和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件 作:鉄鋼怪人
https://www.pixiv.net/artworks/128801702
素晴らしい作品、誠に有り難う御座います!
燭台の光が照らす薄暗い天幕の内にて、一人の女が厳かに巻物を開いていた。
妙齢に思われる美しい女だった。同時に何処か浮世離れしているようで、影があるようで、不機嫌そうで、神経質そうで、仏頂面であるようにも思えた。
まるで銀糸を束ねたような煌めく長髪は後ろで束ねられている。憂いを秘めた蒼玉色の瞳。染みのなく瑞々しい白い肌は雪原の鶴を想起させた。装束越しにも分かる細く締まった体つきは、しかし決して貧相ではなくて、寧ろ取捨選択したかのように豊満でもあった。決して露出が多い訳ではないのに肌に密着している事もあり、その身体は男にとって目に毒である。
「……」
そんな魅力的で魅惑的で幻想的ですらある女は、しかし人気なく味気もない天幕の内でひたすら黙々と巻物を読み取り続ける。先程届いた報せに視線を何度も往き来させ、読み返し、そして遂に小さく嘆息した。
「はぁ……」
「よぅ?どうしたんだ、こんな場所でまた随分と湿気た面してよ?何か悩み事ってんなら俺が聞いてやっても良いぜ?」
嘆息に反応したような呼び掛けに、女は半眼の視線を紙上から正面へと移した。天幕の入口で髭面の男が佇んでいた。酒瓶片手に、赤ら顔でニヤける男の姿は、女とはある意味で正反対の印象を見る者に与える。豪快で、豪奔で、放蕩で、そしていい加減に見えた。覇気もない。呑んだくれの凡夫に思われた。
まるで正反対な有り様の二人は、しかし此度の任においては協同するべき仲間であり、同時に共同の部署に属する同僚でもある。
扶桑国陰陽寮付朝臣退魔職七士長……俗に退魔七士と呼称される集団の、その第三席『槍聖冷鬼』、そして第四席『双龍使役』。それがこの場にて相対する二人の肩書きだ。
「……央土にて事件があったみたい」
暫しの沈黙の後、淡々とした口調で三席は己が読んでいた巻物の内容を答えた。
「事件?一体どんなよ?」
「霊脈が爆散した」
「はぁ?」
形ばかりの興味で聞いて見た四席は、しかし返って来た返答に酔いも醒めて素面とならざる得ない。酒を呑む手を止め、歩み寄る。三席から巻物を受け取って中身を読み取っていく。
「これは、また……御上はてんてこ舞いだな。えぇ?」
一通り読み込んで、判明する限りの事の経緯を把握しての四席の言。央土巡回の派遣団の一つが抱いた違和感。しかし疑念は何もかも物理的に吹き飛んで、汚染の危険から山を掘り返すのも憚られる。怪しげな疑惑こそあれ、全ては闇の中……少なくとも汚染が浄化されるまでまともな調査も難しいように思われた。
「当地の者の尋問は上手くはいっていないそう」
「そりゃあそうだろうよ。訳知りな連中は纏めて吹っ飛んだって所かね?いやぁ、また随分と覚悟が決まってるねぇ」
事件後に行われた十薬家本家屋敷に詰める者達への取り調べは、しかし大した成果を挙げていないようであった。押収品も大したものではない。恐らく全ては纏めて消し飛んだ。証拠は見事に隠滅された。
「疑わしきは罰する……なんてのはこの場合は無理だしな。こりゃあ有耶無耶になりそうだ」
正確には退魔士家の殆んど全体がそれに呼応するだろう。十薬家が何を何処までやらかしたのかは知れぬ。しかし多かれ少なかれ後ろめたい事をしておらぬ退魔士家は希少であり、故に疑わしきだけで処罰される前例を歓迎する筈もなし。ましてや、最初の疑惑はたった一人の家人扱の発言によるもので、それすら行方不明とくれば尚更だ。
「しかも件の家人扱の主家も同意、か。……臭うな。やけに素直じゃないか。えぇ?」
剃り残しの顎髭を撫でながら、四席は穿つように宣う。退魔七士となれば方々から嫌でも話が聞こえて来るものだ。鬼月といえば次代当主の座を巡り彼是と噂が絶えぬ御家だった筈だ。
「嫌だねぇ。折角の有望な若手が面倒事に巻き込まれて御隠れする事になるのは。慢性的にこの業界は人手不足だってのに……三席殿もそう思うだ、イテッ!?」
世間話に愚痴を語りながらの肉感的ながら引き締まる臀部に伸びる男の手は叩かれて返り討ちに遭う。痛め付けられた掌をふぅーふぅーしながら肩を竦める四席。
「相変わらずお堅い事で。節介話だが……身持ちは兎も角、もうちっと融通は効かせた方がいいぞ。そんなのだから貧乏籤を引くんだぜ?」
「……何のために此方に?」
咳払いして、三席は話題を打ち切り問うた。これ以上政治の話をするなという警告であった。相生家は赤穂家と並び職務に忠実かつ政治から距離を置く事で知られる退魔の大家であった。厄介事に巻き込んでくれるなという事である。
「おうおう、そうだそうだ。……帰って来た斥候からの報告があったとよ。御客さん方が大勢お集まりらしい。二人殺られて一人処分したとよ」
「……先にその報告が欲しかったわね」
同僚からのその連絡に三席は傍らの槍を携え立ち上がる。同僚の横を颯爽と通り抜けて天幕を出る。巻物を懐に仕舞い四席もまた気怠げにそれに続いた。
幕を上げて外に出でる。同時に若干冷たさを残す風が吹いた。広がる光景は大所帯であった。
人、人、人……彼方此方に行き交う人の群れ。それらは良く見ればその殆んどが武装していたのが分かるだろう。軍団兵に、武士、そして下人に隠行衆。無数の天幕に柵、杭、櫓。砦と、それに屯する官軍の軍勢であった。
先月もたらされた扶桑国外縁部の、更に奥地での河童共の大規模な繁殖の報告。何等かの人為的な関与も疑われたそれを、何はともあれ放置は出来ない。朝廷の威光が届いているかも怪しい獣道に人口希薄でありながら広大な辺地故に、質を優先して派遣された討伐軍はそれでも三十余名の退魔士を含む総勢五千に及んだ。緊急時の援軍を期待出来ず、広範囲での駆除作業には頭数が必要であろうと想定されたためである。
「皆、揃ったか。……ではそろそろ議を始めるとしようか?」
見晴らしの良い丘に設けられた柵で幾重にも囲まれた砦。その更に頂上に張られた大天幕に退魔士七士の二人が到着すると、まるで待ち兼ねていたかのように直ぐに軍議は開かれた。此度の討伐軍の率いる将軍に、目付の少納言。各軍団・衆・武士団長に退魔士家の代表が一堂に会して情報は共有される。
「既に報告の概要は聞いておろう。遂に我々は連中と接触した」
斥候部隊が正面の深い森林にて発見した河童共は軽く数千。それらは明確に機を窺っており、その事は参列者達に重く受け止められていた。
「隙を見て此方に仕掛けて来るのだろうな。特に夜は危険だ。連中は夜目が利くという。……占術によれば明日頃から曇天となるのだったな?」
「左様。月明かりは期待出来ませぬ。立て籠るのならば篝火で周囲を目一杯照らす他ないでしょうな」
まつろわぬ蝦夷共との戦いで経験を重ねた軍団長が質問すれば退魔士の一人が応じる。砦の築城と前後して地理に気候、天候についてはあらゆる手段で調査済みであった。
「潜伏してる範囲は知れているのだ。長丁場では兵の疲弊もある。一思いに仕掛けるべきか?」
「ただ討伐すれば良いという訳ではあるまい。これは前座よ。報告のあった巣穴はこの先だ。損害を出し過ぎては大事な根本は断てぬ」
「この辺りは水捌けが悪いようですしなぁ。軍団では動きが阻害される。連中は泥の中すら水中の如く泳げるのだとか。地の利は先方にある。泥を越えて、その先の森を掃討するのは手間ですぞ?」
団率いる壮年の武士の提案は、しかし他の者達に反対される。明瞭となる地の不利、そして全貌知れぬ魑魅魍魎の規模。それらが彼らに損失を恐れさせた。
「むぅ。ならば毒を使うのはどうか?北土では大層効果があったのだろう?」
「あの時とはそれこそ状況が違う。理究衆の扱う毒は繊細だ。この遠方では安全に持って来られる量は知れている。しかも散布には式神術に秀でた者の協力あってのものだった」
「うむ。補充も利かぬ。ならば野外ではなく巣穴に注ぎ込むのに使うべきだろう」
「しかし、今眼前の化物共を破らねばそれすらおぼつかぬではないか……」
交えられる議論は、彼らのあらゆる面での不利を示していた。地の利はなく、補給は細く、そも唯人は身体能力で怪物に負けているのだからどうしようもない。ましてや相手方の数も不明瞭……兵法の常道に基づけば敗色濃厚である事は誰の目にも明らかだった。
……予定調和であり、事態の再確認でしかなかった。苦境に思われるのはしかし、全ては想定内で、故に討伐隊には彼女達が参加したのだ。これは人同士の戦争ではない。
「……あい分かった。もう十分に議論はしただろう。なれば分かった筈。餅は餅屋だ。ここはやはり専門家の手を借りるべきであろう。化物共は我らの議論を待ってはくれぬだろうしな」
暫し時を経て、将軍は何時までも続きかねぬ議論をそう語って終わらせた。実のここまでの議論は単なる前置きの建前に過ぎぬ。斯かる事態のための、用意も根回しも既に終わっていた。傍らの書記が全ての会話を記録していて、少納言は証人であった。
「故に三席殿。それに四席殿。それでは、御手数ながら事前にお伝えした提案の通りにお願いするという事で……宜しいですかな?」
目配せした将軍からの呼び掛けに席の一角にて控える三席は無言で頷いて、四席は雑に手を振って各々応じる。他の指揮官達にも確認を取れば、やはり皆その準備は出来ていた。当たり前の事であった。だからこそ敢えて見つかり易い丘の上でこれ見よがしに陣を敷いていたのだから。この軍議はある意味で茶番に過ぎぬ。それは兵部省と武家と退魔士家の間での暗黙の了解であった。それは互いの面子を守るための、一種の儀式であった。
……軍議を終えてそれから一刻程が経る。昼下がり頃合いであった。兵共が飯を食い終えて、休息を取り終えて、遂にそれは、駆除作業は始まった。
『!!!!!!』
唸るような轟音が鳴り響いた。晴天の空に突如として落雷が降り注いだ。文字通りの晴天の霹靂であった。遠くに龍の咆哮が鳴り響く。夷の地の深森を神気の雷鳴が焼き払い始める。
『キキキッ!!?』
『キキ!!』
落雷の着弾で次々と燃え盛る森の中、河童共は否応なしに炙り出された。神気の雷も神気の炎も、河童共の前では殆んど効果はない。しかしながら潜んでいた隠れ家を失えば必然的に姿を現すしかないのは当然であった。
神火を抜けて、河童共は砦を見やる。睨み付ける。蛙染みて一斉に共鳴するように喉を鳴らし、唸り、そして直後には引き寄せられるように次々と緑色の怪物達は駆け出し始めた。
「き、来た……!!?」
柵で囲んだ砦にて防備を固める兵共は迫り来る河童の一群に動揺した。決して怠慢はない。しかし河童の身体能力は人を超えている。その脚力は鍛え上げた飛脚を超える。その跳躍力は豹を超える。その腕力は豪傑並みだ。三重の柵や杭、逆茂木でも時間稼ぎにしかならないだろう事は過去の記録からも明らかであった。そして河童共の感染力は良く知られていた。
「落ち着けぇ!各員構え!化物共を引き付けろ!!」
動揺を制するように、長共が叱咤して命令。良く訓練を受けた軍団兵共は自然に身体が動いたように弓に弩、火縄銃といった飛び道具を構える。此が訓練の足らぬ者達ならば恐れから無闇矢鱈に発砲し始めて無駄玉となる所だったろう。その意味で彼らは優秀だった。
「じゃあ、手筈通りにお願い……宜しくて?」
そして、長達にそう要請して彼女は返答を待つ事もなく躍り出る。
「えっ……!?」
隊列を組んでいた火縄銃手が唖然とした。傍らを通り抜けた人影。跳躍して三重柵を乗り越えて、そのまま逆茂木を飛び越えて、それは砦から飛び出ていた。蟻の軍勢を思わせる河童共の眼前に一人で着地する。
「お、おいありゃあ……三席殿!?」
「無茶だ。御一人で!?」
現場に良く顔を出し、美人であった事もあって軍団兵らは彼女の知っていた。長駆長征の旅路である。途上で襲い掛かる魑魅魍魎共の前に立ち塞がりこれを八つ裂きにする様は正に伝説の一幕であったものだ。
それは彼女にとっては単なる業務に過ぎず、しかしその活躍と今一人のだらしなさ故に兵共の確かな信頼心服を勝ち得ていた。であるからこそ、唯一人砦から出でる光景は動揺を誘った。
「三席殿!相手はあの河童でありますぞ!?危険です!!」
「お引き下さいませ!!」
兵共も事前に研修は受けていた。相手に霊術は効かず、しかもその体液は触れるだけで冒される程危険だと。しかも凄まじき数であった。槍を得物とする退魔士にとってはそれは余りにも分が悪いように思われた。
『キキッ!!?』
『キキキキキキッ!!』
砦から兵共が引き返すように要請する間にも河童共は迫って来ていた。兵達は指揮官を見るが発砲命令はない。そして彼らはそれに逆らう程愚かでもない。焦燥しつつも彼らはただただ身構えるのみであった。
迫る。迫る。迫る。河童共は何時しか砦を無視して唯一人の女に向けて殺到していた。狂ったように、咆哮しながら襲い掛かる。まるで花に引き寄せられる蜜蜂のようだった。最早先頭の河童との距離は十歩まで近付いていた。
そして……その前列が横薙ぎで両断される。
「っ!!?」
「何が起きた!?」
眼前の光景に兵達は絶句する。槍を振るった。触れる事なく数十の怪物が引き裂かれた。それは有り得ぬ事のように思われた。霊術の類いであるように思われた。しかし河童にはそのようなものは通用せぬ筈……?
「流石『槍聖』」
「よもや風圧だけであれとは……」
「常識外れ……」
砦で控える退魔士達はそれが異能でなければ霊術でもなく、単なる極め切った技能だと理解していた。極限までの身体強化、それによって振るわれた槍。押し退けられた圧が凶器となって頑強な怪物の骨肉を裂いた。それだけの事である。無論、退魔士界隈でも非常識である。
相生家一族本家、相生の裂鶴姫。退魔七士第三席『槍聖』の理を以て理を超越した槍術の極致である。
「各員放て!!」
河童共をその手にする槍の穂先で触れる事すらなく淡々と引き裂いていく第三席。その姿に唖然としていると背後から下される命令。慌てて兵士達は発砲を、弓射を開始する。そして一層感嘆する。
槍遣いの女は事前に己の身に纏わせた濃厚な甘香によって河童を誘引していた。怪物共は我も忘れて突撃して、其処に矢玉が、鉛玉が集中する。そして女は敵味方区別しない飛び道具の雨を、まるで踊るようにその間隙をすり抜けるのだ。周囲で次々討たれる怪物共。しかし女は傷一つも負う素振りはない。それどころか汚染された返り血すらも。軽やかに、踊るように、舞うように、水のように流れて、一方的に虐殺されていく怪物共。
河童共は逃がしてはならぬ厄介な存在だ。故に逃げ散らぬように誘引する囮は不可欠だった。退魔七士が三席はその危険な役目を平然と務める。兵も将も、皆がその光景に魅力され、畏敬を抱く。唯一人を除いて。
「けっ、貧乏籤を引き受けるとは御苦労なこった」
酒瓶を一口呷って、一際高い物見櫓を特等席にして、四席はその舞いを評した。酒の肴としては見事であるが、こうも衆目で見せられては興が醒める。美女の舞踊は風流ある場所で独占してこそであろうに。
「……」
「けけ。呑むかい?」
「いえ。結構で御座います」
戦いの最中、安全圏から好き勝手言ってくれる者に好意的な視線が来る筈もなし。櫓の兵共の冷たい視線に、からかうように四席は宣い断られる。反応は想定内。小さく笑って立ち上がり、肩を鳴らす。
「さて。じゃあ居心地悪いし俺も仕事するかねぇ?」
そして砦の背後が爆散する。咆哮が響き渡る。突如の事態に兵達が動揺する。
「あー、気にするな気にするな。不埒な連中を駆除してるだけだからよ?お前さんらは正面の三席殿の援護頼むわ」
酒を呷りながらの四席は櫓の兵共に、そして櫓を降りて砦を巡回しながら宣言していく。正面の河童に意識を向けて、背後に大妖の群れが回り込んでいた。四席の、否、彼が使役する式のお相手である。寧ろ、河童よりも彼の式にとってはやり易い連中であった。
怪物共の絶叫が上がる。無慈悲に式によって屠殺されていく。存在の格が違った。勝負にすらならぬ。爆発。炎上。粉塵と揺らめく業火に満たされる荒地に浮かび上がる巨大な二頭の幻影……退魔七士の四席は代々唯人であり、その地位は一族の世襲である。誓約により使役する式がその立場を担保していた。
「また随分とド派手に暴れるねぇ。溜まり過ぎだろ」
好き勝手に地を焼き、肉を喰らい、臓物をぶちまけるじゃじゃ馬共への感想。都においてはそれらは大層窮屈にしていたものだ。暴れられる機会は少なく、機会が来たとして被害を思えば抑えざるを得ない。それだけに鬱憤が溜まりに溜まっていたのだろう。中々のはしゃぎ様であった。
「背後からの襲撃……やはりですかな?」
己の使役する僕の乱行を肴に酒を呷ると傍らから歩み寄って来た将軍の呼び掛けが来る。ひくっと鳴いて四席の呑んだくれは応じる。
「えぇ。河童連中は確かに社会性はありますが、大妖を複数飼える程器用じゃねぇですよ。やっぱり誰か仕込みをしてますな」
「蝦夷共に不穏な動きがあるという報告も伝わっております。どう思われますかな?」
「はは。論外でしょ?連中にこんな物用意出来る力はない」
所詮は野人共だ。朝廷に国力で敵う筈もない。河童共をこれだけ育てるのも、大妖を多頭飼いするのも無理であろう。動きが怪しいというならば、彼らもまた駒として扱われているに過ぎぬ。
「右大臣殿と同じ意見ですな。鋭い指摘だ」
「とは言え放置も出来ぬからこうして我々が赴く事になる。悪巧みしてる連中の掌の上ですよ」
扶桑国は嘗てより拡大した。それは守るべき領域が拡大したという事だ。そして辺境防衛のために中央から戦力を派遣すれば、いざ引き返すには拡大した領域に応じてより長い時間を要する事になる……。
「故に、四席殿が任命されたのでしょう?貴方一人ならば神速で都まで舞い戻れますからな」
「勘弁して欲しいものですがねぇ」
そして四席は再び酒を呷る。正面で躯を晒した河童は千を超えようとしていた。背後の荒地を見やる。此方も残る化物は数体といった所か。
「前座……そうさ。前座さ」
軍議でも放たれた単語を四席は面倒そうに反芻する。恐らくこの先で、何者かが自分達を足止めし、あるいは始末するために色々と仕込んでいるのだろう。
「本当、勘弁して欲しいねぇ?」
待ち受ける前途多難を思い、退魔の専門家は現実逃避から残る瓶の中身を一気呑みしていた……。
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蛍夜家女中たる鈴音はひたすら陰鬱に沈んでいた。彼女は己の感情を処理し切れずにいた。それは十薬家での騒動から一月近く経とうというのに尚も変わらない。彼女の内では罪悪感と疑念とが渦巻いていた。
行方不明となった恩人たる人の安否は勿論心配だ。毎日神仏に祈りその無事を願っている。願う程に現実を理解して、諦念がとって代わりつつある事は否定出来ないけれど。
己の主君たる姫の事も心配だ。自分と同じか、あるいはそれ以上に罪悪感に苛まれているだろう主君は、それを誤魔化すかのようにひたすら務めと鍛練に執着しているようであった。何処か近寄り難き雰囲気すら時に抱く。何なら姫自身が己を離していた。恐らく、無力な自分を危険に晒さぬように……。
どちらも鈴音の胸を締め付けるものであり、しかし……鈴音が自己嫌悪を抱くのは彼女の心中を掻き回すのは、其所とはズレた、個人的な疑念であった事だ。
「どうして……」
十薬家領への引き返し、その発端たる謎の集団記憶喪失。それが蘇ったのは山で生じた激震で、しかし皆の記憶が唐突に蘇る中で彼女だけは違った。
一女中の個人的な疑念故に……そんな理由を付けて誰にも何も語らぬ秘密。己すら偽りひた隠す心中。しかし、胸の内に閉じ込める程にその恐れは日に日に肥大化しているようにも感じられた。
何故なのか?何故……どうして己だけ彼の記憶と共に大切な家族の記憶を失ったのか?どうして彼と共に大切な家族の記憶が蘇ったのか?皆にそれとなく聞いても似たような話は聞かぬ。訳が分からない。どうして己にだけこのような事が?まさか……?
(いいえ、私だけが特別なんて事はない筈……)
一瞬浮かんだ馬鹿げた妄想を振り払う。例外なら他にもいたではないか。半妖の友に盲目の娘……己とはまた違うが、確かに彼女達も例外だった。ならば己のような場合とて、有り得ぬとは言え筈だ。
そうだ。断じてそんな筈はないのだ。あの人がよもや兄と……。
「……鈴音?本当に大丈夫か?」
「っ……!?は、はい。大丈夫です」
傍らからの呼び掛けに、鈴音は我に返り、現実に返る。直ぐ側にて寄り添う三番目の兄を見上げて、そして周囲を見やり、緊張する。
それは本当に突然の話だった。十薬家での事件の後、巡回が中断されて都にまで戻り暫ししての事であった。宮仕えしていた兄の文による呼び掛けに、気落ちした心に鞭を打って応じた。他ならぬ家族からの要請である、断る選択肢はなかった。
問題は、兄に似合わぬ勿体ぶった文の内容で、そしていざ兄の泊まる旅籠に来たかと思えば御立派な牛車に乗せられる事になった事で、辿り着いた屋敷が余りにも豪奢過ぎる事であった。
「兄さん……ここは、一体?」
蛍夜は無論、鬼月、そして鬼月が泊まらせて貰っている逢見の屋敷よりも更に豪勢な客室、車の停まった庭園も大層広く、大層豪奢であった。兄共々一番上等な出で立ちで来たがそれでも場違い感がして肩身が狭くなってくる。
(もっと勉強しておくべきでした……)
ここに通されるまでに車や門前には家紋が掲げられていたが流石に学のない彼女にはそれが何処の家のものか分からなかった。それが一層彼女を不安にさせて、緊張させる。あるいは先程まで物思いに耽っていたのは現状の状況からの逃避だったのかも知れない。
何よりも、兄がどうしてこんな場所に己を連れて来たのか、連れて来れたのかが分からなかった。一体、何があって……。
「あぁ。余り他言はして欲しくはないんだ。その……悪い噂でも立てられて御迷惑をお掛けするのは、ね?」
妹の疑念と不安を察して、しかし兄は明言はせずただただすまなそうに語る。それは訪れたこの家が本来自分達が足を踏み入れるべきではない格式である事を意味していた。何なら、家名を口にするべきですらないとも。成る程、確かにこの絢爛具合を思えば納得だ。
……しかし、ならば何故兄はここに訪れる事が出来るのか?一体何処で誼を?
「それは……内裏でね。自分自身驚いてるんだ。まさか、あんな……」
「兄さん?」
何かを思い返すように、大切な記憶を噛み締めるように、兄は途中まで語り沈黙する。
「それは……」
「御客様、御待たせ致しました。此方へどうぞ」
兄が子細を語ろうする前に女中からの案内の呼び出しであった。互いに顔を見合わせる。兄は仄かに微笑んで「見てからのお楽しみ、という事にしようか?」と囁く。何処か艶かしさすら感じる勿体ぶった態度は昔からの三人目の兄特有のものであった。妹から見ると意地悪さを感じる所もあるが、周囲の話によればどういう訳かこの振る舞いを好ましく思う者も多いらしい。良く分からぬ。
兎も角も二人は立ち上がり屋敷の縁側を進む。移動しながら中庭の見事さに感嘆して、屋敷の広さに尚更驚嘆した。見れば見る程、位の高さを思い知らされる。
「此方で御座います」
そして遂に其処に導かれた。渡殿を抜けた離れの一つで女中は足を止める。そしてそのまま一礼して立ち去る。ここから先は客人のみで、という事であった。
「それでは、どうぞ心行くまで」
「……?」
擦れ違い様の、女中からの生温かい眼差しと囁き。意味深げな態度に、訝る鈴音。さて、これは一体どういう事なのか……?
「じゃあ行こうか?」
「え?あ、はい……」
障子に手を掛けた兄からの呼び掛けに、女中からの囁きへの疑問への思索から現実に引き戻される妹。何が待ち構えているのか、思わず身構える。そんな妹の心中を知ってか知らずか、兄が何も気負いなく障子を開く。
「やぁやぁ。久し振りぃ。どう?女は磨いてるかな?」
「へっ?」
離れの障子を開いて直ぐ待ち構えていたように現れた人物に一瞬鈴音は思考停止して、しかし直ぐにそれが何者なのか知って一礼する。
「こ、これは……!宮鷹様!」
「わっ!?鈴音?知り合い……宮鷹?」
妹の態度に驚いて、そしてその出てきた名字に兄は眼前の女を見る。どうやら同じ様にその者がいる事を想定してなかったらしい兄は暫し考え込み、思い出したように礼を述べようとする。
「いいのいいの。挨拶は無用。私はここにいない事になってるから。そう……幽霊か何かだと思って頂戴?」
「幽霊……ですか?」
「透明人間でもいいけど?」
そんな事を宣いクスクスと兄妹を嗤う北土三家の退魔の名門宮鷹の放蕩姫。相変わらずの歌舞いた男装姿の姫は、しかし二度目の顔合わせになる鈴音は其処に何か変化があるように感じられた。
(少し険が柔らかくなった……?)
それは本当に小さな差異であったように思われた。しかし、鈴音は確か悪名で知られる姫君が、しかし前回に比べて何処か穏やかで母性のようなものを感じられる気がしたのだ。気のせいかも知れないけれど。
「しかし、またどうして……」
想定外の存在に浮かぶ疑念。そして傍らの兄に向ける嫌疑。急いで兄が否定するような視線を向ける。分かっている。兄はそんな人物ではない事くらいは。あくまでも可能性の話である。
「あれ、もう少し兄妹で痴話喧嘩してくれても良かったのだけど?」
一方で、関係の炎上がない事に肩透かしを食ったような詰まらなそうな宮鷹の姫、宮鷹の忍鴦姫は口を尖らせて不満を口にする。兄は恐縮するように言葉を紡ぐ。
「失礼ながら宮鷹の姫君、何故此方に?此方には……」
妹との関係も聞きたそうに、しかし何よりも優先するようにそのような質問を口に出して、しかしそれは口元に押し付けられた姫の指によって差止めされる。
「お話はお後で。先ずは此方でしょう?」
そして艶かしい微笑を浮かべて、道を譲るかのように己が身を翻し、手招きをする。兄妹で再度顔合わせ。そして、室内に足を踏み入れる。
空気が変わった気がした。結界を越えたような感覚。そして、その結果だろうか?今更になって鈴音はその存在を認識した。
放蕩姫のその背後。部屋の奥の奥。一人で座布団に座り静かに椀を啜る人影を認める。
既視感のある背中を、認める。
「嘘、まさか……」
一目その光景に鈴音は、否、雪音は言葉を失った。現実が信じられなかった。彼女は本能的にそれを勘づいていた。大分背丈は高くなったけれど、その座り方を彼女は幼き日から良く知っていた。
毎日毎日、夜遅く帰って来て囲炉裏で粥を食べるその姿を寝床から覗いていた。此方の視線に気付くと振り返って椀を差し出して来るのも覚えている。何も知らずただただ喜んで駆け寄って、それがずっと続くと思っていて、けれどどんな事にも終わりはあって……!!
「……誰だ?」
「っ!!?」
視線に気付いたのだろう、人影が振り向く。その懐かしくて、しかし聞き馴染みもある声音に思わず怖じけて、咄嗟に障子の陰に身を隠す。チラリと、非礼も承知で顔だけ出して覗きこむ。顔を合わせる。息を呑む。
大分大人になってしまったけれど、雪音はその顔に覚えがあった。懐かしさがあった。苦労を偲ばせる窶れた顔立ち、傷痕のようなものもある。けれど、確かに面影があった。雪音の脳裏に残る思い出の面影が、あった。
「客人……?姫様、僭越ながらせめて知らせ、を……」
宮鷹の姫に苦言を口にせんとして、人影は言葉を詰まらせる。此方を見て眼を見開く。きっと鏡合わせのように、彼もまた驚愕していた。互いに言葉を吐き出せず絶句して、しかし……何時だって先に動くのはどちらか決まっていた。
「雪……音?」
「……!?にいちゃん!!」
余りにも懐かし過ぎる呼び掛けに、恥も外聞もかなぐり捨て駆け出していた。畳を喧しく踏み鳴らして突っ込む。抱き着く。そして嗚咽を漏らしていた。
「にいちゃん!にいちゃん……!!?」
「雪音……まさか、こんな大きくなって……」
餓鬼みたいに叫んで、困惑する家族はそれでも己を受け入れて腕を回して抱き返す。身震いは悦びによるのだった。自分が受け入れられた事が狂おしい程に嬉しかった。頭の中が色んな感情でぐちゃぐちゃになって、もう何も考えられなかった。
「感動の再会、かな?……また甘えん坊な妹さんだ。慕っていたんだね?」
「お恥ずかしい限りです。その、重ねて感謝致します。まさか、このような事が……」
「ははは。感謝ならば姫と大臣殿に伝えてくれ。私は偶然見知りしただけなのだからね」
だからこそ、雪音は背後にて現れた男と三番目の兄の会話は耳に入って来なかった。その余裕もなかった。
「そう。単なる偶然なのだから、ね……?」
だからこそ、雪音は気付かなかった。人当たりの良さそうなその男の大事な家族を見る視線が、まるで実験動物を見るようなものである事に。自分達を見る宮鷹の姫の眼差しが何処までも複雑なものである事に。
ただただ嬉しさで胸が張り裂けそうな彼女には、何も……。
ーーーーーーーーーー
「……次の任務は無いんですか?」
検非違使庁にお尋ね者だったモグリの退魔士を引っ立てて連行し終えた少女の、師に向けた問い掛けであった。
「仕事熱心なのは結構。ですけど余り張り切り過ぎても宜しくありませんよ?検非違使への領分を侵し過ぎては不興を買ってしまいますから」
「そんなもの、人助けより大事なのですか?」
逢見の屋敷の、己に宛てがわれた一室で、着物を吟味さていた鬼月菫は控える弟子を見る。十薬の領域での一件。事態を把握するために派遣団は留め置かれ、尋問された。そしてそれを終えた彼女はそのまま都に引き返す事となった。本人は残り爆心地での調査を望んだがそれは叶わない。最後は引き継ぎで赴いた元稚児と赤穂の末娘に囚われて簀巻きに近い状態で連行された……。
「……功を上げれば調査の要望が通るとお考えですか?」
「……それも、あります」
何処か剣呑で陰鬱な雰囲気を滲ませる蛍夜環の心中は、それだけではなかった。
確かに下心はある。功績を上げれば恩義のある人を助けに向かえると考えていた。これまでの事を思えば探して見たらひょっこり生きているのではないかと思えて仕方なかったし、そうであって欲しいと心から願っていた。しかし、それだけが理由ではない。
環は己の甘さを、未熟さを許せなかった。そして、世の有り様も許せなかった。己が弱く愚かだからあの事態は起きたのだと思っていた。そしてその後の始末は……これまでの任における顛末にも環は不満があったし、その不満は解消される処か積もりに積もっていた。
体面。風聞。外聞。金。名誉。醜聞。朝廷や退魔士家のやり様は、その理由もあって環には不快でしかなかった。人が苦しんでいるのだ。人が死んでいるのだ。それを、下らない保身で誤魔化して来た朝廷の行為の数々に我慢ならなかったし、それは先日の一件である意味で振り切れてしまった。
強くならなければならない。賢くならなければならない。権力を持たねばならない。功績を上げねばならない。そうしなれば……流されるままでは失ってしまう。失い続けてしまう。自分の大切な物は、全て、奪われてしまう。
(そんなの……嫌だ!)
思わず歯を食い縛る。恐怖と怒りを抑え込む。理不尽に憤る。環は、あらゆる意味で「力」を渇望していた。誤りを正し、大切な物を守り、大切な物を取り戻すための「力」を……。
「……では、せめて鍛練を御願いしたいです。師の技を、少しでも身につければと」
残念ながら都に戻ってから環が半ば横槍入れる形で受けた任務は皆悪質で悪辣ながら小物。あっという間に解決してしまい、手持ち無沙汰。功を上げる機会はない。ならばせめて己より余程名人な夫人との鍛練を望んでいた。だが……。
「残念ですが、暫くは難しいでしょう」
「何故でしょうか?」
「先日の式典で雛さんが随分と評判を得ましてね。母としては丁寧に応対をせねばなりませんの」
十薬の騒動と前後して、執り行われた都での式典での鬼月の一の姫の御披露目は上々であった。翌日には早くも武家や退魔士家の幾つかから茶に演目の申し出があった程である。
「全て袖にする訳にもいきませんわ。何時かは縁組せねばなりませんしね?」
義娘の応対が最優先、故に鍛練が出来ぬ……そういう事である。
「任務続きでしょう?貴女も暫く休んだ方がいいですよ?無理は御肌に良くないですもの」
「っ……!分かり、ました」
悠長で呑気だと内心で苛立つが、幾ら文句を言っても変わるものではない。各々に事情があり己の欲求のみを優先出来るものではない。それくらいは今の環でも理解出来た。己を律して、不満を呑み込む。
「……御気遣いを差上げましょう。そうですね、あとこれもあげましょう」
何を考えているのか分からぬ微笑みを浮かべる菫は、そんな事を宣いながら棚を引いて環に金子の入った巾着袋を賜下する。そして、今一つ……。
「これは……券?」
「先日安達屋から頂いた芝居小屋……橘商会からの運営している今様芝居の券ですわ。雛は興味がないそうですから、どうせなら使って下さいな」
それは橘商会とも商売で関わりのある豪商安達屋からの贈物の一つであった。期限は近い弁当付甘味付の二人用終日利用券である。
「貴女の任務に同行している娘と丁度二人分ですし、捨ててしまうくらいなら使って下さいな?」
「入鹿……」
最初はこんな物とも思った環であるが、菫の言に考えを改めざるを得ない。今一人の友人は戦う術なき故に連れぬが、入鹿は違う。ここ暫く環の任に同行しっぱなしで大分苦労させている事を自覚していた。
(演目見るのかな?……弁当は食べるかな?)
券の紙面を見れば上等な席であるようだ。ならば仕出しされる弁当も特上だろう。ならばそれ目的に来るだろうか?そんな事を思い、環は券を受け取った。
……もし彼が居たら日頃の礼を込めて誘っていたのだろうか?そんな思考は頭の隅に押し退けて見て見ぬ振りをする。
「……有り難う御座います」
「ふふふ、楽しんでらっしゃい」
渋々と、しかし確かに恩義ある故に感謝の言葉を環は口にして、菫は相変わらずの微笑で応じる。子供扱いされてるのかと思えて、勝手に矜持が傷付く。
「では……此れにて失礼致します」
不安と不快を圧し殺して、環は礼と共に足早にその場から立ち去る。
心底癪であるが、せめて入鹿と共に演目を見てこの気分を振り払おうと思って……。
都の東市は相変わらず活気に満ちていた。人と車が行き交い、市場には物が溢れる。ここにいる内は大平と安寧は何の不安もないように思われた。
「虚偽の繁栄だけどな?」
知る者が見ればその美醜と関係なしに兎に角似合わぬと言っただろう。乙女らしい色合いの市女笠を被る入鹿が嘲る。因みに懐には得物たる鉞を仕込んでいたりする。
蝦夷の半妖の得物持ちなんて人物が高い芝居小屋に行こう等とすれば御断りされるのは必須である。故にこのように高貴な出で立ちをする必要があった。笠を外して懐をまさぐる者なぞ有り得ない。
「入鹿、振る舞い」
「分かってる分かってる。今の俺は下級の武家の姫君なんだよな?ごめん遊ばせ?」
同じ様に相応の出で立ちをして顔を隠す環の言葉遣いを注意に、垂れ絹の隙間から狼めいて笑う友の姿。軽く化粧した風貌は、姫君というよりは麗人で少しだけ環は見惚れた。
「……もう。食い意地が悪い」
誘った身であるが、仕出し弁当のために鼾を鳴らして昼寝していたのがクルリと起き上がった友の反応には心底呆れたものだ。何なら事前に持ち込みで菓子類まで全身に仕込んでいた。因みに費用は環持ちである。全部食べた後は多分そのまま寝てしまうつもりであった。
「……虚偽の繁栄、か」
そして、環は友の言葉を反芻して、直前の買い物を思い返す。物は溢れている。賑わっている。しかし、買値は明らかに上がっていた。入鹿が菓子を買ってる間にも他の客達が、店の店主らが不満を垂れていたのは聞き耳していた。
都だからこれで済んでいる。ならば、都以外はどうか?仕事で外京を廻っていた際には地方から流れた来た貧しき人々があばら家を建てていたのを見ている。直近の任務で環が捕らえたモグリは、苦しい生活を送る無知無学な田舎民達に違法な薬を売って洗脳していたものだ……。
「……だからこそ、僕は」
垂れ絹の内で、環は神妙な表情で歯を食い縛る。明日からはまた鍛えよう。皆を守ろう。正義を為そう。それを決意する。例え、微々たるものであろうとも、塵も積もれば山となるのだから。
彼が戻って来た時に、少しでも成長して役に立てるようにしたいから……。
「おーい、環ぃ!早く来いよ!」
「っ!もう、入鹿!」
先行していた入鹿の咆哮染みた呼び掛け。淑女らしくも姫君らしくもない大声に環は呆れて後を追おうとする。先程注意したばかりであるのに!
「だから!もっと振る舞いを……うわっ!?」
入鹿の元に走り寄ろうとして、環は転びかける。己もまた普段よりも厚着で見栄えに重きを成した装束に慣れてなかったのだ。慌てて倒れるのを止めようと前屈みで千鳥足で跳ねる。
「わっ、わっ!?わっ!?……うっ!?」
顔面から倒れそうになって、堪える。両手で支えを掴んだお陰であった。
「ふぅ……助かったぁ!」
「それは良かった。折角の晴れ着が汚れてしまっては残念でしょうからな」
「ふぇ?」
ほっと一息ついた環のぼやきに応答する声。環は唖然として正面を見る。己が気付けば誰かの腕を支えにしていた事に気付く。皺が出来る程に袖を掴み引っ張っていた。生地が伸びていた。
「すみませっ……!!わっ!!?」
「おっとと。落ち着いて下され」
己の不躾具合に羞恥してぱっと離れる。離れて今度は後ろ倒しになりそうになるのを、背を支えられて助けられる。
「す、すみません……。っ!貴方は……!?」
恥の上塗りに一層羞恥して、そして感謝の意を示さんとする環は相手の顔を見上げて思わず息を呑む。相手の老紳士は、環が何かを発する前に己の口元で指を立てて沈黙を願う。
「演目を見に来たのですかな?折角です。宜しければ同席しても?先日は語らいも出来ませんでしたからな」
裕福な商人を思わせる御忍び衣装を着込んだ老大臣は、実に実に人当たりの良さそうな温かな微笑を浮かべて環を誘うのだった……。