告白   作:hekusokazura

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第二幕 其の二

 

 いつの間にか男の怒鳴り声は止んでいた。

 視界を塞いでいる青年の耳に入ってくるのは、セミの鳴き声と鳥のさえずり。

 それらの音に混じって、ドアノブが回る音、蝶つがいが軋む音。

 青年が顔を上げドアの方を見ると、ドアから出てきた女性と目があった。

 再び、少し驚いたように目を丸くする女性。

 彼女がこの短時間に2回も驚きの表情を見せることは大変珍しいことであったが、青年はそんな希少価値のある女性の表情を眺めることなくすぐに下を向いてしまった。

 暫くして、ドアのカギを締める音。そして青年の視界の隅を、ゴム製のサンダルを履いた女性の足が移動し始めた。左足を引きずるような歩き方。ほどなくしてその足は、青年の前で止まった。ベンチの中央に座っていた青年は、視線を足もとに向けたまま、体一つ分右側に寄った。再びサンダルを履いた足は移動を始め、青年の視界から見えなくなった。古びた木製のベンチが、ミシリという音とともに少し沈む。

 隣から、彼女の体温を感じた。

 

 青年は横目で女性を見る。ベンチの左端に、青年から体一つ分開けて座る彼女。膝に両肘をつき、前屈みに座っている青年とは違い、背筋をぴんと伸ばし、膝の上に交差させた両手を乗せ、視線はまっすぐに湖の水面を見つめている。

 目の前の自然豊かな風景も、先ほどまで小屋の中で繰り広げられた騒動も、全ては別世界での出来事とでも言うかのように、ただ座っている。

 

 たっぷりとした沈黙の後、先に口を開いたのは青年だった。

「父さんは…大丈夫?」

 女性は視線を動かすことなく、小さく頷く。

「ええ。落ち着いたわ」

 

「いつもあんな感じなの?」

「時々」

 

「綾波は…大丈夫なの?」

「ええ」

 

 一つの問答の間に、その問答の数十倍はあろうかという沈黙の時間。

 青年が何とか捻り出した問い掛けを、彼女は事も無げに、機械的に、必要最低限の言葉で返してくる。

 

 初めて会った頃を思い出す。彼女の前では会話の切り出し方も、紡ぎ方も分からず、得体の知れない緊張感に喉を絞められ、まともな会話が成立しなかったあの頃。今の状況は、まるで当時に戻ってしまったかのようだ。

 次に口に出す言葉が見つからない。

 聞きたいことは山ほどあった。でも、どの質問もこの場では場違いのように思える。何を言っても、ただ一言二言だけの素っ気ない返事が返ってきそうで、そこから話を繋げることなど出来そうにない。どの様な言葉も、彼女の前では無意味なような気がした。

 沈黙が長ければ長いほど焦ってしまう自分。でも、彼女は沈黙が続くことを少しも気にしない。このままお互い黙っていても平気で1時間でも2時間でも、下手をすれば陽が暮れて辺りが真っ暗になってしまっても平然としているはずだ。

 何か。

 何か話さないと。

 

「えっと…、葱!あのネギは…!」

 

 進退窮まった末に咄嗟に青年の口から放たれた言葉がそれだった。

「…ねぎ?」

 青年から投げられた意外な言葉に、初めて女性の顔が青年に向けられる。

 

 次の言葉を待つ彼女の視線の先で、青年は自分自身の言葉に呆気にとられてしまったようで、暫く固まってしまい、そして徐々に顔を赤くしていった。

「ご、ごめん…。何でもない…」

 

 ―――好きな葱の食べ方でも聴こうと思ったのか、僕は。

 

 追い詰められた人間は何をするか分からないと言うが、今の自分がまさにそうだった。

 額に手を当て、苦笑いする青年を、不思議そうに見つめる女性。

 醜態を晒して顔は真っ赤になっているが、自分の間抜けな発言が緊張し切っていた彼の身体を脱力させ、また彼女の視線がこちらに向いたことで、青年から次の言葉を出し易くさせた。

 

 少しだけ柔らかくなった声で青年は話し始める。

「ごめんね。父さんのこと…」

「どうして謝るの?」

「僕、父さんがあんなことになってるなんて知らなかったから…」

「…あなたには、知りえないことだわ」

「うん。でも、結果的に綾波に押し付けることになってしまった…」

「押し付ける…?」

 女性は青年の言葉の意味が分からないとでも言いたげに、反復した。

「うん。やっぱり、一応、僕は父さんの息子だから」

 やはり分からない、と言いたげに女性は首を傾げながら青年の顔を見つめる。

「ほら。こういう時って、やっぱり家族が面倒看るべきものだろう?」

「家族…が?」

「うん」

「そう…。分からないわ…」

「うん…。ごめん…」

 

 迂闊なことを言ってしまったと青年は思った。

 青年は単に社会通念上の「家族」の道理を言っただけだったが、「家族」というものを持たず、また「家族」というものが必要とされない環境の中でずっと育ってきた彼女に、一般常識における家族像を説くことの無意味さを、喋ってしまった後になって気づいてしまった。

 

 青年は話題を変えようと、殊更明るい声で尋ねた。

「あ…綾波は、元気にしてた?」

 ハウアーユーは会話の基本だ。

「ええ」

 アイムファインも返しの基本だ。普通はここからハウアバウトユーの流れになるのだが、もちろん青年は彼女にそんなことは期待していない。健気に言葉を続ける。

「最初見た時は誰か気づかなかったよ。綾波、随分変わっちゃってるんだもの」

 嘘だ。青年は女性を見かけた瞬間、すぐに彼女だと気づいた。でも「気づかなかった」とした方が、会話を広げることができそうだったから、彼は嘘をついた。

 そんな彼の涙ぐましい嘘にも、「…そう」とだけ呟く彼女。普通ならここから「どこが変わった?」あるいは「あなたも随分変わった」もしくは「変わっていない」の流れになるものだが、もちろん青年は彼女にそんなことは期待していない。

「どうやって染めてるの?その髪」

 青年は彼女の髪に視線をやる。

 女性は膝の上に組んでいた手を初めて解き、右手で額の生え際から垂れる栗色の前髪を数本引っ張り、自分の視界の中に入れた。

「普通の白髪染め。あまり上手くできてない」

 

 かつて、特異な容姿をしていた彼女の身体の中でも、際立って映えていた水色の髪。それが今ではどこにでもありふれた栗色の髪になっている。本人が言うように染めにはムラがあり、所々から本来の髪の色が覗いて見えるが、濃い栗色に対し、淡い水色はただの白髪のように見え、女性を本来の年齢よりも老けて見えさせてしまっている。

 

 「あまり上手くできてない」という彼女の言葉が、彼女にしては珍しく言い訳めいたような発言だったので、青年は少し可笑しかった。

「…瞳の色も変わったね」

「ええ」

「それはどうやって?」

「コンタクトを使ってる」

「一応聴くけど、ちゃんと毎日洗ってるよね?」

「?」

「最後に洗ったのはいつ?」

「……?」

「…とりあえず、今すぐ外そっか」

 

 赤い瞳の彼女が隣に座っている。

「大丈夫?」

「目がシパシパする」

「…よかったら今度良い眼科紹介するよ」

「大丈夫」

「…そう。…あと、日焼け予防はきちんとした方がいいよ」

「高梨さんにも言われた。日傘は差してる」

「(高梨さんって誰?)うん。でも綾波の顔、赤くなっちゃってるよ。農作業…してるんだよね?」

 三度、少し驚いたような表情の女性。

「ごめん。昨日、農場から出てくるところ見かけたから」

 出てくるところだけでなく、入っていくところまで見ていたことは黙っておいた。

「うん。農場で働いてる」

「農作業中はちゃんと日焼け予防はしてる?」

「長袖着て、帽子も被ってる」

 長靴にモンペ、長袖の作業着にエプロン、軍手、半麦帽を纏った彼女を想像する。

 うん、何だか案外結構意外にも似合っているような気がした。

「日焼け止めクリームとか塗ってる?」

 頭をふるふると横に振る彼女。

「やっぱり。手もほら。荒れ放題じゃないか」

 そう言って青年は女性の手に触れようとしたが、彼女はバツが悪そうに咄嗟に両の手をだるだるに伸びたカーディガンの袖の中に隠してしまった。

「ハンドクリームとか使ってる?」

 首をふるふると横に振る彼女。

「駄目だよちゃんと使わなきゃ。綾波って只でさえ肌が弱そうなんだから。今度良い皮膚科紹介しようか?……あっ」

 一人暮らしをしている娘のところを訪れた、世話焼きなお母さんみたいになっている自分に気づいた青年。

「…ごめん」

 彼女は「いい」と頭を横に振る。

 

「仕事は辛くない?」

「平気」

「意外だったな。綾波が普通に仕事してるのって」

「働かないと、食べていけないもの」

 女性が言ったことはこの世の中で数少ない真理の一つであり、至極真っ当なことだったが、彼女の口からそんな言葉を聴く日が来るとは思ってもみなかった青年である。

「ずっとあの農園で?」

 青年はまた知らないふりをする。彼女があの農園で働き始めたのは、早くても3月前であることを、彼は知っている。

「他にもいろいろ…」

「どんなことしてたの?」

「清掃とか…、交通整理とか…、水産加工場とか…、町工場とか…、いろいろ」

 そこまで聞いて、女性の職歴の中に、いわゆる「夜のお仕事」が無かったことに安心してしまう青年である。

「一度、男の人とお店で1時間お話しするだけでいい、って仕事があったんだけど」

「えっ!!??」

 おそらくこの数年で一番大きな彼の声。

「10分でクビになった」

「…だ、だろうね」

 

 青年は短くなったタバコを持っていた携帯灰皿の中に落とす。ズボンのポケットからタバコの箱とライターを取り出し、一本に火を点けると、右手の人差し指と中指の間に挟み、箱とライターはズボンのポケットにしまった。

 女性は青年の一連の動作を、やはり少し驚いた表情で見ていた。

「あ、これ?」

 女性の視線が、自分が指に挟んでいるタバコに向けられていることに気づく青年。

「ごめん。タバコ、大丈夫だった?」

 女性は頭を縦に振る。青年がタバコを吸っていることが意外だったとでも言いたげな表情。

「別に吸ってるわけじゃないんだ」

 青年の言葉通り、1本目のタバコも、2本目のタバコも、火を点けながらも一度も口に咥えてはいなかった。

「本当は人にあげるつもりだったんだ。暫く困らないように3カートン買ったんだけど。でもここに来る前に面会に寄ったんだけど、リツコさん、もう居なくなっちゃってて、今は行方知れずなんだ」

 彼女が少しでも自分に興味を持ってくれたのが嬉しかったからか。青年は自分が唐突に第三者の名前を出していることにも気づかず、話を続ける。慣れた手つきで先端に溜まったタバコの灰を、携帯灰皿の中に落としながら。

「僕の周りではタバコ吸う人、一人もいないからね。捨てるのも勿体ないから、二十歳になった記念に一本吸ってみたんだけど、これが不味いんだ」

 青年は初めて体内に取り込んだ「大人の味」を思い出して表情をしかめた。

「でもタバコの匂いはちょっと気に入ったんだ。だから時々こうして火を点けてる」

 タバコの先端に微かに灯る赤い火を見つめる。はた、と何かを思い出したように顔を上げ、女性の顔を見る。

「ごめん。この事は他のみんなには内緒にしておいてほしいんだ」

 何故?と少しだけ首を傾げる女性。

「だって恥ずかしいじゃないか。吸ってもないタバコに火を点けて見てるだけなんて。子供の火遊びじゃないんだから」

「…そうかしら」

「アスカとかにバレたらそりゃもう笑いものだよ。「あんたなんかココ○シガレットでも噛んでなさい」とか言われて絶対に馬鹿にされる。賭けてもいい」

「…アスカ?」

「そう。アスカ。アスカは元気にしてるよ。アスカは凄いんだよ。あの後大学に入ってすぐに卒業してご両親と同じ科学者目指してたんだけど、「結局人の世界を支配しているのは法なのよ」とか何とか言いだし始めて、大学入り直して、今は弁護士目指してる」

「…そう」

「アスカとは今も時々会ってるんだ。今は喫茶店とかで時間を潰すくらいだけど、アスカも12月には二十歳だから、きっとそれからは飲みにも連れて行かれちゃうんだろうな。あれは絶対にミサトさんタイプだから、ちょっと今から心配だよ」

「…そう」

「ほかにもトウジとか、ケンスケとか。洞木さんとも時々会ってるよ。トウジもすごいよ。義足付けてからは、物凄くリハビリ頑張って、今はもう普通にバスケットやってるし」

「…そう」

「ケンスケは念願の自衛隊に入ったんだ。よっぽど舞い上がってるんだろうね。今もよく戦車や戦闘機の写真を送ってくるよ」

「……」

「洞木さんは高校卒業したら、商工会議所に就職したんだ。トウジとは離れ離れになっちゃったけど、あの2人、この先大丈夫なのかな?」

「……」

「あとあのオペレーター3人組ね。伊吹さんは国立の技研に入って、ああ日向さんは国の機密情報漁ってたのがバレて実刑食らってたけど、出所してからは青葉さんとベンチャー企業起ち上げたらしんだ」

「……」

「……」

「……」

「…ごめん。つまらなかった?」

 最初は入れられていた女性の相槌が、青年が夢中になって喋っている間に消えてしまった。

 女性はゆっくりと、しかし縦か横か曖昧に頭を振った。

「その人たちのこと、知ってる、けど…。赤木博士以外、「私」、会ったこと、ない、から」

「……そっか」

 

 青年は自分の失敗に、心の中で頭を抱えた。

 

 全てが混ざり合ったあの時。特に密に交わりあった彼女とは、心の奥底で確かな繋がりを感じることができた。現に、彼女は最後に願いを叶えてくれた。

 彼女ととわの別れをし、月日が過ぎ、彼女の名を口にすることもなくなり、思い出すことも少なくなり、彼女の印象が薄れていく中で、いつの間にか自分の中でカノジョと彼女を重ねることに違和感が無くなっていた。やっぱり彼女はカノジョだったんだ。そう思うようになっていた。

 だから、今、横に座っている彼女に。久しぶりに、本当に久しぶりに会った、もう二度と会えないと思っていた彼女に、まるでカノジョと話しをしているかのように、話していた。

 青年は頭の中で時系列のページを捲った。

 確かに、「彼女」は女性科学者以外とは対面したことがない。

 カノジョが消えてしまい、もう一人の「別の」彼女が現れた時。2人目のパイロットは入院していたし、同級生たちはすでに疎開していたし、オペレーター達ともモニター越しの音声でしか交流はなかったはずだ。

 女性科学者は言っていた。彼女「たち」は、個体は別々であっても、魂と記憶は受け継がれている、と。

 確かに記憶は「共有」されているようだが、今、すぐ横に座っている彼女にとって、カノジョの記憶は所詮他人のものに過ぎないのかもしれない。自分が喋っていたことなんて、彼女にしてみれば、例えば写真でしか見たことがない人たちの話しを、長々とされているようなものなのかもしれない。自分だって、時折会う同級生たちから、大学や職場で自分の知らない友人たちの話しを喜々とされても、「ああそう」と愛想笑いを浮かべるしかできない。

 

 ふと、青年は思う。

 

 ―――僕は、

    僕はどうなのだろうか。

    今日、君に会いに来た僕は、彼女にとって…。

 

「…碇くんは…?」

 不意に、女性の方から声が掛けられた。

「碇くんは、どうしてたの?」

「僕…?」

 女性の方を向くと、彼女の瞳がまっすぐにこちらに向いていたため、青年は少したじろいでしまう。

「碇くんは、何故、ここに来たの?」

 瞬きもなく向けられる眼差し。青年はすぐに視線を逸らしたくなったが、誰かの手に拘束されているかのように、顔も瞳も彼女の眼差しから背けることができなかった。

「…僕は…君のことを捜していた…」

 嘘は言っていなかった。実際、彼はこの数か月間、女性を捜し出すことに腐心していた。

「…今日は、君に…会いに来たんだ」

 これも嘘ではなかった。彼女に会うのはその先にある目的を果たすための必要な過程でしかないが、「彼女に会いたい」という思いは本物だった。

 青年の返答に、しかし女性は表情を一切変えることなく、再び視線を湖の水面へと戻した。

 ぽつりと言う。

「何故…、会いに来たの?」

「何故…って…」

「あなたが捜していたのはは、本当に「私」なの?」

「……うん」

「あなたが会いたいと思っていたのは、……本当に…「私」なの?」

「……」

「「私」は、…あなたが知っている綾波レイ、ではないわ…」

 

 タバコを持つ青年の指が緩んだ。その拍子にタバコが大きく傾き、先端に溜まった灰が、ぼとりと地面の上に落ちる。

 青年は灰が落ちた地面を見つめた。

 鳥の囀りや虫の鳴き声が聴こえなくなった。

 木陰の隙間から降り注ぐ日差しが消え、周囲が真っ暗になった。

 女性は遠くを見つめたまま、それ以上話そうとしなかったし、青年も地面を見つめたままで次の言葉を見つけることができなかった。

 木漏れ日の下の三人掛けのベンチ。一人分の隙間を空けて座る男女。

 

 ただ時間だけが過ぎた。

 

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