翡翠の瞳に魅せられて   作:H.akua

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第三話

 地獄の最果て、死者の嘆きも悪魔の笑い声も届かぬヒヌノムの谷底こそが、七つの大罪の悪魔たるアモンの住処だった。

 光の届かぬ谷底が薄ら金色に光って見えるほどの金銀財宝、珍品名品がそこらじゅうに無造作にちりばめられているにも関わらず、そこへ寄り付こうとする者は時折空を横切る大蝙蝠を除いては皆無に近い。時折財宝を狙って訪れる不届き者は幾重にも張り巡らされた防御魔術に阻まれ、運よくそれを超えた者も、財宝の輝きで暗闇に照らし出される紫の瞳のひとにらみで、皆逃げていくのだった。

 そして、アモンがその財産を実際に使うところはおろか、どこかへ持ち出すところを見た悪魔さえ、地獄には一人としていない。

 宝物庫の番人。莫大な財産を使うこともせず、頑なに人に奪われまいと守っている、強欲の化身のような悪魔——アモンは、侮蔑と畏怖を込めてそう呼ばれた。

もっとも、多くの悪魔に広まっている認識とは異なり、アモンにとっては谷底をきらびやかに飾る億万の財宝など土くれ同然の価値しかなく——この悪魔はただ、自分の“宝物”を入れた小さな金の鳥かごを守っているだけなのだが。

 牡鹿を精巧にかたどった銀細工。古代エジプトの装飾鏡。完璧な均衡を保つ天球儀。果物の籠を抱えた夫人の肖像画。色も形も様々な宝物の共通点は、アモンが心からその美しさを認めたことだった。

 そして、これまでアモンの生きてきた数千年は、時折人間の魂を取ったり趣味の読書をすることを除けば、ほぼ全てがこれらの宝物を眺め、美しさを愛でることに費やされていた。人付き合いを嫌うアモンの世界は、深い谷底の小さな鳥かごの中だけで完結している。そして彼自身も、その傍目には退屈な日々に充足しきっていた。何しろこの悪魔の価値基準では、鳥かごに収められた宝物の数々は、たとえ世界のすべてを天秤にかけても釣り合わないほど尊いものだったのだから。

 そんなアモンなので、自分を召喚しようとする数々の人間の中でひときわ幼い少女の情念に答えてやる気になったのも、他者との交流とか新たな事への挑戦というような殊勝な目的からではない。ただ、書店で読みなれない類の本を手に取ってみるような些細な好奇心から、「善良で無垢な人間の少女」という自分にとって未知の生き物について知識を増やすのもいいか、と思ったに過ぎなかった。

 ただ——ほんの少し、ほんの少しだけこの少女に、見慣れた世界に変化を与えることを期待していたのも、また事実だが。

 

 

 

 そして、現在。

 マーモは椅子の背もたれに身を預け、降りしきる雨の音を聞きながら午後の読書を楽しんでいた。背後に影のように控えるメイドが紅茶を出そうとするが静かに首を振って断る。

 一家で暮らすには少し広すぎるが、派手過ぎず品のいい街はずれの豪邸。その中でまるで切り貼りされた絵のように明確な違和感を放つマーモは、当然のようにハリントン家の日常に居座っていた。隠そうともしない特異な容姿にも、見た目に似合わぬ年寄りじみた雰囲気にも、疑問を感じる者はいない。

 これはもちろんマーモの暗示によるものであり、使用人のみならずこの家の者はマリアをのぞいて全員、「マーモは遠縁の親せきで、不幸にも両親が相次いで病死したためこの家に養子に出された」という体のいい設定を信じ込んでいる。

亡くなったマリアの姉、レイラと容姿が瓜二つなこともあってか。養子であるにも関わらずマーモの待遇はやたらと良く、わざわざマリアの部屋の隣に自室まであてがわれた。

 かくしてマーモは、何の問題もなくハリントン家に紛れ込むことに成功し、時間がゆっくりと進む午後のひと時に平穏な読書を楽しんでいるのだった。

 しかし、両開きのドアを勢いよく開いて駆け寄ってきた少女、マリアにその平穏はいともあっさりと破壊される。

「ねえマーモ、聞いて!パパがおみやげに勝ってきてくれた缶入りのクッキー、あんまり美味しくてもう半分も食べちゃったの!」

 突然の騒音に山羊の耳がドアのほうを向く。マーモは、戦利品を見せるように得意げな様子で小さなクッキー缶を見せながらキャッキャとはしゃぐマリアを見て深いため息をついた。そして、ついこの間まで実体がなかった自分が、すでに「ため息をつく」という行為に慣れつつあることに気づいて更にげんなりする。

 

「ねえマーモ、このケーキを半分こしましょうよ。」

「ねえマーモ、あなたが読んでる本ってどれも字がいっぱいね。私にも読めるかしら?」

「ねえマーモ、庭にカササギが巣を作ってるの!」

 

 召喚からたった一週間の間だけで、すでに耳にタコができるほど「ねえマーモ」という言葉を聞き続けている。ついにはこの少女がいないところでもこのキンキンと高く響く声が耳にこびりついて聞こえるようになってきたので、マーモはこれを言われるたびにこれ見よがしになるべく大きなため息をついて、最大限そっけない対応を返すようにしているのだが、そんな繊細な嫌がらせが子供に通用するはずもなかった。

「せっかくだからマーモも食べてみない?はちみつがいっぱい入ってて、ほっぺたがとろけるくらい甘いの。」

 粉まみれの手で無邪気にクッキーを差し出してくるマリアは、そんな苦悩など知るはずもない。マーモは本から顔を上げることもなく口を開いた。

「結構。そもそもこの間話しただろう、私の食事は人間の魂、それと負の感情だけだ。人間の菓子などを口に入れても何の足しにもならん。どぶに放り捨てているのと変わらんよ。」

 極めてそっけないマーモの言葉に、マリアはしばらく難しい顔をして「うーん…」と悩んだ。

「でも…お腹いっぱいにならなくても、おいしいって思ってもらえれば、私は嬉しいな。それに…」

「それに?」

「せっかく人の姿になったのに、お菓子のおいしさを知らないなんてもったいないじゃない?」

 マリアは屈託なく言うと、再びクッキーを差し出して首をかしげる。マーモはしばらくその小さな手のひらを見つめていたが、すぐに本を閉じて席を立った。

「君の価値基準で私にあれこれと指図される覚えはない。」

 そのまま踵を返したマーモが何か言われる前に立ち去ろうとした時、ふいに二階から物が割れる音と何人かのメイドの焦った声が響いた。山羊の耳がくるりと音の方向を向く。

「っ、ママ…!」

 その音を聞いた途端、マリアの顔から瞬く間に笑顔が消えていくのがマーモの目に映る。そして、はじかれたように立ち上がると、クッキーには目もくれずに声のする二階へと駆けていった。

 残されたマーモは、開きっぱなしになったドアを見てかすかに目を細めた。

 

 

 

 マーモがマリアを追って二階へと上がった時、ちょうど上品ないでたちの夫人が、階段の前でメイドやマリアと押し問答をしているところだった。

「何度も言っているでしょう、レイラがいなくなったのよ!ああ、きっとあの子、お父様の帰りが遅いからって、町まで見に行ったに違いないわ!こんなに雨も降ってるのに…、すぐにでも探しに行かないと!」

 レイラがいなくなった。不安と焦燥をにじませた声でそう叫ぶ夫人は、マリアの母親でありハリントン子爵の妻、エルザだった。美しい金髪が乱れているのにも構わず、取り乱しきった表情で話す彼女の瞳には涙がきらめいている。

 しかしレイラとは誰だったか。しばしの間記憶を辿ったマーモは、レイラというのが自分の今の姿のモデルになった少女、すなわち亡くなったマリアの姉であることを思い出す。そして、もう一度エルザ夫人のほうへ視線をやった。

 我が子を想って涙を流すその表情には不自然さも狂気も感じられない。この貴婦人は、とっくに死んだはずの娘の安否を心配するという矛盾した行為に、少しも違和感を感じていないようだった。

「ですが……ですが、レイラお嬢様は……!」

 そこまで言って耐えかねたように言葉をつまらせたメイドは、自分の主人がどこにもいない娘を捜し歩いて濡れ鼠になるのを何とか止めようと必死に押し問答を続けている。それでも一歩も引きさがる様子のない彼女がいよいよ階段を駆け下りようかという時、ほんの一瞬うつむいて唇を固く引き結んだマリアがそちらに歩み寄るのがマーモの目に映った。

「大丈夫よママ、お姉ちゃんは今朝から具合が悪くって部屋で寝てるの。後で私があったかいレモネードを作って、持って行ってあげるのよ!だから、ママは心配しないで?」

 次に顔を上げた時、マリアの顔には先ほどの表情など影も形もなかった。母の両手をとって優しく語りかけるその顔は、先ほどマーモに見せたのと同じ人を安心させる柔らかな笑顔そのものだ。そうして腰に抱き着いたマリアがちょっと首をかしげてそちらを見上げると、先ほどまで頑として譲らなかったエルザも、ようやくわずかに平静を取り戻した。

「…あら、あらあら。そうだったかしら?御免なさいね、最近レイラの姿が見えないととても心配になってしまうの。どうしてかしらねぇ、あんなに元気なのに……」

 まだどこか腑に落ちない様子でしきりに首をかしげながら寝室に戻っていく母親を見送って、ほっと息をついた少女を、アモンは遠巻きに観察していた。

 

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