告白   作:hekusokazura

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おまけ(女ジャックバウアー伝説・結)

 

 

 

 指揮車内は静まり返っていた。

 まるで石化の呪文でも唱えたみたいに、オペレーターがそれを告げてから、誰一人として動くことができなかった。

 

 彼らに時間的猶予があったわけではない。むしろ時間が経てば経つほど、事態は深刻化していくことは誰しもが分かっていたが、それでもたっぷり2分の間を取ったところで、ようやくミサトがツカツカと靴の音を立てながらオペレーターの近くへと歩み寄った。

 

 モニターを覗き込む。

「ATフィールド…だけなの?」

「はい。…微弱ですが、ATフィールドのみをセンサーは感知しています…」

「過去のデータと照合…」

「はい…」

 オペレーターがキーボードを叩くと、上半分に現在センサーが感知している波形が表示され、下半分に3年前に感知した波形が表示される。

「99.9%、同一のものです…」

 ミサトは苦虫を噛むような表情で呟く。

 

「アダムが…目覚めた…」

 

「主任…」

 若い部下が囁き掛ける。

「UAV到着まで、あと5分です…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 地下のその一室は静まり返っていた。

 

 まるで石化の呪文でも唱えたみたいに、大人の誰一人として動くことができなかった中で。

 

「ねえ!」

 

 ミチルだけが動いた。

「ねえ!おねがい!レイちゃんをたすけて!」

 

 ミチルの視線の先には、カプセルから現れた子供。

 中世的な顔立ちをしているが一糸纏わぬ裸体の股間には男性器があり、子供は男の子であることが分かる。

 ミチルはその男の子に駆け寄ろうとして。

「きゃっ!」

 その首根っこを、警備兵の一人が引っ掴む。

「もうはなして!はなして!」

 ミチルは懸命に暴れるが、掴んだ警備兵の腕はびくともしない。

 もう自分のことはどうでもいい。今大切なことは。

「おねがい!レイちゃんをたすけて!」

 男の子に向かって訴える。

 

「ん?れいちゃん?」

 小さな女の子に言われて、男の子は周囲を見渡した。

 カプセルの向こう側に、人の足が見えた。

 男の子は歩き出す。

 歩くたびに揺れる髪から、不可思議な燐光が舞った。一糸まとわぬその体は赤みを帯びた淡い光を放っており、限られた光源しかない薄暗いこの部屋の中で、子供の周囲だけが明るかった。

 

 大きなカプセルをぐるりと回ると、なるほど、人が倒れている。

 すらりとした身体に纏った白のスーツ。その左足が血に塗れ、ぐったりとした四肢からは生気が感じられず、その顔には血の気がない。

 瀕死の女性の姿を認めた男の子は、小さな女の子の方に目を向けた。

 

 男の子の視線を受けて、ミチルは再度叫ぶ。

「たすけて!おねがい!」

 

 男の子は少し目を丸くする。

 

 そして足もとの女性を見る。

 

「僕が?」

 

 ミチルを見る。

 

「彼女を?」

 

 女性を見る。

 

「助ける?」

 

 ミチルを見る。

 

「なぜ?」

 

 ぽかんとした顔。

 

「どーして僕が彼女を助けないといけないんだい?」

 

 

 そんなことを問い返されるとは思ってもみなかったミチルは一瞬きょとんとし、そして改めて訴えた。

「このままじゃ、レイちゃん、しんじゃうもん!」

 

「へー、死んじゃうんだ、君」

 そう呟いて、男のは女性を見下ろした。

 何かに気付いたように、男の子の片方の眉が上がる。

「あれ?あれれ?君って…」

 急に女性に興味を持ち始めた男の子はその場にしゃがみ込み、女性の顔を覗き込む。

 乱れた空色の髪の隙間から、瞼を薄く開いた真っ赤な瞳が男の子を見つめた。

 男の子の、やや大きめの口が三日月のように曲線を描く。

「君って、なんだか僕と似ているね」

 嬉しそうな男の子の声。

 

「もしかして君、僕のママかい?」

 

 

 男の子が。見た目はミチルよりも幾ばかりか年上の子供が、自分の顔を覗き込みながら突拍子もないことを尋ねてくる。

 レイはゆっくりと首を横に振った。

「…いい…え…、私は…、あなたの…ママ…じゃない…わ…」

「へー、そうなんだー。ざーんねん」

 男の子は唇を尖がらせる。その不貞腐れ方がどこか不機嫌な時のミチルに似ていたので、レイは思わず笑ってしまった。

「…あなたは…、誰?」

「僕?」

 レイの問い掛けに、少し首を傾げて考え込んで。

「さあ、分かんない」

 笑顔で答える男の子。

「名前…は?」

「知らない。僕にも名前、あるのかな?」

 

 カプセルにずっと閉じ込められた子。

 世界と隔絶された子。

 どこか、少女時代の自分の境遇と似ていた。

 

「ねえ…」

「なんだい?」

 親近感が湧いたからか。レイは自分でもおかしなことを言うな、と思いながら口を開いた。

「私のこと…、助けて…ほしい…の」

「えーーー」

 途端に顔を顰める男の子。

「どーしてさ。僕のママでもないのに」

 全くもって、その通りだ。今日初めて会った、しかもこんな子供に、何てお願いしているのだろうと自分自身でも思う。

 それでもレイは続けた。

「ママには…なれないけれど…、友達には…なれる…わ…」

「トモダチ?んーー、トモダチかあ」

 人差し指を顎に当て、天井を睨みながら「トモダチ」というものの価値を吟味する男の子。

「…もっと、…ほかのことが…いい?」

「んんん」

 今度は腕を組んで考え込む男の子。

「あなたが…、望むもの…」

「僕が望むもの…?」

「そう…」

 レイは相手を慌てさせないよう、静かに、ゆっくりと男の子に訊ねた。

 

「あなたは…、何を…、望むの…?」

 

 

 男の子は暫く虚空を見つめた後。

「うん、決めた!」

 満面の笑顔でレイの顔を覗き込む。

 

「なまえ!」

 やや大き目な口を目一杯開けて男の子は叫んだ。

「名前がいい!」

 

「なま…え…?」

 キョトンとして男の子が言った言葉を反復するレイ。

「うん。僕、名前が欲しいんだ」

「…そう…」

 

 レイは困ってしまった。

 唐突に名前が欲しいと言われても、困ってしまう。名前というものは、親が吟味に吟味を重ねて付ける物であるということを、レイはミチルが生まれた時にミチルの両親を見て知っていたからだ。

 今日初めて会った自分が、おいそれと名前などを与えてもよいものだろうか。

 

 …実は。

 本当は初めて男の子の顔を見た時から、レイの中では男の子にぴったしな名前が思い浮かんでいたのだが。

 

「私なんかが…決めても…いいの?」

「うん。君がいい。君に決めてほしい」

 男の子は何の躊躇いもなく言ってくる。

「分かった…わ」

 レイは観念した。

 

 

「あなたの名前…」

 生唾を飲み込む。柄にもなく緊張してしまった。

 

「うん!」

 男の子は期待に満ちた顔で待っている。

 

 

 

 

「あなたは、

 

 

   ナギサカオル…、

 

 

      渚カヲルよ…」

 

 

 

 

 ナギサカオル。

 

 その6文字を聴いた途端、銀髪の男の子は赤い瞳を輝かせた。

 

「うん!僕はカヲルだ!渚カヲルだよ!」

 喜びを全身で表すようにぴょんぴょん跳ねる男の子。

「ありがとう!お姉ちゃん!」

「…そう、…よかったわね…」

 気に入ってくれたようでなによりだ。レイはホッとした様子で、男の子を見上げた。

 

「ねえ…君」

 放っておけば一晩中飛び跳ねていそうなので、頃合いを見計らって男の子に声を掛ける。

「なんだい?」

 男の子は飛び跳ねるのを止め、レイを覗き込む。

「私のこと…、助けて…くれる?」

「もちろんさ!」

 そう言って、男の子はレイの左太腿の銃創に手を翳した。

 男の子の手が輝き始める。

 男の子の手のひらから極小のATフィールドの結晶が幾つも舞い散り始め、傷口へと付着していく。

 結晶が付着した傷口は瞬く間に塞いでいく。傷の周りがまるでぬるま湯に浸されたように温かさを感じていく。何も感じなかったはずの左足の感覚が、徐々に蘇っていく。

 

 レイは、ATフィールドにはこのような使い方もあるのか、と感心して男の子を見つめた。

「…器用なのね…」

「にっひっひ」

 褒められて、男の子は得意げに笑う。

「じゃあ…」

 レイは視線を向ける。警備兵に拘束されているミチルに。

「あの子も…助けて…くれる?」

「えええ?どーしてー?」

 振り出しだ。レイはがっくりと肩を落とした。

「あの子は…、きっと…、あなたの…、ステキな友達に…なってくれるわ…」

「トモダチって必要かな~?」

「ええ、友達はとても素敵な宝物よ…。それに…」

「それに?」

「あの子は、この世界で…一番可愛い生き物よ。そんな子を友達にしないなんて…、あなたは人生の9割を損することになるわ…」

 どこか迫力のあるレイの物言い。

「んーー、君が言うのならそうなのかな~」

 男の子はそんなレイの圧力に少し気圧されたような表情で頷いた。

「じゃあ、周りのおじさんたちは?」

 そう男の子に聞かれ、レイは目を細める。

 

「あの人たちは……敵よ…」

「うん!分かったよ!」

 

 

 

 気が付けば、自分の首根っこを掴んでいたはずの警備兵が、壁まで吹き飛ばされていた。

 

 

 瀕死の女の側でしゃがみ込み、何やら話し込んでいる男の子。 

 突然、両手を挙げてぴょんぴょんと跳ね始めた。

 その様子に狼狽える警備兵たち。

 再び男の子はしゃがみ込み、女と話し込む。

「うん!分かったよ!」

 男の子が元気よく言い、立ち上がった。

 振り向く。

 こちらに向かって、手を翳す。

 次の瞬間、女の子を拘束していた警備兵の体がふわりと浮き、そして何かに突き飛ばされたように壁へと吹っ飛んだ。

「ぐあ!」

 悲鳴を上げて、床へ崩れ落ちる警備兵。

「な…!」

 突然のことに動くことすらできないでいたら、今度は吹き飛ばされた警備兵の横に立っていた別の警備兵の体が、まるで透明な巨人の手に摘ままれているかのように宙へと浮いた。

「うわああ、わあああ!!」

 たちまちパニックになった警備兵。

 手に持っていた自動小銃の銃口を男の子に向け、引き金を引いた。

 けたたましい銃声。

 それが合図だったかのように、隊長以外の全員の銃火器の銃口が火を噴く。隊長が何度も「撃ち方止め!」と叫ぶが、彼の声は銃声でかき消されてしまう。室内は硝煙に満たされた。

 全員が弾倉に込められていた銃弾を撃ち尽くす。

 今度は室内を静寂が包む。

 硝煙が晴れていく。

 

 それは奇妙な光景だった。

 警備兵の前にあるもの。

 警備兵の前の空間に、浮いているもの。

 無数の銃弾。

 まるで静止画像のように、彼らが撃ったはずの銃弾が宙に浮いて、固まっている。

 誰の仕業か。

 こんなことをしでかせるのは一体誰か。

 考えなくても分かった。

 隊長は悟った。

 「あれ」に対しては、あらゆる物理的な攻撃は無意味であると。

 

 男の子はにっこりと笑っている。

 こちらに向けて翳していた手を降ろした途端、宙に浮いていた何百発という銃弾がバラバラと床に落ちた。

 男の子はにっこりと笑ったまま、再度、警備兵たちに向けて手を翳した。

 今度は隊長の体が、壁へと吹き飛ばされた。

 

 

 拘束から逃れたミチルは、レイのもとへと駆け寄った。

「レイちゃん!」

「ミチルちゃん!」

 泣きながら走ってきたミチルを、レイは強く抱きしめる。

「レイちゃん!ばか!うそついたらハリセンボン!」

「ごめんね…。ごめん…、ミチルちゃん…」

 ミチルは最初こそ、その小さな拳で何度もレイの胸を叩いていたが、やがてそれも止め、レイの首に腕を回して抱き着き、わんわんと泣いた。

 泣きじゃくるミチルの頭を撫でながら、レイは男の子背中を見た。

 

 

 指揮を失った警備兵たち。もはや混乱は極地に達し、おのおのが勝手に所持する銃器を男の子に向けて撃ちまくっている。中には自動小銃の先端に付けられたグレネードランチャーをも、ここが地下であることも忘れてぶっ放している者も居るが、彼らが仕掛ける全ての攻撃は、男の子が狂騒の彼らとの間に張り巡らせる見えない壁によっていとも簡単に阻まれるのだった。

 男の子は無力な警備兵たちを、一人ずつ壁に向けて吹き飛ばすことに夢中になっている。まるで地面を這う蟻の列を踏みつぶして喜んでいる子供のように、けたけた笑い声を上げながら。

 

 

「レイちゃん…」

 その様子を怯えたように見つめるミチル。

 レイは足に力を入れた。男の子に治してもらった足は、万全ではないにしろ、立てるまでに回復している。

 極太のチューブに寄り掛かるようにして立ち上がりながら、そっとミチルを抱き上げた。

 

 男の子を見る。

 気のせいか、男の子を包んでいた赤みを帯びた淡い光が、強くなっているように見えた。

 

 レイは腕の中のミチルを見た。

 けたたましい銃声と、男たちの悲鳴に怯えた様子で、目をギュッと瞑っている。

 

 男の子を見て。

 そしてミチルを見て。

 そして背後の地上へと向かう穴を見て。

 もう一度男の子を見て。

 

 歩き出した。

 男の子に背を向けて。

 穴に向かって歩き出す。

 

 穴の入り口に立つ。

 再度、男の子の背中を見る。

 自分が与えた、渚カヲルという名の男の子の背中を。

 そして踵を返す。

 穴の奥に向かって、駆け出す。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「…こんな複雑なATフィールドの動きは、ネルフの対使徒戦の記録にもありません。ますます強力になっていきます」

 オペレーターの報告にミサトは歯ぎしりをした。

 

 オペレーターは「複雑な動き」と表現したが、ミサトには目まぐるしく変わるATフィールドの波形データが、ただただ不安定であるとしか見えなかった。

 このATフィールドがひとたび反転すれば。

 それはすなわち、あの悪夢の再来を意味する。

 いや、あの悪夢などではない。

 

 あの時、「奴ら」は最終的には溶けた全ての人々の魂を集め、新たな単一の生命体へと進化することを目論んでいた。

 今はその魂を集めるための「器」さえない。全ての人々が溶けて、それでおしまいだ。

 

 教団の連中はそれが分かっているのか。

 いや、分かっていないからこそ、こんな大それたことを、平気でしでかしてしまうのだろう。

 あのネルフですら、ゼーレですら成しえなかったこと。国家規模の予算を投じてまで成しえなかったこと。

 それを1.5流の科学者と、狂信者しかいない教団などが成しえるはずもないのに。

 それでも、ネルフが残した、ゼーレが残した負の遺産は、1.5流の科学者と狂信者しかいない教団に、この世界を、人類を滅ぼしてしまえるだけの力を与えようとしてしまっている。

 その暴挙に、かつての自分が知らなかったとは言え加担してしまっていたという事実に、今更ながら忸怩たる思いに苛まれるミサトだった。

 

「マキュアン…」

 隣に立つ若い部下に声を掛ける。

「はい」

「UAVは?」

「すでに頭上です」

「…決めるのは、あなたよ…」

「…分かってます」

 若い部下の喉から生唾を呑む音が聴こえた。

 

「主任…」

「なに?」

「あの人は。…彼女は…、あの子を助け出してくれるでしょうか…?」

 ミサトは若い部下の横顔を見た。表情はいつも通りだが、その瞳に僅かな逡巡が宿っている。

 

「ええ…、もちろんよ…」

 

 そう返事はするものの、正直なところミサトの中にはそう言い切れるほどの根拠などまるでなかった。

 ネルフ時代も他のパイロットに比べ、それほど交流の機会を持てなかった彼女。エヴァに乗る為に生まれてきたようなシンジ、そして操縦センスには天性の才能を持っていたアスカに比べ、パイロットとしての彼女はそれほど特筆するべきものはなかった。彼女の任務遂行能力について、全幅の信頼を寄せられほどの判断材料が、ミサトの手もとには無いのだ。

「レイ…、何やってるの…」

 一向に炎の勢いが収まらないエレベーターシャフトを見つめながら呟く。

 

 根拠があるわけではない。

 それでもミサトは心のどこかに確信に近いものを持っている。

 あの彼女が、誰かの命令ではない、自らの意思で危険の渦中へと飛び込んだのだから。 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 20年以上も前に閉山した鉱山。20年以上も使われていない坑道。あちこちが崩れ、崩落した岩が転がり、土砂に埋まっている。

 その僅かな隙間を、微かに風の通りを感じる方向に向かって。

 

 闇の奥に、小さな光が見えた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「あ~あ、終わっちゃった…」

 動く者が一人も居なくなり、男の子は残念そうに呟く。

「あれ?」

 振り返ったら、そこに倒れているはずの、自分に名前を与えてくれたお姉さんの姿がなかった。

「ちぇー、つまんないの…」

 せっかく自分との「同類」と出会えたと思ったのに。男の子はつまらなそうに床に転がっていた銃弾を蹴飛ばす。

 転がっていた銃弾の先に、人の足があった。

 あれ?全員、動かなくさせたはずなのに。

 見ると、そこには白衣を着た数人の大人たちが立っていた。

 

 

 

 半分開いた鉄扉の中に入る。

 宮部はその光景に息を呑んだ。

 この坑内でも特別に広い空間。めちゃくちゃに破壊された室内。へこんだ壁、へこんだ天井。千切れた極太のチューブ。火花を上げる機械類。

 床に、壁に、天井に張り付けにされて、こと切れている警備兵たち。

 その中に立つ、淡い光を纏う男の子。

 

「おじさん、だれ?」

 男の子の問い掛けに、宮部は目を丸くする。

「…話せるのか…」

「ねー、聴いてるんだけどー」

 男の子は唇を尖がらせながら言う。 

「ああ、私は宮部という。元気そうだね、アダム」

 機嫌を損ねそうな男の子に、宮部は努めて優しい声で答えた。

 しかし、

「アダム?」

 宮部の呼びかけに、男の子はかえって不機嫌そうに目を細めた。

「アダムって誰?僕は渚カヲルなんだけど」

 

「…なぎさ、かおる…」

 男の子の口から出た名前を、舌の上で転がすように呟く。

 

 宮部はその名前を知っている。

 かつて彼が心棒したゼーレがネルフに送り込んだフィフスチルドレンであり、その正体は17番目の使徒の「ヒト」としての名前。

 

 彼らが壊滅したネルフ本部から持ち帰ったサンプル。地下に残されていたLCL。それにはかつてそこに安置されていたリリスと、そのリリスと融合したアダムと、そしてそこで散った17番目の使徒の遺伝子が残されていた。彼らはそのサンプルの中からアダムとリリスの遺伝情報を別々に抽出し、それぞれの再生を試みたが、彼らの技術では不純物を完全に取り除くことはできず、再生されたのはアダムの遺伝情報を母体とした幾つかの遺伝子の複合体だった。

 だから、男の子の容姿が、17番目の使徒とそっくりであっても、不思議ではなかった。

 だが、何故この男の子が。生命体として活動し始めた直後に凍結され、3年後に解凍されてまだ数分しか経っていない男の子が、何故その名を口にするのか。

 宮部は事態が自分の思惑を超えて動いていることを理解した。

 

 男の子の体を観察する。

 3年前と一緒だ。

 ぶらんと下がった男の子の手の先端から、何かが滴り落ちている。汗などではない。光輝くそれらの鱗粉は、男の子の肉体そのもの。

 急速なエネルギーの消耗によって、男の子の体はその形を保てなくなり始めている。

 一瞬にして崩壊し始めた3年前に比べればその体は遥かに安定しているように見えるのは、膨大なエネルギーを無計画に発生し続けた3年前の生命体とは違い、この男の子はそのエネルギーをそれなりに操れているからなのだろう。

 人知を超えた巨大なエネルギーを操るもの。それは男の子の中の自我。

 それが生命体の中に確立されたのは、男の子が「名前」を持ったからか。

 ではその男の子に「名前」を与えたのは誰なのか。

 

 今、目の前で起きている事象に対し科学者としての興味は尽きなかったが、しかし今は科学者としての本懐を遂げるべき場面ではない。

 確かに男の子は3年前と比べれば遥かにエネルギーを上手く操っているが、肉体が崩壊に向かって転がり落ちているのは紛れもない事実だ。このまま男の子にそのエネルギーを反転させ、解放させたところで、その発生範囲は上手くいったとしてもせいぜいこの国を覆うくらいだろう。

 それでは駄目なのだ。

 それだけでは駄目なのだ。

 それは、ゼーレの本懐ではない。

 

 6年前のあの日、あの事象を完璧に操ったリリスの模造品。あるいは、ATフィールドとアンチATフィールド、相反するエネルギーに調和をもたらす槍。

 そのいずれかがあれば、男の子の肉体を安定化させ、地球を覆う規模のアンチATフィールドを発生させることができるはずなのだが。

 

 しかし。

「おのれ…」

 この部屋まで追い詰めたはずの、あの女と子供がいない。

 居るのは、崩れかけのアダムの粗悪品のみ。

 

 宮部は背後の部下に囁く。

「すぐに…再凍結の準備を…」

「しかし…、敵はすぐ上にまで…」

「アダムを失えば、それこそ我々はおしまいだ。アダムの保全を何よりも優先する…」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「ATフィールドが弱まっています」

 目まぐるしく変化していたモニター上の波形データが徐々に落ち着いてきた。

「マキュアン」

 部隊長が進言する。

「ATフィールドが弱まっている今がチャンスなのではないか」

 部隊長の発言を聞いて、ミサトは若い部下の横顔を見つめた。

 白人青年の額に、大量の汗が伝っている。

 青年は一度ギュッと目を瞑り、彼が信じる神の名をお祈りのように口ずさむと、オペレーターに伝えた。

「UAVの基地に繋いで下さい」

 青年のその一言に、ミサトは天を仰ぎながら目を閉じた。

 ふらふらと、臨時の指揮所として設置された天幕から外へと出る。

 

 星が広がる夜空を見上げた。

 

「ごめんなさい…、シンジくん…」

 この夜を越えた後、もう二度と顔を合わせることはできないだろうかつての同居人の名を口にする。

 

「ごめんなさい…、アスカ…」

 この夜を越えた後、もしかしたら本当に自分の喉を食い破りにくるかもしれない赤毛の女性の名を口にする。

 

「…ごめんなさい…、…レイ…」

 この夜を越えることが、もう二度と太陽を見ることができなくなった、空色の髪の女性の名を口にする。

 

 ミサトは空から地上へと、ゆっくりと視線を下ろす。

 見えるのは小さな山。

 闇夜の中にひっそりと聳える山。

 この小さな山の地下深くを狙って、もう間もなく空から爆弾が降ってくる。

 この小さな山は、跡形もなく消えるだろう。

 その下にいる人々もろともに。

 

 消えてしまう瞬間を、目に焼き付けよう。

 その光景から、目を逸らすことは、自分には許されない。

 爆風に吹き飛ばされてしまわないよう、大地を踏みしめながら、小山と対峙した。

 

 その小山の麓で、何かが動いたような気がした。

 

 

 

 

 

 オペレーターが通信機のコンソールを操作している後ろ姿を、息をするのも忘れて見つめていた。

 

「ちょ、…ちょっと…、ちょっとちょっと…」

 

 重苦しい空気が覆っていた天幕の中に、どこか拍子抜けさせるような声が響く。

 声の発信源は天幕の外から。

「ちょっとマキュアン、マキュアンちゃん…、ちょっと…、ねえちょっと!」

 

 基地との回線が繋がるのを簡易椅子に座って待っていた青年は、事あるごとに自分をからかうように「ちゃん付け」で呼ぶ上官に、何もこんな時にそんな呼び方しなくてもいいだろうと腹を立てながら腰を上げた。

 天幕の外に顔を出す。

「なんですか?」

 天幕の外では、何故か目をまん丸にした上官がこちらを見つめながら、何処かを指さしている。

 彼女の指の先には爆撃対象の小山。その麓。

 青年は闇の中のそれを凝視した。

 

「え!うそ!まさか!」

 青年が何かを叫びながら天幕を飛び出してしまった。

 オペレーターは慌てて彼を追う。

「ちょっとマキュアン!」

「え?なに?」

「基地と繋がったよ」

「え、うそ、マジで?」

「あんたが繋げってゆったんでしょーが!」

「ちょ、どーしよ。と、とりあえず明日の天気でも聴いといて」

「はああ!?」

 ぷんすか怒っているオペレーターを置いて、青年は彼の上官と共に小山に向かって走っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 何百メートルも続いた暗闇を抜けたその先。

 

 風を感じ、汗まみれの額が気化熱でヒンヤリと涼んだ。

 

 光が灯る方へと歩き出す。

 その人工的な光の主が、果たして味方なのか敵なのか。

 全身を覆う疲労。もう色々と考えるのも面倒なので、敵だったらその時はその時でまた考えようと、まるで光に導かれる虫のように、ふらふらと歩いていった。

 

 視界はぼんやり。

 汗が滴って、意識も朦朧で、おまけに闇夜の下で、数m先もよく見えない。

 

 そのぼやけた視界の中で、2人の影がこちらに走り寄ってくる。

 何かを叫びながら走り寄ってくる2人。

 

 視界は相変わらずぼやけていて顔はよく見えないけれど、2人のうち1人はきっとあの人。

 

 ほら、ミチルちゃん。

 

 この人が、あなたのパパとママの、かつての保護者。

 

 カツラギミサトさんよ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミサトは走りながら両腕を広げた。

 ミチルを抱きながら、前のめりに倒れてしまいそうになっているレイを抱き留めるために。

 そして両腕に重み。

 自分の腕の中に収まった、レイの横顔。

 血まみれで、泥まみれで。

 それでも小さな微笑みを称えたその横顔を、ミサトは何よりも美しいと思った。

「よくやった…、よくやったわ…レイ…」

 

 地底から這い出てきた女性と子供を、涙ぐみながら抱き締めている上官の背中を、若い部下も感極まった顔で見つめていた。

「本当に…、帰ってきた…」

 周囲は敵だらけだったはず。逃げ道なんて、何処にもなかったはずなのに。

 10時間前に病院でその姿を初めて見た時点で、体中に大怪我を負っていたのだ。今も、下半身は血まみれになっている。そんな満身創痍の身で、子供を一人抱えて穴から這い出てきたのだ。

 なんたる強靭なる意志。

 

 彼女だけではない。

 最後まで、彼女の生還を信じて疑わなかった自分の上官。

 彼女が、この空色髪の女性とかつては上官と部下の間柄であったことは知っている。そして今日、いや日を跨いで昨日が10年ぶりの再会であったことも知っていた。

 彼女は、なぜここまで空色髪の女性のことを信じることができたのだろうか。

 世界の命運と天秤に掛けてまで。

 若い部下はふと、自分がこのチームに入った時に、誰かから聞かされた言葉を思い出した。

 

 

 ―――ネルフの女はやたらと強い。

 

 

 

「レイ…、本当によく…頑張ったわね…」

 ミサトは自分のジャケットの袖で、レイとミチルの汚れた顔を拭いてやる。

 レイの乾いた唇が開いた。

「葛城三佐…」

「もう、ミサトって呼んでよ」

「早く…シンジさんと…アスカに…」

「そうね。すぐに伝えるわ」

 レイの腕の中のミチルがミサトを見上げた。

「パパとママに、あえる?」

 ミチルに言われ、一瞬きょとんとするミサト。すぐにミチルの言うパパとママが、彼女のかつての同居人2人であったことを思い出し、心の中で笑ってしまった。

「ええ、もちろんよ」

 

「…主任」

 若い部下がミサトに耳打ちする。

 ミサトは目もとを拭いながら頷く。

「ええ、そうね。レイ、歩ける?」

 レイは頷く。

「今すぐここを離れるわ」

 レイは何をそんなに慌てているのだろうと首を傾げる。

「無人機がもう間もなくここを爆撃するわ。弾頭は遅延型。地下深くも破壊できる、貫通型の爆弾よ」

 ミサトを見つめるレイの目が少しだけ大きく開く。

「地下にいるアダムもろとも、この鉱山を破壊するわ」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「渚カヲルくん」

「なんだい?」

 与えられたばかりの名前を呼ばれたのが嬉しいのか、男の子は笑顔で宮部の呼びかけに返事をした。

「脅かすようなことを言ってすまないが、今君は、非常に危うい状態にある」

「危うい?どうして?」

「見たまえ。その手を」

 宮部に促され、男の子は自分の手を見る。指先から光の雫が滴り落ち、地面に落ちている。そして指の第1関節から先が、無くなっていた。

「君の体は急速に崩壊が始まっている。このままではあと30分ももたないだろう」

「えー、平気だよ、こんなの」

 そう言って、男の子はその手を一度だけ勢いよく振ってみた。すると次に現れたのは、第1関節までしっかり再生された手だった。

「ほらね」

 得意げに言う男の子。

 宮部は表情を顰める。

 男の子は気付いていないが、手の指が再生された代わりに、彼の足のつま先が急速に溶け始めたのだ。

「渚くん。我々は君を救いたいんだ。君を助けたい」

「えええ。初対面の君らがどーしてそんなこと言うのさ。気持ち悪い」

 あからさまに警戒心を見せる男の子に、次にどのような言葉を掛ければよいのか苦慮してしまう宮部。

 

 少し考えて、

「…そ、それは我々が君の友達だからだよ」

「トモダチ?」

 その言葉を聴いて、男の子は初めて宮部らに興味を持ったように彼らを見る目を丸くする。 

「へー、そうなの。君も?」

 男の子は宮部の右隣に立つ男性に目を向けた。

 彼らにとっての「神」に見つめられ、その男性は今にも卒倒してしまいそうな顔をしている。

「…おい、本宮」

 彼らの教祖から小声で叱責が飛ぶ。

 男性は慌てて首を縦に振った。

「あ、ああそうだ。私たちは君の友達だ」

「そこの君も?」

 今度は左隣に立つ女性に目を向ける。

「そ、そうよ」

 女性も引き攣った笑顔を浮かべながら頷く。

 他の白衣を着た面々も、次々と頷いた。

 男の子の頭に、自分の名前を与えてくれたお姉さんの言葉が浮かんだ。

 

 ―――友達はとても素敵な宝物よ。

 

 男の子は赤い瞳を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。

「わあ、やったあ!僕にはこんなにたくさんの宝物があったんだ!」

 

 なんだかよく分からないが、我らの神はとても上機嫌らしい。宮部らの顔に安どの表情が浮かぶ。

「さあ渚くん。我々の…」

「ねえ!だったらさ!」

 満面の笑みの男の子の目が煌々と光った。

 男の子を包む淡い光が、赤から青へと転じた。

 

 

「僕と一緒になろうよ!」

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

「レイ。立って。行きましょう」

 そう言って、ミサトはレイの体を支えながら立ち上がらせる。

 しかしレイの膝はすぐにかくんと折れ、地面に付いてしまった。

「おおっと。大丈夫?」

 ミサトの呼びかけにレイはゆっくりと頷く。しかしその表情はあからさまに辛そうだ。

「ミチルを…」

「え?」

「ミチルを、お願い…できますか?」

 そう言いながら、レイは抱いていたミチルをミサトに預けようとした。

「え?…いいの?」

 レイの意外な申し出に、ミサトは些か戸惑ってしまった。頭には、昨日10年ぶりに再会したレイが、ミチルに触れようとした自分を強く拒否した場面が浮かんでいた。

「はい…」

 レイの手で差し出されるミチル。

 それをミサトはとても大切な宝物を扱うように、丁寧に大事に受け取った。

「…レイちゃん…」

 知らない女性の手に預けられて、心配そうにレイを見つめるミチル。

「大丈夫よ…」

 レイは笑顔を浮かべてミチルを見つめる。

 

 そう言えば、子供を抱くなんていつ以来だろうと思いながら、ミサトはミチルを落としてしまわないよう、両腕でしっかりと抱き締めた。

「じゃ、行くわよ」

 それを合図に、皆は走り出す。

 爆撃の影響が及ばない、皆が待っている指揮所の天幕に向かって。

 

 走り出して。

 

 しかしミチルが叫んだ。

 

「え?レイちゃん!レイちゃん!」

 

 肩に抱きかかえた子供の叫び声に、ミサトは慌てて足を止めた。

 振り返れば、すぐ後ろに付いてきているはずのレイの姿がない。

 見ると、自分たちが走り始めた場所に、レイがまだ残っていた。

「レイ!何やってんのよ!そこは危険よ!早くこっちに!」

 ミチルも叫んだ。

「レイちゃん!はやくきて!」

 

 レイは静かに笑っている。

 その笑顔に、ミサトの胸が強く騒めいた。

「レイ!お願い!早く!」

「レイちゃん!レイちゃん!」

 

「葛城三佐…」

 レイの声がする。遠くに離れているのに、特に大きな声を出しているわけでもないのに、なぜかレイの声はよく通る。

「だからミサトって呼んでよ!」

 

「葛城三佐…、私…、戻ります…」

 

 ミサトの眉間に皺が寄った。

「どうして…!」

「レイちゃん!」

 ミサトとミチルの声が重なる。

 

「子供が居たんです。私によく似た子供…」

 

 レイの言う子供。それが「何」を指しているのか、ミサトはすぐに分かった。

「それはアダ…!」

 あれは人ではない。我々が庇護するべき対象ではないのだ。

 しかしミサトらの理屈は、レイには通用しなかった。

 

「あの子は私です。私と一緒なんです」

 レイの静かで、それでいて鋭い声がミサトの言葉を封じた。

 

「大人たちの勝手な都合で生み出されてしまった子です。大人たちの勝手な都合で、処分させる訳にはいきません」

「…そ、それでも…!」

 続く言葉が見つからない。

 レイの発言は決して自分を責めているものではないのだろう。だが、当時大人としての責任を放棄して子供たちを戦場へと立たせていたミサトにとっては、レイの言葉がどんなナイフよりも鋭い刃となって彼女の胸に深く突き刺さる。

 「あなた達とは同じ轍は踏まない」。レイが意図した思いではないだろうが、ミサトにはレイがそう言っているように聞こえるのだった。

 

「レイちゃん!レイちゃん!」

 肩に抱いた幼子の叫び声に、ミサトは我に返る。

「レイ!あなたの今の最大の責任は、ミチルちゃんを両親のもとに返すことなんじゃないの!」

 ずるい言い方だとは思うが、頑ななレイの態度を変えさせる唯一の説得材料はこの子しかいない。

「あなたの身にもし何かあったら、ミチルちゃんの心に癒しようのない深い傷を負わせることになるわ!あなたはシンジくんやアスカが苦しんだ傷を、この子にも味わわせるつもりなの!」

 

 やはり自分の選択は間違いではない。

 レイの顔に走る明らかな動揺を見て、ミサトはそう確信した。

 

 レイの握った右拳が震えている。

 レイは目をぎゅっと瞑り、震える右腕を左手で抱いた。

 目を開き、一度地面を睨んで、そして改めてミサトを見る。

 

「葛城三佐…」

「ミサトって呼びなさいよ!いい加減怒るわよ!」

「ミチルのことを心配する必要はありません。私は必ず戻ってきますから…」

 その瞳から動揺はすでに消え、固い決意のみが宿っていた。

 

「ミチルちゃん…」

 レイは表情を和らげ、ミサトが肩に抱いているミチルを見つめる。

「レイちゃん!」

「ごめんなさい。少し離れるから…」

「だめだよレイちゃん!いっちゃやだ!」

 悲痛な表情を浮かべるミチルとは対照的な、柔らかな笑顔のレイ。

「ミチルちゃん、私のこと…好き?」

 何の脈絡もなく投げられた問い掛けに、しわくちゃだったミチルの顔が一瞬きょとんとする。

 しかし答えは考えるまでもないので、すぐに口を開いた。

「だいすきだよ!パパとママとおなじくらいすき!」

 一切の迷いがない返事。レイは瞳を潤ませる。

「ミチルちゃん、あの子は好き?さっき、地下にいた銀色の髪をした男の子」

「きらい!だいきらい!」

 今度も即答。レイは困ったように笑う。

「どうして?」

「きらいなものはきらいなの!」

「でも、あの子は私と一緒よ。あの子は私なの」

「…レイちゃんと?」

「使徒の欠片から生まれた、大人たちの勝手な都合で作られたかわいそうな子…」

 ミチルはぶんぶんと、その小さな頭を横に懸命に振る。

「レイちゃんのゆってること、ぜんぜんわかんない!」

「でも私は幸せだった。碇司令に大切に育てられて、シンジさんに出会えて、アスカに出会えて…」

 

 ミサトは14歳だった頃のレイのことを思い出していた。

 まるで人形のように、その顔に一切の表情を浮かべることはなかった少女。

 「人の幸せ」というものから、最も遠いところに立っていた少女。

 その少女だった女性が、今は全てのものを慈しむかのように、柔らかな笑顔を浮かべている。

 

「あの子にも教えてあげたいの。あなたが生まれたこの世界はとてもステキなところだと。…ミチルちゃん、あなたが生まれた時と同じように…」

 

「レイちゃん…」

 ミチルはその幼い頭でも感じ取っていた。もはや、レイの意志は揺るがないと。

 

「ミチルちゃん」

「…レイちゃん」

 大粒の涙が溢れる目で、レイを見つめる。

「待っていて。素敵な友達を連れて帰ってくるから…」

 胸元で小さく手を振るレイ。

 ミチルは歯を食いしばりながらも、右手を上げ、紅葉のような小さな手のひらをレイに向け、軽くグーパーをした。

 レイはそんなミチルにニッコリと笑うと、ミサトに視線を向ける。

「葛城三佐…」

 ミサトもやはり歯を食いしばりながら顔を俯かせる。

 そしてゆっくりと頷いた。

 

 

 

 

 白いスーツの後ろ姿が消えていった闇の中を見つめていた。

 ミサトの背後に、若い部下が立つ。

 ミチルに聞こえても理解できないだろうから普通に話しても問題はないのだろうが、それでも部下はあえてミチルには聞かせないよう、ミサトの耳もとに口を近づけ、小さな声で囁いた。

 

 ミサトの目が見開かれ、驚愕に染まる。

 

 部下の囁きは、アンチATフィールドの発生を告げるものだった。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 一度通って来た道だし下り坂だ。

 ミチルも信頼できる元上官に預けて身も軽くなり、地下深いあの大きな空間に戻るのに、それほど多くの時間は要さなかった。

 

 暗い暗い穴の向こうに、淡い光が見えてきた。前方から漂ってくる冷気が肌を撫で、目的地が近いことを知らせてくる。

 その光の方から男の悲鳴が聴こえ、レイは身構えた。

 更に悲鳴。今度は女性。いずれも大人の声。

 その中に混じって、すすり泣く声。

 レイはゆっくりと歩みを進める。

 

 

 光の縁に立つ。

 あの空間。地下にしてはとても広い、鋼鉄の板で囲まれた部屋。

 部屋の中に足を踏み入れた。

 

 

 めちゃくちゃに破壊された室内。へこんだ壁、へこんだ天井。千切れた極太のチューブ。火花を上げる機械類。

 床に、壁に、天井に張り付けにされて、こと切れている警備兵たち。

 そして、鉄製の床のそこかしこに散らばるもの。

 

 それは白衣。

 床に打ち捨てられたかのように白衣が落ちている。

 白衣の周りには液体が広がっていた。

 

 すすり泣きは部屋の中央にある巨大なカプセルの向こう側から聴こえてくる。

 チューブを跨ぎながらすすり泣きのする方へと近づいていく。

 

 カプセルの向こう側。

 そこに立つ、一糸纏わぬ姿の男の子。

 身に纏うのは青白い光。カプセルから出てきた当初は赤みを帯びた淡い光だったそれは、今は薄暗かった室内を太陽の下と見紛うほどに明るく照らしている。

 

 男の子は両手で目を覆いながら泣いていた。

 男の子の足もとにもやはり白衣。白衣の周囲には半透明の黄色い液体が広がり、男の子の白い小さな足を汚している。

 白衣の襟元にはメガネが転がっている。

 それは、男の子の生みの親だった科学者が掛けていたもの。

 

「君…」

 レイの呼びかけに、男の子ははっとして声のする方へと目を向ける。

 

 レイは僅かに息を呑む。

 男の子の顔の左半分が崩れていた。唇がまるで溶けたゴムのようにだらんと垂れ下がり、眼窩からはまるで半熟卵のように眼球がだらんと垂れ下がっている。

 しかしレイが息を呑んだのは、男の子の崩れた顔を見たからではない。

 大粒の涙を零す男の子。

 からからと笑い、ぶーと不機嫌になる表情豊かな男の子。

 そんな男の子が、瞳から大粒の涙を流し、悲嘆に暮れている。

 ミチルと共に過ごすようになってからというもの、たとえそれが赤の他人であったとしても子供が悲しむ顔を見るだけで心臓が鷲掴みにされたような痛みに襲われるレイだった。

 

 涙に濡れた視界の向こうに立つ女性が自分に名前をくれたお姉さんだと気付き、男の子は縋るような眼差しでレイを見つめた。

「お姉ちゃ……」

「ひっ…!ひいぃ…!」

 レイの居る方へと手を伸ばそうとして、しかし今度は背後から誰かの声がし、男の子は声がした方へと目を向けた。

 白衣を着た中年男性が極太のチューブに隠れながら、正面の鉄扉へと這って向かっている。

「君!」

 男の子はその中年男性に向かって叫ぶ。

 男の子に呼び止められ、中年男性は青ざめた顔を男の子に向けた。

「待って、君!君は僕と友達になってくれるんだろ!」

「やめろおお!来るな!来るなぁ!」

 男の子が駆け寄ってきた途端、中年男性は恐怖に歪んだ顔で大声を出した。

「こんなはずじゃ!我々は究極の生命体に生まれ変わるはずでは!こんなはずじゃないんだ!」

「待って!待ってよ!僕を一人にしないでよ!」

 鉄扉に向かって這う中年男性。その背中を追いかける男の子。

 中年男性の背中に向けて伸ばされた男の子の手のひらの前に、青白い八角形の光が輝き出す。

「うわああ!!」

 

 鉄扉の前で眩い閃光が瞬き、カプセルの側に立つレイは少し目を細める。

 やがて閃光は消え、室内は少しだけ暗くなった。

 

 鉄扉の方向から、男の子のすすり泣く声。

 レイは声のする方へと歩いていく。

 

 鉄扉の前に立つ男の子。

 男の子の足もとには白衣。半透明の黄色い液体。

「…どうして、…どうしてみんな、消えちゃうんだ…。…僕はただ、…みんなと友達に…なりたかっただけ…なのに…。みんなと……、1つに…なりたかっただけなのに……」

 

 レイの足音が聴こえたのか。

 男の子は、やはり大粒の涙を零した顔を振り向かせる。顔の左半分だけでなく、左半身全体が火で炙られた蝋人形のように崩れている。

 男の子はレイのもとへと駆け寄ってくる。左足が床を蹴るたびに床には光る足跡が残り、男の左足がどんどん短くなっていく。男の子は構わず、それとも気付いていないのか、無くなっていく左足で懸命に床を蹴って、レイにもとへ駆け寄っていく。

 駆け寄ろうとして。

 しかしレイが立つ場所の数歩前で男の子は何かに気付いたようにはっとし、そして立ち止まる。

 

「君も…、僕が近づいたら…、消えちゃうの…?」

 

 眼窩からだらんと垂れ下がった眼球がレイを見つめた。

 レイはゆっくりと頭を横に振り、そして柔らかく笑った。

 

「大丈夫よ…。私は消えたりしないわ…」

 男の子に近づこうとし、一歩前に出る。

 

「ダメだよ。君は僕に名前をくれた大切な人なんだ。君まで消えてほしくない…!」 

 男の子はまるでレイの歩調に合わせるように、一歩後ずさる。後ずさろうとして、後ろに出した左足の膝から下はすでに無く、男の子は足場を踏み外したようにバランスを崩し尻餅をついてしまった。倒れた瞬間に、今度は右足の膝から下がすっぽりと溶け落ちた。

 

 レイは転んでしまった我が子を介抱する母親のように、小走りで男の子のもとまで駆け寄り、男の子の側で膝を折った。

 

 男の子に手を伸ばす。

 男の子に向けられた手の先がじりじりと。それはまるで炎に炙られたような感覚。

 男の子との間の空間に、八角形の青白い光の輪が浮かび上がる。

 指の先が、溶け始めた。

 

「ダメだ!僕に近づいちゃ!君が消えてしまう!」

 

「大丈夫よ…」

 すでに手は無くなり、手首までもが溶け始める。

「君まで消えちゃやだ!離れて!」

「大丈夫…、私はあなたと一緒よ…」

 

 

 

 私はあなた。

 

 あなたは私。

 

 人であって、人でないもの。

 

 使徒であって、使徒でないもの。

 

 人の手によって作られた入れもの。

 

 人の形をした、人の形に似せられた、魂の器。

 

 

 

 男の子の目が見開く。

 溶けたはずの、お姉さんの手が再生され始めたのだ。

 新しく生まれた手は、男の子が纏う青白い光に反するような、赤い、まるで血のような色の光を纏っている。

 その手の指の先から、赤い、八角形の光の輪が広がり始める。

 その赤い光の輪に反応するかのように、半分が溶けた男の子の体全体から、強烈な青白い光の輪が広がり始めた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 画面上に映し出されるのは踊り狂うような波形データだった。 

「今までにない強力なアンチATフィールドです!このままでは臨界点を突破します!」

 オペレーターの悲鳴のような報告を受け、部隊長は現場指揮権を持つ青年捜査官に迫った。

「マキュアン!もう一刻の猶予もない!決断するべきだ!」

 青年の同僚も血相を変えて彼に詰め寄った。

「臨界点を超えたらもう後戻りはできない!また世界の全ての生命が溶けてしまうんだ!しかも今度は誰も「帰還」できない、文字通りの絶滅だ!」

 同僚はUAVの基地に繋がっている通信機のヘッドセットを差し出す。

「今すぐ命令を。世界を救うんだ…、マキュアン…!」

 皆に囲まれる青年。両拳を握り締め、地面を睨んでいる。

「何を躊躇している…!マキュアン!」

 部隊長の暑苦しい顔がすぐ側に迫った。青年は目を瞑る。

 

 青年の瞼の裏に浮かぶのは、あの女性。

 白いスーツを身に纏った、空色髪の女性。

 10年前に、玄関で母親に渡されたランチボックスを鞄に詰めながら、スクールバスが停まるバス停まで駆けていた時に、突然目の前に現れた当時は少女だった空色髪の女性。

 自分の家族やガールフレンドやクラスメイトたちを奪い去っていった女性。

 自分にとっては、悪魔の使いのような女性。

 

 自分がこのヘッドセットを受け取り、通信相手にただ一言の指示を出すだけで、この世界は救われる。

 一人の女性の命と引き換えに。

 それは天秤に掛ければ、瞬時に片方に傾いてしまう。

 比較対象にすらならない。

 自分には、何の躊躇う理由もない。

 

 数時間前に、自分は上官に同じ選択を迫った。

 彼女が自分の進言を拒否した時、自分は上官」の思考回路がまるで理解できなかった。

 なぜ世界を救える好機をみすみす逃したのか。

 色々と不満はあるが、尊敬できる上官だった。

 しかしあの時は、その上官が世界で一番愚かな女に見えた。

 

 そして今、その選択権は自分の手の内にある。

 数時間前に自分が提案したことを、誰に邪魔されることなく自らの手で実行するだけだ。

 自分には、何の躊躇う理由もない。

 

 なのに。

 なぜ。

 どうして自分は、このヘッドセットを受け取れない。

 なぜ、あの時のあの女性の顔が浮かんでしまうのだ。

 なぜ、救い出した子供を上官に預け、そして暗闇へと消えていった、あの女性の顔が瞼の裏にちらついてしまうのだ。

 むしろ自分にはあの女性に対して復讐する権利さえあるはずなのに。まるで人形のような感情というものを感じさせない顔で、自分から当時の自分の全てを奪っていったあの女性に。

 

 なのに今浮かぶのはあの時の女性の顔。

 

 人間味に溢れた顔。

 

 柔らかな笑顔。

 

 見なきゃよかった、あんな顔。

 

 

「マキュアン!」

 同僚はついに、青年の手に強引にヘッドセットを握らせた。

「マキュアン!指示を!」

 部隊長の怒鳴り声。

「臨界点突破します!」

 オペレーターの悲鳴。

 

 手のひらのヘッドセットを見つめる。

 目をギュッと瞑る。

 ヘッドセットを見つめる。

 ギュッと瞑る。

 

 その繰り返し。

 

 

 ツカツカと、誰かが歩み寄ってくる足音。

 気が付けば、手にあったヘッドセットが無くなっている。

 自分の隣では、自分の手から奪ったヘッドセットを耳に掛ける彼女。

 彼女は言った。

 

「こちら現場指揮所。爆弾投下。爆弾投下せよ」

 

 ミサトは吐き捨てるようにそう言うと、ヘッドセットを取り、地面に投げ捨てる。

 

「主任…」

 掠れた声で上官の背中に声を掛ける。

 ミサトはゆっくりと若い部下の方へと振り向いた。

「…これは私たち大人の仕事よ。マキュアンちゃん…」

 掠れた声でそう呟くミサトの右頬に、一筋の涙が伝った。

 

 ミサトに抱かれるミチルは、自分を抱く大人が今何をしたのか理解していない。

「レイちゃん…」

 必ず帰ってくると約束して暗闇に消えていった家族の名前を呟いた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 男の子が放つ強烈な青白い光の波をかき分けるように、赤い光を纏う手がゆっくりと進んでいく。

 

「感じる…?」

 レイの柔らかい声での問い掛けに、男の子はおずおずと頷く。

「うん…、温かい」

 

 レイの赤く光る手のひらが、男の子の顔に触れ、可愛らしい曲線を描く頬をゆっくりと撫でた。

 たちまち触れたところに幾つもの燐光が舞い、触れたレイの手が溶け始める。レイは意識を集中させ、自分の手の形を強く心に思い浮かべる。すると赤く光っていたレイの手がさらに強い光を帯び、溶けた手が徐々に元の形へと再生されていく。

 

「誰かに触れるのは、これが初めて?」

「うん。だって、僕が触ろうとしたらみんな溶けちゃったり、破れちゃったりするんだもん」

 拗ねたように頬を膨らませる男の子。

 そんな男の子を、レイは穏やかに微笑みながら見つめ、そしてもう片方の手も男の子の顔に近づけた。男の子が無意識に張り巡らせる最終結界に触れたレイの手は、融解と再生を繰り返しながらも時間をかけて男の顔に辿り着き、両手で男の子の頬を包み込んだ。

 

「これが、「人」よ…。自分ではない、誰か…」

 男の子はレイの手のひらの感触を確かめるかのように目を閉じた。

「うん…、温かい…」

「気持ちいい?」

「うん…、気持ちいい…」

 男の子の頬に、再び涙が伝い始める。

「今あなたが感じているもの。それがきっと…、愛よ」

「アイ?」

「そう。自分と、自分ではない誰かがあって、初めて生まれるもの」

 

 レイは男の子に顔を近づける。

 最終結界に触れたレイの顔は、幾つもの燐光を迸らせながら溶けていく。

「お姉ちゃん、面白い顔―」

 溶けたレイの顔を見て笑う男の子。

 赤い光を増すレイの顔は少しずつ再生されていき、

 

 コツン

 

 額を男の子の額に優しく当てた時には、レイの顔は元通りに戻っていた。額と額がくっ付き合った場所は途切れることなく燐光を舞い散らせ、額同士は融合と分裂を繰り返している。

 

「人の顔見て笑っちゃだめよ…」

 幼子を優しく窘める母親のような声で言うレイ。

「だって面白かったんだもん」

 そう言いながら、歯を見せて笑う男の子。

 その歯が、1本1本ずるりと抜け落ちていく。

「…僕、このまま消えちゃうんだね…」

 床に落ちた歯を見つめながら男の子は寂しそうに言う。

「こんな気持ちいいものなら、もっと早く、その「アイ」ってやつを知りたかったな」

 レイは男の子の両頬を包み込んでいた手を少しずつ肩の方へ、背中の方へと回していき、そっと小さな体を抱きしめた。

「大丈夫。あなたは消えたりしない。イメージするのよ」

「イメージ?」

「自分のカタチ、人のカタチ、誰かのカタチ…」

「カタチ?」

「そう。あなたは私。私はあなた。でもあなたはあなた。私は私。似ているようで、全く違うもの」

「僕たちは一緒じゃないの?」

 レイの言葉を聴いて、途端に悲しそうな顔をする男の子。

 レイはゆっくりと首を横に振る。

「悲しむ必要はないわ。私たちは、他者の存在を感じて、初めて愛というものを知ることができるのだから…」

「よく分かんないや」

 あっけらかんと言う男の子に、レイはくすりと笑う。

「簡単なことよ。あなたが今感じている愛。それを頭に思い浮かべるだけ。誰かに触れ、触れられることで感じる愛の温もり。その温もりこそが人のカタチよ」

 レイの体全体が淡い赤い光に包まれる。

「分かる?」

 男の子は、うん、と頷く。

「これが私よ。私のカタチ」

 レイは抱き締めていた男の子を少し離し、男の子を顔を見る。

「あなたなら分かるはずだわ。人のカタチを形作るもの」

 レイに問われ、男の子は、うん、と頷く。レイはニッコリと笑う。

「今度はあなたの番よ。あなたのカタチを、私に教えて」

 レイに言われ、男の子は目を閉じた。

「イメージするの」

「分かったよ…」

 男の子が放つ強烈な青白い光が少しずつ和らいでいき、やがてその光は徐々に赤みを差していく。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

「こ、これは…!」

 再びオペレーターが声を上げる。

 

 すでに未来は決した。

 あとは人類生存のために天から遣わされる鉄と火薬の塊が落ちてくるのを待つだけ。

 今更何があったとしても、これから目の前で起こることは変わらない。

 だから誰もオペレーターの上げた声に興味を持てなかった。

 静まり返っている指揮所内。

 ミチルを抱いたミサトは、気だるげな動作でオペレーターに目を向けた。

「なに?」

 ミサトに問われ、オペレーターは少し躊躇いを見せた後に、途切れ途切れの声で報告した。

「アンチATフィールド…、消失しました…」

 その場にいる全員の視線が、オペレーターに集中する。

「何かの間違いではないのか…!計測ミスでは!」

 迫力のある部隊長の怒鳴り声に、オペレータは怯えながら反論する。

「何度も確認しました。センサーは正常に作動」

 もう一度モニターを確認し、改めて確信する。

 皆を見た。

 

「アンチATフィールドは消滅しています」

 

 

「レイ…」

 ミサトはかつての部下が消えていった闇の方を見つめた。

 

 ミサトの耳に、空から高速で飛来する物体の巨大な風切り音が聴こえた。

 

 ミサトは抱いたミチルの目を塞いだ。

 

「レイ!!」

 

 

 闇の中に聳えた小山

 小山と言っても、小さな人間に比べれば遥かに巨大な岩石と土の塊。

 その小山が、一瞬盛り上がった。

 ミサトらのいるところまで伝わる地響きのような衝撃。

 小山が少しだけ形を変えて数秒後。

 小山全体が大量の土砂を巻き上げながら吹き飛ぶ。

 土砂に紛れて所々に巨大な閃光。

 地鳴りのような爆発音。

 遅れて強烈な爆風が指揮所の天幕を襲い、全員が立っていられずその場に蹲る。

 

 目の前に立ち昇る巨大な土煙。

 熱風に煽られ、周囲の木々に火が回る。

 上空に巻き上げられた大量の土砂が重力に引かれ地上に降り注ぎ、土埃が舞い上がって小山があった周辺を黒い霧に包んだ。

 

 ミサトはミチルが土埃を吸ってしまわないようジャケットの袖でミチルの口や鼻を覆いながら、小山があった方に向けて目を凝らす。

 

 徐々に晴れていく黒い霧。

 

 

 そこに現れたのは、巨大な穴。

 小山は綺麗に無くなり、大地にはぽっかりと空いた巨大な穴があった。

 その穴は今ももうもうと土煙を立ち昇らせている。

 

 

「…レイ」

 土煙を見つめながら、ミサトは呟く。

 あの巨大な爆発の下にいた女性の名を。

 

 

 抱いていた小さな女の子が身じろぎする。

 ミサトは女の子の顔を塞いでいたジャケットの袖を離す。

 女の子は少しだけ咳き込みながら、閉じていた目をゆっくりと開いた。

 

 ミチルの目に飛び込んできたのは、彼女が最後に見た光景とは全く違うものだった。

 そこにあったはずの朽ち果てた建物や、炎を上げるエレベーターシャフト、そして闇夜に聳える小さな山。

 それらが全て根こそぎ無くなり、あるのはぽっかりと空いた大きな穴ともうもうと立ち昇る土煙だけ。

 

 ミチルはミサトの顔を見上げた。

「ねえ、レイちゃんは…」

 ミサトは一瞬ミチルと目を合わせるが、すぐにその視線を逸らしてしまう。そのまま俯いてしまった。

「ねえレイちゃんは!」

 自分の問い掛けに答えてくれないミサト。ミチルは抗議するかのように声を張り上げ、同じ質問を繰り返す。

 ミサトは何も言わないまま、ミチルの顔を自分の胸で覆うように抱き直した。

 ミチルはミサトの腕の中で暴れる。

「やだあああああ!」

 そして自分の非力な膂力ではミサトの腕から逃れられないとみるや、大声をあげて泣き始めた。

 

 ミサトはミチルを抱き締めながら、巨大な穴に背を向けた。

「ミチルちゃん、帰ろうね…。パパとママが居るところに…」

「やだあ!レイちゃんもいっしょ!」

 ミサトは一度唇を噛みしめる。

「…レイは…、もう…」

「レイちゃんゆったもん!かえってくるってゆったもん!」

 ミチルの言葉がミサトの胸を抉る。ミチルが言う彼女の約束。それを果たせなくさせたのは、自分なのだから。

「ごめんなさい…、…ミチルちゃん…。…ごめんなさい…」

 

 

 ずっとずっと、何度も何度も泣き叫んで、ついに疲れてしまったのか。もっとも普段なら、両親に挟まれてベッドの中で両親に挟まれながら眠っている時間帯である。ミチルの腹の底から響いていた慟哭は少しずつ大人しくなり、そして今はミサトの胸に顔を埋めながらシクシクと泣いている。

 ミサトは一刻も早くこの場から離れ、この子を両親のもとに送り届けよう。彼女が抱いた最後の願いを叶えようと、ミチルを抱いたまま停車されている車へ向かおうとした。

 

 

 ミサトの前に、彼女の若い部下が立っていた。

 若い部下は、呆然とした表情で巨大な穴の方を眺めている。

 現場指揮権を持つ彼に、この子を連れ出す許可を得ておこうと、彼に声を掛けた。

「マキュアン…」

 ミサトの呼びかけに、しかし若い部下は返事をしない。

 呆然とした部下の顔。

 その顔が、徐々に険しくなり始める。

 部下の右手が、腰のホルスターの拳銃に伸びた。

 

 ミサトは若い部下から視線を逸らした。

 その視線の先に立つ、即応部隊の部隊長。

 母国の軍隊の特殊部隊に所属した経験もある歴戦の兵士である彼の顔も険しい。

 手に握った自動小銃を、穴の方に向けて構えている。

 

 2人だけではなかった。

 ほかの部下も、兵士たちも、ある者はやはり険しい顔で、ある者は怯えたような顔で、皆が同じように穴の方を見つめている。

 

 ミサトは振り返った。

 振り返って、そして目に飛び込んできた眩い光に思わず目を細めた。

 

 

 まるで昼間の太陽のように煌々と光る球体。

 光球が、巨大な穴の上にふわふわと浮いている。

 

 

 光球はゆっくりと穴の上を移動しており、ミサトらの方へと近づいてくる。

 ミサトを除く全員が後退った。

 

 ミサトはミチルを左腕のみで抱え直すと、空いた右手で自身の目に日陰を作り、光の球を凝視した。

 

 光の球のようにみえたそれは、実際は幾重にも折り重なってできた八角形の赤い光の輪の集まりだった。

 その光の輪の集まりの中央。

 とりわけ強烈な光を放つ光球の中心。

 

 誰かが居る。

 眩い光の輪に阻まれ、人物の顔はよく見えないが、ミサトはその者の正体が直感で分かった。

 

「…レイ…」

 

 巨大な穴の上から移動した眩い光の球は、やがてゆっくりと地上へと降りていく。

 光の輪の隙間から、白いスーツを纏うすらりと伸びた足が見えた。その足が、柔らかな着地でゆっくりと地上に降り立つ。

 

「主任…」

 後ろで若い部下が呻くように言った。

「視認できるほどの強力なATフィールドです…」

「分かってる…」

 ミサトにとっては10年前に散々その目で見てきた光の輪。10年ぶりに目にする絶対不可侵の壁。

 

 少しだけ光が弱まり、光球の中央に立つ人物のシルエットが見えた。

 そこに居たのは一人ではなかった。

 光の輪の中央に立つ女性。その女性の腕に、誰かが抱かれている

 それは小さな男の子。

 

 モニターを睨むオペレーターは思わず生唾を飲み込む。

「パターン照合確認…、アダムです…」

「アダム…、あれが…」

 ミサトは目を細めた。

「ではこのATフィールドは…アダムが…」

「いいえ」

 オペレーターは頭を横に振る。

「アダムからもATフィールドを検出していますが、極微細で安定しています。このATフィールドは…」

「…彼女から…」

 オペレーターの言葉をミサトが引き継いだ。

 オペレーターは更に続ける。

「…分析結果、出ました。……パターン青…です」

 深刻そうなオペレーターの報告に対し、ミサトは心の中で思わず笑ってしまった。それは10年振りに耳にする響きだったから。

 

「「あれ」は危険だ…。ミス.カツラギ…」

 百戦錬磨の部隊長が顎を震わせながら言う。

「分かってる…」

 ミサトは落ち着いた声で答えた。

「でも…、だからと言ってそのおもちゃでどうしようっていうの?」

 ミサトは部隊長が構える自動小銃に目を向ける。

「それとも、また爆弾を落とす?それすらも通用しないと思うけど」

 このチームで唯一人類の天敵と交戦経験のあるミサトは、確信をもって言った。

「ならばどうすると言うのだ」

 部隊長の苛立ちのこもった問い掛けに、ミサトは笑みを零す。

「私たちはネルフじゃないのよ。任務はフォースインパクトの阻止であって、使徒殲滅じゃないわ」

 そう言いながら、ミサトは光球に向かって一歩前に進み出る。

「主任、危険です!」

 背後から若い部下の心配そうな声が飛ぶ。

「そうね。もうちょっとこの光を弱めてくれないかしら。これじゃ顔も見れないじゃない、レイ」

 ミサトは呼び掛けるが、光球の中からは何の返事もない。光の壁に阻まれて、ミサトの声が中まで届いていないのかも知れない。

 

 

 ミサトは目の前の光の球に意識が向いていて、油断してしまっていた。

 腕の中で身じろぎ。

 気付いた時には、女の子がミサトの腕から逃れ、地面に降り立っていた。

 そのまま、光の中心へと向かって駆け出す。咄嗟に女の子の腕を掴もうとしたが、女の子の腕はするりとミサトの手を逃れ、あっという間に遠くへと行ってしまった。

「ミチルちゃん!待って!」

「危ない!」

「止まれ!」

 ミサトやその部下たちが口々に小さな背中に向かって叫ぶが、一度走り出した女の子の足は止まらなかった。

 止まるはずがなかった。

 

 

 ミチルが懸命に両腕を振る。

 ミチルが懸命に足で地面を蹴る。

 ミチルの小さな体が、光の中へと吸い込まれていく。

 ミチルの前方を塞ぐ、赤い八角形の輪。八角形の輪が幾重にも折り重なった光の壁。

 ミチルの目にもそれは見えている。

 それでもミチルの足は止まらない。

 光の壁に、勢いよく突っ込んでいった。

 

 それはまるでガラスが砕けたような音だった。

 パリン、と派手な音と共に、砕けた光の壁。

 ミチルは何事もなかったように走り続ける。

 続けて現れる光の壁。

 今度もミチルは何の躊躇もなく突っ込む。

 ミチルが触れたと同時に。

 ガラスの砕ける音。

 やはり光の壁は砕け散る。

 絶対不可侵の壁。いかなる物も通さないはずの壁。

 それを3歳の女の子はいとも簡単に通り抜け、砕いていく。

 まるでドミノ倒しのように次々と光の壁を打ち破っていく女の子。

 12枚目の壁。

 とりわけ強く光り輝く、八角形の輪が何重にも重なる光の壁。

 それすらもあっさりと砕いて、そしてその光の壁の向こうに。

 

「ママ!」

 

 ここまで懸命に駆けてきたミチルは、壁の向こうで待っていたレイに向かって、その小さな両手を精一杯伸ばした。

 

「ミチル…!」

 

 張り巡らせた光の壁を全て打ち砕いて駈け込んできたミチルに、レイは男の子を右腕のみで抱え、空いた左腕を大きく広げる。

 ミチルは広げられたレイの腕に飛び込んだ。

 小さな体を胸でしっかりと受け止めたレイは、そのまま左腕をミチルのお尻へと回し、抱きかかえる。

 

「おかえりなさい…、ママ…」

「ただいま、ミチル…」

 

 ミチルの頬に幾筋もの涙が伝う。

 レイの右頬にも、すっと一筋の涙が伝う。

 レイとミチルは、お互いに涙に濡れた頬をくっつけ合いながら、お互いの温もりを確かめ合うのだった。

 

 

 レイの右腕に抱えられた男の子は、2人の顔を不思議そうに交互に見る。

「ママ?彼女は君のママなのかい?」

 男の子の問い掛けに、ミチルは甘えるようにレイの頬に自分の頬をすりすりさせながら男の子を見た。

「ちがうよ。でもママだよ」

 何とも矛盾しているミチルの言葉。しかし男の子は、

「へー、そうなんだー。いいなー」

 妙に納得したように頷き、そしてレイの頬にすりすりしているミチルを羨ましそうに見つめた。

 

 レイはそんな2人を微笑ましく見ながら、そっとミチルの顔から離れた。

「ねえ、ミチル」

「なに?」

「あなたに紹介するわ。彼は渚カヲル。あなたのお友達になってくれる子よ」

 紹介され、男の子はミチルに満面の笑みを送る。

「やあ、僕はカヲルだよ。よろしく」

「ええええええ」

 ここにきて人見知りの本領を発揮するミチルである。ぐっと顔を寄せてくる男の子に、思わず距離を取ろうと背を仰け反らせている。

 

 そんな様子のミチルを困ったように微笑みながら見るレイは、今度は右腕に抱いた男の子を見た。

「カヲル」

「なんだい?」

 ミチルの態度にちょっと不愉快そうな表情だった男の子だったが、他の誰よりも自分の名前を呼ばれたい相手にその名を呼ばれ、すぐに上機嫌になる男の子。

「この子はミチルよ。碇ミチル。お友達になってくれるわよね?」

 ミチルの名前を聴いて、男の子は吹き出している。

「へー、イカリミチルだって。おっかない名前ー」

 途端にミチルは頬を膨らませた。

「おっかなくないもん!パパがつけてくれたなまえだもん!」

「へー、パパがつけてくれたんだ。僕は彼女に貰ったんだよ。えーと、あ…」

 今更のような顔をして、男の子はレイの顔を見た。

「君の名前、なんだっけ?」

「レイよ。碇レイ…」

「イカリ…。じゃあ、やっぱり君はこの子のママなの?」

 ややこしいことになってきて、レイは苦笑する。

「いいえ。この子のママは、アスカよ」

「ふーん。じゃあパパは?」

 そう男の子に問われ、レイは少しだけ迷ったような表情を浮かべた。

 

 この子は生まれたばかりで、自分や兄が知るあのフィフスチルドレンではないことは分かっている。でも自分自身、本来別人格だったはずの「2人目」と「3人目」は、「4人目」が生まれてから10年も経って、カノジョらの記憶と共にすっかり統合されてしまっているような感覚を持っている。

 この子がどのような経緯で生まれたか、レイは知らない。自分のように魂や記憶の継承が行われているのかも分からない。ただ見た目だけを受け継いでいるだけなのかもしれない。でも、もしこの子の中で自分と同じような事が起きていたら。

 ミチルの父親の名前を伝えて、この子の中に制御不能な感情の変化が起きてしまわないだろうか。

 

「イカリシンジだよ。ミチルのパパはイカリシンジ」

 そんなレイの迷いを他所に、ミチルは大好きなパパの名前を自慢げに答えていた。

 

「いかりしんじ…、いかりしんじ…」

 その名前を、繰り返し呟く男の子。

 

 ぱあ、と男の子の顔に笑みが広がる。

「何だか知らないけど、君とはとっても仲良くなれそうな気がするよ!」

「ええええええ」

 赤い瞳を爛々と輝かせながら再び顔を近づけてくる男の子に、ミチルは再び人見知りの本領を発揮して大きく背を仰け反らせる。

 そんなミチルに、レイは諭すように言った。

「ほら、ミチル」

「えーーー」

 ぐずついてしまうミチル。

「この子は、ミチルと仲良くなりたいそうよ」

「うん!トモダチになろうよ!」

「うーーーーー」

 暫く低く唸っていて、そしてミチルはようやく諦めたように顔を上げた。

 そんなミチルを、レイはニッコリと見つめながら語り掛ける。

「仲良くなりたい時はどうしたらいい?」

 

「キスをする」

 

 そのミチルの言葉に、途端に表情を引き攣らせるレイである。

「そ、そそ、それはちょっと早いんじゃないかな…」

 おそらく、生まれて初めての"どもり"を経験したレイである。

「えー、だって、パパとママはけんかしてなかなおりするときは、いっつもちゅーしてるよ」

「へー、チューしてるんだ」

 男の子は得意げに言うミチルの顔を興味深そうに覗き込む。

「うん。そいでそいで、よるになったらはだかでプロレスごっこしてるの」

「へー、プロレスごっこしてるんだ」

「やめて。そんな生々しい話し、聴きたくない」

 仲良く話す2人の幼子の頭上から、彼女にしては珍しい不愉快そうな声が降ってきた。

「なまなましいはなしってなに?」

「そりゃ君。男と女が裸になって肌を寄せ合ってすること、つまりはセ…、痛っ!」

 ゴツンと、男の子の額にヘッドバッドを食らわせたレイ。

「あなた、どうしてそんなこと知ってるの」

「えー?だって彼らにとっては、繁殖していくうえでの必要最低限の知識なんじゃないの?」

「ミチルにはまだ早い」

「どーして。いいじゃん、教えてあげようよ」

「私の言うことが聞けないの?」

「ちぇ…、分かったよ…」

 レイに凄まれ、拗ねたように肩を竦ませる男の子。

 しかしすぐに気を取り直し、悪戯っぽい笑みを浮かべてその顔をミチルに近づける。

「じゃあさ、じゃあさ、こうしようよ」

 いつの間に仲良くなったのか、ミチルも男の子に耳を寄せる。

 ごにょごにょと、何事かをミチルに耳打ちした。

 男の子の提案を聞いて、今度はミチルの顔にぱあ、と笑みが宿る。そして、

「うん、それいい!」

 

 ミチルに何事かを耳打ちする男の子。

 それに対して元気いっぱいに答えるミチル。

 急に意気投合した2人をきょとんと不思議そうな顔で交互に見つめるレイだった。

 

 

「あらまあ、両手に花じゃない。レイ」

 

 傍から見れば何とも微笑ましい会話をしている3人を、邪魔しないように少し遠巻きに見ていたミサトは、会話が途切れたのを見計らってレイのもとへと歩み寄った。

 近寄ってみて、レイの顔を見て思わず吹き出してしまった。

 

 レイが両腕に抱えた子供たち。

 一人は左腕に抱えた栗色の髪の女の子。その女の子が、ピンク色の小さな可愛らしい唇をうー、と突き出して、レイの左ほっぺにくっつけている。

 もう一人は右腕に抱えた銀色の髪の男の子。色素の薄い、やや大きめの口をやはりうー、と突き出して、レイの右ほっぺにくっつけている。

 

 突然のことに目を白黒させていたレイ。

 暫くして、その目と眉の両端がだらんと垂れ下がった。

 

 そんな見たこともないレイの表情に、ミサトは笑いを禁じ得ない。

「なんて顔してんのよ、レイ」

 ミサトに言われ、レイは少々呂律の回っていない声で答えた。

 

「わたし…、もう死んでもいいです…」

 

 

 

 

 後に還暦を迎えた葛城ミサトは彼女の家族や友人たちに囲まれた祝いの場でこう言っている。

 これまでの半生を振り返って最も後悔している3つのこと。

 1つ。父親とよく話をしなかったこと。

 1つ。学生時代の恋人と悲しい別れ方をしたこと。

 1つ。両頬を天使たちにキスされ、何とも締まりのないデレデレ顔の綾波レイの顔を写真に撮っておかなかったこと。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 さすがに疲れた。

 レイは車の後部座席に座っていた。碇邸に送ってもらうために、ミサトが用意してくれたものだ。すぐ隣には、すやすやと寝息を立てているミチル。ミサトからもらった毛布を2人で仲良く纏い、シートに腰かけていたのだが、ミチルはレイの腕に抱き着いたまますぐに眠りに落ち、レイもだらしなくシートに寝そべっている。

 

 安心しきった顔で眠っているミチルの寝顔を見つめていたレイは、ふと、車窓の外へ視線を向けた。幾つかの車両が停まっている中で、照明器具が立てられたひと際明るい場所。

 そこに、防護服を着たものものしい装いの数人が、何かを囲みこみ手に持ったセンサーを翳している。

 彼らが囲みこんでいるのは、あの男の子。

 ミサトから借りたジャケットを肩に掛け、椅子に座りながら、科学者たちの検査を受けている。

 レイの視線に気付いたのか、男の子は振り返り、にっこりとした笑顔を向けて小さく手を振ってきた。

 レイも微笑み、小さく手を振り返す。

 科学者に声を掛けられ、男の子は正面を向いた。あー、と口を開ける。防護服を着た一人が男の子の口に舌圧子を突っ込み、舌や喉の様子を確認する。

 

 男の子の検査はまだまだ続きそうだ。レイはシートに頭を預け、瞼を半分閉じ、車の天井をぼーっと見上げた。

 することがないと、すぐに眠気が襲ってくる。

 少しずつ、瞼が落ちていった。

 

 

 どこからか話し声がする。この車の近くで、誰かが立ち話をしているらしい。

 男の声。

「あれが世界を滅ぼす力を持つアダムか…」

 女の声。

「まさかあんな小さな子供だったなんてね…」

「今は大丈夫なのか?」

「ええ。アンチATは消失、ATは極微小量のみ検出されているらしいけれど、安定しているらしいわ」

「でも気の毒だな」

「ええ、そうね。あんなに可愛いのに…」

「アンチATフィールドを一度でも発生させた以上、人類にとっては悪魔のような存在だ」

「ええ。良くて永久凍結…」

「サイアク処分されてもおかしくないだろうな…」

 

 

 半分閉じかけていた瞼を開き、車の天井を見つめていた。

 息もせずに。

 

 天井を見つめる赤い瞳を少しずつ動かす。

 自分の腕に抱き着きながら眠っている幼子の顔を見つめる。

 そのふっくらとした可愛い頬を、人差し指でそっと撫でた。

 

 

 ふいに、後部座席から声を掛けられた。

「何だね?」

 運転席に座る男はそのか細い声を聴き取ることができず、聴き返した。

 後部座席に座る女性は少し身を乗り出し、再度声を掛ける。

「書くもの…、ありますか?」

 男は背広の内ポケットからメモ帳を3枚ほど千切り、ボールペンと一緒に女性に渡してやった。

 

 

 

 誰かにほっぺを撫でられたような気がした。

 続いて、ほっぺを何か柔らかいもので、例えるなら人の唇のようなもので触れられたような感触がした。

 抱き着いていたはずの腕の感触が消えてしまった。

 どうしたんだろう。

 少し不安になるが、でも今はとっても眠いから、確認するのもおっくうで、だからそのまま眠り続けることにした。

 

 だって、あの人はもう帰ってきてくれたのだから。

 

 きっと、もうどこにも行かないはずだから。

 

 ずっとずっと、一緒のはずだから。

 

 

 

 

 現場の事後処理は全て部下たちに押し付けるつもりだった。

 今はとにかく、一刻も早く、彼女とあの子を、家族のもとに返してやりたいから。

 それでも部下たちは自分の身をさっさと解放してくれない。いい加減、私の指示なんかなくても動けるようになってほしい。っと言うか、私はすでに現場指揮権は剥奪されている身なのに、なんでいちいち私にお伺いを立ててくるのか。

 

 部下たちの報告をイライラしながら聞いていたミサトは、ふとレイたちが乗った車の方を見た。そろそろイライラし始めたレイが何かしでかしてやいないかと恐る恐る見てみたが、車は静かな様子だ。

 安心して、イライラ顔のままで部下に向きなおろうとしたが、どこか違和感がして、もう一度車を見る。

「ちょっとごめん」

 ミサトは部下の報告を一旦打ち切らせると、車に向かって足早に歩いた。

 

 車のドアを開け、後部座席を覗く。

 

 そこには毛布にくるまれた女の子が一人。

 すやすやと、眠りの国にその小さな体を委ねている。

 

「ねえ、レイは?もう一人はどこに行ったの?」

 トイレにでも行ったのだろうか。

 部下の運転手に訊ねた。

 

 反応がない。

「ねえ!」

 上司を無視するとは良い度胸ね、と思いながらミサトはその部下の肩を小突いた。

 肩を小突かれ、頭からハンドルに向かって倒れこむ運転手。

 

 

 ビーッと、派手なクラクションが鳴り響き、周囲に居た捜査官や科学者たちの顔が一斉に車に向いた。

「何でもない。何でもないのよ」

 そこには取り繕ったような笑顔を見せる女性上級捜査官。

「どうかしましたか?主任」

「何でもないって言ってんの。さっさと事後処理済ませて」

 

 

 部下たちを車の周囲から追い払ったミサトは、気絶している運転手の体を起こし、姿勢を崩させないよう頭をヘッドレストに固定させた。

 運転手の背広の胸ポケットに、不自然にねじ込まれた紙切れの存在に気付く。

 

 しわくちゃの紙切れを広げた。

 

 

 ―――葛城三佐。

      ミチルをお願いします。

 

 

 

 

「どうかしましたか?」

 被検体の検査を終え、防護服を脱いでいた科学者の一人は、血相を変えて飛び込んできた女性捜査官に声を掛けた。

 ミサトは肩で息をしながら問う。

「あの少年は?アダムは?」

「被検体なら、現状では人体に有害なしとみてあの護送車に乗せましたが」

「そ、そう。ありがと」

 

 ミサトはワンボックスタイプの護送車のバックドアの前に立つ。

 そっと、バックドアを開け、中を覗き見た。

 

 護送車の中を確認したミサト。

 ギュッと目を瞑る。

 

「どうかしましたか?」

 科学者に声を掛けられ、ミサトはそっとドアを閉じた。

「あの子、よく眠ってるわ。そっとしといてあげましょ」

「ええそうですね。ラボに着けば「あれ」も色々大変でしょうから」

「そうね。ここは私が見とくから、あなたは自分の仕事に戻って」

「分かりました」

 

 科学者が立ち去り、ミサトは再びバックドアを開けると、護送車の後部座席に上がり込んだ。バックドアを閉じ、中から鍵を掛ける。座席の一つには、男の子の監視役とし車内に残っていたらしい部下の一人が、やはり気絶してぐったりと座席にもたれかかっていた。

 

 気絶した部下以外は誰も居ない後部座席に腰掛け、深く項垂れる。

 

 両手で顔を覆った。

 

 

 

 それからどれくらいの時間が経ったのか。

 

 

 ズボンのポケットに入れた携帯電話が鳴り、ミサトは取り出して画面を見た。

 「0123456789」のふざけた番号。

 電話に出る。

 

「もしもし…」

 

『葛城三佐…』

 

 よく知った声が聴こえ、ミサトは深いため息を吐きながら少し乱れた前髪を掻き上げた。

 

「なぜ…、こんなこと…したの?」

 電話相手に問う声が震えている。

 

『ミチルの初めての友達を守りたい。…それだけです』

 

 電話相手は今、自分自身がどんな大それたことをしでかしているのか分かっているのか。

 いつもと変わらない平坦な声に、ミサトの中に怒りにも似た感情が沸き上がってくる。

 

「分かってるの?あなたが今抱えているもの。それは子供の姿はしてるけど、とても危険なのものよ?」

 

『でも、この子はミチルの大切な友達なんです…』

 

「お願い。戻ってきて。ミチルちゃんと一緒に、シンちゃんやアスカのもとに帰りましょ。ね?」

 

『この子も一緒に…ですか?』

 

 電話相手の問い掛けに、ミサトは唇を噛みしめる。気休めの嘘など、通じる相手ではない。

 

「…それは…できないわ…」

 

『それでは私も戻ることは…』

 

「戻ってきなさい!レイ!これは命令よ!」

 

 携帯電話に向かって怒鳴りつけるミサトの目じりに、数粒の雫が浮かんだ。

 

 怒鳴り声を上げてからやや間を置いて。

「…お願い…、戻ってきてよ…、レイ…」

 今にも崩れてしまいそうなミサトの声が、電話のマイクに吸い込まれていく。

 

『……』

 ミサトの声に、電話相手は無言。

 

「なんで…?…どうしてあなたが…、そんなこと背負いこまなくちゃいけないの…?」

 電話相手に抱く怒りにも似た感情。

 それは自分の任務を阻まれたことから湧き上がってきたものでは決してなかった。

 

 

『……』

 ミサトの問い掛けに、電話相手は無言。

 

「私たちね、この一週間、ずっと、あなた達の事、監視してたの。教団に怪しい動きがあると掴んでから、ずっとね」

 

『……』

 

「ずっと見てたわ。あなた達のこと。あなたとミチルちゃんと、シンジくんとアスカ。ミチルちゃんの誕生日会の様子も、あなたがミチルちゃんと畑仕事しているところも、あなたがミチルちゃんと買い物に行っている姿も、全部見てたのよ」

 

『……』

 

「私ね。シンジくんやアスカが将来家庭を持って、平穏な暮らしをしているところは、何となく想像できてわ。でもね、レイ」

 

『……』

 

「あなたが誰かと幸せな家庭を築いている姿は、まったく想像できなかったの。あなたが誰かの家族になってるなんて…」

 

 かつて絶対的な権力を持っていた最高司令官の庇護下に居た少女。

 それは誰も近づけない、籠の中の小鳥。

 変にお姉さん気分を出して、2番目と3番目の子の疑似的な保護者になって、それがあの子たちのためと思い込んで張りぼての家族を演じてみたけれど、1番目の子には最後の最後まで近づくことも手を差し伸べることもできなかった。

 3人の子供たちの中で、一人だけ別世界に立つ、人の温もりというものから隔絶された、人ならざるものの空気を纏っていた少女。

 

「でもあれは…。シンジくんとアスカとミチルちゃんと、そしてあなたは、紛れもない家族だったわ。とても素敵な。他人の私が誰かに自慢したくなうるような…、本当に幸せそう家族だった…」

 

『……』

 

「ねえ、レイ。あなた…そんな家族を…、捨ててしまっても…いいの…?」

 「あの日」から10年も掛けてようやく手に入れ大切な宝物。

 それを今、電話相手は。

 当時の大人たちの勝手な事情で、勝手に生み出され、勝手にいいように利用されていたかつての少女は。

 今の大人たちの勝手な事情で、勝手に生み出され、勝手に処分されようとしている一人の子供のために、大切な宝物を棄ててしまおうとしている。

 

 自分の中に渦巻く怒り。

 それは電話相手に対してのものではない。

 大人たちが勝手にしでかしたことの後始末のために、当時少女だった彼女に、彼女がやっと手に入れた宝物を棄てさせるまで追いつめてしまった、今の大人たちに対して。それには、もちろん自分自身も含まれている。

 

 自分自身に対する怒りはまるで火で炙ったよに喉をカラカラにし、顎が震えさせて、言葉の最後の方は切れ切れになってしまった。

 

 電話相手は無言。

 でも、スピーカーの向こうで、微かに鼻をすするような音が聴こえる。

 

 暫くして。

 

『葛城三佐…』

 少し震えた声で名前を呼ばれた。

 

「いい加減、ミサトって呼んでよね…」

 答えるミサトの声も震えている。

 

『私たち…、ホンモノの家族に見えましたか…?』

 

 半分不安げに、そして半分期待を込めて。

 そんな電話相手の声。

 

 ミサトは目を閉じ、1週間見てきた彼女らの姿を瞼の裏に思い浮かべる。

 

「ええ」

 いや、わざわざ思い浮かべるまでもない。

 

「羨ましくなるほど、とっても素敵な家族だったわ…」

 

 それは頑なな相手を説得するために飾り立てた言葉ではない。

 嘘偽りのない、ミサトの本心の言葉。

 

 

『ありがとう、葛城三佐…』

 少しだけ相手の声音に変化があったことを、ミサトの耳は感じた。

 

『その一言で、私のこれまでの全てが報われたような気がします…』

 

 その言葉に、ミサトは悔しそうに唇を噛み締める。

 

『大丈夫です、葛城三佐。私たちは離れ離れになる。でもこの絆は失われない。だって、私たちは家族なのですから…』

 

 もはやどのような言葉も、彼女の意思を覆すことはできないとミサトは悟った。

 

『葛城三佐…』

 

「何よ、ファーストチルドレン…」

 強情な相手に、少し不貞腐れた態度で返事してみる。

 

 電話相手は少しだけ笑った。

『私は24歳になりました。年齢の上ではもう大人です』

 

「私はもうすぐ40よ。完全にオバさんになっちゃったわ」

 

『この子はまだ生まれたばかり。見た目以上に、ずっと幼い子供です。大人は幼い子供たちを明るい未来に橋渡しできる存在でなくてはなりません』

 

「ええ…、ほんとうにそうね…」

 自分にはそれができなったけどね、とミサトは心の中で呟く。

 

『かつ……、ミサトさん…』

 

「おっ、ようやく下の名前で呼んでくれたわね」

 

『私はあなたのようになりたいのです』

 

 電話相手が呟いたその言葉をミサトは咄嗟には理解できず、車の床を見つめていた目を点にしてしまった。

 

 

『あなたのような大人に…。その命を賭してまで…、シンジさんを初号機に乗せ…、彼の命を…、世界の未来を繋げてくれた…。ミサトさん…、…あなたのように…』

 

 

 気が付けば、自分の膝の上は大量の涙で濡れていた。

 堰を切ったように流れ出した大量の涙。

 今も止め処なく溢れ出し、頬から顎へと伝う、大粒の涙。

 ミサトは化粧が崩れてしまうのも構わず、右手で目の周りを一生懸命拭った。

 

 

「レイ…」

 

『何ですか…?』

 

「あなた…、私のこと…、許してくれるの…?」

 

『私に誰かを許す資格なんてありません…。ですが…』

 

「…なに?」

 

『私たち、もっと色々、お話しをしていたらよかったですね…』

 

 ミサトは泣きながら笑う。

 

「あんたがそれゆーの?」

 

『はい…』

 

 スピーカーから聴こえる相手の声。

 ミサトは思った。

 きっと、相手も自分と同じように、泣きながら笑っているのだろう、と。

 

 

 何度か深呼吸する。

 乱れた呼吸を整える。

 目を閉じ、眼球に溜まった液体を搾り出す。

 

 再び目を開いた時、彼女の顔は国防本部の上級捜査官の顔に戻っていた。

 

「あなたが抱えちゃったもの…。それは小さな核弾頭みたいなものよ…。私たちはそれを見過ごすわけにはいかない。あなたはこれからずっと私たちから逃げ続けなくちゃいけないの」

 

『構いません。…この子を守れるのであれば』

 

「私たちだけじゃない。世界中の捜査機関があなた達を追うことになるわ」

 

『あなた方に私たちを捕まえることはできません。それは、碇司令の時で証明済みのはずです』

 

「あなた一つ大切なこと忘れてるわ。あの時は私は居なかったのよ」

 ミサトは意地悪っぽく問うてみた。

 

『ミサトさんでも無理です。私たちを探し当てることができるとしたら、それはきっとシンジさんだけです』

 

 不敵な相手に、ミサトは笑う。

「すごい自信ね」

 

『そして、シンジさんがあなた方に協力することは、決してないでしょう』

 

「ええ。そうでしょうね…」

 ミサトはそっと目を閉じる。

「レイ…」

 

『はい…』

 

「2時間あげる。それまではうちの初動は抑えてみせるわ。2時間の間に、できるだけ遠くに行ってね」

 

『はい…』

 

「2時間経ったら、もう容赦はしないからね。全力であなたの後を追うから」

 

 その穏やかならざる言葉とは裏腹に、ミサトの声は優しさに満ち溢れていた。

 

『ミサトさん…』

 

「なに?」

 

『くれぐれも、ミチルのこと…』

 

「ええ。父の名に懸けて、私の手でシンジくんとアスカのもとに送り届けるわ」

 

『ありがとう…、ミサトさん』

 

「それじゃあね、レイ」

 

『はい…』

 

「風邪、引かないようにね…」

 

『はい…』

 

「私に捕まるまで元気でいるのよ…」

 

『はい…、ミサトさんも元気で…』

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 携帯電話を切ると、窓を開け、電話を外に投げ捨てた。続いて口を大きく開け、右下の奥歯の隙間に詰め込んでいた極小の通信機を取り出し、それも外に投げる。

 

 一度だけ深く深呼吸し、目尻を手で拭い、鼻を啜った。

 

 通話が終わってから1分後。

 助手席から上半身を倒して、運転手の膝枕で寝ていた男の子が、大きな欠伸をした。

 体を起こし、今度は大きく伸びをする。

 寝ぼけまなこで窓ガラスの向こうの、真っ暗闇の景色を見つめた。

「ここ、どこだい?」

「さあ…」

「どこに向かってるの?」

「もう少し走れば、海に出ると思う」

「へー、僕。海って初めて見るよ」

「きっとこれから、色々なものを見ることになるわ」

「へー、楽しみだな」

 男の子は運転席に座る空色髪の女性を笑顔で見上げた。

「ねえ、あの子は一緒じゃないのかい?」

 女性はやや躊躇いがちに頷く。

「あの子は、パパとママのもとに帰ったわ」

「ふーん」

 男の子は床に届かない足をぶらぶらとさせた。

「いいなー…」

 寂しそうに自分の揺れるつま先を見つめている。

 

「ねえ?」

 つま先を見つめたまま隣の女性に声を掛ける。

「なに?」

「やっぱり君のこと、ママって呼んじゃだめかな?」

 女性は隣の男の子を見下ろした。

 男の子はじっと自分のつま先を見つめている。

 今は運転中のため、すぐに正面に向きなおった。

 

「…いいわよ」

「ほんとに!」

 女性の返事に、途端に表情を輝かせる男の子。

「約束事を守ってくれたら…ね」

「うん!うん!君との約束事ならどんなことでも守るさ!」

「外から帰ったら手を洗うこと」

「うん!」

「ご飯を食べたら歯を磨くこと」

「うんうん!」

「お昼を過ぎたらお昼寝すること」

「うんうんうん!」

「それと…」

「それと、…なんだい?」

 

「必ず幸せになること…」

 

 

 夜道を走る白の軽トラック。

 道の行く先では、長い長い夜が終わり、空が明るくなり始めている。 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 普段は大人3人と子供1人が団欒するためのリビング。

 今はそのリビングに大人5人が入っいていて、しかもそのうち背広を着た異国の男3人はやたらとガタイが良く、リビングをいつも以上に狭く感じさせ、さらにむさ苦しくさせていた。

 その3人に囲まれるように、ソファに腰掛ける夫婦。時々3人を睨みつけるが、相手は室内でしかも夜なのにかっこつけてサングラスを掛けているため、その表情をうかがい知ることはできない。

 

 妻が立ち上がり、ドアへと向かう。

 すかさず男の一人が前に立ち塞がる。

「どちらへ?」

「トイレよ。なに?ここでしろって?」

「同行します」

 

 まるでゴリラのようなガタイの男を引き連れてトイレに向かう。

 トイレのドアを開き、中に入る。

 ドアを閉めようとしたところで、

「閉めないでください。開けたままで」

 男は、アスカが閉めようとしていたドアを手で押さえた。

「はあ?」

 相手が誰であろうと物怖じというものを知らないアスカ。片眉を吊り上げながら大男を睨み上げる。

「開けたまんまだとできないんですけど」

「決まりですので」

「落ち着かないのよ。出るものも引っ込んじゃうわ」

「決まりですので」

「はあ…」

 大げさに溜息を吐く。

「じゃああんたも一緒に入って。だったら文句ないっしょ」

「え?」

「密室で人妻の放尿シーンをあんたに見せてあげようって言ってんのよ。ほら、入りなさいよ」

「し、しかし…」

 存外、大男はウブらしい。急に狼狽え始めている。

「何してんの。それともここで漏らしてほしい?へー、あんたもなかなかの趣味ね」

「わ、分かりました。閉めて結構です」

 

 ドアが閉じられたのを確認して、アスカはトイレの洗浄レバーを押した。ザザザー、と水が流れる音。

 音がしている間に、便座の上に上がり、高窓に手を掛けた。

 

 

 リビングに残った夫と大男2人。

 大男の一人の背広の内ポケットから、携帯電話の呼び出し音がした。

 電話に出る男。

 厳つい彼の顔が急に明るくなり、ソファに座る夫を見た。

 

 

 ドンドンドン、と急にドアを叩く音。

「ちょ、何よ!まだ出してる最中よ!」

 抗議の声を上げるも、ドアを叩く音は鳴りやまない。

「も、もうちょっと待ってよ!あと少しだから!…こんにゃろ」

 ついにドアを叩く音は、ガンガンガン、とドアを蹴る音に変わる。そして、

 

 バン!

 

 派手な音を立てて開いたドア。

 

「アスカ!……、って何やってんの?」

「え?シンジ?」

「今、ミサトさんから連絡が入ったんだけど…、とりあえずそこから降りよっか」

「そ、…それがお尻が挟まっちゃって…、動けないのよ…」

「アスカ、ちょっと太った…?」

「シンジ…、後で泣かしちゃる…」

 高窓に上半身を突っ込んだまま動けなくなっているアスカのお尻を、シンジと大男3人は呆れたように見つめた。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 家の前に一台の車が停まる。

 後部座席のドアが開き、黒髪の女性に抱かれた我が子の姿が見えた。

 

 母は待っていられず走り出す。

 子供も待っていられず、女性の腕から降りて駆け出した。

 

「ママ!」

「ミチル!」

 泣きながら駆けこんできたミチルを、アスカは強く優しく抱きしめる。

 母子に遅れてシンジとミサトはお互いの顔を見つめながらゆっくりと歩き、抱き締め合う2人に合流した。

 

 シンジはミサトに向けて、深く深く頭を下げた。そんなシンジにミサトは小さく笑いながら肩をぽんぽんと叩く。

 シンジが顔を上げたところで、ミサトは事の成り行きを全て説明した。

 

 ミサトの説明を聞いていくうちに、シンジの眉根に皺が寄っていく。

 隣でミチルを抱き締めながら2人の会話を聞いていたアスカも顔を険しくさせ、口を手で覆った。

 

 ミサトの説明を聞き終えても、2人は暫く何も言えずにいた。

 母の首に抱き着きながら、ミチルは言う。

「…レイちゃん、…どっかいっちゃった…」

 今にも泣きそうなミチルの頬に、自分の頬を当てながらアスカは言う。

「そうね…。…でも、ちゃんと約束通り、ミチルをあたしたちのもとに返してくれたわ」

「レイちゃん…、とってもつよかったんだよ…」

「ええ。知ってる…。知ってるわ…」

 アスカは言葉を詰まらせながら、ミチルの小さな肩に自分の顔を埋めた。

 

「ミサトさん」

「なに?シンジくん」

「レイは、これからどうなるんでしょうか?」

「そうね。少なくとも、私たちはもう間もなく総力をあげて、彼女の追跡を始めることになるわ」

「…でも、無駄ですよ」

「無駄かしら」

「ええ、ミサトさんたちが彼女を捕まえられるとは思いません。5年間も世界が血眼になって探していた父さんをレイが匿い続けたことはミサトさんも知っているはずです。もしこの世界で彼女を探し当てることができるとしら、それはきっとぼ…」

「シンちゃん、だけかな?」

 ミサトに得意顔で言葉を遮られ、シンジは憮然とした表情をする。そんな態度のシンジを他所に、ミサトは声に出して笑った。

「ふふっ、あんたたち、本当の兄妹みたいね。レイとまったくおんなじこと言ってる」

「「みたい」じゃないですよ。僕らは本当の家族なんですから」

 少し照れたように頭を掻くシンジ。そしてその隣に寄り添うように立つアスカと、そしてそのアスカの腕に抱かれたミチル3人を、ミサトは羨ましそうに見つめた。

 でも、本当なら彼ら3人の隣に、もう1人、空色髪の彼女が立っているはずだった。

 

「…ごめんなさい。…レイのこと」

 ミサトは俯きながら言う。

 その言葉にシンジは目を閉じ、静かに溜息を吐く。

「仕方ありません。彼女が自分で決めた事です。…それに」

 隣のアスカの肩を抱き寄せる。

「僕たちは家族です。でも家族だからと言って、いつまでも一緒に居られるという訳ではありません」

 アスカの腕に抱かれたミチルの鼻を、人差し指でちょんと突く。

「ミチルだって、いずれは僕たちのもとから巣立つ日がやってくるんです」

 鼻をつつかれたミチルは、不思議そうに父の顔を見上げていた。そんなミチルを父は少し寂しそうな眼差しで見つめた。

「レイの場合は、ちょっと唐突過ぎましたけどね」

「ま、これはこれであのコらしいけどね」

 アスカは今にも泣きそうな顔をしながら、肩を竦めて言った。

 シンジはそんなアスカの肩をぽんぽんと、慰めるように優しく叩いた。

 ミサトを見る。

「でも、だからと言って僕らの絆が失われるわけじゃないですから…」

 

 ミサトは目を細める。

「ほんと。あんたたち見てると、40間近になって家族の一人もいない自分が惨めに見えてきちゃうわ」

「何言ってるんですか」

 シンジはきょとんとした顔でミサトを見た。

「僕はミサトさんだって、家族だと思ってますよ」

「ええそうよ」

 アスカが言葉を繋げる。

「なんちゅーか。いつまで経っても身も固めず心配ばかりさせて、たまにふら~と帰ってきては騒動を巻き起こす。ほら、あったでしょ。こないだ7チャンでやってた古い日本の映画」

「あああれ。寅さんだ寅さん」

「そーそーそれ。で、立ち位置からいってシンジが妹のサクラね」

「じゃあアスカがヒロシってこと?」

「なんであたしが前田ギンなのよ!…って、何泣いてんのよ、ミサト」

「え?」

 

 ぽろぽろと大粒の涙を零していたミサト。アスカに指摘されて自分が泣いていることに気付き、慌ててシャツの袖で目もとを拭いた。

 

 今日泣くのはこれで2度目だ。

 自分はいつからこんなに涙もろくなってしまったのだろう。

 歳の所為とは断じて思いたくないが。

 

「ミサトさん、大丈夫ですか?」

 シンジは心配そうにミサトの顔を覗き込む。

「ご、ごめん…。こんな、おばさんがみっともないよね…」

「別に構いませんけど…」

 何とも返事のしづらいミサトの言葉に、シンジはごにょごにょと語尾を濁す。

「ねえ、シンちゃん…」

「なんですか?」

「ちょっと…いいかな…」

 ミサトが求めていることを聞かずとも理解したシンジは、ゆっくりと頷いた。

 ミサトは左腕をシンジの背中に回した。そして右腕をアスカの肩へと回す。

 

 アスカの腕に抱かれたミチルごと、3人の家族をミサトはその腕に抱き締める。

 

「本当に、あのシンちゃんと、アスカが…、こんな素敵な家族を…作ってるなんて…ね」

 シンジはミサトの背中に腕を回し返す。

「ミサトさんが…、僕の命を繋いでくれたおかげです…」

 ミサトはくすりと笑う。

「また兄妹で同じこと言ってる…」

 

 東の空から太陽が昇り始めた。

 地面に、4人で1つの長い長い影が伸びていた。

 

 

 

「さあて…」

 すっかり化粧が崩れてしまった顔を、両手でパンパンと叩く。

「んじゃ、シンジくんが言う、絶対に捕まえられない彼女を追っかけにまいりましょうか」

「お手柔らかにお願いしますよ?」

 おどけた表情のミサトに、シンジも柔らかく笑いながら言った。

「あ、そっか」

 ふと何かに思い当たった様子のミサト。

「ん?なんです?」

「私が子供の頃に好きだったアニメって何か分かる?」

「なんですか、唐突に。やっぱりコンバトラーVですか?」

「あんた、私を幾つだと思ってんのよ…。ルパンよ、ルパン三世」

「へー」

「じゃあ私が憧れたたキャラクターって誰か分かる?」

「やっぱり不二子ちゃんですか?」

「銭形よ。銭形警部。これで子供の頃の夢が叶ったわ」

 シンジは苦笑いする。

「一生追いかけっこするつもりですか」

「待てい、レーイってね。んじゃね」

 ミサトはシンジたちに手をひらひらさせながら車の方へと向かう。そんなミサトの背中にシンジは少し大きな声で言った。 

「あまり無理しないで下さいよー、いい歳なんだから」

「うっさいわね!」

 ミサトは降り返りながら怒鳴る。

「アルコールは控えめにして休肝日をつくって。寝るときはちゃんとお腹隠して寝てくださいね」

「あんたは私の母ちゃんか!」

 シンジの言葉にいちいち突っ込み返すミサトの姿を、アスカはくすくす笑いながら見つめる。

「今度来るときは事前に言ってくださいね。ミサトさんが好きだった紅茶入りのシフォンケーキ焼いて待ってますから」

「ホントに?やったね!」

 最後にもう一度手を振って、ミサトは車の後部座席へと乗り込んでいった。

 

 夜明けに向かって走り去っていく車を見つめるシンジ。

 その隣では、アスカに抱かれたミチルがすやすやと寝息を立てている。

「あれ?」

 アスカはミチルの後ろ髪を短く纏めた2つのおさげを手に取った。

 いつもお気に入りの赤いゴム紐で纏められているミチルの髪。

「どうしたの?」

 シンジがミチルの寝顔を覗き込む。

「…これ」

「こより…だね」

 ミチルのおさげを纏めていたものはいつものゴム紐ではなく、紙で作ったこよりだった。

 アスカはミチルを起こさないように、静かにこよりを解く。

 そのこよりを、広げてみた。

 

 アスカは、くすっ、と笑う。

「いつ見ても下手な字ね」

 しわしわの紙面には、特徴的な義妹の字が綴られていた。

 

「えーと、何々。苗の高さが50cmくらいになったら根元に肥料をやり、しっかりと土寄せをすること。株の先端に毛のふさふさが出てきたら、もう一度肥料をやり、土寄せすること。乾燥に弱いので水やりはこまめにすること……。何よこれ」

 てっきり自分たちへの別れの手紙かと思ったが、

「…トウモロコシの育て方…だね…」

「レイの奴。あたしたちにあの畑を引き継がせるつもり?」

「…そうみたいだね」

「嫌よ土仕事なんて!は?収穫したら塩ゆでにして一番にミチルに食べさせること?うっさいわ!」

 シンジは憤慨している妻に苦笑いしながらもう一枚のこよりを広げた。

 シンジは、ふっ、と笑う。

「アスカ」

「何よ!」

「これ」

 シンジに渡された、やはりしわしわの紙切れを見る。

「たったこれだけ?」

「うん。らしいだろ?」

 アスカは小さく溜息を吐いた。

「ま、そうね」

 しわしわの紙面にはただ一言。

 

 

 ―――また、いつか。

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

「うわ、眩し…」

 

 空の明るい方を静かにじっと眺めていたら、ぽっと顔を出したそれに男の子は思わず目を瞑ってしまった。

 

 初めて目にする自然界で最も強烈な光。男の子はおそるおそる瞼を開ける。

「あれが太陽なんだね」

 静かに波立つ海面に光の道を作りながら昇っていく太陽を、圧倒されたように見入る男の子。そんな男の子の頭上から、目の前の強烈な光とは対照的な、どこまでも限りなく柔らかい声がゆっくりと静かに舞い降りてきた。

「ええ、そうよ」

 

 誰も居ない海岸。

 砂浜に腰を下ろし、水平線を見つめる女性。

 女性が組んだ胡坐の上に、男の子がちょこんと座っている。

 

「海ってほんとに広いし、ほんとにしょっぱいし、ほんとに波が立ってるし。この世界って面白いことだらけだね」

「ええ。この世界は、あなたの知らないステキなことで満ち満ちているわ」

「楽しみだなー」

 

 男の子は背後から自分の腰に回された女性の手を握った。その手首には、2つの赤いゴム紐が巻かれている。

「ありがとう。こんなステキなものを見せてくれて」

「うん…」

 

 男の子の頭に顎を乗せながら、ぼんやりと水平線を眺めている女性。

 その瞳は眩い朝日を見つめながら、心の中の瞳は別のものを見ていた。

 

 

 あれは1カ月前だっただろうか。

 あの赤い小さな車に4人が乗ってドライブに出かけた日。

 ミチルが、初めて海を見た日。

 4人で出かけた、最後の日。

 

 ミチルも、今の男の子のように、だだっ広い水溜まりを目の前にただただ感動していた。

 延々と寄せては返す波打ち際をきゃっきゃとはしゃぎながら走り回っていた。

 兄と一緒に作ったお弁当をみんなで食べて。ミチルと一緒に貝殻集めをして。ミチルと一緒に砂で大きな山を造って。凝り性な義姉は1時間掛けて砂の通天閣を造ってたっけ。

 この日は朝から本当によく晴れていて。

 水平線には赤と紺の濃淡を作りながら陽が沈んでいって。

 そのあまりの美しさには3人は黙って静かに見つめていて。

 遊び疲れたミチルは兄の腕の中でぐっすり寝ていて。

 せっかくの景色なのに勿体ないと義姉は少し不満顔で。

 またみんなで来たらいいさ、と兄はミチルの寝顔を愛おしそうに眺めながら言って。

 兄の言葉に私は、そうね、と言って。

 またみんなで、こんな美しい風景を見ることができるんだ、と、あの時は何も疑わずに信じていて。

 

 水平線の上に浮かぶ真ん丸の太陽が、ぐにゃっと歪んだ。

 

「ママ…、泣いてるの?」

 腕の中の男の子が顔を覗き込んでくる。

 女性は熱くなった目頭を手の甲で押さえながら、目尻から溢れる液体をありのままに頬に伝えせた。

「ええ…、そうよ…」

「…そうなんだ…」

 男の子は海に向き直る。視線を水平線の彼方からこちらに向かって一直線に伸びてくる光の道に向けた。

「僕、さっき生まれて初めて泣いたよ…。なんだか胸がぎゅーっとされてるようで、お腹もぐるぐるしてて、とっても気持ち悪かったんだ…。あんな苦しい思いをするなら、もう泣きたくないな…」

 女性は陽の光にきらきら煌めく男の子の銀色の髪を撫でる。

「…きっと、これからも涙を流す日が来ると思うわ…」

 その女性の言葉に、男の子は口をへの字に曲げた。

「ふーん。この世界って、とても辛いことだらけなんだね…」

 男の子は足をぶらぶらと揺らす。

「ええ。この世界はとても残酷で、とても辛いことばかりだけれど…」

 女性は男の子の頭をぎゅっと抱きしめる。

「…でも、とてもステキなところよ」

「そうなの?」

「ええ…。いつか、悲しみや絶望じゃない、もっと別の…、違う涙を流す日が、きっと来るから…」

 

 腕時計がピピピと鳴った。

 それは彼女らに与えられた猶予時間が終わったことを知らせるものだった。

 

「行きましょう」

 女性は男の子の腰を支え、自分の足で立たせる。

 そして女性も立ち上がり、お尻についた砂をぱぱっと払う。

「どこに行くの?」

 男の子は女性を見上げながら言う。

「どこに行きたい?」

 男の子は女性を見上げながらにっこりと笑った。

「どこでもいい。ママとならどこでも」

 母親の手をぎゅっと握る。

 どこか懐かしい男の子のその言葉に、母親は小さく笑った。

「そうね…」

 男の子の顔から視線を上げ、空を見る。

 海の上を、どんどんとその高さを上げていく太陽。

 ふと、背後を振り返る。

 そこには、太陽と入れ替わるように地平線の向こうへとその身を沈めようとしている月が浮かんでいた。

 手の中にある小さな男の子の手を、ぎゅっと握り直す。

「太陽と…、月と…、地球があれば…、どこでもきっと大丈夫よ…」

 

 軽トラックを停めている海岸沿いの道へと歩き始める。

 男の子が、甘えるように女性の腕へと抱き着いてくる。

「ねー、ママ。だっこして」

 母親は「今日だけよ」と言いながら、男の子のお尻に腕を回し、ひょいっと男の子を抱き上げた。

 1人分と半人分の重さを支える足の裏が砂にきゅっと沈み、その感触が心地よかった。

 

 砂浜に、2人で1つの長い長い影が伸びていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * * * * * * * * * *

 

 

 

 さすがに3人目ともなれば慣れたものだ。

 左腕で抱かれた赤ん坊は、口に近づけられた哺乳瓶の乳首を嫌がらずに咥え、ちゅっぱちゅっぱと小気味好い音を立てながら美味しそうにミルクを飲んでいる。

 

 ソファで赤ん坊にミルクを与えている父の隣で、娘は学校で出された宿題を前にして頭を悩ませていた。

「なんだ、ミチル。全然進んでないじゃないか」

「だって、将来の夢とか思い浮かばないんだもん」

「子供が夢がないとか寂しいこと言うなよ」

「じゃあパパは子供の頃はどうだったの?」

「ん…」

 子に問われ、父はそう言えば自分も子供時代はどちらかと言えば冷めた子供で、特に夢もなかったことを思い出した。

「んーー」

「ほらあ」

「と、とにかく作文なんて難しく考えなくていいんだよ。例えばミチルが一番好きなものって何だい?」

「ママ」

「(パパじゃないんだ…)じゃ、2番目は」

「レイママ」

「……じゃあ「お母さんになりたい」でいいんじゃない、もう…」

「ふーん」

 父のどこか投げやり気味のアドバイスに、娘は鉛筆のお尻で顎を押しながら天井を睨んだ。

「あ、そうだ」

 良い案を思いついたらしい。

「「お嫁さんになりたい」。これにしよ」

「それはだめ」

 すぐに父からダメ出しが出た。

「えー、なんでよ」

「ダメなものはダメです」

「いいじゃん。「お母さんになりたい」がよくて、なんで「お嫁さんになりたい」がダメなの?」

「パパが許しません。他のにしなさい」

「もーーー」

 

 娘がぶーたれていると、ポケットに入れていた携帯電話が鳴った。

「はいはい」

 父は哺乳瓶をテーブルに置くと、電話に出る。

 

 

「もしもし。はい、碇ですが。…ええ、そうです。碇シンジです。

 

 え?どなた?

 

 えっ。え!

 

 リツコさん!

 

 へーー!いやーー!お久しぶりです!何年振りですかね!

 

 そうですねえ。あの面談室で会ったっきりでしたもんね。

 

 元気にしてます?

 

 そう、そりゃよかった。僕も、それとアスカも元気にしてますよ。

 

 はい。ああ、僕らが結婚したこと知ってましたか。へー、マヤさんから聞いてたんですね。

 

 え? いやいや、いいですよ今さらお祝いなんて。もう9年も前ですから。

 

 いやあ、でも嬉しいな。またリツコさんと話せて。あれっきりでしたからね。

 

 え?テレビ? ああ、近くにありますけど。今自宅に居るんで。

 

 テレビを点けたらいいんですね?

 

 ……はい、点けましたよ。え? 国営放送に?

 

 ……はい、チャンネル変えました。って、リツコさんじゃないですか!

 

 わあすごい。リツコさん、テレビに映ってる。えっ?これ生放送? はは、手振ってる。

 

 リツコさん、あんまり変わってないですね。髪の色も金髪に戻したんですね。うん、そっちの方が“らしい”ですよ。

 

 ん?ここどこです?どっかの空港? すごい広い場所ですね。

 

 え?アスカ? ええ、今日は家に居ますよ。っと言っても、今は家の裏の畑で草刈りしてますけど。

 

 ええ、そうなんですよ。あのアスカが畑仕事ですよ。

 

 レイが畑やってたんですけどね。レイが残した畑をアスカが継いで耕してるんですよ。ぶつぶつ文句言いながら、もう5年も。

 

 レイが帰ってきた時に、そのまま返せるようにって。

 

 って言っても「このアスカさまがやる農園をそんじょそこらの家庭菜園と一緒にされちゃ困るわ」とか言って、最近じゃヤギ飼い始めて何だか凄いことになってるんですけど。

 

 今はレンと一緒に畑の土手の雑草をヤギに食べさせてるはずです。

 

 え? レンですか。

 

 2番目の子供ですよ。男の子です。

 

 ちなみに3カ月前にはメイも生まれまして。ええ、女の子です。

 

 え? …いやいや、だからお祝いはいいですって。

 

 実はミサトさんから毎年のように雛人形やら五月人形やらが送られてくるから、置くとこなくて正直困ってるんですよ。

 

 あの人独り身でしかもずっと海外出張でお金使う暇がないから、全部僕たちの子に注ぎ込んでるんですよ。

 

 そりゃ、ありがたいんですけどね。いい加減、そろそろ自分の身を固めて落ち着いてくんないと。

 

 え?

 

 

 そのミサトを?

 

 

 出し抜いてやった?

 

 

 ごめんなさい。全っ然話しが見えないんですけど。

 

 はあ。とにかくアスカを呼べと。

 

 テレビを見てたら分かる、ですか。

 

 ええ、ミチルはここにいますよ。

 

 じゃあアスカ呼んできますね」

 

 

 父は携帯電話で話しながらソファから立ち上がり、末っ子を抱いたまま裏の畑に通じるガラス戸へと向かった。

 

 娘は宿題の手を止め、テレビを見ている。

 

「あっ!」

 

 その娘が、突然大きな声を出した。

 ガラス戸から外に出て、サンダルを履こうとしている父。携帯電話を耳から離した。

「どうした?ミチル」

「ママだよ!テレビにママが映ってる!」

 テレビを指差しながら興奮気味に言う娘。

「何言ってるの。ママは畑だよ」

 父はサンダルを履き終え、そのまま畑へと向かってしまった。

「へー、リツコさん、C国の宇宙開発チームの責任者になってたんですね…」

 

「ほんとだよ…。レイママが映ってるんだよ…」

 父のことは放っておいて、テレビのすぐ前に移動し、画面に映し出された映像にかぶりつくように見入る娘。

 

 映像が映し出してるもの。

 どこかとても広い場所。つなぎ目のないコンクリートの地面。青い空。遠くに見える地平線。

 そんな場所にぽつんと停められたバスから、何人かの男女が降りてきている。

 皆、どこか風変わりな服装。皆、片手に全面透明なヘルメットを抱えている。

 

 テレビのスピーカーからは女性のアナウンサーの声が流れていた。

 

『サードインパクト以来途絶えていた宇宙開発ですが、今回のC国の打ち上げにより再び世界の宇宙開発競争が熱を帯びそうです。今、地上に降り立った8名の彼らは赤木リツコ博士が開発した全く新しい宇宙航行システムにより、これから月面へと赴きます。彼らの任務は月面基地の建設。最長で10年間という長期に渡る過酷な任務が彼らを待っています』

 

 遠くから8人の様子を写していたカメラがぐぐっと寄った。

 

『先頭を歩くのが今回のチームで唯一名前が公表されているヤン・リー船長です。その後ろを歩くのは女性でしょうか。C国宇宙開発局から公開された資料によれば宇宙船のパイロットを務めるそうですが、…珍しい髪の色をしていますね。その後ろを歩くのは…、はは、こちらに向かって手を振ってくれています。彼は今回のチームで最年少でまだ10代とのこと。打ち上げが成功すれば宇宙に行った初めての子供ということになります』

 

 歩く8人を追うカメラ。

 8人の向こうに、巨大なロケットが青い青い空に向かって聳え立っている。

 

 テレビに見入るミチルは目を輝かせる。

 少しだけ、ほんの少しだけ寂しそうな顔で。

 

 ミチルはテレビに向かって小さく手を振った。

 

 

「レイママ…、行ってらっしゃい…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 市立第壱小学校。

 3年C組の教室。

 何枚もの原稿用紙が貼られた壁の掲示板。

 作文の表題は『将来の夢』。

 

 

 

 

 

 

将来の夢

 

3年C組 碇ミチル

 

私の将来の夢は、宇宙飛行士になることです。

 

宇宙飛行士になって、月に行って。

 

ママじゃないもう一人のママと、初めてのお友達に会いに行きたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

―おしまい―

 

 

 

 

 

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