告白   作:hekusokazura

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第二章 其の一

 

「…碇…くん」

 背後で開いたドア。

 ドアから流れ込んでくる柔らかな風。

 柔らな風に乗る、小鳥のさえずりのようなか細い声。

 

 声のする方へ視線を向ける。

 開いたドアの向こうに立つ細い人影。

 

 彼女が立っていた。あまり見たことがない、少し驚いたような表情で。

 

 ここに辿り着くまでの心の葛藤。そしてここに辿り着いてから繰り広げられた、目を背けたくなるようなうんざりとした現実。

 それでも数年ぶりに間近に見る彼女の姿、そして耳にする彼女の声。

「綾波…」

 彼女の名前を呼ぶ声が震えているのを自覚した。

 ドアに立つその女性は普段よりも幾分見開いた双眸で青年を暫く見つめ、そして彼の足もとに視線を向けた。

 青年の足もとには床に尻餅をついた男。今や立つことも歩くこともできず、みすぼらしい老人のような姿をした男の前で、仁王立ちしている自分。

 これは少々説明を要する状況であったことを青年は思い出す。

「…これは…その」

 いつか遠い昔に同じようなことがあったな、と頭の隅っこで思いながら、青年が頭の中で言い訳を必死に考えていたら。

 

 背中から大声が轟いた。

「ユイ!!」

 驚いた青年が振り向くよりも早く、女性は抱えていた洗濯かごをテーブルに置くと、無駄のない所作で青年の脇を通り抜け、大声の主のもとに跪く。

 

 彼女がすぐ側を通った。

 ほのかに鼻をくすぐった、懐かしい彼女の匂い。

 でも側を通り過ぎた彼女は、こちらには一瞥もなく、今はあの男の側に膝を折っている。

 

「ああ…、ユイ。何処に行っていたんだ」

 男は縋りつくように、震える右手を女性に伸ばす。女性は男のその手を両手で受け止めた。

「ごめんなさい。洗濯ものを取り込んでいたの」

 今度は男の左手が、女性の二の腕を掴む。

「また消えてしまったのか…と。また俺を置いて何処かへ行ってしまったのか…と」

 女性の両手に包まれた男の右手と、女性の二の腕を掴んだ男の左手の甲に血管が浮き出る。女性の両手と二の腕が、少し離れた場所から見ても分かるくらいに歪んでいる。

「何処にも行ったりなんてしないわ」

 女性は少しも痛がる素振りを見せず、静かな声で言い聞かせた。

 男は今にも泣きそうな情けない顔を、女性の胸に沈めた。

「頼む。もう二度と俺を一人にしないでくれ」

 両手を塞がれている女性は、手のかわりに自分の頬を男の頭部に当てる。男を慰めるように、頬で男の頭を撫でた。

「大丈夫。側にいるわ」

 

 

 ―――なんなんだ、これは。

    僕は一体、何を見せられている。

 

 

 目の前で繰り広げられているコレは何かの喜劇か?もしかしたら男は自分がこの部屋に入ってからずっと、廃人の役を演じているのではないか。

 それとも二人して、自分をドッキリにでも嵌めようと思っているのか?どっかから赤いヘルメットを被った副司令でも出てくるんじゃないか。

 だとしたらあまりにもタチの悪い喜劇であり、あまりにも不出来なドッキリだ。

 ここに来てからというもの、本当にうんざりすることばかりだが、これはもはやうんざりを通り越して、ただただ不快だ。

 

 なぜ、あの男は彼女を僕の母の名で呼んでいるのか。

 いや、狂ってしまった男のことはいい。

 

 なぜ、彼女はその名で呼ばれることを受け入れているのか。

 

 立ち眩みを感じ、後ずさった青年の足が椅子に当たった。

 男が弾かれたように女性の胸から離れ、音を立てた青年を睨みつける。

「ユイ。こいつは誰だ」

 女性は瞳の動きのみで一瞬だけ青年を見て、すぐに男に視線を戻す。

「私の古い知り合い」

「知らん男だ。何故ここに来た」

「懐かしんでわざわざ訪ねてきてくれたの」

「なぜここに来る必要がある。なぜお前に会う必要がある!」

「彼はただのお客さんよ」

「こいつはお前を連れ去りにきたのではないのか!俺とお前を引き離そうと!」

 男の声と女性の手と腕を拘束する手が明らかに暴力的になってくる。青年は二人に割って入ろうとしたが、女性の一瞥に制止された。

「そんなことないわ」

「何故俺たちを引き離そうとする!何故お前は俺から離れようとするんだ!」

 男の耳には、すでに女性の声も届いていない。

「出て行け!すぐに出ていってくれ!出て行け!出て行け!出て行け!」

 振り回される男の腕がテーブルの脚に、ベッドの縁に、車いすのひじ掛けに、そして時々女性の腕に胸に頬に当たる。女性は暴れようとする男を抱き締めながら、青年を見つめた。目が、小屋からの退出を促している。

 青年は何も言うことができず、女性に促されるままにドアへと向かった。背中で、あの男の怒鳴り声と、その合間合間に聴こえる彼女のか細い声を聴きながら。

 

 

 小屋を出ると、壁付けにされた三人掛けのベンチがあり、青年はそこに腰を下ろした。

 ベンチから見える景色。陽光に当てられ水面がキラキラと光る湖、優雅に泳ぐ水鳥、木洩れ日が作り出す湖畔の模様。写真に収めれば、絵葉書にも使えそうな風景が広がる。

 背にする小屋の壁の向こう側では、男の怒鳴り声が今も続いている。

 青年の背中が前屈みに沈む。

 両手で顔を覆った。

 

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