和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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第二一五話

「……」 

 

 神経質な優男、そんな印象を見る者に抱かせる青年はただひたすらじっと紙を睨み続けていた。上等な扶桑紙を凝視し続け、墨を啜った筆をまるで凶器のように突きつけ続ける。突きつけたまま、硬直していた。険しい表情のまま身動ぎ一つすらしない。

 

「……」

 

 ゆっくりと、漸く筆を下ろした。墨が純白を犯すように拡がる。二、三言程記して……迷うように筆が止まった。止まり、止まり、止まり止まる……。

 

 そして……気付いた時には垂れ溜まり、零れ落ちた黒い墨が達筆に記した文字を無惨にも滲み潰すのだ。

 

「っ……!!?あぁ、またやり直しだ!!」

    

 途切れた緊張の糸。弛緩して肩を落として、青年は天を仰いで叫んでしまっていた。眼前の台無しになった扶桑紙を丸めて放り捨てる。眉を八の字に垂らして、困り果てて頭を掻く。それは彼是もう八度は繰り返された光景であった。

 

 北土辺地、凍秋準邦が疎美郡庇岸川の寒村に生まれた青年は、あるいは公家衆に連なる伊瀬家分家の当主に召し上げられて正式に官位すら頂いた算士は、ある意味で普段の業務を遥かに超える困難と相対していた。

 

「駄目だな……どうやっても角が立つ。難事じゃないか、これ」

 

 新しい紙を出して、同時に頭を抱える。その仮名を「計」と名乗る彼は力なくぼやいた。ぼやきたくもなる有り様だった。それ程までに事態は深刻で、非常に厳しい。

 

 軽率だった。そうだ、軽率に過ぎたのだ。妹に事を伝えるのが、余りにも早過ぎたのだ。

 

 軽挙な過ちを犯してしまったのは己の未熟故の事であった。最早亡き者として思っていた長兄の生存……突如左大臣の元で筆を握る高官にそれを伝えられた時、それが確定で無いにも関わらず計は思わず大はしゃぎしていた。それはもう、伊瀬分家の主君の娘である幼姫が見れば仰天しただろう喜び様であった。ある意味で年相応な喜び様だった事だろう。

 

 身内だけであればこれは幸である。長年の悩みが円満解決である。現実は甘くない。世間というものは親愛だけで回っていない。柵とは家族の外から家族を縛る。

 

「さて。どう穏当に伝えるべきか……」

 

 脳裏に過るのは式の際に目にした白無垢を纏った目尻の鋭い兄嫁、義理の姉の姿である。辺りの村々の纏め役の長女様、出戻りの年増……二十半ば……集めた話によれば相当に気位が高く、気が強い義姉が事を知ればどうなるか。それが一番恐ろしかった。

 

 トントントン、と戸を叩く音がする。誰かと尋ねればこの旅籠の女将の娘であった。

 

「計さん。御茶でも如何でしょうか?甘味も用意してますよ?」

「……それはいいですね」

 

 人好きのする声音に快く答える。もう一月以上も泊まっていた。それだけ世話になれば仲も良くなるものだ。部屋に上がるように伝えれば盆を手に愛嬌のある笑みを浮かべる女中。女将の娘のお嬢さん。まだまだ幼さを残す顔立ちは、しかし都娘らしくお洒落に余念なく、そして垢抜けていた。しっかりしているようで甘え上手な旅籠の看板娘……。

 

「御茶は温くて良かったですよね?此方、母から差入です!御賞味下さい!」

 

 盆を畳の上に置き、急須の茶を湯呑に。皿に盛られるのは大福餅だった。しかし……はて、色が紅い?橙も?それにこれは……果実の、香り?

 

「これは?」

「ふふふふ~♪今都で流行りの果実大福です!」

 

 聞く所によれば大福餅の餡に果肉と果汁を混ぜ込んでいるのだとか。故に果実大福。安直であるが無駄に気取り飾るよりも潔し。

 

「どれどれ……おお、これは良い物ですね」

 

 試しにと差し出された大福を食らえば苺の酸味と甘味。シャクリという小気味良い食感。練り込んだものとはまた別に大粒の苺それ自体を入れているようだった感覚。在り来たりな小豆餡子とは違う芳ばしさに瑞々しさ……。

 

「御茶を。……此方もどうぞ?」

「有り難う御座います。……此方は柑橘ですか」

 

 此方は苺より一層酸味が強い。蜂蜜漬にしたものが中に仕込まれていた。粘り気が苺と対比になっていて面白いと思った。苦い茶と良く合うとも思った。

 

「旨い。……失礼、折角の美物なのに詰まらない感想ですね」

 

 此方を期待するように見ていた旅篭娘に苦笑して謝罪。それは彼にとっては意外な程に真摯な謝意であった。

 

 ゲテモノ好きという訳ではない。美食を美食として理解も認識も出来はする。

 

 しかしながら貧農の三男として生まれた青年にとって、どうしても食事とは栄養の摂取以上のものと認識するのは困難だった。飢えの恐れが遠退いても味に頓着するよりも量や値段、あとは栄養素に意識が向いてしまう性分だった。以前左大臣の祐筆殿に料亭に招かれて芸妓らに接待された時も高い酒に鯛の姿造を頂いて脳裏に浮かんだのは稗なり粟なり大根なりなら幾つ分であろうかという実に貧乏臭いものであった。

 

「ひぇ?あ、いえいえいえっ!!計さんが美味しそうに食べていらっしゃるのを見ていただけですから!ささっ、御茶をどうぞ!是非是非っ!!」

 

 顔を見られて照れ臭がって、御茶を無理にまで勧めて来る旅篭娘のお嬢さん。年頃の娘の顔をじっと見返すのはやはり良くなかったかと反省する。あるいは目付きのせいだろうか?前々から思っていたが兄妹揃って少々目元が鋭過ぎるのではないか……というのは三男の個人的感想だ。特に妹は問題だ。良い人がいても口調もあって勘違いされかねない。

 

「それにしても奇天烈な。一体何処の店が……意外ですね。これ、老舗じゃないですか」

 

 このような目新しい色物は近頃躍進著しい橘商会系列の品かと思ったが箱に記された店名は都で旧くから続く扶桑菓子店のそれであった。旧くからの店がこんな奇抜な物を作るとは……。

 

「びっくりですよね!ウチでもそろそろ受けが悪いって客出のお菓子の仕入れ先変えようかって時にこれ貰ったんですよ!家の新商品だって!それでいざ食べて見たら仰天!流石歴史ある老舗って思いましたよ!」

「それはそれは……」

 

 計の呟きに、話題を更に逸らすように捲し立てる旅篭娘。少しだけ仰け反りながら、興味深そうに官吏は相槌を打つ。そして思慮する。

 

 裏を返せば伝統をねじ曲げてまでしなければ客離れを止められないとも言えるのだろう。老舗の職人連中は涙を飲んで決断したに違いない。盛者必衰である。変われるだけ、機会を掴めるだけ幾分マシではあるのだろう。そういう向上心はこの若い算士は嫌いではなかった。

 

 自分自身、身内を踏み台にした成り上がり者なのだから……。

 

「……計さん?」

「おっと。……失敬。いえ、考え事をしてまして」

 

 またぼんやりとしていたのだろう。自分らしくもないと思った。家族の事がある故だろうか?情けない。今こそしっかりとしないといけないのだろうに。

 

「御仕事ですか?」

 

 ちらりと背後の屑箱を覗き込む旅篭娘。丸め込まれた紙屑を見て首を傾げる。

 

「それもありますが……はは。色々とありましてね」

 

 誤魔化そうとして、そしてふと思う。他者に意見を求めて見るのもまた一案だと。

 

「……職場の上司の家で少し面倒事がありましてね」

「上司の、ですか?」

「ええ。家督の相続で揉めそうでしてね。困ったものです」

 

 そして内容をはぐらかしながら説明していく。家に戻った兄。家を興した弟。その嫁……あくまでも他者として説明していく。その上で意見を求める。

 

「うわぁ……それはまたドロっとしてますねぇ」

 

 説明し終えたら旅篭娘はあからさまに顔をしかめる。

 

「部下としてはやりにくくてね。何か円満解決の助言はないかな?」

「兄弟仲は大丈夫なんですよね?私としてはそれが一番怖いんですけど」 

「其処は……問題ない、かな?兄弟仲は円滑だよ」

「本当ですかぁ?」 

 

 他所の家は知らぬ。しかしながら三男の青年はそれを確信していた。次兄が長兄を蔑ろにして疎むなぞ有り得ぬ話だった。

 

 あの快活な次兄は幼い頃寧ろ自分よりも甘えていたのを覚えている。長兄が居なくなってしまった後も常々あの次兄は今の己の立場が代わりに過ぎないと呟いていたものだ。仮に今、家での立場を譲る事になろうとも欠片も気にせぬのではあるまいか?元より、我が家は少しだけ成功した成り上がり。歴史もなく、根は小作人だ。あるべきものがあるべき者の所に帰るだけとしか思えなかった。

 

「それはまた珍妙な事で……兄弟仲が良いのは善き事ですけども。そんなすんなりといくものなんですか?」

「そういう前提で考えてくれるかな?」

「はぁ……」

 

 計の言葉に無理矢理の納得。うーん、と顎に手を当てて旅篭娘は兄弟関係について半信半疑に考え込む。そして続ける。

 

「やっぱり奥さんからしたら家での立場が不安定で心細いんじゃないでしょうか?」

「そうなんだよね……」

 

 その意見に計は心から同意する。良家から嫁いだ行き遅れの出戻り。未だ子はない。神経質になるのは已む無き事。長兄が帰って来れば荒れるのは必須で、それが一番の問題だった。家族だけであればこの話は簡単であったろうに……。

 

「ここはやっぱり次兄さんにしゃきっとして貰う他ありませんよ。奥さん、不安たっぷりでしょう?誠心誠意籠めて話してあげるのは一番ですよ。下手に隠し事したら疎外されたように思えて拗らせるんじゃないですかね?」

 

 女の立場から旅篭娘は答える。余所者故に、せめて夫には味方になって欲しいしこそこそと裏で動かれると不信感が募るものだ。自身が家に受け入れられていない、家族の一員として認められていない……そう思われてしまいかねない。

 

「ふむ……」

 

 計にとっては盲点であった。確かに己はあの義姉を家族とは別枠と思っていなかったか?これは反省せねばならぬ。別に己は、それに家族も彼女の事を嫌っている訳ではないのだ。仲良く出来る事に越した事はない。

 

「真正面からが一番って事かな?」

「まぁ、それでも事が事ですから一筋縄じゃいかないかと。……その長兄さんは別に財産や家督は要求していないんですよね?」

「……少なくとも積極的に求めるような人じゃないよ」

 

 それこそ、自分の方が飢えているのに弟妹らに粥を与えて、家のために自分を売ったような人なのだから……その言葉は内に仕舞う。態々公言する事ではない。

 

「嫌らしい話ですけど……ここは一筆認めて貰うのが一番じゃないですかね?家は弟さんに譲るって」

「事前に立場の保証をしてあげるって事?」

「えぇ。後から意見翻したら口約束だと凄く荒れますよ?立会人も欲しいですよね、御寺の人とか、実家の人とか、口裏を合わせして隠蔽しないような人がいいでしょうね」

「ははは、中々真に迫るね」

「それはもう!」

 

 それこそ、似たような事例を娘は少なからず見てきた。旅篭に泊まる客にも色々といるものなのだ。言った言わなかったと怒鳴り声が部屋から聞こえて来る事があれば刃傷沙汰寸前に至る事も。部屋の価値が落ちるし、他の客も嫌がるから止めて欲しいものである。この手の争いは庶民でも醜い。

 

「そうか。下手に絡め手はやはり駄目か……」

 

 実の所、旅篭娘に言われるまでもなくそれが正道だろうとは思っていた。しかし……漸く再会出来た襤褸襤褸の長兄に真正面からそんな俗な話を頼むのはどうしても気が引けたのだ。だから自然と小賢しい策を巡らせようとしていた。それは己の臆病さであった。

 

(怠惰……だね。これは自分がやるべき事だ)

 

 無意識の内にその行為をするという選択肢を除いていた己の自堕落さを蔑む。まさか妹にそれをやらせるつもりであったか?恥知らずめ。そのような酷な話をあの兄想いの妹に言わせるだと?有り得ない。

 

(……兄さんの事だ。何処か働き口を探すんだろうな)

 

 屋敷での世話して匿われる事も永久ではあるまい。不要となれば追い出されよう。どうやって食べていくか。あの身体では……妹の事である。己の奉公先に連れて行くかも知れないが、三男としてはそれは宜しく思えなかった。兄と住む娘では相手を探すのも難しくなる。

 

(旦那様にでもお願いして、何か仕事でもくれないだろうか……?)

 

 捨扶持な仕事でも貰えれば自分の稼ぎ含めて十分食べていける。頭を下げれば不可能ではない筈だ。兄に一筆書いて貰う時に一緒に提案しても良い。嫌な顔はしない筈だ。あくまでも気まずくなるのは己の良心のみだ。

 

 ……貧乏籤とは思わないし、思いたくもない。一番酷い籤を引いたのは長兄なのだから。

 

「また難しいお顔してますね……そんなに慎重にせねばならぬ事なのですか?」

 

 話題があくまでも上司らの事であると認識している旅篭娘は心配げに客の官吏を見つめた。出世のために、あるいは派閥争いの関係で危ない橋でも渡っているとでも思っているのかも知れない。

 

「いや……其処まで切羽詰まった事ではないですけどね?」

 

 苦笑する微笑みは、しかし生来の目付き故に剣呑な印象を与えているようにも見えた。

 

「あ、あのっ!計さんも確か農村の三男坊でしたよね!」

「え、えぇ……そうですけど?」

 

 旅篭娘が覚悟を決めたかのように問い尋ねる。何を藪から棒にと思いつつ、計は同意した。

 

「私、兄弟がいないんですよ!」

「はぁ」

「ですから要り婿の跡取りが必要なんです!!」

「はぁ」

 

 娘の言葉に相槌をする。困惑が殆どを占めた返答だった。何故そんな事を今己に?

 

「旅篭の経営するなら算術も大事ですよね!文字も読めないと!ああ、税の計算だって!兎に角、学はあった方がいいですよね!」

「それはそうですね」

「そうですよね!!!?この旅篭継げるんですよっ!!私、良い物件だと思いません!?」

「アッハイ」

 

 確かに良い物件だろう。この旅篭は官吏の己が泊まるように都の中流向けの宿場である。客筋はあからさまに悪くない。都故に閑古鳥が鳴く事もない。婿になれば義父から店を相続出来る。それなりに良い生活するならば当たりだろう。

 

「ですよね!ですよね!だから、だから……だから……!」

「先ずは落ち着いて……大丈夫ですか?」

「大丈夫です!大丈夫ですって!私、わたし……わたし……わたしぃ?」

 

 興奮したように首を何度も振って、荒い息をして、宥められて、少しずつ落ち着いて……我に返ると共に何か瞳がグルグル回ってる気が青年にはした。急速に顔が青くなって赤くなってとしてる気もする。

 

「えっと……えっと……えっと、ですねぇ?」

「お嬢さん?」

「残る御茶と菓子は置いておきますねぇぇぇっ!!?」

 

 呼び掛けへの答えはその場からの逃亡だった。逃亡と形容するのは失礼な気がしたがそれが一番しっくりくるように若い官吏には思えた。淑女とはまるで無縁な元気な疾走。昔の妹を連想する勢いだった。襖が大きな音と共に締められて、階段を喧しく駆け下がる音が続く。女将の叱責が聞こえた気がした。遅れて泣きじゃくる声がした気がした。全く以て訳が分からない。

 

「な、なんなんだ……?」

 

 まるで幻魔でも打ち込まれた……ううん?何を言っている自分は?内心の独白すら要領得なくなる程に青年は混乱して困惑する。それ以上に旅篭の若女中の令嬢を心配する。酷い有り様だった。やはり何か病気ではあるまいか?

 

「……うん。旨い」

 

 ……兎に角残る苺大福を咥えた。あからさまに現実逃避である。勘弁してくれ、ここに来て心配事が増えるのは困る。

 

「……先ずは、旦那様にお願い、かなぁ?」

 

 大福を咀嚼しながら状況を整理して、青年官吏は最優先すべき事を合理的に導き出した。

 

 何はともあれ、兄の就職先を先ず確保せねば全ては空論に終わるのだから……。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 幼鳥が囀ずるようにいじましい呼び声が闇夜に反響する。にいさん。にいさん。にいさん。と。

 

 灯りの灯らぬ夜の密室にて蠢めく。重なるような二つの影。対面で絡み合う肉塊が二つ……。

 

 一つは人形より少々逸脱していた。十全の人として欠けていた。嘗ては逞しかった体型も崩れつつあった。不摂生、否、満足に身体を動かせぬ故の道理であった。寝たきりの男……。

 

 今一つは華奢であった。肉付きの薄い細身で、折れてしまいそうで。しかし芯のある体付きであるようにも見えた。獣ならば鼬か、あるいは狐を連想出来たかも知れない。甘く囀ずり続ける少女……。

 

 はぁ、はぁ、はぁ、と。吐息が混ざりながら漏れる。お互いの生温かさが顔に触れる。啜り合う。蛞蝓のように絡み合う。歯を撫でて、汁を交えて、舌を甘噛みする。時に戯れて顎に噛みつき、頬を撫で合う。児戯にも似た、それでいて児戯とは言えぬ淫色の愛情表現……。

 

 愛情表現は上方だけではなかった。暗闇でもその輪郭が分かるだろう。屹立するそれを彼女は松茸を連想した。昔村の樵が皆に見せびらかした大物の松茸を。あるいはそれよりも太く、堅く、肉厚く、逞しいかも知れない。村一番に違いなかった。

 

 白魚のような手元で愛でれば身震いするのが可愛らしかった。呼応して、反撃するかのように口撃が激しくなるのが愛しかった。蒸れるような蒸気が眼前の人から発されて、それに当てられて己もまた汗を噴き出す。ポタリと落ちた水滴が亀に頭頂に垂れた。両手で奉仕すれば何時しかそれは打ち拡がり、滴る汁と交じりあってしまう。それは今の自分達そのものだった。

 

 にいさん。にいさん。にいさん。甘えるように囀ずる。褒美に抱き寄せられる。顎を捕まれて、一層激しい口撃は呼び掛けを黙らせんばかりに。分かっている。この不徳の呼び掛けはそのために囁いているのだから。彼女は目の前の肉親が何をいえば、何を語ればどう反応するのかをもう手に取るように知り尽くしていた。それだけの関係を結んで来た証左であった。

 

 むふぁ。ふふぁ。ふぅ。ふぅ。ふぅ。ふう"ぅ"ぅ"ぅ"っ"!!

 

 両手の手撃は男の腕力からすれば遥かに無力で、しかしこの場においては剛力に等しい。絶妙な力加減を知り尽くしていた。灼熱の鉄棒染みたそれを冷たい少女の……女の手がいたぶる。あるいは愛する。不義の良人が仰け反る様が可愛らしくて仕方ない。

 

 重なる眼差し。分かっている。だから次に行こう?

 

 頭が離れる。お互いの身体を捕らえていた手が離れる。彼女は頭を下げる。雁が頚。先程までが挨拶ならば、これは下拵えだ。それだけの事。最初の頃は不道に羞恥していたそれが今ではその程度でしかなかった。愛する人との悦びに何を恥じる事があろうか?

 

 んっ。んっ、んんっ。

 

 髪に優しく触れる両手。それに続くようにゆっくりと、当然に、喉の奥に強く突き動かされる感触に反射的にえずいて、涙を流して、悶えながらにされるがままに。だが求められる事は決して疎ましくなかった。これは救いであり、贖罪であったから。

 

 頭の上から響く鼻息は獣のようにドンドン激しく。舌に感じる感覚もそれを察していた。一度離す。垂れ流される銀糸。滴り堕ちる前に一気に。再度の口勢。そして然程時を経ずに……爆ぜた。逃げられぬように押さえられて、無条件に全てを通した。

 

 沈黙。沈黙。沈黙。だが熱気は終わらない。余興に過ぎない。もう己も万端だった。己が万端だった。離しても何も垂れなかった。一滴すらもそんな事は赦さなかった。全て、私のものだ。寧ろ下こそが洪水だった。

 

 見上げて、見下ろされて、視線が重なった。次の行為は分かっていた。脂肪がついてもまだまだ堅さの残る身体を押し倒した。股がって、掴んで、入口向けて当てて見つめ合う。

 

 おねがい……今日もきれいにあらいおとして?

 

 そして、そして…………。

 

 

 

 

 

「何だぁ?鈴音、じぃーとよ、何の本読んでんだよ?」「ふひぁあぁっ!!?いぃ、入鹿ぁぁっ!!?」

 

 いつの間にか物語の世界に完全に没頭していた所への背後からの呼び掛けに、悲鳴を上げながら一気に現実に引き戻される鈴音であった。本を閉じて、隠すように振り向く。

 

「……だ、大丈夫か?風邪でも引いてないよな?顔、赤いぞ?」

「大丈夫ですって!何も、問題、ありませんっ!!」

 

 鈴音のそれはもう酷い表情を見ての入鹿の勧めに、しかし本人は全力で否定する。風邪ではない。それは確信だった。理由は知っていた。紅く染まる頬は羞恥からのもの。そして先程まで漏らしていた静かながら生温かく激しい吐息もまたその元凶は同じであった。

 

「そ、そうかぁ……?」

「はい、大丈夫です!別に昨日の疲れとかではありません!!」

「ま、まぁ若い……から、なぁ?」

 

 友の過剰な反応に若干引き気味の入鹿。

 

「しかし、なぁ……張り切るのもいいが無理してないか?変な病気を冒すかも知れねぇんだからさ?どうだ?ここは様子見るために別日に予定変更したって……」

「駄目です!それは、絶対絶対、駄目です!!」

 

 友の思い遣りの言葉に、しかし強く強く拒絶する。余りの勢い故にか、思わず驚く入鹿の態度にやり過ぎたかと鈴音も思う。しかし……こればかりは譲れない。

 

「あ、その……大声でご免なさい……」

「いや、いいんだ。お前さんの家族思いな所は知ってるからよ。……家族思い、だものな」

 

 謝罪に対して、友は素直に受け入れる。最後の方の物言いは何処か奥歯に物が挟まったような歯切れの悪さがあったが……少なくともそれは鈴音に対してのものでは無さそうだった。尋ねるべきなのか、鈴音は判断に困る。

 

「分かった。そろそろ荷造りは終わらせろよ。あと半刻もすりゃあ出るからな。女の化粧は時間が掛かるんだろ?余裕はないぜ?」

「貴女も女でしょうが」

 

 入鹿のケラっとした物言いに、ジト目で突っ込む。何なら素の顔は自分より上なのではないだろうか等と思う事すらあるのだ。髪を整えて、衣装を整えて、化粧して言葉遣いさえ直せばそれなりの家の淑女でも通じるのではないだろうか?あと局所については圧倒的だ。理不尽な。

 

「女だぁ?へへへ、姉御って言ってくれよ?」 

「姉御にしてはガサツ過ぎて頼りになりませんね」

「容赦ねー」

 

 踵を返してゲラゲラ笑いながらの入鹿の反論。ブラブラ振るうは狼染みた毛むくじゃらの腕。人によっては言う言葉に困るが鈴音からすれば慣れたものである。鋭い反論に、ブー垂れながら背中を見せて逃げるように去る狼女。多分煙草を吸いに行った。庭先で蹲踞染みて座り込みながら。

 

 ……暴風のように喧しい友が消えた。先程までとは打って変わっての静寂。外の小鳥がチュンチュン鳴く。そんな中で鈴音は深呼吸を一回。

 

 そして……。

 

「あの、女ぁ……!!」

 

 落ち着いた事で込み上げたのは沸騰しそうな程の檄情は犯人に向けてのもの。羞恥から来る憤慨であり、友に勘違いされる所であった故の怒りでもあった。鈴音は背後に隠していた書籍を目の前まで持っていくと、その題名を睨み付ける。

 

『妹背禁情四八交』、作者はその道で古くから知られる嚢柿白子麻呂。因習蔓延る忌まわしき村で、その穢れた犠牲となった兄妹の救いを求めて至った禁断の関係を描いた初期の大傑作だ。因みにこれは最新の第ニ四刷目であるそうな。

 

 ……いやいや、待って欲しい。本当に待って欲しい。間違っても勘違いしないで欲しい。節約思考で勤勉な女中娘にとって、このような詰まらぬ代物のために貴重な給金を費やす等という事は到底有り得ぬ事だ。ならば何故このような物が手元にあるのか?それはいつの間にか手持ちにあったと言う他ない。

 

 より正確には宮鷹の屋敷の出入をしていた最中、逢見の屋敷に帰宅後に持ち帰った荷物の中にそれが混ざっていた事に鈴音は気が付いた。兄のものかと短絡して興味本位で題名も読まず読み進め、塗れ場に至って漸くそれが艶本である事を理解した。

 

 下手人は誰か?兄ではないのは明らかだ。状況からしても、行為の内容からしても、あり得るのは一人だけだ。宮鷹の淫蕩姫。その人しかあり得ない。

 

 屈辱であり、侮辱であった。兄妹の仲に亀裂でも入れんばかりの所業だった。これを入鹿筆頭に周囲に見られたら、何よりも大切な兄に見られたらどうなるか?

兄の己を見る表情を思うだけで血の気が引く。恐ろしいなんて話ではない。鈴音が訪問に行きたがる理由の一つでもあった。帰り際にさっさと屋敷の適当な所に置いて行くつもりだった。こんな物、鈴音は必要としてなかった。

 

 ……夜中に濡れ場まで到達した後、一気に読破してニ巡目三巡目してしまったのは触れてはいけない。布団の中で抱いた空想だって一時の気の迷いだ。兄を汚したくない。汚してはならない。

 

「兄さんだって、そんな事……」

 

 其処まで思考が進み、呟いてから、鈴音はふと己の身を見てみる。

 

 ……昔程ではないがやはり痩せ過ぎている気がする。素顔の顔立ちは母に似て平均よりはあると思っているがそれでも飛び抜けている訳ではないと自覚していた。そもそも兄妹婚なぞ、大昔の因習であり今の時代では眉をひそめられるような不徳であった。幼い頃兄の夫婦になろう等とほざいていた己に無知には恥じ入るばかりである。

 

 本当に本当に、無知で恥であった。しかしながら……。

 

(お手伝いくらいなら、別に……)

 

 鈴音は長兄が無欲の塊とは思っていない。同じ人間であるのだから其処から逸脱する事はないと理解していた。ならば当然欲求も……肉体への負担、金銭的な理由から嫁を貰う事も遊女を買う事も難しかろう。ならばそれを発散する協力なら吝かではない。

 

 手を使うくらいなら。見せるくらいなら。脚を広げて魅せるのもどうにか……其処まで思考が進み、己の発想に再び悶絶する。頭蓋の内が沸騰しそうになる。何を考えているのだ、自分は!?

 

「~~~""!!忌々しいっ!!」

 

 全てこの本のせいだ。こんな物を忍ばせた女のせいだ。鈴音は憤慨する。あの淫乱姫のせいでこのような詰まらぬ事を考えさせられる。本当に腹ただしい!!

 

「……っ!!もうっ!」

 

 支度する手荷物の内に書籍を仕舞う直前、今一度開くべきか数瞬だけ迷って、女中は罵倒と共に衝動を抑え込んだ……。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

「いらっしゃーい。……あれぇ?お守り、増えたぁ?」

 

 昼下がり、宮鷹の屋敷を訪問してかけられた最初の呼び掛けがそんな間延びしたものであった。艶かしく飄々とした物言いは姫らしくもなく、何なら門前で出迎える事自体が姫らしくなかった。

 

「……近頃、この辺りも物騒と聞きましたので。念のために、と」

 

 屋敷での一方的で個人的な悶着で不機嫌だった鈴音はその感情を誤魔化すために淡々と応答した。応答しつつチラリと背後を見る。

 

 ……お守り役の入鹿と共に、小面で素顔を隠す黒装束の人影が二人分。下人。そう、それは鬼月家に所属する下人であった。

 

 前回の帰宅時に尾行されていた事を入鹿は相当に気にしていたらしい。蛍夜の姫、そして赤穂の姫を通じて当主に要請して入れられた追加の護衛が彼らであった。各々名を千鳥、角葉というそうだ。無論、仮名であろうが。

 

「あー、確かにぃ。彼方此方と田舎から人が逃げて来てるそうだしぃ?市井だと怪しい妖術士やら僧侶が世迷い言ほざいてるって話もあるからぁ……まぁ、世も末って訳ねぇ♪」

 

 ご機嫌そうに嗤えない事を宣う宮鷹の姫。退魔士家という公的な階級の者が語るのだから不忠ですらあった。尤も、普段のご乱行の噂の時点で御家からすれば生き恥のようにも思えるが。

 

「まぁまぁ、暗ーくて退屈な話なんて止めましょ♪そーれよーりーもー」

 

 そして内に招き入れる所作をして宮鷹の姫は小癪に笑う。

 

「お泊まりさんが丁度遅めの昼餉だから、食べていかない?」

「……事前に文にて気遣い無用と御伝えしたと思いますが?」

 

 以前の訪問時の最後に姫の宣った戯言を鈴音は覚えていたし、それを単なる世辞とも冗談とも思っていなかった。否、それを最低な形で利用してくるとすら思っていた。以前誘拐された事、艶本を忍ばされた事からこの姫はそういう意地の悪い性格だと察していた。言葉尻を取られて責められるよりかは多少無礼でも明言した方が良いというのが鈴音の判断だったのだが……。

 

「夏の夜風が悪いのか朝方はお客の体調が優れなくてね~。仕方ないから長々と湯に浸して上げて、全身懇切丁寧に洗ってあげた訳ぇ。……だからぁ、正確には朝餉の招待?炊事の方に伝え忘れちゃったから朝餉と昼餉のものが両方あるから出来れば片付けて欲しいのだけど~?丁度、田舎らしい塩い匂いもするし?」

「……っ!!?」

 

 けらけら笑って説明して、そしてクンクンクンと犬みたいに鼻を鳴らして姫は鈴音の手荷物の所まで顔を移した。鈴音を見る。怯えたように仰け反る女中。その怖じ気は図星でもあった。

 

「ふふふ。さぁさぁこんな所で突っ立ってないで……中に来なさいな?」 

 

 淫姫はまるで招き猫のように手招きして、妖艶におどけて皆を招き入れた。

 

 まるで獲物を罠にでも招き込むかのようにも、それは思えた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー

「…………」

『お客さんだねぇ』 

 コンコンコン、と。停まる車を外から小突く音がした。内にて控える白い狐はハッと驚愕する。元稚児の式遣いもまた目を見開いていた。俺を守るように立ち回ろうとするのを……しかし、差し止める。

『因みに私は頭に抱きついているー』 

「いい」

『肩凝りのもとー』 

 元稚児の肩を掴んで車の隅に押し退ける。窓を開く。見知った顔が其処にあった。

『触られただけで溢すんじゃねーよ』 

「やぁ。久し振り……か?」

「嬉しそうじゃないね?」

「お前さんは嬉しいのかよ?」

「まさか」

『狐も羨むんじゃねー』 

 半分影のように揺らめく蝦夷の男……だった化物が立っていた。周囲を見れば車に侍っていた護衛役達が踞るっている。喉を、あるいは胸を押さえて激しく咳き込んでいた。完全に無力であった。

『まー肉壁だからねー』 

「カ、ひゅ……っ!?」

『首絞めぷれー』 

 加えるならば、一人まだ首を掴まれて車に押し付けられている。息を絶たれて苦悶の声を漏らす護衛役。邪気を祓う結界付の車を何を以て小突いたのかは明白だった。

『手加減しやがってよー』 

「……誰も殺していないのか」

「喧嘩売りに来た訳じゃないからね。自分もこの娘らと同じ。護衛役だよ」

『私はしゅごてんしー』 

 気軽げにそんな事を嘯き、神威はチラリと視線を背後に向ける。続くように俺も路地を見れば此方に悠々と歩み寄って来る人影。知的で、人当たりが良さそうで、しかしながら貼り付けたような笑み。事前知識があればあからさまに嘘臭いようにも見えて来る。

『んー?』 

「やぁ、お久し振り……と言って、分かるかな?」

「何時ぞやの肉塊か?」

「正解!だが……君はそれ以前から私を知っている、そうだろう?」

「さて。何の話なのだか。何者だ、お前?」

『こんばんわぁ』 

 借り物の、奪った身体で返答に拍手する亡霊の、続けての言葉に惚ける。鎌掛けには引っ掛かるつもりはない。

『ばれてんぞー』 

「何者ねぇ。一言では説明は難しいが……そうだね。君に対しての関係を表するとしたら『父親』なのかな?多分だけどね?」

「……ふざけてるのか?親権主張するなら養育費払って貰おうか?」

「成程そう返すか。……困ったな。幾ら必要だと思う?」

『父親面するだけマシだよねぇ』 

 呑気にはははは、と軽く笑いながら護衛役に尋ねる亡霊。その護衛役はといえば冷笑しながら肩を竦めていた。そして、蹲る娘の一人が苦悶を装いながら懐から吹き矢を引き抜いて……。

『それ吹いたら死ぬうんめーだよぉ』 

「止めろ」

『……みんな溢しやがった』 

 俺の剣呑な呼びかけは三者に向けて。蹲る娘らが身震いする。返り討ちに懐の短刀を投擲せんと手元を懐に入れていた神威は嘲りながら、額に冷や汗を流して足下を見た。

『残念だねぇ』 

『…………』

『全部巻きこんで殺る気だったろー』 

 最後の一体にして、一番釘を刺していたそいつは白ばくれるように何も反応しなかった。車の影にずっと潜んでいた『それ』は、まるで己なんて存在していないかのように振舞っていた。

『飼主ごりらと似て雑な解決したがるよねぇ』 

「危なかったね、神威。御礼を言っておきなさい。……その子は君とは相性が悪過ぎる」

「本当嫌になりますよ。折角血反吐吐いて無敵になったと思えば貫通してくるような連中ばかりなんですからね。俺の努力は何だったんですか?」

『犬女のために頑張ってるのにねー』 

 全身の輪郭を不定形な靄のように揺らして、神威は愚痴る。少なくともそれは心からの本音に思えた。

『報われないねぇ?』 

「本当の意味での無敵も不老不死も有りやしないさ。所詮どれもこれも小賢しい手品の類さ。真理を如何に追究した所で、それが根底さ。……さて」

『私を視て言うんじゃねーよ』 

 弟子に言い聞かせるように神威に優しく語り掛ける亡霊。そして俺を改めて見据える。

『失礼なやつー』 

「まぁまぁ、そう殺気だたないでくれないか?……そうだね。養育費の事にしろ、君の気にしているだろう『偽物』にしろ、その他諸々にしろ、先ずは落ち着いて、肩の荷を下ろして、胸襟開いて語り合わなければ」

『降りないよー』 

 そして最もらしく紳士然に振舞って、亡霊は脅迫の言葉を吐いて見せた。偽物……それが何を意味するのか、誰を指し示すのか、分からぬ程察知が悪過ぎるなんて事はない。

『そのまま偽者にあげちゃえよ』 

「良い店を知ってるんだ。君の居場所が察知される心配はない。……落ち着いて腰を下ろせる場所だよ。どうかな?」

『外食は食べたぁい』 

 その誘いを断る選択なんて、俺には存在しなかった……。

『夕飯を無断で外食はふりんやりこんのふらぐだよねぇ』 

 

『……ごりらの搾る手、止まった?』 

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