和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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 ファンアートの紹介をさせて頂きます

 此方Xin.さんより対面雛姫。相変わらずの正統派ヒロイン……やはり妹とは格が違うか
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 素晴らしい作品、誠に有難う御座います


第一五章 人を見かけで判断してはいけないよねって件
第二一二話●


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ!!」

 

 夜の闇に彼女は走る。息を荒々しく切らせてひたすら走り抜ける。ひたすらひたすら、駆け抜けていた。

 

「はぁ、はぁ、んっ、はぁ、はぁ、はぁっ……!!」

 

 曇天が覆っていた。月明かりは全く見えない。手元の提灯の細やかな光だけが頼りだった。足下を見る余裕すらなくて、疲れきった足も相まって窪地や石に何度もよろけて、何度も転げそうになる。

 

「はぁっ!はぁっ!はぁっ!はああっ!!」

 

 それでも彼女は立ち上がって走る。ひたすら走り続ける。震える息。全身を満たしていく熱。狂ったようにひたすらひたすら。遠くに響く轟音に突き動かされるように。

 

「はぁっ!はぁっ!はぁっ!はぁっ!ふっ、んぐっ、はぁぁ!!ああっ!」

 

 永遠に思える刻を、永遠の闇の中を、抜けて、抜けて、抜けて、漸く彼女は其処に辿り着いた。都の外の、郊外の、その場所に。

 

「みつ、けたっ!!」

 

 息絶え絶えに、酸欠気味に頬を紅潮させて、小さな肩を上下に激しく揺らして、辿り着いて、発した言葉にはある種の達成感に似た喜びに滲んでいた。

 

 ……そしてそのままに顔を硬直させた。その人影を凝視した。そして見た。倒れ臥す今一つの人影を。その深い闇の中でも尚も明瞭に拡がる赤黒い染みを。

 

 漆黒の刃。その輝く切っ先と、其処より滴り落ちる雫に吸い込まれるように、彼女の身は凍りつく。一歩すら、動けない。

 

「え?なに、これ……?」

 

 眼前の光景の有り様を、其処に至る経緯を、彼女は理解し得なかった。どうしてここでこんな事が起きているのか?これは一体何事なのか?己はどうするべきなのか、彼女は混乱の渦中にあった。

 

「あ……」 

 

 そして漸く気付くのだ。倒れ臥している者が何者なのかを。ゆっくりと侵食するように思考が理解していき、理性がそれを激しく否定していく。そんな事があってはならないと。あり得てはならないと、必死に首を横に振るう。

 

 馬鹿な事だ。否定しても現実は変わらないのに。

 

『……』

「ひっ……?」

 

 佇んでいたそれがゆっくりと此方を振り向いた。笠と外套で見えない風貌の、その隙間から覗くギラギラとした眼光は到底人のものとは思えない。命を握られる感触に、沸々と沸き立とうとしていた怒りも憎しみも霧散していた。代わりに全身が身震いする。

 

「あ、……なん、で……やっ、こん、な……!?」

 

 思わず膝を折っていた。その場から立ち崩れる。その己の恥態に困惑して、奮い起とうとして果たせなかった。その場から……起き上がれない。

 

 ぽつり。ぽつりと。雨音がやって来た。あっという間に肘笠雨となって辺りの風景をも乱雑に掻き消していく。彼女をびしょ濡れにする。雷雨が鳴り響く。此方を振り向いていたそれすらも、もう背を向いてしまったのだろう。眼光も見えなくなっていた。嵐のような雨音に混じって足音がするのだけが辛うじて聞き取れた。

 

「あ、あ……あぁ………」

 

 去り行く気配に、彼女は呼び止めようとして、しかし声が出なかった。それどころか立ち上がって、今すぐに倒れ伏すその傍らに駆け寄りに行く事すら出来なかった。怖かったのだ。恐ろしかったのだ。恐怖に身が竦む。動けない。動けない。

 

 それは卑怯で卑劣だった。無様で情けなかった。お前は何て不孝者だ。この状況で、お前は為すべき最低限の事すら出来ないのか?また過ちを繰り返すか?罪を重ねるのか?取り戻して、やり直せる機会をふいにするのか?……耳元で誰かが己を嘲笑して突き上げる。責め立てて、詰り尽くす。

 

 ……それでも彼女は動けない。現実を受け入れる事も、絶望を乗り越える事も出来ない。彼女に出来る細やかな事と言えば、ただ、一つだけだった。

 

「……人殺し」

 

 ……豪雨と雷鳴の中に掻き消されそうな掠れた投げ掛けは、卑怯な己に全くお似合いだった。

 

 

 

 あぁ、どうしてこんな末路に終わってしまったのだろうか?どうして?どうして?答えの出ない自問自答を彼女はひたすら無益に無意味に繰り返す。

 

 そして彼女はその根元に至るまでの記憶を追憶して……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 陰陽寮は何処までいっても朝廷に帰属する機関である。故に組織として何よりも最優先するべきは帝その人であり、その命である。公家衆の傀儡として奉られる者が歴代の大多数とは言え、退魔士家から人材の大多数が派遣されている関係もあり寮は公家衆とは潜在的な利権の対立関係にもあった。優先されるは帝の護衛であり、鶴の一声さえあればそれを大義名分に公家衆を軒並み呪う事すらしよう。

 

 翻って、扶桑の最大の利権集団である公家衆はそれ故に恨まれる事は少なくない。貴人の血肉もまた妖にとっては極上とされる。公家同士の政争もある。地下家を始めとした下級公家は兎も角、殿上人らからすれば朝廷の手続きを経る事なく、己の一存で自由に動かせ、帝ではなく己に忠を捧げる手駒を求めるのは当然の成り行きであったろう。

 

 故に職に溢れた武家や退魔士の子息、あるいはモグリに無頼漢を私的に召し上げて荘園や屋敷を守らせる事例は名門公家にとって珍しくもない。建国以来の名門たる百夜院家ならば、尚更の事だ。

 

 百夜院家私設退魔隊、世間に『祓護民衆』として知られるそれは幾つかある公家の類似の私兵共の中では最上の質を有しており、同時に奇特な組織として知られている。多くの同業他衆があくまでも雇用される公家の身内荘園の守護のみを担うのに対して、彼ら彼女らの職務はそれを超越していた。

 

 護国救民退魔祓呪……仁の人たる歴代当主の命に従い百夜院の権益、その枠の外にまで責を追い、正道にして誠道の務めを果たす彼ら彼女らは公家衆達からは頼られて、武家からも一目置かれ、民草からは期待され、退魔士家すら反発する事が出来ぬ法外の権威を纏っていた。

 

 より具体的には呪に妖に対する公家達の用心棒として侍り、武家や退魔士家では手の回らない、あるいは取り合わぬような民草の被害にも足を運ぶ。地元の彼らすら臆するような化物の討伐にも……個別の一族から、あるいは陰陽寮から援軍として要請される事も屡々であった。

 

 何よりも特筆すべきは頼む側に報酬が求められぬ事であろう。実働する衆の費用や報酬は全て百夜院家が請け負う。扶桑でも五指に入る権門にとってそれは一族が仁大臣の位を世襲する正統性の担保であり、ある種の必要経費とも言えた。

 

「まぁ、報酬さえ貰えれば私らにとっちゃあどうでもいいんだけどさぁ?」

 

 都の公家屋敷街でも際立って豪奢かつ広大な敷地に広がる百夜院家本家屋敷。その庭先にて女は冷笑する。

 

 全身スッポリと覆うような外套を着込み、乱れ気味の髪を伸ばした陰気な女は正しく百夜院家の召しあげる祓護民衆の一員、壱之組に属する精鋭の退魔士であった。清涼な庭先に似合わぬニチャリと意地の悪い笑みを浮かべて、傍らに控える本日の仕事の相方を覗く。

 

「今更何事だ?……新入りの事か」

 

 本道式の霊獅子を侍らせた仏頂面の男……式神使いの血を引く退魔士家の妾腹は、モグリ出身の女の言わん事を察する。

 

「元々あたしらの仕事だった訳っしょ?折角の特別手当、逃したんだけど。ぽっと出の癖にでしゃばって……大臣のでも咥えたのかしらねぇ?」

 

 普段からの給金も中々のものだが討伐任務等に従事した際の追加報酬は一層格別だ。百夜院は金払いが非常に良い。素行さえ一線を超えなければ身分も血筋も家柄も種族すらも問わず、傭い入れる者への待遇と礼節を弁えている。故に衆に属する者達は皆多かれ少なかれ一定の義理の忠誠を捧げてはいるがそれでも……いや、だからこそ不満というものはあるものだった。

 

「……口を弁えろ。大臣殿への侮辱、下手をすれば告げ口されて解雇されるぞ?」

「ウチの爺さんは自分の事でそんな憤慨する奴じゃあないでしょ?……それよりもさぁ、どう思う?流石に目を掛け過ぎでしょ?怪しくなぁい?」

 

 扶桑建国以来中央に座を占める百夜院の財と宝物は膨大とは言え、いきなり希少な『迷い家』の車に乗せ、霊刀を与えて任に送らせるのは厚遇にも程があろう。以前より大家の家人として務めを果たして来たというが、それとて一年か其処らであるとか。それ以前には碌な荒事の経験すらないと言う……。

 

「やっぱり青みのある身体でたらしこんだんじゃないの?あーあ、若いって羨ましい。失敗して犯され喰われたらいいのにさぁ?」

「縁起でもない事を言うな。我々とて、何時そのような末路を辿るか知れぬのだ。同業者には礼を持て」

「私はそんなヘマはしないしぃ」

「自惚れだな。……どうした?」

 

 モグリ故の無学からか、無情で軽挙な同僚に呆れ果て、式使いは背後の霊獅子が立ち上がった事に反応する。鼻で嗅ぐように、若干不機嫌そうに唸る態度に式使いは目を細める。

 

「どしたの?こそ泥?いや、これは……」

 

 女は霊獅子の反応にふざけ半分に尋ねて見て、自ら否定した。目を細める。屋敷の外からの気配に気付く。邪な気配。その……残滓?遅れてガヤガヤと人の騒ぎ立てる気配。

 

「噂をすれば、だな」

「神気の臭いもするわね。猿臭い……それに生臭い?」

「どうやら大物は一つではなかったようだな」

「糞ぉ。稼ぎそびれた」

「まだ言うか。……行くぞ。屋敷に通す前に検分して禊をせねばな」

 

 式使いの言葉に獅子が、そして気怠げに女も続く。貴人の住まう屋敷である。首を捧げるにしても権能なり呪いなりの可能性を思えばそのままとはいくまい。

 

「だっりぃわぁ」

 

 それは汚れるし臭い癖に益の少ない、貧乏籤の仕事であった……。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー

「よくぞ無事に帰ってくれた。……怪我はないかな?あとで薬師らに見て貰うと良い」

 

 庭園に面した広い応接間にて、上座に鎮座する屋敷の主人は優しく問い掛ける。烏帽子に礼服を着込んだ年を重ねた老人は、何処までも慈愛と仁愛に満ちた温かな微笑みを湛えて労いの言葉を口にする。

 

「有り難う御座います。多少の擦り傷こそありますが幸い大事に至るものでは御座いません。それよりも……」

 

 正座して頭を垂れていた食客は、蛍夜環は顔を上げると庭先に視線を向ける。

 

「此方が、長らく大臣様を心中を悩ませていた元凶で御座います。どうぞ御検分下さいませ」

 

 環の呼び掛けにより、庭先にて控えていた下男共がそれに被せていた筵を捲り上げる。そして晒し出す。趣ある庭園に似つかわぬ醜悪でおぞましい肉塊を。

 

「ひっ!?」

「何と穢らわしい……!」

 

 真っ先に悲鳴を上げたのは屋敷の主人に仕える白丁に雑人、女中共であった。主人の前での許可なき発言。しかし彼ら彼女らが思わず口を滑らせるのも無理はない。それだけの光景であったのだから。

 

 塩漬けになった毛むくじゃらの猿頭は尚も言霊術と瞳術を警戒して眼球をくり抜かれ、首を刎ねられ、揚げ句に牙を抜かれて舌まで抜かれていた。身体もまた手足の指を切り落として更に縄で拘束された状態でまるで布団のように干されている。

 

 巨大な蛤もまた同様。元々打ち砕かれた殻から肉を剥がされて樽の中に詰められている。塩と酒に浸された身は貝類特有の生臭さを放っていた。霧吐きの器官と触手は別途で別の樽に詰められている。

 

 そしてそんな怪物の亡骸を囲むのは封符を貼った遮妖縄。その周辺を更に武装した下男共に祓護民衆の弐番組の者達が剣呑な態度で番をしていた。その様は異様な程に張り詰めている。

 

 過剰……ではない。用心には相応の理由と教訓があるものだ。仮死した怪物が呪い瘴気を放った事や首を討ち取った妖将が怨霊として祟って来た事がある。首実検の場が死屍累々の地獄と化した事も……。油断は禁物であり大敵だ。扶桑でも有数の貴人がこの場にいれば尚更だ。本来ならば代理人にやらせても良い筈であった。一族の当主が直々に、それは厚遇と信頼を意味していた。

 

「ふむ。これが……実に見事な仕事かな」

 

 一族郎党、参列する者共が怖じ気付く中での堂々とした大臣の振る舞いは仮に虚勢であっても称賛に値しよう。

 

「蛍夜の家の退魔の士よ。これ等の討伐の子細を皆に語り聞かせよ」

「はっ」

 

 そして大臣の要請に従いつらつらと語られる事実は更におぞましき事、参列した百夜の一族の者、その臣下の中には目眩がして青ざめる者も。特に討伐後の巣穴の奥で見た光景に至っては幾人かがえずいて退席する有り様であった。

 

 ……無論、祓護民衆共は一人としてそのような無様を晒す者はいなかったが。中には不敵に笑う者すらいた。彼ら彼女らはこの手の惨状には耳目共に慣れている。言霊でもなければ言葉程度で怯えたりはしない。

 

「……あい分かった。御苦労であったな。……犠牲となった者らは丁重に弔うとしよう。身元が分かるか、鑑識も必要かな?」

 

 一通りの話を聞き終えて、家臣らに呼び掛けて手配をするように大臣は命じる。それは一句すら環の言葉を聞き逃さずにいた証明でもあった。続いて、怪物の骸に話題が及ぶ。

 

「ふむ……。そうだな。其処の猿の首は通りに暫く晒すとしよう。近頃は騒動が多く民草の心が動揺している。安堵させるには力がいよう。我らにその力があると見せつけねばなるまいて」

「残りは如何に?」

「臭いが酷い。街中に放置しては却って困ろう。処分は専門家に任せるべきだろうな」

「では、陰陽寮に?」

「解体は衆の者にやらせるように。……それで良いかな?」

 

 仁大臣の言に祓護民衆の者達が恭しく頭を垂れる。解体を任せる……つまり希少な素材があれば勝手に持っていって良いという事であった。それが新人に大任を与えて先任者共の面目を潰した事への埋め合わせである事は明白であった。

 

 ……そして、これから先に大臣が述べる宣言のための飴である。

 

「……さて。蛍夜環よ。よくぞ此度の大任を果たしてくれた。実に魅事。ここまでおぞましき怪物共、それを打ち倒した腕前。よもや誰も御主を軽んじる者はおるまい」

 

 そして白丁が恭しく参上して環の眼前に金子の詰めた巾着袋と印籠、そして羽織を捧げる。それは報酬を兼ねた支度金であり、百夜院に仕える証明であった。

 

「今日より正式に汝を我が百夜院が祓護民衆の客分として迎えよう。我が刀として盾として、目として耳として精励するが良い」

「ははっ!」

 

 大臣の厳かにして堂々とした命に、環もまた高らかに発して応じた。

 

「真に良き声、良き返事である。……余興よ。皆の前でその羽織、一つ着て魅せよ」

 

 若者の青く高い応答に快く頷き、大臣は提案する。それを受け入れて、若い退魔士は百夜院の家紋の刻まれた陣羽織を皆の前で着て見せた。百夜院に仕える者である事の、証明……。

 

「おぉ……」

「見事ですな」

「まさに威風堂々」

 

 凛々しい若武者の着こなしに、場の者達はその多くが感嘆するばかり。荒事に長じた者達の中には尚も静かに冷笑する者もいたが、場が場なれば己の態度を隠行する故にそれに気付く者は極僅かであった。

 

 何にせよ、積極的にしろ消極的にせよ蛍夜環の立場はここに公衆の面前で示された。

 

「宜しい、魅事である。正式な誓約は後程に共に語らいながらとするとして。……さぁ、皆の衆!!」

 

 仁大臣は環の姿を褒め称えると立ち上がり、彼女の傍らに立つと拍手。皆の注目を集める。環の肩に自然に触れながら、老人は歳に似合わぬ高らかな声をあげる。

 

「民草を苦しめる物怪はここに討ち果たされたのを認めた。そして百夜院の一族はここに新たな臣を迎え入れた。これは慶事である!さぁさぁ、無礼講である!!」

 

 その声に続いて女中共が場に次々と。参列する者達に酒を振舞い、菓子を振る舞う。

 

「え、えっと……?」

「今宵はこの首を肴に飲んで食べて、歌い踊ろうではないか!共に若き臣の栄光を、扶桑と百夜院の安寧と繁栄を祈ろうぞ!」

 

 そして場は一気に騒々しき場と化した。専門の解体屋共が祓護民衆と躯の解体を始めた。貴人共とその世話人共はその様を見てどよめきながら語り合い、あげつらい、酒を啜る。最早躯なれば、何を畏れる事があろうか?寧ろ、貶める事は功徳ですらあろう。

 

 ……それは扶桑の歴史が育んだ貴人共の風習だ。神は畏れられ、敬われてこそ神である。故に貶めて、愚弄するは自然の流れ。そして、自然を征して、闇を征して、神を征した事を示す行事であった。

 

 ……そのような都の貴き文化なぞ知らぬ環にとっては唖然とせざる得なかったが。

 

「さぁ騒げ騒げ。馳走も用意しておるぞ。存分に祝うのだ!……蛍夜の姫殿。此方に続いてくれますかな?」

 

 扇動するように叫んでから、もの静かに理知的に、左大臣は環に尋ねた。耳元で囁くように。

 

「え?あ、はいっ……!!」

 

 一瞬呆けて慌てての承諾。公衆の面前での精彩を欠いた態度に恥じる。大臣はそんな環の内心を思ってた苦笑した。

 

「殆ど見ておらんよ。見てみなさい、皆もう酒に肴に夢中よ。やれやれ、呑気なものよ」

 

 そう言われて庭先の騒ぎを見渡せば確かに。先程までの重々しさは何処へやらである。

 

「では、行きましょうかな?話したい事も色々とありましょう?」

 

 そして二人のみが、密かに無礼講の席を離れる。母屋の裏手に、縁側を歩んで、そして辿り着くのは茶室であった。

 

「此方です」

「し、失礼します!」

 

 古風でありながら趣ある内装に感嘆して、呼び掛けに応じて大臣に続いき部屋に足を踏み入れる環。直後である。ジュッという音が背後より響いた。

 

「えっ?」

「ここは密談にも使いましてな。防音防諜の結界を張り巡らしているのですよ。聞き耳は御法度という事です」

 

 床に落ちた焦げ焼けた式符を見下ろして朗らかに笑う大臣。翻って環の方はといえば顔を暗くしていた。己が盗聴されていた?一体誰に?いや、何の目的で……?

 

「……」

「詮索は止した方が良いでしょうな。知らぬが仏という事もある。どの道、術者を辿れるような縁は残しておりますまい。退魔士とはそういうものです」

 

 何処か詰るような物言いは、仁の大臣らしからぬ物言いに環には感じられた。しかし疑問はそこまでであった。既に大臣は茶を点てる用意を始めていた。

 

「格式ばった礼儀は不要。好きな所に座ると良いでしょう」

「は、はい……!!」

 

 大臣位の名門の当主の勧めである。大恩もあれば拒絶の選択肢はなかった。慌てて環は釜を挟んで大臣と相対して正座する。正座して、何を語るべきか迷いただただ大臣の顔を見上げるのみであった。

 

「肩肘張らずとも結構、胡座でも良いのですぞ?欠伸をしても良い。緊張して疲れが溜まっておりましょう?」

「それは……はは」

 

 大臣の語りは極論としても、的を射ているのを環も認めざる得ない。都からそれほど遠くない山での討伐は、しかし危険であったし、首実検の席も視線が集まり心労を伴った。何よりも、頼れる支えを自ら遠ざけた環の心中はずっと脆く苦悩し続けていた……。

 

「……今更ながら無理をいいましたな。流石に荷が重たかったですかな?忝い。突然の提案でしたな」

「そんな事は……」

 

 二人の語る内容、それは夷齣山での化け猿と蛤の討伐の事を指していた。

 

 ……そもそも蛍夜環が何故百夜院の大臣とこのような会話を交えているのか。何故怪物の討伐を請け負ったのか。それは数週間前に遡る。

 

 陰陽寮より宛がわれた有象無象の雑務を果たし、尚も逸る環は思いがけず大臣と邂逅した。御忍びの芝居見物。それに鉢合わせして、護衛を兼ねて同席した環に、貴重な余暇の時間に大臣は優しく問い掛けた。

 

 仁にして功徳の人。正道にして王道。慈愛の政を敷く百夜院の当主に、環は思わず己の不満を、不安を、怒りを、望みを、語っていた。扶桑を満たす不道不徳不正。虐げられる人々の有り様。闇に葬られる真実。形式と面子のために積み重なる民草の犠牲。功績に対する妬み僻みを恐れての自重の警告。そして己の権限の小ささ故の叶わぬ捜索の望み……入鹿に止められて、己が何れだけ禁句を口にしているのかに気付いて慌てて気付く。自身が口にしている事は扶桑の糾弾、そして仁大臣への批判であったのだから。

 

 大臣は環の言葉をただただ誠意を込めて受け入れた。己の至らなさを深く謝罪した。それは環にとって新鮮な光景であった。目上の者が、しかも左大臣という高貴な位の者がここまで素直に批判を受け入れる姿が信じられなかったのだ。それは環にとって大臣への信頼を強く印象づけた。そして……大臣は提案したのだ。己の元での栄達を。己の名声を利用する事を。

 

 それは環にとって渡りに舟と言えた。左大臣程の人の後ろ盾、その庇護の重要性が分からぬ筈もない。あからさまな法外の所業は無理にしても便宜を、あるいは人脈を、あるいは優先的に功績を上げる任を得る事は出来よう。断る利点がなかった。

 

 ……加えるならば、この大臣が友の大恩人である事も提案を快諾した理由であろうか?何にせよ、環にとっては身の丈に合わぬ程の好都合である。

 

「ははは、そこまで卑下する事はありますまい。貴女の力を得られるのは私としても僥倖。関街での一件……私も聞いております。神格を伐ったその力を貸して貰える、ならばこれは相互の利益というものです。無論、半信半疑でしたが……此度の任でそれが真と分かりました。最早その実力は疑うべくもない」

「そんな事……それこそ大臣様が事前の調査をして下さったのと呪具をお貸し下さったお陰です」

  

 大臣の賛辞にむず痒くなって環は謙遜する。事実であった。

 

「『反根庚』は特に助かりました。あれがなければどうなっていたか……」

「貴女にそれだけの価値があるか見定める意味もありました。そして貴女は見事その期待に応えた。それだけの事。そして一つ訂正を。あれらは貴女に貸したのではなく与えたのですぞ?」

「それ、は……!?」

「さて、茶が沸くまで此方でも召し上がりを。中々の美物ですぞ?」

 

 大臣のトンデモ発言に反応する前に先手を打たれるように差し出される茶請け。鼻腔を擽る甘い薫り。中にあるのはまん丸の赤子卵糖である。橘商会が売り出してる甘味菓子であった。

 

「え、えっと……頂きます。……美味しい。じゃなくて!?」

 

 差し出された物を食わぬのは無礼なれば、摘まんで一口放り込み甘味に酔いしれ、思い出して突っ込む。それだけ環にとって左大臣の発言は問題だったのだ。

 

「呪具……それも、霊刀ですよ!?それも、中等以上の品だって!?」

 

 有象無象の安物ならばいざ知らず、環の受け取った霊刀は一般的な退魔士が主装とする中等呪具の中でも特に上物であった。刀以外の呪具もそれに準じる。限りなく一点物、少なくとも替えの利く大量生産品ではない。貸し出すならばいざ知らず易々と贈呈するなぞ非常識なのはこの界隈に足を踏み入れてまだ日が浅い環だって学んでいた。

 

「何れも百夜院の蔵に死蔵されていた品、長らく使う者もなかった物です。このまま無為に腐らせるよりも貴女の役に立つ事の方が余程意義がありましょう。道具は使ってこそのもの、違いますかな?」

「それは……そ、それこそ祓護民衆の手練れに配れば……」 

「彼ら彼女らを軽んじる訳ではありませぬが、残念ながら皆金銭で雇った身の上。血筋経歴が厄介な者もおりますればな……呪具を持ち出して逃げる可能性も零ではありませぬ。無論褒賞に貸し出す事はありますが良く良く見極めての事。蔵に眠る呪具の数々から見れば到底捌き切れるものではないのですよ」

「だからって……それこそ僕に渡す理由もないでしょう?」

「否、貴女だからこそです」

 

 強く強く、大臣は環の疑念を否定する。

 

「それは……」

「先程もいった筈。良く良く見極めていると。……私のような位となると皆良い顔ばかりで取り繕ってすり寄ろうとしましてな。中々下々の実態は分からぬのですよ」

 

 困惑する環に、自嘲するように大臣は語る。

 

「私の立場を分かりながら何も取り繕いもなく不満を語ってくれる事が嬉しかった。貴女の人となりは以前から知ってましたが、それを直接目に出来た。だから信頼した。貴女を取り立てたい、貴女を高みに昇らせたいとも思った」

 

 理知的で温和な表情に、しかし熱く熱く瞳が燃えているように環には思えた。燃え盛るような情熱が見て取れた。

 

「そんな……余りに過分な評価です。僕は、大臣が思うような人間じゃあありません」

 

 仁愛に満ち、何時でも民草の身を案ずる左大臣からの評価に、環は素直に受け入れ切れずにいた。多大な期待……その志はきっと近しいのだろう。しかし到底己の覚悟も理想もこの大臣には敵わない。そして期待に添える程に力を振るえるのかも……。

 

「だとしても、諦めるつもりない……そうでしょう?その程度の器であれば私に愚痴る事も、私の手を取る事もなかった。違いますかな?」

「……」

 

 大臣の指摘に、環は黙り込むしかない。図星であった。大臣は朗らかに頷く。茶はもう出来ていた。部屋に豊醇な香りが満ちている。

 

「……さぁ。ここは茶室。これは茶席。達人には及ばぬ腕前ではありますが、一先ずはお呑み下され」

 

 差し出される湯呑を、環には呑まぬ選択肢はない。そのような無礼、大恩ある大臣手ずからの茶に対してするなぞ傲慢ですらある。故に儀礼を思い出した環は湯呑を持ち上げて茶を啜る。そしてはっと驚いて大臣を見た。

 

「これ……太紅棒、ですか?」

「御名答。八大銘茶が一つ『太紅棒』。大陸茶の逸品ですが……お飲みの経験が?」

「ははは……鬼月の御意見番様に以前呑ませて頂きまして」

 

 姫君としての教養として、茶の道を教えを受けた時に環はこの茶の味を学んでいた。何なら八大銘茶全てを味わった経験がある。濃厚で独特の香りに色合いの時点で気付けぬのは環の学習不足であり、思考が上の空であったからだ。

 

「えっと……見事な御手前です。すみません、本当ならもっと色々必要なのでしょうが、僕、余り得意ではなくて」

 

 本来ならば茶室の趣、茶器の見分、茶そのものを目で、鼻で、そして舌で味わい讃えるべきなのだろう。残念ながら環には其処までの感性を育めてなかった。

 

「ははは。無礼講なのです。お気になさらず。堅苦しくしてはそれこそ形式主義というもの。……どうです?茶菓子とは合いましたかな?」

 

 環の罪悪感と羞恥心を吹き飛ばすような快活な笑いであった。そして好奇心に満ちたような問い掛け。環もまたこれには苦笑するしかない。

 

「真に、良い組み合わせかと。……あ。それと、温度も良かったです。夏場に合わせて冷ました茶でした」

 

 霊脈の真上、結界の内とは言え季節は夏。熱々の茶は望まれぬ。敢えて少し冷ました茶は環の喉を潤すのに絶妙な温もりであった。其処には形式ではない、自慢ではない、独り善がりでもない客人への持て成しの心が感じられるように環には思えた。流石仁大臣か。

 

「お誉めの言葉、有り難く頂戴致しましょう。さぁ、もう一杯。茶も御代わりを用意しましょう」

「あ、有り難う御座います」

 

 左大臣の勧めに応じて茶を呑み、菓子を口にする。気恥ずかしさや緊張、様々な気持ちが入り交じった故か、気付けば環は飲み食いに意識に集中させていた。

 

 少し食べ過ぎただろうか?……思いふと大臣を見上げると、視界に映るは大臣の温かな微笑み。優しげな表情は祖父がいたらこんな感じなのだろうかという発想に至る。

 

「えっと……」

「いや、良き食べぶり呑みぶりと思いましてな。昔の事を思い出してしまいました」

「昔、ですか?」

 

 子か孫か、弟妹の事か、あるいは大穴で妻の事であろうか……百夜院家の家系図はどうであったかと環は思う。駄目だ。思い出せない。確か孫娘がいた筈だが。

 

「さて、と。……呪具について贈呈に気後れするのでしたら引き替えに今一つ任を受けて頂いても良いでしょうかな?貴女の栄達にも繋がる。無論、内容を吟味してから判断して下さっても構いませぬ」

 

 そして大臣は、きっと兼ねてから用意していたのだろう。懐から小さな巻物を取り出した。そしてそれを差し出す。

 

「……」

 

 環は巻物を受け取ると結んでいる留め紐を解いて広げる。そして記載されている文面を読み込んで行き……大臣の方を窺う。顔面を強張らせて。

 

「こんな事が……こんな恐ろしい事が?」

「残念ながら事実です。民草の不安に付け入りモグリ共が好き勝手に暗躍している様子」

「くっ……!」

 

 今一度、巻物の中身を見て歯を食い縛る環。本当にふざけてると思った。心なき連中はどうしてここまで出来るのか、理解出来なかった。

 

「今度大きな儀式の摘発がある。検非違使庁は単独で乗り出そうとしていたようだが、戦力が不足していると思いましての。祓護民衆を加えるように申し出た次第。……貴女も、参列して下さいますな?」

「勿論です!」

 

 心強く返答。拒絶なんて有り得ない。もしここで頼まれたのが己ではなくて彼でもきっと申し出を受け入れた筈だ。何なら今からでも任に備えて全力で鍛練したいと思った程である。

 

「良き返事。……だが逸る事はありませぬぞ。今日一日、飲み食いして会話を楽しむ余裕はありましょう。それに、正式に召し上げる誓約が必要、違いますかな?」

「あ」

 

 大臣の指摘に遅れて環は気付く。そうだ。誓約書に誓わなければ環の立場は不明瞭であった。今のままでは何故か大臣の側で戦う某である。それはいけない。

 

「そ、そうでした!その、すみませんっ!逸ってしまいまして……!!」

「それが若さというもの。微笑ましいものです」

  

 謝罪を快く受け入れる大臣。追加の茶と菓子を差し出して背後の棚よりまた別の巻物を取り出した。誓約用の霊紙による巻物と思われた。

 

「血判による誓約ですが、宜しいですかな?」

「が、ガンバリマス」

 

 指を切る必要がある事を伝えられてぎこちなく応じる環。痛いのは好きではないがこのくらいは我慢しなくては。

 

「刃でしたら此方を使うと宜しい。良く研いでいるので綺麗に切れます。傷口が綺麗に済めば治りも早くなりますからな」

『その前に誓約書の確認を宜しくて?』

「えっ!?」

「……」

 

 小刀を差し出す大臣の声に続けるような第三者の声音に環は驚愕して、大臣はゆっくりと横を向いた。茶室の入口に微笑みながら佇む若い老婦人の姿がそこにあった。

 

 一体何時から?一体何処から?いや、待て。この人は……。

 

「貴女は……」

「その出で立ち。よもや彼の鬼月の……黒蝶婦殿ですな?御名前はかねがね」

 

 大臣は大物らしく泰然と闖入者を観察し、その正体を見抜いてみせる。そして続ける。

 

「しかし……はて。貴女を御呼びした覚えがないのですが。一体どのように此方に?」

『ふふふふ』

 

 大臣の指摘に微笑みながら足下を扇子で指す御意見番。否、違う。その姿を象った式であった。環が部屋に入る際に燃えた紙の燃え滓がない。つまりそういう事である。

 

「式符の燃え滓で具現化とは……流石北土有数の式遣い。感服致しますな」

『お誉めに預かり光栄ですわ。名高く高貴な百夜院の大臣様。私鬼月家が前々当主夫人、鬼月胡蝶と申します。このような式を通じての挨拶、失礼致しますわ』

 

 技前を褒め称える大臣に対して優美に礼を以て胡蝶は、胡蝶の式は応じた。まるで本人と見分けがつかない極め細やかな所作であった。燃え滓の符でそれが為せる事は正しく神業であろう。

 

「ふむ。して……一体何用でありますかな?このような場に式にて参上するとは、どのような了見ですかな?」

『……そちらの蛍夜の姫君は我が鬼月が家人として召し上げている身。そして私は後見人として務めておりますわ』

「え、えっとそれは……!?」 

 

 手を翳して胡蝶の式は環の発言を差し止める。そして続ける。

 

『お話は無論、聞いておりました。大臣直々の申し出となれば断るのも非礼なれば……ですが誓約には呪の絶対の拘束があるもの、で御座いましょう?なれば後見人として、中身の検分は認めて頂きたいと思いましたの』

 

 鬼月の家人である事と、百夜院の祓護民衆である事は実の所両立出来る事であった。ましてや仁大臣からの申し出である。最初環がこの話を持ち出した際には鬼月の皆がそれを拒絶する権利を持たなかった。寧ろ礼を述べねばならぬ事であった。扶桑において帝に序で高貴なる家に仕えるのだ。当然であろう。御意見番も表だって拒否はしなかった。好意的ですらあった。それが……。

 

(何か……以前と反応が違う?)

 

 黒蝶婦という異名らしいと言えばらしい警戒ぶりではあるのだろう。しかし環には其処に明確な差異を感じた。己が山に討伐しに行く前と今とでは御意見番のこの件に関する態度が全く変わってしまっているかのように思われたのだ。

 

「検分……ですか。ならば事前に伝えて欲しいものでしたな。流石に屋敷に勝手に上がられて嬉しいものではないものです」

『申し訳御座いませんわ。何しろ交渉事で人の意表を突く事ばかりしておりましたので。思わず……何卒御容赦を。後日、謝礼に良き物を贈らせて頂きますわ』

 

 話題を誤魔化して、逸らすようにも見える胡蝶の言い分。首を横に振り大臣は嘆息する。チラリと環を見やる。

 

「……蛍夜殿はそれで?」

「えっと……」  

 

 話を振られた環は胡蝶を見る。そして大臣を見て、また胡蝶を見た。思慮する。師のそれは、まるで節介な母親のような振舞い。そんな扱いをされる事が情けなくも思えて来る。しかし……。

 

「……是、お願い致します」 

 

 恭しく礼をして頼む環。強情をした所でまだまだ未熟な田舎者な己では失敗しかねない。皆の面目のために、厄介事を起こさぬように、折れる事は大事だった。

 

 少なくとも彼なら……そうしただろう。

 

「……承知しました。では一つ、じっくりと読み取って頂きましょう」

 

 巻物を解いて大臣は立ち上がる。結界の一線の敷かれた茶室の入口まで歩み寄って、人の姿をした式に差し出す。式は恭しく礼をして巻物を受け取る。そして吟味……する前に環を見下ろす。

 

「長旅の任御苦労様様です。車を送っておりますから、一度逢見の屋敷にお帰りなさい?お風呂の用意してますよ?」

「……分かりました」

 

 車を既に送ってるとなれば、断るのも決まりが悪かった。環は左大臣を見上げる。大臣は環に人当たりの良い慈愛の笑みを返す。

 

「御友人方も心配しておいででしょう。一度骨休めてから改めて奉公にお出で下さい。焦らずとも、時間はありますよ」

「……有り難く存じます」

 

 寛大な大臣の態度に深く深く、環は礼を述べた。本当に有り難く思えた。

 

「良き家人殿ですな」

『はい。本当に良い娘ですの』

 

 そして、そんな田舎者なりき礼節を弁えた環を大臣と婦人は褒め合った。面を合わせて、微笑んで、冷たい眼差しを交差させて。

 

 慇懃に慇懃に、上面の礼と言葉だけを飾って……。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

「……では、私はこれにて」

『にてー』 

 車が環を乗せて出発したのを確認し、眼前にて返信用の式はその役目を果たし終えた発火した。あっという間に燃え滓すら残さずに燃え尽きた。一瞬空気の淀んだ暗室を照らし出して、しかし直ぐにまた闇が訪れる。闇の中で生暖かく艶かしい吐息が反響する。

『ナニやってんだこの馬鹿わぁ』 

「これで……いいのぉ?」

『いいわけねーだろー』 

 先程までの大臣に対するものとは打って変わって、まるで媚び甘えるような声音で以て鬼月胡蝶は首だけを振り向いた。

『猫被声ー』 

 ……式越しに会話を交えていた大臣や環は到底想定していないだろう。三十代前半、下手すれば二十代にも見える若作りをした女は一糸すら身に纏っていなかった。

『かれーしゅーするぞー』

 日差しに当たらぬ故に尚も白く潤いある肌、体型は流石に代謝もあるのだろう、孫娘に比べても腕に腹、太股、臀部、乳房、全体的に脂肪が多く良く言えば豊満でふくよか、悪く言えば僅かに体型が崩れている。そんな身体を四つん這いにして、乳を牛のように垂らして尻を突き上げた姿は髪を纏めずに広げている事もあり無様にすら見えて、同じくらいに魅力的で扇情的でもあった。紅潮する頬と、垂れ下がる髪の隙間から覗く潤んだ目元は尚更それを強調している。

『人というより入?』

 そんな体勢、そんな表情で彼女は見上げる。背後に立つその人を。薄暗い中で朧気に浮かび上がる輪郭。堅い腹筋の割れた肉体、傷だらけの肌、そして、己を見下すその眼差しを。

『甘噛跡つけとくねー?』

「あぁ、構わない。今更強情に反対しても疑われる。釘を刺して牽制すれば今は十分だ」

『惜しかったなぁ』

 彼は答える。淡々と不満足げに、仕方なしに己を納得させるように。その振る舞いに胡蝶は何処までも申し訳なくなる。

『手遅れだったら面白いのにぃ』

「ごめんなさぃ……もっと早く話を聞けていたら……」

「あぁ全くだな」

「んんっ!?」

『もっと引っ張れー』

 冷たい声音。グイッっと髪を掴まれて乱暴に首を背後に引っ張られる。耳元に彼の吐息が当たる。肚が締まる。己の牝が悦びに打ち震えていた。彼のこの行為だけで無常の法悦だった。だが、来るのは悦びだけではない。彼の叱責が続く。

『千切っちゃえー』

「本当にギリギリだった。危うく環が騙される所だった。お前も分かってるだろう?」

『私はよく引っ張られたよー?』

 左大臣の取り出した誓約の巻物、あれは違法品だ。特定の所作、合言葉、紐の結び方、それらを鍵として中身の内容が変貌するそれは元々は朝廷の隠密の情報伝達のために、しかし気付けば民間にも製法が流れてしまい様式や外装を無関係に装った違法改良製造品が幾つも流通するようになってしまった。

『千切られたよー?』

「横槍をいれなければ……環の事だ。中身を吟味し切らずに印を捺していたかもな。その時、お前はどう責任を取るつもりだった?えぇ?大事な大事なお気に入りに対して随分と軽挙なこったな?」

「それ、はぁ……」

『私の時は誰も心配してくれなかったの』

 詰るような追及は演技ではなくて、明確な怒りが見えた。その事実に、己の過失に深く反省しつつも胡蝶はどうしようもなくこの事態に興奮して歓喜せずにはいられなかった。

『羨ましいなぁ』

 ……彼は孫娘を受け入れた。商家の令嬢を受け入れた。それを伝えられて、屋敷に赴いた。そして協力者として紹介された己は直ぐに己の全てを彼に吐き出した。そしてその足下に犬のように縋って、服従を願った。彼と誓約した。

『妬ましいなぁ』

 今の己は彼のものだ。この身、この心、この命、全てを彼に捧げる。彼の望み、彼の願い、彼の命令には欠片の疑念も疑いも持たない。理由すら聞かない。唯彼のために手を尽くすだけだ。同時に、彼もまた己に責任を負う。

『欲しいなぁ』

 彼は上で、己は下。彼が支配者で己は婢。彼との関係は常にそれにある。誓約が知られてはならぬ者達に知られぬ限り、お互いがそれに従った振る舞いをせねばならない。面前と伝えられた彼の表情は筆舌し難いものだった。何か背後に宇宙が見えた気がした。しかし……侍り控える連中を一瞥した後、彼は最後にはそれを受け入れた。

『私だけを受け入れろ』

 幸せの形は人其々……彼の己を納得させるような呟きを覚えている。きっとそれを散々に分からされる経験をしたのだろう。僅かに嫉妬を抱いたが、それはもういい。彼は直ぐに順応してくれた。手慣れていた。彼はあっという間に完璧に飼い主になってくれた。冷酷で冷徹に振る舞う優しい飼い主に。胡蝶は知っていた。無慈悲な彼の躾が、絶妙な手加減をしている事を。彼は奉仕していた。奉仕してくれていた。

『とと様になれよ』

(けど、これは違ぅ……♪)

『私だけのもの』

 だが此度は違う。これは手加減はない。彼の怒りは本物で、容赦はきっと来ない。そう、彼が妹の状況を察知して、そのまま怒りの捌け口となった孫娘のように……。

『いひひ』

「聞いているのか?」

「んひぃ♪ご。ごめんなさぁぃ!?♪」

『牝太鼓♪』

 弾けるような肉を叩く音。耳元での詰るような呼び掛けに胡蝶は悦びの悲鳴を上げていた。己の思考が桃色に染まっているのを察していたのだろう。彼の手付きは容赦なかった。紅葉型の痕が残っている事だろう。

『母様みたい』

「今後逐一、環について報告しろ。あいつが大臣に取り込まれぬように、一挙一動だ。注意喚起して、何としても純潔を守らせろ。分かったな?……それくらいして見せろ」

「ふ、ふ、ふぅぅ……」

「分かったな?」

「ひゃぁ、い……♪」

『私もだった。良い音が出る太鼓♪』

 言われるまでもなかったが、敢えて声を一度無視したのはより彼の声を聞きたかったからだった。亭主のように、主人のように、旦那のように、己に命じる彼の声音が聞きたかったからだった。

『もう私は叩く側』

 ……まるで娘の不良を咎めて妻を叱責する夫のようにも妄想出来た。娘には悪いが燃えてしまう。子を心配されて嬉しくない母はいない。

『悪い牝はぺしぺしだぁ』

「本当に分かってるのか……?」

「だいじょうふ……だぃしょうふ……ですわぁ。どうぞ、このこくしょうふに、おまかせくだひゃい、まひぇ」

『ぱふぱふもだぁ』

 少し素が出てる彼の疑念に必死に必死に弁護する。彼に頼りないなんて思われたくなかった。そんな己には何の価値もない。唯でさえ中古品の歳増なのだ。役に立てなければ若い有象無象共以下である。そんな事は許せない。

『牛さんみたぁい』

「……分かった。期待しておくよ」

『御布団汚れちゃ駄目だもんね』

 尚も疑念を持っているようだが彼は納得してくれた。髪を掴んでいた手が開く。頭を乱雑に撫でられる。それだけで胡蝶は幸せになってしまう。

『搾ってあげる』

 ……けど足りない。まだ足りない。もっと。もっと。もっとだ。

『いただいてあげる』

「おねがぃ……」

『はむはむはむ』

 おねだりするように上目遣いで彼を返り見る。精一杯に健気に。年甲斐もなく甘える。皮だけ若作りした美貌を総動員する。慈悲は直ぐに来た。

『……』

「んひゃっ♪」

『あーむすとろんぐじぇっとあーむすとろんぐ』 

 己の内股を通り抜け、腹を超えて下乳までの肌を灼熱が跳び跳ねるようにして叩いた。まるで焼きごて。熱した鉄棒のような熱さに全身が震える。内ではなく肌の上なのに頭の中を閃光が煌めいた気がした。内から垂れてくる馬鹿みたいな量の汁が己を、そして彼を根元から濡らしていく。互いの繁みを濡れそぼらせていく。己にまだこれ程までに牝としての機能があった事に驚嘆する。

『……』 

「ねぇ。このまま……ねぇ?」

『……』

 内股を締めて、挟んで、前後に濾して、必死に必死に、先を懇願する。我慢出来ない。もう我慢したくない。良い歳をして酷く色狂っている。浅ましい己の有り様を自覚をさせられる。だけど……胡蝶は確信していた。彼はちゃんと群れの飼育の出来る男だと。

『ぷわぁ。ははの味!』

「……」

「んっ、はぁ♪」

『彼は大人』

 腹に手を回された。グイッと下半身を浮かび上がらされた。より尻を突き上げるように、彼にとって都合の良いように姿勢を整えられる。それの意味する所に、沸々と期待に胸が膨らむ。捕らえていた脚が情けなく開いた。鉄棒のような彼を自由にする。

『私は子供』

「……勘弁してくれ。そんな顔で見るのは」

『だから私が横取りしてもいいよね?』

 哀れむような声音。そしてゴン、と後頭部を押さえつけるようにして顔を枕に押し沈められた。それ以上彼女の顔を見ないように。

『流石じゃしん』

 牝の顔を見れば何を望んでいるのか、その愛が如何程なのか分かってしまうのだろう。深い深い情愛。その必死な望みを、彼は無下には出来ない。だから沈めたのだ。全ては同情でも憐憫でもなく、己が牡としての選択だと。胡蝶の名誉を守る。胡蝶の浅ましき醜さを覆い隠す。淫らな現実を取り繕うのだ。

『栄養満点♪霊気も満点♪』

 求められたからではない。牡としての欲求に従いその身体を貪るのだと、胡蝶の牝に分からせてやるのだ。

『私はよーかいちちすいわらわぁ』

 ……お前の身体はまだ強引に手込めるだけの価値があるのだと、接待する。

『沢山飲んでおっきくなるね♪』

(あぁ、優しい人……)

『この屋敷は何時でも何処でも飲み放題♪』

 あの人そっくりだと思った。あの人の生まれ変わりなんじゃないかとすら思う。そうであって欲しいとすら願う。例え違うとしても……自分はそう思いたい。

『彩りみどり、すくすく成長♪』

 ずっと我慢してきた人生なのだ。老い先短いのだ。少しくらい我儘に己を剥き出しにしたい。その代わりに……貴方のために全部捧げてあげるから。

『赤ん坊を餓死させるのが得意技♪』

「っ"っ"っ"っ"!!!?あ"、あァ"ッ"!"!"?"」

『水子にも箱にも出来るよー♪』

 声にならぬ声を枕の内で悶え吐く。記憶のあの人を思う。背後の彼を思う。容赦なくのし掛かる重みが甘美だった。彼を迎える。哭きながら悦ぶ。何も見えない視界が潤む。思わず喘ぎ悲鳴を奏でる。彼は容赦してくれない。若い牝達にそうするように、必死に求めて扱ってくれる。

『くすくすくす。なーんてねぇ?』

「あ"ぁ"…"…"!"!"」

『けど、実際死んじゃったら楽しそう』

 後頭部を押さえつける手が、乱暴に頭を撫でる様に胡蝶は啼いていた。彼を幻視した。ずっと願っていた彼との褥の空想そのものだった。彼ならきっとそうした。乱暴に、そして優しく自分を可愛がってくれる。その事が……嬉しい。

『安心して。魂は貰って遊んであげる』

「馬鹿な女……」

『今は鬼月の血までは無理だけど……』

 虚飾と欺瞞の人生を渡り生きた彼女には、背後からふと紡がれた短いその罵詈雑言すら心底温かくて心地好いものに思えていた。

『沢山飲んで成長するよ?』

 少なくとも、それは己の心を思いやってのものだったから……。

『この綻んだおまじないが壊れるまで今少し』

 

『そしたら、家族で仲良くかごめをしようね?』

 

『全て融かして私の内に呑み込んであげる』

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