和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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章末

 濃厚な霧中を彼女は進む。ただただ無言で歩み続ける。

 

 眼前の霧は晴れぬ。塗りたくられたが如く何時までも白く、深い。五里霧中。剛力の男すら困り果てる程であった。

 

 果たしてどれだけ歩んだのであろうか?彼女も遂に足を止める。疲労の吐息を漏らす。肩を落として脱力する。……ふと、霧の向こうから輪郭が浮かび上がる。それは瞬く間に人の影となりて、そして姿を現した。

 

「姫様じゃあないですかい?一体どうしたんですか?そんなへとへとになって?……酷いお顔立ちですよ?」

 

 郷村の西の田を耕す稲助は困惑したように己の村の姫君に呼び掛けた。若干痩せ気味で、耳の早く噂話好きだった男は、姫の出で立ち、その風貌に困惑したようであった。

 

「大丈夫だよ。大した事じゃない。それより……どうして稲助がここに?」

「勘弁して下さいよ。そりゃあ此方の台詞ですぜ、お転婆なお姫様。……さぁさぁ、取り敢えず村に行きましょう。屋敷でじっくり休んだ方がいいでっさ!」

 

 何を言っているんだ、とばかりに稲助が若干呆れ果てつつも仕方無いとばかりに案内を始める。そうであった。己は郷村の外れで一人遊び惚けていたのだった。

 

「……じゃあ、案内してよ」

「へい。此方ですぜ!」

 

 微笑みながら姫は願い出た。誘いに応じて先導する稲助の後を歩む。

 

 見知った森だ。見知った田畑だ。見知った道だ。山菜と果実の採れる森を抜ければ水田の棚田広がる豊かで美しい山村が広がる。彼女の故郷。育った村。

 

「屋敷に行きましょう。旦那様の事です、きっともう風呂を用意している筈ですぜ?遊びに出られた姫様は直ぐに泥んこになってくれますからねぇ」

「ははは。確かにね」

 

 お転婆で男勝りな所があったのは否定しない。おおらかで束縛しない家族と故郷の気風は彼女をそういう性格に育て上げた。民との距離が近かったのも理由だろう。田植えに芋掘り、虫捕りに釣り、鬼ごっこに隠れんぼ、折角の装束が泥々になるのは常であり、転んで怪我をする事も。そして父や兄はそんな己を姫君らしくないと厳しく咎める事はしなかった。怪我については厳しく注意されたものだが。

 

「……沢山、困らせちゃったな」

 

 本当に善き故郷、善き家族であると思う。血の通わぬ娘に対して、確かな愛情を注いでくれた。沢山食べさせてくれた。甘えさせてくれた。善悪について厳しく躾て、教育してくれて、しかし型に嵌める事なく、伸び伸びと育ててくれた。純然たる身内への情を、惜しみ無く躊躇なく、注いでくれた。

 

 だから……。

 

「んへ?』

 

 稲助の胸元から生える刃。唖然とした表情で振り向いて、そのまま倒れ伏す。刃を抜いて、幽鬼の如く美麗なる姫君は歩む。

 

「姫様?」

「あぁ、姫様此方に……」

「女中が探していましたよ」

 

 グサリグサリと。斬り伏せる。斬り捨てる。群がる見知った顔を淡々と作業のように。丹念に。丁寧に。漏れ無く。例外なく。

 

 男を斬って。女を斬って。大人を斬って。子供を斬って。壮年を斬って。老年を斬って。百姓を斬って。職人を斬って。商人を斬って。女中を斬って。

 

「お姫さん?どうしたんですかい?これは一体……」

 

 やって来た用心棒連中の首を次々と打つ。首無しに崩れる身体を踏みつけて踏み越える。

 

「何てこった。姫様、乱心なされ……」

 

 郷での鍛練の相手をして貰っていた用心棒の長たる武士の顔を即座に刃で貫く。

 

「……」

 

 恩師の面を抉り潰した姫は無言で地面に倒れる骸を横切る……前に数回程刀の切っ先でその身を突き刺して、真に死しているのか吟味する。暫しして納得してから彼女は過ぎ去った。

 

 屋敷に足を踏み入れた。門を抜けて、良く知ったる玄関を引いて土足で上がる。出迎えた女中を即座に切り捨てて、下男も八つ裂きにした。

 

「姫様!やっとお帰りになりましたね!探したのですよ?……その紅い汚れは?」

 

 華奢な女中であり、友である少女。その姿を認めて、答える事なく喉を裂いた。

 

『かひゅ、……っ!?』

 

 何か口にしようとして、血の泡を吐いて倒れる友の姿。此方を見上げて、涙を浮かべる眼差し。何か問いかけようとして、言葉を求めようとする姿に、無言で姫は止めを刺した。……何も言わせぬように。

 

「おい!こいつはどうなってんだよ!?お前、何でこんな……!?」

 

 獣の臭い。背後を見れば今一人の友の姿。此方を責め立てるのを目撃して、彼女は即座に身体強化で距離を詰めた。刀を振るう。ガキンという衝撃。受け止められる。

 

「おい、話を……」

 

 言葉を交える事なく、刃を翻して燕返し。首を斬り捨てる。友の落ち崩れる頭。転がる頭部を思わず視線で追っていた。

 

 沈黙……そして小さく震えるような嘆息。彼女は歩みを再開する。屋敷の奥に向けて。

 

 屋敷の奥の奥へ。最奥へ。書斎に向けて。途中立ちはだかるように現れる人影は全て切り捨てていく。顔すら認識せずに流れ作業であるかのように。

 

 遂に辿り着く。其処にその人はいた。親愛なる父がいた。育ての親がいた。

 

「おや?どうしたのだ、そんな顔をして。それにその汚れ様……ははは。またヤンチャしたのか?全くお前という娘は仕方のない奴だなぁ」

   

 朗らかに笑いながら、ほれ見せてみよと父が寄って来る。血の繋がらぬ父は、欠片の蟠りもなく娘の肩を掴み苦笑する。応じるように彼女も笑った。暗く笑った。そして囀ずるように答えるのだ。

 

「止めてくれよ。化物如きが父様の真似事なんてさ」

 

 言葉と共に旋風。そして血飛沫。彼女の父の、蛍夜義徳の両腕が引き裂かれて宙を舞う。鮮血を撒き散らす。しかし……それは明らかに人から流れる量ではなかった。

 

「へぇ。貝の癖に一丁前に赤いんだね」

 

 腕を失いのた打つ蛍夜義徳を見下しての不快感を滲ませた冷たい台詞。否、周囲の景色が歪んでいく。眼前の手負いの男の姿が溶けていく。全ては霧のように霧散していく。そして真実が露となる。

 

『◼️"◼️"◼️"◼️"ッ"ッ"ッ"ッ"ッ"ッ"!!!!??』

 

 幻術が解ける。豪華な屋敷は何時しか靄が晴れたように薄暗い洞窟へと戻っていた。そして彼女の目の前の父は、今では蛤に変貌していた。

 

 巨大な蛤である。牛車よりずっと大きい。半開きの殻の隙間から伸びていた無数の触手は途中から切断されていて切断面からは汁が撒き散らされている。相当な傷みなのだろう、狂ったようにそれを鞭のように振るっていた。殻の口に沿うように並ぶ眼球はグリグリと蠢き暴れていて、声とも言えないけたたましい金切音のようなものを鳴り響かせていた。

 

『蜃』……霧の幻術で以て惑わせる巨大な蛤の妖は、完全に恐慌状態にあった。当然だ。貝は己の幻術に十全の自信を持っていたのだから。

 

 北土の何処ぞで討たれたという下等な同種とは訳が違う。凶妖に片脚を踏み入れ、龍に登る未来すらあった蛤の魅せる霧の幻影は、強力な精神汚染も兼ねていた。己の内にて精製した一種の麻薬に似た体液を、砂を吐き出すように蒸し吐いて生み出した霧の海。それを取り込めば循環器を通じて全身に、そして脳を犯す。思考を鈍らせる。

 

 幻術への最も基本的な対策は己が幻術に嵌められている事を理解する事だ。一歩引いて落ち着いて、冷静になれば其処に違和感を抱けるもので、後は我に返るのは芋蔓式だ。本来ならば。

 

 脳を犯して幻術を幻術だと認識する意識を奪えばどうなるか?その上単純に見せ付ける幻術自体の精度も高かった。蒸散させた己の体液を含ませる霧は、ある意味では己自身の分身であり延長線であった。微かながら結ばれる縁を通じて、記憶を断片的にとは言え読み取り、幻術に利用する事すら可能だった。極まった幻術は世界を騙し、現実改変すら可能である。其処までは達していなくても、蛤の騙り魅せるはそれすら夢ではない完成度の夢幻であった。

 

 己の権能を理解して、相乗させる蛤の罠は間違いなく上出来であった。上出来で、危険な討伐対象であった。その筈だった。

 

「残念だったね。……最初から決めていたよ。何を見せられても全部斬るつもりだった」

 

 霊薬による記憶補強。一種の刷り込み。 生きている人間がいないのは分かっていた。だから誰が出てこようが、誰を見せられ、誰を騙られようがそれさえ覚えておけば良かった。だからこそ可能な行動だった。

 

『◼️◼️◼️◼️ッ……!!』

 

 ズリズリと、蛤は触手で以て、己自身を揺すって必死に後退せんとする。環は淡々とそんな蛤に迫り……直後背後を振り向いて身構える。

 

「……っ!!?」

 

 衝撃。刃を構えていても吹き飛ばされた。宙で身を翻して受け身の体勢を取る。転がりながら着地して闖入者を睨み付ける。否、闖入獣であろうか?

 

『ヒッヒッヒィッー!!』

「もう一体か……!!」

 

 嘲るような鳴き声に、環は先程以上に嫌悪感を抱いて吐き捨てる。毛むくじゃらの獣が其処にいた。阿呆面にも思える風貌を極限まで釣り上げ歪める。御約束の肉食獣の笑み。獲物を餌として吟味する捕食者にして上位者の見下した表情。

 

 その正体は二足で君臨するのは猿であった。此方もまた凶妖に手を届かん寸前であろう環を遥かに越える、大猿だった。神気を帯びた猿……。

 

「頭が高いね」

 

 猿神。神猿。真猿……そうだ。所詮は猿である。神を騙る獣だ。神気を僅かに帯びてるが、それは生来のものではない事を、その内からのものではない事を彼女は見抜いていた。これは養殖品である。怪物に後付けしたもので、それも精々香り付けといったものか。

 

「どちらにしろ、駆除対象だけどね」

 

 刀を構えて環は冷たく裁決を下した。神は唯奉られていればいい。唯人の望むままに願いを叶え、恩恵を与えればいい。原理原則に従うだけの機械であり機能であればいい。自我を持ち、自立して、悪逆無道を働くならばそれは扶桑という国にとって討伐すべき害虫でしかなかった。畏れ敬い信仰するなぞ以ての外である。

 

 神は唯、人のためにあればいい。

 

『ヒッヒッ!!』

 

 環の態度を冷笑するように嘲るように嗤い鳴き、猿は拳を振るう。異様な長さの腕であった。大の大人二人、あるいは三人分はあろう長さ。その重さもまた同様以上。筋肉の塊を高速で振るえばそれだけで凶器となり得る。尋常ではない拳の嵐が狭い洞窟にて荒れ狂う。

 

「っ……!!?」

 

 師たる夫人の教えに従い、刃で以て嵐を逸らす。刀を信じる。刃を通じて届く衝撃、それに沿うように刀ごと身を捻る。風に吹かれて舞い上がる枯れ葉の如く弄ばれて、しかし傷つく事はなかった。

 

「っ!!?硬いかっ!!?」

 

 そして反撃。大振りになった所で攻めに出る。腕を切り落としに掛かり、しかし金属音と共に刃が弾かれる。確かに猿の毛並みは針金のように鋭利だった。しかし、これは……!

 

「僕の腕の問題か!!」

 

 防御に再び回りながらの環の苦い叫び。地面に落ちる幾本かの猿毛は刀の一撃で皹割れた故のもの。刀に綻びはない。つまり刃は十分。ならば不足は腕力か、あるいは切り裂く角度か速度か……。

 

「逃がさないっ!!」

 

 遠退く気配を察していた。猿の振り上げる一撃を狭い洞窟を利用して不発に誘う。その爪が洞窟の表面を削り、引っ掛かり、抉り取り、攻撃が遅れる。猫のように俊敏に距離を取った環は逃げ出さんとしていた蛤に投擲した。

 

『◼️"◼️"◼️"◼️"ッ"ッ"ッ"ッ"!"!"!"?"?"』

 

 浄塩に三日三晩漬け込んだ投擲用の短刀が回転しながら貝の隙間に飛び込んで来た。肉を裂けての絶叫。貝殻を閉じようとして更に絶叫。縦に立ったまま蛤の肉に食いこんでいた刃は同時につっかえ棒にもなっていた。貝柱の代わりとなって殻を支える。無理に閉じようとすれば刃が一層肉に沈む。堪らない。逃げんとする。

 

「逃がさないって言ったろ!!」

 

 身体強化して、環は疾走した。背後の猿が追い掛けるのも気にしない。全力疾走だ。

 

『◼️"◼️"◼️"◼️"ゥ"!"!"!"!"』

 

 無数の眼から涙を流して、怒りに任せて触手が迫る。ぼやけた視界に怒りに任せた攻撃なぞ今の環には当たらない。最小限の触手のみを切りふせながら肉薄する。

 

 眼前の環に向けて、ニョキと突きつけられたのは出水管であった。本来の貝ならば砂を吐き、この怪物ならば霧を吐き出していた器官だ。……吐き出せるのはそれだけではない。

 

「っ!!」

 

 咄嗟に伏せたのは鍛練の賜物だった。感じ取った予感。殺気。反射的に射線から逃れた。そして放たれる刃が。

 

 高圧の水は鉄をも裂くという。霧を造るための蒸気を利用して、蛤が放ったのは溶解液の高圧噴射であった。環に直撃すれば足以外失われていたであろう。間一髪だった。

 

『ヒッ……』

 

 代わりに直撃したのは環の直ぐ背後まで迫っていた猿であった。全身に溶解液を食らい仰け反る。仲間撃ち。沈黙。溶解液を浴びた猿は上半身の毛を全て失い、崩れた顔で静まり返る。

 

『………ッ"ッ"ッ"!"!"!"!"』

『◼️◼️ッ!!?』

 

 絶叫と共に蛤は頭上から拳を食らってひしゃげた。猿が怒り狂って両手で蛤を上から殴り付ける。殻ごと、殻を砕いて、中身が、体液が飛び散るのも気にせずただただ咆哮して殴り付ける。

 

「!」

 

 環は地面を転がるようにその場から移動した。それは正解だった。次の瞬間には環のいた空間に猿の蹴りが通り抜けた。風を切る音。顎に下から食らわせるかのように大振りで放たれた蹴打は蛤を吹き飛ばした。天井に突撃して、肉と殻をばら蒔いて、地面に堕ちて痙攣。尚も怒りが収まらないのか猿は殴り、叩き、蹴り、踏みつけていく。その扱いは、到底仲間に向けてのものとは思えなかった。

 

 

『ヒッヒ!ヒヒヒヒヒッ!!!ヒィーッ!!』

『◼️"◼️"!"!"?"◼️"◼️"◼️"◼️"ッ"!"!"?"』

 

 ……妖なぞそんなものである。格が近い故に、そして本来共に運用されていた神格が失われたがために仮初めで組まされていただけである。隙あらば餌とする事に躊躇はなかった。己をより高みに上げる機会を逃しはしない。

 

(何て奴だ)

 

 嫌悪感。そして隠行して物音立てずに後退せんとする環。蛤を虐め殺すのに夢中になっている今がその機会であった。

 

 グギッと猿の頚が回転した。

 

『ニゲルナ』

「っ!?」

 

 真顔の猿の、その声は正しく猿真似だった。くぐもった声音は人の発声を無理矢理再現しただけに見えた。単語の意味すら理解してるか怪しかった。言霊術の、猿真似。猿真似程度で環の身は一時的にであれ、金縛りにあった。

 

 この怪物の有する権能の一つである。その耳目で知り得た他者の力を、その半分までの性能を模倣して見せる。生憎怪物自体の知恵の低さ、権能への理解の浅さ故に多くの力を扱える訳ではない。しかしながら多用する幾つかの力については記憶に留めていた。今の言霊もまた同様。このように発せば動きが止まる……その程度の認識だった。

 

 首だけ振り向き固定したままで、グチャリグチャリと蛤を散々踏み潰していた猿は漸く一仕事終えるとグルリと、今度は体だけ回転して完全にその身を向ける。そして動けぬ環の元へと迫った。

 

『ヒッ、ヒッ』

 

 しゃっくりでもするような短い囀ずりと共に猿は環の目の前まで辿り着き、身動き出来ぬのを良い事に不躾に彼女の身を鑑賞する。鑑賞して、吟味して、首を傾げて…………直後、勢いよく環の装束を引き裂いた。

 

「っ!!?」

 

 軽装とは言え、鉄板を使う胸当すら素手で引き千切った猿。裂いた生地と防具を放り捨てる。環は巻いていた晒が暴かれた。白い肌により白い晒。そして谷間が洞窟の冷たい空気に当てられる。息を呑み環は鳥肌を立たせた。冷たさが理由ではなかった。

 

『オンナ、オンナ!オナゴオナゴ!!メス!メス!オンナダ!!メスブタダ!!』

 

 声を出せぬ環とは正反対に、アヒャヒャヒャヒャと猿が元気よく嗤う。猿が下卑る。ひしゃげた笑顔ではしゃぐ。くぐもった声が洞窟に反響する。意味を何処まで理解しているのか怪しい片言の連発。嗤う。嗤う。嗤う。下腹部の逸物が奮い起つ。環はその獣臭い異臭に顔をしかめる。

 

『コシイレセヨ』

「っ……!?」

 

 狂った嗤い声は、突然淡々とした命令に変わっていた。環の目と鼻の先、その先で真っ黒で大きな眼球がじっと覗き込むように環を見ていた。それはお互いの瞳孔が覗ける距離での、猿神の神託であった。 

 

『コシイレセヨ。ミコ、ミコ、オレノミコ。タテマツレ。ワレニツクシマツリアゲヨ』

 

 片言で、しかし明白な意志で以ての命であった。神の紛い物は、己が神となるために必要なものを理解していた。環は動けない。まだ金縛りは続いていた。完成度の低い言霊術は、しかしまだ耐性の低い環が解くには、今少しだけ時間を要した。

 

『ヒッヒッ!』

 

 そしてそれを待ってやる程殊勝な猿ではない。怪物は己の権能を発動した。

 

『靡妻拉』は牝に当て嵌まる存在全てに強烈な認識誤認を加える権能であった。伝承において多くの猿が人の女を妻に、あるいは妻にせんとした。それは教訓であった。猿妖怪の中には己の放つ臭いで以て女を欲情させ、狂わせ、洗脳する力を持つ存在がいる。この怪物もまたその一例であった。

 

「っ……!!?ひ、がっ!?」

 

 悶える環。同時に金縛りが解ける。しかしその場から逃げ出す気力もないのか疼くまり、暫し痙攣して……それきりだった。半立ちの環の眼は何も見えていないかのように虚脱していた。

 

『ヒヒヒヒヒッ!』

 

 猿は満足したように環の顎を持ち上げる。吟味する。良き牝が得られたと心から悦ぶ。最早これは己のものだ。その血肉も肚も、髪の一本まで己のものだ。荒い吐息で勝ち誇る。それは正に天恵。己が偉大になるために、高次に上がるための導で……。

 

「……口が臭いよ」

『ヒッ?』

 

 刀の一閃は、今度は猿の両腕を切断出来た。溶解液で猿の堅牢な体毛が根刮ぎ失われたお陰であった。沈黙……そして壮絶な悲鳴。

 

『ヒィ"ヤ"ア"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ッ"!!!??』

 

 筆舌し難き痛みに猿の思考は塗り潰される。己の力がどうして効かなかったのか、その疑問も直ぐに失せてしまっていた。ただただ、腕を失った痛みに悶える。

 

『ァァァァァッ!!アアッ、アアァァァッ!!!?』

「意外と痛がりなんだね。拍子抜けだな」

 

 即座に反撃してくる可能性も考えて身構えていたから、環は思わず気が抜ける。抜ける気を引き締め直す。あれは油断を誘うための演技かもしれないと想定する。だから……環は嘲笑するように呼び掛けた。

 

「ねぇ。これ見てよ」

『ァァァッ!アアッ!ァァァッ!!?……ヒッ?』

 

 環は半ばはだけていた袴を脱ぎ捨ててそれを見せつけてやった。脚を晒して、鼠径部を晒して、そして……垂れるそれを見せつけた。猿は唖然とした。その垂れ下がるモノは……えっ?

 

「偽陰茎、なんてね?」  

『ヒ?』

 

 思わず思考停止していて、喉を裂かれて漸くその人間が目の前にいたのに気付けた。隠行の一種である。環の一点に意識が向いていた故に切り捨てられた事に気付き得なかった。

 

「驚いたな。そんなに効果あったんだね」

 

 倒れ伏す猿。刀を振って血を払い、蛍夜の退魔士は蔑むように宣う。

 

 実際、それは御守り程度の意味合いであった。猿の存在は事前に想定しており、猿妖怪への対策も十全に行っていた。未知は神秘に繋がり、無知は畏れに繋がる。ならば既知は神秘と畏れを失せさせる。事前の用意は万端に、全ては想定内。環には不必要な恐れはなかった。故に彼女は勝利した。そして猿の敗北はその合わせ鏡である。

 

 この任に際して環に贈られた『反根庚』は霊刀の一本である。その特性は持ち主に男に女の、女に男の特性を付与する事だ。

 

 単純に女に男の腕力を、男に女の敏捷を、性差による差を、その長所を合わせて短所を補わせるという効果があるが、副次的に性別を引き金とした呪いや権能を打ち払う効果もあった。この刀の持ち主は男であり女であり、そして男でなく女でもない。無性。故に猿の権能は何の意味もない。今の環は女ではないのだから。

 

 それを知らぬ故に猿は油断した。それを知らぬ故に刹那に思考を止めた。ならばこの帰結は至極当然。まつろわぬ紛い物の神は討ち果たされて、統べられた。

 

「ふぅ……」

 

 倒れ瀕死の猿を環は勝者として何処までも冷たく見下ろす。

 

「……うわ。凄い動き」 

 

 そしてその身を倒しても尚屹立するそれの元気一杯の暴れ具合が視界に映り込んで、己の生やしたそれとの差に一瞬環は剣呑な表情を驚かせた。圧倒されて、嫌悪して……ふとしかし思い出したように考え込み、記憶の中のそれと見比べるように吟味して、一人判定して納得して、同時に苦味のある表情で冷笑する。

 

「粗末だね」

『ヒ、グッ……!?』

 

 ある意味で化け猿にとって最大の愚弄を淡々と呟いて、環はその巨体を踏みつけ登り切る。クルリと刃を突きつけて振り下ろす。瀕死の化け猿の心の臓を容赦なく貫く。それはまさに止めであった。

 

『◼️◼️◼️◼️◼️ッ………』

 

 最期のと轟きは反響するようで、同時に巨体に似合わず消え入るように。悲嘆したようにも思えた叫び声。屹立していた巨頭もさしもゆっくりと枯れたように萎れていく……。

「……」

 

 念入りにもう二度三度と骸突き刺して、己が気付かぬ内に幻術に取り込まれていない事を環は確かめた。てきぱきと数回、己の身の異変がないかを確かめて、環は深くも低い息を吐く。

 

「はぁ……助かった、のかな?」

 

 周囲を警戒して、念入りに警戒して、脅威の有無を確信して、漸く環は一息ついた。待て、まだ終わっていない。

 

 疲労で重い身体を、それ以上に重い心情を奮い起たせて、環は洞窟の奥へ、奥へと。倦怠しつつも身体に鞭を打ち進み続ける。そして広間に辿り着いて、その惨状を見渡す。

 

 幾つもの骸が打ち捨てられていた。骨格から女のものだと思われた。物によっては肉がこびりつき、散らばり、汚れた布地と共に。腐臭がした。獣臭がした。淫臭が立ち込めていた。

 

 ポリポリポリと、骨を拾い腐肉をしゃぶる小猿共がいた。

 

『キキッ』

 

 此方に気付いて、小骨を放り捨てて迫る小猿共。涎を垂らして欠片も警戒せずに無防備に近寄る。小慣れているようにすら見えた。あの化け猿の力を思えばこの部屋に通された『中古品』がどんな末路を迎えたのかが予想出来よう。

 

「……悪く思わないでね?」

 

 刀を振り上げた。尚も警戒の色はない。僅かに罪悪感。しかし……この空間で犠牲になった者達の無念を思えばそれも吹っ切れる。

 

 環の振り下ろす刃には、容赦も迷いもなかった。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー

 人と化物の骸に浄塩を振り撒いた。肉に他の化物共が群がらぬように、人の骸は特に怨念が染み付いて悪霊と成らぬように。応急措置である。環一人ではこれ等の処理は手間がかかる。

 

「……蛍夜様、お見事な手前で御座いまする」

 

 洞窟より出でた環を、何処からか現れた面着きの者達が出迎える。朝廷に遣える隠行衆……というよりも退魔士家が朝廷のそれを真似たのだとか。確か忍といったか?

 

「依頼は完了したよ。後処理を頼むね」

「はっ」

 

 現れた彼ら数人は淡々と洞窟の奥へと向かう。環はそんな彼らの横を通り抜けて……振り向いて呼び掛ける。

 

「人骨はよく供養してあげてよ。こんな場所で、大層無念だったろうからね」

「……御意」

 

 環の注文に、一瞬沈黙しての応答。感情の窺えぬ淡々とした物言いに、しかし環は文句は言わない。彼もまたそのように努めようとしていたなと思い返すだけだった。

 

 停車させていた牛車に乗り込む。此度の任を果たした退魔士を出迎えるためにさる貴人が用意させた代物だ。朝廷や公家では殆ど持たぬ貴重な『迷い家』と化した車である。尤も質はかつて製造の本場であった北土製より悪いのか、内部の空間は然程広く拡張されている訳ではない。

 

 無論、それでも通常の車とは乗り心地は遥かに優れているのだが。

 

「……」

 

 刀を掴んだままに環は仕切られた襖を幾つか引く。空間の奥へと向かう。三、四枚は引いたであろうか?手頃な所で足を止める。畳の敷かれた殺風景な一間で、覚悟を決める。

 

「ふぅ……。っ!!」

 

 刀を鞘に納める。やって来る衝撃。衝動。思わず刀を手元から溢し落とす。その場にて膝を折る。

 

「は、ぁぁ……!!?」

 

 何処までも艶かしい嘆息だった。モジモジと足を擦り揺らして、身を抱き締めて甘い吐息。顔は熱に浮かされたように紅潮し切っていた。

 

 過ぎたる力、身の程知らぬ力には代償を伴うものだ。『反根庚』の恩恵もまたその例外ではない。

 

 牡に牝の、牝に牡の、反する属性を授けるのだ。それは理に逆らう所業。なればその揺り戻しがあるのは当然。

 

 刀の効果を収めれば、反動は容赦なくやって来る。牡の影響を受けていた身はその分牝に傾く。剛力の筋肉はなだらかな脂肪へと。闘争心は庇護への願望へ。牡の欲は牝の欲へと。

 

「くぅぅん……」

 

 思わず仔犬みたいな鳴き声を漏らしていた。己の腹を撫でる。疼く肚を擦る。己の牝がもの欲しがる。色情魔の苛まれる渇きとはこういうものなのかと分からされる。

 

 ……そして続くように来るのは悪寒と恐怖。

 

「……!!?」

 

 ぎゅっと、己を一層強く抱くのは先程の修羅場の恐ろしさ故か、目にした陰惨な光景故か。

 

 ……男としての蛮勇が塗り潰してくれたのは幸いだった。おぞましい。あの猿の見る目、最悪の己の運命を思うと恐ろしくて恐ろしくて堪らない。己もあの骸達のように成り果てたのだろうか?あの場に生き残りがいなかったのは己にとっては幸運だったかも知れない。中途半端に生きているのがいれば、一層生々しい末路を目にしてしまう所であったから。

 

「お、う"えぅ……"え"っ……っ!!」

 

 思わず畳の上に胃液を吐き出していた。それは己のあり得た末路を思ってか、あるいは刀の反動による月の物によるものか。何にせよ己の浅ましさを呪う。呪いながら尚も吐瀉する。あぁ、何て酷いんだ。そんな事考えるなんて……あの迷い家での取り返しのつかない獅子の人の絶望と最期を思えば口が裂けても言えない筈なのに。

 

 所詮他人事か……卑しい。本当に卑しい。卑怯卑劣な発想だ。救い難い。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……うぅ、……」

 

 環は呻く。環は嗚咽を漏らす。その場でペタリと座り込み泣きじゃくる。運が良かった。心技体、全てが半端な己が勝てたのは幸運だった。情けない。強くなると決めたのに。皆を守ると決めたのに。もう何も失わないと決意したというのに……。

 

「……くん」

 

 己でも何に対して、誰に対してか分からぬ呟き。孤独を恐れる。温もりを求める。熱さを求める。水音が慰めであった。

 

「うっ、う……う……」

 

 何て無様でみっともない有り様かと自分でも思って、しかし本能には、衝動には、逆らえない。激しく、荒々しく、今この恐怖と絶望から逃れたい。あるいは、あの巣穴の洞窟の犠牲者達もそんな事を想いながら最期を迎えたのだろうか?そんな事を思って身震いして、余計激しく逃避する。

 

「あ、あぅ……ぅ……うっ!!?」

 

 怖い。怖いよ。誰かお願い。僕に寄り添って。僕と一緒にいて。僕をぎゅって抱いて、僕を包んで、逃がさないくらいに包み込んで護り抱いて、引っこ抜けないくらいに僕の一番奥にまで……環は己では届かない奥底まで温もりを求めている。

 

「っ!!?」

 

 涙目に、荒く息をして、環は肚を擦る。これでは駄目だ、全く届かない。手では全く……己の腕と見比べる。届かない。あるいはあの化猿でも駄目かも知れないと思った。

 

 届くとすれば、恐らく……。

 

「……穢らわしい」

 

 木霊のように響いて消えた言の葉が、何に対する罵倒であったか環にも分からなかった。唯、彼女は癒えぬ恐怖への寒さをがむしゃらに振り払おうとするだけだった。

 

 ……あるいは、彼女の孤独の恐怖は友朋が傍にあれば救われたのかも知れない。だが環は二人を傍に置きたくなかった。二人を危険に晒したくなかった。二人に世話を掛けたくなかった。二人に頼りたくなかった。二人に嫌われたくなかった。二人だけではない、誰にも……環は救う側であり、頼られる側であり、守る側になりたかった。だから今の選択をしたのだ。取り返しがつかない過ちを繰り返し続ける前に。

 

「……」

 

 百夜院家私設退魔士隊・祓護民衆私客……扶桑国左大臣にして百夜院家当主たる貴人の、その憂国の悩みを祓うために召し上げられた少女はただただ都に帰還するまでの旅路を車の中で孤独の寒さに怯えながら堪え続けていた。

 

 耐えて、堪えて……。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー 

「……」

「……どうしたんだ?」

 

 足を止めて、思わず何処かに想いを馳せていた少女の、連れとして同行していた今一人が怪訝に呼び掛ける。田舎侍にも見える一文字笠に浅葱裏の安物装束の友の荒く男勝りな物言いに、此方は手荷物を抱いて市女笠を被った今一人は振り向き追い付く。

 

「いえ……姫様の事を思いまして」

「あ?あー……まぁ、大丈夫だとは思うんだけどよ」

 

 憂うように呟く女中の友の言葉に入鹿は顎を擦って渋々と応じる。

 

 一月半程前の事であったか。十薬での一件での惨事……以来の友の落ち込みようと務めへの執着は入鹿から見ても目に余る有り様であった。その原因たる男の安否への予感があり、尚且つ口に出来ぬのならば尚更に……。

 

「……正直、心苦しいです」

 

 鈴音もまた主人の落ち込みの理由を理解しているのだろう。鈴音自身もまた酷い喪失感に打ちのめされたものだった。しかし……。

 

「……」

「……そんな罪悪感なんか持つもんじゃねぇよ。喜ぶべき事は喜ぶべきだ。違うか?環の奴も、だから俺をお前の御守りにしたんだろ?」

「それは……まぁ、そうなんでしょうけど」

 

 渋々と鈴音の同意。己の友である姫は思い遣りのある人だ。顔を合わせて言葉を交える機会が減ったのは疎んでの事ではあるまい。寧ろ沈む己の姿を見せぬように、そしてきっと……自分達を危険に晒して失わぬようになのだろう。

 

「陰気な面すんなって。楽しめる時には面倒事は忘れて楽しんじまえ。それが誠意って奴さ」

「……全く、単純で羨ましいですね」

 

 半妖の友の言葉に、諦めたように肩を竦める鈴音。すたすたと、吹っ切れたように入鹿を抜かしてしまう。流し目に振り向く。用心棒としてちゃんと着いて来て下さい、というように。

 

「へっ」

 

 ニヤリと笑いながら要望を受け入れる入鹿。威風堂々と進み追い付き、鈴音の傍らに侍る。そして、笠の影で友に見えぬように神妙な表情を浮かべていた。

 

(本当、単純に祝ってやりたいんだけどな……)

 

 あの罪作りな男の正体を知る故に、言葉とは裏腹に入鹿は陰鬱だった。女中たる友の傍を離れられぬ理由だった。

 

 環は問題ない。問題ない訳ではないが取り返しがつかぬ訳ではない。アイツが面を見せればそれで。それに左大臣の元なのだ。無得な事はあるまい。何よりも、彼女には力と身分があった。不用意に無謀をする者は滅多にいまい。

 

 鈴音は違う。環に比べれば吹けば飛ぶ程度の存在だ。其処らの庶民に比べれば幾分マシではあろうが誤差の範囲に過ぎない。力も身分もない。しかもアイツの身内だ。何よりも……既に厄介事に巻き込まれていた。

 

「勘弁してくれよ……」

 

 小さな呟きを漏らす頃には既に其処に辿り着いていた。豪華な屋敷の門前。百夜院家の分家筋の屋敷である。そして……上洛し参勤する退魔士家の仮宿である。

 

「ふふふふ。いらっしゃあい♪」

「っ!?」

「きゃっ!!?」

 

 気配なく、その者は背後から呼び掛けた。気配すらなく鈴音に背から抱き着いていた。思わず得物を引き抜こうとして、堪える。この程度では駄目だ。刃傷沙汰になれば墓穴を掘るだけだ。

 

(堪えろ。堪えろ……隙を見せるな。動きを見過ごすな)

「ふふっ♪」

 

 何か呪いでも仕込みはしないか?その時は此方も覚悟は出来ているぞ、そんな意思を以て睨み付ける入鹿を、麗人は小馬鹿にするように嗤う。華奢な鈴音の背に乗り掛かるように抱き着き、両の手で肉を弄びながら勝ち誇るように。

 

「怖い怖い。貴女の痴態をあんなに凝視しちゃって……護衛役、変更した方がいいかもよ?」

「お、お戯れを……止めて、下さいませ!」

 

 入鹿を挑発するように聴こえるように囁く麗人に、申し訳程度にしかし明確に拒絶して抵抗する鈴音。その姿にわざとらしく残念がって、闖入者は身を引いた。欠片も反省の色のない満面の妖艶を魅せながら。

 

「ようこそ、鬼月からの御客様?……さぁ、早く上がって下さいまし。刻は金より貴重なのだから」

 

 貴女にとっては特にね?……この屋敷を間借りする宮鷹家の姫、忍鴦姫はするりと門前まで移動すると意味深げに宣って鈴音と入鹿を豪華な屋敷の内へと手招きして誘う。

 

「こほん。……失礼致します」

 

 揉まれて弄ばれて崩れた身嗜みを整えて、鈴音は淡々と屋敷に上がった。文句はあるが身分が違う。そしてそれ以上に恩義がある。それも二つも。だから我慢してみせる。仏頂面を見せたくなかったのもある。

 

 廊下を、渡殿を、滑らかな床を宮鷹の姫に先導されて奥に奥に歩む。足を止める。振り返り嗤われる。からかわれた気がした。不機嫌になりそうなのを鈴音は我慢する。入鹿はより一層不機嫌で、それを隠す素振りもない。全てを受け止めて、姫は障子を引いた。

 

「っ!?せめて呼び掛けくらいはして頂けませんか?」

「おやおや、何か見られては困る事でも?兄妹物で自涜?」

「そんな馬鹿な……」

 

 突然に来室に対する部屋の主の懇願。冗談。呆れ。その交えられる会話には気安さを見る者に思わせた。

 

 僅かに覚える嫉妬。懸念。不安……しかし布団から起き上がった包帯に肌の傷を隠したその痛々しい姿を見るとそんな感情は細事に思えた。

 

「……雪音?来てくれたのか?」

 

 三分の一以上包帯に隠れた顔を向けられて、鈴音は、いや、雪音はそれだけで胸が熱くなった。遠い記憶の果てに覚えていた声音そのままで、期待と不安がない交ぜになって、思わず緊張する。

 

「身の回りの世話に使いそうな物を、持って来ました。……部屋に上がっても?」

 

 恐る恐るとした質問に、目の前の親愛なる人は包帯越しにでも分かるくらいに慈愛を以て微笑んだ。

 

「お前に対して閉じる障子を持っていないよ」

 

 手招きするように差し出された手に、鈴音は、雪音は年に似合わず走り寄っていた。もう八回目の面会なのに、今にも泣きじゃくりそうになっていた。薄くしていた化粧が流れてしまうのを、仕方なさげに拭いてやる。

 

「……お美しい兄妹愛な事で。ねぇ、本当に純愛だと思う?」

「さぁな」

 

 部屋の前で兄妹の光景を見下ろしての淫蕩な姫君の問い掛けに、入鹿はただ投げやりに答えるだけであった。

 

 あぁ。全く……素直に喜べればどれだけ良い事だろうか?残念ながら今の入鹿は友に全ての真実を口にする事が出来なかった。その勇気もなかった。少なくとも、今は。

 

「頼むから、どうにかしてくれよ……」

 

 誰に向けてか分からぬ嘆願を、入鹿は消え行くように呟いていた……。

 

 

 




ちょっとした設定開示
・猿妖
 通称まさる君。外見や台詞が某所の作品を思わせるのはパク……パロディでオマージュ。名前は某国民的アニメ的には風評被害。

 実は元人間な改造妖であり、人からの神格改造実験のお試し品。間に妖の過程挟んでみたがあまり上手くいかなかった。他者の権能異能を六割まで模倣する力は有用だが改造による知能低下によりお気に入りの幾つかしか使わず宝の持ち腐れとなっている。

 また催眠アプリ宜しく女性を従属させる権能は対応する結界や呪具、記憶補強をしないと即堕ちする初見殺しであり、対策の不十分な弱小退魔士相手の雑魚狩り的に使われた。大乱時代は山姥様とセットする事で糞ゲー率が上がる。山姥様封印後は維持費の割には役に立たないので左大臣様の野望のために使い潰された。


・蛤君
 第一章の蛤ちゃんとは同じ水槽にて孵った同郷。原作世界線における主人公君が打ち倒す前半の中ボス役。扶桑各地に仕込まれた個体の中でも特に身の引き締まった養殖ながら期待の個体。山姥封印後は暫定的に猿妖と組まされたが馬は合わない模様。弟子のお願いを受けて製造元から猿諸共尻尾切りされた。

 因みに蜃という妖にとっては貝の姿は幼体であり、極まり神格を得た場合綴じた貝殻を卵や蛹として見立てて龍種として大成する事が出来る。幼体の蛤時代は知る人ぞ知る珍味にもなり大陸では乱獲されて絶滅寸前、闇市場にて扶桑の養殖品が俵物宜しく輸出されている模様。

 お奨めの調理法は牛酪醤油に扶桑酒を少々、大柄の身は尚且つ味としては蛤としての側面を保ちつつ帆立や牡蠣に似た旨味とコクも濃縮・調律しておりまさに絶品(製造元談)
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