くと、遥か下にあった地上が足に触れそうになるくらいにまで一気に近付いた。キャビンの後方からミサトが無様にひっくり返ったまま怒鳴った。

「ちょっと!ちゃんと目的地まで連れてってよ!」

「荷物は黙って座ってろ!」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 大道芸と一括りに言ってもその芸は多岐に渡り、ジャグリングやパントマイムといった定番のものからディアボロ、スティルトといった衆目を引く派手なもの、巨大な装置を使った大掛かりなものまで様々だ。

 幼少期に引き取られた地方の見世物小屋でキャリアをスタートした彼。特別手先が器用という訳でもなく、人に自慢できるほどの身体能力も持ち合わせておらず、かと言って派手な舞台装置が作れるほどの資金もない彼がこの世界で生き残っていく為に思いついたのが、その身一つで披露できるこの芸だった。「最後の見世物芸人」と呼ばれた彼はセカンドインパクト後の混乱期には各地の避難キャンプを巡り、驚きと笑いでキャンプ地を包み、避難民たちに勇気と元気を与えた。

 彼が得意とした芸。それは胃の中に収めたものを、口まで自由自在に出し入れできる技。

 所謂「人間ポンプ」というものである。

 

 

 レイが今まで見たこともないような表情を浮かべ、目を白黒させ始めた。

 僅かに開いた口から彼女の呻く声と共に空気が漏れ出る音。

 肌にぴったり貼り付いたスーツのお腹の部分が、うねうねと動いている。

 のけ反った首の喉が、うねうねと蠢いている。

 最後にレイの口から奇妙な呻き声が漏れ。

 

 ポコッ。

 

 それはレイの小さな口から出てきた。

 

 見た目と大きさはゴルフボールのよう。

 白い球を口から吐き出したレイ。

 咳き込み、涙目になりながらミチルに言う。

「いい…?絶対に真似しちゃ…ダメ…」

 その一部始終を見ていたミチルはおずおずと頷く。

「うん…、…ミチルがそれ…、まねすることは、ぜったいにないとおもうの…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「子供たちは地下よ!ここは容赦しなくていいわ!」

 ミサトの指示を受けた機銃座に座った搭乗員は、上空のヘリコプターに向けて自動小銃をばかすか撃ってくる地上の者たちに対して重機関銃の銃口を向けた。

 火を纏った鉄の塊が、雨霰のように地上の者たちに降り注いでいく。

 

 目的の鉱山跡上空に辿り着いた途端、地上からの攻撃を受けた。見れば数十人規模の武装した集団が手に持った銃器でヘリコプターに向けて攻撃を仕掛けてくる。

 中には、

「RPG!」

 ミサトは崩れかけた建物の影から携帯型ロケットランチャーを構える男を見つけると、すぐさま拳銃をぶっ放した。30m以上上空の、しかも揺れる機内からの拳銃による狙撃。弾丸は見事に男の胸を貫き、男は万歳しながら地面に倒れた。

「とても宗教団体レベルの武装じゃないですよ!」

 地上から放たれた弾丸が何度も機内を跳弾する。隣の若い部下も懸命に拳銃を撃ちながら叫んだ。

「泣き言はいいから今はさっさと地上を制圧して!着陸地点を確保するの!」

「やっていいんだな!」

 機長からの怒鳴り声。

「ええ!やっちゃって!くれぐれもエレベーターは壊さないでよ!」

 

 ミサトが乗る機体が高度を取り、機首を地上へと向けて下げる。

 次の瞬間、機体の両脇に備え付けられた大きな筒状のもの。その先端の、まるでハチの巣のように開いた幾つもの穴が、次々と火を吹いた。

 地上に襲い掛かる無数のロケット弾。

 地上を見つめるミサトの瞳に、立ち上る無数の爆炎が映し出された。

 

 

 

 黒く焦げた付いた地面へと、3機のヘリコプターが降り立つ。

 息吐く暇もなく、ヘリコプターのキャビンから武装した兵士たちが続々と地上へと降り立った。

「第1、第2分隊はエレベーターを確保!直ちに地下へ突入せよ!」

 部隊長の指示を受け、10人の兵士が焼き尽くされた地上で唯一焼け残ったエレベーターへと走っていく。

 ミサトは部隊長のもとへと駆け寄った。

「私も一緒に行っていい?」

「ミス.カツラギ。君はここに残って私と共に指示を出してほしい」

「…分かったわ」

 餅は餅屋に任せるべきだ。ミサトは部隊長の指示に素直に従うことにした。

 エレベーターの前に集まっていく兵士たちの背中を見送る。

 

 ふと視線をずらすと、エレベーターの側に横たわる影があった。

 それは黒焦げの人間。教団側の武装兵だろう。ほぼ全身が炭化した見るも無残な焼死体。

 エレベーターの兵士たちはこれからの突入作戦に集中し、黒焦げの死体には目もくれず、遠くから彼らを見守るミサトも気に留めようとしなかった。

 しかしミサトの目は僅かな変化を見逃さなかった。

 そのうつ伏せに地面に横たわる武装兵の顔。黒焦げの顔。その顔の一部が、白く変化したことに。

 それは人間の目。人間の白目の部分。

 死体の目が開いた。

 いや、死体の目が開くはずはない。

 黒焦げの人間の手が、ほんの微かに動いた。

 黒焦げの手に握られた何か。

 手に収まる程度の、小さなもの。

 黒焦げの人間の手が、その何かを最後の力を振り絞って握り締めた。

 ミサトは走り出す。部隊長の制止も聴かずに。

 走って、そして叫んだ。

 エレベーターに乗り込む兵士たちに向けて、「逃げて!」と。

 彼女がそう叫んだ瞬間、エレベーターは眩い閃光に包まれ、ミサトの体は吹き飛ばされた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 国民性としてこの国には手先が器用なものが多く、そして既製品の小型化に掛ける熱意には並々ならぬものがある。

 国立大学工学部を卒業し大手電機メーカーに就職した彼も、様々な精密機械の小型化を実現させ、その世界ではその名を知らぬ者はいない著明な技術者となっていた。その彼の人生が一変したのが2000年。地球規模の大異変と世界中を被った紛争。国内でも幾つもの反体制派が産声を上げ、各地でテロ行為が頻発。その闘争の士として暗躍したのが、彼だった。

 警視庁官舎爆破事件、内閣専用機爆破事件など、数々のテロ行為の実行犯として逮捕され、2018年に死刑に処された彼の組織での役割は、テロ実行のための武器製作。彼の手に掛かれば小型化できないものはなかった。それが通信機であっても、そして爆弾であったとしても。

  

 

 頭上から籠った音での爆発音が轟き、天井から土埃が舞い落ちる。

 宮部は天井を睨みながら呟いた。

「地上が制圧されたか…」

 地上の武装兵たちと連絡を取り合っていた部下の一人が言う。

「エレベーターを破壊したようです」

「彼らの殉教を無駄にしてはならない。すぐにでも実験を始めよう」

 部下の一人が駆け寄ってくる。

「手術の準備、できました」

 宮部は首を横に振る。

「手術の時間も惜しい」

 宮部は床の拳銃を拾い上げると弾倉を交換する。そしてツカツカと、ミチルを腹の下の隠しながら地面に這い蹲っているレイのもとへと歩み寄った。

 銃口をレイの頭へと向ける。

「この場で腹を裂き、槍を手に入れよう」

 レイの頭が僅かに上がり、血と土で汚れた空色の髪の隙間から覗く赤い瞳が、宮部を睨んだ。

 そんなレイを、宮部はつまらないものでも見るかのように冷めた目で見下ろした。

「ただの人間になってしまった貴様には何の価値もない…」

 人差し指を引き金に掛けた。

 

 

 コロコロと。

 

 不意に現れた白い球。

 ゴルフボールのような球が、足もとへと転がってきた。

 突然のことに、ただ黙って自分の股の間をくぐって転がっていく白い球を見送る宮部。

 部下たちも、この緊迫した場面でどこか呑気に転がっていく白い球を、呆気に取られて見つめていた。

 

 

 突然の閃光。

 

 突然の破裂音。

 

 続けてもくもくと立ち上る白い煙。

 

 

 閃光に視力を奪われ、周囲を覆いつくす白い煙に、たちまち室内はパニックに陥る。

 宮部は怒鳴った。

「狼狽えるな!ただの花火だ!」

 そんな宮部も、突然の爆発に拳銃を撃つ機会を失ってしまっていた。すでに視界は白い煙で満たされ、地面に這い蹲っていたレイの姿も見えなくなってしまった。

「くそっ!この煙をどうにかしろ!」

 部下の一人が慌てて天井に備えられた特大の換気扇のスイッチを押す。

 換気扇はゆっくりと回り始め、やがて室内の煙を吸い出していく。

 視界が少しずつ晴れていった。

 

「おのれええ!!」

 宮部の叫び声。

 レイが這い蹲っていた場所。そこには赤い血痕のみを残して、レイも、そして彼女が庇っていた子供も、その姿を消していた。

「残った警備兵を全員集めろ!槍を追うのだ!」

 

 

 

 

 

 銃弾で肉を削られた左太腿がズキズキと痛む。太腿だけでなく、日中の車による追突で負った全身の怪我が今更になってレイの痛覚を虐め始めていた。

 激痛に何度も気が遠のき掛け、全身に脂汗を滴らせながら、それでもレイはミチルを抱いて狭く暗い坑内を歩いた。本当は走りたかったが、今の体ではとても走る余裕なんてなかった。今できる限りの、最大限の速さで歩き続ける。

 迷路のように入り組んだ坑内。次々と現れる分岐。

 レイは一度も立ち止まることなく、歩みを進める。

 

 地上へと昇るエレベーターへの道を引き返すという選択肢はなかった。

 そこまでには何人もの武装した警備が居たし、はっきりとは聞こえなかったが宮部らの会話からエレベーターは破壊されたらしい。他の脱出口を見つけなければならない。

 

 すでにレイの頭の中には、地上までの脱出ルートは描き出されている。

 エレベーターに乗っていた時に、その隅っこにあった表示。

『坑内管理者 生島マナブ』

 薄汚れたプレートに書かれた名前。おそらく閉山される前、この鉱山が現役だった頃にここで働いていたと思われる者の名前。エレベーター内でその名前を見かけた時点で、自分の脳内にある「彼の記憶」を覗き見ていた。管理者だけあって、彼はこの鉱山の中を隅々まで把握していたらしい。エレベーター以外にも坑内から地上へと抜けだされる穴が幾つかあり、その中から最短ルートとなる道を「彼の記憶」とレイの頭は導き出していた。

 

 一度も立ち止まらずに歩き続けたレイの歩みが遂に止まった。

 壁にもたれかかるように背を預け、口を開けて肩で息を吸う。

 腕の中のミチルが身じろぎした。

「レイちゃん…、ミチル、あるくよ…」

 そう言って、ミチルはレイの返事も待たずに腕の中から滑り降り、地面に立つ。

 

 レイの顔を見上げた。幼子の目から見ても、レイの容態が深刻であることは察することができた。そんなレイを見て、しかしミチルは今は泣いてはいけないと必死に自分に言い聞かせ、目から溢れ出しそうになる涙を必死に堪えるのだった。

 そんなミチルを、レイは全身を蝕む痛みでぼんやりとしてしまった頭で、「ああ何て可愛いんだろう」と場違いな事を思いながら見下ろしていた。

 

「ミチル…ちゃん…」

 掠れた声で名を呼ぶ。その名を口にしただけで、不思議だ。全身の痛みが和らいでいうくような気がする。

 

「なに?レイちゃん」

 ミチルは鼻水を啜りながら返事する。

 

「パパと…、ママに…、会いたい…?」

 自分でも「なんて分かり切ったことを」と思いながら言った。

 

 ミチルは頷く。

「うん…。パパとママに、あいたい…」

 

 レイはにっこりと笑った。

「うん。私も…、会いたい…よ」

 

 ミチルはレイの手を握る。

「いっしょにかえろ。ミチルといっしょに」

 

「そう…ね。一緒に帰ろうね…。私たちのおうちに…」

 

「うん!うん!」

 ミチルの手に引かれ、レイの体が岩の壁を引きずりながら少しずつ動きだす。

 

「帰って…、朝ご飯、作らなきゃ…ね…」

「いいよ。あさごはん、ミチルがつくるから。かえったら、レイちゃんはゆっくりやすんでて」

「ミチル…ちゃん…に、…つくれる…かな?」

「うん。だって、ミチルみてたもん。レイちゃんがごはんつくるとこ、ずっとみてた」

「そう…だね…」

「だからきょうのあさごはんはミチルがつくる。レイちゃんにはいちばんにたべさせてあげるね」

「ほんと…に?」

「うん!」

「そう…。…だったら…」

 なかなか出なかったレイの足が、何とか一歩目を踏み出す。

 

「がんばらなきゃ…ね」

 

 この世で一番可愛い宝物が初めて作る料理を、彼女の両親を差し置いていの一番にありつけるという、この世で一番のご褒美を得らえる権利を頂いたのだ。これはもう死に物狂いにでも帰らなければならない。

 壁に手を付き、体を前へと押し進めた。壁伝いに、歩き出す。

 歩くたびに全身から何かが軋む音がし、穴の開いた太腿から血が溢れ出た。

 それでもレイは、ミチルに手を引かれ、歯を食いしばりながら歩き続けた。

 

 

 

 

 

 地面を伝う血痕。

 それを指さす自動小銃を携えた警備兵。彼の背後に並ぶ、さらに10人ほどの警備兵たちに目配せする。皆が頷き、音も立てずに血痕を辿って穴の奥へと足早に歩いていく。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 ぼんやりとした視界の中で、2人の男がこちらを覗き込んでいた。

 一人は即応部隊の兵士を率いる部隊長。一人は彼女直属の若い部下。

 

「大丈夫ですか?主任」

 まるで近くで教会の鐘でも鳴らされているかのように、頭の中をぐわんぐわんと音が響いている。その音の中を掻い潜るように、若い部下の声がミサトの聴覚に届いた。

 ミサトはゆっくりと頷き、仰向けの体を起こそうした。

 途端に頭痛。

「頭を打ったんですよ。安静にしてて下さい」

 簡易ベッドから上半身を起こそうとしすぐにふらついてしまうミサトを、若い部下が支えてやる。

「…イツツ。…突入部隊は?」

 部隊長は無念とでも言いたげに目を閉じ、黙って首を横に振った。部隊長の背後では、エレベーターシャフトが巨大な炎を上げて燃えている。

「私はどれくらい寝てた?」

「10分ほどです」

「状況は?」

 部隊長が報告を引き継ぐ。

「エレベーターは完全に破壊された。今、部隊総出で他の進入口を探しているが…、この暗闇では…」

「望み薄…か…」

 ミサトのその呟きからやや間を置いて、若い部下が口を開く。

「主任…、今、新たにUAVが1機、こちらに向かっています」

「そう…」

「はい…。それには、…地中貫通型の爆弾が搭載されています」

「そう…」

 ミサトは素っ気なく答え、目を閉じる。

 ふぅ、と溜息を吐く。

 目を開き、若い部下を見た。

「私はもう現場指揮権を剥奪された身よ。その判断はマキュアン。あなたに任せるわ…」

「僕に…?」

 若い部下の顔に明らかな動揺が広がる。

「ええ…。お願い」

 若い部下の肩に手を置く。

「世界を救ってみせて…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 長い長い坑道の奥に、物々しい鉄扉が現れた。

 大きなレバー式のドアノブを両手で握り全体重を掛ける。鉄の軋む音と共に、レバーが下がる。続いて両足を踏ん張り、肩で鉄扉を押した。見れば、足もとでもミチルが両手を扉につき、健気に重い重い扉を押し開けようとしている。

 2人の努力が実り、やがて扉が少しずつ開いていく。

 扉の隙間から、冷気が漏れ出で、ミチルは思わず肩を竦める。

 人一人が通れる程度の隙間ができ、レイとミチルは滑り込むようにその隙間へと入り込んだ。

 

 ここまでごつごつとした岩肌と、天井を這う細い電線、数mおきにある水銀灯の灯りだけが延々と続いていた。

 しかし鉄扉の向こう側。

 そこだけは、これまでとは全く異なる空間が広がっていた。

 

 広い広い空間。

 古い水銀灯ではなく、新しいLED式のライドで照らされた、講堂のような空間。

 ただでさえ寒い坑内で、ここはまるで冷蔵庫の中のように冷えていて、2人の口から吐き出される息はたちまち白くなり、天井へと昇っていく。

 床は変わらず剥き出しの岩石だが、それ以外の壁、天井は全て鉄板で覆われている。床にはレイの膝の高さまである極太のチューブが何本も這い、それらは空間の奥のある一か所へと集まっている。

 チューブが集中する先。

 円筒状のもの。床に横たえられた、人の大きさくらいのカプセル。

 上半分はガラス張りになっており、カプセルの中には蛍光色の灯りが点っているようだが、ガラスは冷気で曇っていて中の様子はよく見えなかった。カプセルの周囲には幾つかの排気口が空いており、そこから微かに蒸気が立ち昇っている。

 

 ミチルもこの空間の異質さに気付き、まるでそのカプセルに怯えるようにレイの背後に隠れた。

「…行きましょう…」

 レイはそんなミチルの頭を撫で、優しく声を掛ける。

 この空間が何を目的として作られたもので、あのカプセルには何が入っているのか。

 今のレイにはどうでもよいことだった。

 

 ここの管理者の「記憶」によれば、この空間は大量の鉱石を切り出した跡地であり、レイたちが入った扉の反対側にも出入り口があって、そこから更に狭い坑道が続き、やがて地上に出られるようだ。

 その出入口はあのカプセルが設置された場所の、ちょうど裏側にあるらしい。

 2人は野太いチューブを一つ一つ跨ぎながら進んでいく。

 今のレイにとってはチューブを跨ぐ動作だけでも体に負担らしく、傷ついた左脚を地面に付けるたびに顔を顰め、がくんと膝を折りそうになる。

 

 カプセルのすぐ側を通り過ぎる。

 少しだけ、レイの位置からカプセルの中身が見えた。

 

 手を繋いでいたレイの足が止まる。一緒に足を止めたミチルは、不思議そうにレイを見上げた。

 レイが、カプセルの方を見つめたまま、固まっている。

「レイちゃん…?」

 ミチルに呼び掛けられ、レイは一度だけ瞬きをする。ミチルを見下ろし、なんでもないと首を横に振り、重たい体を引きずるように歩みを再開した。

 

 

 最後のチューブを跨ぎ、地面に足をつける。

 

 あれ?

 

 地面に足をつけたはずなのに、足の裏に地面の感触がない。

 何もない空間を踏み抜いてしまい、レイの体が音を立てて倒れた。

 

「レイちゃん!」

 

 ミチルの悲痛な叫び声が側で聴こえる。

 地面に倒れている自分。足の裏には何も無かったはずなのに、普通に地面に這い蹲って倒れている自分。

 足の裏に何も無かったのではなく、自分の足が何の感触も感じていないことに気付くのに、30秒ほど時間を要した。左足を動かそうにも、鼠径部から下がまるでもがれてしまったかのように、自分の左足というものを感じない。見れば、左足はすべて血に染まり、泥に塗れている。

 

 レイの左足はとうの昔に限界を超えていた。

 ならば、と。

 右足だけで懸命に起き上がろうとする。

 しかし。

「う…」

 まだ感覚がある右足も、まるで自分の言うことを聞いてくれようとはしない。何度も地面を蹴り、踏ん張ろうとするのだが、右足は空しく地面の上を滑るだけで、まるで力が入らない。すでにレイの右足も限界を迎えていたようだ。

 

 ならば、と。

 レイは両腕を使って地面を這ってやろうと思った。

 両腕が使えないのであれば、胴体を芋虫のようにウネウネと動かして、這ってやろうと思った。

 胴体が動かないのであれば、顎の力だけでも使って這ってやろうと思った。

 なんでもいいから。

 自分の体で動く部分があったらそれを駆使して、進んでやろうと思った。

 ミチルと一緒に。

 絶対にミチルと一緒に地上に出ようと思った。

 でも。

 

「レイちゃん!レイちゃん!」

 地面の上で言うことを聞かない四肢を必死にばたつかせ、のた打ち回るレイに、ミチルは必死に呼び掛ける。せっかく堪えていた涙が、ボロボロとミチルの瞳からこぼれ出ていた。

 1分ほど必死に藻掻いてみて。でもその結果得られたのは泥まみれになった体と、地面の上に体を引きずってできた5cm程度の血の跡だった。

 

 レイは目を閉じる。

 考えを巡らせている時間はない。

 選択肢は、一つしかないのだ。

 

「ミチルちゃん…」

 開いたレイの赤い瞳が、ミチルを見つめる。

 レイの有様に混乱している様子のミチルは、涙をぼろぼろと零しながらレイの名前を呼び続けている。

「聞いて…、ミチルちゃん…」

 レイの再度の呼びかけに、ようやくミチルはレイの声に耳を傾けた。

「ミチルちゃん…、あれ…」

 そう言って、レイは視線をある方向に向ける。

 それはこの空間の奥。灯りの届かない暗がり。

 そこに、人が一人通れるほどの穴が、ぽっかりと空いている。

「いい。ミチルちゃん」

 呼び掛けられ、その穴を見つめていたミチルの顔がレイの方へと戻る。

「ここからは…、一人で行くの…」

「え…?」

「あの穴を行けば…、歩いて…行けば、 地上に…、上に出られる…わ…」

「レイちゃん…?」

「上に出たら…、女の人を…探して…。かつらぎ…みさと…っていう人…」

「レイちゃん…、なに…いってるの…?」

「その人が…、ミチルちゃんを…、パパとママのところに…、帰してくれる…わ…」

「レイちゃんも、いっしょに、かえるんだよね?」

「もちろん…よ。…でも、私はここで…少し…休んで…いくから。…ミチルちゃん…は、先に…行ってて…」

 そう言って、レイは微笑む。

 その笑顔を、ミチルは見つめる。

 見つめて、暫くして、そしてギュッと目を瞑る。

「だめ!れいちゃんもいっしょにいくの!」

 レイの笑顔はいつもの笑顔と変わらなかった。それでも、ミチルはここでレイと離れ離れになってしまうと、もう二度と会えなくなってしまうような気がしたのだ。

「ほら!レイちゃん、たって!いっしょにいこう!」

 レイのぶらんとした力ない腕を握り、引っ張る。

 レイは首を横に振った。

「だめ…、私は…行けないの…」

「そんなことない!いこ!いっしょにかえろう!」

「だめ…、だめ…なの…」

「やだ!やだそんなの!そんなのやだ!」

 泣き喚くミチル。

「ごめんなさい…。…ごめんなさい…、ミチルちゃん」

 いつの間にか、レイの瞳からも大粒の涙が零れていた。

 レイは最後の力を振り絞ってミチルが握っている自分の右手を動かし、その手をミチルの後頭部へと回すと、ミチルを自分の胸元へと抱き寄せた。

 ミチルはレイの胸元に顔を沈めながら訴える。

「レイちゃんいった!いっしょにかえるって!」 

「…ごめんなさい…、…ごめんなさい…」

「ミチルとのやくそくやぶっちゃやだ!」

「…ごめんなさい…、…ほんとうに…」

「ね?ミチルといっしょにかえろ?」

「…ミチルちゃん…」

 

 ミチルを抱く腕に力をこめる。この子の温もりを、最後に感じようと。

 そして、

 

「ミチルちゃん…、行って…」

 自分とミチルとの間に手を滑りこませる。

 

「お願い…、行って…」

 ミチルの体を突き放した。

 

「行くの!ミチルちゃん!」

 

 

 ママはよく怒る。

 普段は優しいし大好きだけど、怒るととっても怖い。

 大好きなパパは怒ることは滅多にないけれど、それでも自分が何かいけないことをすると、厳しく叱られる。

 でもレイにはこれまで怒られたことはなかったし、怒鳴られることもなかった。 

 そのレイが、今は厳しい眼差しで自分を見つめ、そして声を張り上げている。

 

 

 ミチルはレイの血で汚れたスカートを、ぎゅっと握った。

 

 ミチルは駆け出した。

 

 しかしそれは、レイが望んだ方向ではなかった。

 ミチルは叫ぶ。

「だれか!ねえ、だれかたすけて!」

 誰も居ない大きな空間の中で叫ぶ。

「たすけて!レイちゃんをたすけて!」

 

 レイは地面に這い蹲ったまま、そんなミチルの姿を顔を歪ませて見つめていた。

「…お願い…、…逃げて…」

 

「たすけてよ!」

 大きなチューブを幾つも跨いで部屋を駆けまわる。幾度となく躓いてしまい、顔から地面に落ちてしまい、小さな鼻からは鼻血が出てしまい、それでも血を拭おうともせずに立ち上がると、懸命に走り回り、声を張り上げ続ける。そこら中に手あたり次第叫んでいくが、だだっ広いこの空間で息をしている者はたった2人だけ。ミチルの声に応じるものは誰も居ない。広大な部屋の中を、空しくミチルの声だけが木霊する。

 

 ふと、部屋の中央に鎮座する大きなカプセルに目がいった。

 冷気で曇ったカプセルのガラス。

 

 そこに何かが居る。

 誰かが居る。

 人が居る。

 カプセルの中に、人が入っている。

 

 ミチルはカプセルに駆け寄った。

 どんどん、とカプセルの窓ガラスを叩く。

「ねえ!おねがい!たすけて!たすけて!」

 何度も何度もガラスを叩く。

 そのうち、ガラス以外の箇所にもミチルの小さな拳が触れ、何かのボタンに触れ、幾つかのボタンに光が灯った。

「ねえ!ねえったら!」

 カプセルの中にいる「何か」は返事をしない。

 まるで死んでいるかのように、静かにカプセルの中で横になっている。

 

 

 背後で鉄の軋む音。

 振り返ったミチルの視線の先に、ミチルたちが入ってきた鉄扉の隙間がさらに大きく開き、そこから人が次々と入ってきた。

 ミチルはカプセルから離れると、すぐに鉄扉から入ってきた人たちに向かって駆け出す。

 

 レイの表情に絶望が浮かぶ。

「…だめ…、…だめ…よ…」

 叫びたかったが、喉に力が入らない。

 レイの視線の先で、ミチルが鉄扉から入ってきた警備兵たちのもとへと懸命に駆けていっている。

 

 

 

「ねえ!おじさん!」

 幼子は声を張り上げて呼んだ。

 坑内でも最重要地点であるこの「みささぎ」までやってきた警備兵は、入るなり駆け寄ってきた幼子を無言で見下ろす。

「おねがい!レイちゃんをたすけて!しにそうなの!」

 幼子が指さす先に警備兵は視線を向ける。

 確かに、「リリスの模造品」改め、「人間に堕ちたリリスの模造品」が下半身を血まみれにして倒れている。

 警備兵はやはり幼子に対しては黙ったまま、鉄扉の近くに設置された受話器を手に取り、耳に当てた。

 相手が出る。警備兵は低い声で会話を始めた。

 

「…捜索隊です。槍を確保しました…」

『よし。その場で殺せ。宿主が死んだところで槍は消えはせん』

「はい」

 

 警備兵は受話器を置く。

 腰のホルスターから拳銃を抜いた。

 

 

 ミチルを取り囲んだ警備兵の一人が拳銃を抜き、ミチルの頭に銃口を向けている。

 ミチルは何が起きようとしているのか分からず、ぽかんとその銃口を見つめている。

 

「あっ…、ぁあ…、ぅうああ…」

 叫ぼうとした。

 大声を張り上げて、奴らの注意をこちらに向けて。

 そうすれば、その隙にミチルが逃げてくれるかもしれない。

 僅かでも希望は残されるかもしれないのだ。

 

「あ…、ああ……、うぅぅ…」

 何でもいい。何かを叫べ。声を出せ。音を出せ。

 

「う……、ぅう…」

 でも声が出ない。

 この喉は、何の音も響かせない。

 レイの手が、指が、岩の床を引っ掻く。

 

 

 誰でもいい。

 

 誰でもいいから。

 

 あの子を。

 

 あの子だけは…!

 

 

 

 いくら教団の大願のためとはいえ、幼い子供を真正面から撃つのはさすがに気分の良いものではなかった。

 引き金に掛けた警備兵の人差し指が、微かに震えていた。

 それでも、今日この日を迎えるまでに、一体何人の仲間たちが犠牲になっただろうか。

 彼らの無念は、今、自分のこの指に掛かっている。

「悪く思うなよ…」

 引き金に掛けた指に、力を籠めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ビー!ビー!ビー!

 

 

 

 部屋中に大きな電子音が響いたのはその時だった。

 

 警備兵は咄嗟に人差し指を引き金から外した。

 電子音は部屋の中央のカプセルから鳴り響いている。

 その警備兵だけでなく、他の警備兵も動揺した様子でそのカプセルを見つめた。

 

 けたたましい電子音を鳴り響かせるカプセルは、やがて圧縮された空気が抜けるような排気音を出し始め、そして実際にカプセルの周りに設置された数本の排気口から白い蒸気が一斉に立ち昇った。

 

「た、隊長…」

 警備兵の一人が幼子に拳銃を向けていた警備兵に震えた声で呼びかける。

「ああ…」

 隊長は掠れた声で応じる。

 

「奴が…目覚めた…」

 

 あらかたガスを吐き出し終えたカプセルのガラス窓の部分が、がたんと動いた。ガラス窓が少し浮き上がり、そして水平に動いていく。

 

「ふあ~あ…」

 

 緊張した警備兵の視線が集まるその先から、何とも間の抜けた欠伸が聴こえた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「…主任…」

 

 様々なセンサー類に繋がったモニターを見つめていた女性オペレーターの顔が青ざめ、震えた声でミサトを呼んだ。

「なに?」

 ミサトは燃え上がるエレベーターシャフトを見つめながら返事する。

 

「ATフィールドの発生を確認しました」

 

 ミサトの顔が、ゆっくりとオペレーターの方へと向く。

 

「ここから500m北、地下200m付近です」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 蒸気が立ち昇るカプセルから、むくりと人の影が起き上がる。

「ふあ~…」

 再度、呑気な欠伸。蒸気の隙間から、天へ向けて突き出し、伸びをする腕が見えた。

 やがて蒸気の中から2本の真っ白な脚がにょきっと出てきて、地面に降り立つ。

 

 

 固唾を呑んでカプセルの様子を見つめる警備兵たち。

 受話器で通話をしていた警備兵の一人が隊長に言う。

「教祖は「待機せよ」と。「刺激するな」と言っています」

「…ああ、分かってる…」

 

 

 その隊長はこの廃鉱山に教団が拠点を設けた頃からの古参の者だった。

 そして3年前の惨劇の夜も、その場に居た。

 試験管の中で産声を上げた生命体。

 ある一点を超えると「それ」は急速に細胞分裂を繰り返し始め、あっという間に膨れ上がり、超強化ガラスでできた試験管を砕いてしまった。

 モニターを凝視していた科学者の一人が叫ぶ。強力なATフィールドが発生していると。その直後に、試験管の一番近くに居た科学者の体が爆ぜた。白衣が血にまみれ、内臓物が弾け飛んだ。

 科学者が更に叫ぶ。続けてアンチATフィールドが発生していると。すると試験管の近くにいたもう一人の科学者の体が急に、まるで火に炙られた蝋人形のように溶け始めた。科学者は泣き叫びながら、やがて服だけ残して液体と化した。

 生命体はATフィールドとアンチATフィールドをまるで振り子のように交互に展開させていき、その度に、彼らにとっての新たな神の誕生を見守ろうと集まっていた教団の幹部や科学者、警備兵たちの体が次々と破裂し、次々と溶けた。

 室内に居たほぼ全員が恐慌状態に陥る中、彼らの教祖、宮部だけがその顔に狂気の笑みを浮かべ、「新世界の始まりだ」と叫んでいる。

 ところが相反する2つの膨大なエネルギーを矢継ぎ早に発する生命体は、次第にその活動を弱めていき、そしてついにはその肉体を崩壊させ始めた。

 室内に居たほぼ全員が安堵する中、宮部教祖だけが焦りの表情を浮かべ、部下たちに生命体の即時凍結を命じた。

 凍結されたことで何とか形を保つことができた生命体は、直ちに生体維持のためのカプセルの中に入れられ、以来、地下深いこの空間、「みささぎ」と呼ばれるこの墓で眠りについていたのだった。

 

 

 その生命体が今、地面に足をつけ、立ち上がろうとしている。

 拳銃を握る自分の手の震えを、抑えることができなかった。

 

 やがて蒸気が晴れていく。

 薄れていく蒸気の中に現れる人の影。

 

「やあ、こんにちわ」

 

 朗らかで、透き通った声。

 

 カプセルの前に、小さな子供が立っていた。

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。