その日から、マーモは毎晩マリアに悪夢を見せ始めた。内容は至極単純。マーモが本物のレイラのように優しい微笑みを浮かべて歩み寄ったかと思うと、突然悪魔の姿に変貌してマリアを惨殺するというものである。
霧状の体を鋭利な刃に変化させ、心臓を貫いた。細い糸を何重にも首に絡め、じわじわと絞め殺した。逃げまどう足を捕らえて何度も地面に叩きつけた。頭蓋骨を西瓜のように砕き割った。より具体的に、現実的に、身もすくむような恐怖を全身で感じられるように。毎夜毎夜、ありとあらゆる手段でマリアを殺し続けた。毎日それを繰り返すうち、マリアの目の下にはうっすらと隈ができ、昼間も眠たそうに眼を擦ることが多くなったが、マーモへの態度にはほとんど変化はなかった。
そして十四日が経った日、マーモは悪夢の内容を現実に再現することにした。
——何も本当に殺すようなまねをするつもりはない。ただ、夢の恐怖を現実のものとして、存分に体感させてやるだけ。それで十分だ。
家じゅうが寝静まった深夜、マリアの部屋の扉を細く開く。廊下の薄明かりが扉の隙間から入り込み、床に光の線が走った。一歩、また一歩と硬い蹄が床を踏みしめる。薄膜のようにベッドを覆うレースの天蓋を捲ると、マリアは行儀よく布団の中におさまってくうくうと寝息を立てていた。
——どこまでも、呑気な小娘だ。
枕元に佇んだマーモは、奇妙な苛立ちとともに穏やかな寝顔を見つめた。
その上半身の左側が割けるように黒い闇が溢れ出し、元の悪魔としての姿に戻っていく。しかしその変身が最後まで続くことはなく、少女と怪物をいびつにつなぎ合わせたような見た目になったところで、体から溢れた闇は蠢くのをやめた。
悪魔の左目と少女の右目が、月光よりも冷たくマリアを見下ろす。そして、左腕だった部分の闇を、ゆっくりと細く長く伸ばし始めた。
静寂の中、マーモの黒い左腕はさながら鎌首をもたげる蛇のように少女へと忍び寄っていく。そして、その首に手がかかろうとした時——不意に蹄がベッドの角に当たった。衝撃で寝床がわずかに軋み、マリアの目がうっすらと開く。
「——だぁれ?」
寝ぼけ眼をこすりこすり、ゆっくりと起き上がろうとしたマリアは、顔の前に伸びた黒い手に気づいて不思議そうに顔を上げる。そして——眼前に佇む異形を見た。
マリアの姉、レイラを模して造られた少女の体は、綿のはみ出た人形のように全身のあちこちが割け、漏れ出した黒い闇が不気味に揺れている。廊下の光が逆光となってその顔は深い影になり、ただ紫の瞳ばかりが闇に輝いていた。
長い沈黙の中、マーモは変わらぬ表情のままマリアの反応を観察していた。
マリアはその姿を見つめ、見つめ、見つめ——そして、不意にマーモが思いもよらなかった行動に出た。
「…なんだぁ、マーモか……ふふ。」
へにゃりと気の抜けたように口元を緩ませると、おもむろに眼前に伸びた黒い左腕を掴んで再び枕に頭を沈ませ、そしてあろうことか、マーモの腕を至極大事そうに抱きしめたまま再び眠りについたのだ。
そう時間をかけずに再び寝息が聞こえ始めてからも、マーモの頭は目の前の状況に追いついていなかった。異形の腕を抱え込んで眠る少女の表情は、先ほどよりも安らかにさえ見えた。そしてようやく状況を理解したとたん、マーモは全てが馬鹿らしくなった。なぜならこの数日間やってきたことの全てが、まったくの無意味だったと悟ったからだ。
マリアは自分に対して微塵も恐怖心を抱いていない。この少女が演技達者なのは最近知ったが、先ほどの態度が演技でないのは、負の感情を主食とするマーモには明らかだ。だが、分かって尚、不可解だった。
——何故だ?何故怯えない?恐ろしくないのか、私に殺されることが。
心の中でつぶやき、今までのマリアの行動を思い返す。そしてすぐに自分の問いを否定した。
——この少女は決して死を恐れていないわけではない。契約の折に鳥籠をちらつかせて脅かした時は、確かに腹の底からの恐怖をこちらに向けていた。
「ならば、何故恐れない…?」
気づけばそう口に出していた。もちろん返事は帰ってこず、マーモの独り言は夜の静寂に吸い込まれて消える。
「…馬鹿馬鹿しい。」
フと我に返り、大きくため息をつく。マリアの腕の中から左手を引き抜くと、少女の姿に戻った。そして、頭に浮かんだ様々な感情を振り払うように踵を返し、その場をあとにする。
——気のせいに決まっている。左手に残る熱を、ほんの少しだけ心地良いと感じたなんて。
窓から差し込む日の光の眩しさで、マリアは目を覚ました。
随分と久しぶりに夢を見ることなく熟睡した気がする。マリアは寝起きでけだるい体を起こし、昨晩両手に抱いていた何かがなくなっていることに気づいた。一体それが何だったのか、一生懸命に思い出そうと試みたが、真夜中の記憶は霧のように曖昧で、はっきりとは分からなかった。
「何故恐れない?」
不意に脳裏にマーモの声が響く。確かにそんなことを聞かれたような気がするが、その経緯はやはりよく思い出せない。もしかすると、やっぱり夢を見ていたのかもしれないとマリアは考えた。
ぼふ、と先ほどくるまっていた布団に倒れこむ。まだ体温が残る布地に包まれながら、マリアはもう一度先ほどの言葉を反芻する。
——何故恐れない、かぁ…
どうしてマーモがそんなことを聞いたのかはマリアにはわからなかったが、その声はいつもの淡々とした冷水のような口調とは違い、はっきりとした戸惑いや困惑を含んでいた気がした。
——ねえ、マーモ。私ね、最初からあなたのことが怖くなかったわけじゃないんだよ。初めてあなたと会ったときは、ぎょろぎょろした大きな目がおっかなくて、うまく喋れなかったもの。それに、マーモはお姉ちゃんの姿でも、ときどきすごく怖いことを言うことがある。そして、それは多分冗談なんかじゃない。
でも、でもね。私はあの日、確かに救われたんだよ。
お姉ちゃんがいなくなって、ママがあんなことになって。家の中がどんどん居心地が悪くなって、でも私にはどうすればいいのかわかんなくて。つらくてもだれに言えばいいかもわかんないから、毎日一人で泣いてたの。だから、あなたが傍にいるって言ってくれて、どんなに嬉しかったか!
あの日から、マーモは私にとって大事な大事な友達で、家族なんだ。だから——いくら悪い夢を見たって、ちっとも怖くなんてないよ。マーモは私のこと、あんまり好きじゃないのかもしれないけど——いつかマーモの笑った顔が見られるように、もっともっと仲良くなりたいな。
不意に扉をノックする音が響き、マリアはゆっくりと体を起こした。
「いつまで寝ている。朝食のベーコンエッグが冷え切るまで起きないつもりか?」
ドア越しに聞こえてくる、不愛想極まりない声。それを聞くだけでマリアの口元には笑みが浮かんだ。大急ぎで上着を羽織り、ベッドから飛び降りる。
「待ってて、今行くから!」