和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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第ニ一三話

 昔を思い出す。貧しくとも、しかし確かに心は幸福だったあの頃の記憶を。

 

 北土の冬は身体が芯から底冷えする程に寒い。凍てつく冷たい風が肌を容赦なく襲う。暖を取ろうにも薪は限られていて、布団も敷物も薄い。一人では寒さを凌ぐのには限界がある。そう一人では……。

 

「にぃちゃん……さむぃ」

 

 ……胡座を掻いて黙々と草鞋を編む兄の懐に布団を被ったまま迫って潜り込む。腹に抱き着いて顔を埋めて、そのまま兄の人肌を懐炉か湯湯婆のように扱う。

 

「おいおい……全く仕方ないな」

 

 今日の飯のための内職を明白に邪魔をして、しかし兄は困り顔になりつつもそんな己の愚かな行為を迎え入れた。作業の手を止めて、己の頭を撫でてくれる。心地よい。猫のように喉を鳴らして、自分はむずがるように目を細める。夢見心地になって睡魔に身を任せていく。

 

 長兄は何時だってそうだった。幼子は拙いながらに知っていた。残る二人の兄とは違う。一番上の兄は一番自分を甘えさせてくれる。決して嫌な事はしない。意地悪もしない。欲しいものはくれる。遊んでくれる。優しいお兄ちゃんだ。賢いお兄ちゃんだ。都合の良いお兄ちゃんだ。残る兄達が嫌いな訳ではないがこの兄は特別だった。

 

 だからこそ、自分は容赦も遠慮も恥もなく我が儘に兄を頼るのだ。この人は絶対に味方なのだから。

 

「えへへへあったかい。……にぃちゃん。だいすきぃ」

「現金な奴め」

 

 擦り擦りと腹に頬を擦り寄せて甘え声。兄は呆れたようにして、しかしそれだけだ。他の兄達なら重いとか邪魔といって押し退けていただろう。頭に乗せてくれていた手がその内草鞋を編むために離れたのは不満だったが仕方ない。お前の御飯のためだよと言われたら流石に不満は言えない。お金は大切でお仕事は大事なのは、幼心に自分も理解していた。一番年下故に未だ働く事がないからこそ、皆の仕事する様を散々に見せつけられて来た。己もいつか皆と一緒に頑張るのだろうか?

 

 ……仕事の都合でお留守番で二人きりの御昼だった。兄の作業する音だけが部屋に断続的に響く。うとうとと、彼女はそれを子守唄代わりに聴きながら起きたばかりなのにお昼寝に誘われる。あぁ、幸せだと思った。ずっとこの幸せが続けばいいのにと思った。

 

「にぃちゃん……」

「……何だ?」

「わたしね、にぃちゃんのおよめさんになってあげるね?」 

「なんじゃそりゃ?」

 

 唐突過ぎる提案に兄は困惑を通り越してからからと笑う。しかし、幼子には幼子なりの考えがあるものである。

 

「だって、にぃちゃんはいちばんにぃちゃんでしょ?あととりでしょ?だったら、およめさんがいるんでしょ?」

 

 貧しい半小作の家とは言え、家は家。御家存続のために長男が跡を継ぐのは義務であった。

 

「うちはおかねないでしょ?およめさんこないでしょ?」

「辛辣な事実だな、おい」

「それにわたしも、じさんきん?がないからよめいりできないんでしょ?だからね、かんがえたの!」

 

 故に自分が兄に嫁入りすれば持参金も結納金も要らぬ、と道義なんぞ欠片も考えずに安直に自分は提案して見せる。一緒に暮らす……その程度の認識で、結婚の意味を深く考えずに妙案の名案だと下心ありで短絡する。

 

「……それ、家から出たくないだけだな?」

「バレた?」

「当たり前だ」

「えへへへへ……それほどでも?」

「いや、照れるなよ」

 

 兄は即座に彼女の心理を看破して見せた。結局の所、この自分は家から出たくないのだ。慣れ親しんだ家で家族と共に暮らしたいだけなのだ。例え貧しい家族でも、襤褸の家であっても自分にとっては尤も安らげる居場所であったから。狭い世界で生きて来た幼子にとっての、安住の地……。

 

「……安心しろよ。お前の持参金くらい、どうにか用意してやるさ。兄ちゃんに任せろ」

「えー」

「えー、じゃねーよ」

 

 そんな事なんて頑張らなくていいのにと心底思う。そんな金があるなら御飯をもっと食べたい。単純にそう思うが、どうやら兄としてはそれは許せぬらしい。

 

「別に絶対とは言わねぇけどな。誰でもいいって訳でもない。だが良く考えずに嫁入りしなくていいなんて考えんな。後先考えろ後先を。老後を」

「だからにぃちゃんによめいりするのー」

「黙らっしゃい」

 

 心底心底呆れるような兄の突っ込み。むすっと頬を僅かに膨らませる幼子。自分がお嫁さんでは不満なのかと怒る。これでも村では可愛い方だと思っているのに。病弱だが綺麗な母に良く似ていると褒められているのだが。

 

「兄妹でなんて悪習……悪い昔のお話だ。今時はそんなのは駄目なの。分かるか?戸籍どうすんだよ?」

「んー?じゃーにぃちゃんはおよめさんになってくれるひといるの?」

 

 兄の言っている事の大半が良く分からなかった。しかし口振りからしてそれは良くないのだろう事は何となく分かる。しかし、だからと言って聞き分けが良い訳でもない。何よりも、貧乏な我が家にそれこそ誰がお嫁さんになって来てくれるのか?大好きな兄のお嫁さんに……誰かいるのだろうか?心中に幼い嫉妬が芽生える。心を覗くように兄を懐からじっと見上げる。

 

「ませてるなぁ。お前程じゃなくても兄ちゃんも餓鬼だぜ?そんなの、どの道まだまだ先の話さ。それに……家を継ぐのは俺じゃねぇよ」

「う?」

 

 相変わらずの兄の態度からの、それは予想してなかった返答だった。

 

「にぃちゃんいえをつがないの?なんで?」

 

 それは本当に奇妙で奇妙だった。常識の外であった。幼子ですらそう思う程に兄の言葉は可笑しな話だった。兄は一番なのだ。自分や他の兄達が結婚しなくてもこの兄だけは特別なのだ。そういうものなのだ。この村の村長の家だってそうだ。遠目に跡継ぎやら結婚やらお金の事で兄弟で酷く醜い言い争いをしてるのを見た事がある。見苦しいとは正にあの事だろう。

 

 家は継ぎたいもの。上の兄は結婚するもの。それが常識である。それをこの兄は否定した。己にはそれが仰天物であった。頭の良い兄の事である。何か考えがあるのだろうか?

 

「……言ったろう?金がないんだ。結婚してる暇あるなら働かねぇと。俺は歳上だからな。どっか奉公にでも行って仕送りしてやらんとな」

 

 ぎゅっ、と藁を締めて出来上がった草鞋を横に置いて、兄はまた一から藁を編み始める。何十も積み重なる草鞋の山。丁寧に仕上げられたそれらが安く買い叩かれるのを兄は度々愚痴っていたか。

 

「……家には中々帰れねぇだろうからな。となると家は弟連中に任せるしかないって訳さ」

「にぃちゃん、いえでていっちゃうの?」

 

 それが衝撃的で、自分は思わず悲しくなる。付随する諸々の話なんて忘れてしまってただただそれだけが自分の頭の中を満たす。涙が出てきそうになる。家族が欠けるなんて想像すら出来なかった。上の兄ならば尚更だ。

 

「おいおい泣くな泣くな。働きに行くだけで死ぬ訳じゃねぇんだから。仕送りに手紙くらい添えてやるよ」

「もじよめない」

「頑張れ。兄ちゃんも教えてやる」

「えー……」

 

 其処は一緒に居てあげるではないのか、頬を膨らませて拗ねる。上の兄は意地悪はしないがこういう時は無慈悲だった。

 

 ……兄が悪い訳ではない事は分かっているから、拗ねる己を内心で自己嫌悪していた。理性で分かっても、感情はそれを超越していた。子供の精神故であった。どうやっても分別が効かないのだ。感情に振り回されてしまう。

 

「にぃちゃん……」

「やれやれ……まぁ、今日明日の話でもない、か。ほれ泣くな泣くな」

「うー……」

 

 己の反応に諦めたのか、兄は話を切り上げた。そしてひたすら家族の頭を撫でる。兄の懐で、それをたっぷりと受け入れた。兄に甘えた。それだけで今は十分だった。

 

 そうだ。まだまだ子供だ。全てずっと先の話だ。今はただこうして兄と共に居られるだけで、家族皆と居られるだけで幸せだった。無根拠に明日も明後日もそれが続くと思っていた。

 

 子供の浅はかな願望だ。現実は甘くない。苦過ぎる程に苦い。永遠の別れはもう目と鼻の先まで迫っていたのに……。

 

 

 

 

  

 

 

「にぃちゃん……」

 

 微睡みの中で少女は呟く。親愛なる兄を呼ぶ。過去を振り返り最早手の届かぬ家族を求め呼びかける。

 

「どうした、雪音?」

「……っ!?」

 

 記憶の中にある優しい声音が返って来て、思わず女中は眼を見開く。

 

「ご、ごめんなさい……!」

 

 膝枕されて眠っていた恥知らずな己の状況を理解して、咄嗟に起き上がろうとして額を押さえられて膝枕に頭が舞い戻る。きゃっと思わず間抜けな声を上げていた。くすくすと小さな笑い声が包帯の内から漏れる。

 

「此くらい大丈夫さ。……お早う、良い夢は見れたか?」

 

 からかわれているのだろう。同時に慈しまれているのだろう。たっぷりの愛情を確かに感じて、気恥ずかしさと子供扱いへの幼稚な不満も即座に霧散してしまう。胸の内を満たすのは、唯温かな温もりで……。

 

「……お早う御座います。兄さん」

 

 それでもせめて言葉遣いだけは年相応に整えて、雪音は兄同様の親愛の眼差しを以て見返した。

 

 喪われた刻を取り戻すように……。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーー

 雪音という村娘とってそれは奇跡に等しかった。幸運に等しかった。神仏の格別の加護であるように思われた。己のこれからの全ての幸福を前借りしてしまったのではないかと恐れてしまう程だった。未だに信じられなかった。

 

 全ての始まりは役人をしていた三人目の兄からの紹介だった。そんな三男の兄もまた、事を知ったのは奇跡に等しい。

 

 度々、己の権限の及ぶ範囲で三人目の兄は捜索をしていた。聞き込みを、相談をしていた。売り払われて所在の知れぬ上の兄を、長男を、家族を探していた。せめてその最期だけでも、せめて骸を探しだして故郷の墓に埋めたいと、願っていた。

 

 それが巡りに巡ったのだろうか?三人目の兄はある日呼び止められた。私的な兼職で左大臣の祐筆をしていたとある官人に問われた。そして連れて来られた。とある御屋敷に。

 

 ……仁の大臣は扶桑の各地に領を有している。そして例外なくそれらでは救民のための各種施しが行われていた。貧民に炊き出しをして、寝床を用意して、捨子を拾い、病人には医者を。大臣の仁徳を頼んで多くの人々が救いを求める。そんな中に彼はいた。正確には拾われたという。瀕死で川に流されていたのを、運ばれて救われたのだと。

 

 全身酷い傷で、医者が調べれば扱いの悪さ、外法と言える程の過酷な使役を受けていたのが察せられた。半死半生とはまさにこの事。七日七晩に渡り目覚めず、目覚めた後も酷い有り様だった。漸く話せるようになった男は、しかし記憶が曖昧であった。怪我の後遺症か、あるいは何等かの記憶操作でも受けたのか……しかし、比較的古い記憶についてはまだ語る事が出来るようで、それが男の身元を探る縁となった。

 

 ……外道の扱い。外法の疑惑。何よりも博愛と仁愛、仁徳の大臣故に。たかが一民草についての報告が左大臣の元に上がって来たのは偶然であり、代理の雑務として祐筆がそれを読み込んだのもまた偶然だとか。

 

 そして大臣は格別の施しとして招いた。こうして家族の再会の機会を与えてくれた。たかが民草に対して望外過ぎる慈悲であった。雪音にとって、三番目の兄にとっても畏れ多き大恩であった。泣いた。泣いて感謝した。それは有り得ぬ筈の奇跡であったから。

 

 不満があるとすれば……。

 

「兄さんは……家に戻らないんですか?」

 

 いつの間にかのお昼寝の体勢のままに、兄の求めに応じて胡座を掻いたその膝を尚も甘えるように枕にして、上目遣いで思わず強請るように雪音は問いかけていた。見上げる包帯に傷の刻まれた兄の表情が苦笑する。それは幼い頃に散々我が儘を言って困らせた時に見せた兄のそれの面影を強く残していた。

 

 喜びと、同じくらい兄に心労を掛けたと思って雪音は今一度兄の膝から身体を起こそうとして、それはやはり額に当てられた兄の掌によって優しく押し止められる。硬くて乾燥していて、ゴツゴツとした掌だった。兄の苦労を思い起こさせた。誰かの掌に似てるとも思って、誰だったかと一瞬考える。しかしそんな思考も兄が語り始めたら一言一句すら聞き逃さぬために霧散してしまう。

 

「あぁ。俺は……帰郷しない。皆に迷惑をかけちまうからな」

 

 常々提案していた兄の実家への帰宅。その案の拒絶の理由を聞いた雪音は思わず激しく叫んでしまう。

 

「そんなっ!誰も兄さんの事を迷惑だなんて思いませんよ!?幸次兄さんだって、喜んで迎えて……!!」

「思わなくても、迷惑にはなるさ」

 

 死んだも同然の長兄が襤褸襤褸の身体でも生きていた。それは決して祝福出来る事ではない。家が成功すれば、尚更に……兄は、残酷な道理を語り始める。

 

「幸次は……上手くやってるんだよな?」

「はい。……畑を買えたから。少しずつ大きくして。今は何人か雇えるくらいです」

 

 幾度目かの同じ質問。家族の安否と様子への問い掛けへの雪音の力強い返答。そうだ。長兄を売っての濡れ手で粟のように降って来た金を、両親と次男は無駄に食い潰す事はなかった。

 

 痩せた土地でも小作地と私有とでは全く違う。幸運が味方した。必死の節約が幸を奏した。勤勉に働いた。内職して、弟妹からの仕送りも使って、少しずつ開墾して、土地を買って、凡そ十年。広げた田園は近隣の村の自作農らと比較しても頭半個分は抜けているという。小作して上前を跳ねられる立場から短期間の少数とは言え小作を雇う側にまでなったのは正しく成功だ。だからこそ出戻りとは言え大村の主が娘を嫁に寄越したのだろう。一代での躍進、まだまだ富農とは言えずとも子や孫の代に期待して、今の内に唾をつけて置こうと言う事だ。持ち込まれた相場以上の持参金もそのために有効に使えと言う意味と思われた。

 

「あいつは努力した。実績がある。人望も、あるんだろうな。だから縁を結ぼうとした。幸次は期待されてるんだ。其処に……何もしてない無一文で不具の兄貴なんて家に来てみな。足手纏いなんて話じゃないだろう?」

 

 本来家とは長兄が継ぐもの。しかし兄妹が成功してから戻ってきた何も功績もない糞を製造するだけの男の居場所なぞあるわけがない。あってはならない。大村の主は眉をひそめよう。出戻りの次男の嫁は尚更過敏であろう。仮に両親や次男が迎えてくれたとしても周囲がそれを許さない。折角上手く回っている秩序を荒らす者なぞ居てはならない。物事は予定調和でなければならない。

 

「そんな事……!そんな事、幸次兄さんも、母さんも父さんも許しません!!兄さんを疎むなんて、有り得ません!」

「そうだな。俺を許しちゃ駄目だ。寧ろ勘当……絶縁して縁切りくらいした方がいいだろうな」

「兄さん……っ!!」

 

 冗談めかした自虐は、しかし雪音からしたら笑えた話でない。排斥されて排外される兄の姿なんて想像するだけでぞっとする。吐き気がする。そんな外道、家族がする筈がなかった。

 

「ははは、そこまでムキにならなくてもいいだろうに」

「なりますよ!なるに……決まってるじゃないですかぁ」

 

 兄の言葉が、考えている事が無性に悲しくなる。自分達家族をそんなに信用出来ないのか。そんなに恨んでいるのかと思って絶望してしまいそうになる。そんな事は思って欲しくなかった。家族の縁を切るなんて、仮定もしたくない。

 

「雪音……悪かった。別に皆の事を何か思う所があるって訳じゃないんだ。けど、分かってくれ。世の中には身内だけで納得しても仕方無い事があるんだ。お前だってもう子供じゃないんだ。分からないとは言わせないぞ?」

「……っ!」

 

 兄の正論に、雪音は到底反論出来ない。世の中が理不尽で醜い側面がある事くらい、分かり切っていた。それこそ兄を失った事が正しくそれであるのだから。耳に痛いなんてものじゃない。

 

「兄さん……それは……」

「……意地悪な言い方だったな。悪い。そんな積もりはなかったんだ」

 

 本当に本当に済まなそうに自嘲する兄の姿に胸を締め付けられる。しかし、何か言った所で自己弁護意外の何になろうか?兄を犠牲にして自分達は幸せを手に入れた。その厳然たる事実はどうやっても覆りようがないのだ。

 

「家に帰らないなら……兄さんは、これからどうするつもり何ですか?」

 

 恐る恐ると、雪音は問いかける。願うように、祈るように。

 

「そうだなぁ。まぁ身体が動くようになったら仕事をせにゃならんからなぁ。都だからこんなぽんこつでも何かしら出来る仕事はあるとは思うんだが……」

「……働くつもりなんですか?」

「そうせんと食えんだろう?何時までも世話される訳には行かんしな」

 

 兄はそういって部屋を見渡す。明白に庶民のそれではない優美な屋敷の一室。綺麗で雨も風も余裕で凌げる至れり尽くせりの部屋。療養の必要な者にとってはうってつけの空間だ。昔住んでいた襤褸屋とは比べ物にもならない。果たして兄は、あとどれくらい此処に入られるのだろうか……?

 

「……兄さん」

 

 雪音は三度、起き上がる。翳される兄の手を、今度はさせぬとばかり押さえて捕らえて両手で握り締める。じっと目を合わせる。  

 

「……雪音?」

「兄さん……」

 

 妹の行為を、困惑しつつも受け入れる兄を見て、雪音は思う。兄はどうやっても実家に帰らぬつもりだった。家族のために、帰る場所を自ら捨てたのだ。ならば妹としてすべき事は一つだった。即ち、兄の帰る場所を作る事だ。ではどうやって?

 

(蛍夜の地なら……)

 

 思い返す。己の奉公に出た、主君の故郷を振り返る。自然豊かだった。水も空気も綺麗で、実りに満ちていた。住民も皆穏やかで、用心棒連中は……まぁ、無体な事はするまい。少なくとも己の兄で不自由な身であれば不当に虐げられる事はないだろう。

 

(そうだ。あの郷なら……小さな家くらいなら建てられる筈)

 

 実家に金を無心しても良い。手切れ金代わりと取り繕えば家族は快く貯蓄を切り崩してくれるだろう。次兄の嫁もその実家も流石に其処まで口出し出来まい。その程度の孝悌すら許さぬ鬼ではあるまい。

 

 二人きりだから大きくなくていい。小さく纏まった家。菜園に、小さな鶏小屋くらいは必要だろうか?雨風は凌げる程度にはしっかりと作って床は冷えぬように畳にしたい。兄の身体に負担を与えたくない。家具も一通り揃えなければ。

 

 蛍夜の家に奉公して、帰宅すれば其処には兄がいる。内職する兄を労って、温かい夕餉を作るのだ。一緒にその日の談笑をしながら節度を以て腹八分目に。食べた後は兄の入浴を手伝って、火照った身体を冷やしながら盤上遊戯でも興じよう。家族への文を書いて、共に温かい布団にくるまるのだ。平穏無事な、過不足無き日常を営む……。

 

「はぁ……」

 

 思わず生暖かい溜め息を漏らす。空想した世界は余りにも甘美であった。兄と共にずっと暮らす。其処に何も不自由も不足も不満もない。ある筈もない。友がいる豊かな地で家族と暮らす。何が欠けるものがあろうか?理想郷そのものである。

 

 ……そうだ。兄の世話は負担にもならない。己は一番下の娘だ。家を継ぐ必要はない。輿入れに必要な持参金の代わりに兄の家を建てる金を貰うならば差し引きで実家に不利益は与えまい。家族のために尽くしてくれた兄のために、今度は己が尽くすのだ。兄の犠牲に比べれば大した労苦ではない。寧ろ幸せな家庭だ。想像し得る限りでこんな幸福はない。しかも兄は年上で、己は女だ。愉快な話ではないがあの身体である。どれだけ考えた所で兄が先立つ。己が先に死んで老いた兄が露頭に迷う事も飢え死にする事もあるまい。雪音は頭の中で算盤を弾く……。

 

(それこそ……嫁入りするよりも)

 

 そも、輿入れした所で幸せとは限らないのだ。男の真の性根なぞ家に入ってからしか分からぬ。夫の家族との付き合いが円滑とは限らない。子が生まれなければ責められよう。ならば兄と気兼ねなく生活出来る方が良い筈だった。考えれば考える程妙案に思えた。

 

 悪くないと思っていた男はもうこの世にはいないのだから、尚更……。

 

「っ……!?」

「雪音……?どうか、したのか?」

 

 幸福から転落するように、その人を思い出して悲痛な程に胸を締め付けられる。思わず歪んだ表情に兄が問う。兄を心配させてしまった。心に負担を掛けてしまった。己の軽挙が忌まわしい。

 

「いえ、何も……その、兄さん。実家は無理と思っているんでしたら、私に考えがありまして……」

 

 辛い感情を忘れ去るために、幸福に浸るために、雪音は話題を切り替える。己の名案を語ろうとする。そして一気に捲し立てようとして……。

 

「ざんねぇん。そろそろぉ、診察のお時間なんだよねぇ?」

「ひゃんっ!?」

 

 一切の予兆も気配もなく背後から抱き締められて、耳元で囁かれた。生暖かな吐息を吹き掛けられて間抜けに悲鳴を上げて跳び跳ねる。少女は兄に抱き着き、闖入者を見て、顔を歪める。

 

 着崩れた単、薄い化粧はそれでも歌舞伎染みて一見したら男か女か判別しにくい。四つん這いに近い姿勢で悪戯っ子のようにニヤリと笑う。軽薄で、そして妖艶な笑い顔。その全てを雪音は既に知っていた。

 

 宮鷹家の不肖の不浄の放蕩者。宮鷹の忍鴦姫。嘘か真かも知れぬ御乱行で噂されるその人が目の前にいた。そして……雪音にとっては不本意ながら恩人であるのかも知れぬ人でもあった。

 

「……また姫様直々ですか。恐れ多い事です」

「今回も根掘り葉掘り、身体の隅隅まで、すーみずーみまで、丁寧に見てあげちゃう♪」

 

 抱き着く雪音を宥めて、包帯男が恭しく口にすれば間延びしてふざけた物言いの姫の応答単語一つ一つが一々生々しく雪音には感じられた。兄に抱き着く腕に力が入る。不信と不審の眼差しを向ける。それは敵愾であった。

 

「あはっ、そんな目で見なくてもいいのにぃ。これでもお互い知らぬ仲でもないでしょ?一緒に遊郭で戯れた仲、違う?」

「……っ!兄の前なんです!言い方を考えて下さいませっ!?」

 

 立場を理解しつつもこればかりは雪音も口を出さずに入られない。幾らなんでも時と場所と言い回しというものがあるだろうに!

 

「雪音、落ち着いて……分かってる。分かってるから、な?姫様、余り妹をからかうのはお止め下さいませ」 

「ふふふふ。患者の客人がそういうなら仕方無いかな?ご免なさい、反応が可愛らしいとついいたぶりたくなるの」

「……!」

 

 謝罪なのか挑発なのか分からぬ物言いに歯噛みする雪音。しかし何も言えない。身分差もあるがそれ以上に兄のために。

 

「ふふっ。……随分と長く楽しんでみたいだけど、流石に帰らせて上げた方がいいんじゃない?もう酉の刻よ?まさか年頃の生娘に夜道を歩かせるって訳じゃあないでしょう?」

「ええっ!?」

 

 忍鴦の発言に一番驚いたのは雪音であった。慌てて障子を開く。もう空は茜色であった。カーカーと喧しく烏が鳴く。明らかに居残りし過ぎた。

 

「入鹿っ!?どうして言ってくれないんですか!?」

 

 部屋の外、縁側で胡座で待っていた友に向け雪音は叫ぶ。何とも言いにくそうに頭を掻いて困り果てる友の姿に、寧ろ苛立ちが浮かぶ。助け船を出したのは親しい人の声音だった。

 

「待ってくれ。俺が頼んだんだ。お前が随分と気持ち良く寝ていたから起こすのが忍びなくてな……それに色々と話していたから横から言いにくかったんだろう。済まない、そちらにも都合があるのに我が儘言って」

 

 立てぬものの、精一杯に謝罪する兄の姿。それを縁側からジロリと見る入鹿は友を見て、肩を竦めて、「あぁ」とぶっきら棒に受け取った。渋々といった風体は、しかしながら雪音としては怒るべきなのか、それが正当なものなのか己でも判別し難かった。

 

「雪音、友達は大切に、な?」

「……はい」

 

 兄の駄目押しのような呼び掛けが止めであった。兄を心配させて、負担を掛けさせるなぞ論外だった。

 

「そちらも……入鹿さん、だったかな?雪音も悪気はないんだ。気にしないでやってくれ」

「……分かってるよ」

 

 歯切れ悪い返答は友らしくなかった。その事を怪訝に思うが……しかし時間はない。それよりも為すべき事がある。

 

「兄さん、お大事に。……お願いされたものは此方に纏めて置いたからまた何必要なものがあったら教えてね?何か、ある?」 

 

 風呂敷を残して妹は兄に伝える。療養する兄の身の回りの生活のために必要なものを雪音はこれまでの訪問に際して持ち込んでいた。

 

「今の所これ以上は何も……ここの屋敷は良くしてくれてるからね。それに彼是要求しても金が困るだろう?」

「お金の心配はしないで下さい。給金はちゃんと貰ってますから」

 

 遠慮はしないで欲しいと強く強く、雪音は念を押す。実の所其処には対抗心と警戒もあった。傍らで愉快げに観察している麗人にこれ以上受ける恩を積み重ねたくなかった。稚拙で幼稚な、競争心……。

 

「本当に大丈夫さ。どうせ一日中横になってるだけだから。……また来るのか?」

「駄目ですか?」

 

 兄の質問に、顔を出さず内心で怯える。今日だって世話をするつもりがいつの間にか寝てしまっていた。兄に面倒がられたのではと不安になる。

 

「いや、嬉しいよ。昔を思い出して……安らぐんだ。お前の涎を垂らした寝顔なんて、昔のままだったものな?」

「兄さん!」

「あははは……」

 

 兄の言に思わず口元を拭き取りながら叫んでしまう。力なく、しかし楽しげな兄の笑い声。それに更に赤面する。

 

「済まん済まん。からかう積もりはなかった。兎も角、楽しみにしてるよ。事前に此方の屋敷の方に予告だけはしてくれ」

「次来る時はぁ、一緒に昼餉でも食べりゅ?」

 

 兄の要望に続いて姫の何処まで本気かつかぬ提案。

 

「……考えて置きます」

 

 色んな意味で姫の言を受け流して、そして名残惜しさと様々な心配をしつつも踏ん切りをつけて雪音はお暇を決意した。姫に向けて一礼する。

 

「宮鷹の姫様、どうか兄を宜しくお願い致します」

「安心しなさいなぁ。大事な大事な参考人なんだからぁ。ちゃーんと匿ってあげる。その価値が無くなるまでは、ね?」

「……お願い致します」

 

 姫の言い回しに歯を食いしばり、欠片も憤慨を表に出さずに、雪音は……鈴音は感謝の言葉を重ねてみせた。履き違えてはならない。何よりも兄のために振る舞わなければならないのだ。

 

「それでは……」

 

 踵を返す。退室する。入鹿と共に去り行く。

 

「……」 

 

 屋敷の縁側を歩む。後ろ髪を引かれるようにちらりと振り向く。検診のために、無残な上半身をはだけさせて、その肌に触れる麗人の光景が遠目に見えた。視線が重なって、微笑まれた気がした。さっと雪音は顔を背けた。喉の奥から吐き出しそうになった言葉を呑み込んだ。

 

 ……そんな彼女の反応を傍らで苦虫を噛みながら友が見ていた事を、しかし視野狭窄していた少女に気付ける筈もなかった。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

「兄さん……」

 

 豪邸の立ち並ぶ通りを歩みながら、雪音は力なく呟く。俯き加減で表情を険しくさせる。それはこれまでの訪問でも見られた光景であった。行きは上機嫌なのに帰りは落ち込み沈む。

 

 理由は正しく兄と立場故。詳細は知れぬ。しかし明らかに非合法な扱いを受けていただろうと兄の身体は証拠でもあるのだと姫は語っていたか。呪いの痕跡もあると。仁の大臣は兄の身体、待遇、所業に何かを感じたのだとか。

 

 政治や法に関して雪音は見識はなかったが面倒事に身内が巻き込まれたのだという事だけは理解出来た。そしてそれが兄が宮鷹の屋敷にて養生を……そして、軟禁されている理由でもある。

 

 存在自体が、その封印された記憶が、糾弾の証拠になり得るのだとか。同時に大臣の手元にある事を知られるのも危険であると説明された。だから宮鷹……呪いに長けて縁切りの技にも心得ある一族の屋敷に兄は移送されたのだと聞いている。酷い身体をここで労り、危害から身を隠すためにと……。

 

(まだ、マシではあるんでしょうけど……)

 

 火中の渦中の身とは言え、それでも兄の待遇は遥かに恵まれているのだろう。たかが貧農の小作の息子の受ける扱いとしては特上なのだろう。用が済めばそれまでで追い出されようがそれでも格別なのだろう。それでも……少女は理性ではなく感情で蟠りを抱いていた。

 

(せめて他の家だったら良かったのに)

 

 悪い噂の多い宮鷹の、乱行で知られた姫君が仰せつかったという兄の世話。大臣は顔も見ていないだろう。直接的に名指しで指示したのかも怪しい。間に人を幾人も挟んでの命であったかも知れぬ。それでも……この人選は頂けない。不愉快である事は隠せない。兄と顔を合わせるのも、話すのも、肌に触れるのも止めて欲しかった。兄のために。

 

 ……そうだ。兄のための、筈だ。

 

「……鈴音、大丈夫か?気分でも悪いか?」

「え?……私、そんなに顔色悪かったですか?」

 

 主君で友たる姫君がいないために毎回の付き添いの護衛を買ってくれている狼の友の問い掛けに、女中はから笑いで応じた。自分の頬に触れて見る。異様に身体が冷えているとか、風邪の兆候はない筈だが……兄に冒したくないから体調管理は意識している。

 

「兄貴に対して色々と深く考え過ぎない方がいいぜ。兄貴は兄貴、お前はお前で人生があるんだからよ」

「……どういう意味ですか?」

 

 奥歯に何かが詰まったかのような言い様に、女中は僅かに眉をひそめる。思えば友は決して己が兄に会いに行く事を邪険にしないが、何処か含む所を持っているようでもあった。

 

「入れ込み過ぎるなってこった。家族は大事だが、お前が全てを犠牲にしなきゃならないって訳じゃないんだ。親しき仲にも礼儀ありさ」

「入鹿らしい物言いですね」

 

 良くも悪くも自分本意で逞しくてちゃっかりとしている友らしい物言いであった。鈴音はそれを否定しない。友はそうやって生きて来たのだろうし、その生き方を否定出来る程己は苦労している訳ではない。

   

 ……雪音としては不愉快である気持ちを否定し切れないけれど。

 

「各々の人生……言いたい事は分かりますよ」

 

 だが、兄は正に家族のために己の人生を擂り潰したのだ。身を、心を擦り切らせたのだ。それを否定したくない。そんな兄に報いたい。極自然に妹たる少女はそれを思ったのだ。きっと友にはその気持ちは分からないだろう……。

 

「……っ。鈴音。護身の脇差は持ってるな?」

「?……何か、ありましたか?」

 

 難しい顔で何か語り掛けようとしていた友は、突如気づいたような険しい表情を浮かべる。囁くような声音に、その意味を理解して鈴音もまた緊張した。友がその付き添う理由を果たさんとしている証明であったからだ。

 

「後ろ……振り向くなよ。車が付いて来てる」

「車……」

「前も、その前の時も同じ車が追跡していた。何なら連れている女中連中、暗器を持ってやがる。護身にしては、毒塗ってるのはやり過ぎと思わないか?」

「毒……」

 

 鼻を鳴らす友の言葉に息を呑む。車に雑人や女中が侍り付き添うのは貴人相手ならば可笑しくもない。護身に脇差程度ならあり得る話だ。しかし毒塗りの暗器は異様だった。公家や大名、退魔士屋敷が犇めく街区であれば尚更だ。

 

「それに車も……結界か?幻術?まぁ怪しいな。何も感じなさ過ぎるのが怪しい」

 

 貴人の車ならば何等かの呪いが掛けられている事はあろう。それを認識阻害するのもまたあり得る。しかし鋭敏な入鹿の感覚で感じるのは呪術的な真空。空白。それは強力な術で存在が希釈化している事を意味していた。油断したら傍らを通り抜けても目も耳も気付けぬのではないだろうか?

 

「恐らく強力な術を仕込まれてるな。車の中に連れ込まれたらお仕舞いかもな」

「入鹿……」

「側から離れるなよ?屋敷まで帰れたら勝ちだ。……なぁに、人気も人目も幾らでもある。馬鹿やりゃあしないだろうよ。多分?」

 

 一気に不安そうにする鈴音を抱き寄せておどけて見せる入鹿。見掛けはおどけつつ全神経を集中させて周囲を警戒していた。この友を守れるのは己くらいだと入鹿は覚悟していた。己以上にこの娘の身を案じる男の所在は不明であった。天に召されていないと思いたいのだが。

 

(無い物ねだりしても仕方ねぇ。俺が気張らねぇとなんねぇ)

 

 今一人の友は兎も角、この女中の友の事を慮ってくれる者は自分くらいのものだろう。千歩程譲って蜂鳥を使役するモグリは強迫すれば多少は義理で手助けしてくれるかも知れないがそれくらいのものである。世知辛い。ある意味で今この友が一番渦中であるというのに。

 

(渦中。渦中、か……)

 

 そして入鹿は思い返す。友が転た寝してしまった後の事を。あの何者かも知れぬ男との身構えての短い会話を。

 

 一体、あの紡がれた言葉の何処までが本音であり、偽りであるのかと……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーー

「……兄貴。アイツらは屋敷まで着いたよ。流石にもう大丈夫だと思うよ。師匠もいるし、姫もいるんだからさ」

「……だといいんだがな」

『私もここだしねー?』

 車の内で対面で伝えられた報告に、しかし男は尚も安心出来ぬようだった。傷が幾つも刻まれた風貌を一層険しく顰めさせていた。苦悩と不安に満ちていた。

『因みに頭に抱き着いてるー』

「兄様……」

「……分かってる。分かってはいるんだ」

『こーかつなきつねー』

 男の膝の上に収まるようにちょこんと座る狐。白狐の娘が首を上げて続くように呼び掛ける。少し不安げに見つめる幼子を、男はあやすようにその頭を……嘗て妹でもあった半狐を撫でる。桃色の姫君に積み木を頭から捻じ込まれた時は混乱したものであるが、そうして男が記憶を回復した時には更に混乱したものだった。少しの間この白い少女との距離感を掴むのに苦労したものである。今では妹分として、その関係を確立している。

『突如溢れ出したきおくー』

「兄貴……やっぱり危なくないか?何だったらさ、俺があれに付き添ってもいいんだぜ?御守くらいなら任せてくれよ?」

『点数稼ぎ?』

 麗しい美貌をした式使いの子が善意で提案する。実際それだけ今現在行っている行為は危険極まりなかった。

『あ、嫉妬もしてるねー?』

「いや……悪い。それは、な。許してくれ」

「許すって……別に糾弾してる訳じゃないんだ。唯兄貴のためにと思ってさ。気にしないでくれよ!」

『濡らしてんじゃねーよ』

 幼い麗人……鬼月家家人、白若丸は寧ろ困ったように苦笑する。柔らかな表情は心から男を心配してのものである証明であった。

『見られただけでイきやがってよー』

「……俺のため、か」

『にくよくのためー』

 反芻される言葉。悪気はない事は分かっている。同時に、皆に無理をさせている事も男は理解していた。しかしどうしても感情を抑える事が出来なかった。だから態々彼はここにいるのだ。我儘を押し通してまで……。

『何かにおうー』

 令嬢が愛する人のために専用に拵えさせた家紋のない車。入念にその内の気配を、あらゆる縁を欺瞞するように呪いを掛けられたそれに、しかしそれだけでは万全ではなかった。念には念を入れねばならぬ。

『あのきんぱつ、ここでイきまくってたなー』

 弟分の呪いに、妹分の幻術を重ねて、己もまた認識阻害の外套を着込んで、それで漸く縁の痕跡をひた隠す。そうやって漸く見守る事が出来るのだ。大事な大事な身内を。明らかな危険に巻き込まれている妹を……。

『お前もほーいされてるけどね!』

「……入鹿には悪い事をしたな」

『くろーけん?』

 立場上、そして実力的にもあの狼女に情報を、安否を、伝えるのは彼にとって危険であった。何時頭を弄られて情報を吐かされるか知れない。男の生存も、その所在も秘匿しておきたかった。入鹿の性格である、制圧されるとしても根性で一暴れはしよう。頭を弄くられれば振舞いに異変があろう。何もなく帰宅する姿は全てが無事である事を意味していた。安堵の吐息が漏れる。毎回の事であるが二人が五体満足で普段通りに屋敷から出て来るのをひたすら待つのは苦行であった。己の無力を分からされる。

『えぬてぃーあーるで脳破壊されそう?』

「兄貴……」

「愚痴っても仕方無い、か。お前達にも危険な橋を渡らせてしまってるのにな」

「俺は別に……兄貴が望むなら此くらい何時だって協力するさ!」

「私もっ!兄様がお願いするなら何だって手伝いますよ!!」

『めすがおー』

 自己陶酔している事を自覚して、協力者への謝意を口にすれば二人は健気に応答する。男にとってはそんな二人は清涼剤に思えた。純粋な厚意であり、子供らしい好意であるように思われた。そう、例えば車の外で侍る彼女達と違って……。

『揃って溢しやがってよー』

「旦那様……」

「帰るとしよう。頼むぞ」

『こいつらも溢しやがってよー』

 気配に僅かに窓を開けて呼び掛けに応じる。車に侍る女中姿の娘連中に帰還を指示する。

『帰ったらまち針集めよーと』

「承知致しました。その……」

「分かってる。労いの褒美はやるさ。だから、な?油断してくれるな。ここは敵地と思え」

「……はい」

『御弾きも集めよーと』

 物欲しげな眼差しを向けて来る娘の瞳に、男は警告する。市女笠の下で甘い吐息を漏らしながらも素直に彼女らは肯定した。拒絶はあり得ない事を男は知っていた。

『わたしはよーかいはりおきわらわぁ』

「……良い子だ」

『赤ん坊の前にまち針置くのが得意だよー』

 これ以上は教育にも務めにも、己の身の安全のためにも良くないだろう。窓を閉める。此方を観察するような幼い二人分の瞳に言葉ではなく男の苦笑で答える。誤魔化しの笑いであった。

『こいつら分かってんぞー』

 外で侍る娘連中は、男の護衛であった。護衛というよりも肉壁だった。皆、元々は武家やら退魔士家の生まれであるとか。落ちぶれて、家が潰れて身売りするまで堕ちたような小家である。

『誰が付いて行くかで喧嘩してたねー』

 ……男の個人的な我が儘に際して、多少はマシであるとして宛がわれた彼女らの役目は時間稼ぎの捨て駒であった。私用故に無用と伝えたが聞き入られる事はなかった。それが条件だとまで言われた。

『捕まったら頭沸騰するお呪い付きだよー』

 鉄火場になり得る故に拒絶せんとしても、寧ろだからこそと一層強く要求された。万一の事があれば皆自害してしまうだろうと姫君に警告されれば受け入れるしかない。それが虚言でない事は心を通わせた時に嫌な程に分からされていた。夢幻に消えたとは言え、事実幾度も食われて殺されて使い潰されたのだから、彼女達からすればこの扱いもその延長線に過ぎない。

『しょーこ隠滅って事だねぇ』

 否、当人達からすればずっと意義ある事であろう。男は不用意に代価を問いて、娘らは目敏く褒美を求めたのだから。

『うめぇー、かずのこぉ!って褒美?』

「意外と、強かだよな?御家再興してくれとよ?はは、逞しい話さ」

『家のために私はこんな風になっちゃった!』

 茶化すように妹分、弟分に嘯いて見る。嘘は言っていない。全てを言っていないだけだ。

『こうなったら、もう、ね?』

 褒美。堕ちた御家の生き残りとして、それを再び盛り立てる約束。男に貢ぐ令嬢が、そして男自身もまた口にした者として責任と義務を負う。御家の立てて、続けるには金だけでも、そして女だけでも出来ぬ。……幼い二人にそこまで語るつもりにはなれなかった。二人の前では兄貴分としていたかった。少しでも取り繕いたかった。己の醜い一面を晒したくなかった。

『ぱくりっていうなよー?』

 ……このような危険に巻き込んでいて今更かも知れないとも思うけれど。

『私がいるから今更だぞー?』

「兄様……」 

「白……な?」

『あざとい狐ずい』

 ポンポンと、膝に座らせている妹分が男の頭を撫でて来た。背筋を伸ばし、一緒懸命に手を伸ばして、誉めるように頭を撫でてくる。

『実年齢いって見ろよー?』

「兄様が皆の頑張ってるのは知ってます!だから、だから!兄様も遠慮せずに甘えて下さいね?頑張って、私も御手伝いしますから!」

『妹を名乗る不審狐めー』

 男を励ますように満面の笑顔を白狐は向けた。妹分として、親愛を示して支えようという健気な気遣いに男には思えた。

『受け継がれる狐の卑の意志ー』

「……」

「お前もか」

『必死だねー?』 

 対抗するように弟分が隣の席に移動する。無言で腕にガチリと抱き着いていた。 ぎゅっと強く抱き締めて来る。

『元牡は臭いで分かるぞー?』

「辛い時は人肌の温もりが一番だから……鬱陶しいか?」

「まさか」

「じゃあ、良かった」

『よくねーよ』

 短い言葉の応酬。それで十分だった。まだまだ不器用で、何よりも男の身体に嫌悪する弟分の行為がどれだけ葛藤してのものなのかは今更語るまでもない。肉体言語で訴えられる弟分からの思いを今はただ受け止めて、受け入れるだけ。それで良いと思った。

『受け止めるというか突っ込める?』

「……達者でな」

『待てー、ここからが面白くなるんだよぉ?』

 屋敷の門前を抜けて消えていく妹を見送って、男の乗った車は何事もないように振る舞い屋敷の表を通り過ぎた。死地のような安全地帯……そんな場所に身内を返さざるを得ない今の有り様を家族に懺悔する。全ては己の責任だった。後始末は付けなくては。

『あいつと貴方』

 例え、その家族に恨まれる事になるとしても……。

『最高の舞台を用意してあげる』

「兄貴……」

「兄様……」

『忘れられない別れにしてあげる』

 妹分をぎゅっと抱き締めた。その身をずんっと弟分を頼むように乗り寄せる。突如の行為に嫌がる訳ではなく、ただ家族のように呼び掛けて来てくれる二人に男は語りかける。

『闇に堕ちろ』

「済まん。少しだけ、もう少しだけ……甘えさせてくれ。頼むよ」

『闇に還れ』

 淡々としつつも悲痛な、穏やかながら嘆願のようにも思える声音で以て、人でもなく怪物でもなく神でもない男はその弱さを晒して乞い求めた。面の下に隠していた弱さを剥き出しにする。

『私と共に』

 身を捩るどうしようもない寂しさを優しく埋めるように……。

『共に闇に沈めば寂しくないよ?』

 

『良い事も悪い事も、等しく黒く呑み干してあげるからね♪』

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