少し赤くなってしまった目で、青年は再び窓から診療所を眺めていた。すぐに外に飛び出すことができるようにあらかじめシューズを履いておく。そのシューズの裏は、歩き倒してすっかり薄くなっている。
診療所で動きがあった。
診療所の玄関から出てきた女性は、強烈に降り注ぐ西日を眩しそうに手を翳して遮る。一瞬、指の隙間からのぞく女性の目がこちらを見たような気がして、青年は慌てて窓から離れた。再び青年の鼓動が大きく高鳴る。
診療所からアパートまでは十分に離れているし、カーテンの僅かな隙間から見ていたので、相手がこちらに気づくことは考えづらかったが、一人の女性の動向を無断で監視している立場が彼をいつも以上に憶病にさせていた。
そっと、息も止めてカーテンの隙間から覗く。女性はすでに日傘を差して歩き始めていた。青年は慌てて、しかし物音を立てることなく、そっと部屋を出た。
女性がスーパーマーケットに寄ったため、青年は散歩を装いその周辺をぐるっと一周して時間を潰した。2週間近く部屋に閉じこもりっぱなしだったので、少し歩いただけで膝と脹脛が痛い。
ゆっくりと時間を掛けて一周したところで、買い物を済ませた女性もマーケットから出てきた。感づかれないよう女性からは十分に距離を保ち、後をついていった。
濃紺のロングスカートにこげ茶色のカーディガンと、二十歳前後のうら若い女性が着る服としては地味すぎる出で立ち。目立たぬ服装を、と心掛けているのかもしれないが、これではかえって人目を引いてしまいそうな気がするが。
右手には広げた日傘、左手にはマーケットで購入したものを収めたと思われる手提げ鞄を持っている。何を買ったのだろう。彼女が、お店で品物を買うという姿が想像できない。一人、社会の枠から外れて生きてきたような印象の彼女には、そんな誰もが行う当たり前の行為が、カタツムリが空を飛ぶくらいに不自然なもののように思えた。
精々想像できるのが、ペットボトル入りの飲料水やレトルト製品、栄養補助食品くらいか。「生活を営む」という行為にてんで無頓着であった彼女のことだ。生活の基本である日々の「食」ですら、疎かにしていたに違いない。
ただ気になるのはその手提げ鞄の端から覗く緑色の「あれ」である。先端が二股に分かれた細い筒状の「あれ」。
遥か前方を歩く女性の手提げ鞄に向けて、必死に目を凝らす。
「あれは……ネギ…だ」
ネギ。葱である。
古くからこの国の食文化を彩ってきた葱。あったらあったで嬉しい、無ければ無かったで残念だけど特別困ることはない、そんな食卓の脇役、葱。
衝撃が全身を駆け巡る。
ネギ。
彼女が…葱…だと!
彼女はあの葱をどうしてしまうんだろう。斜め切りにしてみそ汁の中に入れてしまうのだろうか。刻んで冷ややっこの上にちょこんと乗せてしまうのだろうか。それとも一本丸ごと焼いて、素材の美味しさをそのまま頂いてしまうのだろうか。
なんてことだ。
彼女が葱を買っているだなんて。
彼女が、生活の必需品でもない、食卓に彩を添えるためのものを購入しているだなんて。
そんな彼女なんて、僕は知らない。
ネギを買ってしまう彼女なんて、僕は知らない。
僕の知らない彼女が、そこに居る。
自分の両手で両頬をピシャリと叩く。
―――何を葱ごときで狼狽えているんだ、僕は…。
ネギを突っ込んだ手提げ鞄をぶら下げ歩く、生活臭漂いまくる彼女の後姿を前に、未だに膝が笑っている。もし、あの手提げ鞄の中にかいわれ大根でも入っていようものなら、自分はショック死でもしてしまうのだろうか。
青年は情けない膝を叩き、雑念を振り払って女性の尾行を再開した。
街中を抜け、郊外の道へ入ると、尾行の難度が上がった。何しろ人通りがまったくないのだ。人々の中に紛れることができないため、十分に距離を取っていたとしても尾行する姿が目立ってしまう。しかし幸いにもすぐに陽が暮れたおかげで、女性を追跡する青年の姿は薄闇の中に紛れてくれた。
彼女が歩く道。外灯は殆どない。「生活の営み」だけでなく「自らの身の安全」にも無頓着な彼女だった。こんな薄暗い道を若い女性が一人で歩いて、危ない目に遭ったことはないのだろうか。いや、むしろ、
「熊とか出ないよね…」
そっちの方が心配になってくる。
いつの間にか日傘を閉じていた彼女は、暗い夜道を、びっこを引きながら歩いていく。
そう。
手提げ鞄から覗くネギだけでなく、もう一つ気になる、いや、心配になってしまうのが彼女の歩き方だ。診療所にやってきて、診療所を出て、マーケットに寄って、郊外を歩く彼女。
ずっと、左足を引きずって歩いている。
マーケットを発ってからここまで30分。しかし人並みのペースで歩いていれば、15分程度の距離だ。そんな距離を、左足を引きずる彼女は、常人の倍くらいの時間を掛けて歩いている。
どうしたのだろう。
怪我でもしているのだろうか。
ただでさえ後ろめたい気分なのに、辛そうに歩く彼女を遠くからただ見ているだけしかできない自分の立場がもどかしかった。本当なら、今すぐにでも駆け寄って、彼女の左脇の下に腕を差し入れ、その不自由そうな身体を支えてやりたいのに。
道は広い田園地帯から、広葉樹が生い茂る森の中へと入る。その間、青年は女性と距離を取りながら、それでも薄暗い視界の中で彼女の姿を見失わないよう、必死に目を凝らしながら彼女の細い背中を追った。
ところが、ついに青年は女性の姿を見失ってしまった。西の空を真っ赤に染めた太陽の残照も消え、弱弱しい月明りのみが地上を照らす時間帯。
前を歩く彼女の背中が突如として消えてしまったのだ。
青年は彼女が消えた地点になるべく足音を立てないよう、足早に歩み寄った。やはり彼女はいない。青年の顔が青ざめかけた時。
本道から外れ、森の中に入る未舗装の脇道があることに気づいた。
耳を凝らす。
脇道の奥から、微かではあるが、足音が聴こえた。
青年は、「はぁ」と安どのため息をつく。
脇道の奥を見つめる。左右を樹々に挟まれ、奥は漆黒の闇。片方の足を引きずる足音が、その漆黒の闇の中へと消えようとしている。こんな暗がりを、灯りも点けずに。そう言えば、彼女は照明が落ちた本部の暗く入り組んだ通路も、迷いなく歩いていた。夜目でも効くのだろうか。
この暗く足もとの悪い脇道を、灯りなしで歩ける自信はない。後ろポケットにはペンライトが入っているが、こんな暗がりでライトを照らしたら一発で尾行がばれてしまう。
今日はここまでか。
青年は目を閉じる。カサ、カサとまるで小鳥が干し草の上を跳ねるような軽い足音と、ズズ、ズズと地面を引きずる音が、交互に聴こえてくる。いつまでも聴いていたかったが、周囲の虫の鳴き声、風にそよぐ葉や枝の音に、その儚い足音はすぐにかき消された。