和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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 kouiuteさんより、AIイラストを製作して頂きましたのでご紹介致します
『みんなぁ、おひさー』 
・幼葵の薬飲ませイメージ
https://www.pixiv.net/artworks/109129553
・脳汁浴びた時の佳世ちゃんイメージ
https://www.pixiv.net/artworks/109146200
『真打ち・ひろいんの再登板だよー』 
此方はR-18系なのでご注意を
・IF添い寝葵様(R-18注意)
https://www.pixiv.net/artworks/109129839
・卑しそうな元稚児(R-18注意)
https://www.pixiv.net/artworks/109132040
・佳世ちゃんの妄想してそうな事(R-18注意)
https://www.pixiv.net/artworks/109131852
・佳世ちゃんの妄想していそうな事その2(R-18注意)
『……』 
 大変有り難う御座います!
『ひろいんだろ?』 


第一三三話● 能ある鷹は爪を隠せる?

『闇夜の蛍』というゲームがある。それは俺の前世……つまりは二一世紀の日本で販売された有名なゲームタイトルだった。

 

 所謂エロゲー業界全体が往年の繁栄も過ぎ去り衰微しつつあった時代、元々トチ狂った発想のもとにゲームを制作しまくってカルト的人気を得ていたとあるゲーム会社が歴代作品同様にトチ狂った発想とシステム、予算でもって制作したそのタイトルは、前評判で無謀と言われながらも豪華な声優陣に豊富なスチール画とムービー、ストーリーの長さと分岐ルートの多さ、販売元の売り方の上手さ等々様々な要因もあって斜め上な人気を博する事となる。

 

 此処までお約束な形式で説明すれば、まぁ色々と察しがつく事であろう。何の因果か、どういう理由かは知らぬが俺はどうやらゲームの世界に転生したらしかった。

 

 日常系やギャルゲーならばいざ知らず、よりにもよってエログロ上等の作品世界に転生した事は……まぁ、この際は諦めよう。ゲームジャンルによっては核戦争なり、エイリアンの侵略と戦ったり、世界が消滅するなんてものもあり得たのだ。それらに比べたら多分マシだろう。

 

 ……そんな風に納得していた時代が、俺にもありました。

 

 鬼月家……扶桑国が北方の地に君臨する退魔士家の大家。所謂北土三家の一つに数えられる旧家。幾つもの山や荘園を所有し、数百以上の人を抱える名家であり、ゲーム『闇夜の蛍』のストーリー上深く関わる一族でもある。

 

 鬼月谷、鬼月家の家名の由来ともなった霊脈の地の本流。その真上にその本家は鎮座する。曾ては悪逆無道な鬼共が屯していた地を掃討して、浄化して、切り開いた人にとっての安息の地、大乱以前より朝廷から守護の任を賜った先祖伝来の所領……繁栄の裏側で、長らく一族内の陰謀が渦巻いて来た伏魔殿だ。

 

 ……そんな見掛けだけでも広大な鬼月家本家屋敷敷地は実際は『迷い家』と化している故に実態は更に広大で、そんな敷地の端っこに設けられているのが下人衆の領分である。

 

 他衆に比べれば広く……はあるのだろうが下人衆の構成人数や鍛練場、自給用の畑の存在を思えば決して厚遇されている訳ではない。寧ろ生活水準は明らかに低いだろう。まぁ、所詮は(比較的)替えが利く消耗品だからね、仕方無いね。……薄暗い話をすれば、寧ろ将来的な飯の種のために上手いペースで消耗させている疑惑すらもあったりする。笑えねぇな。

 

 ……もうお分かりだろう。何よりも問題は、よりにもよって俺が転生したゲームタイトルの作中時代のメインストーリーに関わる件の鬼月一族、其処における消耗品なモブな立場に堕ちてしまっていた事だった。

 

「消耗品。消耗品、かぁ……」

『しゃちくは辛いねー』 

 そして、鬼月家本家屋敷下人衆区画の一角で俺はそんな現実を前に黄昏ていた。

『私も肩車されて黄昏るー』 

「はぁ……」

『溜め息から逃げる幸運をもらうー』 

 己の立場を自覚すれば天を仰いで深く溜め息。これまでも散々に思い知らされて来たが改めて憂鬱になる設定、社会の仕組みであった。分かっちゃあいたが……確かに退魔士家からすれば世代重ねたら商売敵になるのだ。朝廷との力学もある。程々に使い潰すのも道理であろう。使い潰される方は笑えない話であるが。

 

「ははっ、堪らんね……」

『大丈夫だよ?私が一緒だもの』 

 己がどうしてこんな状況に陥っているのか、今更ながら自問自答したくなる。何が一番笑えないかと言えばこんな糞みたいな扶桑国の、そして鬼月家での扱いはこの世界基準で言えば「まだマシ」な事である。本当に、本当に笑えない。

『怖くないわ』 

「どうしたよ?そんな溜め息なんか吐いてよ?幸せが逃げるぜ?」

「……柏木か」

『他の物は何もいらないわ』 

 ぼんやりとこれ迄のアレやコレやらの経緯を追憶せんとしていたのを、俺は横合いから呼びかけられるその軽い声によって中断させられる。

『わっ、あぶなーい』 

 首を捻って其方の方向を見れば面をズラして、声通りに軽薄な笑みを浮かべる十代半ばを過ぎた位の少年の顔立ちが覗く。前世であればその内血迷ってホストクラブにでも就職しそうな風貌、ナンバーワンにはなれなくても中堅くらいにならば食いつけるだろうか……?

『勝手に動いちゃ駄目よー?』 

「おいお前さん、もしや人の顔見て失礼な事考えてねぇか?」

「ほぉ、読心の技でも学んだのか?是非とも俺にもその技、御教授願いたいな?」

「話を逸らすな。……いや、もしや肯定されてる?」

「知らんがな」

『頭ぺしぺしねー?』 

 首を傾げて訝る柏木に向けて俺は肩を竦めて惚けて見せる。勘の良い餓鬼は嫌いだよ。学もない癖に鋭い事だ。頭痛がしてくるよ。

 

「それよりも指導はしなくていいのかよ?子守は其方の仕事だろう?」

「子持ちになった覚えはないんだがねぇ。ほれ、あそこで今走ってるだろう?」

『大変そうねー?』 

 そういって指差して見せる先に視線を移せば拝見出来るのはひーこらひーこら罵詈雑音を吐き捨てながら教練所をひたすら走る年少組共であった。歳は十前後、元気一杯の腕白小僧共である。背後からは数頭の鳩共が彼らを追い立てる。誰かから借りたのだろう、目付の簡易式と思われた。

 

「教練所五周って所か?脱走計画でも企てたか?」

「ご名答」

「大丈夫か?あの手のやんちゃ坊主は実際に痛い目見ないと分からんぞ?」

『たまに死ぬもんねー?』 

 大昔に実際にヤラカシた連中がいた事もあって、俺達下人衆には反乱防止のために幾つかの保険が掛けられている。その最も代表的なものが呪いである。

『へびさんとかー?』 

『蛇縄怨念返之毒呪』、それが鬼月家に属する下人全員が掛けられている服従のための呪術の名前だ。生け贄として殺害した蛇を触媒として、それを怨霊化させて下人の体内に仕込まれた呪いは事態によって三段階の効果があるが……正直第一弾の時点で容赦がない代物だ。下手したら全身筋肉痛、骨に罅が入って暫くは寝たきり生活である。

『私もぐーたら生きたーい』 

 痛い思いをしないと大概の人は分からぬもの、しかし問題はどのような形であれ次に活かす機会があるかどうかであった。下手に賢しいと二段、三段の呪いが発動する。そうすると取り返しがつかなくなってしまう。

『私に比べたらマシだよー?』 

「その辺りはおいおい指導していくさな。……なぁに、格の違いを見せつけてやればあの手の連中は大人しくなるだろうしな」

『わからせ?』 

 柏木の言は、即ち本物の武器を用いた試合で素手で襤褸雑巾にしてやるという事だ。実力の差の大きさを散々に見せつけて畏れさせる。その上で語る失敗談は心に来る事だろう。柏木は過去に二度脱走を企んで呪いで酷い目にあっている。どうか先輩の過ちを他山の石にしてくれる事を願いたいものだ。

『積み上げた石を崩すのが鬼月流ねー』 

「ちゃんと振舞い方も指導してやれよ?身内内なら兎も角他所の衆と問題を起こしたら厄介だからな」

『苛める奴多いもんねー?』 

 俺は加えて指摘する。此処で言う振舞い方とは、下人らしい感情の機微に乏しい態度の事である。そう、下人らしい「演技」だ。

 

 下人衆において明確に長生き出来る連中というものは相場が決まっている。即ち、目の前の柏木のような癖のある連中だ。

『厄介よねー?』 

 自我や自意識、反抗心をへし折る下人衆の教育は反乱抑止のためではあるが、それは同時に下人衆の消耗率に直結していた。多種多様な初見殺しに不意討ち卑劣技上等な妖共相手に柔軟性のない木偶では対応力に欠ける。己で考え、工夫して、備えなければあっという間に食い殺される。そもそも、人の感情を完全に屈服させるのは容易な話ではない。

『意外と図太い奴多いもん』 

 上に政策あれば下に対策あり、である。厳しい矯正に対して、知恵ある者は装う。従順な振る舞いをして、内心では舌を出す。下人衆の古株連中の多く、班長以上の大半はそんな連中だ。身内贔屓もあるが腕は良く、経験もあり、学は兎も角としても頭の回転自体は悪くない。

『折角、貴方を此方に連れて行こうと思ったのに』 

 残念ながら全員がこういう訳にはいかない。調教でへし折れる者もいるし、生きている限り終わりのない命懸けの戦いの日々で精神が磨耗する者もいる。意気がっていた新人が逃げ場のない躾と実戦で磨り減り何時しか疲れきって人形みたいになる事も、溜めに溜めた感情が溢れ出してある日突発的に発狂して自死を選んだり脱走しようとしてくたばる事も良くある事だ。上手くそれらを回避した手練れも強敵にエンカウントしたら高確率で死ぬ。おう、特級のブラック企業かな?

『本当、困ったなぁ』 

「現場入りして三年で半分……残れば上出来って所だからなぁ」

 

 柏木の言は経験によるものだった。彼と同期で下人として配属された者達の内、五体満足で残っているのは現状二人に一人といった所だ。最早戦えぬようななりになった者を含めるともう少し増えるが……何にせよ、愉快な数字ではない。そして殺られた者の大半は先程言ったように思考放棄状態になるまで自意識をへし折られたような連中だ。

 

「木偶人形は真っ先に摘まれちまう。少し頭が回る奴だって長くは持たねぇ。五年もありゃあお利口さんは軒並み篩に掛けられる……ってのが木賊班長の所見だったかな?」

『アイツは特に目障りだったわね』 

 俺が口にするのは受け売りだった。俺がほんの三ヶ月前まで所属していた班の長が任務中に気紛れに口にした言葉。口が悪い皮肉屋だった。性格も決して良い訳でもなかった。しかし確かに古株なだけあって熟練で狡猾だった。允職候補だっただけあって見事な技前だった。過去形で語らねばならぬのが悔やまれる。

『貴方に色々教えて』 

「木賊班長らしい物言いだな。……つまり俺らはまだ純粋無垢な坊ちゃんの可能性がある訳だな?」

「冗談にしては流石に出来が悪いぞ?」

『お陰様で貴方が遠退いちゃった』 

 いや、確かにまだ俺達が下人として現場で3K過ぎる仕事をするようになって五年経てはいないが……少なくとも柏木がお利口な坊やである可能性は皆無だ。狡猾で要領良しの食わせ物ではあるがね?

『もう解決したけどね!』 

 逆説的に、五年を越えて生き残った下人共の死亡率はそれ以前に比べてぐっと下がる……というのは木賊班長の言というよりは俺の印象論だ。残念ながら統計なんて取れる程に資料は充実してはいない。そもそもそんな記録を真面目に取っている歴代の衆上層部が何れだけいる事やら……今の碌で無しな衆頭は言うに及ばず、允職だって学は怪しかった。

『あいつも嫌い』 

 己が師でもある允職は、確かに『兵』として、『士』としては優秀だ。下人の立場としては稀有な程に豊富な技能の持ち主だ。習熟度で言えば家人には及ばぬがそれらを見様見真似でも指導出来る所も見逃せない。班単位の指揮だって経験は豊富だ。……それだけとも言えるが。

『貴方は何時も節穴』 

 上から目線な失礼な物言いになってしまうのは事前に謝罪しよう。しかしながら百人近い下人衆を指揮するという意味では允職の指導力は今一歩不足しているように思えた。読み書きは割と怪しいし算術も得意とは言えない。現場で槍を振るいながら仲間を率いるのは出来ても事務で組織を運営する能力は……残念ながら褒められるものではない。

『悪い連中に引っ掛かる』 

 無論、それはあの人個人の責任とは言えないだろう。衆のトップがかなりアレであるし、そもそも代々の組織運営もアレなのだ。常に騙し騙しの自転車操業……正直糞みたいな経営状況であの人は上手くやっている方だろう。元々衆の内部状況を改善せんと考えていたそうであるし、下人衆の中で一番読み書き算術が出来る俺……とは言え俺だって其処まで立派な能力がある訳でもない……に目上たるプライドを捨てて補佐を頼み込んできたのはそんな彼女の責任感と使命感の為せる業であり、俺自身その姿に大変心打たれたものだ。俺の下人衆における微妙な立場を支え、印象を好転させてくれた効果も見逃せない。

『あんな奴に……』 

 ……今では能力とか志とは別の意味で少し幻滅しそうだけど。

『それとも、大きかったのがいいの?』 

「夫婦の倦怠期って奴か?羨ましいぜ、少し学があるからって同居してくれやがって。風呂や着替えだって覗けるんだろ?えぇ?持つ者の嫌味かよ!?」

『私は何時も一緒よ?』 

 思わず俺の溢した愚痴に柏木が口を尖らせて詰る。非難がましく、それでいて半ば羨まし気な口調であった。

『羨ましいだろー』 

「言い掛かりは止せよ。下らん」

 

 確かに下人衆堕ちして最初の頃、それ以降も所属する班が無い時期に断続的に俺は允職の小屋を借りて同居していた。しかし別に疚しい所がある訳でもない。……いや、確かに最初の頃は風呂一緒だったし今でも泥酔してたりしてると着替えの手伝いしたりしてるがそれは大した事ではない。

『最初はチラ見したよね?』 

 無論枯れてる訳でもないので最初の方は……しかし最早慣れきってしまっているし私生活の実態を知ってまうと今更ドキマギなんて出来る程に純な心なんてない。

『腹たったから……』 

 ……いやさぁ、自分が不得意だからって資料作成を右から左に受け流すの止めてくれない?手伝いのつもりが何か六割くらいやってる気がするのは気のせいかな?いやない。

『足の小指呪ったら悶絶したよねー?』 

「反語なんて使ってんじゃねぇよ。文人にでもなるつもりか?格好つけやがって。……それよかなぁなぁ、教えてくれよ?」

「……何をだよ?」

『可愛かったわぁ』 

 何かグイグイとのし掛かるように迫る柏木に、俺はジト目になって質問の意味を問う。

 

「んな事分かってる癖によ!……我らが允職様の大きさって何れくらいなんだ?形は?装束越しだと中々判別がつかねぇんだよ。俺の予想だと結構たぷんたぷんとしてる気がするんだがなぁ……」

「まだ続けるか」

『でかいのは悪』 

 耳元でコソコソと囁く内容の馬鹿馬鹿しさに俺は心底呆れ返る。聞いてどうするつもりなんだ?覗くのか?死ぬぞ?想像して慰めるのか?空しくないか?そもそも貴重な蛋白質を無駄にするぞ?

『貴方の、見ててあげよっか?』 

 貴重な蛋白質はどんな代物でも頂く必要がある事は某サバイバリストが実演している。出して摂取するくらいならば最初から出さぬ方が良いだろう。個人的には木の隙間にいる芋虫の方がまだマシだと思う。……焼けば。

『私は葱とらっきょがきらーい』 

「だってよぅ!ほら、昔は目付き悪かったし厳しかったけどさ。最近は物腰や口調が柔らかくなったろ?前までは取っ付きにくかったけど今は中々……な?」

「おい、そろそろ止めておけよ?」

『あ』 

 ちらりと視線を移した後、俺は完全な善意のもとに柏木を諭す。……残念ながら柏木には通じないようであるが。

『雛ちゃん、見てる』 

「おいおい今日はまた一段と乗りが悪い奴だなぁ。それとも何か?実際に見てみたらそんなにそそらない肉付きだったのか?三段腹だったり?垂れ下がって形崩れてたり?」

「……警告はしたからな?」

「逃げるなよって!何だ?急に話を畳もうとしやがって。アレか?まさか図星か?」

「柏木……」

「マジで三段腹なのか?それとも垂れてるのか?いやいや、もしかしたら生え具合がエグかったり!!?」

「ほぅ?お前の頭の中の私は三段腹の垂れ乳のエグい生え際なのかな?」

『お胸に触れてる』 

 俺への尋問に熱を入れる柏木は、直後に背後からのその圧のある口調の問い掛けに沈黙した。

『怖い顔』 

「……」

『あはは、嗤える』 

 ゆっくりと、非常にゆっくりと振り向く柏木。彼の視界に入り込むのは般若面。いや、それは面ではない素顔であった。不敵な微笑みを浮かべる食わせ物で曲者な女の美貌。

『貴女は彼の傍には居られない』 

 ……目は笑っていないし纏う雰囲気は何処までも重苦しかったが。

『貴女は其処にいたらいい』 

「……あっ、允職殿。お疲れ様でーす」

「あぁ、お疲れ柏木。年少組の面倒御苦労様だな?次は何の鍛練の予定だ?」

『ずーと、ずーとそうしていろ』  

 柏木の誤魔化すような挨拶に悠々と返事を口にする我らが允職殿。間髪いれずに彼女は柏木に詰問する。

『いい気味だわ』 

「えっと、得物を失った際の徒手格闘の心得を。あ、そろそろ俺は指導に入りますんで失礼を……」

「待て」

『私の独り占めだ』

 そそくさと逃亡を図る柏木の肩をガチリと掴んだ允職である。柏木は逃げられない!

『うふふふ』

「えっと……允職殿?」

「常々の職務本当に御苦労。小僧共への指導だったな?これは上司からの餞別だ。遠慮するなよ?」

『丁度いい機会だしね』

 柏木は笑った。允職も笑った。直後に柏木の視界は激しく何度も回転した。そして迫り来る地面。衝撃。柏木は目の前が真っ暗になった!……多分。

 

「あ、ぐぐっ……!?」

「まぁ、此れくらいで許してやるさ。私は寛大だからな」

『皆動いてるみたいだし』

 地面の上で悶絶する部下を一瞥して、手をぱっぱと払って允職は淡々と宣った。柏木はそれに対して反応する余裕は到底無さそうだった。

 

「それと伴部、お前は私と来い。……柏木同様手解きを受けたくは無いだろう?」

「アッハイ」

『私も相乗りしちゃおうかな?』

 そろりそろりとその場から立ち去ろうとしていた俺に対する無慈悲な宣告であった。朗らかな物言いに、俺は即座に機械染みて即答していた。

『うへへへへ……』

 ……あぁ、うん。これは駄目かも分からんね。

 

『貴方を闇へと引きずってあげる』

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 退魔士家たる鬼月家の最大の下部組織、下人衆の第三席……肩書きだけならば御立派なものであるようにも思えるが実態は大したものではない。

 

 所詮は消耗品に過ぎない下人共の、栄達出来る最高位でしかない。奴卑よりマシ程度の扱いが辛うじて人並みの扱いされるに過ぎなかった。それとて人権も糞もないこの世界この時代においては大した保険にはなり得ない。下手すれば発言力は家人……鬼月家に仕える非一族系の退魔士……に劣るのではなかろうか?

 

 そんな扱いなので允職の住まう家もまた同様に粗末な造りだった。畳にして十二、三畳程だろうか?手狭ではないが特別広くもない。私物も決して多くはない。半ば職場も兼務している故に壁際の一角には文机と記録用の書物棚が設けられている。若干雑然としているのは本人の性格によるものであった。というか最初はもっとゴチャゴチャしていたりする。俺が助手になった頃に整理した。……少し目を離すとまた乱雑になるけど。

 

「あ゙あ゙ー、疲れたぁ。ご飯まだぁ?」

「今途中ですから……それよりも用意しましたから汗拭きと着替えはして下さいよ?」

『味見しよー?』

 そして、そんな允職の自宅こそが、俺の帰る家でもあった。時刻は夕刻過ぎ、夕食の雑炊を調理しながら俺は背後でだらける允職に要望する。

 

「えー、面倒臭いぃ。別に良いでしょ?一晩くらいさぁ?」

『美味しいねぇ!』

 畳の上でオッサンのように仰向けに倒れるその姿を、俺は尊敬する、大恩ある允職だとは思いたくなかった。何だろう、この気持ち……憧れの敏腕キャリアウーマンの私生活が汚部屋のおっさんだと知ってしまった気分に近いかもしれない。何だかんだいって外では不敵で凛々しい上司を装っているのに幻滅物である。というか近頃はチョクチョク皆の前で素が出てくる事があるので本気で困る。士気に関わりかねない。

 

「汗の臭いが充満する中で寝るのはご免ですって。人の精神衛生くらい考えて下さいよ?」

『私も臭いのやぁ』

 俺は重ねて着替えと汗拭きを要望する。取り敢えず今は下人衆の緊急の伝令が来ない事を祈る。

 

「え~。……はっ!もしや……ドキドキするって事?」

「いえ、臭い中寝るのは辛いですし」

「はっきり言ってくれるわね……」

『何時も私と同衾してるもん』

 俺の淡々とした即答にげんなりとぼやく允職。我ながら歯に衣着せぬ態度をするようになったものだと思う。残念ながらそれがこの人のためでもある。

 

「あーぁ。可愛げが無くなったもんよねぇ?昔は照れるし恥ずかしがるし、何事も遠慮がちだったのに……何処で教育間違えたかしら?」

「年下に危機感抱かせる情けない生活態度ですかね?」

「容赦ないわね」

「事実でしょうに」

『そーだね』

 最初の頃の俺の覚悟とか尊敬の念とか返して。

『穢らわしい女』

「仕方無いなぁ……分かったわよ。ご要望にお応えしましょう。そんなに貴方が覗きたいって言うのならね?」

「……もう少し塩いれてもいいかな?」

「はは、完全無視!」

『味濃いのはやだなぁ』

 背後から乾いた笑いとともに布地の擦れる音や水の音がするが俺は欠片も気にしていなかった。それよりも俺は眼前の料理に集中していた。飯は明日生きるための原動力である。

『貴方がそっちが好みなら我慢するけど』

「……こんなものかな?允職、終わりましたか?」

「んー、全部終えたわよぅ?」

「では……」

『でかいのなんて重いだけだもん』

 允職からの返答に、俺は小鍋を両手で運び出す。山菜と鶏肉を具材に卵とじにした雑炊である。数種類の漬物も揃えていた。

『わーい、茄漬もあるー』

「甘味に干し柿を後で出します。……お酒は駄目ですよ?」

「ええ~!!?」

『あ、干し柿一つ摘まみ食いしちゃった』

 俺の指摘に文句を垂れるが其処は譲らない。度数が低いとはいえ質も良くはないのだ。唯でさえ身体に悪いのに悪酔いするような代物を毎度毎度呑ませる訳にはいかない。休肝日は大切だ。

『……まぁ、大丈夫ね!』

「私の数少ない楽しみが……ケチッ」

「ケチで結構です」

「意地悪」

「意地悪で結構です」

「ムッツリスケベのエロガキ」

「むっ……まぁ、結構です」

「大盛でよそって頂戴な」

「……ある意味凄い度胸ですね」

『ムッツリーニ!!』

 ブーブー垂れながら指の欠けた手で以て、茶碗を押しつけて来る允職殿に呆れ果てながら俺は雑炊をよそっていく。醤油と玉子の香ばしい香りを感じながら注文通りにたっぷりと碗に盛って最後に三葉をかけてお返し差し上げる。

 

「うん。美味しい」

「それは幸いです」

『私も貰うねー?』

 ムスッとしながら飯を食らう允職の感想に俺は安堵しつつ自身の分もよそう。うん、旨い。流石允職の立場なだけあって支給されるのは玄米、雑穀ではなくて白米なだけある。質が低い古米とはいえ、そのおこぼれに与れるのも役得だ。

『もぐもぐ、美味しい!』

 旨い物を食べながら嫌な話をするのも詰まらぬものだ。どうせ話すのならば愉快な話である。暫しの間、俺と允職は雑談を交えながら夕食を続ける。食べて、話して、苦笑して、お代わりをよそう。そして話題が変わったのは丁度鍋の雑炊が半分を切った頃合いの事であった。

『間接口吸だねー』

「梔子の後任は河内にする事になった」

『まぁ、毎日してるから今更だけど』

 突如、允職の口にした言葉に俺は暫し沈黙した。允職の表情は最早だらけたものではなかった。神妙な面持ちで俺を見据える。

『お仕事の話きらいー』

「……河内殿ですか?八尋ではなくてですか?」

『どうせ最期は皆死ぬ』

 俺は可能な限り平静を装おうとしたがどうしてもその発言には不満が滲み出ていた。そして不満の矛先は眼前の人に向けてではなくて……。

『皆地獄に堕ちろ』

「言ってくれるな。頭の決定だ。我々が逆らう訳にはいかないだろう?」

「助職に相談しなかったのですか?彼方でしたらまだ聞く耳はあったと思いますが……」

「その意見を押し退けての決定だ。上司に隠れてこそこそと根回しするなぞ言語道断だとな」

「んな阿呆な」

『貴方は私と一緒よ?』

 普段大した仕事もしない癖にこんないらない時にやる気を出してもらっても困る。どうせ何時も内容もよく見ずに判子を押す癖に……。

『ずっと一緒』

「助職からの助け舟はなかったと?」

「助職は何処までいっても助職……という事みたい」

「しかし、それは……」

『死で二人が別つ事はない』

 制度上、組織図上当たり前の話とは言えもう少し食らいついて欲しいものであったが……いや、鬼月の糞みたいな家系図関係図からすれば無意味であるし当然の話なのだろうか?

『死して尚、二人は寄り添い合うの』

「……受け入れるしかないのでしょうが、河内ですか」

『ろまんちっくね!』

 暫くして、漸く現実を受け入れた俺はそれでもやはり納得出来ぬ態度でぼやく。御上は子細も知らずに判断してくれるから困る。

『あはははははははっ!!』

 梔子班は下人衆にて編成されている十八組の班の中でも五本の指に入るだろう戦歴を誇る。しかしそれは個々人の実力というよりは班長たる梔子個人の指揮に依存している類いのものである。

『ははははは!!』

 人を餌にしてくれた事に不満はあるが、彼の才覚自体は本物だ。現役の下人の中で彼よりも年上も、下人歴が長いのも、ましてや実戦経験が多い者も数人しかいない。霊力自体は際立って多い訳ではないが小狡さと危機察知能力と、そして何よりも媚の売り方は抜きん出ていた。伊達に允職候補であった訳ではない。

『ははは……』

 先日の任でその梔子は負傷した。足を大木で押し潰されて骨が粉砕したのだ。治療の結果一命はとりとめたが戦線復帰はほぼ不可能だろう。彼は衆の下部組織に編入された。

『……』

 問題は後釜である。俺は同班の八尋以下、数名を候補に見繕った。允職から助職に掛け合って貰い、最後は判子を貰うだけ……の筈だったんだがなぁ。

『……』

「河内殿は腕は悪くありませんが……班長の器ではありませんよ」

『……だぁい好きよ?』

 同じ梔子班の前衛担当の河内は経歴で言えば中堅からそろそろ古株になるかどうかであった。刀使いで腕は悪くない。霊力も比較的ある方だ。そして、それだけであった。

『あいしてるよ?』

 辛口な物言いになってしまうが彼の無口で口下手で、何よりも緊張すると視野が狭くなる性格は班長向きではない。頭の切れる班長の下で眼前の戦闘に集中する……それが河内本人の資質に合っているように思われたし、これ迄の上司であった梔子も同様に扱っていた。無論、任命されてから化ける可能性も零ではないのだろうが……。

『逃がさないわぁ』

「木賊の奴が手練れ共々おっ死んでくれたものだからなぁ。年功序列で言えば河内優先って言われてしまったのよ……嫌な記憶、思い出した?」

『貴方を絶対に逃がさない』

 亡くなった部下に向けて愚痴る允職は、直後にその生き残りが眼前にいる事を思い出して慮るように尋ねる。

『貴方を誰にも渡さない』

「……いえ、確かにあれは痛い損害でした」

『身も心も』

 複雑な心境を整理するために暫し無言となっていたが、直ぐに俺は允職の言葉に応じた。応じて、漬物も小気味良い音を奏でながら齧る。

『魂だって』

 少なくとも木賊班の壊滅は鞍馬班や屋代班の時とは違う。俺の責任ではない。あれは運が悪かった。俺個人の選択や判断ではどうにもならぬ事柄であった。その事は彼ら彼女らも理解している事だろう。俺が責任を否定しても文句はあるまい。同情や後悔を求める性格でもあるまい。

『私の物だ』

 ……班長の生き死にを除けば、だが。

 

「すまなかったわね」

「はい?」

『誰も見るな』

 突然の允職の謝罪に、漬物を呑み込んだ俺はそんな情けない返事をしていた。

 

「木賊の所に配属したのは私の提案だったから。……まさかあんな事になるとは思ってなかった」

『誰も想うな』

 雑炊を流し込んだ後に允職は呟いた。悔恨の念が其処にはあった。その表情に浮かぶ翳りに俺は胸に痛みを感じた。

 

「……人垣沼から戻ってきた時、随分と酷い顔だったでしょう?」

『貴方が惑う物は奪う』

 触れるのはまた別件。俺は一年前、屋代班の一員として人垣沼に派遣された。生きて帰る事が出来たのは俺だけだった。いや、本当はもう一人いた筈だった。俺が失敗しなければ。

 

「そんなに、酷い顔でしたか……?」

「本当に酷い顔だった」

「それはまた……」

『貴方を惑わす物はいなくなればいい』

 思わず否定しようとして出来なかった。間違いは素直に認めねばならぬ。……当時の事を思い返すと一周回って苦笑いすら浮かんで来そうだ。あの時は我ながら本当に荒れていた。荒れていて、愚かだった。馬鹿者だった。

 

「大変、お恥ずかしい限りです」

「いいのよ、溜め込むよりはね。それで三度目はって思ったのだけど……世の中、儘ならないものよねぇ」

『これまでだって』

 允職の嘆息。酷く弱音を吐き出す允職のその光景を知るのは下人衆全体でも俺くらいのものだろう。部下達の前では凛々しく、あるいは飄々とした態度を心掛けている彼女にとって、俺は愚痴聞きの役割があるように思われた。まぁ、本を正せば俺自身の話なのだけれど。

 

「……過ぎた事を言っても仕方ない、か」

『これからだって』

 雑炊を二、三回程口にして、漸く允職は己の心に区切りをつけたらしかった。更に一口匙で掬ってから彼女は話題を変える。

 

「来月の頭に、班を一つ用意する必要がある」

「……任務、でしょうか?」

『貴方の傍に私だけとなるまで』

 その声音が、その物腰が鋭いものに変わった事に、俺もまた自身を切り替える。所謂允職の仕事モードであった。しかし、この内容は……?

 

「正式な辞令が出た訳じゃない。助職経由で知れた情報。……先日の二の姫様は覚えている?」

「はい。酷い目に遭いましたが」

『だからね?』

 まだ腰痛がする程だ。

 

「二の姫様は鍛練や……先日のような飛び入りは幾度か、あるようだけど未だ正式に退魔の仕事はお請けした御経験はないそうだ」

「……今回、初めての任を受けると?」

『そろそろ目障りなんだ』

 俺の返答に、我が意得たりとばかりに允職は頷く。

 

「家人や隠行衆も同行する予定だ。そも、姫様自体相当の人物らしい。実際、この前の一件では一発で大妖を仕留めたしな。我らが矢面に出る必要はないだろう。形ばかりの雑用と思っていればいい」

「形ばかり……」

『その女』

 允職の言葉に、しかし俺の浮かべる表情は険しかった。いや、確かにある意味形ばかりかも知れないが……。

 

 エログロ上等鬱ゲー『闇夜の蛍』、そのメインヒロインの一人たる鬼月葵。彼女の設定を思い出す。そして浮かび上がる感想は「もうそんな時期か」である。

『くすくすくす……』

 この一件に関わった者達の末路は当事者は無論、末端すら悲惨だ。何も知らぬ者達は巻き添えと口封じに合い、貶めた連中は文字通り地獄から這い上がって来たゴリラによって惨殺される。それこそ、苛烈過ぎる報復で以て。……まぁ、流石にサイコな当主様には届かないのだが。

 

(気が滅入るな。実質死なせに行くようなものじゃないか……)

『とっても楽しみね』

 同行する人員の結末はほぼ確定している。それを分かっていて送りこむのは……とは言え、派遣しない選択肢も有り得ない。どうしようもない。俺の立場では精々送り出す班の選定に関与する程度しか出来ない。

 

(はは、人事部の肩叩きの気分だな)

『大丈夫』

 問題は奪うのは職ではなくて命である事である。……ある意味今更の事かも知れないけど。

 

「我々で派遣する要員を選定するように、と?」

「いや、その必要はない。御上から既に指示が出ている。我々はそれに従うだけだ」

「それはそれは……」

『きっと貴方だって分かってくれるわ』

 上からの命令なんて基本人員を何名、あるいは何班出せとだけで個人や部隊を指定するなんて相当稀な話だ。原作では其処までの描写はなかったが、あの陰謀を成功させるために御当主様は随分と念を入れているようだった。罷り間違って二の姫が五体満足で帰還しないように下人共の選定までしてくれるとは……ある種感動的である。

 

 ……此方で生け贄を選ぶのと、どちらがマシなのだろうかね?

『浮世は苦界なのだから』

「そういう訳だ。先日の応対のような粗相はしてくれるなよ?」

「はい。……はい?」

『情けは人の為ならず』

 允職からの念押しの言葉に、その意味を図りかねた俺は思わず二度返事をするのだった。

『悪貨は良貨を駆逐して』

 つまりは何がどうなっているのかというと……まぁ、そういう事である。本当に堪らんね。畜生めっ!!

『渋柿は長持ちするものよ?』

 

『……その事を分からせてあげるわ』

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

「…………」

 

 刻は深夜。そろそろ日付も変わろうかという亥の刻限。多くの人々が寝静まる中、机の前で座り込む人影が其処にあった。燭台に小さな火を灯して無言で執務を行う女、鬼月家下人衆允職、楓巴……。

 

 眉間に皺を寄せて書類を凝視するのは視力が弱い訳ではない。元来文盲であった故に記された内容を読み込み理解するのに苦労しているからだ。無論、此れでも大分改善した方ではあるが……。

 

 下人に進んで文字を教える物好きなぞいない。その反乱を恐れる退魔士にとって下人の教育は可能な限り知恵を磨くものである事を、特に読み書きの指導を避ける傾向にあった。

 

 退魔士達も皆が皆馬鹿ではない。過去に幾度か反乱があったように、人の心を完全に支配するのは困難である事も、狡猾な者であれば上手く木偶を演じるだろう事も、少し知恵が働くならば予想出来る話だ。だからこそ、読み書きの教育に関しては特に意識して軽視していた。

 

 狡猾な演技者とて万能ではない。何度も何度も、常に演技を続けていれば気付けば自己暗示に、自家中毒になるものだ。真の己を見失い、演技をしている筈が何時しか本当に木偶に成り下がる……読み書きが出来ぬならば己の『芯』となる意識を留め置き、記録する事も難しい。相当に精神が強くなければこれで屈服する。

 

 それを察して独学で学ぶ知恵者ならばそれはそれで利用出来る。学習自体は禁じない。しかし便宜を図る事がなければ援助もまたしない。

 

 精神と知恵がある者とて万能ではない。個々人で時間と道具を用意して自学自習をせねばならぬ状態とする事で他者にまで指導する余力を奪うのだ。多少なりとも学が無ければ允職にまでは成れぬが、引き換えに他の下人との交流の機会を奪う。昇進した下人には、しかし学はあっても人望は薄くならざるを得ない。実に嫌らしく計算された仕組みだ。

 

 今代の允職はその意味では比較的上物に類したかも知れない。允職たるに必要な最低限の学を独学で学び、それでいて人望は厚かった。

 

 しかし、其処までの話でもあった。限られた環境では何事も限界がある。余程常識外れの才人でなければ其処で止まってしまう。彼女の目指した改革も改善も、本来ならば具体的な道筋すらも見えず足踏みしていた事だろう。そして何処かの段階で何も為す事もなく怪物共との戦いの最中に死に絶えていた筈だ。

 

 偶然に堕ちて来た少年がいなければ……。

 

「うぅ……ゴリラ、ゴリラが来るぅ……」

「……?魘されているのかしら?」

『私がお腹の上に乗ってるからかしら?』

 背後から漏れる呻き声に彼女は振り向いた。粗末な布団にくるまる彼女の補佐役であり、同居人であり、恩人たる少年は額に汗を流して神妙な表情で寝言を呟いていた。

 

「ゴリラが、ゴリラが筋肉でバスターを……止めろ。裂ける。股が裂かれるぅぅ……!!」

「やれやれ、何を言っているのだか……」

『ごりらー?』

 学があるせいなのか、稀に意味の分からない単語が漏れる事もある。特に寝言ではそれが顕著だった。普段使わないのは自分達に合わせているのかも知れない。お陰様でどんな夢を見ているのか若干不明瞭だった。股を裂いてくるという事は『ごりら』とは鬼か何かの一種なのだろうか?

 

「ほら、汗を拭いてあげましょう。こうして見るとまだまだ子供ねぇ……」

『私はずっと子供ー』

 額に噴き出す汗を汗拭きで拭ってやる。蚊帳を垂らした後に小窓を開き部屋の空気を入れ換える。これで何とかなってくれれば良いのだが。

 

「あるいは……」

『あるいはー?』

 そして思い至る今一つの可能性。少年は昔から妙に勘が鋭い所があった。まるで事前に知っていたかのような備えの良さ。警戒心の強さ。それが此度も何かを感じ取ったのだろうか?しかし……。

 

「しかし、私にはどうにも出来ないわ」

『そうよねぇ?お前は無力だもの』

 所詮允職に過ぎぬ立場では真っ向から意見をするのも困難だった。それに理由を問おうにも素直に答えてくれるだろうか?助けにならぬ相手に語った所で無意味であるだけでなく有害にすらなり得るものだ。

『情けない女』

 賢い少年が何も語らぬのはそれを理解しているからだろう。ならば己が理由を尋ねる事は却って足手纏いになるのではないか……?

 

「ふふ。無力な事ね」 

『惨めで卑しい女』

 己の立場に冷笑。虚しい気持ちになる。精一杯頼りになる上司を、先輩を振る舞っているが何と滑稽な事だろうか?本当に、本当に情けない……。

『忌々しい女』

「まさか……双子分裂薬二重飲み……来るっ、四体のピンクゴリラで八つ裂きにぃ……!!?」

「……本当にどんな夢を見てるのかしら」

『私と遊ぶ夢を見ろー』

 余りにも悲痛な寝言に流石に楓巴は若干引いていた。

 

「何か悩みがあるのかしらね……ん?」

『皆が彼の悩みよ』

 悪夢に魘される少年の姿に嘆息する楓巴は視界の端に、窓辺に見えたそれの姿に表情を強張らせる。そして……覚悟を決めて、振り向く。

 

 暗闇の空を背にして鳥が停まっていた。

『んー?』

 相思鳥を模した簡易式が、嘴に文を咥えて停まっていた。

 

「……」

『くすくす』

 手を伸ばす。文を掴む。嘴を離した相思鳥は文の受け取りを確認すると小さく一鳴き。そして飛び去っていく。楓巴は暫し手に持つ文を見つめ続けて……諦念と共にそれを開いた。

『貴女にお呼び出しよ?』

 文の文面に視線を走らせて、内容を読み進める。読み取る。理解する。目を閉じる。内心の感情を抑え付ける。何かを、堪え忍ぶ……。

 

「……窓は、開けたままにしておくわね?」

『本当に卑しい』

 文を折り畳み懐に忍ばせる。そして若干呻きが弱まったように見える同居人の頭を撫でて囁いた。

 

「んんんっ……」

『彼に触るなよ』

 何処かこそばゆ気に唸る少年の姿に楓巴はくすりと笑う。そして立ち上がる。羽織を着込み、面を備える。そしてその場を立ち去る。

『さっさといってしまえ』

 小窓から、鈴虫が鳴く声が木霊していた……。

 

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