和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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 梅雨という事もあり、貫咲賢希さんより傘差し環ちゃんのファンアートを頂けましたのでご紹介致します。
https://www.pixiv.net/artworks/99186322

 また樹貴さんより、以前投稿して頂けましたファンアートに作品が追加されておりますので改めてご紹介を
https://www.pixiv.net/artworks/92133782
https://www.pixiv.net/artworks/88063772

 御二人共、本当に有り難う御座います!


第九七話●

 その身から強大な霊力と妖力を纏わせ滲ませた突然の闖入者による背後からの一突き、それは神威にとっても完全に奇襲であった。意識が環に向いていた事もあるが、隠行をしていたのだろうか、気配を感じる事もなく受けた一撃は不意討ちそのもので、内心で思わず驚愕し、驚嘆する。

 

「くっ……!!?」

 

 それでも神威は身を捻って反撃に出る。腕から生じて振るわれた闇を、般若面は背後に回転しながら回避する。触れる事なく距離を取る。

 

「挨拶も無しに襲撃した癖に止めもさせないとは!また随分と風情のないものだねっ……!!?」

 

 若干痛みに口元を歪めながら、此方を警戒する姿勢で短刀を構える黒装束に向けて、神威は口元の血筋を舐めあげると嘲るように吐き捨てる。

 

 実際、向こうは先程の一突きで仕止めるつもりだったのだろうが生憎と神威は人外の存在、心の臓の位置は本来の場所にはなく、ましてやその身体の実態は不定形であり短刀の刺突では例えそれが丹念に呪術を練られた名刀であろうがその命を奪うには残念ながら不足していた。

 

 そして間髪容れずに報復を実行する。闇のように身体が崩れたかと思えば直後に神威は己を襲った下手人に肉薄していた。お返しとばかりに突きつけられる神威の刀撃を、般若面は身を翻して避ける。懐から手車が放たれる。横凪ぎに一刀両断される神威はしかし即座に闇へと戻る。そしてそのまま櫓の暗闇を利用して背後に回る。

 

「伴部君、危ない後ろっ!!」

 

 己の身を守ってくれた恩人が傷つけられる予感に、環は思わず悲鳴に近い声で叫ぶ。しかし彼女に出来る事は何もない。神威の一刀は眼前の黒装束の、その首元目掛けて迫り来る。

 

 直後、櫓の壁が盛大に吹き飛んだ。

 

「はっ?」

 

 その疑念の言葉を放ったのが誰であったのか、環だったかも知れないし神威であったかも知れない。あるいは双方だった可能性もある。一つ確かなのはそれが般若面のものではなかった事だ。

 

 此処に来て新たな乱入者。吹き飛んだ櫓の壁穴から身を乗り出して、顔を覗かせるのは老婆だった。襤褸を着こんだ皺だらけの風貌の巨大な老婆。乱雑で黄ばんだ歯を覗かせて喜悦の笑みを浮かべる残虐な巨人。それは何かを探しこむように周囲をぎょろりと一瞥する。

 

「ひっ!?」

 

 新たな乱入者と一瞬目があって、思わず環は小さな悲鳴を上げていた。刹那に思い出されるのは郷での一幕。あの狡猾な鼬と相対した時の記憶だ。あの冷たい、他人を虫か何かのように見ていそうな冷酷な視線……環は殆ど直感で理解出来た。眼前の存在があの鼬と同等か、あるいはそれ以上の存在なのだと。

 

 そして理解出来るのは其処までで、先程からの事態の急激な変動には思考が付いて来れず、ただ彼女はその場で怯えて尻餅を搗くのみだった。

 

 一方、そんな環の事なぞ気にもせずに老婆はそれを見つける。己を見て硬直する二つの人影。正確にはその片割れたる般若面の黒装束、濃厚な霊力と妖力を垂れ流すそれを見出す。あからさまに歓びを表現するかのように口元を裂ける程に吊り上げる。

 

 刹那、化物の拳が般若面に向けて振るわれた。近場にいた神威ごとに、である。

 

「って、おいおいおい!!マジか……」

 

 恐らくはそれを予測していた般若面とは違い、神威にとってはそれは想定外の出来事で、とても反応仕切れなかった。その驚愕の言葉は喧しい衝撃音と共に途中で途切れる。掻き消される。

 

 爆音のような轟音と共に振るわれた一撃で上半身を凪ぎ払われる神威。黒い影が肉片のように飛び散る。一方でそれを紙一重で無言の内に回避した般若面は懐から苦無を二本投擲する。空を切り裂いて放たれたそれは老婆の両眼を正確に突き刺した。小さな悲鳴を上げて一瞬仰け反る怪物。両の手で目元を覆う。

 

「伴部君、待って……!!?」

 

 環の呼び掛けに、しかし般若面は応じる事は無かった。無言の内に化物の横を抜けるようにしてそのまま迅速に櫓の内から離脱する黒装束。野外に出た人影は、刹那にすぅと消え失せる。そして一瞬遅れて回復した老婆が屋根を打ち砕いて跳躍する。何処かに消えた般若面を、追う。

 

「!!」

 

 唖然とした環は、しかし直ぐに慌てて落下する屋根の建材から鈴音と陽菜を守る。倒れる二人を引っ張って急いで物陰に隠す。床に建材が落下すると共に飛び散る粉塵に木片。環は身を丸めてそれらから身を守る。それらが一段落して、静寂が訪れた所で環は一人立ち尽くす。

 

 一人と一体が立ち去った方向を呆然として見つめて、ひたすら立ち尽くす。

 

「伴部、君?どうして……」

 

 環の呟いたその言葉に込められた意味合いと感情は複雑だった。助けられた事への喜びと感謝と、しかしながら湧き上がるのはどうしてこの場に現れたのかという疑念で、此方に返答の一つもなかった事への不満と悲しみで、同行者だった筈の入鹿は何処にいるのかと言う不安で……思わず彼女は茫然とする。

 

「痛たたた……全く酷ぇばばあだな。全く、人がいるってのに容赦なく吹き飛ばしてくれるもんだ」

「っ!?」

 

 しかしながらそんな悠長な事をしていられる余裕は短かった。詰るようなその声に今の緊迫した状況を思い出すと環は咄嗟に頭を振り返らせ、身構える。

 

 そして息を呑む。

 

 彼女の視線の先では液体とも気体とも表現し難い闇が集まっていた。闇が集結し、濃縮して、人形の造形を作り出す。神威のその肉体を再構築させていく。実に珍妙で、薄気味の悪い光景だった。

 

「さて、どうしたもんかねぇ。俺としては彼方を優先するべきなんだろうが……折角目標が目の前にいるのを無視する訳にもいかないしなぁ」

「目、標……何……をっ!!?」

 

 へらへらと笑って此方を見つめる人外は、一歩、また一歩と環に向かって迫る。当の環はそんな神威の発言に一瞬呆けつつ、しかし直ぐ様に徒手格闘の姿勢で以て応じた。身構えた。

 

 近場に得物が無くて、しかし背後には守るべき存在がいた。逃げる訳には行かなかった。恐怖を押し殺し、歯を食い縛る。覚悟を決める。あの下人は凶妖の相手をしているのだ。翻って己は退魔士、武器が無いからと泣き言なんて言えない。言う訳には行かない。

 

 ……恩人たるあの下人の郷での抵抗を思えば、到底こんな所で諦めるなんて許されなかった。

 

 そうして決死の思いで自らを奮い起たせる環の、しかしその勇気と覚悟が試される時は永遠に来る事はなかった。ゆっくりと迫る来る神威は、しかしその足を止めると空を仰ぐ。真顔になる。

 

「……予定変更だな、こりゃ。厄介な連中が来やがった」

「えっ……?」

 

 環が神威のその言葉の意味を解する前に、その詠唱が響き渡った。

 

「浄火葬々灰燼祭」

 

 男のその冷淡な声が鳴り響いた直後、炎がその場の全てを呑み込んだ。環は破壊された櫓の天井から濁流のように襲い掛かる紅蓮の光に思わず頭を守る。常識的に考えてそれが無意味と分かっていても。

 

 それは城柵で戦いを続けていた兵士達も同様で、同じように身を丸めるか、あるいは訳も分からぬままに驚愕して、唖然として突如として豪雨のように降り注ぐ業火に呑み込まれる。そして……互いに顔を見合わせて首を傾げた。

 

「な、何だこりゃあ?」

「熱くねぇ?これは一体……幻術?」

 

 それこそ骨まであっという間に灰にしてしまいそうな程に燃え盛る業火に包まれて、しかしその内にいる者の誰もが火傷の一つすら負う事はなかった。周囲が火の海でありながら熱さの欠片すら感じる事がない事態に、彼らは今度こそ訳が分からずに混乱する。非現実的な光景に困惑する。

 

 そして直後に彼らは気付く。先程まで喧しい程に響いていた蟲共の鳴き声が完全に沈黙していた事に。先程まで死闘を繰り広げていた魑魅魍魎共が一切の例外なく灰燼に帰していた事に。……その断末魔の悲鳴すらも無慈悲に焼き払って。

 

 そして次第に冷静になっていく思考で今更のようにその強大な存在の気配に気が付いた。極自然に彼らは天を見上げる。見つける。昼を過ぎて傾き始めていた目映い日の内にとぐろを巻くその影を認める。

 

 黄金色の鱗を纏う、大龍を見上げる。

 

「……流石だね、刀弥。あれだけの妖共を一人の巻き添えなく殲滅するとは。素晴らしい仕事だ」

 

 龍……鬼月直系の一の姫より移動手段として借り受けた黄曜の上で佇む男、鬼月思水は引き連れた一族の若人の技に称賛の言葉を贈った。心からの賞辞であった。

 

「別に其処まで褒められたものでもないですよ。規模をでかくしただけで、効果自体は異能頼りですから」

 

 対して思水の傍らにて、地上に向けて大技を放った鬼月刀弥は憮然として、あるいは警戒するようにそう言い捨てた。

 

 実際、先程地上を舐めた業火は溜めの時間を稼ぐ事によってその効果範囲を大きくしただけで、唯の『浄火』の異能を放っただけに過ぎない。

 

 郡都稗田町の城柵にて繰り広げられていた攻防は多くの退魔士にとっては厄介だった。両者の距離が余りにも近過ぎる故に下手な大技では朝廷の兵や街そのものにまで被害を及ぼしかねなかった。

 

 かといって地上に降りて一体一体殲滅するのも多くの取り零しを生むのは確実で、故に初撃を務める役は刀弥に回って来た。そして刀弥はその務めを果たした。

 

 妖以外の何物も焼かぬ『浄火』は、事実数千の妖を瞬時に滅し、しかしそれ以外の唯の一人の人も、布切れ一枚の物すらも焼く事はなかった。

 

「にしても、良かったんですか?デカい獲物を取り逃がしましたが………」

 

 話を変えるように、刀弥は問う。彼の大技が放たれる少し前に戦域から離脱した大物、凶妖の事であった。その存在が急速に離脱するのを目撃した刀弥はその前に技を打ち出す事を勧めたが、思水はその案を却下していた。

 

「構わないよ。アレは少々厄介な代物だ。準備も無しに叩くのは下策だよ。我々の目標を勘違いしては行けない。唯でさえなまはげが控えているのだからね」

「……了解です」

 

 恐らくはその存在の正体に当たりを付けたのだろう思水はその放置を命じる。そして刀弥はその指示を受け入れる。

 

 刀弥とて、あの悪名高いなまはげが何処にいるのかも知れぬ時に態態更にもう一体凶妖を相手にしたくはなかった。綾香らが乗船している水運を通じての別動隊の船団の事もある。悪戯に藪をつつく事はない。……今の所は。

 

「賢明な判断だ。……さぁ黄曜、我々を下ろしてくれるかい?」

 

 刀弥の返答に満足するように微笑んで、思水は龍に要請する。借り受けた神龍はそれに応じて唸り、ゆっくりと、それでいて堂々と地上へと降下していく。

 

 龍が地上に接するかどうかという所で思水達は着地した。浄火の炎が鎮火した地上では、多くの軍団兵らがただただ畏怖しながらその光景を見つめていた。霊力の欠片もない彼らでも黄曜のその神々しいばかりの気配を、思水らの実力を本能的に察しているようだった。

 

「下人衆頭殿、お早いお着きで恐縮で御座います」

 

 突如として傍らに現れてそう頭を下げるのは無邪であった。紫らが先日送った式神からの返答で、近く増援を送ると返答は受けていた。しかしながら事が事だけに人事は紛糾する可能性が高いと思っていただけに、此処まで迅速に援軍が来た事に内心で無邪は驚いてもいた。

 

「当然さ。事は朝廷の権威、鬼月一族の沽券にも関わるからね。それよりも、他の者達は何処かな?紫殿は?允職は?」

「允職はなまはげの捜索のために別行動をしております。紫様は……」

「此処ですよ」

 

 横合いからの少年とも少女とも言えないその返答に思水らは視線を向ける。雪原を歩いて此方にやって来たのは白若丸だった。その肩を頭部以外完全防備の紫に貸して共にやって来る。ガチャガチャと鎧を鳴らしながら思水らの眼前に辿り着く。

 

「紫殿、お怪我を為されたのですか?」

「そちらも確認しているとは思いますが凶妖の襲撃がありました。その初撃を受けて足首を挫いたようです」

 

 より正確に言えば、凶妖の拳が振るわれる直前、鞘に納めたままだった彼女の妖刀が大蛇の姿となって躍り出て壁となり、下手すれば致命傷になり得た攻撃から紫を守ったのだ。代償に足首に怪我を負ったのは必要経費であろう。

 

 その後、第二撃を撃ち込む前に凶妖は突如狙いを変えたように西門の櫓に向かい、白若丸は戦場のど真中で手負いとなり一人で歩けぬ紫に渋々肩を貸して此処にまで来た……そのような経過を説明する。

 

「げ、下人衆頭殿……?」

「紫殿、先ずは謝罪を。よもやこのような事態に陥った事、鬼月の一族を代表して深く御詫び申し上げます」

 

 紫の機先を制するように、思水は謝罪した。深々と頭を下げて。尤も、それが唯のパフォーマンスの類いである事を、刀弥は察していたが。赤穂家の娘が口先だけで言いくるめられる甘い性格である事は刀弥でも理解出来た。

 

「いえ、私こそ折角鬼月家が朝廷から賜った役務を任せてもらいながらこの惨状です。文句は言えません」

 

 紫の言に再度一礼をする思水。そして続ける。

 

「既に水運を通じて要請のあった避難用の物資は移送中です。二日後には到着致しましょう。我々は先遣隊です。今後はなまはげの捜索は我らが引き継ぎましょう」

「分かりました。既に此方で捜索隊は送り出しています。そちらに連絡を取って合流を命じましょう。唯……」

「唯?」

 

 紫の何とも言えぬ態度に思水は若干首を傾げる。紫もまた、どういうべきか、そもそも言うべきなのか迷っているような表情を浮かべ……そして漸く決心したようにそれを宣言する。

 

「いえ、助太刀は助かりましたが……出来る事でしたらもう少しだけ御配慮を、と」

 

 そして紫は思水らに向けてその歯切れの悪い態度の理由を見せつける。

 

「…………」

 

 思わず思水は、そして刀弥は無言の内に見せつけられたそれから視線を逸らした。

 

 彼女の手元で、生焼け状態の蛇の妖刀がプスプスと黒い煙を漂わせながら白目を剥いていた…………。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー

 稗田の郡都にて、紫達が微妙な空気となっていた頃、そこから西に向かった先の森の中では打って変わって緊迫の中にあった。

 

 ……文字通り、死地の中にあった。

 

『っ……!!!!』

 

 進路上の木々を見境なく吹き飛ばしながら巨大な老婆は猛進する。何が愉快なのか満面の嬉々とした笑みを浮かべて、追い立てる。

 

「…………」

 

 一方で追われる側は無言の内にひたすらに逃亡を図る。既に稗田の町から遠く離れ、人目が付かぬ場所まで逃れていたために勾玉による盲点への逃避は解除していた。どの道あの勾玉は主に人に対して効果を持つもの、眼前の怪物には意味もない事だ。

 

 黒装束は必死に樹木の上を枝から枝へと跳躍していく。枝を伝う度に枝木に降り積もっていた雪が地面へと雪崩れるように落ちて、一瞬遅れて轟音と共にそれらは纏めて粉砕される。その音の間隔は次第に、少しずつ、確実に短くなっている。それはつまり両者の間を隔てる距離の変動を意味していた。

 

 余りにも激しい背後からの轟音に、黒装束は若干焦燥して度々小さく振り向き化物との距離を確認する。

 

 既に目と鼻の先にまで、化物は迫っていた。

 

「っ……!!」

 

 直後に仕掛けていた罠が発動する。両脇の大木の幹が爆発、化物を押し潰さんとばかりに樹木は崩れ落ちる。化物を下敷きにする。

 

 即座に老婆の殴打によって空中高くへと大木は吹き飛ばされた。無惨にもへし折られ、引き裂かれて、木片を散乱させて四散させる。それはまるで焼菓子を砕くかのようにあっさりと。

 

「…………」

 

 想定内の結果とはいえ思わず舌打ち。尤も、一瞬でも今ので時間を稼いだ。目と鼻の先であった距離は若干遠ざかる。再度、前方に向き直る。

 

 影が眼前に迫り来ていた。

 

「悪いけど追いかけっこは終わりだよ?」

「っ……!!」

 

 粘菌のように不定形に襲いかかってきた闇に、身体を無理矢理捻って軌道を逸らす事で紙一重で回避仕切る。神業であった。そして、悪手であった。

 

『ア゙ア゙ア゙ッ゙!!!!』

 

 軌道変更によって結果的に地上に降りる事となった般若面に、直後に背後から追い縋る老婆が勢い良く襲いかかる。出鱈目に生えた歯を見せつけて、満面の笑みを浮かべて万歳に近い体勢で飛び込んで来る。急いでそれから逃れようとして、しかし足下の雪によって動作が一瞬遅れる。それがある意味で致命的だった。

 

「っ……!!?」

 

 その場から跳躍した一瞬もしない内に化物が飛び込んで来た。その衝撃で吹き飛び舞い散る雪を背中から受けて、逃亡者は吹き飛ばされる。

 

 それでも完璧な受け身を取る事で襲いかかる衝撃を分散させて、地面に叩き付けられるのを回避する。そして立ち上がった次の瞬間、老婆の皺だらけの掌が見えた。

 

「っ!?」

 

 今度こそ逃げる暇はなかった。ガッチリと般若面は捕らえられる。握力が掛けられて、その全身から軋むような音が響く。そして老婆は頭からかぶり付こうとして……その身体の動きを無理矢理に止められる。その影を、踏みつけられる。

 

「おいおい、待て待てって。そうやって直ぐにがつがつ食おうとするなって。そいつは飯じゃねぇぞ?」

 

『影を縛る』事によって、凶妖の動きを寸前で制約する事に成功した神威がゆっくりと進み出る。尤も、それが彼の権能とは言え流石に凶妖を縛るのは容易ではないらしく、その足取りは若干心もとなく、その表情は僅かに歪んでいた。

 

「……さて、と。挨拶は大事だな。お久し振りとでも言っておこうか、鬼月の下人君?都での騒動以来じゃないか?」

 

 すたすたと捕囚の傍らまで寄り付いて、神威は挨拶をする。当の捕囚は無言の内に面だけを神威に向ける。

 

「……これはまた。無言とは無礼じゃないかい?そう刺々しい態度を取る必要もないだろうにさ」

「……都で狼藉した蝦夷がどうして此処にいる?こいつはお前さんの嫁さんか?」

 

 顎をしゃくって老婆を指して問い詰める。神威は肩を竦める。

 

「まさか!止してくれよ。熟女が嫌いってわけじゃないが限度ってものがあるだろうに。それに俺に出来るのは精々餌で誘導するのとこうやって一時的に動きを縛るくらいさ」

 

 その発言は謙遜でも何でもない。唯の事実の羅列に過ぎない。嘗ての大乱にて空亡に従った妖の百将共はしかし明確に統制されていたかと言えば怪しいし、何ならばなし崩し的に妖軍に編入されて実質的に放置状態だったものや単に長い物に巻かれていただけの存在、組織や指揮系統も理解せずただただ強大な存在に動物的な本能として付き従っていた個体だってある。この老婆、凶妖山姥もその意味では大して違いはない。

 

 大乱後に鵺が数ある妖将の中からこの妖を捕獲して保護していたのは単純に使い捨て出来る兵力を生産する上でその権能が役立ったから故に過ぎない。何であればそれだって代用手段は幾らでも存在する。

 

 空亡が封印されし後にその指揮系統を引き継いだ獏からすれば山姥は正直切り捨てても良い存在であった。大乱中でも群れの中にあって自分勝手に動きまくっていたこの妖は空亡の指示なんて一つも理解してはいまい。保護中も食費が馬鹿にならない不良債権だった。鵺と獏の統一見解は作戦の最終段階に入る前に時を見て何処かで使い潰すというものだった。

 

 そして、此度がその使い潰す機会であった。神威がこの老婆に同行する目的は正にお目付役であり、最低限何を考えているかも不明瞭なこの怪物を計画通りに動かす猛獣使いの役目のためだった。

 

「計画、か。妖風情が偉そうに口にする言葉じゃあないな。……どういう内容なんだそいつは?」

「それは言えないな。まぁ、言わなくてもある程度なら察しがつくだろうけどな?」

「…………」

 

 神威が言う通りであった。たかが下人を相手に本来ならばこんな場所でべらべらとお喋りをする必要性はない。とっとと目の前の凶妖の餌にしてしまえば良い。それをしないと言う事は、そう言う事なのであろう。

 

「なまはげの野郎が普段とは違う動きに出たのは想定外でな?鉢合わせされても堪らねぇので取り敢えず目標を第二標的に切り替えたんだが……まさかお前さんから顔を見せてくれるとは幸いだぜ」

 

 本当に幸いだと神威は思った。彼の上司は理知的で理性的だが、素で気狂いだ。給金が減らされるのならば兎も角、罰則として訳の分からぬ実験に付き合わされるのはご免だ。

 

「第二標的、か。それは環の事か?そんなにあいつのあの黒いものに関心が?お前さんだって似たようなものだろうに」

「そんな事知らねぇよ。疑問があるなら上司に聞いておくれ。……お喋りは此くらいで切り上げだな。どうせこのまま産地直送するんだ、疑問点なら向こうで上司に幾らでも聞けるぜ?」

 

 そうして己の足下の闇を広げていく神威。成る程、どうやらこのまま闇の中に山姥ごと呑み込んで移送するつもりらしかった。

 

 つまりは、この辺りが潮時という事である。

 

「待て待て。その気味の悪いもんの中に沈める前に最後に一つだけ聞かせてくれよ?それくらいおまけしてくれても良いだろう?お前さんにしても悪い話じゃあないからよ?」

 

 目標のその懇願に神威は己の権能の発動を一旦停止する。僅かに奇妙な表情を浮かべて、問い掛ける。

 

「悪い話じゃあない、ねぇ。余り期待はしないでおいてやるけどよ。何の話かな、えぇ?」

「駄目元で言って見たんだが、聞いてくれるのかよ。恩に着るぜ。そうだな、話ってのは………」

 

 其処で一旦口ごもる般若面。一瞬身体を震わせる。其処で神威はその僅かな異変に気付く。しかしそれが何を意味するのかを解する前に般若面は言葉を紡いでいた。

 

『儂の傀儡式は良い出来であったろう?』

 

 何処までも意地の悪そうな老人の嘲りを紡いでいた。

 

「ちぃっ……!?」

 

 その声と同時に神威は絶句して、そして理解した。己の疑念の正体に気が付いた。しかし、既に遅い。

 

 握り潰されんとしていた黒装束の面の、その口元から槍が放たれた。空気砲の要領で放たれたそれは高速で山姥の頭に突っ込む。額を射ち抜かれて一瞬仰け反る老婆はそのまま思わず黒装束を雪の上に落とした。雪原に着地した黒装束を着せ込んだ式神。そして……式の腹部は破裂した。

 

『ギエッ……!!?』

 

 破裂音と共に腹から飛び出したのは網であった。細くきめ細やかな銀の糸。蜘蛛の糸。神蜘蛛の網糸。編み糸。獲物を捕らえる粘着性の蜘蛛糸……!!

 

 それは神威の標的としていた下人が猿次郎に懇願して製作して貰っていた特注呪具であった。神蜘蛛の編み出す霊力を放つ粘着糸を丁寧に編み込み、投擲玉の中に詰め込んだ代物で、火薬が着火して外殻が飛び散るとその衝撃で糸が網のように飛び出して標的の動きを拘束する。

 

 元々はなまはげ対策として、避難の時間を稼ぐために神格持ちの蜘蛛の貴重な糸を贅沢に使ったそれは、山姥相手にもその効果を十全に発揮する。直後に神威は影を縛るのを止めたにもかかわらず山姥は暴れる度により一層絡まりへばりつく糸によってその場から動くのも困難な状態に陥る。そして……。

 

「こん畜生め!!寒かったろうが!!」

 

 雪の中から、毛布を纏って潜み続けていたその者は現れる。黒装束は脱いで、般若面も外した傷だらけの風貌で、神威の標的は現れた。彼の背後から組立式の、潜伏用の雪穴を掘るために持ち出していた円匙を振るって、斬りかかる。

 

「このぅ!!?」

 

 神威もまた振り向きながら短刀を構える。刃が激突して金切音が鳴り響く。

 

「これは驚いた!!まさかあれは式神か!!?」

 

 神威は素直に驚嘆する。成る程、考えて見れば合点がいく。内の妖母の因子を覚醒させて妖化したにしては外見や口調、所作にその素振りもなかった。あの蜘蛛に吸血させて自転車操業でもしているのかと思ったが……凶妖の追跡に此処まで逃げ切れたのは式だからか!!

 

「にしても思いきった事を……!!」

 

 よもや面や装束、それどころか呪い仕込みの短刀に手車のような貴重な装備まで手放して式神の偽装に使っているとは。傀儡の内側に細工でもしたのか、妖化した際特有の強大な霊力妖力まで欺瞞していた。これは簡単には見抜けない。

 

「中々の出来だろう?お陰様で凍死しかけたけどなぁ!!」

 

 下人は鍔迫り合いながら足下の雪を蹴り上げる。神威の顔に雪をぶちこみそのまま一歩後退、相手の刀身を受け流してから振り向き様に円匙の刃先で首元に斬り込む。

 

「甘いなあ!!」

 

 直後に腕から闇を作り出して円匙を半ばから消失させる神威。

 

「畜生!!特注品だぞっ!!?」

 

 下人は舌打ちして罵倒と共に持ち手を投擲するがそれも丸ごと闇に呑み込まれる。その隙に稼いだ貴重な時間で以て霊力による身体強化を行い跳躍して後方に下がる。距離を取る。ゼイゼイと息を吐く。

 

「はぁ、はぁ……っ!!マジかよ。あの糸を千切るのかよ」

 

 神威と相対して互いに相手の出方を窺う下人は、それを見ると苦虫を噛む。蜘蛛糸で拘束していた山姥は、しかし少しずつ、確実に糸を引き千切ってその拘束を脱しつつあったのだ。

 

(甘く見てたな。この分だと本来の用途通りになまはげを相手にしていても厄介な事になっていたな)

 

 最悪、時間稼ぎが間に合わずに原作同様のバッドエンドルートに直葬……じゃなくて直送していたかも知れない。そして、だからこそ俺は思う。

 

「……とどのつまり、これはある意味怪我の功名って訳だな?」

 

 俺は、心からの皮肉を込めてそんな事を嘯いた。

 

 ……粉雪が降り始める中で、勝ち誇るようにして宣った。

 

「?一体何を言って………っ!?」

 

 相対する神威は俺のそんな意味不明の態度に一瞬怪訝な表情を浮かべて、しかしその意味を直ぐに思い知る。森の奥から感知したその気配に、否が応でも思い知らされる。

 

「なっ、まさかお前……!!?」

 

 目を見開いて驚愕する神威は俺を見る。俺はそれに対して嗜虐的な笑みで以て応じた。既に降り注ぐ雪は急速にその激しさを増していた。

 

 そしてそんな雪風すら掻き消すような地鳴りのような震動が遠くから鳴り始める。喧しさすら感じる足音。そして、迫り来る濃厚な妖力と神力……!!

 

「おいおい、待てよ。こんなの冗談じゃねぇぞ!?」

 

 神威が今度こそ顔を歪める。その気配に向けて森の奥に視線を向ける。そして、それが現れる……!!

 

『へへへっ!!待たせたなぁ、真打ち登場ってなぁ!!』

『ヽ(ill゚д゚)ノパパァタスケテエェェェェェ!!!!』

 

 森の奥より勢い良く飛び出すのは黒い巨狼にその背中にへばりついて涙目の白蜘蛛。咆哮を上げながら場に躍りこめば、巨狼はそのまま下人の首を咥えてその場から全力疾走して撤収する。それを追おうとして、次の瞬間に神威は狼が、入鹿が躍り出た方向に再度視線を向ける。

 

「畜生、ここは逃げの一択ってかっ!!?」

 

 迫り来るその危険に、他の手段を取り様もなく神威は慌てて闇となる。闇となってその場から全力離脱する。そして一瞬後、満を持して『それ』が現れる。

 

『グオ゙オ゙オ゙オ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ォ゙ッ゙!!!!』

 

 蜘蛛の神気に釣られて木々を吹き飛ばしながら猛進するなまはげは、その進路上にいた山姥に飛び込みながらその顔面に殴り込んでいた…………。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

 前門の虎、後門の狼とは言うが、今回の場合はより一層厄介だった。相手が凶妖なのは今更として、共に別々の目標目掛けて突き進んでいるのだから。

 

 当然ながら俺達には凶妖二体に対応するだけの時間的余裕はない。そも、凶妖を一体でもどうにか出来るだけの力なぞある訳がない。

 

 無論、だからと言って諦めるなんて選択肢はない。そして、ある意味で皮肉な事に凶妖が二体もいる事自体がこの場においては逆転の目となり得た。

 

 なまはげに対しては白蜘蛛の奴を餌にした。妖化した入鹿がなまはげの前で餌をちらつかせる。俺の血液が染み込んだ布地も加えて誘導する。山姥に対しては翁の式神を活用した。そして、タイミングを合わせて、二体をぶつけ合わせた。

 

 共に神格の残滓を帯びた凶妖で、しかも知性と理性が薄い仲間意識なぞある筈もない存在だ。両者が相手を認識した瞬間に始まるのは当然のように互いを餌と認識した壮絶な取っ組み合いであり、あからさまな殺し合いであった。

 

「ははっ!精々化物同士で殺し合っていろ!!」

 

 入鹿に咥えられて雪嵐吹き荒れるその場から離脱し、ある程度の距離を取る事に成功した俺は下ろされると共にそう吐き捨てる。遠方ではその余波で森を吹き飛ばし、岩を砕き、山を抉る凶妖同士の激闘が繰り広げられていた。遠目でも分かる、其処は地獄のような惨状だった。

 

『はぁ、はぁ、はぁ………何偉そうにほざいてやがんだよ?てめぇはずっと待機していただけだろうが。此方は命懸けの鬼ごっこで必死だったんだぜ?」

『( TДT)ウェーン、コワカッタノヨー?』

 

 俺を下ろした巨狼がその場にへたりこみ、みるみると縮んでいく。縮みながらそんな文句を言い捨てて、言い終える頃には其処にいるのは背中から中途半端に狼毛を生やした女の狼人、入鹿の姿だった。装束の類いなぞ一糸も纏わず、全身汗だくにして息を荒げながら俺に対してジト目を向ける。その頭の上ではあからさまに涙目な白蜘蛛が訴える。どうやらなまはげを誘導するのは相当な苦労があったらしい。

 

「おいおい、そっちを担当するって言ったのは自分だろうがよ。今更文句は聞けねぇぜ?」

 

 俺は雪中に潜んでいる間着込んでいた毛皮を入鹿に向けて投げつけながら宣う。御返しとばかりに入鹿は何時までも頭にへばりついていた糞蜘蛛を『ヾ(*´∇`)ノオソラヲトンデイルミタ-(。>д<)アベシッ!?』……糞蜘蛛が俺目掛けて放り投げられたのでさっと避ける。雪原に顔面から突っ込む白蜘蛛。おい止めろ、何処ぞの饅頭みたいな事言うな。

 

 元々は山姥を翁の傀儡式で、なまはげに対しては白蜘蛛を餌に妖化した俺が追いかけっこする予定だったのだ。それを途中から首を突っ込んで来たのは入鹿自身だった。

 

「はぁ、はぁ……阿呆かよ。あんなガバガバな計画放置出来るかってんだ。はぁ……丸薬に蜘蛛に吸血で誤魔化しながら逃走だぁ?何時均衡が崩れて理性が飛ぶか知れたもんじゃねぇだろうがよ」

 

 受け取った毛皮を着込みながら入鹿は俺を詰る。そう言われると反論出来ないのが辛い所だった。確かに後々考えれば結構の無理をした計画であったかも知れない。尤も、俺達に取れる選択肢なんざそう多くはないのだが……『(;∀; )イタカッタワ、アタマナデナデヨ?』知るかボケ。

 

「何にせよ、これで課題の半分は漸く解決だな。後はあの化物共が共倒れしてくれる事を祈りたいものだ。それと…………貴様をどう始末してやろうかって話だな!!」

 

 うんざり顔のままに白蜘蛛を懐に回収してそんな言葉で締め括る俺は、即座にその気配に向けて振り向き様に苦無を放つ。背後の雪風の中から現れた神威の身体は放たれた苦無を闇に呑み込む。糞、さっきから愉快な身体をしやがって!!

 

「おらぁ!!此処で会ったが百年目ぇ!!!!」

 

 そして其処に飛び掛かるのは入鹿だった。俺を遮蔽物として奇襲を仕掛ける。毛皮一丁の出で立ちのままに斧を振り上げて神威に肉薄。しかしその渾身の一撃もまた同様に闇に呑まれて得物は柄の途中から消え失せる。

 

「こんな糞がぁ!!」

 

 間髪容れずに今度は狼の手が振るわれる。爪を立てての鋭い殴打は恐らくまともに食らえば薄い鉄板ならば簡単にひしゃげるだろう。人体ならばどうなるか言うまでもない。しかし相手は人間ではなく、その拳は霞を捕らえるかのように空振りに終わる。その手首を掴み上げる神威。

 

「久し振りの再会なのに随分と手荒い歓迎だな、入鹿!!」

「死ねや、裏切者がぁ!!!!」

 

 嘗ての仲間の呼び掛けに対して入鹿は咆哮を以て応えた。鋭い犬歯を見せつける程に口を開いたと思えば鼓膜を突き破らんばかりにけたたましい衝撃音が周囲を震わせる。

 

「っ……!!?」

 

 気体とも液体とも形容出来ぬ存在となった神威も流石に音の衝撃波の前には無傷とはいかぬようであったらしい。足下の雪ごと吹き飛ぶ神威。そのまま木の幹に叩きつけられて闇となって飛び散る。

 

「痛たたた。流石に今のは効くなぁ。……耳がキンキンと、実に騒がしいと来たものだ」 

 

 ゆっくりと一ヶ所に集まる闇の中から神威は再構成されるが、これまでと違って如実にその所作は精彩を欠いていた。どうやら斬撃の類いは兎も角、衝撃や振動に関してはこの化物にも一定の効果があるらしかった。

 

「げほっ、ケホッ……うえっ、畜生。あの距離からモロに食らってその態度かよ。ゲホゲホッ、こちとら全力でぶちまけたってのに糞っ垂れが!!」

 

 一方、入鹿は今ので神威に致命的な損害を与えられなかった事に咳き込みながら毒づく。彼女の咆哮は中々に喉に負担がかかるようで短期間にそう何度も連打出来るものではない。ましてやあの距離からの全力は初回の奇襲だからこそのものだ。入鹿からすれば折角の機会をふいにしたのと同じ事であるらしかった。

 

「中々上手くは行かないな。……随分とまぁ、そんなにも自分の身体を化物に出来るものだな。親から貰った身体は大切にするのが孝行ってものだぜ?」

 

 予備の短刀(安物)を引き抜いて俺は宣う。神威はそんな俺を皮肉げに見やる。

 

「君が言えた義理かな?ガワは綺麗に取り繕っても中身は俺や其処の御犬様よりもずっと化物染みている癖にさ」

「…………っ!!」

 

 神威の物言いに俺は睨み付ける。睨み付けるが……同時に苦虫を噛む。その言葉を否定しきる事が出来なくて。確かに自分でも己の肉体がもう訳の分からない有り様になっているとは自覚していた。

 

「下には下がいるってか?下を見て安心していたら駄目だな。精神的に向上心が無いのは馬鹿なんだぜ?」

 

 じわり、と一歩にじり寄って俺は嘯く。

 

「何だそりゃあ。何かの書物の一節かい?無教養な下人が思い付く言葉じゃあないな?」

「おいおい、人が折角賢しがっているのに直ぐに見抜くなよ。恥ずかしいじゃねぇか」

 

 嘘ではない。これは本気で恥ずかしかった。

 

「これでも俺は結構教養人でね。四書五経に著名作を読み込んでるんだ。相手が自分の言葉で話しているのか、深く真意を読み取らずに他人様から上っ面の文面だけ借りているのか、それくらいは分かるさ」

「それはそれは……恐れいるよ」

 

 肩を竦めながら俺は眼前の蝦夷を観察する。神威が此方の雑談に乗っている意味は分かりきっていた。入鹿の咆哮で受けた聴覚の回復のためだ。

 

(あの野郎、読唇術で会話を読み取ってやがる)

 

 そして問題はその耳鳴りも恐らくはそろそろ治まって来ているだろうと言う事だ。そろそろ仕掛けて来るかな?この会話の二次的な目的は此方の意識を逸らすのと攻勢の取っ掛かりを掴むためなのだろう。

 

「…………」

 

 俺は側で同じく身構える入鹿をちらりと見る。目配せする。同じく視線での返答。よし、ならば………。

 

「……ふふ。だけど妙な話だ。確かに先程のは君の言葉じゃあない。けど俺でも明確に聞き覚えもない一節だね。詩文かな?それとも物語?学書って事はないだろうけど……何にせよ不思議だ。実に不思議だ」

 

 そして俺達の目配せに神威も気付いていた。気付いていた上で無意味な雑談を長々と続ける。そして神威は悠々と宣いながら何ともないように一歩歩き、二歩進む。それは俺達の動きと連動していた。そして……。

 

「まぁ、ようはアレだね。つまり俺が聞きたい話はさぁ……」

 

 そして三歩目を強く踏みつける音が響いた時には、奴は既に俺達の眼前に迫っていた。迫りながら、嘲笑の笑みを浮かべていた。

 

「その台詞、誰が書いたのか四肢もいだ後にじっくり聞かせて貰おうかっ!!?」

「入鹿っ!!」

 

 頭の上に刀が振るわれる直前に俺は入鹿に二撃目の咆哮を命じていた。しかしそれは徒労に終わる。入鹿は咆哮を放たなかった。否、放てなかったのだ。

 

「なっ!?糞、動かねぇ……!!?」

「っ!!?」

 

 背後からの声に俺は入鹿が俺の背後から動けなくなっている事に気付く。時刻は夕刻、沈みかけの夕焼けの光に入鹿の影が伸びていた。伸びきった入鹿の影は踏まれていた。神威に。いつの間にか。山姥に対してそうしたように。

 

 こいつ、このために雑談で時間稼ぎしていたのか……!!

 

「くっ……!!?」

 

 入鹿の逆撃が不発に終わり、対応に迫られた俺は頭から振り下ろされる一刀を予備の短刀で辛うじて受け止める。だが其処は安物、神威の刀を受け止めた短刀はその一撃で刃の半ばまで刀が食い込んでいた。

 

 そしてそのまま更に神威が刀に体重を乗せれば短刀に食い込んだ刃はギリギリと嫌な音を鳴らしてより一層深く押し込まれていき………。

 

「っ!!」

 

 短刀の刃が両断された刹那に俺は一歩下がる。お陰様で頭蓋骨が切り裂かれるのは防いだ。面を着けていなかったので額から頬まで薄く斬りつけられたが。

 

「こんの……ちぃ!!?」

 

 即座に反撃に移ろうとして、俺は突如として身体が動かなくなった事に気付く。視線を向ける。舌打ちする。

 

 いつの間にか俺の影もまた、踏まれていた。踏みつけられていた。拘束される。神威と視線が交差する。不敵な笑みと共に突きが来る。

 

 夕焼けの光を反射して輝く刃が迫る光景を見つめて、そして俺は苦々しげに口を開く。この場で最も相応しい言葉を口にするために。

 

「教科書の文豪の名なんざもう忘れたわ、ボケ茄子!!」

「……はぁ?」

 

 緊迫した刹那に俺が口にした意味不明瞭且つ、優先度の低い返答に、神威はほんの一瞬だけ困惑して動きを鈍らせた。

 

 そしてその直後の事であった。ずっと潜んでいた伏兵からの毒薬をたっぷりと含んだ弩の矢玉が二発、神威の頭と肩を突き貫いていた…………。

 

 

 

 

 

 




 糞どうでも良いけど、入鹿が今章内の主人公妖化フラグをへし折ったせいで何処ぞの稚児が自家発電しながら楽しみにしていた「本番」はお流れしました。

 ですので、ひょっとしなくても今頃師匠共々無表情になっていたり……。

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