和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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第一八八話

 馬上にて蛍夜環は困惑していた。事態の変化に付いて来れないでいたのだ。

 

 環は何処まで本人が意識しているかは別として恵まれた幼少期を過ごして来た。育ての親も兄姉達も環を身内として愛情深く育てたし、郷は豊かで飢えとも貧困とも無縁だった。常に皆がゆとりの中にいた。分かち合い、助け合い、感謝して感謝される事は当然だった。身分の壁は低く、敬われはしても卑屈に従う者はいなかった。妖の危険なんて、欠片も実感した事がない。

 

 そんな環境で育った故に、教育を受けた故に、環はある意味では異端な価値観を有していた。人を命令する事を好まず、人を従わせる事を好まない。ましてや目下の者すらも尊重する……高貴な者達が眉をひそめて珍獣を見るような思考を、しかし環は自然としていた。

 

「ねぇねぇ?伴部殿は元々下人って本当ですかー?」

「家人扱、ですので」

「じゃあじゃあ。やっぱり興奮しちゃったりしますー?だって今までだったら邪魔だ塵!な娘っ子が今じゃあこうやって媚びて来てるんですよー?場景的に中々嗜虐心をそそりませんかー?」

「そそりませんね」

「……ねぇ、はな。私ちゃんってそんなに魅力なかったりする?」

「……かやがんば。攻め方変えて、再挑戦」

「攻め方変える前に変えるべきものがあるのでは?」

 

 ……故に、環はその眼前にて繰り広げられる先行する者達の会話とその距離感に困惑していた。というか誰だと内心で突っ込みを入れていた。

 

 十薬家の管轄する地域を巡回するための宿場町からの出立。郡都に十薬家本邸、その他幾つかの街を巡る行程の最初の一歩……いつの間にかその隊列に交ざっていた見知らぬ少女二人。それが気付けば当然面で己の相方に付き纏い、あまつさえ馴れ馴れしい態度……。

 

 他者の人間関係に彼是と首を突っ込むのは例え目下相手でも良くないと環の倫理観は認識している。しかしこれは……その光景に、どうしても己の自宅を土足で盗人に荒らされたような不快感を抱かずにはいられぬ環であった。

 

「一体、あの人達は誰……?」

「我が一族に所属する若人衆であります」

「うわわっ!?」

 

 傍らで突然響いた返答に環はびっくり仰天する。振り向けば先日宿場にて突撃訪問して来ていた十薬の当主がいた。同じように馬に騎乗している彼は賑やかに此方に一礼して続ける。

 

「各々かや、はな、と申しまする。至らぬ所有れど共に退魔の役務を果たして来た士達であります。どうぞ多少の詰めの甘さには御容赦下さいませ」

「はぁ」

 

 当主の言葉に環はそのように答えるしかなかった。というか知りたい事は其処ではない。

 

「……此方に、挨拶はありませんでしたね?」

「態々団長に会わせる程の者達ではないと思いましたものでして。代わりに家人扱殿にご紹介をした次第。立場上顔を合わせる機会は多いでしょうからな」

 

 平然と、悪びれる事もなく、悠々として当主は答える。ここまではっきりと堂々と言われては環としては反発する訳にはいかなかった。しかし、どうしても引っ掛かる物を感じる。探るように、環は更に口を開く。

 

「えっと。距離が、妙に近い気がするのですけれど……」

「積極的に交わるように彼女らには命じております故。……残念ながらお気に召さぬようでして、あのようにつれなくあしらわれてしまっている有り様で御座いますが」

「積極的に……」

 

 心底残念そうに嘆息する当主。その言に環はその意図を測る。

 

 どういう訳か、十薬の当主殿は彼を気に入っているように見えた。いや、それ自体は納得出来るし誇れる事ではある。しかし、つまりあれは……。

 

「見合い……って訳じゃあないですよね?」

 

 恐る恐るとした問い掛けに、しかし当主は目を丸くして、次いでははははと気持ちの良い笑い声を上げる。

 

「いやいや、流石にそのような事は御座いませぬ。勝手に他所の家の者に見合いの場を設けるなぞ、無礼でありましょう?」

 

 家人は仕える退魔士家の半所有物である。下人よりも遥かに権利があり、ある意味で特権階級でもあるがそれでも勝手に婚姻するなぞ言語道断である。それは家人「扱」もまた同様。仮にそれを望むならば事前に鬼月の本家当主に話を通す必要があろう。そしてそんな事実はない。故に有り得ない……十薬家当主の淀みなき言葉に嘘はないように思われた。

 

「そ、そうですか……」

 

 環は密かに安堵する。安堵して内心で困惑もした。己がどうしてそんな感情を抱いたのか不思議に思ったのだ。この前の温泉で入鹿についての誤解は解けたので別に問題はない筈なのだが……。

 

(御兄さん、だから?)

 

 彼は己とその友を弟妹みたいに思っているのかも知れないと言っていた。あるいは己もそれに引き摺られて彼を本当に兄のように思えてるのかも知れない。故郷の家族とはもう簡単には会えない。家族恋しさの代用品として彼に家族……兄姉のような意識を向けてしまっているのかも知れない。となるとこれは兄を取られる事への嫉妬なのだろうか?

 

「……」

「蛍夜殿?」

「あ、いや……そうだね。配慮は感謝します。けど、どうせなら紹介して欲しかったですね」

 

 礼は逸しず、しかし微かに刺を添えて環は要望した。「後程、伺わせましょう」と当主は恭しく応じて、環もまた再度謝意を口にする。

 

 仲良く出来たらこの名状し難い心中も解消されるだろうかと思いながら……。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー

「どうやら良く巡回をしている模様。感服致しました」

「この辺りの街道はウチら二人で廻ってるよー」

「……それは結構」

 

 騎上、宿にて郡司の代理から貸し出された郡地図の写しと実際の地理を見比べながら十薬家管轄の地域を回っていく。その途中で称賛の言葉を口にして、すかさず添うように傍らで騎乗していた童顔巨乳娘のアピールに己の不用意な発言の失敗を悟る。売り込みに余念がない。げんなりとする。うんざりとする。

 

(しかし、仕事は確かか)

 

 称賛は半分儀礼であるが、逆にいえば半分本音の言葉であった。

 

 これまで見回った領地の中で、十薬の担当地は一際整備されていた。妖は幼妖すらも一度も遭遇していない。それだけならば事前に掃除した可能性もあるにはある。しかし郡衙に要請して取り寄せた記録、そして旅籠街の商人や旅人からの聴き込み、それらを参照すればこれが平常通りである事が分かる。十薬家は自家が管理を命じられた領域における仕事を十分以上に果たしていると思われた。

 

 十分以上に果たしている。その事に間違いはない。だが……内においては見えぬものはあるものだ。

 

「何か、問題?」

「……あの山岳向こう側の巡回は?」

 

 地図を見下ろしていると、いつの間にか頬(面)が当たりそうな程至近に馬を寄せていた今一人の付き添い人。陰気気味で無口気味のスレンダー娘に俺は一瞬嘆息して尋ねる。情景を見つめ、対応する地図の一角を指して、業務について尋ねる。

 

 俺の眼前、地平線の彼方にひょっこり臨み、十薬家と他家の管轄地の境界を跨がる山脈……其処に街道はなく、当然村の類いも記載はされていない。僻地である。

 

「……他所の領域に無断侵入は厳禁」

「つまり、殆ど足を運んでいないと?」

「……」

 

 スレンダー娘の方、はなは沈黙で以て問いに答える。俺は予感に歯を食い縛り、苦虫を噛む。

 

 領域の境界……とは言うが地理測量の技術が未熟である以上、そして測量自体が困難な険しい山脈がある以上、精密な線引きは出来まい。事実、地図の境界線を見ればこの山脈に跨がる地域のみ明らかに適当に線引きされている事が分かる。曖昧な地理、そして曖昧な境界線……しかも、向こう側の管轄する家を確認すれば十薬家よりも格上の御家様だ。彼方も面倒事は御免と思っているのか調べる限り街道も、村も、樵小屋すら記載されてはいなかった。

 

 アンタッチャブルのトラブルの種……お互いに距離を取って円満にやり過ごそうとしている事が地図からも見て取れる。そして、十薬の者がそうであるならば、先方も同じだろう。下手に人を送って管轄を越えて騒動は厭う。即ち、巡回の盲点である。

 

「あー、成る程ぉ。確かにこの辺りは控えるようにとは言われてますねー」 

 

 いつの間にか空いてる方の頬(面)に寄って来て覗き込むように地図を見やるかや。俺は面の下でジト目となるが……それはそれ。これはこれである。何にせよ、仕事は責任を持って携わらねばならぬ。

 

 態々指摘せずさっさと領内を抜けても良いが、そんないい加減な仕事が回り回って誰かを殺すのだ。あるいは、己の命を、仲間や家族の命すらも。

 

「当主殿に聞かねばなりませんね」

 

 地図を一度片付けて、手綱を引いて馬を引き返させる。隊列を逆走し、十薬家当主の騎馬の元まで馬を駆けさせる。何か背後から付いて来る気配は無視しておく。

 

「御話し中の所失礼……宜しいですか?」

 

 近付く事で、当主が環と言葉を交えていた事に気付く。傍らで護衛として徒で付いていた入鹿を見下ろす。その反応から不穏な内容はなかった事を理解して、一礼する。当主と環、双方に伺いを立てる。

 

「……何か問題かい?」

 

 環が当主の目配せ、了承の返答に頷き問い返す。俺は馬から降りると地図を広げて説明をしていく。

 

「大変失礼な事ではありますが……」

 

 俺は慎重に言葉を選んで所見を述べていく。内容の意味は同じでも言い回しと表現次第で相手の受け取る印象は変わるものだ。態々相手に恥をかかせて憎まれる必要はない。十薬の仕事を褒め称えつつ本題を切り出していく。

 

「……即ち、あの一帯に懸念があると?」

「可能性の話ではありますが」

 

 彼方の家と協議した上で一度調査でもした方が良いだろう……そんな事を俺は意見する。

 

「非礼をお許し下さいませ。懸念の指摘も此度の役目故」

「いやいやいや。誠に痛み入る次第であります。身内で納得しているとどうしても問題を問題と思わぬようになってしまいますからな!外部からの指摘だからこそ分かるものもあろうと言うもの。……言われて見れば、確かにその通りで御座いますな!」

 

 ウンウンと何度も納得したように頷く当主。感謝の言葉すらも口にするのは流石に世辞であると思うが……世辞だよね?

 

「……して、いつ頃調査に向かわれるので?」

「……はい?」

 

 十薬家当主の即断の問いに、俺は締まらない返答を漏らす。

 

「えっと、それは……」

「妖がいるのならば、速やかなる殲滅は必須ですからな!……しかして我等のみでは調査にも根回しは不可欠。其処を家人扱殿の御厚意。お恥ずかしながらお頼み申しあげましょう!さぁさぁ遠慮なさらず、調査に必要な物を申して下さいませ!管轄地に纏わる問題であれば我が家の全身全霊を掛けてでもこれを支援致しましょうぞ!!」

 

 困惑した俺が誤解と勘違いを解こうする所に怒涛のように叩きつけられる当主の言。

 

「いや、私は別に……」

「そうでしたな。案内役が必要でしょう!……ふむ。かや、はな!お前達は案内と側仕えとして同行するのだ。分かったな?」

「いや、ちょっと待てよ」

 

 取り敢えず勢いに任せた当主の画策向けて、俺は語録の禁断の二度打ちをするのだった。

 

 ……因みに最終的には環も言いくるめられて当主の提案通りに三人で調査に行く事になったのをここに記述しておく。

 

 こ、こんなの納得出来ない……!!

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

「……何やら外が騒がしいですね」

 

 幌を張った荷馬車の内での、蛍夜家仕の女中の言であった。胡乱な視線を外に向ける。途切れ途切れに漏れ聞こえる限り妖の襲撃とかそういう内容ではなさそうだが……。

 

「どうやら伴部様が別れるそうです。地元の御方々と共に調査を行うのだとか」

 

 耳を澄ましながら、遠方の不明瞭な会話を聞き耳しての鈴音との同乗者の言葉である。

 

「耳が良いですね」

「良く言われます。恐らく目が悪い分意識が向くからかと思います」

 

 当たり前といえば当たり前の盲目の同乗者の返答であった。実際、彼女が足音だけである程度誰がどの方向にどの程度の距離にいるのかが認識出来る事を鈴音は知っていた。

 

 鈴音が完全の盲目の少女……毬とこのように会話を交えるようになるのは必然であっただろう。共に鬼月に仕える者に仕える身の上である。寧ろ、此度の機会に漸く言葉を交えるようになったのが遅いくらいであった。鬼月の屋敷や宿泊先でも、毬はまるで秘蔵されているかのように人目に出る機会は少なかった。

 

(まぁ、当然ではありますか)

 

 盲目で、病弱で、脚が悪い娘なぞ弱者以外の何者でもない。下手に外に出しても怪我をするのがオチで、もっと酷い目に遭う事もあり得た。弱者は何時だって食い物にされるものだ。寧ろ、手厚く守られている毬の状況は特異ですらあった。

 

(態々連れて行くのも、何か理由があるのでしょうかね)

 

 以前から話には聞いていた。彼の下人が手元に置いている娘の話はたっぷりの住文化と共に。鬼月の女中と雑人達は良く蔑んでいたものだ。卑しい下人の分際で欠片の役にも立たない小娘を飼っていると。卑しい雄がもっと卑しく無能な雌を手籠めにしていると。穀潰し、解消用の穴を飼育していると。幾ら払えば使わせてくれるのだろうか等と冗談半分に嘲る者もいた。此度の旅に態々連れ出すのも地元のを使って病気になるのが嫌なんだろうと陰口を叩く者達がいた。

 

 正直自分は半信半疑であった。彼の面男を侮蔑する訳ではない。その性格は理解している。恩義もある。しかし……男は男である。鈴音は郷で幼子と思っていた少年が手淫していたのを見てしまった事があるし、何なら郷で彼自身がやっている事を聞いてしまっている。

 

 男が一皮剥いたら獣の性質を秘めている事はこれまでの経験から良く良く分かっている。人が人を助けるのは余裕があればこそで、余裕がなければ其処に何らかの代価はあるもので、人は誰かを慈愛しながら別の誰かに何処までも残酷になれるものだ。だが、これは逆に……。

 

「お人好し、とでも言うんでしょうか」

「……?何の事でしょうか?」

「いえ、独り言です」

 

 つい漏れ出た嘆息に首を傾げる盲目の娘。鈴音は即座に話題を打ち切り呆れ果てる。我ながら呆れたものだ。入鹿の話で分かりきっていた事だろうに。

 

 ……ここまで見る限り、大層に自己肯定の薄い生き難そうな少女であった。か弱く、無力で、愚かで、受身で、健気で、献身的で、そして故に愛でやすい。飼うのにも、利用するのにも都合の良さそうだ。まるで家畜のような扱い易さを思わせる。同時に、その素振りは何処までも幸せそうに思われた。

 

 そうだ。使い易く、扱い易いとは言えそれは喜怒哀楽がない訳ではない。辛いものは辛いもので、痛いものは痛いものだ。それは誤魔化せるものではない。毬という娘はどれだけ愚かで無知でも、価値観が狂っている訳ではない事はこれまでの会話から実感していた。仮に生存のためだけにその身を差し出していればもっと会話に陰があっただろう。一時期彼方に居候していた入鹿の話の通りで、確かに疚しい所はないようだ。少し箱入りに思える所はあるけれど。

 

(過保護……というのは易いですか)

 

 不必要に籠の中で加護するのはそれはそれで良くはない……とは言えそれは健全な肉体なればこそである。毬程に弱い存在には寧ろそれくらい守らねば取り返しがつかなくなるのではないかという印象を受ける。

 

「……家人扱殿が離れるとなると、やる事がなくなりますね」

「本来なら兄だけでも同行するのが筋だとは思いますが……多分お連れしないのでしょうね」

 

 話題を戻し、兄妹の予定について触れれば毬は自嘲する。申し訳なさで一杯といった態度だった。

 

「余り気にしない事です。団から離れて任に就くとなれば危険があるという事です。御兄様は別に武道を学んでいる訳でもないのでしょう?万一を思えば同行せぬ方が賢明ですよ」

 

 慰めるように鈴音は道理を説く。荒事に足手纏いが付いていっても寧ろ主人を危険に晒すものだ。己に置き換えても入鹿なら兎も角、自分が役に立てるとは思えなかった。きっと留め置かれるだろう。主人を信じて、帰還に備えるだけしか出来まい。

 

「……そう、ですね。確かに、その通りです」

 

 沈黙。納得。しかし紡ぐ言葉には葛藤があり、無力感に満ちていた。

 

「……確か、普段は家事の手伝いをしているのでしたか?」

 

 これまでの会話で洗濯物や布団の整頓、床の掃除に裁縫等をしていると鈴音は聞いていた。

 

「はい。とは言え主体は兄ですので……手伝いをしているというよりも、させて貰っているという方が近いかも知れません。何もせぬままでは穀潰しになってしまいますから。何か、他にお役目があると嬉しいのですけれど」

 

 手揉みして、気まずげに答える毬。実際、彼女の果たしている家事は人一人を余分に養うのに必要な支出に比べれば遥かに不足していた。

 

「失礼ながら、人伝えに聞いた所音楽や遊戯が得意であるとか?」

「恐縮です。仕事が出来ないのに遊びばかりで……」

「あ、いえ。別にそんな意味ではなくて……っ!」

 

 其処で入鹿からの話を思い出して尋ねれば、意図を誤解したのか酷く落ち込んだように毬は言葉を震わせる。慌てて鈴音は発言を補足する。

 

「確か、家人扱殿も楽しんでいたとか?」

「……お恥ずかしいながら、琴の音を良く楽しんで頂いておりました。双六や囲碁、将棋等も御相手を」

「腕前が良いとか?」

「皆さんと違って暇ばかりありますから……それが、何か?」

「いえ、折角です。少し師事をしても?」

「師事、ですか?」

 

 困惑も含んだ反芻は当然の反応であると女中は思う。同時に意識がそちらに向いて落ち込みようが持ち直したのも見抜く。そして続ける。

 

「琴も遊戯も、かなりの腕と聞き及びます。どうせやる事がないのでしたら教えて欲しいと思いまして。そうですね、少しは授業料を払えますよ?」

「授業料……」

「えぇ。私も少しでも良い所に嫁に行くなら幾らか教養が必要……というのは兄達の助言でして。それに遊戯の方はそちらも腕を磨けるのではないかと。それに報酬があれば、幾らかは肩身も楽になるのでは?」

「成る程……」

 

 鈴音の提案を、眼を閉じたままの娘は口元に手を当てて吟味する。首を捻り考え込む。

 

「兄と……相談したいと思います。ですが、多分兄も賛成してくれると思います」

 

 そしてふふ、と柔らかく微笑む盲目の少女。

 

「お金を稼げれば、少しは役に立ってると思ってくれるでしょうから」

「……」

 

 慈母のような微笑に、思わず溜め息を吐いていた女中。甘い。蕩けるように甘い。甘えたくなる仕草。人によっては、特に女からすればあざとく思えて嫉妬や不快感を抱くかも知れないが、少なくとも鈴音は魅了されてしまった。これは駄目だ。癖になりそうだ。人を堕落させてしまう。それなりに愛らしい見立てだが、それ以上に一挙一動が余りにも麻薬だった。

 

「……鈴音様?」

「え?……こほん。いえ、それは良かったです!」

 

 本来ならば細かい条件、報酬についても詰めていきたかったがここは棚上げしておく。其処まで拗れるような相手には思えなかったし、何よりも落ち着きたかった。咳払いしてから笑いする。

 

(……ここまで来ると、逆に良く平静でいられましたね?)

 

 がさつな入鹿は兎も角、あの下人が本当に何もない事にいっそ驚嘆してしまっていた。不能?いや皮つるみしていたからそんな事はない筈。まさか男色という訳じゃあ……ちらほら美少年と仲良く話している事を思うと否定出来ない気がしてきた。まさか?

 

「……いや、まさか」

「えっと……鈴音様?何か、ありましたか?」

「あ、いいえ!何も……その、考え事をしていたものですから!」

 

 毬の呼び掛けは先程よりもずっと困惑の強いものだった。鈴音は再度取り繕う必要に迫られて、適当に誤魔化す。

 

「はぁ。……何か粗相でもしたのではないかと思って心配してしまいました。大丈夫、ですよね?」

「勿論です!」

「本当に、ですか?遠慮なされずとも……」

「まさかそんな!何か……そういう事が?」

 

 大層不安げに、何度も尋ねる毬の態度に疑念を抱いて思わず質問する。毬は眉を萎れるように凹ませて理由を口にする。

 

「いえ。……昔に比べて伴部様や兄が距離を取っているような気がしまして。尋ねてもはぐらかされてしまいまして。何か此方に問題があるのでしたら仰って頂けたら直せるのですが」

「距離を取る、ですか?」

 

 ここに来て、眼前の少女について不穏な話になって鈴音は警戒する。己の観察眼で見る限り何も問題ないかと思っていたのだが……やはり邪な何かがあるのだろうか?

 

「はい。昔は暖を取るのに同じ布団で寝たり、お風呂を共にという事もあったのが今では殆ど……厠や身体拭きは御手間なのは分かるのですが。やっぱり大きくなると邪魔なのでしょうか?」

「布団、お風呂……」

 

 悲しげに息を吐いて悲嘆する毬と、口をあんぐりと開ける鈴音であった。因みに吐息をしたと共に装束の上からでも分かる盛り上がりが揺れた。何が大きいんだ。何が?

 

「……」

「……鈴音様?何か、見ているのですか?」

「いえ、何も……」

 

 余りにも強く凝視していた故か毬に視線を気取られる鈴音は、しかしそれを指摘されて誤魔化した後もじっとそれを見続けていた。己の胸元に手を当てて。というか布団と風呂っておい。待てよ。今でも少しはやってるというのか?

 

「は、はぁ。私からたまにおねだりしまして、どうしてもと……特に寒い日等は一人ですと冷えまして」

 

 毬の無知を極めた物言いに、鈴音は情景を想像する。この愛玩動物みたいな娘と混浴……そう言えば、先日もアレは覗き魔案件をしていたか。本人と主人はあくまでも事故と語っていたが、果たして?主人は御人好しで言いくるめられ易い。

 

「……やっぱりそちら目的じゃないですよね?」

 

 ジト目で再び鈴音の脳内で彼の男の評価は大恐慌水準で下落するのだった。

 

 因みに隊列から離れた彼が娘二人を連れ立った事を聞いて更に暴落するのだが……それは評価される本人の与り知らぬ事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー

「くしゅ!?この悪寒は……?」

 

 馬から降りた俺は嚔と共にブルリと全身を震わせる。嫌な予感がした。何か大事なものを失いつつある気がした。具体的には兄としての尊厳とか。今まさか、弟妹達が今更俺を蔑むような切っ掛けは無い筈であるが……。

 

「夏風邪ですかー?いけませんねー、夏場だからって薄着で寝ると冷えますよ?」

「肌身を温めるの肝心。同褥すれば温かい」

「あ、そういうのはいいんで」

 

 左右をがっちり固める案内役二名の、心配を装った下心の塊の言葉を俺は受け流しておく。夏にそんな事したら温かいどころか汗だくになるだろうがおい。

 

「冗談は程々に……して。どうですか?」

 

 さて。咳払いして会話を仕切り直し、俺は案内役二人に尋ねる。眼前に広がるのは鬱蒼とした森。何物の気配もない。獣すらも、虫すらも……。

 

 「一応、私らの管轄だからさぁ。面子は気にしてくれない?」

 

 俺が向かおうとすれば、それを押し止めてのかやの要望。はなもまた、コクリコクリと頷いて同意する。

 

「……承知致しました」

 

 郷に入りては郷に従う……というのはあらゆる物事に適用するべきではないが、少なくともこの件については同意するべきだろう。此方は重箱の隅をつつく厄介で招かれざる御客様である。分を弁えねばなるまい。

 

「んじゃー。お先にー、ほい!」

 

 言うや早くの童顔恵体の天真爛漫娘の先攻。パッと背負っていた弓を構えて放てば風景に擬態していた妖の頭をぶちまける。慌てて残りが欺瞞を捨てて迫り来るがそつなく弓射して仕留めていく。身体強化した腕力による強弓の剛弓はエグい音と共に妖の急所を寸分違わず射貫く。

 

「ほりゃ、適度に数は削ったよ?はな、こんなのでいー?」

「んっ」

 

 かやの言葉に端的に応じてはなが前に出る。そして取り出す得物は……。

 

「素手?いや、あれは……」

 

 妖虫らしく素早さで迫る数体の怪物相手にただただ佇む娘は、しかし直後に何かを振るえば飛びかかって来たと同時に怪物共が粉砕される。空を切り裂く音が確かに響く。

 

(衝撃波、ではないな。恐らく呪具の類いか)

 

 葵の扇を振るっての風撃とは明確に違った音の響き。認識阻害の類いの呪いの仕込まれた武具なのだろう。妖の損壊具合からして刃物ではなく打撃武器だと思われた。五感の優れる妖すらも間合いを見極める事が出来なかった所を見るに視覚以外も欺瞞出来ているらしい。

 

 遠方から弓にて、近接の壁が不可視の武具にて弾幕を越えて来た漏れを叩く。連携は上手くやれているらしい。動きと会話を見る限り、基本的に二人組でやっているというのは本当なのだろう。

 

(尤も、これが普段通りとは限らんが)

 

 他所向けの戦い方と本命のそれが違うなんて事はこの業界ではザラである。葵は普段扇を使うが全力だと素手の殴打であるし、雛にしても刀はあくまでも魔法の杖宜しく触媒に近いものだ。後先も周辺被害も考えなければ己の内から直接滅却の濁流をぶちまけた方が手っ取り早い。彼女らのそれが俺や環がいる故の仮の戦い方という可能性は十分にあった。

 

 まぁ、何はともあれである。周囲の警戒をしてくれているという事はそういう事なのだろう。此方もやるべき事はやろうかね?

 

「……小妖を計十体を瞬く間に。お見事です」

「褒めてくれて有り難うねー。じゃあ挿れる?」

「あ、そういうのはいいんで」

 

 場面転換とせぬ内の禁断の台詞二度打ちをして尻突き出し腰振りダンスの青姦提案を受け流し、俺は骸を検分する。具体的には腹を捌いて腑分けする。内容物を鑑識する。

 

「動物、植物、それに妖肉らしい欠片ですか。即ち……」

「他にも奥にいる?」

 

 恐らく得物を仕舞ってやって来たはなの言に俺は頷く。

 

「其処まで広い一帯ではないので大物が出る可能性は低いですが、相応の数はいるかと。虫妖怪は繁殖しやすいですし」

 

 そして腹の中を見る限り共食いはしていない。つまりは妖肉は別種のものという事だ。さて、まだ其処まで数は増えていないからというパターンを願いたいものではあるが……。

 

「どう致しますか?」

「どうって……何が?」

「このまま進むか、退くか、です」

 

 検分を終えて骸を集めて処理しながら俺は案内人二人に質問する。妖の屯する一帯、危険性は不明瞭。装備と人を整えて改めて……という判断は決して惰弱ではない。

 

「え?そこ考える所?退くなんてあり得なくない?」

「仕事は真面目に……」

「成る程」

 

 即答での二人の進軍判断。何ならば一時撤退なぞ欠片も考えていない様子に俺はこいつらが十薬の人間なのだと再認識する。当主が当主ならば下も下である。……まぁ、初対面で尻向けて拡げて来るようなのを思えばある意味妥当ではあるのかも知れないが。

 

「承知しました。……偵察と、報告の式は宜しいでしょうか?」

「りょーかい。じゃあ、やるねー?」

 

 俺の要望に応じて童顔弓使いの方が鳥形の式を放つ。一枚は此方が歩んだ道程の彼方に、残り数枚は森の中に浸透するように……。

 

「馬は停めておきますよ?この森では疾走は出来ないですし。……それで宜しいですか?」

「んっ。問題なし」

「いいよー。どうせ盗っ人なんて通りがからないだろうしー?」

 

 俺が近場の木々に馬を留め置けば二人も同様に手綱を木々に結んでいく。俺はその間に「打清塩」を撒いて簡易の結界を張る。これで外縁に屯する幼妖小妖は早々寄って来るまい。野生の肉食獣は、それこそ妖気の気配に近付いて来る可能性は低かった。

 

「樹海故に視界が遮られます。警戒を怠らず、死角を補うように陣を組んで、何もなければ日没前には一旦撤収……で良いですか?」

 

 槍を馬の荷から取り出して、他の呪具も装着してフル装備になりながら俺は確認する。二人も日没前の一時撤退は同意した。人手が足りぬ。そして人の体力と集中力は有限だ。支援役の下人や隠行衆が不在ならばそれは賢明な判断だった。十薬の退魔士は猪突の気はあっても愚かではなかった。二人共、仕事モードである。流石にプロは頼りになる。

 

「先行する。……イクね?」

「……評価を下方修正した方が良いかも知れませんね」

 

 颯爽と先方として前に出たはなの言葉に、俺は本能的にそのように考えるのだった。

 

 ……締まらねぇ。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

「あいつは、上手くやってるかな……」

 

 晴天の都の中心。大内裏の民部省主税寮の敷地の内。蔵に寮衙省衙の連なりがあり、通路と庭先を神経質げな書生やら算術士やらが彼方此方と行き交う光景を横目に見やりながら、その青年は旅に出ている妹の心配をする。妹の心配しながら、主君の帰還を待ち続けていた。

 

 実名は卑しい生まれである故に、名乗るは非礼に当たるため伏せる。敬すべき主君から与えられた彼の御仮名は「計」、以前主君が算術で欺かれそうになった所を指摘した事が由来であった。

 

 本人が直々に名付けた事から大層あの一件が大事であったのだと青年は考える。実際、あのままでは多額の負債を負って官位官職の剥奪に没落だってあり得たのだから、分家の下級公家の主君は大層肝が冷えた事だろう。あるいは己にこの仮名を与えて傍に置いているのは戒めの意味もあるのかも知れない等とも思う。

 

 ……それくらい肝が冷えたのならば、もう少し算術をして欲しいけれども。何かあれば直ぐに己に事の調査や計算をさせるのは止めて欲しい。禄の割に責任重くないか?

 

「引き立ててくれるのは有難いんだけどね……」

 

 嘆息。悲嘆。それでもまだ恵まれている事を自覚して、彼は気を取り直す。己を納得させる。彼は愚かではない。己が有象無象の多くよりも幸運である事を知っていたし、その恩恵がどれだけのものかも分かっていた。

 

 主君の引き立てで官吏としての立場を得た。郡司の補佐という立場になった事実は重い。禄がこれまでとは桁が一つ違うのは当然であるが、実家にも威光が届く事が一層重要だ。

 

 扶桑の身分制度の中で家族が郡司の傍らで仕えているという事実は小作人から自作農として自立して、更に土地を耕して拡げている両親や兄に対する周囲のやっかみを牽制する効果が確かにあった。己の立場で睨みを利かせ、その間に家を継いだ兄が良い縁を得た事もあって、そういう面ではもう磐石であろう。貶められる不安はあるまい。あとは先程案じていた妹の良縁も見つかれば万々歳だ。

 

「それと、あとは……」

 

 そして今一つ、彼には願いがあった。儚くて、しかし確かに十分に出世した己がより一層の成功を望む目的……もっと偉くならなければ、権限を得なければ、所在を知る事は出来そうにない。

 

「兄さん……」

 

 呟く言葉は消え入りそうで、諦念すら滲んでいて、事実彼自身最悪を理解していた。骨だけでも、墓だけでも見つけられればそれだけで十分に思える程だった。二度と会えない身内。大切な家族……両親も、兄も、妹も、調べられる立場になければ時間もない。それは仕方ない事で、己だけが追える立場にあって、まだまだ力が不足していて……彼が少しでも良い家の娘を迎えたい理由でもあった。そのためならば醜女が相手でも一切構わないだろう。目的を果たせるならば何処までも持ち上げられるし、愛せるだろう。

 

 ……故に、先日の騒動の後泣きじゃくりながら延々と駄々を捏ねていた主君の幼子は彼の人生を添い遂げる対象にはなり得なかった。

 

「……うぅ。疼くな」

 

 御近所一同の晒し者になったあの騒動を思い出すと共に、妹の友を名乗る蛮人の一撃を食らった顎を撫でながら彼は呻く。罅は入っていないだろうがまだ少し痛む。明らかにあれは女子の腕力ではなかった。というかいきなり殴って来る蝦夷の半妖等と正気か?妹よ、ちゃんと付き合う相手を選んでいるか?兄は心配です……。

 

「っ……!来たか」

 

 顔をしかめて暫し顎を擦っていると、足音と談笑の声音に彼はその気配を察する。身なりを整え、恭しく佇む。

 

「ははは。それでは式部省にはそのように……おぉ。すまんすまん。待たせたのぉ!」 

「いえ。そのような事は」

 

 民部省の上級官吏と共に主税寮の寮衙から出てきた白の混じった濃い黒髭が印象に残る初老の男。北土の郡司の役職にある伊瀬家分家当主であった。青年は一礼と共に世辞を述べる。

 

 徴税を司る民部省に、本来ならば邦司は兎も角郡司が足を運ぶのは有り得ない事であったし、理由もなき事であった。それが可能なのはやはりこの国の堕落して形式化しつつある制度故の事だ。

 

 末端であろうが公家は公家。そして下級公家の困窮は昔からの事であり、役職を得るために粗品片手に彼方此方の御上にお伺いを立てるのも最早伝統だ。郡司の半分は旧き豪族の世襲であり、半分は官吏や溢れた下級公家の食い扶持役職と化している。後者に属して任期が近付いて来た主君が己の家の血縁地縁を頼りに任期の延長か、あるいは次の赴任先の斡旋を求めにここに来た事は承知の事実である。どうやら態度からして上手くいったらしかった。

 

(取り敢えず、此方の食い扶持も無くならずに済んだ訳か)

 

 御丁寧にも記帳されている代々の郡司の賄賂の記録から、用意した贈呈品は十分だろうとは思っていた。というか他の記録は雑なのに何でそういう記帳だけ綺麗に残ってるの?後身への思い遣り?さいですか。弾正台は仕事して欲しい。

 

「……?そちらの御方は?」

 

 内心で社会に対する不満と罵倒をしながら、青年は主君に続くように現れた官人に意識を向けた。装束から官位持ち。それもこれはもしや……。

 

「おお。此方は主税寮の頭殿だ。……此方は雑任として私の補佐をして貰っておりましてな。仮名は計で御座います」

「寮頭殿とは存ぜず、無礼を御許し下さいませ……!」

 

 主君が説明と紹介をするのと青年が何処までも深く頭を下げたのは殆ど同じだった。それだけ眼前の相手に対しての非礼は許されなかったからだ。少なくとも己には。

 

 公家かつ官位持ち、郡司の立場にある主君ならばいざ知らず。己は所詮可愛がられているだけの雑任に過ぎない。五位ないし六位の官位相当の主税寮の頭職相手に頭が高過ぎた。賎しき己が機嫌を損ねればどうなるか。主君とて信頼し切れない。己の役職と天秤に掛ければ平気で捨てられるだろう事は分かり切っていた。だから何処までも恐縮を装い慈悲を乞う。それを彼は恥とは思わなかった。

 

「おお、そのような事せずとも……」

「伊瀬殿。ここは私が。……頭を上げて下さい。恐れずとも、何等罰則なぞありませんよ?」

「は、しかし……!」

 

 寮頭の言に渋るように尚頭を下げる。一度の呼び掛けて直ぐに頭を上げるのは良くなかった。

 

「そのままでは話しにくい。命令です。頭を上げて」

「はっ!それでは……!」

 

 勿体ぶって漸く頭を上げる小作人の息子。小物を演じる。そして直ぐに見抜かれていると察した。

 

「……良き雑任ですね?」

「ははは、そうでしょうとも!私の自慢の部下でしてな!」

 

 寮頭が褒めれば伊瀬の主君は何処までも機嫌を良くする。豪放ながら煽てられやすい性格で脇が甘い。だからこそ騙される隙がある男だった。愛想笑いの後、寮頭は青年を見る。

 

「私も実の所生まれの身分は高くはないものでしてね。その意味では余り下手に出られるのは正直苦手でして、逆に君のような若者には親近感も湧くものです。……私も引き立てられて今の立場にありますしね?」

「は、はぁ……」

 

 寮頭の言葉に、青年は困惑気味に応じるしかなかった。主君が話したのだろうか?一方的に己を知られているような感覚は余り愉快なものではなかった。

 

「実は寮頭殿は左大臣殿の補佐もしておいででな。その意味ではお前と似通った立場やも知れん」

「たまに祐筆のお役目を代行しているだけですがね。……何はともあれ、口利きについては御安心下さいませ。大臣にも、式部省にも功績は伝えておきましょう」

「うむ。期待しておりますぞ!」

 

 寮頭の言葉に心底安心し切った主君の態度。左大臣は仁の大臣である。その慈悲深い施策は数多あるが困窮する公家の救済はその一環だとも言われている。恐らく寮頭経由で大臣らに泣きついて次の役職を受けようという事なのだろう。

 

「北土への赴任は金もかかって大変でしょう?嫁入り前の娘も居られるのでしたか?近場、央土の郡に着任出来るように、可能な限り便宜を図りましょう。……君もです」

「私も?」

「えぇ。伊瀬殿からの話を聞く限り、今の立場のままに留め置く事は勿体ない。今少し引き立てられるように、是非とも推薦をしたい」

「そ、それは……有り難き幸せで御座います」

 

 寮頭の言に、その意味に青年は息を呑む。喜びよりも緊張が走る。それはつまり朝廷における派閥抗争の末席にて己も巻き込まれようとしている事を意味していたからだ。しかし……そもそも立場から断る事は出来ない。そして、余りにも絶好の機会であるように思われた。

 

 己が成功して、成り上がるまたとなき機会……!

 

「立ち話も何です。何処か静かに話せる所で詳細を話しましょう。良い酒を出してくれる店を知ってましてね」

「おお、それは良い!ほれ、行こうか!」

 

 周囲の視線を意識したように寮頭が提案して、ご機嫌に応じる伊瀬分家の当主。補佐を催促する。

 

「は、……はっ!」

 

 当然ながらその補佐がこの話の流れに逆らう術はない。逆らう理由も見受けられない。他の者が見れば代わって欲しいと思うくらいだ。上役に席に招かれて顔を覚えられて、ましてや役職の斡旋をして貰えるなぞ夢のような話である。

 

「ふふふ。緊張は分かるよ。まぁ呑みながら皆気を抜いて、ゆっくり色々と話そうじゃないか?私としては上に推薦するためにも君の事をもっと知りたくてね」

 

 寮頭は部署でも浮かべる優しげな微笑を浮かべて青年の背に触れる。まるで長年の友のように、近親のように。

 

「君の仕事ぶりに得手不得手、それに……そうだね。家族や昔語についての事とかも、ね?」

 

 寮頭の紡いだ言葉の後半に微かに感じた妙な粘り気に、どうしても青年は心中の不安と違和感を拭う事が出来なかった……。

 

 

 

 

 

 

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