和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件 作:鉄鋼怪人
『どうやら勘の鋭い方がいますね?』
こちらXin.さんより、ハロウィン仮装雛姫です。無垢な表情してますがかなり際どい服装ですね。これで主人公に悪戯……卑しい貧農娘ずい。
https://www.pixiv.net/artworks/124018140
『えぇ、あの子の旧名を呼ぶのが引き金です』
素晴らしいイラスト、誠に有り難う御座います!
『自ら呼び起こしたのです。自業自得でしょう?』
国の中心地は、今日もまた変わらぬ活況と喧騒に満ち満ちていた。
数百に渡って様々な店が軒を連ね、絶えず人と車が行き交う扶桑国が都の大通り。地方に困窮と混乱の影がじわりじわりと忍び寄る中でも、国の最も肥沃な大地の恩恵を溢れんばかりに受けるこの街ではそれも嘘のような賑わいを見せている。正しく、あるいは虚偽の繁栄を謳歌し続けている……。
「……」
そんな活気に包まれた都の一角、大通りに面して営業する団子茶屋にて、その少女はずっと待ち合わせていた。
安い茶を一杯に同じく甘タレも小豆餡も載っていない一串の団子。最低限の注文のみで通りに面した外席を占拠した彼女は、ただただひたすらにぼんやりとした表情で風景を見つめ続けた……。
待ち人がいるのだろう。素振りで分かる。しかしそれは客の道理である。店には店の道理がある。支払い額以上の恩恵を客に与える義務は事業者にはない。
「仕方ないわね……」
一刻か、あるいはもう少し経っただろうか?正直、店の回転率の事もありそろそろ退店願いたいと思っていた茶屋娘は遂に痺れを切らせ、客の元に赴かんとする。しかしそれは徒労であった。次の瞬間には彼女はぱぁと目を見開き笑みを浮かべると、団子を食らって茶を呷る。代金を席に置くと立ち上がって急ぐようにして駆け出していた。
思わず化粧気も飾り気も少ない田舎風味の客の、その行先を目で追っていた茶屋娘。客だった娘は騒がしい通りに突っ込んで、行き交う人と馬と車を避けながらその向こう側へと向かう。余りにも行き交う者物に、途中で貴人の婦人だろうか?仕立ての良い着物を着込んだ女性に当たってしまい慌てて謝罪する。それでも歩みは止めない。長々と文句を言われる前に人の流れで誤魔化し抜け出して……そして漸く辿り着く。
「……っ!!」
「っ!?……っ!!」
そして傍にまで来たかと思えば、娘は勢い良く男の人影に抱き着いていた。雑音が彼方此方で鳴る中で、しかし声は聴こえずとも一目見ただけで仲睦まじげなのが分かる光景。お堅そうな田舎娘の大胆な行動は、その深い仲を察せさせる。そろそろ嫁入りしたいが相手のいない茶屋娘は思わず舌打ちしていた。嫉妬の舌打ちである。
それもそうだろう。満面の笑みで何やら言葉を交える娘の、抱き着いた相手の衣装は豪奢とは言わずとも相応に立派だった。下級の官吏だろうか?娘よりも幾つか年上に見える優男風の青年。談笑して通りの向こう側の横路に、人混みに消えていく。畜生、高望みし過ぎない程度に程好く優良物件じゃないか。宮仕えならば給金に不安はない。
「ヤリ捨てられたらいいのにぃ……」
茶屋娘の口から、思わず嫉妬から漏れる呪詛。本気ではないが、決して冗談ではない。無知な田舎娘が都会の男に遊ばれて捨てられるなんて話は珍しくはなかった。私生児まで出来たのに実は男にれっきとした家の婚約者がいて妾にもなれずに放逐されるなんてエグい話も茶屋娘は知っていた。都の大通りの茶屋となれば客の囁き合う醜聞や噂話には事欠かないのだ。
「は?そんなの俺らが許さないんだが?」
「はい?」
と、想定してなかった呪詛への反応した返答に思わず茶屋娘は客席の一角に視線を向ける。隅の席に陣取っていた顔を隠した不審者二名が立ち上がる。
「アレだな。上っ面は悪くないが軽薄そうだな?問題は皮の下の本性か」
「そうさ。見極めるよ。彼が真に相応しい男なのかを」
何やら重々しい雰囲気を纏う麗人の客人二人の会話であった。え?何があるの?何か武器まで携帯してない?刃傷沙汰になるの?
「まさか。余程の事がなければ抜きはしねぇよ。そも、あの色白なら素手でも殺れるしな!」
まるで茶屋娘の心を読むように、ニヤリと獣染みて笑う野性味のある客人の言及。いや、待て。結局殺すの?
「別に其処までは……あの人が鈴音の事を大切にしてくれるのなら、それで十分さ。誠実に、不義理を働かないならそれだけで、ね」
今一人の方は抑制的な物言いであった。尚、駄目だった場合については言わない。疑問を思っても茶屋娘は聞かない。取り敢えずさっさと追っていって欲しかった。何か圧がある。客が逃げる。
「そんな……」
……湯呑が割れる音と共に紡がれる震えた呟き。三人が一斉に振り向いた。仕立ての良い着物に笠を被った幼子の娘の姿。動揺して、唖然として、目を見開いて絶句していた。手元から落ちて砕けた湯呑に気付いてもいない。
「そんな……お嫁さんにするってやくそくしたのに。え?え?嘘、そんな、どうして、どうして……?あ、ありえないぃぃ……」
消え入った二人、というよりも男の方の背中を見届けての譫言のような呟き。己の見たものを信じられないといった表情だった。この娘の正体は……?いや、ここまでの呟きの時点である程度は推測出来よう。環は心の内に最悪の事態への予感を抱く。
「……入鹿?」
暫し闖入者の存在に唖然としていると、傍らからの異様な気配を、荒々しい妖気を越えた妖気染みたものを感じ取って、思わず環は友を呼び掛けた。それは額に汗を流しての、恐る恐るといった呼び掛けであった。
「……はい、屑決定。ぶっ飛ばすぜ」
即断即決での親友の宣言であった。
ーーーーーーーーーーーーーー
蛍夜家の女中娘は青年に誘われて都の宿場街へと向かう。より正確にいえば宿場街の中でも中流の宿屋が軒を連ねる通りへと辿り着く。
「この辺りは、それなりに高い方じゃないですか?」
「主人から手当は出てるよ。それに……正直公家屋敷の方で泊まりこむのはね」
値段の心配をする鈴音……雪音に対して青年は苦笑気味に語る。詳しくは雪音に対して語らないが彼の主家における立場は決して安定しているものではない。
読み書きが出来る事で斡旋された郡衙での下っ端勤め。その最中で偶然見つけた帳簿に記載された数字の不備。悪徳商人の詐欺案件を指摘した青年はそれを理由で郡司をしていた下級公家の主人に気に入られ、引き立てられる事になった。直属の雑任への推薦と補任。それは正しく成功である。人生の大逆転である。
成功者は何時でも妬まれて疎まれるものだ。身分の問題もある。救われた主人に良く良く可愛がられてもだからといって家に古くから仕える家臣らの受けが良い訳ではない。寧ろ主人が可愛がる程に逆効果であったかも知れない。
加えるならば主人の末娘に気に入られてしまったのが不味かった。幼くて家政に一切関われず、家の財なぞ殆ど継げないだろう末娘に対して、青年は好かれた所でその利点を見出だせなかった。その癖に周囲からは一層成り上がりの野望を邪推されてしまうのだから困ったものである。
彼は仮に婚姻するのならば出来るだけ賢く財ある者を狙おうと思っていた。結婚すらも彼にとっては高みに昇るための手札に過ぎない。その意味で彼にとって仕える家での立場はある意味では不本意で心外だった。何とかして適切な距離を取らねばならなかった。
主人に願い出ての宿場からの出仕。元々都に屋敷もなく、本家筋の殿上人に敷地に住まわせて貰っている身の主人としても屋敷に間借りさせる家臣は少ない方が良い。薄らながら旧臣との軋轢も察しつつあった。故に認可はあっさりと通った。青年にとっては宿場の借り部屋は他者の目を気にせず、気兼ねする必要のない自由の世界だった。
何だったら、こうして雪音を招く事も旧臣連中と一緒に詰められる長屋では到底不可能であったろう……。
「とは言え、流石に上司も際限なく金がある訳でもなくてね。至れり尽くせりの宿は流石に選べないさ。……それに宮仕えしていたらどうしても、な?」
宿の飯といっても宮仕えの多忙の身の上では三食まともに頂ける訳ではない。昼は公家屋敷で、夜遅くに帰って用意されている夕飯は確実に冷め切っている。布団は兎も角として衣服の洗濯は流石に自前でやらねばならぬ。問題は借り部屋まで持ち込みで残業せねばならない以上、時間を作れない事か。
「其処で私ですか?」
「頼まれてくれるか?」
折角暇を貰っている雪音に給金抜きに家事を押し付けるのはある意味で畜生の所業であろう。暇の意味がない。ないのだが、しかし……。
「当たり前です。遠慮なんてしないで良いですよ」
優しく微笑みながら雪音は青年を見上げる。頭一個分以上背丈が違う故に上目遣いで、慈愛の籠った眼差しで田舎娘は青年を見る。欠片の不満も無さそうな笑顔に、青年は深く息を吐いて瞠目する。じっと眼鏡の奥の瞳で彼女を映す。沈黙……そして言葉を紡いで要望する。
「……そうだ。例の物は用意してくれてるか?」
「勿論です!ほら、此方にたっぷりと!!」
そういって手荷物引き渡しの風呂敷を広げて見せつけるのは木製の弁当箱。中身を少し覗かせればじっくりと煮込み続けて汁を吸わせた具が所狭しと。自信満々のやんちゃ気味の笑顔を向ける雪音。彼女にとっては大切な実家の味である。
「それは良かった。あぁ、ここだ。ここ。……お嬢さん、ただいま」
大して大きくはないが小綺麗な宿屋の、庭先を掃除していた女将の娘に向けての挨拶。続けて雪音も会釈して中へと入る。雪音の存在を見て何やら愕然とした表情を浮かべていたが当の雪音は困惑して首を傾げるのみであった。何か格好が悪かったのだろうか?後で謝った方が良いかも知れない。
そんな事を考えてる内に二人は二階の部屋に上がる。六割整然として、四割方雑然とした借部屋を見渡して、雪音は僅かに驚いた。どちらかと言うと神経質な方である青年がここまで部屋を散らかしているとなると普段の仕事がいかに多忙なのかを窺い知れた。闘志が湧いて来た。尚更己が頑張らなければ。
「掃除は後で、明日でもいいぞ?……今日は飯食って休むといい」
「分かりました。炊事場を借りても?煮物を温めたいです」
「女将さんに頼んだらいいよ。多分夕飯の用意をしてる頃だ。……そうだな、物置にこの前頂いた金平糖があった筈だから、挨拶の菓子折りに持っていくといい」
他所様に炊事場を貸すのは愉快なものではない。宿泊者ですらなければ尚更だ。小煩い人物ではないが礼は弁えておくべきだろう。
「分かりました。ついでに物置の不要品も吟味しておきます」
「勘弁してくれよ」
「物を捨てるのは苦手でしょう?餅は餅屋ですよ?」
「むぅ……仕方ない、か」
生まれと育ち故に、賢しくはあっても吝嗇臭い所があるのを雪音は良く知っていた。特に人付き合いや利益に関わらない私物に関しては几帳面で神経質な癖にもしもと考え込んでついつい不要品まで溜め込む所があった。故に女中の経験のある雪音がこういう時にバッサリ捨ててやるのが吉であろう。彼も正論には反論出来ない。降伏だ。
「貴重品と頂戴物、それと蒐集品とかがあったら別に分けて下さい。残る物から不要品は売り払うか捨てますからね?」
「其処は問題ない。それくらいは事前に分別はしてるよ。蒐集品なんてないから貴重品以外は不要と思ったら捨ててくれていい。……うん、大丈夫さ」
元より彼には物を集める趣味はない。そんな金があるならば実家の仕送りに使っていた。彼は跡取りの兄ならばもっと賢く使ってくれると確信していたし、実際金が入り用だった。だから若干の抵抗はあったが雪音の言を認める。認める他ない。
「では、そのように。えっと此方ですかね……」
同意。そして物置部屋に足を踏み入れて菓子を探す雪音。一方で青年自身は借部屋に持ち込んだ残業の処理をせんと図り……戸を叩く音に足を止める。
「……?」
宿屋の女将か、他の下男下女か、隣部屋の客人か。よもやこの時間に盗人ではあるまい。一応懐に護身の小刀を潜ませて、彼は戸を引いた。
気持ち良いくらいの笑みを浮かべる、狼を思わせる麗人がいた。
「……?貴女は、誰です?」
「誰?んなの……決まってるだろ?」
全く見知らぬ普通ではなさそうな客人に困惑する青年。一方で獣染みた雰囲気の客人は呼び掛けにニヤリと微笑む。それは人好きのする肉食獣の満面の笑み。背後には更に複数の気配があって思わず気が逸れる。致命的な隙であった。
そして……。
「ダチと餓鬼を弄ぶ牡豚ぶっ殺しに来た悪名高き蝦夷の入鹿様よぉ!!」
「はい?うごっ!?」
宣言と行動の前に青年は予感から回避行動を試みていた。勘は良かったが手遅れであった。半妖の身体能力の前では数瞬の時間なぞ何の意味もない。
一撃の殴打で軽く宙に、部屋の中で青年は吹き飛んだ。片付けていない布団向けて突っ込ませたのは入鹿の手加減だった。優しさではない。首を折って死なれたらこれ以上可愛いがれないからである。入鹿はたっぷりとこの色男にケジメをつけてやるつもりだった。
「えっ!?えぇっ!?な、何……!?」
物置部屋から騒音と怒声に顔を出した女中娘に環が駆け寄る。駆け寄って身体に触れる。
「鈴音!大丈夫!?身体、まだ大丈夫だよね?まだ何もされてないよね!?」
「えっ!?えっ!?ひゃん!?ひ、姫様ぁ!?」
必死の表情で己の身体をまさぐる環と、その行動に困惑して身震いする女中娘である。何が起きているのか、どうして主人がここにいるのか、訳が分からないという表情でただただ混乱する。
「う"わ"わ"わ"あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ん"!!?」
続いて部屋に鳴り響く号泣。絶叫。嗚咽。友人二人の背後から現れる出で立ちの良い全く見知らぬ子供。
「ひどい!ひどいよぉ!?どうして!?どうしてわたしを捨てたのぉ!!?」
「なんだなんだ!?一体何があったんだ!?」
「ほれ見ろ。伊瀬の所で働いてる兄ちゃんの所よ」
「女子ばっかじゃねぇか。痴情の縺れか?」
「止めろ止めろ。聴こえたら女将んとこのお嬢ちゃんが泣くぞ?」
「いや、もういるし泣いてね?」
捨てた?誰が?何を?不意打ちの糾弾に雪音の心境は更に混沌とする。何なら宿の隣人やら宿の働き手が幾人か集まって来た程だ。何人か「良い舟にしろっ!」とか「お腹には何もいませんよ?」とか訳の分からない事言っているが気にする必要はない。
「えっと……何があったんですか?」
「ごめんね?鈴音?けどこれは必要な事だったんだ。鈴音の人生を守るための苦渋の決断だったんだ。本当はこんな大事にしたくはなかったんだけど……」
環は女中の友を抱き締めて何処までも沈痛な表情を浮かべる。まるで母鳥が雛鳥を猛禽から守らんとするかのような、必死の決死の振る舞いだった。
「てめぇな?他所様相手に女遊びってぇならまだ理解するぜ?だがこれは流石に酷過ぎるだろが、えぇ?」
「うぐ……?」
鼻血を流しながらも起き上がる青年の襟首を掴み上げて詰るような入鹿の糾弾。青年は入鹿の顔を見て、困惑に困惑を重ねたような表情を浮かべる。
「お、おんな遊び……?」
「なぁに疑問形で返答してんだよ。あぁ?俺のダチも、餓鬼も、遊び相手ですらない金蔓かぁ?前歯へし折って眼鏡売るぞゴラァ!?」
「うおっ、ぉ!?やめっ……!?」
青年の態度に一層腹を立て、入鹿は青年の襟首を握ったままブンブンと揺らす。荒々しいその行為は意識を朦朧とさせる青年には効果抜群だった。彼は兄達に比べて荒事の得意な方ではない。
「入鹿、止めて下さい!お願いです!乱暴しないで!?」
「無理に決まってんだろが!お縄になっても俺はコイツを分からせねぇと気が済まねぇ!!お前だって、話を聞けば納得するだろうよ!!こいつはとんでもない詐欺野郎の紐野郎だぜ!!?」
雪音の静止の嘆願を入鹿ははっきりと拒絶する。環も今回ばかりは同意で、必要ならば己の立場を全力で利用するつもりだった。二人にとっては雪音を救う事は最優先事項だったのだ。
「紐、詐欺……!?入鹿、幾ら何でもその物言いは限度がありますよ!?その言葉、取り消して下さいよ!?」
「だが断る!!」
入鹿の暴言に向になったように雪音が声を荒げて反発する。入鹿は即答で拒否する。幼子は大泣きを止めない。野次馬は「綺麗な顔を吹っ飛ばしてやれ!!」等と呷る。混沌である。
「何処の馬の骨か知らねぇが!俺のダチ傷つける奴は兄貴に代わって仕置きしてやるって決めてんだよ!分かったかぁ!!?」
任侠染みて堂々とした宣言。長身に荒々しくも凛とした容貌もあって野次馬共は喝采して拍手する。因みに大半の連中は良く分かっていない。充実してる奴が女関係で火傷したので嬉しいだけである。
「いや、格好つけられても……入鹿!人の兄を罵倒して暴力振るうのはいい加減止めて下さい!!」
「黙ってろ、鈴音!俺は……ううん?……兄?」
「お兄さん?」
「兄様?」
鈴音の発言に、入鹿が、環が、幼姫が、各々反芻した。物見見物で顔を出した連中含めて周囲が沈黙する。互いに顔を見合わせる。
「その人は!ウチの三男の!血の繋がったれっきとした兄さんですよ!?……一体、私が誰と会っていると思っていたんですか!!?」
雪音の怒りと羞恥心頭の宣言に、その場にいた者達は全員気まずさと居心地の悪さに視線を逸らしていた……。
ーーーーーーーーーー
『……それで?そちらでも未だ発見にも回収には至らないと?』
それは滲み出る無限大の苛立ちを抑えきれぬかのような震えた声音であった。
「えぇ。霊脈からの気の流入を閉ざした直後には式は破壊されていました。その後の探索でも痕跡はさっぱりですね」
『他人事のように言ってくれますね!!まるで己の責がないかのように……!!』
都の外京の何処かにある異次元化した書店。書店の書庫室にて、机の上に陣取る孔雀は店の住民に毒々しい怒気を叩きつける。当の住民の方はといえば孔雀が捲し立てる話から無用なものを受け流して話の本質のみを読み取っていく。老人は話が面倒で困る。
……因みにいざという時に備えて本棚の上に欠伸する猫又が待機していて、傍らにはこれ見よがしに熊の式妖が控えている。何か熊頭の上で子犬が我が物顔に君臨しているがそれについて気にはしないでおく。いや、この糞犬何で偉そうなの?
『アレがどのような存在なのか、理解出来ぬとは言わせませんよ!?場合によっては鬼月の破滅にも直結しかねぬ存在。手抜からず捜索して欲しいものですわね!!さもなくば、さもなくばぁ……!!』
「…………」
孔雀が荒れ狂う。焦燥に憎悪を混ぜこんだような荒々しい語調での要求。そして脅迫の示唆。ある意味では似合わぬ軽挙であった。
彼の狡猾で悪名高き黒蝶婦とは思えぬような直情的な振る舞い……松重の孫娘はその行為の裏の意味を探りつつ慎重に言葉を紡ぐ。
「……承知しています。しかし、そちらこそどうなのですか?所詮此方は式。そちらの孫娘は直々の参上と聞きます。鬼月の傑人ならば何か痕跡くらいは分からないので?」
ある意味では道理の質問。しかし孔雀の向こう側の存在にとってはそれは嫌味にしか聞こえなかったようだ。一瞬だけ言葉を詰まらせて、呪詛を吐き出すように応答する。
『っ……!某かの気配は感じたそうですよ。残念ながら即座に消えてしまったので正体までは把握出来なかったようですがね!!』
「まさか……彼の鬼月の直系の純血が、そんな?」
孔雀の返答に、牡丹はあからさまなまでに疑る。眉に皺を寄せて勘繰る。嘘を言っているのではないかと問い質す。それ程までに信じられなかったのだ。あの姫の理不尽な才と力ならばもううんざりする程理解していた。一瞬で全てを見通しても良い筈だ。それが……分からない?
『それは此方の台詞ですわ!此方が幾度言おうとも返答は同じ!あの子ったら、何て情けない事を……!!』
癇癪を起こすかのような孔雀の怒声。その振る舞いは、剥き出しの感情は到底偽りとは思えない。信じがたい事であるが此度の案件は鬼月の自作自演の因縁でなければ只者による所業でもないのは明白だった。
「あの鬼月の二の姫を、例え瞬間的にでも欺ける存在は限られます。宮鷹は何か?」
『そのくらい、もうやっていますわ。彼方の家に伺い探りをいれましたが全くの反応無しでしてよ!』
「それはまた……」
随分と手の早い事だと牡丹は思う。宮鷹という敵地といえる場所に足を踏み入れる事自体が修羅場であるのに、加えて放ってあろう追及の数々。先方が怒らぬように、疑われぬように、そして探すように……黒蝶婦らしからぬ無謀であった。例え件の探し物が確かに重要な代物であるとは言え、それを差し引いても所業は暴挙に等しい。
(道理に合わない。いやいや、まさか……。まさか?)
余りの行為に疑念を抱き、思い浮かぶ可能性に牡丹は即座に否定する。
(まさか……ですね)
己が淫魔の阿呆な価値観に引かれているのだろうか?幾ら何でも馬鹿馬鹿し過ぎるだろうに。良い歳した謀略家の頭の中が桃色だなんて艶本でも読み過ぎているのではないか?情けない。
『あの子もあの子だわ!!彼が……鬼月の危機に繋がりかねないというのに、悠然として商人の屋敷に屯して!一体何を考えているのかしら!!?』
「……」
どうやら鬼月の二の姫は眼前の御意見番程には荒れてはいないようであった。恐らくは橘家の令嬢の元。問題はその意図であるが……残念ながら牡丹には分からない。二人の間に何等かの亀裂が?ここに入って協力体制に罅が?
(いえ、そもそも私が彼女とこのような会話を交えているのが可笑しいのですが……)
荒ぶる孔雀とは裏腹に、ふと冷静に事態を認識して思わず牡丹は冷笑する。一体始まりは何処であったか?気付けばあの男を軸に札付きで淫魔擬きにまで堕ちた己が鬼月家という名門の中枢と、このように朝廷やら退魔士に聞かれては不味い話をして、協調して、秘密を共有している……。
(本当に奇妙な話ですね……)
単なる鬼月家の権力争いの駒と考えていたが事はそれに収まらぬ。非才の凡人に毛が生えた程度と思っていたあの男が今では尋常ならざる立場にあり、自身や周囲はそれに振り回されている。そして己はそれを内心で吝かではないと思ってしまっている。
挙げ句には大きな借りがあり、望まぬ形であるとは言え依存までしている有り様で……不本意ながら認めるしかない。本質的には主従が逆転してしまっている。あの男の役に立つ事に満足感を抱いてしまっている。これではまるで都合の良い馬鹿女ではないか!牡丹はそれを自覚した時に大層愕然としたものだ。
……あるいはこれまでの鬼月の御意見番や姫の型破りな行動の数々、その入れ込み様から見るに彼方も似たようなものなのかも知れぬ。難儀なものだ。
『兎も角!貴女にはきっちり責任を持って捜索に当たって頂きますわよ!アレを回収だけならばいざ知らず!同行させて挙げ句に行方が不明等と……!!』
牡丹がそんな事を考えている間も黒蝶婦の愚痴は続いていて、しかし何事も終わりはあるものだ。言いたい事は言ったとばかりに孔雀は一頻り怒鳴り尽くすとそれきりであった。言葉を切った孔雀は、直後には綺麗さっぱり消え失せてしまった。ポンという音と共にその場にはヒラリヒラリと消費された式符が一枚。舞いながら机の上に落ちて、それもやがて燃え消える……。
「……やれやれ。好き勝手言ってくれるものですね」
随分と荒れてくれたが、黒蝶婦が何を言おうともお尋ね者に出来る事は限られる。出来うる限りの捜索はするが……しかしある意味では見事なものである。あの孤児院に忍びこみ、アレを己や鬼月の姫に悟られず盗み出せるとは。
「はぁ……。果たして、退屈で詰まらないと言いつつ手を出したのは一体どういう了見なのです?」
そして牡丹は振り向いて招かれざる客人を出迎えた。長身黒長髪の粘りけのある女を見上げる。垂れ気味ながら鋭さもある眼。薄っすらと鱗のようなものが地肌に浮かぶ肉感的で影のある美女。美女の皮を被った堕ちた化物。纏う濡れ崩れた巫女服は、いっそ淫媚で冒涜的にも思える……。
『グルルルル!?』
今更気付いて主人と侵入者の間に割り込り臨戦態勢を取る熊。判断が遅い。探知能力が不足している。また改良せねばと牡丹は判断する。主人より気付くのが遅い式とは……いや、己の五感が昔に比べて鋭敏になっているのだろうか?
『少なくとも下は凄くプルプルよねぇ?ふふふ、少し弄ってあげたらダラダラと垂らしちゃいそう。それともキュッて締めちゃうのかしら?』
大蛇神の末路というべき怪女は牡丹の身体を観察し終えるとニチャリと笑ってそう評する。全く以てどうでも良い評価である。淫蕩親父のように卑猥でもあった。それなりに威厳のあった前任神が泣いてしまうのではないか?
「貴女……で呼び方は良いのですよね?」
『まぁ、ここまで堕ちて堂々と御柱と言えなんて偉そうに言えないしぃ?御好きにどうぞ?』
「左様で」
雑い軽口による肯定。代替わりしてから性格変わり過ぎでは?と内心で思うが口にはしないでおく。態々指摘する必要はない。口は災いの元である。
「蒼鬼が暫し前に言っていました。連れが出来たと。薄々予想はしてましたがまさか本当に……奇特な事ですね?」
『本当、色々あってねぇ?不本意ながら一時共闘って所?獲物が込み入ってるぽいから迂遠に動かないといけないのが面倒よね?』
「獲物……」
鬼もそうだが蛇もまたねちっこい生態の生き物だ。それが獲物と呼称するとなれば候補は限られる。そして鬼と同行しているとなればおおよその見当はつこうもので……あの男は望んでもない化物を引っ掻けるのが御家芸なのだろうか?まぁ、それは兎も角……。
「点と点が繋がって来ましたね。となれば次は……」
『正解♡』
『( 〃▽〃)ミンナノコエニコタエテサイトウジョウ!!』
『グルルルル!?』
ぽーいっと言う擬音が聞こえそうな投げ方でお空を跳んでいくように落下する白き神蜘蛛。命令してもないのに慌てて両手で熊が受け止めた。馬鹿め、床に落ちて痛い目遭わせれば良かったものを。
『(*´∀`)ウフフ!イモウトハテレヤサンナノネ!ホントウハオネエチャントサイカイデキテウレシイクセニ!』
「源武、其処の水甕の中にでも捨てといて下さい」
『ぐるるる……』
脳に直接語りかけて来るような戯れ言への返答。おいこら、馬鹿熊。命令を聞け。何赤ん坊守る仕草して此方を見る。ウルウル目やめろ。熊頭に陣取る犬に至ってはアハアハ嗤っていた。お前今日飯抜きにするぞ。それと猫、他人事みたいに二度寝するな。
『うふふふ。賑やかで楽しそうねぇ。まるで動物園みたい♪』
「褒めてませんよね?貶してますよね?」
蛇の評価にすかさず突っ込む牡丹。鬼とつるめるのも納得の性格だ。類は友を呼ぶという事か。
『(* ゚∀゚)ワタシノファミリーハアットホーム!』
「人間がいないのですが?」
というか一万歩譲って己と蜘蛛の関係は理解出来るとしても熊と犬は何の立場なのだ?飼ってるのか?そういう意味での家族だろうな?
『賑やかなのは良い事よ?私も早く、沢山家族産卵して明るい家庭が欲しいわね~♪』
「……私達は何の話をしているのでしょうか?」
『(*´∀`*)アカルクアタタカナカテイノハナシ!!』
『ぐるるるー!』
『ワフッ!』
『にゃあ』
実に愉快な家族である。家長は誰だ?あの男か?馬か?蛇が動物園と言ったのも納得だ。動物臭そうな家族だなと思いながら牡丹は眉間を押さえる。因みに自身の体臭も確認した。うん、大丈夫な筈だ。
「……そちらの企みは知りませんが、回収には感謝しましょう」
もう色々枝葉の話について考えるのは止めておく。精神が保たない。取り敢えず貰える物は貰っておく。考えてもどうにもならない事を考えずにおける事は人という存在の美徳だと聞く。逃避行動ともいう。
「それにしても、あの鬼月の姫のいる最中に良く回収出来ましたね?」
『回収……あぁ、そうそう。其処ね?第一声の指摘もそうだけれど、其処については誤解は解かないわねぇ♪』
「誤解、ですか?」
思い出したように蛇は、牡丹の蛇人神に対する最初の呼び掛けについて触れる。誤解?誤解とは何を?いや、まさか……?
「貴女でも……ない?」
自身が式で潜入を試みた時に鬼は言ったものだ。詰まらないと。手を出さぬと。そして去った。それは蛇が介入する故のトンチの類いだと思っていたが……。
「ならば……もしや?」
あり得る可能性に至り、牡丹は愕然として唖然とする。そして蛇を睨む。まさか……あの鬼の言葉は其処まで予見していた!?
『うふふふふ。年季が違うって事なんでしょうねぇ?あるいは猾手段?まぁ、仕方ないわね?』
「くっ……!?忌々しい!!」
蛇の、そして何処かで遊び彷徨っているのだろう鬼の勝ち誇った笑みに思い浮かべて、牡丹は苦虫を噛む。掌の上で遊ばれた気分だった。腹立たしい。本当に本当に腹立たしい!!これでは全員弄ばれたようなものではないか!!
『( ^ω^)イモウトヨ!ソウイウジキニハカルシウムトテツブンヲトリナサイ!!』
「いや、何か勘違いしてませんかねぇ!?」
熊の掌に君臨する白い姉蜘蛛の的外れで的を射た助言に対して、淫魔な少女は絶叫に近い突っ込みを入れていた……。
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「ふふふ。また何ともまぁ奇縁な事でしょうねぇ?人の世は殊の外狭いものと見えますわ」
都の宿場町の一角で、あるいは外京の書店にて巻き起こる騒動と同じ頃、傘を差す貴人風味の女は人の波の中で嗤っていた。
こつこつこつこつ、優美な所作で歩み、クルリクルリと傘を回し戯び、大層滑稽なものを見たように口元を吊り上げて笑みを溢す。獰猛な肉食の獣染みて美貌を歪めて……そしてふとそれを思い返すとその嘲笑を苦笑に変えて、まるで乙女のように奏で囀ずる。
「わくわばに、兄妹の仁、憐れなり、廻りし運命、今はいづこに……なんて、ね?」
先程ぶつかった誰ぞの妹を思い返し、遥か過去の『記録』を思い返し、女は歌った。他人事のように悠然に。戯曲を鑑賞するように愉快気に冗談めかして。
否、事実彼女にとっては全て他人事としても良いのだ。義理は既に過去完了形で返した。帳尻が合わさったのはこれで証明された。気にしていた答え合わせはこうして為された。故に彼女にはこれ以上背負うべき責任は皆無なのだから……。
「……なぁに呑気に歌ってんのさ。妹を出汁にして再臨された癖によぉ?」
いつの間にか合流してきた蒼い鬼が詰る。両手に多種多様な串焼きを持って、気ままに食らいては首に下げた瓢箪の栓を器用に抜いて中身を呷る。ぱあぁ、と昼間から酒臭い吐息を吐き捨ててニタニタ笑う。
「流石に抜け目がないよなぁ?食らわせる血肉に記憶を刻むたぁ、今回だからこそのやり方さぁな」
死せる己の血肉に己の記憶の記録を埋め込んで、捕食者の血肉として一体となりて刻を越える。大霊脈に繋がりし宿主から良質で膨大な霊気を拝借する事で種は芽吹く。再臨する。本来ならば余りにも確実性の低い手段。先の事を知る故に成しえた裏技だ。流石は狡猾なる妖である。機会を上手く利用したものだ。
「心外ですわねぇ。全ては家族のため、そして懸念は正解……」
愚かで愛すべき妹共の有様を思い、一際可愛がっていた末妹を思い、深く深く嘆息……。やれやれだ。己が隠れる事になるのを受け入れて折角みっちりと教育してやったのにこの有様とは。このような不安定で情けない様でも現に再誕したのは正解であったと確信する。
……全くあの男め、己の心臓といって良いあの蜘蛛を何という扱いしてくれている事か。己の命脈を他者に預けて放置して、嘗ての雪山での要求もそうだが、死ぬのが趣味なのだろうか?
「けけけ。まぁ其処がアイツの魅力の一つでな?……それで?どうする?妹連中の扱いについて、あの亡霊の所に直訴するか?」
「冗談?今の私が顔見世して見なさいな。頭の中どれだけ弄られるか知れたものではないわよ?」
何ならば、あのくたばり損ないが最愛の末妹をそれとなく誘導して都のカチコミさせた事を黒狐は察していた。全く己がおっ死んだ途端に遠慮なくしてくれる事である。勿体ない精神だとでも言うのだろうか?
「じゃあ?」
「暫し、お邪魔させて貰っても?蛇に淫魔と、随分と愉快な呉越同舟をしているみたいだし……今更一匹狐が加わった所で、寧ろ良い賑やかしになると思わない?一応同郷?になる訳ですし」
「入れてやると思うの?」
「つもりがないのならこの
狐の言葉は実に辛辣だった。
昔々、何気なく狐が鬼に溢した戯言。遥か過去に仕込まれた細やかな趣向に対する間接的思考誘導。それが布石……成る程、白狐の予定調和の自作自演は確かに詰まらなかっただろう。介入しないのは当然で、それすらも黒狐にとっては予見していた行動で、結果的には敷かれた道を諾々として辿る事になり果てた。そのような行為は鬼の嫌う小賢しさである。まるで鬼の矜持を侮辱するような所業……。
『俺を嵌めた?』
『まさか。心を込めて、善意を以て、上奏して、献上差し上げただけよ?』
大通りで足を止めて鬼と狐は相対する。互いを見やる。満面に笑みを浮かべて、殺気を滲ませて。
『……』
『……』
人々の喧騒の中で、二体の間にだけ静寂が流れていた。一瞬後には何も知らぬ周囲を豪快に巻き込んだ殺戮劇の幕が上がっても可笑しくない一触即発の剣呑。
沈黙と静寂はひたすら続く。ひたすら続き、そうして……始まりあるものには終わりがあるものである。
『……がははは!』
鬼は腹を抱えて豪快に高笑いした。
『ははっ!はははははっ!はははははっ!はーぁ!!……まぁ、法の遡及適用は法度だからなぁ!ここは一つ貸しにしといてやるよ!』
涙が浮かぶ眼を拭い、鬼は牙を見せて狐に宣う。
『なぁに。所詮は過ぎ去りし過去の細事さ。んなものより今を楽しまねぇとなぁ?後ろ向きの人生ってのは詰まらんものよ。そうだろう?』
『ふふっ。心から同意致しますわ』
『はははははっ!そうだろう?そうだろう?陰気臭いのは似合わねぇさ!!』
屈託のない快活を装い、傲慢に俺様法を翳して判決を下した鬼と、それを謹んで承る狐の軽薄なやり取り。それは欺瞞であり道化であった。正しく滑稽であった。
狐は知っている。この鬼ならばこのような形でならば謀っても見逃すだろうと。痛い過去を掘り返されるのは嫌がろうと。誤魔化して流してしまうだろうと。そして鬼もそれを察していた。察した上で乗せられてやった。現実を逃避するのは鬼の専売特許である。内に禍々しい殺意を抱こうと欠片も素振りは見せやしない。今はまだ、その時ではない……。
『んじゃあ、折角だ。いっちょ二柱で歓迎会と行こうか?』
『名案、といいたい所ですが銭はありまして?残念ながら手持ちがありませんので』
『なぁに。俺にはこいつがある』
『それは……木札?』
鬼が見せつけるのは漆で黒塗りされたものに金箔と朱にて紋を刻まれ彩られた豪勢な札であった。恐らくは何等かの呪いも仕込まれている。
『何ですか、それは?』
『ぶらっくかーど』
『ぶらっくかーど?』
『そっ。ぶらっくかーど!』
鬼が決め顔で偉そうに語るに、この札を提示すればとある商家経営の系譜店での支払いを全部代替してくれるらしい。その他にも色々と特典があるらしいが……まぁ、鬼としてはそんな枝葉話については真剣に聞いてはいない。
『大事なのはこいつ見せれば系列の飯屋や酒場、茶屋で幾ら呑んで食ってしても金払いしなくていいって話でな?けけけ、凄いだろ?』
豪商橘家の令嬢の提案として、主に富裕商人向けに始めた木札による後払い制度……まだまだ試行段階であるが、常日頃から大金を持ち歩かなくて良いというので一部からは評価されているという。というかこの札自体がその橘の令嬢から拝借したものなのだとか。
『手形か、ツケ払いみたいなものですか。日常生活ならばまぁ、これでも良いのでしょうね。しかし……よく拝借出来ましたね?気付かれたら即時利用停止になりそうなものですが?大丈夫なので?』
『いやいや、こいつは貰ったの』
『……それはまた酔狂な』
狐はまだ何も知らぬが、それは令嬢による鬼への融和策であった。彼女は鬼の気紛れ一つで己が容易に殺されるのを知っていて、木札には鬼に向けた供物という側面があった。生存を懇願するための貢ぎ物だ。
……というのは表向きの理由である。普段から金遣いが荒ければ多少支払う額面が増減しても気にされぬものだ。令嬢は己の愛する男のために、自分宛て決済契約の黒木札を更に三枚用意していた。何だったら全裸首輪土下座して木札を献上する時を今か今かと待ちかねていたりするが、当の男は知らないし、鬼も狐も気にしない。
『んじゃ行こうぜ!!ぎゃはははっ!今日も羽目を外して豪快に呑んじゃうぜぇ!!』
げらげらげらげらと、豪放に笑いながら鬼は茶屋向けて歩み出した。その昔から変わらぬ、あるいは別人のように変わり果ててしまった有り様に呆れと感嘆の入り交じった溜め息を吐く狐。それはそうとして折角のタダ飯を逃す手はないので当然の如く後に続いていく。
……そして、今一度足を止めた狐は振り向いた。愛しい妹がいるであろう方角を見据えた。思い出したかのように、言葉を紡ぐ。
『こひこがれ、あさき夢見し、酔いもせず……醒めぬ夢なく、見果てたり。ふふふ、ならば次は現世に酔いしれる番。飽きて厭きるまで、精々洒落込みましょう。そう思いませんか、白綺?』
嗜虐と期待と慈愛に満ちた手向けの言の葉を送り、言霊たる呪詛の唄を奏で響かせる。そして、黒き狐は雅にその歩みを再開する。
高くキッと伸びたその美しき背姿は、しかし鬼共々気付けば雑多な人の海の中に埋もれ、何時しか露の如く消えてしまっていた……。