舞台は今より数百年をさかのぼった、近世ヨーロッパ。
政治の中心が貴族から民衆へと移り、同時に工場の煙の臭いが町中に漂い始めたころ。
とある邸宅の地下室で、悪魔召喚の儀式が行われようとしていた。
煉瓦造りの床に描かれたいびつな魔方陣。その周りに並べられた蝋燭の炎で、真ん中で膝をつく黒いローブの人物の姿が暗闇に浮かび上がる。
ローブの人物は、胸の前で固く両手を握り合わせた。
「…お姉ちゃんが亡くなってから、皆変になってしまったの。
パパやママは昼も夜も嘆いてばかりで、私のことなんて気にもとめない。使用人たちも悲しみに沈んで、まるでこの家だけに世界の終わりが来たみたいよ!
私、毎日寂しくて……つらくて……」
悪魔召喚、という言葉の印象からはあまりに遠い、震えるような、今にも消えてしまいそうにか細い声が地下室の闇に吸い込まれていく。
「お願い、どうか私を…私を一人にしないで!」
声を振り絞って叫ぶ、その頬から落ちた涙の雫が床を湿らせるのと同時――
「いいだろう。その願い、確かに聞き届けた!」
地の底から響くような声と共に、魔方陣から黒い霧が吹きだした。
あっけにとられたように尻もちをつくローブの人物。
その視線の先で空気が渦を巻き、夜の闇よりも深い黒が、すすけた天井を塗りつぶしていく。
闇の中で頼りなげに揺れる蝋燭の光が、黒い霧の中に見え隠れする紫の球体と、金色の鳥かごを照らした。
紫の球体―――悪魔の眼球がぎょろりと蠢く。冷たく感情のない声が響いた。
「我が名はアモン。強欲と富貴を司る者也。私を喚んだのは君かね。」
自分の頭よりも巨大な瞳が目の前に迫り、僅かに肩を震わせた召喚者は、初めてフードを取ってその素顔を晒した。
アモンの瞳に映ったのは、緩やかにカールした金髪を花飾りでとめた年端もいかぬ少女だった。肌は一度も外に出たことがないかのように白く、黒いローブの下からフリル付きのワンピースドレスの裾が覗いている。首元に十字架のネックレスをぶら下げ、あどけない両手で分厚い魔導書を抱える姿は、さながら天使が魔女の仮装をしているかのような奇妙さだ。
それでも、その翡翠色の双眼だけは、決して臆するまいと悪魔を見つめ返していた。
アモンは何も言わないまま、黒い雲のような体で少女の周りを漂いながら、値踏みするようにその姿を眺めている。少女は黒い霧が体にまとわりつく感覚に、石のように体を緊張させて棒立ちになっていた。
「名前。」
「……えっ?」
だから、ようやく沈黙を破ったアモンの言葉にも、すぐには反応できなかった。
「君の名前はなんだと聞いている。」
淡々と繰り返される質問に、ようやく自分が何を言うべきか理解する。
「わっ、私はマリア。マリア・ハリントンよ。
よろしくね、悪魔さん。」
そして友好の印として握手をしようとするが、相手に手がないことに気づくと手をひっこめる。そして、せめて精いっぱいの笑顔でその気持ちを表現することにした。
突然満面の笑みになったマリアに不可思議そうにしていたアモンだったが、しばらくしてまた声が響く。
「まあいい。…しかし、お粗末な召喚者もいたものだ。
私を一人にしないで…だったか?あんな隙だらけの願いを悪魔に向かって口にするとは。」
「え…と。どういうこと?」
アモンの目がじろりとこちらを向く。アモンに口は無かったが、この悪魔がとても深いため息をついた気がした。
「願いの内容が大雑把すぎる。要は君が一人にさえならなければいいのだからな。あれでは悪魔のペットにされようが、地獄に持ち帰られて死者の兵団に仲間入りさせられようが文句は言えん。」
「っ、そんな……それなら、言い直し——」
「一度言った願いに変更は認められん」
必死の叫びをにべもなく切り捨てた悪魔アモンは、ちらりとマリアの顔を見る。
そして、その表情に初めて恐怖と呼べるものが浮かんだことを確認すると、初めてかすかに目を細めた。
「…話が逸れたな。ともあれ、願いを言い終えた時点で、それをどう解釈し、どうやって願いを叶えようが私の自由だ。また、私は自分の能力の及ぶ範囲で君の願いをかなえるが、対価として契約完了後に君の魂を頂戴する。そのネズミのように小さな脳髄に、それくらいの知識は詰め込んであるだろうな?」
黒い霧にちらつく金の鳥かごが、何故かとても恐ろしく思えた。マリアは汗ばむ手で魔導書を握り直し、唾を飲み込んでこくりと頷く。
「よろしい。では、願いの叶え方だが…亡くなった君の姉を蘇生する、もしくは新たに作るというのは不可能だ。それは悪魔ではなく神の領分だからな。なので……」
悪魔アモンは、そこで一旦言葉を切り、たっぷりと間を取ってから次の言葉を口にした。
「私が君の姉の姿をまねて君の傍にいよう。」
「え……」
先ほどまで脳内で数々の恐ろしい想像を繰り広げていたマリアは、その言葉を理解するのに数秒かかった。そして、理解したとたん、体を支える糸が切れたかのようにへたり込んだ。
「わ…私、鳥かごに入れられてペットにされちゃうのかと…」
「君のようなちんちくりんをこの鳥かごに入れるほど、私の審美眼は腐ってない。ここに入ることを許されるのは、私が美しいと認めた美術品だけだ。」
「じゃあ…私と、一緒にいてくれるの?」
「だから、そうだと言っているだろうに。わかったら、その姉の肖像画か何か――」
その言葉は最後まで続かなかった。なぜなら、みるみるうちに表情を歓喜でいっぱいにしたマリアが、立ち上がるや否やアモンのガス状の体に抱き着こうとしたからだ。
当然、腕は虚しく空を切ったが、彼女の興奮はさめないままだった。
「っ、ありがとう!私ずっと、一緒にいてくれるお友達が欲しかったの!あなた見た目はちょっぴり怖いけど、やさしいアクマさんなのね…!」
先ほどまでのおびえた様子が嘘と思われるような、まじりけなしの笑顔を浮かべるマリア。
高揚、感動、親しみ、感謝。悪魔たるアモンにはあまりにも不似合いな感情を惜しげもなくぶつけられ、アモンはほんの少しひるんだ。そして、相手をするのも面倒くさいと言わんばかりのため息を一つついて、地下室のがらくたからマリアの姉の姿がわかるものを探し始める。
「…友達云々は見当違いだ。私はただ、傍にいると言ったにすぎん。勝手に言葉を拡大解釈するのはよしたまえ」
「カクダイカイシャ…って、なあに?」
「辞書を引け。」
もしかすると自分は、とても面倒な契約をかわしてしまったのではないか――そんな事を、頭の片隅で考えながら。