和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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 活動報告にて事前連絡しましたが更新が遅れました。恐らく年末年始周辺は更新がズレる可能性が高いのでご了承下さいませ。

 今回のファンアート紹介は二点となります。

 先ず此方はロドイドさんより、主人公の師匠である前々代下人衆允職(任命時)です。この子、この沢山辛い目にに会うんだよね……(白目)
https://www.pixiv.net/artworks/103024221

 続いて此方は宇佐見さんより迷い家リターンズ。何でお前ら仲間みたいな面しているんですかねぇ(困惑)
https://www.pixiv.net/artworks/103231352

 お二人共、素晴らしい作品誠に有り難う御座います!!


第一一三話●

 媒体問わずコアなファンが存在する娯楽作品において、そのメディアミックス化に対して出来を厳しく批評する所謂原作原理主義者というものが少なからず存在するものだ。ノベル化、あるいはコミカライズ化にアニメ化、実写化する過程で原典には存在しないイベントやキャラクターの追加、描写等の補足省略等、作中における取捨選択は制作者の手腕と作品への深い理解、読み込みが大いに問われる。

 

 盛大に売上爆死、ネット掲示板での酷評だけなら可愛いものだ。中には小説から映像化する際に製作会社宛にファンから剃刀が脅し目的で送られた……等という伝説のある作品だって存在するのだ。名作であればある程ファンの期待と不安、評価のハードルは比例して高くなる。

 

 極端例は除くとしても元々分岐ルートが多く、設定が細かくも解釈の余地も大きい『闇夜の蛍』では、ノベル版における独自路線のハードルは比較的低いものがあったがそれでもファンの視線は決して甘いものでは無かっただろう。

 

 そんなノベル版が絶賛されたのは有名イラストレーターを起用した事による挿絵の出来もあるだろうが、それ以上に執筆者の筆力によってであった。……つまりは、ノベル担当もまた原作ゲーム制作やコミカライズ版作者陣同様に頭が可笑しかったお陰である。

 

 依頼された人物が元々エログロ系の作品を多く執筆していた作家だった事もある。エロシーンはよりエロく、グロシーンはより一層グロく。己の表現力を総動員して心理描写を濃厚に追加する事で鬱ゲーらしく主人公を可愛……可哀想に曇らせ続ける。追加された苦難苦行は読者から鬼畜扱いされると同時に称賛された。うん、冷静に考えたらファンも大概だったわ。

 

 ノベル版の十巻末から十二巻にかけて続いた『迷い家編』もまたその例に漏れる事はない。

 

「遂に打ち切りエンドかな?」

「ループ設定捩じ込む布石だぞ」

「↑円環の理に囚われて全BADルート周回するのか……」

「そんなに環をリョナらせたいのかよ、アンタ達は!!」

「もう何度もリョナってるんだよなぁ」

「リョナる環きゅん(;´Д`)ハァハァ」

「リョナって欲情?妙だな……」

「平常運転な定期」

 

 原作ゲーム版ではそもそも即バッドエンドな『迷い家』内部放浪について、初めこそこんな感想が飛び交って読者達は捻くれた制作陣の目論みを考察した。……現実はその斜め上を行ったが。

 

 獅子舞麻美、獅子妖怪の血を継ぐ半妖の家人は『闇夜の蛍』ノベル版に登場する半オリジナルキャラクターであった。そして……唯でさえ精神の疲弊していた環の心の傷を抉ってくれた敵キャラでもあった……。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「ちいぃぃぃぃっ!!?」

 

 突きつけられる薙刀の一撃を短刀が受け止める。受け止めるが、叩きつけられる衝撃が俺を後ろに向けて吹き飛ばした。頭から畳に突っ込むのを受け身姿勢で転がる事で衝撃を分散、誤魔化す。誤魔化し切る。腕が、痺れる……!!?

 

「電流か……!!」

『(>ω<。)ビーリビーリスールー?』

 

 短刀を掴む腕の震えに俺は実地経験から当たりを付けた。ノベル版の記述、環の独白では神経の痛みや痙攣としか記述されてはなかったが……これは明らかに呪いの類いではなかった。軽度の電流を此方の神経に流し込んでいた。土竜野郎にコンガリ焼かれた俺だから分かる。……嬉しくねぇ。

 

「下人……!?大丈夫なのっ!!?くっ、身体が!?これは一体……!?」

 

 突きを仕掛けてきた獅子の半妖は困惑と混乱を含んだ口調で叫ぶ。此方の身を心配し、己の身体に生じている事態に動揺しているようであった。

 

「……!!」

 

 俺はそれに答える事なく手車の投擲で応じた。

 

「なっ!!?ちぃ!?」

 

 薄暗い和室の中で、それでも蜘蛛糸の反射する光から何をしたのかを理解したのだろう。獅子舞は己の身体を横腹から両断される前に跳躍する。クルリと横回転で一回転して見せて蜘蛛糸の一撃を避ける。そのまま着地と同時に足下の畳を蹴りあげて此方に叩き込んでいた。

 

「危ねっ……!?」

「危なかったのは此方よ!!?幾ら何でも容赦が……ぐっ!!?」

 

 顔面向けて突っ込んで来た畳を首を下げて回避した俺は獅子舞の言葉を無視して突貫する。短刀で以て刺突する。一瞬薙刀の柄で受け止めようとした獅子舞は、しかし俺の短刀の切れ味を思い出したのだろう。取っ組み合いでの受け流しに対応を変える。

 

「ちょっ……!?話を、ねぇ……!!?」

 

 半妖故の反射神経、鋭敏な五感、腕力で以て素手で此方の斬撃に対応する獅子舞。組み手の要領で防御して、回避する。中々、やるな……!!

 

「だが、これで……!!?」

「ぐっ!?なっ……!?」

 

 相手が近接徒手格闘戦に手一杯になっている所に俺が仕掛けるのは再度の手車攻撃であった。横凪ぎに振り回す手車の糸。

 

 短刀同様に薙刀での受け身は不可能で、触れる事は自殺行為。故に凌ぐ手法は回避の一択のみであり、ここまで肉薄している以上はその回避方法すら限定される。

 

「っ!!?」

 

 獅子舞の身体が選んだ回避方法は身体を低く下げる事であった。獅子舞の頭の上を蜘蛛糸が通り過ぎる。さっと切り裂かれて宙を舞う数本の髪の毛。

 

「おりゃあ!!」

『( ・`ω・´)ヤッチャイナヨ!!』

 

 そこに狙い澄ましたように俺は蹴りの一発をぶちこんだ。鉄板を仕込んだ鞋、霊力で強化した足での蹴り上げである。獅子舞の顔面に向けた全力の一撃だった。

 

「があっ!あっ……!!?」

 

 顔面直撃こそ咄嗟の腕のガードで防がれたがそれでも後ろに吹き飛ぶ獅子舞。苦悶の表情を浮かべる。手にした薙刀も何処かに飛んでいっていた。俺は其処に止めを刺すために迫撃に移る。

 

「や、やめ……!?何で……!!」

 

 怖じけるように目に涙を浮かべて、困惑する獅子舞の静止を呼び掛ける声を俺は完全に無視する。全ては無意味であると俺は知っていた。彼女と話す事に何の価値もなかった。全ては手遅れで、無意味で、徒労である事を理解していた。だからこそ、俺は眼前の存在を始末する。

 

 それこそが、何よりも獅子舞麻美自身のためであるのだから。だから、ここで……!!

 

『Σ(; ゚Д゚)パパダメー!!』

「伴部君!!?や、止めてっ……!!?」

「なぁっ!!?」

 

 眼前の獅子舞に対して意識を向け過ぎていたからだろう。視野狭窄になっていた俺は蜘蛛に警告されるまで暗闇から現れるその存在に気付く事が出来なかった。

 

 直後に俺と獅子舞麻美との間を遮るように現れる少女は引き抜いた刀で受け身の構えを見せていた。そして、既に俺の身体は獅子舞を仕留めるために動き出していて、それを止める事は出来なかった。

 

「避けろぉぉ!!」

「え!?」

 

 一瞬の刹那に出来たのは叫ぶ事のみだった。叫びと、手車の投擲は同時の事だった。そして環が警告に対応するのもまた同様。俺は彼女が無事に糸を避けられる事を強く念じる。神頼みする。彼女が死なぬ事を、懇願する。

 

「こ、このお……!!?」

 

 ……結果だけを先に言えば、環は俺の求める以上の対応をしてのけた。

 

「なっ……!?」

 

 俺は眼前の光景に思わず目を疑った。咄嗟の事で勢いを止められずに振るわれた手車。そのまま突き進めば少女の華奢な右肩から食い込み横腹に掛けて切り裂くだろう軌道で迫り来る蜘蛛糸を……環は刀で以て受け流した。より正確に言えば刀の表面で受け流した、というべきか。

 

 それは正に神業というべき技であった。振るわれる蜘蛛糸の軌道を読み取り、その糸の進行する『刃先』をなぞるようにしてふわりと当てられた刀身は、その表面を金切音と火花を散らして激しく削られる代わりに緩やかに糸自体の軌道を逸らして見せたのだ。

 

「くぅぅぅ……!!!?うわっ!?」

 

 尤も、完全には逸らし切れず、そのまま姿勢を崩した環の頭の上を蜘蛛糸が通り抜ける。それでも、環自身は無傷であった。その事に俺は安堵して脱力する。

 

 油断の罰は、環の横を抜けて此方に迫る半妖獅子の爪で贖う事となった。

 

「とも……」

「ぐがっ!!?」

『Σ(>Д<)ウキャン!?』

 

 思わず漏らした悲鳴は環の呼び掛ける声を掻き消した。この、野郎……!?よりによって蛙に削られた方の肩に斬りつけて来るか……!?

 

「伴部君っ!!?獅子舞さん!?そんな、どうして……!?」

「……」

 

 膝を折る俺に駆け寄り環が叫ぶ。当の獅子舞の姿を俺は暗闇の中から見る事が出来なかった。唯闇の中で沈黙する気配は困惑し混乱しているように感じられた。……そんな事は何の意味も持たないが。

 

「……っ!!」

 

 暫し此方を窺っていたように思われる獅子舞の気配は、しかし何か指示を受けでもしたかのように突如として退いた。

 

「獅子舞さん、待っ……!!」

「行くな環!!迷子になりたいのか!!?」

『( ・`д・´)マッタクセワガヤケルコネ!!』

 

 獅子舞を追おうとした環を俺はその装束を掴んで止める。この迷宮の中で一人で追跡するなぞ遭難するだけだった。後、蜘蛛煩いぞ。

 

「け、けど……!!」

 

 尚も反論しようとした環は、だが俺を見ると黙りこむ。正しくは俺の胸元と肩口の傷を見て、青ざめる。

 

「と、伴部君……」

「……大丈夫です。見掛け程に深い傷じゃあありませんよ」

『(`;ω;´)ヘルメットガナケレバソクシダッタ‥‥』

 

 不安に満ちる環に向けて、俺は宥めるように答える。半分程は嘘だった。今の皮膚の下は半分化物な俺にとって、確かに今の傷は致命傷にはなり得ない。だがそれだけの事だ。その内止まるだろう流血は、しかしながら貧血になるには十分だった。というか、正直もう目眩がしていた。主人公様には決して言えないが。

 

 ……それはそうと蜘蛛、お前は台詞パクるの止めろ。

 

「それよりも環様はご無事で良かったです。……失礼ながら御一人で此方に辿り着いたので?」

 

 俺がそう尋ねた途端、環は思い出したかのように目を見開いて叫んだ。

 

「!そうだった!!ぼ…僕、大きい熊妖怪に、それにあの人と一緒に転移したんだ!!えっと……えっと……」

「牡丹様、ですか?」

 

 名前が分からなかったのだろう、どういうべきか迷う環に対して俺は松重の孫娘の名を教える。

 

「う、うん!その人達と転移したんだけど、けど……」

 

 どうすれば良いのか分からない、といった表情を浮かべる環。浮かび上がる嫌な予感。そして俺はこの小汚い部屋に転移する直前の出来事を思い出すと、焦燥と共に環に道案内を頼み込んでいた…………。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 転移直前の騒動で僅かに座標がズレただけだったのだろう。環に案内されて彼女を見つけるのは決して長い時間をかける事は無かった。

 

 問題は、彼女の陥っている状態であった。

 

「牡丹様!?」

『( ≧∀≦)ノクマチャン!』

 

 何処までも広がる廃屋の一角にあった小さな居間の入口で佇む鬼熊。その奥に視線を向ければ黴で汚れた壁に凭れる少女の姿が現れる。その青ざめ切った表情、その装束の肩口から脇腹に掛けて滲む赤黒い染みに、俺は思わず叫んでいた。叫んで、急いで駆け寄る。

 

「……煩いですよ、下人。……応急処置は、もうしています」

 

 駆け寄った俺に対して、牡丹は普段通りに毒舌で応える。反応するのに時間を要していたし、その吐息と声音はかなり弱々しかったが。

 

「油断、しましたね。……元から警戒はしていましたが、あの状況で仕掛けるとは。真っ先に貴方を狙うのも想定外です」

 

 赤色でべっちょりと濡れる装束に触れて、牡丹はぼやく。嘆息する。

 

 原作知識で知る俺とは違い、牡丹は一目見て獅子舞の正体を看破していた。その上で警戒しつつも放置していた。

 

 彼女の取り巻く状況が獅子舞の即座の排除を困難にしていたのだ。既に環に信頼されていた以上、始末するにも事態は荒れる。獅子舞の把握出来る実力、未知数の異能を思えば相当数の呪具を消耗するだろう事が予測された。目的不明ながら即刻襲撃をしなかったのならば相手の油断を誘うためにも行動を密かな監視と観察に留めておく事は決して可笑しな判断ではなかった。

 

「奴はどうなりましたか?」

「仕留め切れませんでした。暫し戦闘となりましたが、直ぐに引き下がりました。恐らく近くにはいないと思いますが……」

 

 面の下で神妙な表情を浮かべ、改めて周囲を警戒しながら俺は答える……と、俺達の会話に困惑する環が視界に映る。

 

「環様?どうしましたか?」

「えっ?えっと……あの、二人の会話を聞いていたら、ちょっと、その……今の話って獅子舞さんの事だよね?まるで襲われる事を想定していたみたいに思えて……」

「えぇ、その通りですが。何か?」

 

 恐る恐ると尋ねる環に向けて、牡丹は切って捨てるかのように応じる。その即断の言葉に環は一層困惑したような表情を浮かべて口を開く。

 

「あれは、一体どういう事なの?獅子舞さん、急にあんな……二人に斬りかかって来て、けど本人も混乱していて……それに僕の事は助けてくれたのに……」

「アレは欺瞞です。化物の偽装からの不意討ちですよ。そう可笑しい話ではありませんよ」

「可笑しい話だよっ!?」

 

 牡丹の淡々とした、そして冷淡とした物言いに思わず叫ぶ環。その叫びに傷口が痛むのか牡丹が表情を歪めると環は罪悪感を覚えたように怖じける。

 

「ご、ごめんなさい……」

「構いません。……それよりもまだ言いたい事があるのなら先に言ってしまって下さい。内に抱え込まれると面倒です」

 

 謝罪する環に向けて、好意も悪意も無さそうに冷めた口調で続きを求める牡丹。恐縮しつつも環は小さく頷くと少しずつ言葉を紡いでいった。

 

 それは獅子舞麻美との短くも濃密な時間の追憶であった。命の危機にあった己を助けてくれた事、迷宮を進む途上でのたわいのない雑談、その中でぽつりぽつりと漏れる彼女の私生活、五十嵐家に仕える家人としての境遇、愚痴。小言、手厳しさ、面倒見の良さを、環は口にしていく……。

 

「何度も僕を助けてくれたんだよ!?それに色々な話をしたのが全部嘘だったなんてとても、ましてや化物の変装だなんて……はっ!もしかして何かで操られているんじゃ!?」

「あり得ません」

 

 環の脳裏に過った可能性を、牡丹は何処までも無感動に否定した。その冷淡にも思える返答に、少年味を感じさせる少女は顔を歪める。そして更に答える。

 

「じ、じゃあ本物は気づかない内に何処かに捕らえられて摺り替えられたんだ!!だったら早く助けないと……」

「そんな必要はありません。アレは元から化物です」

 

 環の焦燥に満ちた言葉を、再度牡丹は否定した。無感動に、義務的に、詰まらなそうに。

 

「どうしてそんな事簡単に言えるのさ!?そ、その……牡丹さんは獅子舞さんと仲が悪かったから?半妖だから!?だからそんなに悪く言うの!?」

「それについてはこの場で最初に伝えている筈です。アレは単にあの化物に警告し牽制するためのものです。それ以上の意味は持ちませんよ。……貴女こそ、出会ってそう長い時間も経てないでしょうに。良くもまぁあっさりと絆されたものですね?」

 

 不満げに尋ねる主人公様に対して、牡丹は呆れ果てるようにして答える。冷笑するようなその態度は繊細な神経を逆撫でしたようで思わず牡丹を睨み付ける環。それでも何処か遠慮があるのは牡丹が怪我をしているからか……その意味では蛍夜環はやはり優しい人間であった。

 

「そんな、そんな物言い……と、伴部君も……同じ意見なのかい?」

『(´・ω・`)ナノー?』

 

 牡丹の言葉に反発する環は震える声音で呟き俯き、此方の存在を思い出すと不安と期待をない交ぜにした視線を向けて問い掛ける。問い掛けた後に後悔したような表情を浮かべる。俺もまた彼女に斬りつけられた立場なのを思い出しての事であろう。

 

 その姿は何処までも哀れに思え同情を誘うが……恨まれる事は承知でも言うべき事は言わんとな。

 

「……環様。先ず申しますが私は斬りつけられた事について彼女の事を、獅子舞殿を恨んではおりません。それは、牡丹様も同じ事でしょう」

 

 そういって視線を向ければ肩を竦める牡丹。続けろ、と目で伝える。俺はそれに頷くと不安げな環に視線を戻して話を進める。

 

「同時に、牡丹様の仰る言葉はほぼほぼ事実に相違はないでしょう。その点については、私は同意せざるを得ません」

「そんな……」

 

 俺の言葉に唖然として、愕然とする環。何故?どうして?と譫言のように呟く。明らかに動揺して、混乱していた。

 

「納得出来ない、と言った態度ですね?」

「当然、だよ。確かに僕は皆みたいに妖の事に詳しくないよ?ズブの素人だよ。だけど……獅子舞さんの中身が邪悪な妖だなんて、そんな……」

 

 俺の言葉を、環は受け入れようとしてしかし、受け入れ難いとばかりにその美貌を苦痛に歪ませる。牡丹の言葉ではないが、確かに短い時間で主人公様は彼女と相当仲を深めたらしい。

 

 ……まるでノベル版の彼と同じように。

 

「……牡丹様の説明では少々環様の認識に齟齬があるようですね」

 

 俺は再度牡丹に首を向けて口を開く。「好きにして下さい」という、投げやりな言葉を受け取った俺は、今一度環の方へと向き直る。心底不安そうに此方を見やる環。

 

「環様に納得して頂けるように、説明したいと存じます。宜しいでしょうか?」

 

 俺の説いた言葉に眼前の少女は一瞬動揺した後に、しかし覚悟を決めたように重々しく頷くのだった…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

「流石に時間も惜しくなりました。心苦しいですがここらで動くとしましょう」

『(^ω^U)オサンポ!?』

 

 暫しの会話を終えると、俺達はその場から出立を決めた。時間制限がある以上何時までもここに留まる訳には行かなかったのだ。うん、何でお前はそんな暢気なの?

 

「……とは言え、これは何処に行ったものかな?」

「前の部屋からならば脱出の手もあったのですがね。……貴方があんな烏賊の出来損ないを連れて来てくれたお陰で御破算です」

「ちょっとその物言い酷くありません?」

 

 直前まで粘液触手プレイされてたじゃん。完全にR-18濡れ場に直送されかけてたじゃん。賭けてもいいが多分あの後衣服だけ溶かす御都合主義汁ぶっかけされてただろう?……いや、目逸らすなや。

 

『牡丹よ、過ぎた事を此処で掘り返す必要はあるまい。それほど我らに余裕は無かろう?』

 

 俺の頭の上に着地した蜂鳥が宥めるように宣う。此方に助け舟を出した体で、その実己を事前に弁護するための布石なのは明らかであっ『( ・`ω・´)ソコハワタシノシテイセキヨ!!』おう、俺の頭頂部には予約チケットがあったのか。

 

「自分は安全圏にいながら白々しい……まぁ、良いでしょう。確かに実りのない話ですね。それで?行き先の当てはあるので?」

 

 若干きつい口調での問い掛けに俺は肩を竦める。それを見て牡丹は盛大に嘆息した。残念ながらその行為を非難出来なかった。彼女の気持ちは嫌な程に分かったから。

 

 先程の部屋は例外的として、基本的に部屋を進むごとに此方の道具は消耗していく。時間制限があるとしても無闇やたらに探索するのは自殺行為だった。だからこそ俺は原作ファンムービーをヒントに出口を目指したのだし、恐らくは牡丹も過去の探索資料を標とした事だろう。

 

 残念ながらこの部屋は牡丹の読み込んだ資料にも、ましてや俺の前世の記憶からも該当しそうなものはなかった。

 

「装備が潤沢なら適当に記録が残されている部屋に流れ着くまでさ迷う手もあるのですがね……」

 

 焦燥感に俺は口元を強く結ぶ。さてさて、どうしたものか……。

 

「……」

「……っ、環様?大丈夫ですか?」

『(´・ω・`)?オナカヘッターノ?』

「え?あ、うん……大丈夫、だよ?」

 

 ふと、俺は牡丹や翁との会話に参加せずに黙り続けていた主人公様の存在に気付き、声をかけた。返って来たのは何処か曖昧げな応答だった。

 

「環様……」

 

 先程までの俺達の説明に相当ショックを受けていたのは知っている。唯でさえ暗黒面に堕ちそうなチャートとビルドを邁進してるのだ。今後の事を考えれば放置は出来ない。少しでも危険な兆候があれば小まめなメンタルケアをしなければならないだろう。『迷い家』の中で闇夜の帳エンドなんてされたら堪らない。

 

「御心痛は理解致します。ですが今は……」

「ううん。いいんだ、有り難う。……心配しないで。さっきの話は、理解はしたから」

 

 つまりは納得はしていないと……儚そうな表情の環の言葉の裏の意味を俺は直ぐに察した。主人公様らしいと言えば主人公様らしい話ではある。ルートによるとは言え、半ば強制されている俺とは違い無自覚の行動であの糞鬼を魅了しているだけの事はあった。

 

(まぁ、流石に今回の場合は仮にあの糞鬼が見ていたとしてもセーフ判定になりそうではあるが……)

 

 問題は、主人公が衝動的に何か無茶をする可能性か。友情・努力・勝利な正統派少年漫画なら無謀蛮勇も心配しなくて良いのだが、この世界ではな……。

 

「それよりも何か因果というのかな。ははは、流石に一度抜けた部屋に戻って来たと思うと少し徒労感があるね……」

「……もう一度、ですか?」

 

 主人公様の心中を考察していた俺は、しかし直後に放たれたその言葉が思考の琴線に触れる。面の下で眉間に皺を寄せる。牡丹を見れば小さく首を横に振った。待て。これは、あるいは……?

 

「失礼、環様。今のお言葉の確認をしたいのですが……もしやこの部屋に一度入られたので?」

「え?う、うん……多分、この部屋の特徴を見る感じ、同じ部屋かなって思うけど……」

 

 周囲の空気の、俺達の変化に気付いて僅かに怖気付く環は、それでも俺達に向けて説明をする。

 

「時系列としてはいつ頃の事でしょうか?順番は?牡丹様と合流する前の事なのですか?」

『(*゚∀゚)アライザライハイテモラオウカ!』

「えっと……確か、三番目だったかな?うん、牡丹さんと出会う結構前の部屋だよ」

 

 俺は、そして恐らく牡丹もまた環のその言葉に一つの疑惑を抱く。

 

「獅子舞と遭遇したのは『迷い家』に迷いこんで直ぐの事でしたか?」

「そ、そうだけど……」

「最初に迷いこんだ部屋の特徴は?」

「えぇ?えっと……此処と同じ屋内だったよ?ちょっとこぢんまりとした書斎、だったと思う。文机とか座布団とかあったかな?それに掛軸や火鉢も」

「……妖の類いはいなかったのですね?」

「うん。けど出口を探そうと慌てて廊下に出ていったら襲われたんだ」

 

 横から口を挟む牡丹。その質問に記憶を掘り起こして環は答えた。

 

『成る程、そしてアレに出会したと。ほほほほ、灯台もと暗しとは良く言ったものだな』

「それは嫌味ですか?……下人、どうやら標は見つかったようですね」

 

 蜂鳥の朗らかな笑い声に舌打ちした牡丹は俺に視線を向けて呼び掛ける。妖の心理から仮説を導いた彼女らに俺は強く頷いて応じた。俺もまた原作から答え合わせは出来ていた。

 

 成る程、そういう事か。ならばあの瞬間に『迷い家』が獅子舞麻美という伏せ札を切ったのも道理か。

 

「では、これを使うとしましょうか?」

 

 そういって壁に凭れた牡丹が取り出したのは小さな方位磁石だった。そしてその針の赤塗りの先端に何かを巻き付けていく。

 

「……獣毛?」

「肉弾戦になった際に幾らか毟らせて貰いました」

『((( ;゚Д゚)))オソロシイコ!!』

 

 環が首を傾げて呟くのに牡丹は淡々と答える。どうやら門を潜る時の一戦で獅子舞の鬣のような髪を拝借したらしい。もの探しの呪いの触媒……本来北を指し示す方位磁石の針は獅子舞の消えた先を指していた。針は僅かに動いている。恐らく今も彼女は移動しているのだろう。

 

「彼方か」

「……追うの、かい?」

 

 獅子舞の居場所、その大まかな方向を把握した。環は此方を見上げると緊張の面持ちで尋ねる。其処には覚悟の色が見えた。尤も……。

 

「あ、いえ。追いませんよ?」

「へ?」

『Σ(; ゚Д゚)エッ!?』

 

 俺の簡潔な返事に環は思わず腰を抜かしたような滑稽な返しをしていた。後蜘蛛、お前も驚くんかい。

 

「えっ、えっと……じ、じゃあ、どうして「もの探しの呪い」を……?」

「簡単な話ですよ、アレの反対側の道を進むためです。……行きますよ。おい、何時まで尻を撫でてるのですか?」

『グルルル……』

 

 環の質問に牡丹が答える。答えてから、牡丹は鬼熊に己を抱くように命令する。潰れていない右手で焼けた己の尻を撫でていた涙目の熊妖怪は渋々といった表情でそれに従う。己の主人を抱っこする。『(*゚∀゚)ワタシモダッコサレテモイイノヨパパ!』やらんよ?

 

「……有り難う御座います、環様。お陰で光明が見えて来ました」

『分が良いとは言えぬ勝負であるがな』

「それは何時もの事ですので……」

 

 事態を打開する切っ掛けを語ってくれた環に俺は心からの謝意を示す。翁の言葉はさらりと流す。本当に今更の話であったから。

 

「え、えぇっと……!?ご、ごめん。僕、話に付いていけないんだけど……一体どういう事なの?」

 

 一人だけ置いてけぼりを食らったように説明を求める環。翁や牡丹はそれに対して「鈍い奴だ」とでも言いたげな視線を向けるが、それは酷な話であろう。主人公様は良くも悪くも頭退魔士ではなかったから。

 

「言葉足らずで申し訳ありません。つまりはです。端的に言えば……この持て成しを用意してくれた奴に御礼参りをしにいく、と言った事ですかね?」

 

 きっちり耳を揃えて、利息付きでね? 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 以前にも触れたが強力な権能・異能は、その多くが制約や条件、弱点といった代償が求められる。『迷い家』の権能における制約の一つに、「迷わせた者が最初に入室する部屋を決められない」というものがある。

 

 では考えて欲しい。今回『迷い家』に引き込まれた者は多数に上る。その中で環だけに獅子舞が接触したのは、それも真っ先に……主人公補正?いや、だとしても主人公補正が発生する『迷い家』側の要因がある筈だ。

 

 そして儀式による転移時に乗じた襲撃……ノベル版においては主人公が脱出しようとするまさにその時の襲撃であったが今回は違う。既に環が突破した部屋に繋がっただけにもかかわらずどうして極上の伏兵を切る必要があろうか?

 

 いや、確かに『迷い家』にとってはそれは折角の伏兵を使う必要があったのだろう。俺は動画サイトにおけるファンムービーでその答えを導き出していた。

 

「つまりは灯台もと暗しという訳ですか……!!」

 

 突貫する鬼熊の腕の内で符を放ちながら牡丹が叫ぶ。放たれた符は眼前の歯茎丸出しの飛頭の動きを封じる。其処に熊妖怪が躍りこんで痙攣する飛頭を殴り殺す。

 

「まぁ、そう言う事ですね……!!」

『(>ω<。)ヨコカラバーン!!』

 

 

 そして俺もまたすぐ真横の障子を勢い良く開いて飛び出す真っ白な人形の怪物の足を払って転倒させる。出落ちで転げた化物が奇声を上げるのを顔面を蹴りあげて物理的に黙らせた。黙らせて、その骸を打ち捨てて薄暗い廊下を走る。

 

「はぁはぁ、そんな……どうしてこんなに妖が?僕が通り抜けた時は一体も……!!?」

 

 最後尾を走る環は足下に散乱する多種多様な妖の骸を一瞥して愕然とする。どうやら彼女はこの部屋にこれ程多くの妖が潜んでいた事が驚きだったらしい。

 

 尤も、その理由は明らかだった。恐らく『迷い家』は敢えてこの部屋の妖共を隠して環を通していたのだ。そりゃあそうだろう。『迷い家』からすればそれこそが最優先事項であったのだから。

 

 まさか『迷い家』自身からしても仰天物であっただろう。まさか無数にある部屋の中から「己の核がある部屋」にいきなり退魔士がエンカウントしてきたのだから。

 

「そりゃあ獅子舞を送り付ける筈だわな!!」

 

 眼前の妖の喉元を切り捨てながら、俺は吐き捨てる。そう、全ては偶然から始まり、しかしそれ以降は必然だったのだ。

 

『迷い家』のその特性からして、正面切った一対一のタイマンが強い筈がない。有象無象の雑魚妖怪共相手ならば兎も角、凶妖連中の中では最下層に属する筈だ。もしかしたら大妖相手でも分が悪いかも知れない。

 

 蛍夜環の実力を何処まで把握していたのかは分からないが、まともな神経をしていれば自分が戦う選択肢は皆無だろう。眷属を動員するとしても己の核のある部屋でのドンパチは嫌がる筈だ。寧ろその場を誤魔化して少しでも遠くに環を追いやろうとするのが合理的な判断だ。

 

 それこそが獅子舞麻美が環の元に送り込まれた理由……そして、あの時彼女が襲いかかった理由でもあるのだろう。まさか転移先がまた自身の核のある部屋の傍とは。

 

 それが偶然なのか、俺達が狙い澄ましたものなのか、どう解釈したのかは分からないが『迷い家』としては看過出来る筈もない。少々短慮とは言え拙速は遅巧に勝るとも言う。手遅れになる前に手札を切ったのだろう。結果は薮蛇だったがね?

 

「にしてもっ、随分と彼方さんも焦っているようだな!!」

『(* >ω<)ヒラヒラクルワー!!』

 

 俺は布団棚から次々と舞い上がった一反木綿共を手車と短刀で以て切り伏せながら言い捨てる。

 

「焦る?どういう事ですか?」

「明らかに襲いかかる妖共が雑多だからですよ!!」

 

 俺はそんな事を叫びながら、背後から全力疾走で襲いかかって来た洋館に潜んでそうな青紫の怪物に投石器で礫を放った。奇行種みたいな表情を浮かべる顔面は無駄にデカいので目玉を直撃コースで潰すのは容易だった。

 

『ギャアアアッ!!?』

 

 顔面を押さえて悲鳴を上げて、それでも尚突っ込んで来るので俺も迎え撃つ。相対するように突貫、轢き潰される寸前に身体を反らし手車で足を切り落としてやる。元より出来損ないの土偶のような体型は姿勢を崩して顔面から床に突っ込んだ。念のために首筋に上がって脊髄を突き刺して完全に止めを刺す。

 

 先程蹴り殺した美術部に在籍してそうなストーカーにしろ、今仕留めた洋館に潜んでいそうな青い人型の異形にしても、俺は元ネタを知っていた。そして本来はネタ枠として特定の部屋だけに生息する筈の眷属だった。

 

「こいつは……恐らくは手近な部屋から妖共を急いで集めて投げ込んでるな?」

『(´・ω・`)パイナゲミターイ』

 

 此方が己の方向に向けて邁進するので慌てたのだろう。余りにも統一感のない襲撃者共は明らかに連携どころか部屋との相性や運用だってあまり考えていない急拵えの軍勢であった。

 

(時間稼ぎか?ならばとっとと突き進むのみ……!!)

 

 闇の中から浮き出るように現れた南蛮黒色礼装のスレンダーな怪物を、参上と同時に手車で一刀両断する。その骸を乗り越えて俺達はひたすら突き進む。俺達の狙いを考えれば『迷い家』に一秒でも長く時間を与えるのは得策ではなかった。

 

「伴部君、横の部屋……!!」

『(>ω<。)ワキガオルスッ!!』

「っ!?何っ!!?」

 

 主人公様と蜘蛛の警告。その意味を解する前に襖が壁ごと吹き飛びそれが現れる。赤黒い肉の塊、部屋に立ち込める悪臭。視界に映りこむ肉の垂れた顔面。そして拳が、張り手が振るわれる。

 

「おら行け!!」

 

 直ぐ側にいた美術部所属の色白(その二)を蹴り上げて宛てがう。肉の壁のような張り手で直後にド派手に挽き肉となって壁にめり込んだ美術部所属。達者でな!!

 

「こ、これは……!?」

「また少し厄介な奴が出ましたね。『ぬっぺっぽう』ですか……!!」

『( ´゚д゚)プヨプヨー!』

 

 纏わりつこうとする羽蟲共を切り払っていた環が唖然として、牡丹は苦虫を噛む。ここから先は通さぬとばかりに現れた肉人形は、確かに今の俺達にとっては対処するのは容易ではなかった。

 

『ぬっぺっぽう』……前世においてはのっぺらぼうの原流となったとされる妖の一つである。壁のような体型に手足を適当に生やしたような姿は何処となく不安定に思える。その顔はのっぺらぼうと違って存在するが垂れ下がった肉で窺えず、老人のような印象を見る者に与えていた。

 

 そして……そんな腐肉の化物が口元を吊り上げる。嗜虐的に、口元を歪ませる。

 

「失せろ!!」

 

 生理的な嫌悪感もあって俺は即座に始末に掛かる。周囲の他の妖共ごと、豪快に手車を振るって俺は眼前の怪物を切り伏せに行く。だが……。

 

「やべっ!?止められた!!?」

『(;´゚д゚`)マッタナノー!?』

 

 数体の妖を纏めて両断した蜘蛛の糸は、しかし『ぬっぺっぽう』の太ましい身体の三分の一に斬り込んだ所で塞き止められる。いや、これは止められたというよりは寧ろ……!?

 

(あぁ、成る程。白刃取りと同じ要領か……!!)

 

 刃の刃先は鋭くとも側面からの圧力でその運動を静止させる事は可能だ。そしてそれは蜘蛛糸も同じ……こいつ食い込んだ糸を自分の肉で上から押さえ付けやがった!!?

 

『ヒヒッ!!』

「不味……がぁっ!!?」

『(* >ω<)ウキャン!!?』

 

 嘲りの嗤い、そして己の腹が更に裂けるのも気にせず此方に肉薄した肉の塊は張り手を俺に叩きつける。咄嗟の受け身、背後への後退、それらは一歩遅かった。直撃を避けるがそれでも俺の身体は背後に向けて豪快に吹き飛んでいた。床に身体が勢い良く叩き付けられる。何だったらそのまま追加投入された雑魚妖怪共の群れに勢い良く突っ込んだ。

 

「伴部くん!?」

「余所見をしないで下さい!!」

 

 環が叫ぶ。直後の牡丹の叱責。慌てて振り返れば『ぬっぺっぽう』は環に向けて腕を振り上げていた。腐肉故に弛んで伸縮性のある腐肉の塊で以て、殴りかかる。

 

「うわっ!!?」

 

 咄嗟の刀身と重心移動を伴った受け流しは環の身を殴打から守り抜く。しかし同時に刀の刃がへし折れる。それなりの業物ではあったがこれ迄の連戦に神蜘蛛の糸で刀身を磨り減らしていた。其処に大質量の一撃を食らう事で彼女の刀の耐久性は限界に達していたのだ。

 

「そんな!?ひっ……!?」

 

 半ばから砕けた刀を見て、環は一瞬唖然。慌てて予備の脇差しを抜くが遅い。腐肉の両の手が拍手するように左右から迫っていた。一瞬後には環の身体は腐肉によって押し潰され……。

 

「何ぼさっとしているのですか!!?」

『グルルルル!!』

 

 牡丹が叫んだ。熊が咆哮した。妖熊の拳が『ぬっぺっぽう』の顔面に叩き付けられた。仰け反った『ぬっぺっぽう』の両手は空しく互いの肉を打ち鳴らす。

 

 しかし、それだけだった。

 

『グルゥ!?』

「っ!?浅い!引け……」

 

 殴打の違和感に熊が気付き、牡丹が命じるが僅かに遅かった。

 

『ヒヒッ!!』

 

 顔面がひしゃげた肉妖怪は、それにもかかわらずにやけて熊を殴り返した。熊の顔面ではなく、その腕の内に抱かれる少女に向けて。

 

「くっ……!!?」

『グルルルル!!』

 

 少女が潰されるのを防いだのは熊の腕だった。打ちこんでいた腕を肉妖怪の顔面からひっぺがして牡丹の眼前を覆う。ボキッという異音と共に鬼熊の右腕は折れた。骨格的にあり得ない方向に熊の豪腕が垂れ下がる。

 

『グオオッ!!』

 

 熊は悲鳴を上げたがそれだけだった。直ぐ様に潰した『ぬっぺっぽう』の顔面に噛みついた。噛み千切った。表皮が筋繊維を引き伸ばしなから捲れる。噴き出す血飛沫。千切った顔面を吐き捨てた熊は見た。垂れた肉を失って剥き出しとなった眼球と歯茎を。

 

 ……その瞳は左右で色彩が異なり、並ぶ歯は形も大きさも乱雑だった。まるで全部違う者のそれを集めたように。

 

『ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ッ゙!!!!』

 

 血の噴き出す顔面を怒りの形相に変えて、狂ったように『ぬっぺっぽう』は叫んだ。再度熊を殴り付ける。

 

『グルルッ!!?』

「ぐっ!?うぐっ!!?」

 

 折れた腕でそれを受け止める鬼熊。しかし、それでも尚衝撃までは抑えきれずにその内に抱く弱り切った少女が苦悶の声を漏らす。それに気をとられる熊はただただ肉妖怪の連続する殴打に耐える事しか出来なかった。

 

「うわわぁぁ!!」

『ヌッ!!?』

 

 雄叫びに近い叫びは勇気を奮い立たせるためのもので、突き立てられた脇差しは『ぬっぺっぽう』の足に深々と突き刺さった。

 

「あ……」

 

 それだけの事だった。己に陰る影にゆっくりと顔を上げた環は見る。己を目と鼻の先で凝視する皮の裂けた真っ赤な顔面を。

 

 思わず「ひゅ」と息を漏らす環。怖気付いた人間の表情に、肉妖怪が真っ赤な顔面を歪ませながらその乱雑に並ぶ牙を、顎を広げる。

 

『グオオッ!!!!』

 

 それは環に気をとられて生まれた隙に乗じた再攻勢であった。両手を使えぬ熊妖怪が怒声と共に『ぬっぺっぽう』に突貫する。その脇腹に頭頂部より生やした角を突き刺す。グサリ、と深々と突き刺して、引き抜き様に更に振り向いた怪物の内皮剥き出しの顔面に向けて一撃お見舞いする。

 

『ア゙ア゙ア゙ッ゙!!?』

 

 腐肉屍肉を固めて生まれた怪物は、痛みがなければ何れだけ己が傷つこうとも死にはしない。それでも大重量を乗せた熊の頭突きは唯でさえひ弱な、しかも刀傷を受けた足腰には厳しく、肉妖怪は思わずペタンと間抜けに尻餅を搗いていた。

 

「『崩山濁龍』!!」

 

 そして熊妖怪が傍にいた環の首元を咥えて退避したのと入れ違いになるように、乱雑な建材血肉で構成された式神が肉妖怪に向けて突っ込んだ。式は咆哮と共に外皮のない顔面に己を捩じ込んで、中から化物をミキサーにかける。噴水のように周囲に屍肉血漿を撒き散らす。

 

「と、伴部くん!!?」

「はぁはぁ……源武、行くぞ!!」

『グルルッ!!』

『( ・`д・´)オー!!』

 

 そしてゴリラ様から受け取った札の一つを切った俺は環の呼び掛けを余裕が無い事もあって無視し、鬼熊に向けて逃走を命じる。因みに直前まで俺の描写が無かったのは雑魚妖怪共の群れの中で必死に死闘を繰り広げていたためである。蜘蛛の返答は気にする必要はない。

 

 両の腕の使えぬ熊に代わって俺は先頭を突っ切る。遮る妖共を短刀の一撃で仕留めながら俺達は暗い廊下を突き進む。幸いながら、現在進行形にてド派手に腐肉妖怪が血肉をばら蒔いているお陰で他の妖共も俺達よりもそちらに引き寄せられているようであった。

 

『(´・ω・`)?アレ、ヨーヨーハー?』

「回収の時間なんざねぇよ!」

『(´・ω・`)ショボーン‥‥』

 

 脳内で残念がる白蜘蛛であるが、一番きついと思っているのは俺であった。大妖以上にまともにダメージを与えられる装備を捨てるなぞ……しかし、背に腹はかえられないのだ。

 

 俺達はひたすら進み続けた。背後では腐肉妖怪の怒声と肉の潰れ続ける音がひたすら鳴り響き続けていた……。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

「うぐっ、も、もう、大丈夫でしょう。少し、止まって下さい。もう無理です」

 

 何れだけ時間を経ただろう。腐肉妖怪から、そしてそれに引き寄せられる妖共から逃れるための逃走劇は鬼熊の懐に抱かれる少女の宣言で中断された。俺は足を止めて、熊は咥えていた環を下ろし、抱く主人を壁際にゆっくりと凭れさせる。

 

「ぼ、牡丹さん……!?」

「静かにしてください。……身体に障ります」

 

 床に下ろされた環が牡丹の元に駆け寄る。当の牡丹は最早息絶え絶えに見えた。恐らくはあの肉妖怪の殴打の衝撃によるものだろう。止血したと言っていた獅子舞から受けた傷も開いてしまっているらしかった。

 

「此は……非常に不味いですね」

『妖共を招く良い餌じゃろうてな。直ぐ様止血して移動するべきであろうな』

『(*´・ω・)ナーデナーデヨー?』

 

 俺が呟くのに続いて蜂鳥が嘯く。それに対して、牡丹は不愉快な表情で睨み付けた。俺ではなくて蜂鳥を。

 

「態とらしい……」

「えっ?」

「残念ながら直ぐにはどうしようもありませんね。環姫、それに下人。貴方達は先行して下さい」

 

 牡丹の呟きに環は意味を良く理解出来ずに思わず疑問の声を漏らした。それに対して牡丹は特に答えずに唯そう申し出た。己の待機を。俺達の先行の要請を、求める。

 

「それって……だ、駄目だよ!!?」

『いや、正しい判断じゃな。戦力も物資も限られておる。足手纏いを補佐しながら進むのは困難じゃ。寧ろ囮として先を急ぐのを推奨するの』

 

 環の即座の否定の言葉、それを否定する蜂鳥の言葉。そして俺は確信していた。この場において、どちらが正しい選択なのかを。

 

 恐らくは、彼女の消耗は、最早移動するだけでも致命的であった……。

 

「……最善の選択をするべきです。このままでは共倒れになりますよ?」

「牡丹様はどうするおつもりで?」

 

 牡丹の提案に俺は問い質す。牡丹は俺を見つめる。暫し無言で見つめて……言葉を紡ぎ始める。

 

「言っておきますが、私は自己犠牲なんてするつもりはありませんよ?止血して、体力を回復すれば後に続きます。何でしたらそれまでに事を終えてくれても構いませんよ?」

 

 自分が休んでいる間に『迷い家』を殺せ、と牡丹は提案する。

 

「それはそれは、また無理難題を」

「貴方がそれを言うのは皮肉に思えますね?」

 

 苦笑いする俺に向けて、牡丹は真顔で答える。真顔で、呆れるように肩を竦める。気持ちは分かるが此方も好きで酷い目に遭って来た訳ではないのですがね?

 

「出来れば後から来てお助け頂きたいものなんですがね。……これを」

「……?」

 

 俺はそれを牡丹に差し出す。首を傾げて、しかし受け取った彼女は直後に此方を怪訝な表情で見やる。

 

「……正気ですか?」

「お命じになられた役目、自分には荷が重過ぎます。後から追い付いて下さい」

「本当に呆れますね……」

 

 俺の返答に本当に心からの呆れを見せる牡丹。そして視線を移す。周囲を警戒する手負いの熊に。

 

「源武、お前は下人に付いて行きなさい」

 

 恐らく熊を封じる符を俺に押し付けて、牡丹は己が式に命じる。

 

「……自身に侍らせないので?」

「足代わりの中妖ならばまだ何体かいます。これは手負いですし、それでも大妖です。この部屋の主を成敗する時には役立つでしょう。使い潰しても構いませんよ?」

「いや、最後酷く無いですか?」

 

 直ぐ傍に涙目の本人、本妖がいるというのに流石退魔士と言うべきか。己の使う式なぞ駒としか思っていないようであった。もしや、式神界隈は下人衆並みのブラック業界なのでは……?

 

「煩いです。傷が疼くでしょうが。……さぁ、早く行って下さい。お爺様も、分かりますね?」

 

 苦笑して、そして俺の頭の上に着地した蜂鳥に向けて念を押すように語りかける。蜂鳥は無言を貫き、ただ一度鳴いた。

 

 遠くで、妖の鳴き声が響く。時間の余裕も、選択の余地も無かった。

 

「行きましょう、環様」

『(*゚∀゚)ピクニックニ?』

 

 俺は環に対して先に向かう事を促す。うん、蜘蛛てめぇが何も分かってない事は分かったわ。

 

「牡丹さん……」

「……さっさと行って下さい。時間は……有限ですよ?」

 

 どうしてもその場から離れる事を渋る環に向けて、牡丹は警告する。俺の方に視線を向ける。彼女の意を汲んで、俺は環の肩を掴む。促す。

 

「環様。お早く……」

「……うん。その、牡丹さん!」

 

 俺の要請に環は苦渋の表情で頷き、そして踵を返す……前に牡丹に向けて呼び掛ける。

 

「牡丹さん、その……さっきはごめんなさい。色々文句を言って。酷い怪我してるのに、大声で……」

「……話はそれだけですか?ならばさっさと行ってしまって下さい」

「うっ……」

 

 牡丹は環の謝罪に対して感情を出す事もなくそう言い捨てた。その返事に怖じける環。尤も、それなりに彼女と関わりのある俺は分かっていた。少なくとも牡丹の今の言葉に環へと悪意はない事を。

 

「……牡丹さん、待っているからね?絶対、追いついてね?」

「言われる迄もありませんよ。こんな場所で死ぬつもりは微塵もありませんから」

「うん。……待ってる」

「……行きましょう」

『( ≧∀≦)ノマッタネー!』

 

 その言葉でどうにか環は踏ん切りをつけたらしかった。俺達は後ろ髪を引かれる思いで、しかしそれを振り切る。振り切って、熊妖怪を先頭にして暗闇の廊下を駆け走り始める。最早俺達は彼女の心配をする暇はなかった。

 

 俺達の進む闇夜行路の先だって、どうなっているのか知れたものではなかったのだから……。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「待っている、ですか。……本当、甘い娘ですね」

「そうさね。甘甘の、蜂蜜漬けの砂糖漬けさ。能天気なこったな。嫌いではないがね?」

 

 同行者達が消えた闇を一瞥して呟いた牡丹は、背後からの愉快げな声音に眉間に皺を寄せる。振り向いた先にいるのは胡座を掻いた碧い鬼が一体。

 

「意外と高評価……でもありませんか」

「おや?驚かないのかい?」

「流石にこれ迄散々彷徨かれてましたからね。貴様の嗜好くらいそろそろ気付きます」

 

 そしてその悪質さも、とまでは言わない。態態言う必要性がなかった。今更の事だ。

 

「それにしても冷たいよなぁ?まさかこれ迄助けてくれたお前さんを置いて行くなんてよ?正直少し失望したなぁ。折角の俺様の英雄だと思ってたんだけどなぁー?」

 

 胡座をしたままの姿勢で更に頬杖をした鬼は態とらしく嘯く。嘯きながら見やる。暗闇の中を、彼らが消えた道の先を。

 

「……私に反論でも求めてるので?」

「さぁ?唯俺の性格くらい知ってるだろ?」

「ちっ。……お前の物言いは的外れな文句ですよ」

 

 あからさまに棒読みな鬼の嘆きに胡散臭そうに牡丹が指摘すれば、返って来るのはふざけた返答。その意図を理解して舌打ちしてから牡丹は求められる答えを言及する。彼が、彼らが己を置いていった理由を……。

 

「少なくとも見捨てている訳ではありませんよ。本当に見捨てるなら此方の身ぐるみ全て剥いで行くでしょうよ。……少なくともこれは寄越しません」

 

 牡丹の掌の上にあるその呪具は、寧ろ一番渡しては行けないものだろう。妖は視覚以外の感覚も鋭敏だがそれでも貴重な呪具に相違ない。その出自からして到底代用が利く代物ではない。

 

「あの男は信じているのでしょうね。何とかして私が追い付くのを。あるいは、私が隠れている内に事を終わらせるか……前者は兎も角、後者は言った身ながら身の程知らずと言うべきですがね」

 

 下人が退魔士を心配する事も、ましてや『迷い家』相手に殴り込みを掛けようというのも、分不相応この上ない。これまでだって痛い目に遭って来た癖にまだ分からぬようだった。

 

「本当、呆れた奴ですよね……」

 

 手元の勾玉を覗くように一瞥して牡丹はふと小さく呟いていた。その口元が僅かに緩んでいた事に、彼女自身気付く事はなかった。

 

「……それで?お前さん自身はどうするんだい?」

「私、ですか……?」

 

 そんな牡丹の表情を観察していた鬼の一言は、牡丹の意表を突いたようであった。思わず勾玉から鬼の風貌へと意識を移す松重の孫娘。

 

「そうさな。その傷、それに……その腹ん中の蟲共の侵蝕。霊力を使うだけで、口を動かすだけで相当痛いんだろう?流石に限界なのは分かるぜ?」

「……」

 

 鬼の言及。否、追及に対して牡丹は無言で以て応じる。この場においてはそれは事実上肯定を意味していた。

 

「痛いのは辛ぇよな?死にたくなるのも分かるぜ?虫歯だって酷いと切腹する奴がいるものなぁ?……だからお前さんはどうすんだ?その懐の薬をよ?」

「………」

 

 鬼の言葉に答える事なく、牡丹は懐に忍ばせていたその小瓶を取り出した。透明な硝子製の小瓶、その中を満たすのは赤黒く粘り気のある液体……。

 

「……お前の嗜好では安易に化物になる人間は詰まらないのでは?」

「それは俺の期待する英雄像って奴だよ。そんな物はお前さんに期待してねぇさ」

 

 つまりは自分は鬼とあの男の物語を彩る添え物である……口にしなくても鬼の言わんとする事を牡丹は直ぐに理解した。

 

「んっ、お話中に邪魔だぞ?」

「っ……!!?」

 

 直後、牡丹の顔の直ぐ横を何かが掠めた。同時に何かが潰れる音、赤い鮮血が牡丹の頬を、装束を疎らに染め上げた。視線をちらりと背後に向ける。恐らく礫か何かを投擲された人面蟲体の怪物は頭を噴き飛ばされてその場でピクピクと身体を丸めて痙攣していた。

 

 咄嗟に牡丹は周囲に意識を向ける。そして感じ取る。暗闇の中からゆっくりと、しかし確実ににじり寄って来ているおぞましい魑魅魍魎共の存在に……。

 

「このまま餌になるのも良し。それを使って続投するのも良しだ。唯物語の分岐点だかんな。善く善く後先考えて判断して欲しいのが読者の要望ってもんさ」

「人の人生を好き勝手言ってくれるものですね?」

「かかか、どの道もう人生なんて打ち止めだろう?」

 

 不快げに牡丹が文句を言えば洒落で返す鬼。ああ言えばこう言うとはこの事か、と思わず牡丹は思った。

 

「……さて。まぁそういう訳だからさ」

 

 言いたい事は言ったとばかりにひょい、と鬼は立ち上がる。そして踵を返す。

 

「お話の脇道に寄るのはここまでってな?俺はそろそろ本編の英雄様の物語を拝見させて貰うとするぜ。……まぁ、また出会す機会があれば宜しく頼むぜ?」

 

 笠の鍔を持ってニヤリと嗤った鬼。その姿は一瞬後には消えていた。さて、霧になったか闇になったか、高速移動したのか隠行しているのか。牡丹には皆目見当がつかない。唯一つ言える事は、己がどうなろうとも鬼は最早気にしていないという事だけだ。

 

「どいつもこいつも勝手な奴ばかり……」

 

 苛立ちと呆れと嘆息を混合した声音で小さく呟いて、牡丹は小瓶を見下ろした。祖父の用意したその薬液は悪魔の血を基本として希少品を含めた二十数種の材料を緻密に、厳密に、丹念に調合した代物だ。

 

「……」

 

 これを飲めば、かなりの確率で己は眼前の死の運命から抜け出せるだろう。しかし……。

 

「余りにも見苦しいですからね……」

 

 そう、かなりの確率で生存出来るとは言え、確実にではない。もし身体が耐えきれなければ無様な最期を迎える事だろう。そして身体が耐えきって生存出来たとしてもその代償は大きい。最善の結果を導いたとしてもその光景は醜く、愚かしく、しかも結末の先送りに過ぎないのかも知れない。

 

 それは退魔士にとって、ある意味で憤死ものであろう。退魔士らしい退魔士の価値観を持つ牡丹にとってもそれについては同様だ。だからこそ、この薬を受け取ってから何ヵ月も飲まずに懐にしまい続けて来たのだ。

 

 ……あるいは、それもまた決断の先送りに過ぎないのかも知れなかったが。

 

「今更ながら、やはりわたしは馬鹿ですね」

 

 小瓶を見て自嘲する。冷笑する。何をここに来て迷っているのか。ここで迷い葛藤するならばさっさと小瓶を床に叩きつけておけば良かったのに。原材料が原材料である。一度そうしてしまえば次に調合する機会なんかなかっただろう。この土壇場で踏ん切りがつかずにうだうだ醜態を晒す必要はなかった。

 

 それは勾玉も同じ事だ。口にはしなかったが後先短い牡丹はその癖にこの北土の旅に同じく勾玉を携えていた。そしてこの『迷い家』での一連の騒動の中で気付かぬ内にそれを喪失していた。そしてあの下人より今手元のそれを虚勢を張って拒絶する事すらせずに受け取って……本当にどっち付かずの半端者だ。己の愚かさが心の底から恨めしい。

 

「……来ましたか」

 

 不気味な声音が闇の中で漏れる。ちらりと遠目に通路の奥を観察すれば鬼がいなくなったのを良い事に醜い化物共が寄り集まって来ていた。

 

 四つん這いの肉の塊に、浮遊する無数の顔面。金切音のような歯軋りを鳴らす無眼の獣に人面の鼠の群れ……形容し難いおぞましい存在が牡丹に少しずつ這い寄る。けらけらと嘲笑いながら少しずつ、だが確実に距離を詰めていく。

 

「……本当に気持ち悪い連中ですね。到底お仲間にはなりたくありません」

 

 小瓶を掴む、振りかぶる。止まる。静止する。手元が、拳が震える。打ち震える。

 

「あぁ。本当に勇気も決断力もない馬鹿ですね。私は……」

 

 闇の中で、化物共の奏でる鳴き声に混ざって少女の震える声音が漏れ零れた。それは嗚咽交じりの、自嘲に近かった。

 

 暫し後、硝子が砕け散る音が通路に反響するのだった……。

 

 


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