二日目。早朝。
森の中を走る一本道。薄い霧が漂う樹々の隙間から、すっと、その女性は現れた。女性は一寸だけ周囲を見渡す仕草をすると、薄暗い森の一本道を、朝日が射す明るい方へと歩き始めた。
女性が歩き去ってから1分後。樹々の隙間から、今度は青年が姿を現した。
女性が現れた場所。注意して見なければ、樹々に隠れて気づけないような脇道を青年は見つめ、そして女性が歩き去った方向を見つめる。
青年は少しだけ迷って、女性が去っていった方向へ歩き始めた。
昨晩はアパートに帰ってからは一睡もできなかった。たった数十分歩けば辿り着くような場所に彼女が居るという事実が、青年の睡魔を蹴散らしてしまっていた。アパートへの帰り道に寄ったスーパーマーケットで買っておいたサンドイッチと缶コーヒーを朝ごはんにして、夜明け前に再びこの森の道を訪れ、眠い目をこすりながら脇道の様子を覗っていたのである。
森を抜け、田園地帯に出ると、まっすぐに伸びる道を歩く女性の背中がすぐに確認できた。この時間帯だと、朝早くから農作業に勤しむ人々や散歩やジョギングをする者もちらほらおり、青年の姿は特段目立たない。今日も朝から日差しが鬼のように強く、田園に挟まれた道路の上を陽炎が漂い、日傘を差して歩く女性の姿をゆらゆらと幻影のように揺らしていた。
一晩寝たくらいでは治らなかったのか。
今日も、彼女は左足を引きずりながら歩いている。
びっこを引きながら30分掛けて女性が辿り着いた場所は意外な場所だった。
だだっ広い農場が広がる丘の麓に簡素な門があり、女性はその中に入っていく。女性だけでなく、他にも性別年齢ばらばらの人々が次々と、その門の中に入っていった。
青年は人々に怪しまれないよう歩みを止めず、門の前を通り過ぎる。ちらり、と門に立てかけられた看板に目をやる。
『独立行政法人農林水産機構○△町生産組合農場』
その法人は青年も耳にしたことがあるものだった。国家規模での第一次産業再編のために創設された法人で、その農場は、人手不足と食糧不足に対応するために国策として進められた農業の集団化により、全国各地で出来た大規模農場の一つだった。
「え?まさか…ここで…?」
青年は歩きながら、上ずった声で独りごちた。
捜索を始めて以来抱いていた疑問の一つが、「逃亡資金」の調達方法だった。
各国の捜査機関が男を「極大事象」を引き起こした首班の一人と認定して以降、すぐに男の資産は凍結された。そして逃亡資金の流れから男の行方を捜索する試みもなされているが、男と繋がりのあった組織又は個人から特定の個人への資金流入の中で、男に行きつく金の流れは未だに確認できていない。もちろん男が隠し財産なるものを蓄えていた可能性もないとは言い切れないが、あの男が計画が失敗した後のことを考えてわざわざ逃亡資金を用意していることは考えづらいことだった。
数年に及ぶ逃亡生活には、それなりの金が必要となってくるはずだ。その金を、「彼ら」はどのようにして調達しているのか。
その疑問の答えが、ここにあった。それはある意味一番真っ当で、しかし「彼ら」を知る者からしたら最も意外な方法ではあったけれども。
少し離れた場所から農場の門を見つめる。今も、続々と人々が門の中に入り、農場の奥へと消えていく。門から数百m離れた場所に目をやると、簡素な集合住宅が数棟あった。おそらく門の中に入っていく人々が寝泊まりする寮なのだろう。人々は、性別や年齢だけでなく人種すらもバラバラで、中にはいかにも脛に傷のありそうな面子もちらほらいる。深刻な人手不足のなか、働き手の出自や身分は問うていないのだろう。「彼ら」が足のつきにくいかつ真っ当な金を得るには、ここはもってこいの場所といえた。
「彼ら」というが、この農場に来たのは女性だけだ。片割れは、今どこで何をしているのだろう。農場のある丘から、田園地帯を挟んで広がる森の方に目を向ける。
世界中にその顔と名を知られている逃亡中の男が、寮生活はできまい。おそらく、昨晩女性が姿を消した脇道の奥に、彼らの住まいがあるはずだ。そしておそらく、女性は暫くこの農場から出てこない。その空いた時間を、あの森の脇道の捜索に充てるべきか。
そこまで考えて、青年は急に胸が締め付けられるような不快感を覚えた。
捜索の末に、「彼ら」の住まいを突き止めてしまったら。
自分は、ついに、あの男と対面することになる。
捜索の焦点を男から女性に変えてからというもの、青年は自身が何処かしら浮かれてしまっていることを自覚しており、そして昨日アパートから彼女の姿を見つけた瞬間は、今まで感じた事がないような多幸感に包まれた。
しかし彼女との接触のその先に待っているものを少しでも考えてしまうと、自分の中で膨らんでいた高揚感に薄くない陰を差した。
夕刻。
農場からカランカランと鐘の音がする。暫くすると、門から続々と人々が出てきた。
結局、青年は農場の終業時間まで、アパートで仮眠を取った。「彼ら」の住まいがあると思われる森の中の捜索は、先送りにしてしまった。
そもそも女性が男と行動を共にしているとして、寝食の場まで共有しているとは限らないのだ。一網打尽を避けるため、普段は別々に行動している可能性は十分にある。今のところ「ただ生活をしている」だけの彼女だが、彼女が他者と何かしら連絡を取り合っていないか、もう少し観察を続けてみるべきだろうと結論付けた。
門から出てくる人の数が疎らになった頃、ひと際細い影がすっと現れる。
日傘を差した女性は、昨日と同じ手提げ鞄を持って、森へ帰る道とは別の方向へ歩き始めた。道の先にはあの診療所やスーパーマーケットのある街がある。
遠くから門の様子を観察していた青年は、女性が歩く道とは別の道を使って、街へ向かった。
冷房の効いたマーケットの中で、買い物客を装って商品を物色していたところ、予想通り彼女は現れた。仕事帰りにこのマーケットに寄って、買い物をして帰るのが彼女の日課になっているのだろう。
そう広くない店舗内。彼女との接近に、青年の心臓が高鳴る。ばれてしまわないかと、被っていたキャップを目深に被りなおした。
商品棚の陰から彼女を見る。
青果コーナーで、幾つかの野菜を手に取り、買い物かごの中に入れている。そして、
「…葱だ…」
今日も葱を一本お買い上げだ。
彼女が青年にとって予想外の行動に出たのは、葱を買い物かごの中に入れた後だった。
鮮魚コーナーの前を通り過ぎ、精肉コーナーの前へ。てっきり素通りすると思われたが、女性は精肉コーナーで足を止めた。
商品棚に並ぶパッケージ化された肉類。女性は数秒間吟味した末に、一つを手に取り、買い物かごに入れて、そのまま会計コーナーへと向かった。
会計を済ませ、手提げ鞄に商品を詰めて、店を出て行く。
青年は適当に手に取ったガムとペットボトル飲料水を購入し、女性の後を追った。店外に出ると、女性は夕日を背に昨日と同じ道を歩いている。
立ちすくむ青年。
暫くすると、夕陽に向かってひょこひょこ歩く女性の背中は見えなくなった。
青年は女性の背中を追うことなく、踵を返し、アパートへ向かった。
カーテンの隙間から西日が差しこむ部屋で、仰向けで大の字になった。薄汚い天井を見つめる。
背中の畳の冷たさが、外回りで汗だくとなっていた背中を冷やしていく。同時に、心の中が急速に冷めていくのを感じた。
肉を食べないはずの彼女が、肉を購入した。
そこから導き出される推論は、そう多くはない。
女性が肉を食べるようになったか。
それとも、女性以外の誰かに食べさせるために購入したか。
翌日。
青年はどこにも出かけず、時間を無為に過ごしていた。水を飲み、保存食を口にし、トイレに行く以外はずっと畳に寝っ転がっていた。
この二日間の、ふわふわしていた気分が、嘘のように沈んでいる。
あの男と、彼女が一緒にいる
彼女は、あの男と一緒にいる。
彼女が生きているかもしれない。
その可能性を見出した時は、その他のありとあらゆることはどうでもよくなり、目に耳に入らなかった。
彼女が、生きている。
それさえ確かならば、他のことはどうでもよかった。
でも、いよいよ彼女と、あの男が一緒にいることが現実味を帯び始めた今になって、この頭は奇妙に冷静になり、そして余計な思いを巡らせてしまう。
古い世界が終わり、新しい世界が始まり。
新しい世界で、彼女が一緒にいることを選んだのは、あの男だった。
何故、彼女はあの男と一緒にいるのだろう。
何故、彼女は僕らとではなく、あの男と一緒にいることを選んだのだろう。
青年の知らないところで、青年が知る彼女とは全く違う生活を送る今の彼女。
彼女と共に過ごした時間はわずかに1年。それからすでに数年が経過している。もはや自分たちが出会って共に過ごした時間と、自分たちが離れ離れになって経過した時間とは、後者がはるかに上回っている。その長い時間を、彼女はあの男と一緒に生きながらえている。
自分という存在なしで、成り立っている今の彼女の生活。
所詮自分は、彼女の人生の中でたった1年間存在した、点のようなものでしかないのではないか。
今の彼女の人生に、もはや自分の入り込む余地はないのではないか。
少なくともあの日々において、自分たちは強大な敵を相手に助け合いながら必死で戦ってきた仲間であったはず。
でも、すでに彼女の人生に、自分という存在は必要ないのではないか。
青年は寝返りを打ちながら苦笑した。
そもそも自分は彼女に必要とされていただろうか。
ただ同じ境遇というだけで、それ以外は特に接点もなく、交わした言葉は数えるほどしかない。彼女の中の大部分を占めていたのは、巨大兵器に乗って戦うことと、あの男のこと。それだけだった。あの集合団地と本部とを行き来し、生活の殆どを実験と訓練が占め、敵がやってきたら戦い、時間が空けば学校に行く。まるでルーチンワークのようだった彼女の生活。
当時からして、自分なんかが居なくても、成り立っていた彼女の生活。
それでもその数少ない交流の中で、自分は彼女との繋がりをかんじることができた、ような気がしていた。自分と彼女との間には、それはとてもとても細くて脆いものだったかもしれないけれど、確かな絆があったような気がしていた。
そして、結局は彼女の中での大部分はやはりあの男のことが占めていて、あの男の願いを叶えようと彼女は人間の姿を捨てたのだけれど、でも、最後の最後に彼女が叶えた願いは、あの男のものではなかった。
しかし今、彼女の横に立っているのはあの男であって、自分ではない。
彼女が、新しい世界で選んだ居場所は、古い世界と同じ所。
なんだろう、この喪失感。
そう、あの時に似ている。
彼女が自らの命を賭し、眩い光の中に消えていったあの日。
違う。あの時ではない。
あの時は、何かを感じることすらできなかった。
その夜。
彼女が生きていると聞いて喜んで、でも再会した彼女は、何処か、何か違っていて。
そして彼女の秘密を知って。
もう、自分が知るカノジョとは二度と会えないという事実を突き付けられて。
それでも、以前とまるで変わらない彼女がそこに居て。
失ってしまったようで、でも失っていなくて、でもやっぱりキミは居ない。
悲嘆の刃に心を引き裂かれることもなく、絶望の沼に引きずり込まれることもなく、宙ぶらりんのような喪失感。
そう。あの時に似ている。
2日前に診療所で日傘を差した女性を見た瞬間、何故だろう、少しの迷いも疑いもなく、それが彼女だと分かった。容姿はずいぶん変わってしまっていた。ただでさえ細かった体躯は、さらに細くなっていた。それでもそれが彼女だと分かったのだ。
青年は喜んだ。もう少しで彼女に会える、と。
しかし今、天井を見上げる青年の瞳からは、喜色と熱っぽさが消え失せ、冷めきっている。
―――「あれ」は、本当に僕が会いたかった彼女なのだろうか。
太陽が沈み、部屋の中が真っ暗となり、そして再び陽光が室内を明るくし始めた頃。
青年はゆっくりと起き上がった。
彼は寝ぐせがついた頭を掻きながら、感情が消えた声で、事務的に呟いた。
「行こう…」
服を脱ぎ、浴室に入る。熱も勢いもないシャワーを浴びて2週間ぶりの垢を落とし、この頃油断したら数日で青かびのようになってしまう顎の髭をカミソリで剃り落とす。
着替え終えたら寝袋をしまい、食べ散らかした食品の袋をゴミ袋に入れ、室内を簡単に箒で掃き、カーテンを外す。まとめた荷物を全て軽自動車に放り込み、昼を過ぎた頃にアパートを出たのだった。