和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

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第二二〇話

「文を、送ってくれないか?」

「えぇ。分かったわ」

『賢者たいむだー』

 和合の終わりの睦言に彼が頼むのを彼女は受け入れた。受け入れて、桃色の姫はその身を起き上がらせる。彼の上に馬乗りとなる。彼に曝す。己が身を。

『でけーよ、ほせ』

 白磁のような肌を。乱れた髪を。なだらかな曲線を。豊かな実りを。噴き出した汗が煌めかせる照りを。色狂いの牝の表情まで全部余す事なく見せつけてやる。彼に舐めるように凝視されるのは彼女にとって幸福そのものだった。

『御馳走様だったぜー』

「……綺麗だな」

「格好つけちゃって。もっと下品に評してもいいわよ?照れるような関係じゃないんだから」

『凄い食い付きだったもんねぇ?』

 そう宣って、彼女もまた彼を見下ろす。彼の一糸も纏わぬ身に見惚れる。逞しくも哀れな身を。皮の下で疼き蠢く人ならざる身を。

『沢山下から突き出してたねぇ?』

 己を容赦なく貪り、そして己が容赦なく貪った身を……。

『人じゃねーよ』

「葵……」

「駄目。私は、ね?」

「お前が横槍入れたんだろうに」

『私と同じだねぇ?』

 姫は彼が続きをねだるのをあやして窘める。それに対して彼が文句を言うのも、また道理ではあった。全ては桃色の姫が始めた事なのだから。しかし……儀式の最中である事もまた事実なのだ。

『人の皮被っただけ』

「大丈夫……皆いるわ。だから、ね?私は文を書かないと」

『こんな事しないと人形保てない』

 自分から邪魔しておいていけしゃあしゃあとした物言いだと男と、そして姫自身も思った。だけど必要な事だった。男が万全に発散するためには。吐き出して精神の均衡を保つためには。愛する人の煮え滾る熱情の業火を絶やす訳にはいかなかった。

『いらいらしただけで儀式が必要』

「んっ……待たせたわね?さぁ来なさいな。彼の事、頼むわよ?」

『所詮は間に合わせ』

 名残惜しみつつも姫は彼との逢瀬を打ち止める。彼との繋がりを手放して漸く彼女らに呼び掛けた。第七陣の、小娘達に……。

『沢山ぐちゃぐちゃにして』

「あぁ……葵……」

「そんなに良かった?ご免なさい。今回はこれまで。……ほら、皆を可愛がってあげて?」

『沢山どろどろにして』

 入れ替わるように群がる幼くも御百度で歴戦の経験を積んだ幼子達。熟練の女郎もかくやという奉仕を授けていき、最愛の人もまたそれに応えていく。

『ちいせーのしかいねぇ』

 道理だった。桃色の姫が中途半端に油を注いだ欲望の炎は荒れ狂い爆ぜるための薪を欲していた。故に容赦はあり得なかった。例えそれが労るために後ろ倒しにしていた幼過ぎる処方薬達であるとしても。

『飲み応えないねぇ』

「そう。全部吐き出して解消して。それが治療なのだから、ね?」

『増やさないとねぇ?』

 不安定な精神を鎮めるためにと十薬の娘らが提示した処置。尊厳を踏みにじるそれを彼が受け入れたのは優先順位故。皆もそれを受け入れた。一番信用出来ないのは彼の優しさ。だからこそ、最後まで徹底的に治療が完遂されるように姫君は手を打ったのだ。これでこの人はもう、容赦ない。極上の牝に生殺しにされては代わりが何だろうと我慢も手加減も出来る訳がない。

『すっご』

 大理石の南蛮浴場に怒声が鳴り響く。暴言が吐き出される。野獣の声音が反響する。幼い喘ぎ声が、嗚咽が、甘声が、少女達の神への祈りの声が無限に増幅して空間を満たす。水音に、空気が弾ける音に、肉を打ち付ける音に、福音に、満たされる。予定調和の計算通りに。

『どうして入るんだよ』

 ……そう。全ては姫君の中途半端な行為故に招いた彼の暴走。それによる衝動。暴力。不可抗力。そういう風に扱う。皆でそういう事として受け入れる。そういう風に皆で話を合わせる。彼すらも巻き込んで。

『良くこんなので生かせられるな』

『大丈夫……貴方は悪くないわ』

『言霊?小賢しい』

 目の前で行われる一方的に発散する儀式を見つめて、鬼月葵は優しく優しく彼の免罪を呟いて……。

『そうだね。『伴部』は悪くないよ』 

 

『◼️◼️を呪ってやるからよ』 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

 鈴音は激怒した。必ず彼の淫蕩奔放なる姫から敬愛する兄を引き離さんと決意した。

 

 鈴音には恋愛も男女の営みへの経験もない。貞淑に勤勉に、色に現を抜かす事なく働いて来た。けれども色に対する自己防衛は人一倍敏感だった。己が顔が悪くはない方だと自覚していたし、幼い頃は立場の弱さから、兄が去ってからは建て直し、栄え始める家に対する欲を隠さぬ痴れ者共への備えのためである。お堅い振る舞いは給金のためであるがろくでなしに対して隙を見せぬためでもある。

 

「そんな私に嫌味ですかぁ!!?」

 

 絶叫に近い叫び声。手元にあるのは艶本である。非時香菓先生執筆最新作、『淫兄牝垣入替見聞録』。妹は慕う兄の部屋に赴きそこで行われていた獣が如き所業に脳を破壊される物語である。初版である。今では特別価格で三両はする。風紀を乱すと製本所を検非違使が摘発せんとするし初版限定冊子入り故だ。己の半年分の給金だ。ふざけるな。誰がそんな馬鹿みたいな値段で本を買う?完売だと……?

 

「頭可笑しいんじゃありませんか……?」

 

 それは馬鹿みたいな値段で買った都人共に向けてのものか、執筆した作者にむけてのものか、あるいはそんな本を己の枕の中に仕込んだのだろう淫姫に向けてのものか。恐らく全てであった。愚弄である。愚弄されて、愚弄した。

 

「はぁはぁはぁ……気付かれては、いませんよね?」

 

 興奮し過ぎた感情が漸く落ち着いて雪音は己の騒がしさを自覚する。自覚して、障子の向こうの気配を探る。彼女が叫んだのは母屋の縁側であった。時刻は空が晴れて来た夜の終わり頃。朝の始まり……。

 

「むぅ……」

 

 介護のためにと兄の寝室に身を寄せて、眠りについて見たら枕に感じた違和感。探って見たら出てくるのが件の艶本となれば憤慨もしよう。枕の下に物を置くとそれに纏わる夢を見るとも伝わる。

 

 ましてや中身にこんな物を……恥辱である。侮辱である。兄と共に寝ている己に一体何という夢を見せようと……実際トンデモない馬鹿げた夢を見てしまった。慌てて起き上がって夢現か混乱してしまった。近くで穏やかに寝静まる兄の姿を確認してどれだけ安心した事かっ!

 

「~~~~っ!!!!」

 

 いっそ竈にでも投げ込んで焼いてしまおうか等とも思うが値段が値段である。賠償請求される可能性を思うと躊躇する。ならば適当な場所に放置せんと思ったがそれはそれで無意味だ。以前忍ばされた本も適当に屋敷に放置しようとしたら手元に返って来ていた。何なら兄に気付かれる所だった。兄に勘違いされたくなかった。

 

「……兄さんなら、勝手に荷物を弄ったりしない筈」

 

 絶対的な兄への道義的信頼。必要に迫られなければそんな無作法な事をしないと知っていた。ならば善は急げである。兄が起きる前に早く風呂敷に隠してしまって……!!

 

「雪音?起きていたのか?」

「ひゃあぁぁっ!!?に、兄さん!!?」

 

 取っ手に触れる前に障子が開いて目の前に現れる法体系巻きの兄。慌てて悲鳴を上げて遅れて本を背に隠す。完全に頭の中は混乱していた。

 

「酷い驚き様だな。まるでお化けじゃ……この姿だと驚かれるのも致し方なし、かな?」

「いや……別に、えっと、兄さん?早いですね!?か、厠ですか!?」

 

 誤魔化し半分に意見。しかしながら朝の尿意もまた当然至極。兄の身を思って厠での介助をせんとも思っていた。

 

「流石にそれくらいは問題ないさ。それに……厠じゃないよ。何時もこれくらいに起きているからさ」

「そ、そうなんですか?」

 

 兄の言葉に素直に驚く雪音。女中として雪音も主人一族より先に起きて家事の勤めをこなすのは当然ではある。しかしそんな雪音でもこの時間は少し早過ぎた。

 

「身体のために、屋敷の散歩をな。ずっと寝ていても逆に身体が衰えてしまう。無理のない範囲では動かさないと。……朝早くなら屋敷の御方達の邪魔にならないだろ?」

「成る、程……」

 

 納得は出来た。しかし機会が悪い。よりによってこんな時に……。

 

「あらあら、兄妹揃っておっきした感じぃ?」

(げっ)

 

 苦虫を噛んでいたところに背後から声音と人の気配。どうしようもなく本を着物の下にしまって振り返る。大層愉快そうにニヤつく宮鷹の姫君。寝間着姿に髪が若干乱れ気味だった。最低限の朝支度だけしたといった雰囲気であった。

 

「お早う御座います、忍鴦姫様」

「お、お早う御座います……!」

 

 立場がある。兄に続いて礼をするのは当然過ぎた。頭を下げて、チラリと見る。

 

「にぃ~♪」

 

 見ていた。あからさまに此方を見ていた。観察して楽しんでいた。流石に殺意を抱く。人を玩具にするな。

 

「朝支度の用意は出来たぁ?」

「これからです」

「じゃあ、ちゃっちゃっとしてしまって?お散歩でしょ?」

「承知致しました」

「あ、あの……兄さんを急かすのはっ……!?」

「雪音、いいから……」

 

 文字通りに尻を叩いて急がせる姫に雪音は思わず反論しようとして、しかし当の兄に宥められる。どうして、と雪音は兄を見上げるが……。

 

「何時も、散歩の付き添いをして貰っているんだ。だから、さ……?少し寝過ごしてしまった此方の責だ」

「何時も……?」

「そ♪いーつーもー♪」

 

 歯切れ悪く兄が答え、雪音は唖然として、そして目の前で女が兄の背後に抱き着いてほざいた。明確に此方を見つめて嗤う。

 

「どうせだから、朝支度御手伝いしたげよっか♪」

 

 乗じて宣われた善意を装う戯言に、雪音の表情をとことん引き攣らせた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーー

 鬼月家や逢見の屋敷と同じくらいに立派で広い宮鷹家の都屋敷を、その庭先を、三者が回っていく。

 

 途中で植えられた草花の様子を姫と男が巡り確かめる。朝露に濡れる花弁を見て、ニヤケ顔で詠った歌は御世辞にも品の良いものではなかった。枯山水を姫君自ら踏み荒らし、整えられた道を無視して真っ直ぐ最短距離にてため池に辿り着く。池面を覗けば鮮やかに彩られる鯉の群れ。パクパクパクパク、間抜け面で口を開閉しながらお泳いでいる……。

 

「そして、うりゃあー♪」

 

 炊事場にて拝借したという餌を豪快に姫が餌をばら蒔いた。餌に殺到する鯉の有り様に指差してコロコロと嘲笑う。嗤い過ぎて草履の靴紐が千切れてすっ転げそうになるのを、男が支えた。丁寧に姿勢を直して、紐を結び直させる。顔を見合せて片方が再度笑って片方が苦笑う。礼とばかりに庭先を散策して……路地にて井戸水で冷やされていた梨を桶から拝借して寄越して来た。何ならおまけと称して雪音にまで……。

 

「えっと……」

「何時もの事だよ。貰っておこう?」

 

 明らかに朝餉か昼餉かに備えて冷やされていたものであるのだが……もう慣れたものとばかりに包帯巻きの青年が躊躇なく齧るのを見て、雪音だけ食わぬのも具合が悪い。

 

「で、では……」

 

 シャリっと齧る。そして瑞々しさと甘さに感嘆せざる得ない。

 

「美味しい……」

 

 透き通るようなサッパリとした甘味。水でキンッと冷やされていて、夏場には相応しい。風流を感じた。夏の風流。雅とはこういう事をいうのだろうと感嘆……。

 

「それは結構。……これも食べる?」

 

 続いて差し出されたのは庭先に生えていた小さな赤い実。ブチッと容赦なく千切って向けられたそれに、雪音は見覚えがあった。これは確か……。

 

「桜桃……?」

「べぇ……あれ?知ってんの?扶桑ではあんまり栽培してないんだけど?」

「地元ではそれなりに……って何をしているので?」

 

 忍鴦姫の疑問に答えようとして、しかし雪音が話題を変えたのは姫自身の行為故だった。舌を見せ付けるようにはしたなく伸ばす様。舌の上に……蔦?

 

「結んでる?」

「貴方達もやってみて?」

「えぇ……って兄さん!?」

 

 行儀が悪い、そんな事を思っていると兄の方がひょいと実を貰って口に放り込む。もぎゅもぎゅとして、姫君同様に綺麗に結んだ蔓と種を舌の上に見せ付ける。

 

「出来た」

「はぁ……」

 

 そう言えば兄は変な所で思い切りが良い所があったなと今更に思い出す。というか早い。放蕩姫よりもあっさりとやって見せた。器用だと思った。器用な舌捌きだ。

 

「にぃー」

「や、やりますよっ……!」

 

 忍鴦姫の促すような視線を無視出来ない。桜桃を受け取ると放り込んで口の中で格闘戦を開始する。実を潰して、皮と実を呑みこんで、種を吐き出して蔓を捩じ伏せんとする。せんとして……。

 

「……。……っ!……っっ!!!!」

 

 口の中で必死に舌を蠢かせて、しかし苦戦するよつで、それは次第に剥きになっていく雪音……。

 

「……あー、済まん。無理しなくていいぞ?お遊びなんだから、な?」

「……っ!……!!……っっ!!!」

 

 必死な様に男が宥めるように呼び掛けるのを、しかし雪音は従わない。二人がやって見せたのに自分が出来ないのが何か嫌だった。理屈ではない。感情の問題だった。雪音は元々負けん気が強い質だった。

 

 必死に必死に必死に必死に。悪戦苦闘し続けてそれでも挑み続ける。そして……。

 

「……」

「どれどれぇ?あー残念♪」

 

 空が大分明るくなって来ていた。遂に突き出される舌を姫が覗く。ヘタヘタになって、しかしどうしても結べない蔓が其処にあった。雪音は朝っぱらから疲労困憊だった。

 

「むぅ……」 

「その、何だ。唯の遊びだからな?気にしないで、な?」

「分かってます……」

 

 自分でも何を必死になっていたんだと北土娘は思う。子供みたいで馬鹿みたいだと呆れる。呆れて、しかし悔しさはやはり残る……。

 

「ちーなーみーにぃ♪」

 

 蔦を三つ、種を三つ回収して鯉の池に放り込みながらの忍鴦姫の発声。二人の視線が此方を向いたのを確認して、彼女は語る。

 

「嘘か真か、このお遊び出来ると口吸いも上手なんだってぇ?」

 

 とことん腹が立つ女だと、雪音は思った。

 

 

 

 

 

 ……暫くして炊事担当の雑人達が水桶を覗きながら悲鳴を上げていたのは見なかった事にする。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーー

 朝餉を頂いて、兄の包帯を取り替えて、それから雪音は暇となってしまった。家事の類は全て宮鷹の者らがやってしまうため出番がない。だからといって兄もこれといってやる事もなく麗らかな庭先をボンヤリと見つめていた。チュッチュッと雀共が囀ずる音を聞いていた。

 

 即ち暇だった。普段忙しなく働いている故に調子が狂いそうになる安穏。腹を満たした後の一時の多幸感。退屈で、平穏な時間……。

 

「はは、食ってばかりで働かないと太ってしまうな」

「兄さんはもっと肉を着けた方がいいですよ」

 

 此方が見つめているのに気付いたのか苦笑をして冗談を言って見せる兄に雪音も軽く応じる。軽い物言いで、内心は切実だった。包帯の下に隠された兄の身体の有り様を思えば当然だった。あれは……先程見たそれは思い出すだけでも辛くなる。兄の味わった苦痛と、それを強いた連中を思うと憎しみが溢れ出す。

 

「退屈なら、友達と遊んでいてもいいんだぞ?入鹿だったな?余所様の家だから好き勝手にとは行かんが」

「俺の事呼んだ?」

「え?ゃあぁっ!?ど、何処から出て来てるんですか!?というか何時から!?」

「さーて、何時からだろうなぁ?」

 

 話題に出たからとばかりに兄に宛がわれていた部屋の地袋の戸をスッと開いて参上して来た狼女。当然のようにとんでもない所から出て来たのだから雪音の仰天具合は人一倍であった。寧ろ兄の反応が薄いのが彼女には驚きだった。大柄の滝な友人が一体どんな体勢であの中に忍んでいた!?

 

「余り妹をからかわないで上げて欲しいな。雪音、落ち着いて。唯の隠し通路だよ」

「落ち着いてって……隠し通路、ですかぁ?」

 

 地袋から全身抜け出した友がひょいひょいと内の仕掛け扉を見せて来る。別の部屋から此方に繋がっているようだった。入鹿が言うには其処らを探検していた過程で見つけて探ったらここに辿り着いたのだとか……。

 

「こんなものが……兄さんは、どうして?」

「はむっ、私が教えたんだけど♪」

「ひゃいっ!?」

 

 耳に違和感。食むられたのを理解して跳び跳ねる雪音。唾液に濡れた耳を掴んで振り返る。あの女がいた。だらしなく着崩れた着物が目に悪い。

 

「兄さん!」

「ここに預けられた時に教えられたんだ。殆ど悪ふざけみたいな感じだったけれど」

「そうじゃありません!」

 

 雪音としては先ずは咥えられた事に対して何か言って欲しかった。兄としては妹が凌辱されかけたのだから一つガツンといって欲しかった。

 

「流石に其処までの事じゃ……咥えられるくらいならもう慣れてしまったよ」

「慣れたってどういう意味ですかぁ!?」

「鈴音、落ち着け!」 

「落ち着けませんよぉ!!?」

 

 己の兄の常識が知らぬ内に塗り替えられてしまった事を知らしめられての絶叫。入鹿に諭されるがそんなものではどうにもならぬ。なって堪るか!

 

「ギャアギャア騒がなぁい。御客さんなんだから節度を持つ、ね?」

 

 どの口で!と雪音はギッと睨む。睨まれた姫は兄の背後に逃げて盾とする。困り顔の兄。耳元で何か囁く女。おねだりするような所作は香の香りが移りそうな程に距離が近い。兄の身からあの女の匂いがすると考えると気分が悪くなる。振り払って欲しかった……。

 

「分かりましたよ……うん。えぇ。……姫様も退屈だそうで。共に刻を潰して欲しいらしい」

「ふぅん。御身分が低い連中ばかりですけど、いいので?」

「何時もの事、だそうで」

  

 態々兄に語らせる姫の提案に入鹿が嫌味を交えて尋ねれば、即座に返答。何時もの事とはどういう事か。何にせよ、この場において屋敷の姫の提案を拒否出来る筈もなかった。

 

「しっかし、何で時間潰す訳で?この場には四人いる訳ですが……」

「其処はこれ、丁度良い玩具があるから♪」

 

 入鹿の言に用意していたかのように姫が懐から取り出したのは歌留多だった。それも中々上等な代物で書式が違う。絵柄に諺に、そして数字……橘商会が販売しているという南蛮伊呂波歌留多であった。

 

「近頃流行りなんだけど、遊ばない?」

 

  

 

 

 

 

 

 それは似ていると雪音は思った。何に似ているかというと嘗て兄が自作して遊ばせてくれた歌留多と似ていると思った。

 

 歌留多といっても色々とあるものだ。風流人の歌を納めた歌歌留多に、文字を覚えるための伊呂波歌留多。しかし、橘商会の製作したこれは上質な扶桑紙に漆を塗り金箔を貼り付けた豪華仕様であるが、それ以上に本質の部分で一味違った。

 

 本来の南蛮歌留多は歌や諺の代わりに数字が刻まれているのだとか。橘商会はそれを両方並記した。数字と文字、双方を幼子でも楽しんで覚えられるようになのだとか。それは同時に一つの歌留多でより多くの遊びが出来るようにという配慮でもあるようだった。

 

 ……兄が自分達に文字と数字を教えるために似たようなものを作ってくれたのを覚えている。当時は単に楽しんでいただけだけれども、幾分文字と算を身に付ける上で役に立ったと振り返れば思い至る。

 

(兄さんは……何処から知ったんだろう?)

 

 手札を見つめながら雪音は思う。思いながら同じく手札を見つめる兄に視線を向ける。商会の歌留多が真似事とは思わない。寧ろ逆なのだろう。しかし……物知りだった兄だが一体どうやってその知識を身につけたのか、どうしても首を捻らざる得ないような事が度々あったのもまた事実だった。何時か教えてくれるのだろうか?それとも余りに昔の事だ、もう忘れてしまったか……?

 

「はい。あーがーりー♪」

「えっ!?」

 

 ひょいと抜かれる手札。淫姫の通達。数字の合わさった札を床に叩きつけての勝利宣言だった。

 

 婆抜き。数字の合わさった札を捨てていく遊び。南蛮歌留多で最も単純なお遊びの一つ。姫のその上がり宣言は、つまり残るは目の前の者との一騎討ちを意味していた。

 

 ……つまりは兄との一気討ちという事だ。因みに入鹿は真っ先に上がっている。何処から持ち込んだのか米菓をボリボリしながらお高く鑑賞中である。

 

「兄さん……」

「さあ、雪音の番だ。引きなさい」

 

 兄の手札は二枚。己の手札は一枚。そういう事だ。雪音は迷う。どちらを引くべきかを。

 

(否。大事なのは婆がどちらかという事……!)

 

 幾度かこの歌留多で遊び、あるいは遊ばされて、仕切り役の淫姫は退屈になったのだろうか?此度の婆抜きにおいてドベの者には罰を与える等と宣ってくれた。一体何が罰として用意されているのか知れないがどの道そんなものを兄に課させる訳にはいかなかった。淫姫自身が負けていたら良かったのに……今となっては己が身代わる以外の道はなかった。

 

 望む所だ。これくらいの事で兄の代わりになれずに何が出来るだろうか?

 

「なので兄さん、婆はどちらですか?」

「何がなのでなのか分からないが……それを教えたら遊戯の面白みがなくなるんじゃないかな?」

 

 兄の突っ込み。表情は崩れない。お手掛けであった。突き付けられる二枚の札のどちらが婆であるのか、全く分からなかった。だからこそ兄におねだりして見たのだが、すげなく断られてしまった。自分が婆を引くといっているのに……。

 

「むぅ……入鹿?」

「教えんぞ?それじゃあ退屈じゃねぇか。というか俺を負けさせる気かよ」

 

 ボリボリ菓子を齧りながらの入鹿の物言い。何なら淫姫と賭け事までしていた。兄が負けるのに賭けていた。裏切り者の人でなしだ。

 

「むむむ……」

「雪音、そろそろ取ってくれるかな?流石に手が疲れるんどけどね?」

「す、すみませんっ!!あっ……」

 

 兄の催促に反射に雪音は札を取っていた。そして合わせて唖然とする。ものの見事に同じ数字だった。何なら諺もまた同様に応対していた。上がりであった。

 

「ご、ご免なさい……」

「遊戯で勝って謝るなんて事はないだろう?接待じゃないんだから。ははは、これも勝負事の醍醐味ってものだろうに」

 

 青ざめての謝罪を、しかし兄は笑って受け止める。確かにそれは自己満足なのかも知れない。しかし……兄に婆を引かせるという行為そのものが、雪音の中では嫌悪すべきものだった。皆で兄を一人生け贄にするという事が、嫌がった。例えそれがお遊びに過ぎないとしても……。

 

「仕方ない奴だなぁ。全く、小さい頃は寧ろ負けたら愚図っていたのに。ほら、もう一回もう一回って……」

「に、兄さん……子供の頃の話は止めて下さいよ……」

 

 昔の無様な思い出出して来る兄に、その妹は赤面するしかなかった。過去の話題を引き合いに出すのは狡いと思った。

 

「済まない済まない。……それで、罰ですかね?」

「そゆことー♪」

 

 いつの間にか兄の傍に来ていた忍鴦姫。兄は気負いなく微笑む。雪音は不安に身を竦める。入鹿は頬杖して儲けを計算しながら流し目で。三者三様に何が課せりるのかを注目する。そして……。

 

「えい♪」

「うおっ!?」

「ふぇっ!?」

 

 軽いノリで姫は彼に抱き着いた。思わぬ行為に抱かれた本人と雪音は抜けた声を漏らす。だが、罰はこれからであった。

 

「はむっ♪」

「いっ……!?」

「兄さん!!?な、な、なななななぁ!!?」

 

 服をズラして、包帯をズラして、姫は彼の首元に食むった。思わず行為に兄が少し痛みに苦悶の声を漏らした。雪音は完全に動転した。何をした?いや、何をしている!!?

 

「い、いいいい、一体、何をぉ!!?」

「ぷわぁ。ナニって……甘噛みだけどぉ?」

 

 赤面して狼狽する雪音に向けて、銀糸を滴しながら首元から唇を離した忍鴦姫の応答。紅を塗っていたのだろう。歯形が出来て充血している噛み痕には紅の赤が移っていた。

 

「あわわわわ、に、兄さん!大丈夫ですかぁ!!?」

 

 沸騰しそうになる気持ちを押さえつけて、押さえきれずに兄の元に駆け寄る。手拭いで噛み痕を押さえる。唾液を拭いて、紅を拭う。

 

「はは、まぁ……大した出血はしてないからさ。其処まで慌てなくても……」

「慌てますよぉ!!?」

 

 手拭いをみる。ほんのりと、本当にほんのりと染み込んだ赤。血のほんの微かな匂い。紙で指を切る方がまだ痛いだろう程度の傷。彼女にとっては卒倒しそうだった。  

 

「兄さん……兄さん……兄ちゃん……」

「雪音……」

 

 手拭いで首を強く押さながら、彼女は何度も反芻するように呟く。呟きながら抱き着いて、泣き言のように兄を呼ぶ。その尋常ではない様子に慮られる側も笑うのを止めざる得ない。抱き着く少女を抱き締め返す。背を擦って、頭を撫でる。赤ん坊をあやすように宥めていく……。

 

「……なぁんか私が悪者みたいなんだけど?」

 

 二人きりの世界に入ってしまったかのような光景を詰まらなそうに見ての忍鴦姫のぼやき。半妖の蝦夷に目配せする。入鹿は何も答えない。唯銭の計算のみに終始する。悠々と不敵に鼻歌を歌いながら、しかし五感は密かに警戒を怠らない。狼は姫を信用していなかった。

 

 ……信用出来る筈がなかった。あの男を騙るナニカが友と家族愛を演じているような状況で本気で気を抜ける筈がない。仮に次の瞬間に偽物が動いたら手の内の銭を投擲しているだろう。何時だって入鹿は不意打ちへの対処が出来ていた。

 

(あぁ、出来ているさ。出来ている。だがよ……)

 

 チラリと友を見る。友を宥めるあの男を騙るナニカを見る。そしてどうしようもなく表情筋が引き攣るのを隠し切れずにいた。

 

 声も、息も、体臭も、あるいはふとした言葉遣いに振る舞いに見え隠れするあの男の面影。似ていた。嫌なくらいに似ていた。事前に事情を知らなければ何等疑う事すら出来ないくらいだった。

 

(記憶喪失のモノホン……って訳じゃあねぇだろうよ?)

 

 本当にあの爆発の後、遭難して記憶を失って保護でもされたのではないか?そんな疑念すら浮かんでしまう。己の内なる因子がそれを否定している事がそんな仮説を否定するが……ならば己が気付かぬ内に記憶操作されているのではないか?等とそんな際限のない疑念が浮かぶ。

 

「……何を覗き込んでるので?」

 

 銭の真贋を検分していて、空いた穴越しに此方を見やる放蕩姫への問い掛け。胡乱な視線を向ける。

 

「相手してくれないから気を惹いて見た♪」

「口説きに来たと?」

「そゆことー」

 

 そしてチラッと姫は二人を見て、兄の方に手で退室を告げる。頷く男。入鹿を見て礼をする。その眼差しに入鹿は歯切れが悪くなる。獣の勘が其処に含まれる感情を読み取るからだった。悪意なく、友に対する謝意だけが其処にある……やりにくい。

 

「少し、向こうでお話しよっか?」

「……ちっ」

 

 姫の提案を拒絶する事は、狼の立場では出来なかった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

 そして刻は流れる。昼を過ぎて、夕を過ぎて、烏の鳴き声と共に日が沈む。空が薄暗くなるのを北土の百姓娘は見上げる。

 

 ……湯気立つ湯の内にて。

 

「何やってるんだろ。私……」

 

 温まり汗を流しながらの呟き。ちゃぽんと音がして湯面が揺らいだ。有望な霊脈に近い故に水を炊く必要なく、吹き出した湯をそのまま湯船として活用出来た。しかも御丁寧に混ぜ物をしていて香湯となっている。爽やかな香りが湯気と共に立ち上る。

 

 無尽蔵に豪勢に、故郷の寒村を思えばそれは特大の贅沢だろう。身体の芯まで温まる極楽……しかしそれでも彼女の憂いは晴れない。

 

「みっともない……」

 

 感情を吐き出すような独白だった。ほんのちょっとの出血に散々泣いてしまった。兄の傷に大袈裟に反応してしまった。自分の怪我じゃないのに慰められてしまった。小さな頃のように。無様な様である。折角の場を潰してしまった。

 

 泣いて哭いて啼いての慟哭。ひたすら慰められて宥められて、暫ししての漸くの仕切り直し。兄共々姫への謝罪を、入鹿と御菓子を携えて出戻りしてきた忍鴦姫はあっけらかんとして流した。しかし無礼は消えなければ貸しを作った事に変わりなかった。

 

 そもそもアイツが甘噛みしたのが悪い……そんな気分にもなるが身分は絶対だ。兄が養われている現実も変わらない。何よりも兄に自分がまだまだ頼りないと思われてしまった。恥ずべき事だった。兄に頼りになると見せつけたかったのにこれでは逆効果だ。兄がこんな頼りない妹の提案を受け入れてくれるようには思えなかった。

 

「本当……情けない」

 

 成長したと思ったのに。もう子供じゃないと自負していたのに。これでは自惚れだ。恥ずかしい。己の身を見る。無駄にでかくなったのは身体だけか?阿呆め……雪音は自虐した。

 

「はぁ……」

「溜め息してると幸せが逃げるぞー?」

「幸せなんて……きゃあ!?」

 

 応答。遅れて本日何度目かの悲鳴であった。堂々と布すら巻かず、御立派に全身を晒して入室してきた入鹿に唖然とする。

 

「い、入鹿!?いきなり入って来ないで下さいよ!?」

「怒るなよ。俺とお前の仲だろ?」

「親しき仲にも礼儀ありですよ!」

「ちゃんと入る前に身体洗うぞ?」

「当たり前です!」

 

 別に共に風呂に入るのは良い。裸の付き合いなぞ今更だ。しかしそれでも此方とて独り言とてあるのだ。不意打ちは止めて欲しかった。

 

「カリカリしてるなぁ。もうちっと力抜けよ?折角の上等な風呂なんだから、さ?」

「む……」

 

 指摘に雪音は改めて浴室の内装を見やる。確かに中々の風呂であった。上等な客人用である。少なくとも女中や雑人が入れるものではない。下人扱いの入鹿は直の事。意図は知れぬが明らかに厚遇されていた。嘘臭さすら感じる丁重ぶりだった。

 

 ……あの放蕩姫の気紛れと言われたらそれまでな気もするけれど。

 

「見た所……あの姫さんに対抗心って所か?」

「……良い噂がない姫様です。家族がそんな相手に世話になるのですよ?……心配にもなるじゃないですか?」

「だからって過剰に反応するのも空回りするのも違うだろ?それに兄貴の奴も大人なんだ。仲良いのはいいが彼是と口を挟むのは向こうを馬鹿にしてるってものだぜ?」

「それは……」

 

 桶湯を浴びて、石鹸を泡立てて、垢を擦り落としながらの入鹿の意見に、雪音は反論出来ずそのまま湯に沈んでいく。身をくぐめて口元まで湯に浸る。白濁する湯面に、視線を落として消沈とする……。

 

「当の兄貴の野郎も心配してたぜ?背伸びしてるが幼い所があるってな?独り立ち出来るのか心配だってさ」

「兄さんが?……入鹿、兄とそんな事を?」

「お前が寝てる時に、な?」

「そうですか……」

 

 隠していた訳じゃないのだろうが、知らぬ所で兄と入鹿が話している事に良い気はしなかった。それどころか嫉妬のようなものすら抱いてしまう。浅ましく思えた。自分は浅ましい。嫉妬深く、粘着質……。

 

「狡い……」

「相変わらずのお兄ちゃん子だな?」

「別に、家族なんですからそんなものでしょう?」

「そんなもの、ねぇ?」

 

 懐疑的な物言いの入鹿に少し苛立つ。そんなに可笑しいだろうか?親愛とはそんなものではないか?他人にとやかく言われるものではない筈だ。これは内の問題じゃないか……そんな事を思ってしまい、やはり自分は執着しているのだろうか等とも疑いを抱いてしまう。

 

「兄さんに……私は何も返せていないんです。何も。何も……」

 

 親しき仲にも礼儀あり。親しいとは即ち身内である。友ですらそうなのならば血の通う家族ならば尚更だ。雪音は兄に借りしかなかった。不均衡な程の借りだ。それを返すのはけじめである。一番大切だった家族への、恩義と御礼……。

 

「兄との別れは突然でした。ずっとずっと一緒だと思っていたのに。突然……また同じ事がないだなんて、言えないでしょう?」

「……全くな」

 

 雪音の吐露する思いに、入鹿は何かを感じ入るように応じた。その態度に怪訝に思って、しかし……その疑問は次の瞬間に翳りが、そして湯飛沫と共に掻き消されてしまった。

 

「い、入鹿ぁ!?」

「あー、良い湯だなぁ!!」

「良い湯じゃありません!ひゃあ!?」

「良い乳だなぁ!」

「嫌味ですかぁ!?」

 

 静粛な御屋敷の湯は、忽ち馬鹿騒ぎにより庶民の銭湯の如しであった。飛沫が止めどなく噴き上がる。悲鳴が上がる。嬌声も。風呂場の傍を歩いていた下男の幾人かが如何わしい妄想を抱いたのは容赦すべきであろう。

 

「入鹿っ、いい加減っに……むぎゅ」

 

 そしてぎゅっと豊かな実りに百姓娘は顔面から沈められる。強く強く、抱き締められる……。

 

「入鹿……?」

「温かいな。雪音は……」

「……」

 

 惜しむような、感じ入るような、慈しむような抱擁……それを拒絶する事は雪音には出来なかった。友もまた兄と同じく何時消えてしまうか分からぬ存在である事を改めて察しまったからだった。

 

「……」

 

 もう二度と過つ事ないように、友が逃げられぬ程強く強く抱き返す事しか彼女には出来なかった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……。あっ?」

「あ、上がったー?長かったねぇ?」

 

 当初の想定外の長風呂だった。若干くらりとしそうになるのを堪えて着替えを終えた。そうして湯涼みせんと脱衣場から出た所で恐らく此方は主家用の風呂に入っていたのだろう、あからさまに湯上がりな宮鷹の姫にばかりと出会した。

 

「っ。……良い湯でした。有り難う御座います」

 

 一瞬の動揺。身を正して謝意。そして視線は嫌でも姫の全貌を捉える。

 

 火照る身体に濡れそぼった艶やかな髪。浴衣姿は例に漏れず着崩れしていた。胸元の谷間が覗けた。初めて会った時もそうであるが普段は晒で潰しているのだろう。何も締め付けずに薄着だと以外とあるように思えた。少なくとも己よりも。

 

 ……別に大きさは実生活に何ら寄与するものでもないので気にしないが。虚勢じゃない。嘘じゃない。強がりなぞでは絶対にあり得ない。

 

「疲れは取れたぁ?養生に良い香湯の筈なんだけど……うーんっ!怠い……」

「はい。とても良き香りでした」

 

 そう答えつつ、雪音はまるで肩が凝ったかのように関節を鳴らす忍鴦姫の振る舞いに疑念を抱く。重労働でもしていたのかと言う気怠げな態度だった。湯上がりには相応しくないように思われた。

 

「あぁ。御風呂場だと式符が直ぐ濡れちゃうからさぁ?となるとこの細腕で力仕事しなきゃて訳よ」

「はい……?」

 

 何を言っているのだ?何を言いたいのだ?

 

「ほらぁ。古傷に沁みるからゴシゴシしちゃあいけないでしょ?素手でそーっと撫でてあげないとね?」

「えっと……何を?」

「蒸れる場所とか念入りにしてぇ。運んで上げて湯に入れてあげないと」

「えっ?えっ……?」

 

 待て。待て。待て。ちょっと待て。もしや、まさか、そんな……!?

 

「上がったら念入りに拭いて水気吸わせてぇ。軟膏塗って包帯巻いてぇ……」

 

 そして目の前の女は今日一番のニチャリとした笑顔を浮かべた。前屈みになって、雪音の顔を覗いた。

 

「ごちそーさま♪」

 

 挑発するように、からかうように、ふざけるように、真偽も不明に、前後の会話と繋がらず、ただただ生温かく囁くように女は嘯いた。

 

 本当に本当に、嫌な女だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

「起きろ」

「んぎゅっ!?ふぇ!?ふぇ!!?」

 

 深い眠りは頬をペシペシと叩く衝撃により妨げられた。寝惚けて、慌てて、混乱しながら彼女は目覚める。蛍夜環は目を覚ます。

 

 目の前には仏頂面で馬乗りで尚ペシンペシンとしてくる巨女の姿。

 

「起きろ。起きろ」

「いや、もう起きてるでしょ」

「起き上がらない」

「おん前が乗ってるからでしょーが!このデカ物!!」

 

 巨女を、陰獄育魅の尻を蹴飛ばして環から退かすのは打って変わって小柄で生意気でうねるような長髪の女であった。

 

 己の腰に手をやって此方を詰るように見下ろす。祓護民衆壱ノ組、髢屋操媒……。

 

「ほら、さっさと支度しなさぁい?」

「え、ええっと……!!?」

 

 軽く蹴りつけながらの命令に困惑する環。そして遅れて気が付く。この二人はどうしてこの己に宛がわれた部屋にいる?否、どうして二人共外行きの……否、仕事着なのだ?

 

「もしかして……」

「三十数える間にぃ、着替えろよ?」

 

 そして二人はガッと障子を開いた。暗い空を照らす月明かりが鮮やかだった。深い深い深夜であった。深夜でありながら屋敷は騒がしかった。彼方此方と武装して、羽織を着込んだ退魔の兵共が行き交う。まるで、これから何処かに討ち入りでもするかのような剣幕だった。

 

「間者からの緊急の報せってやぁつ。……前倒して摘発しろってよ。ほれ、行くぞ?」

 

 それは、下京にて多くの血が流れる地獄が始まろうとしている事を意味していた。

 

 多くの命を救うための戦いが、始まろうとしていた……。

 

 

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