悪魔アモンがマリアの召喚に応じてから、早数十分後。
「…本気か?」
マリアの自室に苦悩の声が響いた。
全身鏡を前にその言葉を発したアモンの姿は、先ほどまでのような黒い霧の塊ではく、十代半ばを少し過ぎたと思しき少女だった。
夕日に透けて流れるプラチナブロンド。無表情ながら人形のように整った顔立ち。マリアよりわずかに高い程度の背丈。そのすべてが、鏡の横に立てかけられた絵――マリアの姉、レイラの肖像画を再現したものである。口から出るのも先ほどの恐怖の塊のような声ではなく、少女らしい、鈴を転がしたような声だ。
にもかかわらず、アモンの纏う雰囲気は明るいものではない。その理由は明白だった。十余歳の少女を完璧に再現したはずの足の太ももから下は、なぜか細かいグレーの毛におおわれ、足先には五本の指ではなく蹄が映えている。頭の両側にはヤギの耳と、あろうことかぐるぐるとねじ曲がった角までもがくっついていた。ほかに瞳も肖像画のような翡翠色ではなく紫色なのだが、これほどの失敗の前では些細な違いに思われた。
アモンは鏡に映る自分の姿を見ながら、最後に人間に化けたのが軽く数世紀以上前であったことを思い出す。
何度かやり直しを試みたが、足を人間のものに戻すと今度は両手が蹄になり、さらに苦労して両手を人間のものに戻すと、すかさず背中からコウモリのような翼が生える。どうやら今の自分の変身技術では、体のどこかしらに悪魔としての特徴が出てしまうらしい――それが、試行錯誤を重ねた末にアモンが出した結論だった。
おまけに――
「…君。もう一度聞くが……この姿でいい、というのは本気か?」
「うん、本気よ。だって私、お姉ちゃんも大好きだけれど、ヤギさんも大好きだもの」
「いや、そういう問題では…そもそも、私はヤギではない。これは『悪魔はヤギのような角や蹄を持っている』という人間の信仰を反映したものだ」
呆れ気味に言いながらアモンは背中を確認する。髪に隠れて見えづらかったが、腰あたりに出来損ないのように小さいヤギの尻尾がくっついていた。
「……うーん、よくわからないけど…でもその格好、劇の仮装みたいでかわいいから、いいんじゃないかしら。」
ここまで素直に認められてしまうと、へたに悩むのが馬鹿らしくなってくる。
「…まあ、暗示でごまかせば違和感は抱かれないだろうし…、君がいいならそれで結構。」
しぶしぶ了承する言葉を聞くと、マリアの表情はぱっと明るくなった。
「さあ、そうと決まれば服を決めなくちゃ!下着はお姉ちゃんのお下がりがあるけれど、他はどうしよう?…あ、この薄むらさきのジャンパースカートなんてどうかしら!裾いっぱいにすみれの刺繍がしてあって…」
「却下。」
クローゼットのほうへ歩いて行ったマリアが、これでもかとフリルのついた服を取り出したのを見るや、アモンは半ば言葉を被せるように拒否した。そして彼女が次を取り出そうとする前にすばやく視線を巡らせ、クローゼットの隅にかけられた古いコートに目をつけた。
「よし、これにしよう。」
「え?」
おもむろにパチンと指を鳴らすと、アモンの周りで黒い霧が渦を巻く。あっけにとられたマリアが見守る中、黒い粒子が糸のように縒り合わされ、身にまとう服が下着から順に次々と形成され――最後に、どう見ても子供の体には不釣り合いな、大きすぎる黒コートが体を包み込んだ。
「フム、悪くない。」
満足げなアモンに対し、マリアは見るからに不服そうだ。
「えー……なんだか地味だわ。もっとかわいい格好にすればいいのに。」
アモンは不満の声など聞こえてすらいないかのように、コートの中に金の鳥かごをしまい込み、全身鏡で姿を確認している。
「悪くはないが……顔がすべて見えているのは落ち着かんな。」
そして再び指を鳴らすと、今度はつばの広いとんがり帽子が頭にかぶさった。
「えー!!!」
一気に顔の半分ほどが影になってしまったアモンに、不満の声の音量が倍増するが、やはりアモンは意に介さなかった。
「服についてまで得手勝手に意見される筋合いはない。契約の範疇外だ。…さて、次は名前だが。」
難しい言葉を使われると反論のしようがないマリアは、せめてもの抵抗として両頬を膨らませたが、アモンに口にクルミを詰め込んだリスを連想させるだけに終わった。
しばしの沈黙の後、根負けしたマリアが口を開く。
「そのままアモンって呼んじゃだめなの?」
「駄目だ。よほどの馬鹿でない限り悪魔の名前だと察する。ヨーロッパ中、君のような者ばかりならバレないのだがね。」
「わかった、それじゃあ私がすてきな名前を考えてあげる!」
皮肉を言われたことに気づかないまま、生き生きとして紙とペンを取ってくるマリア。
「えーと…アモンって、Amonよね。じゃあ、アムとか…アーモ……ナム……うーん」
そしてたっぷり五分は思案した後、ふと顔を上げる。
「…マーモ。マーモっていうのは、どうかしら!」
うきうきとした顔で提案されるが、アモン本人としては、偽名などどんなものでも構わなかった。
「それで結構。」
「やったぁ!きっと気に入ってくれると思ったわ。」
――いや、べつに気に入ってないが。アモンはそんなことを思ったが、特に言う必要もないので黙っていた。
「それじゃあ…改めて。よろしくね、マーモ。」
マリアは、名前を呼ぶだけでうれしそうに声を弾ませながら手を差し伸べる。しかし、その手が握り返されることはなかった。
「…マーモ?」
代わりに掌の上に置かれたのは、一枚の金貨。表面には、幾何学的な模様と英文字が精巧に浮き彫りにされている。それはシジルと呼ばれる、それぞれの悪魔に固有の印章のような物なのだが、当然マリアは知る由もなかった。
「握手はまだだ。先に契約の仕上げをしなくてはね。」
「仕上げ?」
「そうだ。契約の終わり……いつ君の魂を頂戴するかについて、まだ決めていなかっただろう。」
――むしろ、私にとってはこれ以外どうでもいい。
アモン、改めマーモは心中でつぶやき、マリアの表情を伺い見る。
彼女の表情に恐怖の色はない。ただ大きな翡翠色の目に金貨を映して、不思議そうな顔で呆けているだけだ。悪魔に魂を喰われることの意味――命を落とし、天国にすら行けぬまま消滅することの恐ろしさを理解するには、この少女はあまりに幼かった。
それを確認して満足すると、マーモは金貨に指を乗せる。すると、指の触れた部分から広がるように金貨がじわじわと輝き始めた。
「それでは…これより正式に契約を取り結ぶ。『悪魔アモンは、召喚者マリア・ハリントンの望みに答え、その姉の姿で彼女の傍にあり続ける。そして――彼女が“もう寂しくない”と口にしたとき、対価としてその魂を一片残らず喰らうだろう。』」
教会の説法の如き厳粛な調子で言葉が響く。契約というものの重要性をよくわかっていないマリアも、思わず背筋を緊張させて聞き入った。部屋が再び静寂で満たされると、同時に手の上の金貨は一層輝きを増し、恒星と見間違うほどになったかと思えば、ゆっくりとマリアの手の中へと沈んでいった。
ずっとぼんやりと見守っているだけだったマリアが、そこで初めて驚きに声を上げる。
「え……えっ!?うそ、どこ行っちゃったの!?」
「君の中に。別に肌身離さず持っているだけでも構わんのだが…子供はすぐ物をなくすからな、この方が良かろ。」
「へぇー…」
いまいちピンと来ていない顔で手の甲をさすっていると、おもむろにマーモが手を差し出した。
「さて…これでようやく、握手もできるというものだ。精々、私を退屈させないように励んでくれたまえ。」
帽子のつばの陰から吸い込まれそうな紫色の瞳に見つめられたマリアは、初めこそきょとんとしていたが、すぐに日だまりの花のような微笑みを浮かべてその手を握り返した。
「ええ、もちろんよ!」
孤独で偏屈な悪魔と純真無垢な少女。この奇妙な契約の成立を、夕日に輝く金の鳥かごだけが見守っていた。