和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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 本編前のファンアートのご紹介です。

 此方、第四六話唐装漢服葵様です。依頼はSurvieさん、イラスト製作は会飞的小鱼酱さんによるものです。凄い美人……有り難う御座います!!
https://www.pixiv.net/artworks/109714196

 続いて此方はkouiuteさんよりAIイラストとなります。(R-18注意)
・お薬ごっくんでロリる葵様(R-18)。因みにこの世界では一時的に若返るお薬もあったり……。
https://www.pixiv.net/artworks/109550265

・貢ぐ佳世ちゃん(R-18G)。多分最終手段なのでこんな未来は来ない……といいなぁ。
https://www.pixiv.net/artworks/109572855

・最善の選択肢(R-18)多分色々悩まなくてもこのルート行けたらどうにかなる。尚、本編
https://www.pixiv.net/artworks/109572955

・女狐。二枚目の顔が素敵ですね(R-18・及びG)
https://www.pixiv.net/artworks/109752296

 皆様、素晴らしいイラスト有り難う御座います!



第一三五話●

 暗い。暗い。視界一面が暗い。果てしなく暗くて、底は見えない。冷たい。

『裸にされてるもんねぇ』

 それは単純に目隠しでなければ目蓋を閉じている訳でもなかった。この暗さは、この黒さはそんな次元ではない。もっと根源的なものに思われた。それこそ視神経の認識そのものを止めているような、網膜に光が入り込む事それ自体を阻んでいるような、完全なる盲であるように思われた。 

『あはっ、可愛い反応ねぇ』

 それは底冷えする感覚によって一層強く感じられた。無理な姿勢で固定されていて、その上冷えきった身体。己の震える息遣いのみが木霊する。残念ながら声を上げる事は出来なかった。

『見られてるねぇ』

「話は聞いたわ」

 

 暗過ぎて冷た過ぎる世界に幼子の声が響き渡った。身体が恐怖に竦み上がる。何処までも生意気で傲慢な娘子の粘ついた美声だ。

『生足で踏まれるー』

「ねぇ。貴方元雑人だったってね?」

『むしろごほーび?』

 幼女の指摘に俺は息を呑む。その指摘、その内容が知られているという事は事はそれだけでは済まない事は明白であったからだ。

 

「それも、あの女の御側仕だったって?」

『ぐりぐりぐり』

 己の姉を何処までも馬鹿にするような嘲りの口調。身内に対してとことん蔑んだ語調。それが子供の口から出ている事実を俺は信じきれなかった。

 

「たかが卑しい百姓腹の分際で、随分と御立派な扱いな事よねぇ?ねぇ、貴方はそうは思わない?」

『うわっ。そんな所まで?』

 けらけらと、悪意と侮蔑に満ちた嗤い。それは同意を求めているというよりは婉曲的な脅迫の類いに思われた。

『いーたーそー』

「あんな干物みたいな醜女が私の姉?血を分けた姉妹?冗談は止して欲しいわ。穢らわしい」

『雑人の奴ら来たね』

 本当に、本当に相手を見下すように。吐き捨てる。それについて言及する事すらも口が汚れると言わんばかりだった。

『まさに虎の威を借る狐だね』

「私はあんな女とは違う。全てが違うのよ。だから皆は私を敬うべきなの。敬服するべきなの。……私を尊重するべきなのよ」

『昔は貴方に媚び売ってたのに』

 それが正しい在り方だ……何度も何度も、重ねて己がどのように扱われるべきなのか念押しするように宣う美声。それはいっそ粘着的で、執着的ですらあった。

『嫉妬って、見苦しいわ』

 まるで飢えるように、渇れるように。

 

「だからね?これは正当な躾なのよ?私の下に控える栄誉を許された者への、温情なの」

『みんなで寄って集って』

 けらけらと笑う。嗤う。幼子が己の正当性を主張する。それはまるで出来の悪い生徒を叱りつける教師の如く。

『ふふふ。貴女も惨めねぇ?』

「良かったねぇ?御父様が任命した立場でなければこの程度では済まないわよ?感謝なさいな」

『所詮猿山の大将なのに』

 底冷えする程に冷酷で残酷な宣告。死への恐怖で頭が一杯になる。身体が寒さとは別に芯まで震えあがる。

『信用出来ない奴ら侍らせて』

「じゃあ。そういう事でね?貴方達、もう少し可愛がってやりなさいな?」

『人を見る目がないね』

 吐き出された絶叫は、しかし音を奏でる事は出来なくて、無数の悪意が幾度目か迫り来る。そして、そして……。

 

『大丈夫、貴方は私の物だから。貴方に酷い事した奴らも最後は……ふふ。一緒に楽しもうね?』

 

 

 

 

 

 

「ゔわ゙わ゙わ゙わ゙わ゙っ゙!!!??」

『目覚めたら知らない天井?』

 己の悲鳴が己を覚醒させた。激しい動悸。心の臓の鼓動が耳に反響する。全身が汗でびっしょりで、視界は揺れる。必死に周囲を見渡す。視界に映る光景は、自分の良く知る室内そのままで……。

 

「伴部!?大丈夫かっ!!?私が分かる!!!??」

『私は見えない?』

 突如両肩を掴まれて俺は竦み上がって、しかし視界に現れたのは己が尤も頼りにする人で、焦燥感に駆られた険しい表情にしかしそれを拝めただけでも安心してしまう。

『私をみろー』

 安心して、弛緩してしまう。

 

「ゔゔゔゔ……!!」

「伴部?」

『泣いちゃう?』

 安堵と同時に雪崩れ込む感情の塊。目元が潤む事を俺は止められなくて、紅潮する顔を装うなんて不可能で、嗚咽を忍ばせる事なんて出来る訳がなくて。

 

「ゔあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ゙……!!!!」

「な、何っ……!!?」

『可愛いね!』

 困惑する己の師に、しかし俺はひたすらにすがり付き、泣きじゃくり続ける。怯えきって、情けないくらいに咽び泣く。

 

「……よしよし。頑張った。頑張ったな」

『赤ちゃんみたい』

 そんな何処までも惨めな恥態を晒す俺を、師はただただ慈しみ、慰めるように抱き締め返してくれた。

『何でお前が抱き返すのかな?』

 その事が、今はただひたすらに嬉しかった……。

 

『お前だって、同罪なのに』

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

 暫しの間、子供染みて泣き続けた俺が落ち着いたのを見計らって允職は出来るだけ柔らかい口調で話し始めた。

 

「先ずは……記憶は何処まで残ってる?」

「それは……」

『突如脳裏に溢れだした私との思い出!』

 考え込む。そして身震いする。鮮明に残る最後の光景は此方を蛆虫のように見下す桜色の少女の容貌だ。見下されて、蔑まれて、詰られて、それきりだ。

 

 まるで切り落とされたかのような記憶の断絶……。

 

「そうか……順を追って説明するわよ?」

『先ず宇宙の成り立ちから?』

 允職は説明する。恐らくは瞳術か幻術かでも使われたのだろう。俺は抵抗も出来ずに連行された。葵姫……暴虐にして理不尽な姫君の命を受けた雑人共によってである。

 

「お前が連れ去られたのを教えてくれたのは氷雨よ」

『アイツ嫌いー』

 ロリゴリラに因縁つけられたのは氷雨と別れて直ぐの事だった。騒動に気付いても可笑しくはない。実際、慌てて報告しに来てくれたらしい。有難い話だった。

 

「では、允職が俺の引き取りを?」

「いや、それは……私の立場じゃあね」

『お前じゃあ無理だもんね』

 俺の指摘に允職は自虐気味に冷笑する。口にして見て自分でも分かりきった話である事に思い至って恥じる。下人衆の三位では当主正妻の娘に歯向かうのは困難だ。役職なぞ関係ない。物理的に歯向かわれては対処しようもない。

『お前は相応しくない』

「少々迂遠だが方々を頼ってね。その口添えもあってどうにか貴方を引き取れたわ」

『善良ぶって』

 苦労したわよ、と肩を竦ませる允職。冗談めかしていても、その表情には疲労が見てとれた。俺を保護するのに相当苦労したらしい。

『穢らわしい』

「御迷惑おかけしました。申し訳あり……痛っ!!?」

『卑しい』

 礼を述べようとして、俺は今更自覚した全身の痛みに踞る。允職が俺の身体を支えて説明を続ける。

 

「焦らない。……無事に回収出来た訳じゃないわ」

『報いは受けろ』

 恐らくは遊び半分の仕置きだったのだろう。俺の身体は包帯が巻かれていて、その隙間には明らかに暴行の跡があった。殴打は無論、蹴り跡に鞭に締縄の痕跡も。身体が冷たかったのは装束を剥ぎ取られた上で冷水を何度も掛けられたかららしい。……回収時の俺の有り様からの推測だが。

 

「少なくとも実行は取り巻きの雑人共でしょうね」

「そりゃあそうでしょう。姫直々の仕置きだったら死んでますよ」

『本当に酷い扱いだったよぅ?』

 ロリ時代ですら大妖共を素手で皆殺しに出来るようなフィジカルゴリラなのだ。どれだけ手加減しても全身複雑骨折は確実だ。実際は酷くても打撲や内出血程度である。霊力のない雑人らによる集団暴行と考えるのが一番らしい。父親を盲信するくらいにはこの頃のゴリラ様には人を見る目がない(原作時代に見る目があるとは言っていない)

 

「それでも軽微な傷じゃないわ。薬師衆から派遣された子が言うには五、六日は安静にするようにとの事よ。薬と包帯の交換も必要よ」

「薬師衆?あぁ、毒澤の……」

『アイツ?』

 手当てをした薬師衆が雑人時代に面識の出来た少女である事を俺は即座に察する。というかあいつ以外で態態手当てに来てくれる殊勝な人物がいるとも思えない。というかあいつでも微妙だ。猿次郎同様に長い物には巻かれて虎の威を借りるようなちゃっかりした性格だ。良く来てくれたものだと思う。

 

「御意見番様からの指示、らしいわよ。『身内が世話を掛けたわ』と言付けも受けているわ」

「御意見番?……あの黒蝶婦がですか?」

『婆のぱわはらーされてたね』

 鬼月の御意見番、鬼月胡蝶は『闇夜の蛍』のヒロイン(?)の一人である若作りし過ぎの老女であり、雑人見習い時代には図らずも世話になった人物だ。

『目が妖しかったよ?』

「えぇ。正直驚いたわ。あの御意見番様が態態人を寄越すなんて……何かの陰謀に巻き込まれているんじゃないかと疑ったわよ?」

「ははは、それは……」

『いい歳して厭らしいね!』

 笑えない話だった。少なくとも陰謀に巻き込まれつつあるのは確かであったからだ。しかし、御意見番か……。

『私?』

(意外と義理堅いのか?いや、そんな良い性格してるとも思えんが……)

『ぴちぴちの!』

 その数奇な人生から人を信じず、身内ですら愛情が薄い御仁が俺如き路傍の石に何処まで目をかけているかと言えば……正直雛の側仕え時代に妙に世話を焼かれていた時内心で警戒心すらあった程だ。何かの謀略で駒にされるのではないかと。何はともあれ……。

『永遠の!』

「礼を伝えた方が良いでしょうか?」

 

 俺は神妙な表情で以て尋ねた。どう反応するべきなのか図りかねた。鬼月の家の複雑怪奇な力関係を思えば不用意に動くのは怖い。……というか俺が先程食らった仕置きがまさにその最たるものであった。

『可憐な十歳だよ!!』

 壁に耳あり障子に目あり、何度言っても言い過ぎる事はない。初日でこれである。次の手を指せばどんな反応が返って来るのか予測が出来なかった。

『私もいるもんね!』

「それなら薬師衆の知り合いに言付けする事ね。確かあの娘は薬師寺の家の分家が源流でしょう?立場からしていきなり手荒に扱われる事はないでしょうし」

『婆は利用出来る内は守るしね』

 正規退魔士家の中でも断絶した薬師寺家はその名の通り霊薬禁薬の開発と生産で知られた一族だ。本家はゲーム作中で暗躍する敵勢力『救妖衆』の陰謀で本編以前の時代に衰退して断絶した。しかしながらそれ以前に右大臣の指示で一族の末端は技術の伝授を名目として朝廷の薬学院や地方の退魔士家に流れた。

『まぁ、アイツは許してやるわ』

 毒澤の一族はその末裔だ。そして家人としての立場以上にその技能と知識が重い意味を持つ。薬師衆や理究衆の助職・允職を何代にも渡って就任しているとなれば無下に出来る立場ではない。特に薬師衆はそうだ。偉いさんも命が掛かっている以上は医者に逆らえないものである。同じ允職でも下人衆のそれとは違う。彼女の父親は薬師衆允職であった。

 

「確かにそうですね……しかし安静に、ですか」

『貴方を諌めてたもんね』

 痛い。非常に痛い。痛覚的な意味ではなくて都合的な意味での話だ。このタイミングで安静にしろなぞ、根回しも糞もなくなるではないか。それどころか鍛練の時間すらも……筋肉が鈍って衰えてしまったら生き残れる戦いだって生き残れない。残念ながら直送される目的地は生き残れる戦いとは思えなかった。

 

(いっその事、体調不良理由に辞退を……無理か) 

『貴方を奪うつもりもないし』

 一瞬の交流(?)で分かった。あの餓鬼は俺がふて寝したら強制的に連行するだろう。父から任命された俺を連れて行く事はあのロリゴリラ様にとっては最早確定事項だ。もう逃げられない。上に掛け合っても駄々を捏ねて強行しかねない。

『殺すのは最後の方にしてやる』

「……勘弁してくれよ」

 

 寝床に倒れこんだ俺は天井を見上げて嘆息する。路傍の石だと分かっているなら放っておいてくれたらいいのに、どうしてこうなる?もしやこれもサイコなファザーの想定内か?厭らしい。

『あはははは!!』

「……厄介事かしら?手助けか助言が必要?」

「……」

 

 そんな俺の嘆き具合に傍らに寄り添う允職が尋ねる。俺はそんな上司であり師でもある恩人に無言で視線を向ける。

 

 心から俺を心配するその顔を見つめる……。

 

「いえ、ずっと寝たきりですと師が書類の海に溺れるんだろうなって思いまして……痛でぃっ!!?」

『その間ずっと肩車してね?』

 吐き出した虚勢への返答は頭頂部へのチョップであった。容赦ねぇ……。

 

『のーぼろ!』

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 そんなこんながあって短期誘拐事件より、既に二日もの時間が過ぎ去った。

『かたくるまー』

 結局、切羽詰まった中ですらそんな戯言をほざいた代償なのだろうか、俺は寝床にて仕事をする羽目となった。允職自身、御上から追加の仕事を押しつけられて多忙を極めていた事もある。

 

「こんな事している場合なのかよ……」

『私と遊ぶべきー』

 座っての事務仕事に疲れて肩を鳴らす。肩が凝るなぁ。

『きゃっ。あぶないだろー?』

「はぁ……」 

『お仕置きにぺしぺしー』

 黙々と筆を走らせて、過ぎ去り続ける刻にひたすら焦燥しきっていた。しかし……まさか原作知識を説明して理解を求める訳にもいくまい。理解される筈もない。うぅ、頭が痛くなるな……。

 

「ロリゴリラが再襲撃して来ないだけマシなのだろうが……」

『ごりらー?』

 接触もなく沈黙を守るパワー系ピンクゴリラの存在に思い出した瞬間に身体を震わせる。どうしようもないままに腰掛けに凭れて寝床に設けられた文机と向き合う。時間に余裕がないのだと文句なんて言えない。文句を言っても眼前の書類は消えてくれない。そしてこれを滞らせたら回り回って自身の首を締めるだけなのだ。向き合うしかない。現実逃避ともいう。

 

「まぁ、こんな所だろうなぁ。判子判子……」

『抱きつきー』

 今記述しているのは装束や装備、その他の消耗品の追加申請であった。要望の品目を纏め上げ、その理由を記載して最後に允職から譲り受けている判子を押す。……どうせ中抜きされて申請通りに来ないんだろうけど。上司の代わりに判子押してる俺が言うのも何だがコンプライアンス意識ゼロだよなぁ。

 

「はぁ……。あー、余りじっと見られるのもやりにくいんだけど?」

『きゃー、見られちゃってるー』

 中近世らしいガバガバな管理体制に溜め息を吐いて、序でに俺は傍らにて此方をじっと見ていたその人物に向けてその事を指摘する。

 

「はえっ!?あ、その……御免なさいです……!!」

『覗き魔ー?』

 突然の呼び掛けに件の人物、下人衆の下っ端戦闘員は俺の要望に肩を竦めて謝罪する。遅れて思い出したかのように勢いよく頭を下げる。直後にドンという激突音とともに面を押さえて頭を上げて、視線が交われば小柄な身体を縮めて恐縮する。恐るべき事に此れはコントでもなければ演技でもない。間違いなく素であった。

『お馬鹿さん?』

 下人衆元梔子班班員、名を『氷雨』。恐らく十代半ばの手前の、余り手入れのされていない翡翠色の髪が特色の少女は俺の呆れ果てた視線にビクビクと捨てられた子犬のような上目遣いを向けていた。

『ぶりっ娘ー?』

「梔子……班長から聞いていたが、本当に小心者だな。いや、索敵役ならこれでいいのか?」

 

 僅かの物音、あるいは気配にびくつき、呼び掛けには見境なしに怖じ気づく様は正しく臆病者と言うべきで、しかしながら俺達の仕事の内容からすればそれは決して嘲る事ではない筈なのだが……彼女の場合はその後の反応がスムーズに行えるか怪しい限りなのが頂けなかった。威嚇されたら逃げる事も出来ずにその場で尻餅していそうな手合いである。

 

(梔子が早死にしそうと言ったのも頷けるな)

 

 寧ろ鋭敏な感覚のせいで真っ先に脅威に気付いてそのまま真っ先に茫然自失してしまいそうだ。才能が性格に殺されていると言えよう。

 

「ご、御免なさいぃ……」

『私にも謝れー』

 泣きそうな声での謝罪。果たして此れは怯えからだろうか?それとも先程顔面をぶつけたからだろうか?

 

「いや、別に虐めてる訳じゃないんだが……ただじっと見られると俺も緊張してなぁ。退屈なら適当に暇潰ししていてもいいんだぞ?」

『出ていけー』

 俺が執務代行をしている間、直ぐ傍らで正座して作業をひたすら凝視されるのは監視されている感覚に襲われるのだ。いや、実際に監視されるのならばまだいいのだが……彼女の向ける視線の感触がそれとはまた違うのに俺は気付いていた。何というか、散漫で落ち着きがないのだ。

『逢い引きみられるのはやだねー?』

「いえ。退屈って訳じゃあ……何というか、凄いなぁと思いまして」

「……凄い?」

『私を誉め称えろー』

 先方からの想定外の返答に思わず俺は首を傾げていた。

 

「はい。先程からすらすらと文字や数字を……なんか、格好いいですよね!良く内容分かりませんけど!」

「えぇぇ……?」

『私もわかんないよー?』

 飾り気のないキラキラとした、まるで子犬が飼い主にするような純粋な眼差しを向けられた事に俺は困惑しかなかった。いや、その程度の事で尊敬されても……いや、識字率が高くないとそんなものなのだろうか?

『誰も教えてくれなかったしー』

 希に忘れてしまいそうになるが読み書きも計算も出来ぬ者は珍しくはないのだ。まして、彼女は梔子直々に頭も要領も宜しくないとのお墨付きであった。

『お勉強したら殴られたよー?』

「確か読み書き計算は不得意、だったか?」

「は、はぃ……お恥ずかしながら……」

『痛かったなぁ』

 指摘に対して本当に、本当に恐縮して答える氷雨。この態度だともしかしたら……。

『お前には必要ないんだってー』

「もしかして、自分の名の書き方すら知らなかったりするか?」

「は、はい!あの、どうして分かったんですか!?」

「いや、どうしてっていってもな……」

『悲しいなぁ』

 唯の予測だったのだが……本当かよ。

 

「下っ端ならそれでいいんだろうが……上に上がると苦労するぞ?」

『此方に来たら試験も何にもないよ?』

 班長となれば流石に読み書き計算カラッキシは不味い。その頃まで生きていたら、だけど。

『楽しいよー?』

「はい、梔子班長からも言われました。ですけど……」

『ずっと遊べるし』

 ウジウジと、身を縮めて聞き取りにくい言葉を囁く氷雨。どうにか聞き取れる内容は何処までもネガティブだった。要領の悪さ、物覚えの悪さを自覚して学習を諦めているようだった。

『摘まみ食い出来るし』

「……」

『悪戯も出来るよ?』

 その卑屈な態度に俺は眉を顰める。索敵に適性があるのならばそれでは困るのだ。下人衆の改革に取り組む允職の構想では将来的には衆全体の教育環境の底上げを目標の一つに掲げていた。特に先行しての偵察を行う彼女等は尚更文盲の無学では困る。一々見てきた情報を持ち帰って来るよりも文にして式で報告して貰いたかった。

『朝もお昼もぐーぐー出来るぞー?』

 言ったように時間に余裕はないのだが……。

 

「氷る雨、だ。それで氷雨」

「えっ?」

『んー?』

 俺の説明に俯き気味の新人下人が首を上げる。同時に彼女の仮名を示した紙の切れ端を面に押し付ける。切れ端を受け取った彼女は紙面と俺を交互に見る。

 

「梔子元班長から言われているしな。忙しいから今すぐってのは無理だが、昇進した時に困るだろ?せめて報告書が書ける位には教えてやるよ。取り敢えず、自分の仮名くらいは書けるようになってろ」

「は、はいっ!!」

『……』

 俺の投げやりな言葉に、しかし氷雨は何処までも目を輝かせて頷いた。そしてじーと紙面の名前を見つめては反芻を繰り返す。あぁ、こいつやっぱり馬鹿だ。素直過ぎる。

 

(素直なのは美徳……とは言えないのが辛いな)

『私の名前も書いてよ』

 前世ならばそんな性格でもまだ良かったろう。この世界における世知辛さは前世の比ではない。馬鹿で素直で純粋なのはただただ餌であると宣言しているに等しかった。

『書けよ』

 せめて其処は矯正しないとなるまい。見捨てる訳にはいかない。見捨てたくはない……。

 

「あ、あの伴部先輩……?何か?」

『忘れちゃった?』

 俺の観察するような不躾な視線に気付いたのだろう、面越しでも分かるくらいに不安げに尋ねかけて来る氷雨。やはり、才能自体は悪くはないな。

 

「……白湯が欲しい。寄越してくれ」

「は、はいぃ!!」

『……』

 俺の淡々とした要求に涙声で答えた氷雨は部屋の炊事場向けて走り出した。隠行が上手いのだろう、ドンドン足音してもいいだろうに無音である。何それ裏山!!

『……』

 ……さて、そろそろどうして氷雨が此処居るの?何て疑問が出てくるだろうからちゃんと説明をした方が良いだろう。

『まぁ、いいや』

 梔子班は班長が衆の実戦部隊より除籍された事から再編された。その過程で元々他の面子との練度に開きがあった新人の氷雨は班より離されて無所属の待機組となったのである。

『今はいいよ?』

 其処で更に仕置きで安静を命じられた俺がいて、仕事の多忙から俺に目を向けるのが難しくなった允職の事情が重なった。その結果が今の状況に直結する。

『今はね?』

 俺が連行されたのを通報した事、その直前に安永院まで付き添いで同行していた縁もあって允職は宙に浮いていた氷雨の人事を決定した。俺は反対した。允職は却下した。こん畜生。

『くすくすくす』

(正直やりにくいんだよなぁ……)

『もう少し我慢したら』

 誤字脱字の添削をし終えた巻物を片付けながら俺は思う。チラリと炊事場に視線を移せば竈の側でびくりと肩を震わせる新人下人の姿。恐る恐ると不安げに此方を振り向いていた。

 

「あ、あの!この鍋ので良いのでしょうか!!?」

「……あぁ。あってる」

『何時でも遊べるもんね?』

 確認を求める言葉に応じてから、俺は視線を戻して次の書類に手をつける。

『だから……』

 身振り手振りの一挙一動、放たれる言葉に込められた微かな感情すらも察さられるのは相対する側からすると本当に気を使う。いっそ梔子のように遠慮なく命令出来るのならば気楽なのだろうが……残念ながら年季は違えど俺も彼女同様に階級としては下っ端で、年齢も大きく差がある訳でもない。其処まで高圧的にはなれなかった。

 

(それに……)

『よいっと!』

 今一つの関わりにくい理由を思い起こして、俺はその発想を振り払う。詰まらぬ感傷である。我ながら未練がましくて女々しい限りだ。

 

「さ、白湯お持ちしましたぁ!!」

『今はこれで我慢してあげるー』

 隠行の意味がないような泣き気味の大声が鳴り響く。物凄く慌てて此方にやって来る氷雨。下人として少なからず死線を抜けて来た俺の直感が物凄く嫌な空気を感じ取っていた。

『えいっ!』

「ふぇ……!?」

 

 直後、足を滑らせた氷雨が芸術的なまでの転倒を仕出かした。その場でくるりと尻餅して、手元の湯気をたなびかせる湯呑は宙を飛ぶ。中身は当然のようにぶちまけられようとしていて……。

 

「大体予想してたよ……!!」

『おー』

 転げるかどうかという時点で既に動き出していた俺は身体の痛みを堪え忍び駆け出していた。霊力による身体強化、そして猫が跳躍するように迫る。即座に状況を判断した俺は舌打ちして覚悟を決める。氷雨に覆い被さる。

 

「いや、地味にアッツイィ!!?」

「先輩ぃっ!!?」

『いぇーい』

 背中から熱湯一歩手前の白湯を食らって俺は絶叫する。続けて氷雨も悲鳴を上げる。いや、煮込んだの割と前だった気がするのに意外とまだ熱々ゥ!!?

 

「そして追い討ち!!?」

『お約束ー』

 直後に湯呑が頭に激突して苦悶。頭を押さえて呻いて踞る。ううう、どうして俺がこんな目に?救いはないのですか?

 

「あ、あの……大丈夫、ですか?」

「いや、大丈夫だと思う?」

「いえ……水で、冷やしましょうか?」

「うん。お願い」

『うん?』

 頭も背中も全身も痛い俺は取り敢えず氷雨の提案に応じた。

 

「はい。……あの、すみませんが退いて頂いても?」

「あ?あっ……」

『……』

 遠慮がちな氷雨の要求に、遅れて俺は事態を認識した。

 

 白湯からかのを守るために覆い被さっていたので必然的に俺は彼女に馬乗りになっていた。加えれば頭の痛みで踞っていたので彼女の腹部辺りに頭を沈めていた。今更の感想であるが女子らしくぷにっとしていて柔らかいお腹だった。

 

 ……セクハラかな?

『せくはらー』

「……?あのぅ。重い、です」

 

 事態を認識して硬直していた俺に対して、何時まで経っても退かないからもう一度要請する氷雨。まだ余り性的な意識が芽生えていないのか、その言葉には嫌悪感は無くて、これ迄同様に遠慮がちで恐縮気味であった。

『あ』

「あ、あぁ。そう、だな。よし、退こう。退こう……」

 

 僥倖であった。今なら色々誤魔化せる。有耶無耶に出来る。俺はゆっくりと密着した身体を退かせていき……。

『くすくすくす。来たぁ』

「おーい。糞坊主。お薬の時間だぞー?全く、何時まで経っても男ってのは馬鹿ばかりなんだ、か、ら……?」

 

 直後に小屋の引戸が勢いよく開かれた。現れるのは若干歳上の吊り目の毒澤薬子。薬箱を引っ提げての御入来だ。

 

 最悪のタイミングでの、御入来だ。

『これは関係ないよぅ?』

「……」

「……」

「……何やってんのお前?」

『せくはらー』

 三者三様の沈黙、になる前に真っ先に復活した闖入者。無表情で言い放った質問、否、詰問。あるいは尋問。対象は言うまでもない。

 

「違うんだ。文明人としてちゃんと話を聞いて欲しい。これは誤解だ。エロゲギャルゲ特有の御約束過ぎる展開なんだ。御約束にはオチがいるのは分かるが典型的な型式からはそろそろ脱却するべきだと思うわけであるから…」

「あぁ、そう」

『男の言い訳見苦しいー』

 長々と続きそうになった説明は闖入者によってバッサリと切り捨てられる。

 

「其処の下の方の。説明」

「ひゃい!!?先輩が、色々知らない事を教えてくれるって言ってました!?」

「クリティカルに誤解招きにいくのやめてくれない!!?」

『事実でしょー?』

 純粋無垢に悪意は感じられないのが更に酷かった。違うよ!こいつ涙目なのは急に声掛けられたからよ?俺のせいじゃないよ!?

 

「分かったわ。それで?何か最後に言い残す事はある?」

『俳句を詠めー』

 余りにも素っ気なく俺の弁明は流されて宣告された。これはもう駄目かも分からんね。

 

「待て。話せば分かる」

「あと五秒」

「おお、ブッダよ。まだ眠っておられるのですか?」

『起きてたら私は救われてるよー?』

 予告なく時間制限を指定された俺は取り敢えず心からの祈りを捧げた。

 

 ……さて。直後に発生した出来事については、個人的理由から詳細に記述するのが躊躇われる故に遺憾ながら擬音語にて下記で説明させて貰う。

『きたー』

 スタスタスタ……ゴキッ!!ボキ!グチャッ!!

 

『容赦ないねー?』

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

 今は亡き薬師寺家分家が一つ、毒澤家。鬼月家へ薬術の伝道のために訪れたこの一族は今では本家が文字通りに失せてしまった事から鬼月家に代々従属する家人へとなり果てた。

 

 以来四代。薬師寺家分家としての歴史も勘定に入れれば七代の歴史となる。毒澤家七代目当主兼薬師衆允職毒澤克正の娘、毒澤薬子は父親同様に薬師衆に所属する顔馴染であり、今まさに俺の身体に巻かれた包帯を解いている人物である。

 

「経過は順調ね。まぁ、腐ってもアンタも霊力持ちなのよ。霊術が使えなければ碌に鍛えてもいない雑人連中に私刑された所で出来る傷は知れてるわね」

「そっすね」

『私も引っ掻いてたりー』

 少なくとも顔面に食らった殴打の腫れよりはずっと早く引くだろう。直撃した時何か変な音したんですけど?

『色々触ったり舐めたりもしたよー?』

「あ、あああ、あの……大丈夫、ですか……?」

「大丈夫だと思う?」

「す、すみませんっ!!」

「……」

「止めて下さいよ。俺が虐めてる訳じゃないんですよ?」

『私も貴方を虐めてるわけじゃないよー?』

 氷雨の質問に答えたらジト目で睨み付けて来る薬師娘。確かに毒がないとは言わないが一々反応する氷雨だって大概だろ?

 

「そうならないように釘を刺してるのよ。……虐めなんてみっともないわよ?」

「承知してますよ。やるだけ惨めですしね」

『私はみんなに虐められたなぁ』

 顔馴染の姉貴役の薬師に向けて俺は心からの本心を口にする。溺れる犬には石を投げ、渡る世間は鬼ばかりであるが自分もそれに倣う必要はない。

 

 倣いたくもない。

『だったら私を捨てないでよ』

「……」

「伴部さん?」

「一段落したら揉んでやるからな。覚悟しろよ?痛でぇ!!?」

『揉んでいいのー?』

 沈黙を訝しんだ氷雨の呼び掛けにからかうように応じれば背中を勢いよく叩かれた。清々しい音が部屋に響く。多分肌に赤い紅葉が出来ている事だろう。怪我人は労って欲しいものなんですがねぇ?

『寝てる時に貴方の揉んどくねー?』

「下人の癖に偉そうに語らない。ほら、動かない。薬を塗るわよ」

『つねるのもいいー?』

 そう言ってたっぷりと軟膏状の塗り薬を俺の身体に塗りたくっていく毒澤家の娘。身体の回復を促進する物らしい。「高い薬なのに……」等と毒づきながら渋々といった風に俺の身体に薬を乗せては練り伸ばしていく……。

『私もぬるー』

「もっと安いのでも構いませんよ?」

「私もそう思うわよ。……流石に二の姫の同行者に最下級品使わせて全身炎症なんてなったら洒落にならないでしょ?」

「確かに」

『ぺたぺたー』

 具体的には彼女が機嫌を損ねたピンクゴリラに薙ぎ裂かれかねない。自分だって散々痛め付けてくれたものだがあの傲慢女はゲーム本編でも自分の事は棚に上げたような物言いが多かった。プレイ実況では大概感想欄は突っ込みの嵐であった。

『ぬるぬるー』

 そして今のピンクゴリラはロリ故のファザコンである。だからこそ俺は仕置きされても命は取られなかった。薬子は違う。虫をいたぶる感覚で殺されかねない。安物使って責任が流れ玉するのは避けたいのだろう。

『ぺろぺろー』

「本当ならこうやって欠片でも関わるのだって避けたいのよ?アンタと知り合ったせいで……本当、損な役回りよ」

「御愁傷様です」

「同情するなら金を頂戴」

「金欠でして」

「ちっ」

『私は貴方の魂でいいよー?』

 舌打ちされた。猿次郎への賄賂で消えたのだ、勘弁して欲しい。

『待ってるからねー』

「猿次郎ねぇ。アイツもよく付き合うものよ。……私達に迷惑はかけてくれないでよ?ほら、面貸す!」

「それはもう、私の力及ぶ限り……痛いぃ!!?」

『お顔もー?』

 薬師の懸念……鬼月の御上連中に目をつけられる……へ俺は誠意を込めて努力する事を宣言する。直後に顔面にも塗り薬の軟膏を捩じ込まれて俺は痛みに悲鳴を上げる。ちょっと、腫れてるのでもう少し手加減を……。

『耳も舐めてあげるねー?』

「男ならメソメソしない!どうせ普段の怪我の方が酷いでしょうに。泣くんじゃないわよ」

『身体中傷痕で穴だらけだもんね』

 俺の懇願はやはり切り捨てられた。確かに否定は出来ないけどさぁ……それでも痛いのは痛いのよ?

 

「……よし、こんな物ね」

『後でまた舐めてあげるねー?』

 暫く経て、傷跡にまで練りこむくらいに塗りに塗り切った薬子は漸く作業を終える。

 

「ほら、其処のアンタ手伝う」

「ひゃい!」

「パシりかよ……」

『ぱせり!』

 氷雨に命じながら俺の身体に包帯を巻いていく薬師。グイグイと引っ張ってきつく締め上げる。

 

「ん。これで御終い。怪我の跡は見たわ。念を押して後四、五日は続けた方がいいわね」

「そんなにですか?鍛練?」

「軽いのならば兎も角、本格的なのは止めなさい。私の顔に泥を塗るつもり?」

「しかしですねぇ……」

『このお薬の方が効果あるもんね』

 薬子の診断に俺は苦い顔をせざるを得ない。彼女の言に随えならば俺は出立ギリギリまで安静必須という事になる。それは困る。かなり困る。

『この程度で生き残れるかなー?』

「何を焦っているのか知らないけどねぇ。土壇場で一夜漬け……と言わなくても一週間か其処ら必死こいても仕方無いわよ?頑張るなら普段から頑張りなさいよ」

「普段必死に頑張っても足りないんですけど?」

『くすくす』

 足りない。全く足りな過ぎる。それでも欠片でもマシな状態にしたいから足掻くのだ。誰だって死にたくない。

 

「……本当に仕方無いわねぇ」

『んー?』

 何処までも呆れ果てた嘆息と共に薬子は小さな薬箱を取り出した。それを俺の眼前で見せつける。

 

「これは?」

「猿次郎から聞いてるわよ。彼方此方と動いている話はね。まぁ、在庫品ばかりだけど、無いよりはいいでしょ?」

『知ってるーつんでれだー』

 薬子の言葉に俺は薬箱を受け取る。中身を検分すれば出てくるのは霊薬の類いであった。殆んどは退魔士からすれば一般的なレベルの代物であるが、中には比較的高価な物も交じっていた。そして、その何れもが俺のような下人からすれば貴重であった。

『お薬かー』

「……助かります」

「期限切れ寸前の物もあるから、腹壊しても責任は負わないわよ?」

『苦いのもお腹痛いのもやだなー』

 俺の心からの礼に、片付けを終えた顔馴染みの薬師は肩を竦めると立ち上がる。

『お菓子の方がいいなぁ』

「もう帰るので?お茶は無理でも白湯は出しますよ?」 

「忙しいのよ、此方は。そんな暇ないわよ」

『忙しいもんねー?』

 そんな暇なんて無い癖に態態この小屋に来てくれた彼女に向けて、俺は戸口を出て立ち去っていった後も暫し頭を垂れ続けていた……。

 

『可哀想にね。どちらにも利用されてるんだもん』

 

『理解したらどんなお顔になるんだろ?』

 

『ふふふ……』

ーーーーーーーーーーーーーーー

「……出来ればそのように覗き見はしないで欲しいのですが?」

 

 下人衆允職に宛てがわれた小屋から退出して薬師衆の縄張りとする敷地へと戻る若い薬師はその気配に気付いていた。庭園の一角で足を止め、僅かな不満を言葉に乗せて指摘する。

 

『御免なさいね、老人の我儘と思って勘弁して頂戴な。……どうしても癖なのよねぇ』

 

 冗談でくるんだ朗らかな声音が背後から響いた。振り向けば其処にいるのは実に見事な白鷺だ。砂利道にぽつりと佇む白鷺。白鷺に擬した式神。

 

 鬼月の黒蝶婦の使役する傀儡……。

 

「……御指示通り。毎日あの薬は塗布しております。何か追加の御用が?」

 

 緊張を圧し殺して薬師は問う。己の後ろ楯の返答を待つ。

 

『御用、という程のものではないわ。ただ此方の御願いを聞いてくれる優しい若人に御礼を述べないとと思いましてね?貴女の自宅に心ばかしですが金子とお薬の原材料を置いておきました。後程確認を御願い致しますね?』

「有り難う御座います」

 

 返答とは裏腹に薬師は顔をしかめていた。一応結界の類いを張っていた筈なのだが……自宅に好き勝手上がられるのを喜ぶ者なぞいない。此れは脅迫だった。

 

(本当。面倒な縁を結んじゃったわねぇ)

 

 毒澤にとって件の下人は欠片も友情がない訳ではない。猿次郎経由で面識を得た雑人見習を、少なくとも当時は疎んではなかった。寧ろ一の姫や御意見番との交流する切っ掛けとなり得たのだから喜ぶべきであった。そのままの状況であれば、どれだけ良かったか。

 

 少年が下人堕ちした一件は彼女に選択を強いた。彼女が友情を選ぼうとしなかった事を非難される謂われはない。問題は周囲が予想外に義理堅かった事だ。

 

 下人堕ちした少年に度々便宜を図る猿次郎を諌めようとして退けられた。それどころかどういう風の吹き回しか、あの黒蝶婦までが此れである。そしてそれに巻き込まれる形で未だに彼女はあの馬鹿者と関わっている……。

 

『不本意かしら?無理を強いているのは承知しているわ。心苦しい限りよ』

「……本業とは別に御指示となりますので。どうしても此方の職務に支障が出てしまいます。その点はご留意頂けましたら……」

 

 夫人の心にも無さそうな台詞に恭しく、しかし実直に意見を述べる薬子。短気な者ならば怒鳴り散らすであろう一言は、しかし彼女も相手を見て話す。一応合理的な認識と判断が出来る相手と理解していての発言であった。恐らく暫くすればその辺りの補助と考慮もしてくれるであろう。この夫人はそういう女だ。

  

 実際の所、薬師からすれば無理というよりも解せなかった。黒蝶婦の名は伊達ではない。身内に対してすら時に冷淡で冷酷で知られるこの老婆がどうしてここまで元雑人に世話を焼くのか、その理由を測りかねていた。よもや善意ではあるまいに。どのような遠大で狡猾な企てを仕込んでいるのだろうか……。

 

『えぇ。そうね。けど今だけは。金と材料ならば此方でどうにかするわ。貴女だけが頼りなのよ?頑張って頂戴』

 

 胡蝶の言う「頑張り」は正しく調合である。霊薬の調合……扱う材料によっては時として危険すらある業務である。そして胡蝶が薬子に発注した薬の質と量は鬼月家薬師衆の中でも上から数えられる彼女からしても一朝一夕で仕込めるものではなかった。

 

 下人に授けるためと宣って発注された秘薬の数々……何なら先日の私刑による怪我を癒すために塗られた塗り薬すらもそうであった。

 

『あの塗り薬は特にそう。これからあの子が出立するまでの七日間、毎日塗り続けられるようにね?』

 

 白鷺の、甘ったるい口調での御願いに、しかし男ならば兎も角ほだされるような薬子ではなかった。そして専門家としてはその要望に無条件で応じる訳にもいかなかった。

 

「……正気ですか?あの薬を毎日?」

『駄目かしら?許容出来ないような副作用があるのかしら?』

「許容出来ぬという訳ではありませんが……」

 

 白鷺を模した偽物の、その空虚な眼光に薬師の何とも言えぬ表情が映りこむ。歯切れの悪そうに彼女は言葉を紡ぐ。

 

「あの薬は確かに身体の強化に寄する代物ではあります。その製造費用や効用の効率性については御意見番様が許容するならば結構で御座います。ですがそれらの要因を排除したとしても、あの薬には欠点が御座います」

『欠点?』

 

 薬師の言葉を疑問形で反芻した白鷺。反芻すると共に場の空気が重くなる。無言の内に式は続きを促す。

 

 対象の霊力強化を促して、その副次的効能として傷の治癒促進をも促す塗り薬。下人が二の姫の初任務に同行するのが決定した時点で発注し、誘拐事件に乗じて利用させる事に成功したそれは高価な分その効能は大きく、胡蝶の調べた限りは危険は最小限の筈であった。

 

 よもや、この薬師が嘘を言ってるとは思わぬが……胡蝶の剣呑な態度を察して、緊張と共に言葉を選びながら薬師は説明を再開した。

 

「あー、あのですね。あの薬は元々は身体強化のために開発された物ではないのです。寧ろ本来の目的で活用されていた中で偶然にその効能も発見されたというべき代物です」

 

 そして人妖大乱においては新発見された活用方法が大々的に利用されて何時しかそちらこそが有名となってしまったのだ。何なら最初期は塗り薬ではなく飲み薬として使われていた、そう薬子は語る。

 

『それは初耳だわ。これでも薬学にはそれなりに見識があるつもりだったのだけど。それで?どのような目的で使われていた代物なのかしら?』

「……精力剤です」

『……御免なさい。もう一度言って貰っていいかしら?』

 

 薬師の暴露発言に、思わず白鷺は聞き直していた。己の耳が遠くなったのかと疑った。

 

「ですから、精力剤です」

 

 年頃の娘でもあるためか、余り言いたく無さそうに薬師は今一度答えた。場が先程とは違う趣を帯びて沈黙する……。

 

 海妖獣の干し陰茎に熊妖怪の肝、蝮妖怪の血に蠍妖怪の毒素、大陸赤人参に妖蜂王蜜、禁地に自生する虫妖怪に冬虫夏草してくる食肉植物霊草……舶来品含む貴重な原材料であるそれらを複雑な調合の果てに製造される霊薬は単純な傷薬の枠に入らずに染み込んだ薬それ自体が細胞一つ一つまで活性化させて身体を強化する。対象の霊力に応じてその薬効も比例するそれは気付け薬も兼ねて大乱中に大半の退魔士らが常用していた代物。

 

 しかしそれはあくまでも既存薬から新しい薬効が発見されたという副次的な物である。元来の利用法ではない。

 

 昔々、優秀な異能を持ちながら不能で跡取りのいない退魔士家当主がいた。その当主や朝廷が貴重な異能因子の喪失を避けるために薬師寺家に調合を命じた錠剤が下人に塗りたくった塗り薬の源流となる。

 

 その名も『馬威唖愚羅』。今ではその元々の利用目的も殆んど忘れ去られ、また扶桑国の貿易事情や製薬関連の法の変化から多くの退魔士家においてかつてのように日々常用出来る程の実物がなくなって久しい霊薬である。

 

「えっと、元々は経口摂取用であるのを塗布出来るように加工しております。故に元来の効果は限定的な物とはなっていますが……」

 

 それでも効果は零ではないのだ。重ね続ければ次第に元々の効果も顔を出すようになる。余り下品な話はしたくないが既に件の下人は一度問題を引き起こした事で目をつけられているのだ。ここに来て例えば我慢出来ずに通りすがりの女中でも襲えばどうなる事か……何よりも取り調べで自分に嫌疑が掛かる事が嫌だった。

 

『精力剤……』

「はい。精力剤です」

 

 夢遊病のようにその単語を何度か反芻する白鷺に向けて応答する薬師。傷を治すだけならば他にも薬はある。態態アレを使うのは止めて欲しかった。何やら任務が控えているようだがあの化物染みた二の姫が同行するのだ。こんな迂遠な方法で急いで身体強化する必要はない……同じ女として薬師は御意見番に淡い期待をする。

 

『……承知しました。大丈夫です。問題ないわ』

 

 暫しの沈黙の後に白鷺はそう判断した。

 

「いや、しかし……」

『問題ないわ』

「アッハイ」

 

 圧すら感じる返答にそれでも粘ろうとしていた薬師は思わず即答していた。何かあの下人みたいな返答だと思って遅れて口元をへの字に曲げる。

 

『安心して頂戴。監督責任は私にあるわ。何か嫌疑に掛けられても私が弁護する事を約束しましょう。手形は必要かしら?』

「是非」

 

 即答であった。後ろ楯は大切だ。いざと言う時に蜥蜴の尻尾切りをされては堪らない。危ないかもしれない橋を渡っているのだ。それくらいはして貰わなければ困る。直後に天から降ってくる巻物。紐を解いて広げれば其処には証文が記されていた。自身の行いに対してそれを絶対的に擁護する旨が記されていた。ただの文ではない。代償の呪いが掛けられた契約だ。

 

「……確かに確認致しました。さすれば鬼月の御家に仕える家人として御指示の通りに」

 

 保証を受け取った事で取り敢えずの身の安全を確保して、薬子は安堵する。同時に僅かに馴染みの下人に同情し、憐れみの感情を抱く。……本当に僅かであったが。

 

(貴方自身の選択なのだから、文句は言わせないわ)

 

 雑談交じりに身の上話を聞いていた薬師はその生き下手具合に呆れたものだ。余裕なんて無い癖に、他人の事なんて見ている暇なんて無い癖に。己の身を切り、己の器量を超えて、警告も聞かずに引き起こした成れ果てだ。

 

 寧ろこんな協力をしているだけでも十分に有情だろう。猿次郎が未練がましく関わるからと仕方無しの尻拭いも兼ねていた。

 

「……全く、もう少し自分本位で生きていたら楽なのに」

 

 弟分のようにも見ていた元雑人の生き方を、薬師は囁くようにして詰った。それは複雑な心情をない交ぜにした声音であった。

 

『何か言ったかしら?』

「いえ。……失礼ながらそろそろ宜しいでしょうか?流石に長く話していると気取られます。それに調合の予定がありまして……」

 

 具体的には麻痺毒の調合をしなければならなかった。それも飛びきり強力な。当主と長老連中から注文を受けたそれは毒澤の一族が知る中でも一番強力な代物だ。危険な材料を何度も何度も濃縮して作るそれは凶妖相手でも数日は動けなくなる代物だ。

 

 一体何に使うのだか……何にせよ大仕事である。己の出世のためにも手抜かりなく最高の仕上げにせねばなるまい。本来ならばそちらに全身全霊で取り組む必要があったのを下人の世話に貴重な時間を割いていた。早く帰って作業がしたい。今夜は夜分遅くまで眠れまい。その焦燥が非礼とすら思える発言をさせていた。

 

『そうね。確かに貴女は大変……御免なさい。時間を借りちゃって。御仕事、頑張って頂戴ね?』

「……はっ」

 

 白鷺の労いの言葉に何とも言えぬ妙な感触を感じ取り、しかし薬子は義務的に礼を述べてその場を立ち去る。何はともあれやらねばならぬ事に変わりはなく、時間は有限であったのだから。

 

「……」

 

 ……奥歯に何か引っ掛かったような感触を、彼女は暫くの間忘れる事は出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 「えぇ。そうね。頑張って頂戴な。私は構わないわ。それでもね?」

 

 白鷺の向こう側で女は呟く。本当に嫌な性格に育った息子だ。自分とあの男との悪い所ばかり似て。酷いくらいにねちっこく、せせこましく、浅ましく、そして容赦ない。あの子の尊厳を何処まで貶めたいのか。

 

『騒ぐならせめて身内だけですれば良いものを……そんなに周囲に盛大に飛び火させたいものかしらねぇ?』

 

 いや、分かっている。彼を苦しめるためだ。下人に貶めたのは単なる手始めに過ぎない。過程に過ぎない。あの子がどういう性格なのかを知っていてこの演出をしたのだろう。塵どころか汚水の中からすらも宝石を見出だせるあの子の性格を理解していて……我が息子ながら反吐が出る。

 

 構わない。ならば此方とて手がある。奪わせない。あの子だけは、この理不尽から救って見せよう。それが忌まわしい鬼月の血族たる、己に出来る唯一の贖罪なのだから。

 

 今回は救ってみせるのだから。

 

 だから……。

 

『御免なさいね?貴女はあまり可愛いとは思えないのですもの』

 

 祖母は、切り捨てる予定の孫娘に向けて猫被るような謝罪を嘯いていた……。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

「また随分とやんちゃをしてくれたようだな?葵よ?」

「やんちゃ?主家の者として家臣に躾をしてやっただけですよ?」

 

 燭台の灯火だけが照らす暗い執務室、簾の向こうで書き物をしながら呟いた父に向けて参上した娘は悠然と宣った。僅かの罪悪感もなく、当然といったような態度で以て。

 

 実際、彼女にとってそれは道理そのものに思えたのだ。よりによって折角父が選んだ連れの者が己との随行を拒絶せんとする……しかもたかが下人の分際で!

 

 彼女からすれば、鬼月葵からすれば己と父の双方の顔に泥を塗られたも同然の行いなのだ。寧ろあの程度の仕置きで済ませたのは最大限の慈悲に他ならない。本当ならもう少しだけ締めてやるつもりだったのだが……。

 

「それよりも、もう話が届いているなんて驚きですわ」

「人の噂というものは広がるのが早いものだ。しかも尾びれ背ひれが付くものだ。その事を鬼月の直系ならば十分意識する事だな」

「……はい。御父様」

 

 簾の向こう側からの指摘。注意。それに対して葵は僅かに顔をしかめる。しかめるが……直ぐに恭しく一礼をしてそれに応じる。

 

 彼女にとってはそれが真心であり愛情であると信じていたから。育児を放棄して不要品のように己を見た母を葵は欠片の信も抱いていなかったし、それは己にひたすらおもねって卑屈な笑みを浮かべる世話役連中もまた同じだった。

 

 己を率直に叱責出来るこの肉親を、葵は信じたかった。期待したかった。愛されていると、思いたかった……。

 

「件の下人、任には外すな。実力は確かだ。それに政治的にも意味がある」

「御姉様の側仕えだったとか?」

「……不祥事を仕出かした。故に罰を与えた。アレは随分と愚図ってな。全く寛大な処分であったよ」

 

 娘の指摘に、父は誤魔化す事なく応じた。姉の我が儘による恩赦であると暴露した。葵はその事実に嘲るように表情を歪める。

 

「それはまた……」

「あのような手合いに思う所はあろう。しかし、お前の立場ではそんな者とて手綱を締めねばならぬ事もある。分かるな?」

「……理解はしています」

 

 筆を置いて簾の向こうから真っ直ぐと己を見据えた父に、葵は背筋を伸ばして応じる。小さく父が頷く。

 

「口だけでは信用は出来ぬな。実践にて確めさせて貰おうかな?」

「禁地、でしたか?」

 

 扶桑国北土三等禁地『黙呪深林』……それが二の姫が正式に請け負う予定である任務の地である。

 

「恐れる事はない。禁地とはいえ三等だ。それに外縁部であれば然程危険という訳でもない。お前の才能ならば易々と任を果たせよう」

「私は奥地まで入っても構いませんが?」

 

 父の説明に、葵は自信満々に嘯いた。外縁部での薬草の採取なぞ葵からすれば余りにも詰まらない。中妖も大妖も、彼女の前では等しく無力で凶妖とて恐るるに足らずと確信していた。いっそ森の奥地まで分け入って霊脈を調伏させて見せてもいい。己ならば出来る、それは慢心ではなくて事実であった。

 

「自惚れるな。妖共は狡猾だ。過去お前のように慢心して足を掬われた者は数知れぬぞ。己の職責を果たす事だけを考えよ」

 

 返って来たのは手厳しい指摘。しかし葵は寧ろそれを好ましく受けとる。淑女らしく、奥ゆかしくその言を受け入れる。

 

「……承知致しましたわ。御父様の御教授に違う事なく、任務を果たしてみせましょう」

 

 そして優雅に優美に、天女の如く一礼をしてみせる葵であった。己の父に最大限の敬意を見せつける。

 

「……もう夜分遅い。退出するといい」

「はい。御父様も御体にお気をつけを」

 

 父の配慮に感謝して、身体の強い訳でない父を労って、葵は部屋を出る。それは行きよりも明らかに軽やかな足取りであった。

 

「……実に美しい親子愛な事ですなぁ。御当主様?」

 

 背後から皮肉げな声が響いた。気配はない。いや先程までなかった。

 

 突如として人が現れる。手には外套。鬼月家の所有する貴重な呪具の一つ。認識阻害の外套……その原物である。

 

 かつてこの谷に巣くっていた、鬼の宝物庫に納められていた逸品だ。

 

 鬼月家下人衆頭、鬼月家分家に属する軽薄な男を当主が、鬼月幽牲は冷淡に一瞥した。

 

「首尾はどうだ?」

「仰せのままに整えましたよ。後は実行するだけ……それが一番大変なんですがね。あの化物をどうにかするなんて荷が重過ぎますぜ?」

 

 衆頭の言葉は何処までも軽々しく、そして切実だった。鬼月の直系の姫君……名門鬼月の才能の結晶。それを正面から相手出来る等と、絡め手があっても確信出来るものではない。僅かな綻びが、油断が破滅をもたらすだろう。恐ろしい。

 

「つまり?」

「もう一押し、保険が欲しい所でしてね?」

 

 ニヤリと不敵に笑う衆頭。それを暫し見つめ続けて……根負けしたように当主はそれを引き寄せた。

 

「お前に任せる。正式な譲り渡しには時間を要するが……安心しろ。この企ての後に私に逆らえる家中はおらん」

「これはこれは……こんな代物まで任せて頂けるとは。これは人一倍頑張らねばなりませんなぁ」

 

 授けられた武具に衆頭は感嘆した。それは外套同様に鬼月一族に受け継がれる特級の呪具であった。凶悪な、武器である。

 

 己になぞ、本来ならば賜る事の許されぬ一族の宝である。

 

「契約通り、成功の暁には鬼月の家中は貴様の思いのままだ。他の分家では貴様には反対は出来ぬようになろう。そのためにも励む事だな」

 

 下人衆頭という窓際部署の頭は鬼月の一族で殊更重く扱われる訳ではない。特に今の助職の存在があれば、尚更である。そしてそれに不満を抱かぬ程にその地位にある男は慎み深くもなかった。

 

 野心家で軽挙で、しかしだからこそ利用価値がある。少なくとも当主たる男にとっては。

 

「……へへは。それでは私も此にて」

「あぁ。本番まで英気を養っておく事だな」

 

 慇懃無礼に一礼して、外套を着こんで姿を消す衆頭。暫く部屋を静寂が支配する……。

 

「……」

 

 暫くして、筆の擦れる音が部屋から漏れ出始めた。ひたすらに、ひたすらに……。

 

 

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