和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件 作:鉄鋼怪人
此方obuchiさんより、錨持ち蒼鬼様です。この凛々しい姿はまさに四凶の一角……!(尚性格)
https://www.pixiv.net/artworks/129201835
素晴らしい作品、誠に有り難う御座います!
第二〇〇話●
高らかに祀られるそれは渇いていた。この上なく飢えていた。
その身は最早生きているのが不可思議な程に朽ちていた。圧によって凝縮された身体は嘗ての数分の一にまで押し込められていた。その圧縮され切った身体は高熱によって焼け切って炭化していた。それこそ表皮の血肉も神経も死んでいた。五感も失われていた。それでも尚、その芯は生きていた。生かされてしまっていた。
飢える。餓える。渇く。乾く。生きるためのあらゆる要素が欠けていて、それを求める事すらも出来ない。求めるための腕も声も失われていた。ある意味で地虫すらにも劣る惨めで哀れで無様な存在であった。
……薬湯に身体が浸される。慈汁を沸かした霊水で割った物に様々な霊薬を混ぜ合わせた命の湯である。全身をそれに沈められる。慈湯が浸透していく。
足りぬ。余りにも足りぬ。この程度でどうにかなるようなものではなかった。そしてその事は承知の上であった。湯の目的は治療ではない。
……幾つもの柔手がそれを撫で洗う。炭化した皮を慎重に溶かし、解かし、融かしていく。それこそが大事だった。身を拘束する炭化した肉を剥がす事こそが必要だった。湯は麻酔の役割があった。
湯中からそれが引き上げられた。同時に漏れた低い吐息は絶叫だった。
炭化した肉を崩して露出した芯は最早骨と剥き出しの神経の塊だ。空気に触れただけで、麻酔があってもその激痛は筆舌し難い。その身が万全ならば遥か遠くにまで悲鳴は響いていたであろう。実の所、喉奥まで染み込んだ慈湯に癒されたお陰で漸く声と成せただけで、それはここに運ばれるまで延々と声にならぬ叫びを上げ続けていたのだ。不気味な悲鳴が無限に反響する……。
皆がそれを囲い見る。赤々しく、矮小で、醜い肉と骨と神経の塊。赤子とすら言えぬ人から逸脱した有り様。ある意味では人皮を剥いた正体。晒された化物……蠢こうとして、それすら叶わぬそれは求める。命を求める。己の血肉となる糧を求める。手とすら言えぬ触手染みた何かをうねられて欲求して要求する。虚空に向けて悲鳴と共に乞い願う。
……その願いは叶えられる。
信者の一人によって慈愛を以て抱かれた。崇拝を以て差し出された。直後にそれは根源的な本能に従い食らい付いた。
絞り出し、搾り出し、啜り出し、むしゃぶりつき、吸い出していく。生を育む慈汁を一心不乱に呑み干していく。餌の全身が痙攣する。強く抱かれて、頭を撫でられて、しかし五感を失ったそれにとっては認知出来ぬものであり、どうでも良い事でもあった。ただ、己の命を繋ぐための甘露を求める。
『…………!!??』
授けられた蜜の源泉はあっという間に渇れてしまった。呑み干してしまった。幾ら食んでも、噛んでも、ねぶっても、舐め回しても、最早これ以上何も出て来ない。声にならぬ声でそれは愚図る。すれば宥めて、恐縮して、あやすようにしてもう片方が差し出された。一転して再び埋めて喉を潤していく。しかし、それも長くは続かない……。
足りなかった。全く足りなかった。命を繋ぐには、十全となるには全く足りなかった。矮小な身体をのた打たせて不満を表明する。贄の僕が啼きながら必死に謝罪する。そんなものはどうでも良い。必要なのは慈味であった。足りぬならば、仕方ない。より直接的に摂取するしかない。口が花弁のように裂けて、牙を生やして、無数の舌が蛞蝓のように蠢いて……。
裂けた口に蜜袋の先が優しく宛てがわれた。直ぐにそれが別の贄肉のものだと分かった。構わなかった。怒りはすっと消えて、鳴き声は途絶える。即座に頬張り、大人しく、静かに、ひたすらに啜る。啜る。啜る……必要なのは血肉の源であり、そのためには無駄に怒る暇なぞなかった。
渇れた。次が恭しく差し出される。渇れた。また次の贄が自らを差し出す。何やら讃歌の口上を述べているようだが耳のない以上聴こえやしない。どうでもいい。興味もない。唯差し出せ。唯授けよ。ただただ奉仕せよ。
味わう。味わう。味わう。味わう。大きいものもあった。小さいものもあった。柔らかいものもあった。固いものもあった。形も違う。咥えやすいもの。吸いやすもの。舐めやすいもの。噛みやすいもの。全てを手早く消費していく。呑み干していく。己が血肉へと変えていく……。
『…………』
幾つも味わって、しかしそれは全く悠長だった。面倒だった。全てを相手に委ねていては何時まで経てもこの渇きは足りぬ。一刻を争うのにこれでは……とろ臭い。鈍重だ。愚かしい。奉仕種の分際で。無能共が!!
『……!!!!』
だから押し倒した。手足を伸ばした。手足を増やした。丁度新たな贄が来たのを拘束する。組伏せる。贄の蜜袋に頭を埋める。無遠慮に無抵抗の贄を搾る。歯を立てて、噛みついて、押し潰して、引っ張って噴き出させる。その間に傍らにやって来た別の贄を引き寄せて、また別の贄には腕を伸ばして揉みしだく。噴出した慈汁が真皮に染み込み肉を癒していく……。
甘い。甘い。甘い。甘い。旨い。旨い。旨い。旨い。明瞭となる味覚が一層食欲を引き立てる。胃は底無しだった。当然だ。殆ど死んでるも同然なのだ。血肉を得るには一滴でも多くの慈味が必要だった。ひたすらに呑み干す必要があった。幾つも啜る。幾つもかぶりつく。出なくなったら放り捨てて次を探す。使い捨てた物を踏み込めて、自ら寄って来る贄を味わってやる。お代わりは幾らでもあった。
本当に幸いだった。この場にある餌は有限だ。血肉は一度食えば終わりだが、慈汁ならば放っておけばまた勝手に造る。餌の心配をせずに済む。何よりも己の臓物は未だ襤褸襤褸だ。汁は兎も角、固形物は上手く消化出来るか分からなかった。蜜袋の代わりが幾つもあるのは本当に都合が良かったのだ。
『ッ!?……ッ!!!!』
突如下腹部に感じた感覚に、不快感と共に身の程知らずの贄の頬を灼肉で誅した。唖然とした所を背から伸ばした腕で以て足を捉え、そのまま眼前まで引き摺り出した。いっそ間抜けに脚が開いている事だろう、逆さ釣りにしてしまって、顔面のあるだろう場所に向けて咆哮して怒鳴り付けた。分不相応の無礼に激昂した。
たかが贄袋如きが何たる不遜であろうか?今の優先すべきはこの身である。種蒔きではない。己が消耗してまで代わりが幾らでもあるような袋なぞに情けを掛けてやる義理はないのだ。それをこれは……!!
『………!!!!』
怒りの発露に、奉仕性種は心底怯えきったようだった。怯えつつ、恍惚として、崇拝して、惚気る。数多の敵意の視線がそんな恥者に集まるのが分かった。抜け駆けを非難しているのだと思われた。罰が必要だった。見せしめが必要であった。群れの王として、秩序を敷くのは義務である。
「あっ……」
故に肉僕を床に叩きつけた。遠慮もなくその上に馬乗りとなった。当然のように体重を乗せる。肉は無抵抗。寧ろ全てを広げ、全てを受け入れる贖罪の表明までして見せる。
何も感じ入る事はない。殊勝ですらない。己に尽くすは奉仕性種の当たり前の義務でしかない。だからそれは態度をたんたんと受け入れる。遠慮も葛藤もなく、当然のように裂けた顎で以て、贄の肉に頭から丸呑みにしようとして……。
『……?』
気配に気付いて首を上げた。周囲に感じる玉石混淆の数多の奉仕性種の存在……しかし、それらはどうでも良い。大事なのはその気配だった。
一際特上の贄がいる……それが隠れている……それを理解して、それは激昂した。それは断じてあってはならぬ事であった。全ては己のためにあるべきである。己の礎となるべきである。己の繁栄のためにあるべきである。
『!!!!』
故にそれは身を捻った。身を組み換えた。身を変質させた。偉大なる『母』から頂戴した恩恵である。数多の種を、数多の個体を、その因子を摂取していく事で己を際限なく進化させる。作り替える力を行使する。全身から水蒸気を放ち、熱を噴き出して、そしてその身に無数の耳を、無数の眼球を、浮かび上がらせる。
………視覚と聴覚を得たそれは、漸く己の周囲の状態を認識した。
仄暗い密室。無数の燭台。灯による幻影。祭壇。数多の御供物。黄に白に黒。霊気、妖気に薄味ながら神気まで。見惚れるもの、息絶え絶えに床に捨てられてるもの。円環を作って装飾を揺らしながら狂ったように踊るものらも。その例外なく肌に刻まれた紋。重ね重ねに唄われる祝の重奏……そんなものはどうでもいい。本当にどうでもいい。探すべきは唯一つ。
『……ッ!!!!』
そしてそれは見出だして突貫した。纏わりつく、此方に寄る、途上の贄を皆塵のように押し退けて、突き飛ばして、踏みつけて、放り捨てて、それに向けてひたすらに疾走する。
それはまるで月だった。南蛮の月女神であった。月光のように輝く髪に、翡翠色の瞳。珍妙な帽子に、杖を手に、毛皮の外套だけを肩に掛けた裸の小娘の姿。魔女の姿、祭壇の壇上にて、肉の椅子に肉の脇息に身を乗せて君臨する女司祭の、此方を見下ろしての高慢な微笑……。
『ッッッッ!!!!』
眼前での咆哮。余りにも不遜だった。頭が高かった。唾を辺り一面に撒き散らす程に怒りを込めて目と鼻の先での威嚇。
彼女は己を見上げて尚も余裕綽々で、その態度が何処までも気に入らなくて、無数に伸ばした手が髪を掴む。手首を捕らえる。首を掴み、腰に巻き付き、外套を剥いで、強く握り締めても尚微笑はそのままで、憎らしくて憎らしくて、何としても自然の摂理に基づいて両者の立場を分からせねばならなくて。
だから華奢な身体を押し倒して、増やした無数の肉槍が贄袋を囲んで、肌を突き刺して、それでも蠱惑の笑みは変わらなくて、そして、だから……。
壱肆回目
「……っ!?」
嫌な汗と共に目が覚めた。寝間着をはだけさせる。グッチョリと濡れた肌。激しい動悸。形容し難き感情に唯茫然とする。
「夢……?」
目覚めた途端に霧散していく脳裏の光景は、しかしおぞましく。恐ろしく、非現実的であるように思われた。余りにも惨く酷い光景のように思われた。一体、どうしてあんな夢を見たのか、分からなかった。悪夢としか言いようがなかった。
「暑く、なって来たからか……?ん?」
悪夢の原因を自問自答して、ふと布団の内に感じ入る気配に眉をひそめる。異様に盛り上がったそれをゆっくりと持ち上げる。直後に頬を撫でるむわっとした熱。そして目撃する。
まるで冬眠中の獣みたいに、固まり寄り添い折り重なって布団の内で熟睡する子供達……一人が異変に気付いて目蓋を擦って欠伸をあげる。着崩れした出で立ちを気に留めず、眠た顔で此方を見る。
「ふあぁぁ……だんなさま?えへへ、おはよーございまちゅ!」
「取り敢えず全員退出しようか?」
悪びれる事すらなくにへらと笑顔で挨拶してくれた糞餓鬼共に向けて、『旦那』たる俺はそのように宣告した。
ある意味では、何時も通りの日常の、何時も通りの一日の始まりであった……。
ーーーーーーーーーーーーーー
「それでは御召し物をお替え致しますね?」
優しく微笑む女中の宣言。束ねた黒髪が特徴的な女中、汐はそうして汗の染み込んだ寝間着を脱がせていく。此方は殆ど動いていないのに装束はあっという間に剥がされてしまって、続いて水桶を手にした幼さの残る顔立ちの渚が正面に現れる。
「洗顔致しますね?」
言うや早く、女中は水に浸した布が此方の顔を拭き始めた。何なら顔だけでなく、他の女中らが群がって全身の汗を拭っていく。首元に、脇に、内股まで余す事なくきめ細やかに、俺は彼女らに為すがままに扱われる。
「……」
絹地の優しい触れ心地。それを挟んでも分かる柔らかな手の感触。己の身体を見る。ゴツゴツとして硬く、そして傷だらけの身とは正反対だった。それは実に不釣り合いに思われた。
「次はお口を」
「髭も剃らせて頂きます。動かないで下さいませ」
そんな事を考えてる内に、次の工程が始まった。巡が俺の顎を支えるように手を当てると房楊枝で口内を磨き始めた。同時に沙羅が器用に髭剃を頬に当てていく。水瓶を渡されて口を漱ぎ、顔を洗われて、髪を纏めて、そして漸く着物を着込まされていく。縮麺の小袖に、羽織……。
「どうで御座いますか?」
「……あぁ。まぁ、いいんじゃないか?」
鏡を抱えて自信満々に問い掛ける汐に向けての生返事。鏡に映る己の姿、着こんだ羽織に刻まれた紋様に触れる。金糸で縫われた橘の紋様を指でなぞる。己の顔を見つめ続ける。言い様のない違和感を感じた。何かが欠けているような物足りなさ……。
「何か、御不満が?」
「いや……完璧さ。有り難う。助かる」
此方の態度に少し不安を感じたのだろうか?若干窺うようにして傍らに寄り添って来た汐の頭を撫でて謝意を示す。凝り固まった身体の動きは悪く、撫でる動きはぎこちない。何よりも皆と違って荒れたささくれた手での愛撫であった。正直柔らかな髪を寧ろ傷めて不愉快なのではとも思えたが、当の汐は目元を細めて為されるままに受け入れた。目が合って、気持ち良さげに微笑む。喜んでくれたのは嬉しかった。
「……分かった分かった。順番に、な?」
いつの間にか並んで期待するように控えていた皆を見て、俺は苦笑しながらお願いする。
何が良いのか欠片も分からなかったが、こんな事で日頃懇切丁寧に世話してくれる彼女らが喜んでくれるならば、それはとても幸いに思えたのだ。
結局、彼女達とのじゃれ合いは朝餉の呼び掛けに担当女中の黒江が来るまで続き、拗ねた彼女を可愛がるのに、また刻を要する事になるのだった……。
襖を開けばそれはもう用意されていた。湯気が立った出来立ての料理が並ぶ。
朝餉に出される飯は何時だって七彩である。今日の場合は白飯、赤飯、茶飯、姫飯、炊込が二種、麦飯である。味噌汁の具材は若布と豆腐だ。
鱸の焼き物が主菜で、鰹のたたきには大蒜と生姜が付け合わせられている。焼いた兎肉、鳳蓮草のお浸し、煮豆、金平牛蒡、蛸の酢の物、切干大根、野菜の天婦羅、明太子、厚焼玉子が今日の副菜だった。
漬物には沢庵、福神漬、茄子、筍、胡瓜、青菜、蕪、梅干。茶は三種類、果汁水に珈琲、心愛まで砂糖共々用意されていた。食後の甘味には果実と菓子が控えている。
「相変わらず、朝餉から種類が多いな。……こんなに作るの、面倒じゃないか?」
座布団に腰を下ろして、一体幾度目か、雅な椀に皿に湯呑に揃えられた豊富な献立を一望しながらの素直な感想。基準が分からないけれど、一人が食べるには量も種類も余りにも多過ぎるように思えた。俺は正面に控える女中に向けて尋ねる。
「御構い下さる必要は御座いません。御好きな物を御好きな分御召し下さいませ。……御要望頂けましたら他の物も急ぎ御作り致します。どうぞ御遠慮なく申し付け下さいませ」
恭しく礼を述べる女中の、最早聞き慣れた発言。これまで他の者にも言って来たが返答は皆似たようなものであった。それが自分達の役目なのだと宣って。
「だんなさまのお残しした分はみんなで食べます!」
「たまごやき残してください!」
背後からそんな元気な要望の幼声が響いた。振り返れば朝っぱらに布団に居候してくれていた糞餓鬼共の内の二人が正座で控えていた。控えている癖に要求していた。こらっ、と共に控えていた先達年長の女中らが咎める。直ぐ隣の澪が頭を下げて恐縮する。
「申し訳御座いません。まだ指導不足でして……」
「気にしやしないさ。元気で良いじゃないか。なぁ?」
「「はいっ!!」」
元気溌剌な重なる返答に思わず苦笑してしまう。しかし、寧ろ好ましく思えた。咎める皆を宥める。
……さて。折角の飯である。冷める前に食べてしまうのが礼儀というものであろう。俺は箸を手にして馳走を頂く事にする。
「いただきます」
最初に味噌汁を口に含む。煮過ぎない程好い温かさだった。出汁が良く利いていた。飯は少し迷って最初に麦飯を放り込んだ。口の中に残る汁と合わさって喉を流れるように通り抜けていく。嘆息。喪失感を漂わせた口の中を沢庵を齧って慰めた。
塩味の効いた鱸の身を解して食べる。脂がのっていた。慈味である。五目と共に煮込んだ豆を摘まみ、酢の染みこんだ蛸を咥える。コリコリとした食感を楽しむ。白飯を頬張る。冷たい麦茶を呑んだ。鰹の切り身は大蒜を乗せて醤油で濡らして一気に放り込んだ。新鮮な血合いの味わい。活力が漲るように感じた。何時も食べてる筈だろうに、どれも自分に過ぎた御馳走に思えて仕方なかった。
特に旨かったのは餓鬼女中共が要望したように厚焼き玉子であろう。甘味の強いそれは油の代わりにたっぷりの醍醐を敷いて、卵自体黄身の濃い代物にこれまたたっぷりの砂糖と乳汁を混ぜているらしい。焼き上げも妙技なのだろう、濃厚でふんわりとしっとりとした味と食感は癖になる。
「「……」」
「……いや、滅茶苦茶視るな」
そんな美味故か、俺の箸に掛かる玉子焼きを凝視する文と詩であった。一切れ目に唾を呑み、二切れ目に前のめりになり、三切れ目にはガン見していた。いやいやいや、まだまだお代わりの分は沢山控えてるだろ?そんな見るなって。
「「ぐー」」
「……」
宥めようと思った所に腹の虫の声。俺ではない。年長の女中共でもない。誤魔化すように笑う小娘二人。やれやれ仕方ない……。
「ほれ」
「いいの!?」
「食い残しでいいのならな」
「いい!」
詩の、次に文の返答。丁度二切れ残っていた玉子の皿を受け取って……そして再び差し出した。
「お箸ない!」
「つまり?」
「あーん!」
「さいですか」
二人して目一杯口を広げる双子の姉妹。他の女中達が嘆息して謝罪する。俺は快く二人の要望を受け入れて食べさせてやった。遠慮なく甘えられるのは嫌いではなかった。
「はむはむ!あまい!」
「えへへ、おかーさまの味!」
栗鼠のように膨らませた頬を撫でての二人の御感想。喜んでくれて結構。……今日の卵焼を焼いたのは甘鶴なのだろうか?駄目だな、まだまだ皆の味の見分けが出来ない。情けない。
「どうせだ。此方も食べるか?」
「そっちはいい!」
「ごえんりょせずおたべください!」
「嘘つけ。好き嫌いするなよ?」
序でにお浸しの方も勧めてやったが御丁寧に全力で拒否された。この二人、鳳蓮草が嫌いなのである。
安心しろ、あとで女中らの飯時に特盛りするようにいってやるからな?ククク……。
ーーーーーーーーーーー
朝餉を最後に甘味まで馳走となって温かな茶で以て終えると俺は日課の散歩に洒落こんだ。広い屋敷を回り、家事をする皆に挨拶をしていくのだ。屋敷内の把握と未だに全員の顔を覚えきれてない故にである。
「そのような事気にせずとも構いませんのに」
チリン、と鈴の音がして意見が述べられた。傍らに控える女中に視線を向ける。目付きの鋭い気の強そうな娘が其処にいた。此度の散歩の付き添い役である葛の言である。西の庭園を廻り終えて南側の対の棟に行こうという時の事であった。
「そうもいかないだろ?呼び掛ける時に名前を呼ばないと分からないじゃないか?」
「その際は指差しておい、お前、とでもお呼び下さい」
礼をしながらの申し出。またチリンと音が響く。度々耳にするそれは女中達の間で流行ってるのであろうか?鈴か何かの小物を揺れる音である。しかし何処に飾って……いや、そうじゃなくて。
「流石に態度悪くないか……?」
葛の提案、それは相手の心情を考えぬ横柄な物言いに思われた。幾ら何でも攻撃的で無礼ではあるまいか?
「私達が『旦那様』と御呼びするのは非礼で御座いますか?」
「いや、それは……」
「それと同じ事で御座います。お立場をお考え下さい。皆に勘違いさせてはいけません。立場に合った呼び方があります。上下の関係は明確に分からせねば秩序は保たれぬもので御座います」
「秩序、ね……」
チリンと反響して、葛の言に、しかし俺は今一つ納得がいかなかった。仕事が雑になるとでも言うのだろうか?それとも……だが、俺には日頃が誠心誠意働いてくれる彼女達がいい加減になる姿がどうにも想像する事が出来なかったのだ。
「別に、上下の関係なんてな……皆で働いて、皆で暮らせればそれだけでいいんだけどな」
何であれば、皆と違い明確に役割のない事に俺は何とも言えぬ喪失感を、あるいは虚無感だろうか?そういうべきものを抱いていた。為すべき事、専念出来る事がないという事は拠り所がないと言う事である。
まるで雲を掴むような、否、雲ですらない。何かを何かであるかすら分からぬままに必死に掴もうとして何も捕えられぬような……それは、ともすれば苛立ちに似た衝動すら抱きそうになる。
「それでしたら……やはり何か御趣味を持たれるのが良いかと」
「趣味?」
口元に手を当てて思慮する葛の提案に、俺は足を止めて彼女を直視する。
「はい。脇目も振らずに没頭出来るような楽しみ事を持たれる事が出来ましたら、今御感じになられるような感覚を忘れられるのではないかと」
「没頭出来る、ね……仕事じゃあ駄目か?」
「先程も申しましたがお立場を自覚して下さいませ。私達の立つ瀬がなくなってしまいます。存在意義を否定されるので?」
「そういう訳じゃあないが……」
若干非難するような物言いに、俺は困惑した。普段常に下手の態度である故にである。
「でしたらどうぞお楽しみ事をお持ち下さいませ。一つとは申しません。寧ろ、多彩にある方が私達もお役目を持てますので助かります。仕事がなければ人手は必要ないものでありましょう?」
「そういうものか?」
「そういうものです」
納得出来るようで、納得出来ぬようで、上手く言いくるめられたような気もするが、ここで反発するのも大人げなかった。趣味、趣味か……。
「筋違いな質問だろうが……何が良いと思う?」
「私に尋ねるのですか?そうですね……」
本当に筋違いで、ある意味で呑気で恥知らずな質問に、しかし葛は不快そうな表情を欠片も見せず、俯きながら真剣に考え込む。
「まだ本調子では御座いません。お身体に障るような事はまだ避けた方が良いかと。……室内で出来るようなものが良いのではないでしょうか?」
此方の身体を労わるように思慮深く答える葛。そして再び視線を合わせると思いついたかのように言葉を続ける。
「今の私でしたら詩歌と書物を楽しんでおります。皆と創作して批評し合い高めてまして……一度、ご覧になられますか?」
「創作、ね……」
善意からであろう提案に、しかし俺は渋い表情を浮かべていた。創作物をお披露目するという行為への気恥ずかしさからであった。いざ自信を持ってお出しした作品が感性の違いから叩かれる光景は中々心に来るものである。特に自分と彼女達とでは葛が言うように立場が違うのだから、猶更であった。
「最初から創らずとも、作品を読み聞きして楽しむだけでも良いかと。私達としても旦那様が楽しみ、喜んで下されば励みになります。旦那様から見ての批評も勉強になりますし」
「ううむ……一度考えてはおこうかな。他には、何かないかな?」
葛の勧めを、一旦脇に置いて俺は更に意見を尋ねる事にする。折角皆の手を煩わせるのである。最初の意見に安易に食いつくものではないだろう。
「そうですね……他には、盤上遊戯はどうでしょうか?殿方の楽しみ事としては相応しいものではないかと」
「盤上遊戯……」
その意見に、その単語に、俺の琴線が触れたような気がした。この懐かしさを思わせる感覚は……。
「それは、良いかもな……」
「では、早速行きましょう!」
殆ど独り言に近い呟きに、鈴の音。それに反応した次の瞬間には葛の顔が側にあった。此方に正面から抱き着いて来たかと思えば嬉々とした笑みを浮かべ、上目遣いで催促をする。背の高さから彼女の甘味のある髪の薫りが鼻孔を擽り、衣服越しにも分かる華奢で柔らかな身体の感触に何とも言えぬ感情を想起した。いや、これは……。
「……?」
「善は急げと申します。楽しみは早く多く、それが人生を彩るものです。旦那様の悦びは私達の慶び、さぁ!案内致します!」
「え?あ、あぁ……」
覚えた違和感。しかと腕を抱くようにして導く彼女に、俺は碌に反応も出来ずただただ流されるままであった……。
葛は屋敷の東側の対の一つに俺を案内した。出迎えの弥恵に通されて顔を見せれば、先客達は此方の存在を認識して慌てて並び礼をする。
「あー、そのままでいいよ。寧ろ鑑賞したいからそのま続けておいてくれ」
数は十人ばかりであろうか?将棋、あるいは囲碁に双六、貝合わせに歌留多をしていた女中らは決して仕事をサボっている訳ではなくて、単に今日は当番ではないだけである。あるのだが……遊んでいる所を見られるのは少し居心地が悪いのか遠慮がちで此方を窺っていた。
(これは……此方から動いた方がいいな)
上下関係もあって、彼女らに此方の意思を示す必要があるのを俺は理解した。チラリチラリと見て、興味を持ったのは将棋盤だった。局面を見やる。
「白熱してるな。……勉強させて貰っても?」
「え?は、はい!」
「わ、分かりました!」
打っていた二人……共に武家の生まれなのだという……は此方の要請に慌てて合意する。互いに顔を見合せて、盤面に集中する。
「っ……!?」
何局目であろうか?一方の手が止まる。暫し考え込み、考え込み、考え込み、遂に投了を宣言する。いや、しかしこれは……。
「……代わっても?」
「し、しかし……」
「頼むよ、な?」
無粋なのを承知の上で俺は嘆願する。相手が断れないのを分かっていての卑怯な願いであった。
「分かりました……」
「んっ。悪いが選手交代だ。いいかな?」
そして俺は駒を指した。相手の女中が目を丸くして此方を見やる。俺は一応釘を刺す。
「手加減しないでくれよ?こてんぱんにしてやるつもりで頼む。そうだな、勝ってくれたら何か願い事叶えようか?」
「……お言葉は翻せませんよ?」
遠慮がちに、しかし相手の女中は目付きを変えて確認をしてくる。つまりはやる気であるという事であった。
「勿論だとも」
俺の返答と共に駒が指された。俺は暫し考えて次の駒を指す。先方は、先程の倍の時を使って駒を指し、俺もまた対応した。
駒を指す。指される。指す。指される。駒を取る。駒を取られる。駒を取る。駒を取る。駒を取られる。駒を成らせる……。
「それで……これで王手」
「え?……あぁ!?嘘!!?」
最後の一指しと共の宣言に、相手の娘は唖然として盤面を理解して仰天した。その様に自尊心が満たされる。相手が手加減なしの本気であった事、逆転劇であった事が一層痛快だった。
「旦那様……お強う御座いますね?」
「まさかこんな呆気なく……」
ガヤガヤと、いつの間にか集まり注目していた部屋の女中らの心から賛辞。俺は気を良くして得意気に振る舞う。
「いやなに、これくらい。以前に比べれば易いもの、よ……」
調子に乗って、尊大に語り、そして俺は口を噤んでいた。沈黙して、己の言葉を反芻して……。
「……旦那様。他の遊戯は如何でしょうか?例えば双六等は?」
「ん?……双六か。そう、だな。得意なのか?」
「人並みで御座います。此方は運の要素が強いものですし」
チリン、と鈴が鳴る。視線を向ければ礼と共に対戦の用意を整えている葛。賽を受け取ると、先程まで対戦していた娘に礼を述べてから席を移る。観戦する女中の一人によって傍らに菓子請けが置かれた。間食という事であった。
「おい。昼餉も八ッ時はまだだろ?」
「頭を使うと甘いものが欲しくなりますでしょう?」
「甘いものは別腹です!皆には内緒で御願いしますね?」
俺の糾弾なぞ何のその、何処に隠していたのか甘味をお出して来て自分達もまた頂き始める女中共。此方にも口止め料を差し出して来る。
「やれやれ、太るぞ……?」
「安心下さいませ!皆、運動はしておりますから!」
「さいですか」
女心のない指摘も軽く言い返されて、肩を竦めて俺は賽を振った。賽を振って苺餡の大福に齧りつくのだった……。
あるいは、意外と己は遊戯にのめり込んでしまう性格なのかも知れなかった。気付けば遊戯に熱中していて、昼餉の時間が過ぎていた。俺がそれに気付いたのは女中らが皿を手にして入室した故である。
恐らく此方が遊びに熱中しているのを察して献立を変更したのだろう。三明治漢……サンドイッチを中心とした昼餉が用意されていた。
玉子に肉、魚、野菜果物、生もあれば焼いたもの、燻したもの、煮込んだもの、酢漬けしたもの、揚げたもの、等々、それらを多種多様の組み合わせで白麵麭に挟んでお出しされた。
無論、それだけではない。薄く切って揚げた芋、奶油泡夫、乾蒸餅……皆遊戯をしながら片手で食せる料理であった。紅茶と珈琲、果汁水が飲み物として用意された。
「……その、何だ。済まんな?」
給仕する女中らに誤魔化すように謝意を述べればクスクス笑いながら礼をされた。「八ッ時は御用意致しましょうか?」と問われた時には敵わないと思った。因みに部屋にいた女中らは苦笑いして目を逸らしていた。
「さて、投了かな?」
魚の油漬けを挟んでいた三明治漢を齧りながらの勝利宣言。止めの碁石を碁盤に置けば可愛い悲鳴が上がる。盤面を見れば圧倒的であった。我ながら酷い試合であるように思われた。
「旦那様ぁ、もう少し……手加減をぉ!」
「全力でって約束だったろ?」
愚図る小娘への冷徹な返答。そもそも此方は負けたら言う事を聞くのに相手方には全力で試合するという事以外に何らの条件はないのだ。文句言われる筋合いはなかった。
「うー、自信なくしますぅ……」
「旦那様、本当にお強いですね?」
「双六は良い勝負でしたが……」
「双六は運要素が強いからな」
俺共々食事しながら試合鑑賞していた皆の感想。ここまでで幾つかの遊戯で遊んで見たが、運要素の少ない遊戯では白星を拾う事が多いようであった。その一方で運が絡むと途端に黒星が重なるようで、自分のツキのなさにゲンナリとする所であった。
「ふぁ……」
そして出て来る欠伸。頭を使ったからだろうか、眠気が意識を霞ませる。クスクス、と間抜けな様を見てか口元を隠して漏れる苦笑。
「良い日向ですし、昼寝でもどうでしょうか?」
「昼飯の直ぐ後だぞ?豚になりそうだな」
俺が提案に対して応答したら一層の笑いが起こる。
「ふふふ、これはまた大きな豚さんですね?」
「そうなった皆で御飯を食べさせてあげましょうか?あーんって!」
「移動する時は皆でおぶってあげませんと!」
「勘弁してくれ……」
皆でからかうように、姦しく此方を覗き見ながらの相談。此方が降参とばかりに両手を上げれば皆で己の膝を叩いて招き寄せる。膝枕という事らしい。
「誰を御使いになりますか?」
「枕を用意してくれないか?」
「はい。ですので膝枕を」
「上手い事言ったつもりかね?」
女子連中のノリに肩を竦めていれば横から引っ張られるように身体を倒される。柔らかな膝に頬が当たる。着物に染み込んだ香の匂いが微睡みを焚き寄せる。視線を向ければ此方を見下ろす葛の姿。此方と視線を合わせてしたり顔で、あざとく首を傾げて魅せる。
「葛さん、狡いですよ!」
「卑怯者ー!」
女中仲間の文句に、しかし悠々とした表情で葛は口元に指を当てるだけである。いやはや……。
「全く、仲良くしてくれ……」
眠気が一層やって来て、用意された甘い枕に沈みながら、俺は注意をするだけであった。瞼を綴じる。頭を撫でられ、髪を弄ばれる感触。耳元に近寄る吐息……。
「其処は旦那様の器量次第……で御座いますよ?」
「……?」
舐めるような囁き声は、意識の彼方に溶けてしまって……。
ーーーーーーーーーーーーー
昼寝というのは程好く眠るならば活力の源となるものだが、度を過ぎれば寧ろ悪しきものである。
誰も起こしてくれなかった。あるいは己が起きようとしなかったのか。一刻半にもわたり寝てしまった身体は重く、頭は鈍っていた。それもあったのだろう。女中共が俺を運び入れたのは浴場であった。
皆で世話されながら頭を、身体を、垢を擦り落として、汗を流して、湯に浸からせて貰う。湯から揚がれば身体を拭かれて、着物を着せられる。
「丁度良く冷えてますね」
腰掛けに座って火照る身体を解される俺に向けて、自身の髪を拭き終えた葛は氷を沈めた井戸水に浸した瓶を差し出す。白い汁が満たされている。それは湯上がりの日課である。
「頂こうか。……他に欲しいのは?」
「私は砂糖水で」
「葛さん、果汁水ありますか?」
「はいはい。此方ですよ?」
同じく湯上がりの後輩女中らの注文に、葛は呆れながら答えて行く。良く冷えた瓶を一人一人受け取っては姦しくお喋りしながら飲み干していく。
「葛、悪いが……」
「承知しております。夕餉には良く冷やしたものを」
「助かる」
「何時もの要望ですので」
湯上がりの飯にキンキンに冷えた酒の注文を、既に葛は用意しているらしかった。まぁ、毎回要求してるから当然ではある。まぁ、その前に……。
「はぁ。甘いな」
砂糖でも混ぜてるのだろう。呷った瓶中の汁の濃厚な脂味の混ざった甘味に、俺は深く息を吐く。癖になる味だった。
「慈味が沁みるな。冷たいのも熱の籠った身体に嬉しい」
「御賞味頂けて幸いで御座います」
葛達の礼。俺は瓶を返すと夕餉の用意が出来るまで暫し休息を取る。手足に肩に背中の筋を解されるままに任せて、湯上がり着の女中らの幾人かが羽子板を始めるのをぼんやりと観戦しながら……。
風呂上がりから暫しして、屋敷での一際の大部屋にて恒例の夕餉の宴席が始まる。朝と昼とは比べ物にならぬくらいに豪勢に、豪奢に、豪快に、何よりも煌びやかに。
豪華な皿に扶桑料理に大陸料理に南蛮料理、馳走の山である。旬の味覚、山海の珍味。舶来の珍味。四土の名物。酒もまた同様に銘酒を取り揃えて抜かりなし。
同席する女中らも歌って踊って互いに酌をして、おどけて演劇に遊びに興じてのドンチャン騒ぎである。酒が回り、弱い者はもう頬が真っ赤で、装束が気崩れてしまってるのに気付かぬ有り様だ。尤も、それでも彼女らは決して己の役割を忘れてはいない。彼女らは参加者であり、それ以上にやはり女中であった。
「次は此方はどうでしょう?」
己も若干酔い気味の花鈴から御酌された中身は白く濁っていた。唯の濁酒……と思ったが独特の臭いがそれを否定する。
「これは?」
「乳酒です」
「あぁ。獣乳を発酵させたのか」
波掛かった金糸の髪を揺らしながらの応答。これはまた珍妙なものをと思いつつ俺は一献飲み干す。濃い味わいであった。栄養価が高そうだ。それに思った程に度数は高くはない。
「……もう一杯貰おうか」
「はい。何杯でも」
酌を求めて注がれて、そして呑む。呑む。呑む。そして料理を頂く。肝肉の韮炒めを。牡蠣を白葡萄酒で流し込む。蒲焼にした鰻には山椒を振りかけて。大蒜焼きはホクホクで、揚げ玉葱は逆にカリカリで共に酒が進む。白子の柑橘酢締めは癖になる味だった。
「さぁさぁ、私と夫婦の組をしてくれる御方はいませんかぁ?」
酔った女中らの中には御座敷遊びを始めてしまう者達までいた。夫婦拳で、負けたら装束を脱いで行く等と言う決まりを作ってはしゃぎ出す。負けて周囲から引っ張られて、薄着になってお互い笑い転がる。何だったら酒で火照る身体には丁度良いという始末。
「やれやれ……酔い過ぎだ」
挙げ句には殆ど裸に近い有り様の者まで出てきて、女中同士じゃれ合って、もう滅茶苦茶だよ。
「えへへ……旦那様ぁ。一緒に交じりませんかぁ?」
「そうですよー遊びましょうよー?」
「ここで鑑賞しておくよ」
「「「えー?」」」
微酔い間延びの甘え声で次々と要請される参戦の誘いに、しかし俺はさらりと受け流して断る。運の要素の強い遊びに弱いのは昼間に散々思い知らされていた。不満げにブー垂れる娘連中を無視して俺は御猪口を差し出す。今度は清酒を注がれて、それを見つめる。
御猪口の酒面に映る、物足りぬ己を見つめる……。
「…………」
「旦那様……?」
「済まん。少し酔い過ぎたみたいだ。……縁側で夜風を浴びて来る」
恭しく傍らに控えていた、それでも三分程酔いが回っているように見える葛にそう言付けて、俺は御猪口を呑む事もなく立ち上がる。はしゃいで騒ぐ娘らの幾人かが怪訝に見やり尋ねて来るのを宥めすかせて、幾つか料理を持ち出して、俺は一人部屋を出た。
縁側に出た。欠けた月が夜空に輝き、夜の暗闇を明るく照していた。あるいは月光すら計算に入れて手入れされているのだろうか?漆黒に浮かび上がる庭園は実に風流に思われた……。
「……」
但し、俺の意識は寧ろ庭園よりも月そのものに惹かれていた。導かれるように眼差しは引き留められてしまって、何とも言い様がない感情が溢れて来る。
濁るように、そして滾るようで、溌剌として、溢れるようで、しかしそれはどうしても不完全燃焼で、何かを想起しそうで、しかし理性はそれに触れるのに怖じけていて……酒臭い吐息が漏れる。
「……ハァ」
「だんなさま?」
「っ……文、いや、詩か?」
「はい!詩です!」
縁側の向こう側からやって来た幼い女中見習いの名前を言い当てればぱぁ、と華の咲いたような笑顔と共に寄って来た。双子故に即座に二人を見抜くのは簡単な事ではない。
「ごゆうげはいいんですか?」
「飲み過ぎて休憩中だ」
縁側にて胡座をすれば、詩も倣うようにちょこんと座り込む。チリン、と音が響く。
「では、おつきあいいたします!」
「それは結構。殊勝な心掛けだ。食うか?」
「はいっ!!」
退出時にくすねて来た饅頭をくれてやれば喜んで食らう詩。遠慮の欠片もない様は朝餉の時もそうだが可愛げがあった。飾り気ない子供らしい豊かな喜楽の表情は見ていて微笑ましい。
「そちらこそどうした?厠か?」
母親と文は共に夕餉の宴席に参列していたのは出る前に目撃していた。それから抜けるとなると理由は限られる。
「ちがいます!おしゃれしていたらおそくなったんです!」
「お洒落ねぇ。白粉も髪結いもないようだが?」
普段と対して変わらぬ出で立ちに、俺はジロリと観察して尋ねる。ふんすっ、と拗ねるように詩は鼻を鳴らす。
「おしゃれも色々あります!みえないおしゃれもあるんです!」
「返し寿司みたいに?」
「はい!」
「いや、認めるなや」
せめて裏勝りといえ、と突っ込むが詩には今一つピンと来ないらしい。まぁ、そもそもお洒落を本当に理解しているか怪しいものだけれど。この歳は華より団子である。今も渡した団子食ってるし。
「喉詰まらせるなよ?」
「はい!」
暫し、俺は黙り込んで時節外れの月見に洒落こみ、詩はそんな俺の差し出した菓子を食み続ける。背後の明るい喧騒が何処か遠くに感じた。
「……何か、足りないと思った事はないか?」
「……?」
ふと、口にした俺の問い掛けに、詩は首を傾げて此方を見上げる。何を尋ねられているのか良く分からなそうな表情を浮かべていた。
「たりない、ですか?」
「あぁ。足りないものさ」
極めて抽象的な問い掛けなのは、俺自身が言語に出来なかったからだった。言い様のない、表現し難い喪失感。ポッカリと穴が空いてしまった感覚。まるで欠けてしまった月のように。問い掛けは、幼児よりも、寧ろ自分自身に向けてのものに近かった。
「ありません!」
何処まで理解しているか知れぬまま、詩は元気に返答した。にぱぁと満面の笑みを浮かべる。
「かあさまがいます!文がいます!ねえさま達もいます!ごはんも、おやつもおもちゃもあります!おふくもおふろも、だんなさまも、なんでもあります!だから、ないものなんてありません!……あ!ほうれんそうはいりません!」
自信満々に、詩は言って見せる。最後に少しだけ恨むように此方を見ながら。怒るなよ。好き嫌いは駄目だぞ?
「むー。……だんなさまは、なにかたりないのですか?」
「……どう、なんだろうなぁ」
詩の問いに、俺は明確な答えを出せず、言葉を濁す事しか出来ない。
何かが違っていた。何かが欠けていた。全てが満ちている筈なのに、何一つ不自由はない筈なのに、何も悩む必要もない筈なのに、なのに、ここは己の居場所ではないように思えてしまう。俺のいるべき場所は、それは……。
「……」
そんな明瞭としない俺をぼんやりと見上げ、考え込むようにして、そして幼児は幼児なりに気を引き締めるような表情を見せる。
「では、だんなさまがたりないものを詩ががんばってうめます!詩だけじゃだめなら文やかあさまも、ねえさま達も、みんなでがんばります!たくさんがんばります!!」
ふんすっ!と鼻を鳴らしての宣言。その健気な覚悟に、思わず苦笑してしまう。
「そうかそうか。そりゃあ……嬉しいな」
「えへへへ……!」
覚悟の御礼に頭を撫でてやり、猫のようにされるがままに、詩は喜びに目を細める。
「本当に、嬉しいな……」
幼児を宥めあやしながら、譫言のように俺は今一度呟いた。撫でながら空を見た。欠けた月を見上げ続けた。だけど……。
「……」
……全てが偽物のように思えて仕方ない感覚は、どうしても拭えなかった。
チリンチリンと、闇夜に音が響いた……。