翡翠の瞳に魅せられて   作:H.akua

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第四話

——心の病、か。

 騒動も収まり、日も暮れかかったころ。マーモは自室で精神病について書かれた分厚い医学書を捲りながら内心でつぶやく。性懲りもなく遊びにきたマリアが本を机の上に積み上げているのだが、眼中に入っていない。先ほど階段で見たような光景はどうもこの屋敷では格段珍しいことでもないらしく、一年前にエルザが“発症”してからは、大なり小なり毎日同じような騒動が繰り返されていると聞いた。夫のバーナビー氏は、愛する妻が精神病院とは名ばかりの監獄に閉じ込められることを許さなかったため、数日に一回はレイラの姿が見えないと喚く彼女と使用人やマリアとの間であのような騒ぎが起こるらしい。だが、それをマーモはが目にするのは今日が初めてだった。

——娘の死を受け入れられず、現実を否定したいと思うあまり幻覚を見る。確かによくある話だが…

 声高に娘の名を呼ぶエルザ夫人のあの目が、なぜかマーモの脳裏にこびりついて離れなかった。

 考え疲れて一旦思考を中断すると、視界にようやくマリアの姿が入ってくる。ふとマーモは先ほどのことを思い出した。

「そういえば——随分と演技達者なようだな。」

「え?」

「先ほど、君が母親にやっていたことの話だよ。その年のわりには作り笑いが随分とうまい。頭が砂糖でできた馬鹿かと思っていたが、妙なところで小賢しいものだ。」

 机にあごをのせて山と積まれた本のタイトルを読むことに腐心していたマリアは、はじめ何の話をされているかまるで分っていない表情できょとんしていたが、しばらく考えてようやく合点がいったように頷いた。

「…うーん、自分ではうまく笑えてるかわからないけど…、マーモが褒めてくれるなら、ほんとに上手いのかも。…あ、もしかしたらママ譲りかもしれないわ。ママってああ見えて、昔はすごい女優さんだったのよ?お姉ちゃんが生まれた時にやめちゃったらしいから、見たことはないけれど。」

ほら、と言いながら黄ばんだ新聞紙の切り抜きをこちらに見せてくる。表情こそ笑顔だが、その声音からはどこか無理をして明るく振舞っているようなわざとらしさが滲み出ていた。

 しかし、マーモの見透かしたような視線に射抜かれると、きまりが悪そうな笑顔で視線をあちこち彷徨わせ、そしてゆっくりと下をむいた。

「……でも…私はやっぱり、嘘をつくのって苦手。なんだかママに悪いことしてるみたいで、胸がちくちくするし、それに…」

 そこまで言葉を吐くと不意にマリアはうつむいた。次の言葉を言いあぐねているかのように、その口がのろのろと開閉する。中々話の続きが切り出されず、随分と長い間沈黙が部屋を包む。時計の短い針が一周しようかという時、とうとう痺れを切らしたようにマーモが椅子から立ち上がった。

「………ああ全く、いつまでそうしている気だ?君の家の者ならともかく、悪魔相手に何を気を使うことがある。私は本の続きを読みたいんだ。吐きだしたいことがあるなら、好きなだけ言うだけ言ってさっさと消えてくれ。」

 心底煩わしいというようにシッシと手を振ったマーモは、反応を伺おうと帽子の下から視線を送る。そして、その表情を見てわずかに面食らった。なぜなら、マリアの大きな瞳にみるみるうちに涙が溜まっていき、溢れて頬を流れ落ちるさまがありありと目に入ったからだ。

「あの、…ぁ、あのね、私……ママにうそをつくたび、お姉ちゃんのこと思い出すの…っ、……こういう時お姉ちゃんはどうしてただろ、何を言ってただろうって…。わたっ、わたし…それが、すごく、つらくって………お姉ちゃんはもう居ないんだって、思ったらぁ……」

 ぽつりぽつり、何度もしゃくりあげながら紡がれた言葉は、おそらく随分前からマリアの心の奥底に秘められていた弱音だった。一度せきを切ってあふれ出した感情はとどまることを知らず、ついにはマーモの肩に抱きついてわっと泣き出した。

「でも、…ッ、でもね、ママもパパも家の人たちも、……私よりもっともっと、何倍もつらそうなの…。わたし、子供だから、パパが話してるようなむずかしいことは、わかんないけど……。だから、…っ、おねえちゃんもいないし、……だ、誰に話していいか、わかんなくて…」

 途絶え途絶えに、途中からは何を言っているかもよくわからないような言葉を吐き終えた少女は、あとはただ泣きじゃくるばかりだった。縋りつかれているマーモの方はと言えば、ただただ困惑してこの少女を見つめながら、されるがままで棒立ちになっていた。途中、何度かやんわりと引きはがそうと試みたが、嫌々と駄々っ子のように首を振ったマリアがより一層強くしがみつくだけだったので、すぐにあきらめた。

 マリアは涙が止まってからも、随分と長いことマーモの肩に顔をうずめて小さな声でしゃくりあげていた。ようやく落ち着いてマーモから離れたのは、もう日も完全に暮れてからである。長い間部屋に居座ってしまったことと、コートを濡らしてしまったことを謝ったマリアの顔は、目が真っ赤に腫れていたが、どこか晴れやかだった。

 マーモは、元気を取り戻して走り去っていく背中を見送った。その姿が見えなくなったとたん、嵐が過ぎ去った後のような壮絶な疲労感が肩にのしかかる。ほとんど後ろに倒れこむように背後の椅子に沈み込むと、ぼんやりと天井を見上げた。

——どうでもいい。

 屋敷の人々の不幸も、快活なマリアが内に秘めていた悲しみも、マーモにとっては全くどうでもよかった。人間の嘆き、悲哀、嫉妬、懊悩。それらは悪魔にとっては、皆等しく食料。いくら弱音を吐かれても共感などできるはずもない。

 だというのに。

「ありがと、明日からはちょっぴり元気な私に戻れる気がする。——…マーモがいてくれて良かったわ。」

 そんな言葉を吐いて去っていったマリアの声音は、憑き物が落ちたように軽かった。

 あの時のマリアの感情が何なのか、マーモにははっきりとわからない。だが、また心に問題を抱え込んだとき、あの少女は必ず自分の元へ来るだろうという嫌な確信があった。

 涙を流すマリアにずっと触れられていた時のぬくもりが、今もまだ体に残っている。それは谷底の冷たい暗闇に慣れたマーモにとって、火傷をしそうなほどの熱だった。

——全く、心底煩わしい。

 何度か頭を振って、ぬくもりの感覚を振り払う。これなら嫌われるか恐れられるかした方がよほど楽だ。能天気に微笑みかけてくるマリアの笑顔を思い出しながら、マーモは心中でぼやく。

——いっそ、本当にそうしてしまおうか。

ふいにそんな考えが頭をよぎる。あの少女に何をしようが、魂さえ取らなければ契約には反しない。殺さずに苦しめる方法などこの世にはいくらでも存在するのだ。あの少女を怯えさせ、傍にいたくないと思わせれば、契約を自ら終わらせるように仕向けることもできる。

 考えれば考えるほど、これはいい方法であるように思われた。マーモはほかの悪魔と違い、契約の穴を突いて相手を騙すことをあまり好まなかったが、そんなことを忘れさせるほどに、あの少女にこれ以上踏み込まれることを拒む気持ちが強かったのだ。

 

 

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