和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件 作:鉄鋼怪人
天葦平原。央土の更に中心地を占める肥沃な平原に広がる人界の中心地、扶桑の都。その一角……豪商共の豪奢な大店が建ち並ぶ朱雀通りに鎮座する扶桑造と南蛮造の折衷したような煉瓦館、その三階執務室に彼女はいた。
カリカリカリと羽筆の音がひたすらに小気味良くに響き続ける。パチパチパチと算盤の弾く音が鳴り続ける。硝子の窓辺に面した上座に席を占め、部下共を控えさせて執務をするのは正しく可憐な少女というべきであろう。
癖気のある蜂蜜色の髪、翡翠色の瞳、北土人や御簾内の姫君以上に白い肌は色濃い南蛮由来の血故のもの。麗らかな日差しを浴びて、愛らしく鼻唄交じりに、流れるように筆を執り、印を押していく。書類を差し出して送り出し、また束が机の上に追加されて嘆息する少女……。
「やってもやっても終わりませんね。上に上がれば上がる程、更に仕事が増える……考えると馬鹿馬鹿しく思えてしまいます」
そうは思いませんか?橘商会本館金庫番兼三番店及び橘呉服店番頭、橘佳世は手を止めると肩を鳴らしながらに朗らかに皆へと問い掛ける。
「御冗談を。金庫番様は実に愉しげに仕事を為さっておいででしょう?」
「全くその通り。敏腕を振るわれている時の金庫番様は実に生き生きとされております」
皆の言葉は御世辞半分に、しかしもう半分は本音であった。最初は商会長の娘の縁故と軽く見られて、あるいは妬まれていたものであるが、北土での経営への貢献に方々での人脈作り、朝廷や民草への広報、それらは確かな実績であり商会に利益をもたらして来た事は最早誰も否定出来ない。時たまに珍妙な散財に奇行染みた判断はするが……それでも築き上げた実績の山の前では細事に過ぎず、霞んでしまうものだ。何よりも、店員の待遇改善が有り難かった。
「あら、少し心外な言われようです。まるでお金に恋する金の亡者みたいではないですか!」
微かに頬を膨らませて愛嬌ある拗ね方をする佳世。その愛らしい振る舞いの、やはり半分は演技であろうと皆は見抜くが同時に半分は地であろうとも見抜く。何よりも可愛いは正義である。何はともあれ彼女に誰もが甘くなってしまっていた。黙って苦笑するのみだ。
「誰か弁護してくれてもいいでしょうに。そう思いませんか、玲旺君?」
「あははは……」
幼さを残す混血児の少年は、宛てがわれた執務の机でただただ乾いた笑みを浮かべるのみであった。下手な事は言えぬ。皆の耳目がある故に。
比較的佳世に可愛いがられている故に事務の手伝いをさせて貰っている少年は将来有望であったが、同時に部屋に詰める者達の中では下から数えた方が早い身分であった。出島の遊女から生まれた餓鬼、お里が知れている。出しゃ張る訳にはいかぬし、それは主君も承知していよう。承知する上での軽い意地悪であった。少年の苦笑は察してくれという合図である。
「まさかの裏切りとは……悲しいですね。もう、折角世話してあげてますのに!」
随分と演技がかった嘆息。態とらしく肩を竦めて、扇子で己を扇ぎ嘆く。皆、玲旺に御愁傷様と視線を向ける。嘆きたいのは玲旺の方であった。
(本当、困った御方だ……)
ひたすらに誤魔化すような微笑み、扶桑人らしい愛想笑い。そして少年は悪ふざける主君を観察する。
不遜な事は承知している。しかし、本当に甘く愛らしい美貌の持ち主だった。甘いお菓子の家にでも住んでいそうなこの令嬢は、両親の血を色濃く受け継ぎ、濃縮してるようにも思われた。守銭奴、というのは若干自虐的であろうが確かに商魂逞しかった。そして……同時に慈悲深い。
(そうだ。本当に、慈悲深い……)
切れ過ぎる程に切れる智謀を持ちながら、決して弱者を踏み潰すような人ではない。悪戯癖があるし、仕事には手厳しいが、弱き人々への情けも見える形で、そしてそれ以上に見えぬ形で幾つも施している事を少年は知っていた。それこそ、今まさに己を拾って商いの道を仕込んでくれている事はその一例であろう。
……無論、其処には己の直属の部下を育成したいという打算もあるのだろうけれど。やらぬ善意よりやる偽善であろう。
「金庫番様、そろそろ八ツ時です。それまでに区切りの良い所までは終わらせてしまうべきかと」
「むっ。世知辛いものですね。紅茶はたっぷりと蜂蜜を入れて貰いましょう」
話題を変える目的もあっての玲旺の促しに、南蛮時計をじっと凝視して、本当に仕方なさげに佳世は仕事を再開した。追加された書類の山をテキパキと手早く捌いていく。流れるように署名して、印をしていく……。
「……新規の倉借用の申し出?五番店からの申請ですか?」
ポンポンポンと、軽快に押印していく手がピタリと止まった。玲旺を始め、雑務に勤める周囲の丁稚奉公人らもまた、一斉に動きを止めた。そして、微かに緊張。皆の愛すべき令嬢の纏う雰囲気が不穏に変化した気配……。
「……はい。番頭より荷を積めるためにと」
書類を持ち込んで来た中年の奉公人が恐る恐ると答える。間髪容れず、佳世は更に問い質す。
「彼処には元々橋筋と伊萱の大倉が割り当てられていた筈。それで足りぬとは、一体何を積めているのですか?」
「それが……米俵であるとか」
「米俵……まだ刈り入れ時期ではありませんよね?古米ですか?」
「そのようです」
「先物の米相場がまた上がっていると聞きましたが?去年の分を売り切れぬとは思えません。寧ろ……買ってますか?」
「そのようです。各所より目敏く古米を見つけ出しては買い貯めているようです」
「値上がりしてますからね。売れ筋でしょう。それを、どうして倉なぞに?」
追及は次第に詰問に変わりつつあるのを奉公人は感じ取っていた。微かにたじろぎ、しかし説明する。
「故にかと。今年の収穫も流通も、平年より落ちるとの見立ですので。市場が高止まりするまで売り控えようという事かと。余所の店でも同様の動きが……」
「直ちに朝廷に売却の提案をして下さい」
奉公人の説明を遮るように、佳世は即断した。冷たく、有無を言わせぬ口調。
「金庫番殿、それは……」
「あぁ、言い忘れてましたね。右大臣殿の方に話を通してから売り込む必要があります」
「いえ、そうではなく……!!」
周囲の者達が宥めようとするのを、しかし佳世は手で以て有無を言わさぬとばかりに静止する。
「半分は朝廷に。民草への施しとして……そう大いに宣伝させましょう。残りは各店に分散して秘匿を。決して悟られぬように。帳簿がもう一冊必要ですね」
「そ、それは……」
佳世を諌めんとした商人達は、少女の言に戦慄しつつあった。それは、少女の発言が単なる慈悲によるものではない事を意味していた。
「よもや、徴発される可能性があるから先手を打っておくと……?」
「それだけではありません。打ち壊しと、それと従業員を飢えさせぬための対策ですね」
「まさか、流石にそこまでの不作では……」
ここは央土である。辺土ではない。米の徴発に打ち壊し等と……いや、打ち壊し自体は有り得ない事はないが飢饉なぞ彼ら彼女らの想定の内にすらなかった。都は常に最優先で食糧が集まる地である筈だ。貧民集まる外京ですら餓死する者なぞいない程だ。
「各地より、職を求めて流民が押し寄せて来ていますよ?」
「左様です。ですが暴動を起こす程の米不足の予兆は今の所ありません。収穫期は間近です」
橘商会は常に市場調査に余念がないし、過去の市場の情報は膨大に保管されている。酷い物価高は、しかしそれでも過去のそれらと照らし合わせれば辛うじて許容範囲内であった。他店の動向を見る限り、長月には貯めこんでいた米を一斉に売り払う事になるだろう。新米と合わせて、急速な米価下落が予想された。暴動を恐れるのは、心配のし過ぎではなかろうか?
「これからもない、とは言い切れませんよ?いえ、そうでなくても……収穫された米が市場に出回るとは限りません。違いますか?」
「いや、まさか……」
奉公人らが顔を見合わせる。言いたい事は理解するが今一つ納得出来ぬという有り様。その曖昧な態度に令嬢は不愉快そうに眉間に皺を寄せた。ピシャリ、と扇子が閉じられる。まるで話を打ち切らんというように。
「私は御願いをしているのではありませんよ?命令を下しているのです。分かりますか?」
「……」
淡々と、冷酷な女王の如く、金庫番は宣告する。皆がその圧に黙り込むしかなくて……そして、豹変したようににこりと少女は砂糖菓子のように微笑む。
「明日、件の番頭殿との面会の手配を。……あぁ、それと。上手く数字合わせてますねと伝えて下さい」
そんなあっけらかんとした物言いで彼女は件の番頭の店の財務諸表を差し出した。執着的なまでに横線と丸を書き殴ったそれの意味理解して、今度こそ皆が戦慄した。
「ちゃんと納得行く説明をしてくれるよう、お伝え下さいね?」
本当に天使のような愛らしい微笑で、蜂蜜色の金庫番は警告した……。
「御嬢様、流石にお戯れが過ぎます」
「あら、そうですか?私は真剣に御仕事しているのですけれど?」
八ツ時の鐘が鳴った。小休止刻に奉公人らが若干逃げるように退席した部屋の中での老女中の苦言と少女のやり取りであった。純粋無垢な満面の笑みに、お鶴は小さく溜め息を吐く。
「相手は商会内でも五本の指に入る売上を誇る番頭殿……橘家の分家筋でもあります。御嬢様とは言え、彼是と容赦なく貶める事はお出来になりません」
諸表の数字の違和感は、しかしあからさまなものではない。疑惑に留まる程度……実際に不平の類いをしているならば見事なものであろう。善く善く調べねば訝る事すら出来ぬ。何よりも潔白の可能性すらあり得た。その程度の不備。米俵の事もあるが、喧嘩を売るには弱い札であるように思われた。無謀ではないか?
「別に私は争うつもりも、貶めるつもりもありませんよー?ただお話をしたいなぁ、と思っているだけでしてー?」
「そのような振る舞いが人を逆撫でさせるのですよ?」
淡々とした容赦ない指摘に、佳世はそれ以上の反論が出来ずにいた。愛しく甘い少女は、しかし酷く加虐的な側面があるのを女中は理解していた。それが商人としての敏腕に結び付いているのは事実であるが……時としてやり過ぎる嫌いがあるようにお鶴には思われた。
「……少々、急ぎ過ぎているのではありませんか?何も焦る必要はないでしょうに」
宥めるように、窘めるように、労るように、そして諫めるように語って、紅茶と茶菓子を差し出すお鶴。既に毒味は終えていた。佳世は躊躇なく茶器に口をつけて紅玉色の液体を流し込む。要望の通りにたっぷりの蜂蜜の味がした。
「お鶴さんの言う通りです。今の立場でも破格の待遇、功績も十分。何よりも御寵愛深く、よもや後継に他者を任命する筈もありません」
茶の同伴に与る玲旺もまたお鶴の言葉に同意した。何よりも最後の要素が何よりも重要であった。主君の父でもある商会長が今更娘以外を指名するとは思えなかった。時間さえあれば主君の成功は約束されていて、寧ろこの猶予時間は主君の立場を固めるための財産ですらあった。無理をする必要はない。
「……花盛の刻というのはあっという間に過ぎてしまうものです。悠長にしている暇はありません。敏腕美少女商会長、中々そそる題材ではありませんか?」
「そそる……」
茶に浸した焼き菓子を一口口にして、ふざけるような南蛮娘の物言いに、玲旺はどう答えるべきかと戸惑った。お鶴はと言えば再度深く溜め息を吐いて淡々と指摘する。
「見合いの席を幾度も壊しておいて随分な言い様でありましょう?噂になっておりますよ?橘の御令嬢は釣った男子に餌をやらぬ、と」
玲旺もその話については見聞きしていたし、何なら目撃すらしていた。勢い凄まじく、源流を公家というれっきとした家柄に辿り着く橘家の令嬢となれば有形無形の形で言い寄る男は数知れない。実績は兎も角、見立ては幼さを残す甘い少女となれば尚更に。しかし故に墓穴を掘る。
その手練手管、一挙一動、教養に振る舞い、打算で迫る貴公子すらもお喋りする内に夢中にさせられる。その癖に次の誘いをやんわりと袖にして流してしまい、他の男と御茶をする。文は何時だってたんまりと送られて、しかし即座に返す事はない。非礼にならぬ、しかしやきもきとさせる絶妙な刻を置いての返信……愛しさに狂って、己を少しでも見て貰おうと便宜を図り、物を贈りと競い合う。一部の姫君らから酷く嫉妬されるのもさもありなん。
「心外な話です。此方としては傷つけぬように労ってるだけですのに。本当、困っちゃいますよねぇ?」
欠片も悪びれぬ言い様は、少女の神経の太さを証明していた。お鶴はまたまた溜め息を吐いた。一体これで今日何度目であろうか……。
「御嬢様、何事も程々に為される事です。才に溺れ、美貌に溺れ、驕り昂れば足を掬われるものです。行き過ぎて欲を深めるのはおよし下さいませ」
それは商人故に、商才ある故のお鶴の諫言。金を扱う者は恨まれるものである。美しき者は妬まれるものである。全てを持つ故に、向けられる様々な負の情念、だからこそ焦らずに、そして表向きにでも分を弁えて……年寄りの冷や水と言われようとも、戯言と言われようとも、嫌われてしまおうとも、口酸っぱく指摘するのはこの娘を赤子の頃から世話してきた女中としての義務であった。この娘に不幸になって欲しくなかったから。
「お鶴の言いたい事は分かりますよ」
お鶴や玲旺の想定とは違って、佳世は憤慨する事も、言葉を弄び煙に巻く事もなかった。心から諫言を受け入れていた。紅茶を啜る。微笑む。儚さを思わせる微笑。
「清貧に、無欲に……否定はしません。あれもこれもと無軌道に欲張るのは無駄というものです。選択と集中は事業戦略の正道でしょう」
ですけれど……佳世は続ける。そして深く思い詰めるように、窓辺を向いて頬杖をする。
「過程なんです。目的でも、遊びでもなく、全ては過程に過ぎないのです」
「過程……?」
「願いを叶えるには力が必要、手段は手段。手段と目的とを履き違えてはならない。そして目的のためならば……」
それは信頼する者達に向けての精一杯の弁明のようで、己に確認するためのようで、誰かに向けての贖罪のようで……。
「私の願いは……ただ、一つだけ」
窓辺から、遠く遠くを見据えて、焦がれて憧れて、乞がれるように、儚く呟いて……。
漆壱回目
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歩く。歩く。歩く……庭先を回る。渡殿を渡る。縁側を行く。棟を幾つも過ぎていく。終わりなく彷徨い続ける。方角を定めて、突き進む……。
「旦那様、流石にこれ程長くはお体に障るのでは……」
「いや。寧ろ外の風を浴びた方が気分が良い。日射しもな?」
同行する葛の苦言を誤魔化すように受け流す。幾度目かの類似した今日の応答であった。
無理もない。この前体調を崩して寝込んでいながら、今日は朝早くから続く屋敷の散策、もとい探検である。此方の身を慮るのは当然だ。ましてや、所々で寄り道をしているとは言え、色白で華奢身の彼女では疲れても来るだろう。己が休みたいという理由もある事だろう。
……先日見せられた兎を思わせる黒襦袢が体力の消耗に追い討ち掛けてる気がしなくもないない。大丈夫?何かキツそうじゃない?もう少し大きい物に着替えない?
「問題ありません!……太ってもいませんよ!?」
即断して、一拍置いて慌てたように弁明する葛の態度に、俺は何処か微笑ましさを覚えた。若干恥ずかしげに己の胴周りや臀部に重なる生地を擦って持ち上げて、位置を整える様、肉をつねって衝撃を受けてそうな表情に思わず苦笑する。
「良いじゃないか。痩せ過ぎは良くないぞ?」
乙女心への配慮がないと言われそうであるが、葛はどちらかと言えば華奢な肉付きであった。甘鶴もそうであるがもう少しふくよかでも良いと思われた。ふと荒く触れると折れてしまいそうで怖くなる。
「せめて腰や腹以外が……旦那様としては胸元が一番、でしたでしょうか?」
「んんん?……そんな話、した事あったか?」
胸部の位置を調整をしながらの葛の発言に、俺は何とも形容詞し難い気持ちとなって質問する。確かに、ふと視線が向く事があるがそんな話、していたか……?
「……はい。間違いなく。深酒の時に仰いました」
「そう、か……」
葛の言に嘘があるようには思えなかった。深酒をした憶えはないのだが……怪我をする前の事であろうか?
「それよりも……旦那様、そろそろ御昼時で御座います。せめて昼餉は摂られるべきかと」
空を見て、天頂を過ぎて傾き始めている日を見ながらの葛の提案。手元に抱えている風呂敷包みを強調する。
「その風呂敷の中身は、やはり飯か。用意がいいな?」
「旦那様の御期待に応えるのが女中の務めで御座いますれば」
「ふむ……」
俺は観念して、近場の縁側に腰を下ろす。葛は恭しく礼をする。
「直ちに、御用意させて頂きます」
風呂敷を開く。水筒が三つに重箱が三段。開かれる。一段目が握り飯で、二段目三段目が惣菜であった。玉子焼きに焼き魚、煮物に漬物……甘味まであった。
「此方は麦茶で御座います。澄まし汁は此方に」
「あぁ。……お前も食べるといい。先に何か取れ」
「……それでは、御厚意に甘えて」
俺の勧めに、少しだけ沈黙して応じる。海苔で巻いた三角形の握り飯を箸で掴むと用意していた受け皿の上で割る。欠片を啄むように口に含んだ。恐らく具材は鮭であった。
「美味しゅう御座いますよ?」
「お前の食べ方見てると余計思うよ」
上品な食べ方だった。服装と調和してないのを除けば様になっていた。公家の食し方に思えた。
「……」
「どうか致しましたか?」
「いや。美味しそうに食べるなと思ってな。遠慮せずに食べたいだけ食べてくれればいいぞ?……まぁ、俺の用意したものじゃあないんだがな」
まさに眼前の娘が用意した昼餉であるのに偉そうな物言いだと我ながら思った。苦笑いして誤魔化して、握り飯の詰まった箱を見る。
「こいつは……焼き握りか?」
海苔の隙間から醸し出された豊潤な醤油の薫り。食欲をそそる。
「俺は作法を知らんからな。好きにさせて貰おうかな?」
布巾で拭いた手で掴んで齧る。パリッと小気味良い音がして、口の中に広がる米の甘味に醤油の旨味。そして……。
「油味?」
狐につままれたように瞼をパチクリとさせて、齧った断面を見やる。これは……。
「天婦羅の衣?天かすか!」
天婦羅を作った時の衣の欠片。山海の食材の旨味が染み込んだ油で揚げられたそれは醤油とも米とも海苔とも相性が良かった。胃袋を満たす満足感……。
「うん。旨いな。此方は……縮緬山椒か。此方は……猪肉の甘露煮とはまた珍しいな」
一つ二つと、握り飯を食らって中の具材を楽しむ。あっという間に三つ平らげてしまえば差し出される水筒。葛から受け取り呷る。麦茶の清涼感が喉を脂気を洗い流す。目の前に、玉子焼きが差し出される。
「あーん、して下さいます?」
悪戯するように首を傾げての微笑み。他の女中らの前では滅多に見せぬ柔らかで甘えるような表情。黙って大口を開ける。咀嚼して、呑み込む。乳の味が後を引く……。
「やはりこの味は良いな。旨くて深みがある」
「それは嬉しゅう御座います。此度のは私が搾りましたから」
「おいおい、甘鶴の仕事を奪ってやるなよ?」
「多少の役務交代は良くある事ですので。特に人気なのですよ?娘達との時間を作ってあげてるのですから感謝して欲しいものです」
クスリと何処か妖艶な微笑。どういう訳か、先程よりも何処か意地悪そうに見えた。
「成る程……そういう見方もあるか」
俺は己の浅慮に反省して茶を今一度呷る。『旦那』でありながら情けないものだと思った。前々から実感していたが彼女らの仕事を、俺は表面的にしか理解出来ていないように思われた。
(餓鬼を迎えるって話も……人余り云々と言うのも悪いのかもなぁ)
普段当たり前に受けている持て成しも、しかしその実彼女らの細やかな配慮に満ちているのだろう。見えない苦労は数多あろう。人が足りていると気安く言うのは誤っているのかも知れない。
……それに、辛い『外』からこの『屋敷』に向かい入れる建前を、俺自身が否定するのは良くない事なのかもしれない。
「旦那様、此方の昆布巻を……旦那様?如何なさいましたか?何か、ありましたか?」
葛は、じっと己を見つめる俺の視線に、困惑したように眉をひそめる。迷いつつも、俺は彼女に問う。
「葛、お前はどうして『外』から此処に来たんだ?」
「……何故、そのような質問を?」
沈黙、そして微笑のままに葛は問い返す。まるで張り付けたような笑顔だった。
「この前、皆と駄弁ってな。幾らか『外』での生活について聞いたんだ。それで、興味をな。……嫌な質問、だったか?」
「……正直、愉快ではありません」
葛にしては珍しいあからさまな嫌悪の発露であった。普段から皆に釘を刺す事はあっても、このような侮蔑を剥き出しにはしてなかった。
「そんなに、か……」
「私は親に売られましたので」
「……」
葛の言に、俺は黙りこむしかなかった。発言の意味を理解するのに刻を要した。
「売られた……」
「はい。この『屋敷』に流れ着く事が出来たのは幸運でした。本当ならもっと酷い所に……ここの娘達では珍しい話ではありませんが」
もっと酷い経緯を経た者も幾らでもいる、と葛は平然と宣う。やはり嫌悪感を剥き出しに。その対象は『外』という世界そのものに向けられているように思われた。
「想像も、出来ないな……」
「出来ない方が良いかと。皆も、思い出したくない筈です」
「俺の質問は藪蛇だったか?」
「旦那様の御要望ならば、我慢致しますが……」
何とも言えぬ表情を浮かべる葛。明言こそしないがそれ以上は勘弁して欲しいという意思が見て取れた。
「すまなかったな。……甘鶴達にも悪い事をしたな」
「そうお思いでしたらもっと可愛がってあげて下さい。そうすれば皆、安心致します」
「俺は望まん奴を無理に追放なんざしないぞ?」
「浅ましい事ですが人は明瞭な行為がなければ信じられないものですので。それに……気丈に振る舞ってますが、寂しがり屋は意外と多いのですよ?」
そういって、鮭の欠片を差し出す。口を開いて頂戴する。咀嚼して、呑み込む。
「お互いに慰めればいい……というのは不足なのか?」
普段を見る限り、皆仲良くはしゃいでいるように見受けられるが……俺の目は節穴なのだろうか?
「女三人姦しい、と申します。決して仲が悪い訳ではありませんし、義理の姉妹として大事には思います。ですが……やはり旦那様が積極的に締めて纏めて頂くのが一番かと。私達は本質的に同列ですので」
「主人として気概を、って事か?」
「群れの頭目、と表現しても良いかと」
「うーん、その言い方は何か動物的だなぁ」
「それでは飼い主、とでも?」
「悪化してない……?」
あんまりな表現だと思った。『屋敷』の女中らは犬では無かろうに。
「寧ろ、そのくらいに考える方が良いかと。年少の娘らなんて少々目に余ります。叱って叩いて、一度みっちりと旦那様が躾をした方が良いかと思いますが……」
「流石にそれは過激な提案だなぁ」
握り飯(鱈子)にかぶりついての返答。葛は愚かではないが、手厳しい娘であった。俺は難色を示す。
(泣かせるような事はなぁ)
赤ん坊は泣くのが仕事というが、ならば子供は騒ぐのと笑うのが仕事であろう。叱責が悪いとは言わぬがあの程度での振る舞いに手を出すのはやり過ぎに思われた。
……ましてや、『外』で辛い日々を過ごして来たのだ。この『屋敷』でまで同じ思いをさせるのは気が引けた。
「旦那様の御気持ちは分かりますが杞憂で御座います。分を弁えさせませぬと、それこそ思い上がって皆と軋轢を生むもので御座います」
「恨まれるんじゃないか?それこそ母親にも」
「まさか!甘鶴達も物事の善し悪しは承知しております。年少の義妹らとて、断じて旦那様を悪しく思う筈がありません。そこまで愚かではありません」
澄まし顔でそんな事を言って見せ、水筒の茶を啜る。遅れて俺の飲んだ水筒だと気付く。
「……達者な物言いだな?旦那様の水筒を勝手に飲んでいいのかよ?」
葛への詰問は意地悪であった。弁当を共に食そうと勧めたのは俺であるし、麦茶の注がれた水筒は一つだけであった。詰るのは筋違いであるし、それにしても横柄だ。それは手厳しい事を語る彼女への当て付け……というよりも指導を目的にしたものであった。
「……申し訳御座いません、旦那様。今、御返し致します」
「それでは足りんな。飲んだ分の茶を今すぐ補填して欲しいものだな。無論、吐き出すなんてのは止めてくれよ?」
謝罪に対して、俺はわざとらしく責める。無理難題を口にして困らせてやろうとする。
「……」
じっと、葛は此方を見やる……。
「……恐縮ながら私では御要望に御応えする事は出来ません。どのような罰でもお受け致しますので、どうぞ申し付け下さいませ」
頭を垂れての慇懃な宣言は、慌て顔を期待した俺を不満にさせた。だから、更に一歩踏み出す。
「罰ね。……例えばどんな事かな?」
「頬を叩かれても、顔を殴られても、腹を蹴られようとも、首をお絞めなされても、それ以上の折檻でも……喜んでお受けさせて頂きます」
「……冗談?」
「お疑いなれば、今ここで」
「……」
淡々と此方を見据えて、見上げる葛に、その瞳の奥を覗いて俺は若干怖じけた。慌てて娘らの代わりにと申し出ていた甘鶴とはまた方向性が違うが、その性質は同じだった。
嘘偽りのない覚悟。命じれば、躊躇なく抵抗なく、強いられるだろう全てを受け入れるのが確信出来た。何れだけ痛め付けられても、何れだけ貶められても、それを当然のように認めてそれでも尽くすだろう事が嫌な程に分からされてしまう。まるで手に取るように、理解出来てしまう……。
「……勘弁してくれ。俺が本当にすると思うか?」
「御試しなられて見ても良いのでは?躾としても、楽しみとしても意外と興に乗るかもしれませんよ?」
「躾なら兎も角、流石に悪趣味だろ?」
「旦那様の行う事に悪趣味なぞ、思う筈がありません。私達は旦那様の行いを肯定し、荒ぶる心を恭しく受け入れる他ありません」
「神様じゃああるまいに」
荒御魂、荒神、神が為すは善……その行為は全て受け入れ、ただただ慰め宥めて受け入れるのみ、古く旧き時代の神々との付き合い方であったか。人が無力で無意味で無価値であった事の有り様。奴隷根性である。神々相手ですらそうなのだ、たかが『旦那』相手に大袈裟で卑屈過ぎる在り方であろう。
「そう言えば……俺の悦びがお前の悦び、だったか?」
「私達の、で御座います」
「崇められる立場にもなってくれよ」
試されている訳ではないだろうが、振り切って割り切れるものでもない。己の楽しみのために誰かを容赦なく扱えるなんて事は意外と容易いものではない。大切に思っている皆であれば尚更だ。
「それでは忠節ならばどうでしょうか?」
俺の疑念と不満に、葛は即答で反論してみせた。しかし、忠節とな?
「『屋敷』に迎えた事へのか?」
「それだけではありません。……旦那様は覚えておられぬでしょうが」
そしてすっと迫り来て、葛は胡座を掻いた俺の膝の上に乗っかった。俺の着物に手を掛ける。彼女、剥き出しの肌の温もりを感じ取る。
「……葛?」
「御無礼を」
手短にそう語り、俺の胸元を剥ぎ晒す葛。外気に晒された傷だらけの見るに耐えぬ身体に俺は顔をしかめた。眼前の葛の、白く滑らかで柔らかな肌と比べれば尚更であった。
「何を……」
「この傷です」
「はい?」
触れる指の感触に身震い。一瞬遅れて己の身体に刻まれた傷跡の一つをなぞっている事に気付く。葛と顔を見合せる。微笑みながら彼女はまた別の傷跡にふれる。
「ここと……それにこれ。この焼けた肌も」
そういって、一つ二つと様々な傷に触れていく。一体……何だというのだ?
「私の愚かな思いつきで皆を危険に晒した際、旦那様がお受けになられた傷で御座います」
「……知らんな」
「私は、覚えております」
ぎゅっ、と更に彼女は密着した。胸板に頬を当てる。吐息が硬い肌を撫でる。上目遣いでうっとりとした眼差しを向けられて、思わず息を呑む。
「馬鹿な娘でした。賢しがって、皆を死なせかけて……旦那様にお救いして頂いて、こうして傷を増やしてしまって。恥じ入るばかりです」
「そんな事は……」
きっとそんな事は思ってなかった筈だ……そう言おうとして、しかし言葉が途切れたのは下腹部に感じた言い様のない感触と感覚故の事だった。彼女が腰をゆっくりとくねらせて、擦れる感触に疼く感情。熱い。熱が溜まるようで、彼女を見たら微笑まれて、遊ばれてるように思われた。
「……」
「んっ……♪」
殆ど無意識に彼女の臀部を両手で掴んでいた。黒襦袢の密着した尻に爪を立てて深く深く食い込ませていた。余裕そうな女の面を、何処までも冷たく見下していた。此方の言に逆らい反論する彼女を、躾ねばならぬと思った。
「俺はいいとして、皆の分の仕置きは必要だな。……俺は何かしたか?」
「……何も」
「それは、良くないな」
「はい」
こいつ自身が言った事である。罰は必要だろう。
「これは正当な躾なれば、同時に恩義への誠意。忠義……ですので、何も気に病む事は御座いません。寧ろ、道理故、どうぞ気の赴くままに……あっ」
彼女が最後まで言う前に押し倒していた。彼女の股の間に身体を押し込んで、がっちりと尻を掴みこんで、のし掛かる。上と下が、明瞭となる。彼女の肌を見る。真っさらだ。己と大違い。不遜だった。
「その肌……気に入らないな」
「では、如何に?」
「浅傷なら、消えるまでは皆に見せしめになるんじゃないか?」
「……でしたら、此方等は?」
此方の案に蠱惑的に唇を舐めた葛の、その白い手が下腹部に伸びた。鼠径部を、その下方を、艶のある表面の生地を己で幾度も撫でる。袋を慈しむように。
「成る程……」
俺は知っていた。気付いていた。仕える者達が皆、己と身体が違う事を。己にはあるものが、どういう訳か世話役たる皆には欠けている事を。何処か感じていた疎外感は、しかし、故に今は好都合。何せ……。
「元から欠けていれば、傷つけ過ぎる事はない……そうでしょう?」
「しかし……裂いてしまうがいいのかよ?」
黒襦袢越しに一層臀部に食い込む爪。決して安くない筈だろう生地。衣装。しかし折檻するならば無惨に打ち捨てられるのは道理である。見下しながらそれを問う。儀式であり、それ自体が罰であった。何はともあれ、結論は決まっていたのだから。
「ふふふ……」
葛は低く嗤うと布地で隠れていた噛み合わせ結ぶ開閉金具を、紧固件を見せつけた。まるで悪戯成功とばかりの勝ち誇った表情を見せつけられる。企てを裏切られてどうだとばかりだった。
たかが贄人の癖になめた真似をしてくれると思った。
「喧しい」
「あっ……♪」
一方的な叱責の罵倒。直後にビリッと、黒襦袢が裂ける。深く深く爪が食い込んだ状態で掌が滑ったからであった。裂けた布地の下から、湿り、滑り、生々しい感触。赤く滴る粘り気のある液……まるで俺の内から漏れ出る衝動、怒りそのものだった。
……これで、こいつの悪戯は全て無意味となった。
「はぁぁぁ……」
前のめりとなる。吐息は交わり混ざり合うように重なる。俺は見下して、相手は見上げていた。上下の絶対的な関係。あるべき立ち位置。支配する者と、支配されるべき者の有り様。その肚に、布と皮膚の上から突き当てる怒涛の激情。
「ぁ、ぅ、あ……はぁ……!!♪」
それだけで泥酔したように耄碌する肉袋。口元の端から涎が垂れ流れる。言葉にならぬ濁声が漏れる。瞳の奥は混濁していた。理性は酔い壊れていた。裂けんばかりに脚を広げる。手を伸ばして我の頭を触れる。己の胸元へと導いていく。ただ、己を捧げる浅ましい贄が其処にあった。
宜しい。粗末とは言え、信徒の供物を頂くは務めなれば……。
「ねぇねぇ旦那さま!この銅鑼焼きたべていいっ!?」
「っ!!?」
向こう側に至っていた思考は、理性と狂気の狭間にまで引き戻されて、鋭い眼光を向ける。手の届きそうな程近くで、重箱に納められていた甘味を、たっぷりと餡の詰まった銅鑼焼きを既に掴み取って見せていた幼い小娘……期待する文の表情。
「え、あ……あ、あぁ?」
「やったぁ!!」
一瞬燃え上がる怒り。その頬を叩いて、髪を掴んで、腹を踏みつけて、立場を分からせねばならぬという衝動を抱いて……直ぐにそんな衝動への疑念を抱いて払い除けて、そして咄嗟に出た疑問形の応答に文ははしゃぐように喜んだ。パクりと銅鑼焼きを咥えて満悦の笑顔。毒気を抜かれる。
「俺は……」
一瞬前まで頭の中を支配していた感情に困惑して、遅れて、手の内の感触に下方を見下し、重なった眼差しに今の状況を理解する。
「……っ!?重いか?……あ、悪い。怪我をさせたか!?」
「あっ……」
葛にのし掛かっていた己の身をぱっと引き離す。遅れて尻に刻んだ傷を見て俺は苦虫を噛んでいた。そんなに爪を伸ばしてなかった筈なのに、黒襦袢を引き裂いて傷まで付けてしまった軽率さに顔をしかめる。
先程までの己の理解し難い激情を誤魔化して、不完全燃焼の衝動から目を逸らして、煮え滾る疼きを抑えつけて、普段通りを装って……。
「これは……酷いな……そうだ、先ずは手当てしないと……」
「いえ。この程度なら……御安心下さいませ。直ぐに血は止まります」
精彩を欠いて、漸く真っ先にやらねばならぬ事を思いついた俺を見て、微かに苦笑しながらの葛の返答。裂けた生地の下の傷を撫でながら何等問題ないとばかりの振る舞い。慈愛の視線を傷口に、そして俺に向ける。その健気さが俺の罪悪感を一層刺激する。
……朝からの散策の目的を隠しておいて、怪我までさせたのだから。探検を装って、この屋敷の間取り図を、その構造を黙って調べていたのだから。
この屋敷の出入口を、隠すように探していたのだから……。
「……しかしだな。痛い事には変わらないだろう?」
「このくらい、痛い内には入りませんよ?文さんも、そう思いますよね?」
「……?」
半ば取り繕うように優しく掛ける此方の言を笑って流して、銅鑼焼を咥える文に同意を求めて呼び掛ける葛。文は首を傾げて、葛の傷をじっと吟味する。その行為に俺は居心地が悪くなる。
極めて自己中心的な事であるが、この時俺が内心で恐れたのは自身の風評であった。女中に怪我をさせた主人、幼くも苦労をしたという文にとって、それがどんな意味を持つのか、どう思われるのかを真っ先に心配してしまっていたのだ。酷く浅ましく思われた。
「うーん……これくらいなら唾つけたらだいじょーぶです!」
文の宣言は実に呑気で、欠片の陰もなかった。余りに軽過ぎて、無責任にすら思えた。
「しかしなぁ、結構肉に食い込んでるぞ?化膿しないか?」
「じゃあ旦那さま、一緒にてあてする?」
「というと?」
「一緒にお尻なめなめするの!」
「いや、ちょっと待てよ」
流石にそれは見映えが悪い。というか雑過ぎる。ちゃんと消毒して止血してやれ。可哀想だろ。
「そうですよ。旦那様のを舐めるなら兎も角、その逆なんて無礼ですよ?」
「いや、どっちも無礼だよね?」
俺は他人の尻を舐める趣味も、舐めさせる趣味もない。異常臀部愛者ではない。というか……。
「そう言えば文、お前……」
「文、みつけたー!」
どうしてここに?……其処まで口にする前に子供特有の甲高く元気な声が鳴り響く。声の方向へと振り向けば他のガキンチョ共と手を繋いで連行しながらやって来る文と瓜二つの幼子の笑顔。詩の笑顔。。此方を見つけては更に満悦に笑ってやって来る。
「旦那さま!こんにちわ!くんくんくん……ごはんですか!!?」
「そういうお前さんらは……かくれんぼか?」
俺の推理にはいっ!と鼻で弁当を嗅ぎながらの元気良い返答。文の方はと言えば此方の背中にすっと隠れるが、最早無駄な抵抗だ。頭は隠してもそれだけだ。それ以外は丸見えだ。頭隠して尻隠さずである。
「だんな様!文ちょーだい!」
「だんな様!文うらないで!」
「俺に要求するか」
双子姉妹で俺に互いにねだりごねる。何なら詩に連行されてた他のガキンチョ共も参戦して来る有り様で……というかどさくさ紛れに弁当摘まんでやがる。いや、別にいいけどさ。
「旦那様を困らせるものではありませんよ?……それと、勘違いしてはなりません。私達全員、一切合切は旦那様の物なのですから。旦那様に売り買いについての要求は筋違いというものですよ?全ては旦那様の一望次第、其処に私達がとやかく口を差し挟むものではありません」
「……葛、躾よりも先ずは手当てを優先しなさい」
相変わらずの物言いの葛に、俺は命じる。彼女の怪我の理由、直前までの会話を思い、何よりも元気よく応じた文達の反応を思って俺は顔を渋くさせる。
「ねぇねぇ、葛ねぇ。じゃあさ、あっちで手当てしよ?薬箱あるよ!」
「だんな様、いっしょに葛ねぇ手当てしようよ!あとあそぼ!」
此方の心中なぞ知らぬように、ガキンチョ共の提案。手を引いて、連れ出そうとする。
「待て待て……仕方ないな。葛、それで良いな?」
「ですが旦那様の手を……」
「命令だ」
「……はい」
俺が上から明白に命じれば、葛は恭しく応じる。俺が傷つけておいて、中々に白々しく、酷いものだった。しかし、彼女はそうでもしないと受け入れないだろう。逆に、俺の命令ならば健気に何でも受け入れるように思われた。
しかし……。
「まさかこんな場所でお前達と出会すとはな。この辺りは詳しいのか?」
薬箱の場所を知っているとなると此度が初めてではあるまい。随分遠くまで探検して遊んでいるものだと思った。迷子にならんのだろうか?
「……?」
「おいおい、何だその顔は?何か珍妙な事でも言ったか?」
俺の発言に、顔を見合せあって不思議そうにする文達。俺がその理由を問えば、文が首を傾げて口を開く。
「ここって、とおいんですか?」
「はい……?」
今度は俺が首を傾げた。伸ばされた文の手を取る。導かれて、歩み出して、俺は突き当たりを横に曲がった。そして、開けた視界に思わず愕然とした。
「何故……?」
見覚えのある庭先に棟の連なり。掃除していた女中共が此方を気付くと当然のように微笑んで礼。それはいつの間にか朝方の出発地へと戻って来ていた事を意味していた。それは、俺が進んだ道程を思えば、方角を思えば、到底有り得ぬ事の筈だった。
「?旦那さま?」
俺の困惑を察したように、手を握る文の呼び掛け。大層大層不思議そうに首を捻る。何を驚いているのかと言わんばかりに。
ここに来て漸く、俺はこの『屋敷』に疑念を抱き始めていた。
出口の知れぬ、まるで胃袋の中のようなこの『屋敷』の内に……。
あぁ。疼く。疼く。疼く。溜まる。溜まる。溜まる。滾る。滾る。滾る。
羽化の時を待ち恋がれ、待ち憧れ……。