和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件   作:鉄鋼怪人

251 / 255
 体調不良等のために次話更新は少々遅れます。ご了承下さいませ


第二二八話

 重苦しく張り詰めた静寂が場を満たしているように彼女には思われた。

 

 場所は鬼月家が逢見家より借り受ける母屋の一室、当主の執務のための書斎である。上座の方には大人が二人。一人はぼんやりと腰を下ろし、それに寄り添うように今一人がいる。後者は擦れる音と共に文を読んでいる。それに相対するように下座には二人。これまた付き添うようにであった。

 

 ……否、それにしては若干刺々しくもあるように文を持ち込みこの場を重苦しくした張本人は思う。

 

「旧都への勅使……奉幣使への随身ですか。となれば神饗祭の準備ですわね。あらあらあら。これはまぁ、何と名誉な事でしょうねぇ?」

 

 場に居る四人の内の一人。上座の傍らに控える彼女は手元の文を読み終えると間延びした声音で以て何処か軽薄な感嘆を述べて見せた。鬼月菫、鬼月家当主夫人は述べて見せて、目元を細めて弟子を見据えた。

 

「っ!?は、はいっ!!」

 

 口に出た己の発言が酷く狼狽していた事に、蛍夜環は更に驚きを抱く。別に殺気を感じた訳では無かったが何処か背筋に刃を当てられたような感触に寒気を抱いてしまい、どうしても肩を竦めてしまう。

 

「……確かに名誉な事ですね。このような非正規の、横槍に近い形で知らされるのは少々不快ではありますが」

 

 環の心情を知ってか知らずか、隣でそのように口を尖らせたのは夫人の親族であり、年下の姉弟子でもあるおかっぱ頭の赤穂家の末娘だった。その口調は左大臣を非難しているというよりかは環本人に向けたものに思えた。愚弄……よりも疑いに近いようにも聞こえる。

 

 ……事の発端は芝居小屋見物にて、口頭と共に託された文である。鬼月な当主夫妻に差し出したその中身は蛍夜環に新たな務めを任せる事の、その内々定を伝える代物だった。任務自体は確かに名誉あるものである。しかしながらそれが蛍夜環という歴史の積み重ねもなきぽっと出の家人に宛てて、それもこのような形で事前で伝えられる事は些か問題ではあった。

 

 主に鬼月家の面子として。

 

「……恐縮です」

 

 環は反発はしなかった。理解自体は出来たからだ。己のような浅い身の上の者が伝統と名誉ある務めを任されるなぞ、贔屓されていないと否定する方が困難であろう。それどころかおねだりしたと思われても仕方ないだろう。そも、鬼月に家人入りした上での祓護民衆入りというのは二足草鞋というものだ。否定はされぬが余り誠実とは言えぬだろう。

 

 ……尤も、赤穂家の末娘が不機嫌なのはそれだけが 理由ではないのだろうが。

 

「因みに紫さんも随身に推挙されておりますよ?」

「ええっ!!?ほ、本当なのでしょうかっ!!?」

 

 拗ねるような、あるいは妬むようなキツい表情を浮かべていた紫は、夫人の指摘にその態度を一転して動転させる。喜びと緊張、驚愕のない交ぜになった反応だった。完全に想定外といった様子である。文の中身までは見てなかった環もそれは同じだった。

 

(これは、配慮されたのかな……?)

 

 年下の姉弟子に失礼なのかも知れないがそんな事を環は思った。己だけが指名されたのでは反発されかねない。赤穂の姉弟子も指名する事で仲違いせず、周囲から浮かぬようにと気を回してくれたのかも知れない。いや、間違いなくそうであろう。左大臣は人徳の人。配慮と思慮に満ちている。環はその心配りに深く感謝して恐縮する。

 

「勿論ですとも。……ほら、此方を。『彼の刀術の名門赤穂家の者なれば、是非にその技前で以て勤めて貰いたい』と。本家の御家族は皆西土に居残る事態、為れば代わりに赤穂の代表として、朝廷への忠勤を存分に励んで欲しいのだとか」

「は、ははぁ……」

 

 文を寄越して見せてやりながらの夫人の言に恍惚にも似た表情で紫は感嘆する。仁徳仁愛で知られる左大臣からの期待の御言葉である。ましてや赤穂家は世に勤王として知られる御家なれば、その口上に感動するのも無理はない。感無量とはこの事である。

 

「……宜しい。朝廷よりの誉れある命であれば、此れを喜び賜るのは道理」

 

 ずっと沈黙していた上座よりて発せられた言葉に環を含めた皆が視線を向けた。嗄れた声音で、しかし音はぼやける事もなく、妙に明瞭に聴こえた。鬼月家当主、幽牲は何処かぼんやりとした、しかしその奥に明白な意思のある眼差しを環に向ける。

 

「蛍夜環殿よ。鬼月の家人として、その代表として、くれぐれも無礼無きよう。その一切の務めを果たしたまえ」

「は、ははっ!」

 

 淡々として抑揚を欠いた、見方によっては厳かと言えない事もない命に環は大きな声で応じた。己の無礼を理解していての罪悪感からだった。後ろめたさが空元気となって環にはきはきさとした発声をもたらしていた。まるで心中の恐れを払い除けようというように。

 

「……」

 

 幽牲はそんな環の答えに更に何かを語る事はなく、寧ろ視線は環の傍らの存在に向かっていた。

 

「紫殿。誠に勝手ながら我が家の家人を宜しく頼まれてくれませぬかな?お恥ずかしながら環殿は家人として経験も知識も浅く、一人では此度の大任は荷が重く思われます」

「承知しております。妹弟子の名誉は姉弟子の、叔母上の、そして赤穂の名誉でもあります。しかと、指導してやりましょう!!」

 

 紫は鬼月家の頼みに胸を張って応じた。断る余地はないし、断るつもりもなかった。今はただ、赤穂とそれに連なるあらゆる誉れのために。己が父や兄達の代理として御家のために為せる事を為すだけであった。家族に出来るだろう事が、どうして同じ赤穂である自分が出来ない事があろうか?

 

「良い返事です事。私からも御願い致しますね?……環さん、貴女からも」

「は、はい!紫様、どうぞ……宜しく御願い致します」

「良いでしょう!精々姉弟子たるこの私に頼る事です!手取り足取り、教えてやりましょう!!」

 

 深く会釈しての頼みに、増す増す鼻高々に応答する紫。鼻息荒く、頭の阿呆……癖毛が犬の尻尾めいてブンブン揺れてる気がするが、気にしてはいけない。

 

「そうそう、弟子と言えば……近頃御意見番様とその弟子の顔を見ない気がしますね?一体何処で何をしているのでしょうか?折角可愛がっている環さんの栄誉であるというのに……」

 

 その何気無い一言に、場の空気がズシリと重くなったように環には思われた。

 

「……?」

  

 紫はその違和感に困惑する。己の従姉殿……近頃姿の見えぬ鬼月家当主の二人の娘の話題を夫婦の前で出さない事は流石に承知していた。しかしながら同じく環の師である御意見番と、その弟子たる元稚児の美少年は違うと認識していたのだ。

 

 首にお縄を掛けて墓穴を掘った気がした。どうしてか紫の立場では分からなかったのだ。

 

「……」

 

 環は沈黙する。環もまた分からなかった。ぶっきら棒ながら冷たくない年下の兄弟子に、まるで母親のように振る舞い面倒を見てくれる御意見番の不在。その 理由も、それに反応する夫妻の反応も、等しく何がどういう事なのかさっぱり理解が及ばなかった。

 

「……母上は橘家のご令嬢の元に厄介となっている、だったかな?」

「はい。懇意の商家の別邸、その警護体制を見定めるためにと。式に呪い、屋敷の護りを固めるための道具を車にたんまりと乗せて弟子と共に出られましたわ」

 

 当主の問いかけに微笑みながら母親であり妻でもある女は答えた。そして環と紫を見る。

 

「加えて、件のご令嬢様と葵はとても懇意にしているそうですから。恐らくは娘もそちらに遊びに。……きっと御祖母様は孫娘が問題を引き起こさないか目付もしているのでしょうね」

 

 母として恐縮の至りですわ……そんな風に語る菫。義理の母に対して本当に恐縮しているのかどうか今一つ判然としない口調であった。

 

「そ、そうですか……」

 

 何故か首の皮一枚繋がった感覚で紫は言葉を紡いだ。何故か冷や汗がした。同時に嫉妬も抱く。尊敬して慕う従姉が退魔の家業とは関係のない商家の者と仲を深めている事に。

 

「……全く、困ったものだな。母上の手を煩わせるとは」

「私の躾が行き届いていないせいですわ。御許し下さいまし。……お陰で雛にも悪い影響が出てしまってますわ。知ってますか?あの娘、勝手に山を買ってしまいましたのよ?」

「ふむ……」

 

 橘家の別邸と反対側の山を一つを丸ごと。相談もせずに敷地を一括で買い入れてしまったのだと。環達の前で菫は夫に語る。

 

「集中して修験するために人気のない修行場を、なんて言い訳を捏ねてましたけれど……まぁ、確かに嫁入り前の娘が見知らぬ者に滝打ちしてる姿なんて見られたら困りますけれど?」

「……」

  

 クスリと、菫は微笑み夫を見た。何かを思い出して匂わせるような物言いに環達には思えた。当の夫は唯沈黙するばかりであった。じっと見ると僅かに気まずい雰囲気を滲ませたようにも思えた。気のせいかも知れないが。

 

「……あら、御免なさいね?叔母さんの娘達への愚痴なんて、聞いても面白くないでしょう?」

「あ、いいえ。そんな……えっと?」

 

 一拍置いて、気付いたように菫は弟子二人に謝罪した。環は慌てて否定しようとして言葉に詰まる。娘への母の愚痴を面白くないだろうという言葉を肯定するのも否定するのもどうなのだろうかと思ったからだ。

 

「……旅の支度金を用意する。速やかに随身のための備えをせよ。もう、下がると良い」

「「は、ははぁ!」」

 

 助け船というべきか、あるいは渡りに船というべきか。そんな話を切り上げる当主の言に、環と紫は殆ど同時に頭を垂れて礼をする。声音が滑稽に重なった。それすら気にする余裕もなくて、そそくさと退散するように場を退く。

 

 パシャリ、と。障子を閉じて縁側に出て暫し進みて同時にふぅ、と安堵の嘆息。お互いの顔を見やる。

 

「……何、溜め息吐いてるのですか」

「それは、紫さんだって……」

「私は……こほんっ。それにしても、まさか奉幣使の護衛の任を務める機会が来るとは。誠に名誉な事ですが驚きました」

 

 環の指摘に言葉を失って、誤魔化すような咳払いと話題逸らしであった。環はそれを察していたが掘り返さない。それよりも優先すべき事があったからだ。

 

「そうだよ。それなんだ」

「何がそれなのですか?」

「その……任を承ったのは良いんだけど、その、何が何なのだか。あはは……奉幣使も旧都も、一体何の事なのだか分からなくて?」

「貴女は何も分からないのに承ったのですかぁ!!?ってぇ、あわっ、わっ!!?」

「む、紫さんっ!!?」

 

 悲鳴にも似た叫び声。そして勢い余ってするりと足袋が縁側の床を滑る。そのまま横に溢れるように、庭先に頭から突っ込んで行く。

 

「危ないっ!!?」

 

 環の判断は素早かった。怒鳴り声に肩を竦めていた姿勢から、まるで猫の跳ねるように一気に瞬発して回り込む。頭から突っ込む紫を縁側の下から支え迎える。身体強化した腕力で両手で横抱きして見せた。

 

「んっ!?」

「危なかったぁ!!」

 

 二人の鼻同士が掠れるように触れた。吐息が互いの肌を撫でる。文字通りに目と鼻の先に紫は環の顔を見た。

 

 美女というよりは麗人、少年然とした若さと元気を醸していて、それでいて確かに女としての側面も滲ませる独特の風貌に、紫は一瞬呆ける。そして己の先程してしまった醜態と今の体勢を認識して恥じ入り顔を逸らす。ひたすらに安堵する環の純粋な態度に毒気が抜かれるようで、腹が立つようで、しかし、礼は述べるべきだろう。紫は口を開き……。

 

「助かり……うぐっ!?何、が……!?」

「あっ……」

 

 パシャっと。庭の溜め池から鯉が跳ねた。紫の怒鳴り声からの一連の事態に驚愕しての跳躍だった。乗っかった。紫のおかっぱ頭に。そして跳ねた綺麗に腹に。ペシャペシャペシャペシャと元気良く着物の上で跳び跳ねる。

 

 上物の絹地に紫根染めした縮緬の着物である。父より貰った自慢の逸品である。上物である。普段使いの一張羅である。生臭い。魚臭い。パクパクとしながら紫を見つめる。鰭が挨拶するように持ち上がる。挨拶は大事だ。

 

「……。いや、そんな事言ってる場合じゃありませんけどおぉぉぉぉっ!!!?」

 

 台無しになった自慢の着物の有様に、赤穂の姫君は横抱きされながら涙の絶叫を吠えていた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー

『旧都』、その字の通りに旧き都と書く。都と同じく固有名詞はない。正確には今では固有の呼称は失せてしまっていた。旧都自体を呪詛より護るためである。

 

 言い伝えによれば初代帝の皇后、五十鈴姫はこの近隣にて産まれたのだとも言われる。朝廷成立以前、奴隷王朝が乱立して圧政を敷き、魑魅魍魎共が地を焼き天を焦がした時代、この地に一際大きな人の隠れ里があったのだとか。悪王共、怪物共の目を盗んだ猫の額程の僅かな、しかし豊かな土と水の山里は当時としては異例の楽土であった。度々帝はこの地に行商に赴き、扶桑建国時には最も早くその事業に携わり、有力な里の者達の幾人かが今も公家として名を残している。

 

 扶桑の成立、其処から暫くして里は旧都と名付けられた。そして何時しかその地には斎宮、神宮が建てられて、代々に斎王が封じられたと伝わる……。

 

「えっと……すみません、斎王って?」

「帝の一族の姫君で御座います。その内で降嫁せぬ者が代々任じられてると伝われております。旧都の封王、諸社の主。神鏡の監督者、恵日と豊穣の祭祀者。巫女共が筆頭で御座います」

 

 都における赤穂家別邸の母屋にて環の質問に恭しく答えたのは赤穂家末娘の世話女中が一人、陽菜であった。女中共の中では比較的上等な家柄であり、また赤穂家の恵まれた教育環境故に彼女は蛍夜環の赴く先について説明をしていく。

 

「な、成程……」

「蛍夜の姫様の任じられたお勤めは……神饗祭の奉幣使が随身でしたね?」

「は、はい」

「神饗祭は宮中大祭でして、初穂の恵を朝廷が喜び捧げる儀式で御座います。旧都に恵を捧げ、後に帝がそれを召し上がる一連の祭儀ですの。奉幣使はその先触れですわ」

 

 田舎の野姫である環は陽菜の言を一言一言認識するだけで精一杯だった。口元に手を当てて、聞き慣れぬ単語一つ一つを呟くように反芻して咀嚼して、少しずつ理解を深めていく……。

 

「……もしかして、結構重要だったりする?」

「今更理解しましたかっ!!?」

 

 横合いからの糾弾に環は竦みあがって視線を向ける。おかっぱ頭の憤慨顔の姉弟子を見る。

 

 魚臭くなった着物は脱ぐしかなかったし、何なら湯で身体を洗い清める他なかった。男手を人払いして晒を巻いて、しかし帯もせずに正面を開けた襦袢姿なのは夏場の湯であった故の湯冷めのためだ。身体が適度に冷えるのを待ちながら彼女は先程まで弟弟子と己の女中の問答を観察していた。

 

 ……因みに引っ掛かる所がない故に晒は若干擦れ落ちそうになっている。

 

「いや、何処を見ているのですか?嫌味ですか?」

「えっ、まだ何も言って無いけれど?」

 

 きょとんとして困惑する環に不満に拗ねるような紫。ムスッとしながら晒を締め直す。絶壁故に強く物欲縛らなければならず、しかしながらそれ故に特に前面での痛みも合わさるような圧迫感も然程ない。しかし、従姉や叔母に比べて流石に落差が大き過ぎるのではないだろうか?いやいや、無用な重りなぞ刀士に不要である。この身の上でも何も恥ずべき事はない筈……って、何を考えている!?

 

「姫様……?如何致しましたか?」

「何でもありません!!……陽菜、帯を!」

 

 割とある方の陽菜の怪訝な呼び掛けへの即答。これ以上身を晒すのは何処か引け目を感じてしまう。その理由を理解したくはなかった。女中に帯を、そして単も着させる。

 

「兎も角!環さん、事は朝廷の一大祭事です。その先駆けである以上身を引き締めて事に当たって下さい!余所見、考え事、軽挙妄動は御法度!分かりますね!!」

「りょ、了解ですっ!」

 

 ピシャリ!と指差しされての宣告を環は受け入れるほかない。一言一句違わず紫の言葉は正しかった。

 

「ふんっ!まぁ、随身する護衛は我々だけではないでしょう。央土の街道を大所帯で進むのです。最悪が起きても遣いの勅使が害される等という事は無いでしょう」

「だといいんだけど……」

 

 朝廷の遣いと言えば環には余り愉快でない思い出を直近に経験していた。暗摩の山への遣いは最終的に帰されたものの一度は誘拐されてしまったではないか。あの時は酷かった。責に苛まれて腹を割らんとする者もいた筈だ。自分もまた無力感に打ちひしがれた。

 

 ……そしてまた思い出す。同じく誘拐されながらひょっこりと生きて戻って来た恩人を。思い出して、思わず同じ事が無いかと未だに期待して、そんな己の甘過ぎる空想が嫌になる。少しでも切っ掛けがあれば脳裏に蘇るのはあの声音、そして頼りたくなる後ろ姿だった。

 

 あぁ、女々しいな……環は自己嫌悪を隠せない。

 

「……環さん。言った傍から上の空とは良い気概ですね?」

 

 紫の糾弾に即座に環は現実に立ち返る。愚弄の言葉は、しかし欠片も否定出来なかった。

 

「えっ、ご、御免……」

「謝罪は結構。……さて。そちらでは随員はどうするつもりですか?言って置きますが流石に半妖や喪中の者は連れて行けませんよ?」

「随員?」

「当たり前です。文にて招かれたのは我々だけですが私達は護衛であり、普段の雑務まで行う理由はありません。寧ろ気兼ねなく職務を全うする以上は雑務を果たす小間使い共を備えておくべき事です。心当たりはありますか?」

 

 紫の言に環は黙り込んで考える。友二人が使えぬとなると、鬼月家より人を頼むしかなかった。雑人か女中か……残念ながら環は余り彼ら彼女らと面識がなかった。友の、特に鈴音が大概己の身の回りの世話をしてくれたためだ。

 

「成程。ふむ、叔母様に頼めば決して悪い質の者は寄越さないとは思いますが……」

「そうは思うけど……僕としては、出来れば見知ったる人の方を連れる方が良い、かなぁ?」

 

 環の言は言葉の音調に比して切実だった。実の所余り鬼月の雑人や女中の事は好きになれなかった。度々友の陰口に近い事を囁きあっていたのを聞き耳していた。

 

(いや、鈴音と入鹿だけじゃない。彼の事も……)

 

 成り上がり。何処ぞの馬の骨か知れぬ者。卑しき者……彼ら彼女らは決して環自身を悪しく噂する事は無かったが、不信感は拭えなかった。

 

「……そうですか。では、連れて行ける者に心当たりは?二、三人程は必要ですよ?」

「心当たり……」

 

 思案。誰か、連れて行く事に蟠りの無い者達。比較的心を許せる相手。居るか?居るか……あるいは?

 

「……下人衆から連れて行くのは無理かな?」

 

 恐る恐ると環は提案した。

 

「下人衆、ですか?」

「うん。任務で幾度も世話になったからさ。……駄目かな?」

 

 環にとって轡を並べて戦った事実はそれだけで信頼に値した。命を掛ける、命を託す、命を救い救われる関係なぞそうあるものではない。これは荒事に携わるからこその心情だった。恐る恐ると姉弟子に尋ねて……。

 

「……それは、アリかも知れませんね」

 

 紫の口から出てきた肯定の言葉に環は一瞬呆ける。

 

「……良いの?」

「何ですか。貴女が尋ねた事じゃないですか?」

「あ、いや……まぁ、それはそうなんだけど。その、神聖なお務めに良いのかな、って」

 

 其処まで言って、環はバツな悪そうに俯いた。己の口にした言葉の酷さについてであった。しかし、下人という常に死と隣り合わせの彼ら彼女らが周囲より下賤に扱われている事実を否定するのもまた逃避であった。だからこのように言うしかない。

 

「……護衛の増強と言い張れば良いだけの事ですよ。公達からして見れば皆纏めて下の身分ですからね。小穢い出で立ちでなければ気にもされませんよ」

「そういうもの、かな?」

「強いて言えば鬼月の下人衆も暇ではないでしょう。精々二人くらいでしょうか?最低限の人手しか分けてくれませんよ。それでも構いませんか?連れて来た鬼月の下人共に女手はいますね?」

 

 紫の説明を環は受け止めて熟考する。任の間の場面を想像する……。

 

「……うん。大丈夫だと思う。彼方は仕事が舞い込んで来て迷惑だろうけど」

「下人共の文句なんて此方が関知するものではありませんよ。雇い入れているのですから命には従って貰うだけです。……そうですね。2人では流石に手が回り切りませんかね?」

 

 そして今度は紫が思案する。そして膝を叩いて何やら思い付く。

 

「丁度良い者がいました。……陽菜!アレを連れて来なさい!」

「はっ!」

 

 紫が命じる。それに従い主君と環の会話を邪魔してるせぬように沈黙と共に身を引いていた陽菜が立ち上がる。障子を開いて部屋を出る。戻って来るのにそれ程刻は要しなかった。

 

 環の見知る男を連れて、陽菜は帰還する。

 

「へ、へぇ。姫様何用で……蛍夜の姫様も?」

「あ、孫六さん……お久し振りです」

 

 低身低頭で参上する下男を環は良く知っていた。己の恩人に仕えていた男であり、己の友が友宜を結んでいた少女の兄であったから。そして紫が彼を連れて来た意図を即座に看過する。

 

「孫六、貴方に遠出の仕事を与えます。私も赴きますが、基本的には蛍夜の姫の世話を頼みます」

「は、はぁ。承知致しました。ですが……」

「妹さんの世話については心配要りませんよ。信頼出来る者らに任せますので」

 

 紫の命へ躊躇と懸念を見せた下男に対して即座に応じたのは陽菜であった。背丈の高めでハッキリとした女中は低身低頭する孫六を見下ろす形であった。立場もあり上方から圧を掛けるような眼差しに孫六は拒絶よしようはない。

 

「……分かりやした。蛍夜の姫様、どうも宜しくお願い致しやす」

「あ、うん。此方こそ。……そんな肩肘張らないで大丈夫だよ?それとも妹さんの心配かな?」

「すいやせん。余り目を離すのは……因みに、どちらまで?」

  

 盲目で世間知らずで手弱過ぎる妹の事を本当に心配しているのだろう。残念ながら此度は「迷い家」の車で赴く事は出来ない。帝の使者よりも良い車に護衛が乗るのは分不相応だ。負担を思えば残す他なかった。問題は何処までの遠出であるかである。この兄からすれば出来うる限り直ぐに帰りたいだろう事は環でも分かっていた。

 

「往復で一月は掛からないでしょうか?行き先は南東。旧都となります。……そうですね。神聖な地故、良く良く身嗜みを整えなさい」

「…………」

 

 ……紫の言に、下男は沈黙していた。血行の良さを思わせる温もりと朗らかさのある風貌から血の気が引いていた。

 

「……どうしましたか?」

「……いえ。はい。承知致しやした。支度に取り掛かりやす。一月、一月、ですか」

 

 紫と環は孫六の一瞬の静寂に首を傾げた。それは微かな違和感。妹と離れる期間の長さを心配してのものだろうか?

 

「ただ、その。身嗜みといいやすが、生憎と道具箱や衣服に不足しやして……」

「それでしたら現物を支給しましょう。下男一人分、用意するのは訳もありません。赤穂に仕える者なれば、召し抱える家の名誉にも関わります。この後直ぐにでも陽菜に必要な物を伝えなさい」

「え、あ、へ、へぇ……」

 

 頭を掻いて恐る恐ると述べる孫六に紫は鷹揚として宣言した。太っ腹に宣った。孫六は呆気に取られてヘコヘコと頭を下げてそれを受け入れる……。

 

「宜しい。……もう下がって良いですよ」

「は、ははぁ……」

 

 紫の命に孫六は土下座に近い形で応じた。そのまま陽菜に誘われる形で部屋を退出していく。

 

「……普段からそういう所がある男でしたが、此度は一際卑屈でしたね?」

「卑屈って……」

 

 下々の者が居なくなり二人きりになった部屋での紫の言であった。環はその辛辣な姉弟子の物言いに口元を引き攣らせつつも内心同意せざる得ない所はあった。普段より孫六という下男は腰も頭も低かった。少なくとも環の記憶にある限りでは。

 

 ……強いて言えば、焦燥に近い情があるようにも思えたが。

 

「……無理に連れて行かなくても良いと思うけれど」

「貴女が我儘を言うからですよ。それにもう決めて命じてしまった事です。……それとも、貴女は姉弟子に二重で恥を掻かせるつもりですか?」

「いや、そんなまさか……」

 

 詰るような、それでいて道理のある紫の指摘に環はただただ同意するしかなかった。

 

「ふんっ。……まぁ、妹思いなのは善き事です。ですが杞憂というものですよ。我が家の者は鬼月程意地の悪い女中雑人共がおりません」

 

 紫の目も流石に節穴ではない。次期当主の座を掛けた御家騒動があるように鬼月には陰湿な所がある。ひたすらに刀と退魔に邁進する赤穂と違い俗世に、政や金に寄り過ぎているからだろう。引き取った当初の不安げな態度からもそれは伺い知れた。

 

「妹さんは琴が上手いようですね。家の者達も感心していましたよ」

 

 生来の嫋やかに淑やか、何よりも腰の低い性分と愛らしさを滲ませる顔立ちは寧ろ盲目故に庇護欲を抱かせる。加えてその甘く優しくそして巧みな琴や三味線の腕、せめて少しでも役立とうという丁寧な御針子務めのお陰で下男の妹は赤穂の家でも決して軽んじも侮蔑もされぬ立場にあった。寧ろ同情される所と言えよう。孫六の気持ちは分からぬでもないが幸い、家中の者達は盲目の少女に良くしていた。不埒な真似もすまい。否、赤穂の誇りを元に紫は許さない。

 

「……あの成り上がり者の形見みたいなものですからね。何かあっては私とて目覚めが悪いです。祟りに来ないように少しは目配りしてやるのが義理というものですよ。……盆にくらいは歓迎してやっても良いですけどね」

「……」

 

 悠々と嘯き、そして最後にポツリと何処か独り言のように譫言めいて囁いた紫。環は沈黙する。あの十薬家での一件の顛末を改めて思う。絶望して嗚咽を漏らしていた妹……毬が砂埃を被り泥塗れのまま咳き込み嘆く姿を思い出す。

 

 ……あの兄妹と彼は立場は主従でありながら実態は家族みたいな気易い間柄であったと狼の友は言っていた。

 

(自分が何かもっと上手くやれていたならば今も二人は伴部君と……)

 

 そんな後悔と自問自答はもう幾度目であろうか?詮無き事である。身も蓋もない事である。最早戻らぬ刻、取り替えしようのない過去である。後ろを振り向き立ち止まり続ける事は生きる者には許されない事だ。それは欺瞞だ。自己憐憫であり、不義理であった。生者は死者の分まで背負い進まねばならぬ。

 

 ならば……。

 

「……姉弟子様。今日、これから鍛練の予定はありますか?」

「環さん……?」

 

 畏まって、環は恭しく紫に問うた。紫はそんな環を見据えて一瞬眉をひそめた。沈黙。そして遅れて納得。不敵に口元を釣り上げる。

 

「……赤穂の者は日夜鍛練を怠りません。常在戦場。勿論、今日も例外ではありません。昼から軽く身体を解す予定です。宜しいでしょう、御相手致しましょう」

 

 環の気持ちは紫も理解出来た。己の無力感に打ちひしがれるのは妹弟子ばかりではない。共に重大な勤めを要請されている者同士、腕を磨くに越した事はないのだ。

 

「忝なく……」

「礼は無用。先走る妹弟子の頼みですからね。姉弟子としては受けてやるのが寛容。度量というもので……」

 

 グゥ、と。直後に礼を遮りふんぞる紫より腹の虫の音が鳴り響く。口上を最後まで言い切れずに沈黙。折角の見栄の張る場が台無しとなり、そのまま胸を張った姿勢で赤穂の姫は頬を染める。

 

「……え、えっと。あは、は……あ?」

 

 痛ましい場の空気を誤魔化すように苦笑いした環の腹よりて一層大きく虫の音が鳴った。今度は環が唖然と口を開いたまま赤面する。そう言えば朝に百夜院の屋敷で軽く食べてから何も口にしていなかった。文を見せてどのように頼むかで頭が一杯でまともに物が喉を通らなかったのだ。

 

 思い出したように空腹感が溢れ出して来る……。

 

「ふ、ふふっ!」

「はは、ははははっ!!」

 

 何か気が抜けたように、いつの間にか弟子姉妹は互いに笑い始めていた。片意地を張るのも、気が張るのも、酷く滑稽に思えた。ある意味で地に足が着いた感覚。自分は正に今この瞬間を生きているのだという確証だった。

 

「流石に飯抜きに……とは言いませんよね?」

「日々の食もまた修行の一環、それが赤穂流ですよね?」

「左様。均衡取れた食が健全な血肉を育み、健全な精神を形作るのです。どうせです。態々蜻蛉帰りしても仕方ありません。昼餉は此方で食べると良いでしょう」

 

 クスリと微笑んで紫は応じる。文の一件、祓護民衆の件に何も言いたい事がない訳ではないがそれはそれ、これはこれである。赤穂紫は尊敬する従姉の事を除けば分別を弁えていたし公私混同もしない娘だった。最後は公明正大で、正義正道を選ぶ姫であった。故に蛍夜環という妹弟子を決して心から憎む事なく、蛍夜環もまた紫の在り方を嫌う道理はなかった。

 

「因みに……八ツ時の甘味も御馳走になっても?」

「急に甘えて来る妹弟子ですね?……こほんっ、果実大福が手に入るそうですよ?欲しければ良く鍛練に励む事です」

「それは美味しそうだね。楽しみだ。……食べ過ぎには注意しないと」

「太らぬように、激しくシゴいて汗水垂らさせてあげますよ」

 

 朗らかに、穏やかに。軽口を嘯き合う。波長が合い、背を任せられる信頼に足る友との和やかな一時。それは蛍夜環にとって何よりも代え難い幸福だっただろう。

 

 故郷を共に出た友達と会わず、愛する父とも会わず、恩人を失い、戦友を傷つけて……そして何よりも己と己の力を信用出来ぬ環にとって、目の前の確かな実力ある姉弟子の存在は彼女自身が自覚する以上に大きな支えに成長しているように思われた。

 

 そして、それ故にこの年下の姉弟子が共に指名されたのだという事を蛍夜環はまだ知らぬのだった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー

「では、摂政殿。此度はそのような段取りで構いませんな?」

 

 内裏の一角。一室の殺風景な密室にて若々しい大臣は問うた。正三位右大臣。辰園堅康の言である。貴公子然とした端正としつつ冷たさも纏う若人は淡々として燭台を挟んで目の前で猫背る白藤宮の当主にその覚悟を問い質した。三十は歳上の位人臣極めし男に向けて……。

 

「うぅむ。……本当に、抜かりはないのかの?何か、失念している事は?穴は何処にも無いのかな?」

 

 衣冠姿の中年過ぎの男はその身分に似合わぬ狼狽えた声音を漏らす。従一位摂政・大政大臣を担う男は普段の栄華を極めた姿に似つかわぬ有り様であった。

 

 恰幅良く肩幅の広い身の丈。白毛の混じるようになったものの尚も色濃い黒髭。若い頃は宮中でも荒々しさで知られた帝の祖父は、しかし今は右大臣に縋るように視線を幾度も向ける。

 

 ……その光景に内心呆れ果てる。このような事態をあのような暴挙を選んだ時に想定していなかったのかと。老いたのだと堅康は思った。老いて尚、しかし己にのみ囁く声音は油断を諌める。

 

 その通りだ。一瞬の油断とてしてはならぬ。宮中であれば尚更に。

 

「普段通り。普段通りに物忌をすれば良いのです。近頃は方々で事変が続いておりますれば、此れを訝る者なぞいはしませぬ」

「其処よ。問題は……!」

 

 予め用意していた当たり障りなき返答。それに杓を突き出して、ワナワナと老いの見えて来た皺のある風貌を摂政は打ち震わせる。

 

「儂は心配じゃ。万一の事があれば一体どうすれば良いのか?その時は儂は、儂は……!?」

「故の護衛。故の私めで御座いましょう?御安心召されよ。全て恙無く取り計らいましょう。白藤宮殿はただ、都にて吉報を御待ちを」

 

 右大臣の態度は摂政の狼狽具合に反比例するような落ち着き様であった。明鏡止水とはこの事か。僅かの心境の揺れもないように見受けられた。

 

 ……その瞳には冷淡な上司への心情が垣間見えた。

 

「だが、だがの……?う、うむ。そうだな。そういう誓約であったな」

 

 白藤宮の摂政は煮え切らず、割り切れぬ思いに目の前の大臣を疑いつつも、しかしながら頷いて自ら納得する。そも、この若い公家を右大臣として据えた者の一員は己であり、他にもいる候補の中からこの者を強く支持したのは交換条件であったのだ。尤も、候補たる家々の中で比較的近縁であったのも理由であるが。

 

「……其処は佐伯の姫君の頑張りに期待しましょう。彼処も先日の騒動の挽回が必要。御家一族のために苦労は惜しむ事はありますまい。それこそ命に変えても」

 

 唯でさえ朝廷への反逆を企てる者共が身内にいたのだ。姫も、一族も、朝敵とされる事に今も怯えていよう。故に誓約を結ぶのは容易であった。加えて言えば、これは救済策でもある。

 

「責なき家に頼めば後々増長しますから。責ある家であればこそ、無用の欲を出さず必死に努めてくれましょう。そして秘密の共有する事で遺恨を流す事も出来る」

「は、はは。流石右大臣殿……悪辣ですなぁ。最初は蝦夷の者に頼むとは何事と思いましたが……成程、そういう考えであったか」

 

 乾いた笑いは感服しているようで蔑みと嘲りも僅かながらに含まれているように思われた。少なくとも右大臣はそれを感じていた。その上でどうでも良かった。寧ろ、その程度に程好く軽んじられている方が目が緩んで丁度良い。それこそが右大臣の、謀大臣の在り方であるのだから。

 

「不穏分子も使い様という事です。……して、左大臣殿はこの事は何も?」

「うむ。其処は抜かりない。あの老人は斯様な事には誠に煩き事でな。勿論、何も知らぬ筈よ。安心せよ」

「常に細心の注意を願い致します。貴方自身のためにも」

「は、ははは。言うまでも無かろう……」

 

 露見すれば宮中を巻き込む大騒動だ。白藤宮の当主と、その御家は御終いだ。公家の本領は謀略と保身なれば、白藤宮柿武という男は抜かりはなかった。抜かりあれば未だに宮中の公家共の第一の立場にはない。権勢欲にまみれた腐敗不正、怠惰怠慢の男ではあるが其処は信用出来てしまう。今とて懐には幾枚もの特上の護符に御守を忍ばせて、認識阻害に隠行で隠密させた護衛のナニカを侍らせている事を若い大臣は知っていた。耳元で教えられていた。尤も、共犯者相手にここまで念を入れるかと呆れ果てもするが。

 

「……流石にそろそろこのように二人して衆目より失せていれば他の者らに訝られるでしょう。政務にも差し支える。摂政殿。先にご退出を。私は後程に」

「そう、だな。先に失礼しよう。……その、何だ。出立前に今一度相談しても良いかな?」

「摂政殿の不安を払えるのであれば、喜んで」

 

 腕を組み最上級の一礼。心にもない言葉を平然と吐き出して右大臣は俗物を極めた男を安堵させた。摂政はその肉付きが増して来た身を立ち上がらせてのっそりと去り行く。右大臣は暫し動かずその場に留まる。懐から経を出して大願成就の祈願を唱える。敬虔に、仏に頼む……。

 

「……坊殿。残っておりました目も去りました。もう演技は無用で御座いますよ?」

「そうか。それは結構です」

 

 耳元での囁き声と共にピタリと読経を止めて素面に戻る大臣だった。傍らを見る。狸の耳があった。恭しく膝を曲げて頭を下げる狸女がいた。

 

 前代陰陽寮頭我妻雲雀。前帝の御隠れと共にその責から一度は身を引いた狸の半妖人は忍の者に近似した肌の締め張り付くような出で立ちで其処にいた。まるで最初から其処にいたかのように。

 

 ……否、事実其処に居たのであるが。

 

「『宮壁に耳あり宮襖に目あり。然れど狸の尻尾は見せず』ですか。相変わらず見事なものですね。……しかし、坊殿は止めて欲しいものですね?」

「これは異な事を。隠れん坊好きの辰園の坊でありましたでしょうに。お忘れで?」

「揶揄うのは止して下さい。糞餓鬼であった頃の事でしょう?」

 

 右大臣も子供ではない。この大年寄の言葉をさらりと流す事が出来た。

 

「辰園の若様は大人で御座いますな。御立派で御座いまする」

 

 首を横に軽く振りながら感心するように。それはまるで大人どころか爺になっても素直に反省出来ぬ者がいるかのような口振りであった。

 

 ……慇懃ながら右大臣の目の前での振る舞いではない。尤もそれは決して愚行ではなかった。我妻は見境なしにこのような態度を取る人物ではない。親愛の証明であった。

 

「……貴女が居て良かった。事情を知る者は少ない方が良い。少数、かつ精鋭。そして貴女ならば口が堅い。信用出来る」

 

 玉楼帝の御世よりて多くの秘め事を耳目にしてきた狸の女は、その頭の中は扶桑の機密の塊だ。引退時に殺されても可笑しくない立場だった程だ。そしてだからこそ右大臣はこの者を協力者と出来た。この狸にとっては今の摂政と己の密談すら数多ある秘密の一つでしかないのだから。

 

「孤児院という弱みもある事も都合は良いのでは?」

「まさか。貴女に闇討ちされたくはない」

 

 それこそやろうと思えば十や二十の朝廷の重臣の首を其々の屋敷に忍んで一夜にして掻き切ってしまえよう。扶桑を滅ぼす事は無理でもその暗殺能力は国家を混乱させる事容易い。

 

「御冗談を。……しかし、剛毅な事を為さる事です。よもやこの機会を利用する等とは」

「都では私の一挙一動に注目されますから。その点旧都は人目を遠ざけられて都合が良い」

 

 摂政との密談。その真意を理解している我妻からすれば右大臣の物言いは大胆そのものである。それだけですら大事であるのに、其処に更にもう一案件……尤も、最初にその提案を持って来たのは他ならぬ彼女自身であるのだが。

 

「先方、信用は出来るのですね?」

「もしこの目が節穴ならば、この身で以て御守り致します」

「それは心強い。ですが守るべきは私ではなく……分かりますね」

「……承知致しました」

 

 右大臣の指摘。その意味を重々と理解して、一際厳かに我妻雲雀は頭を垂れて応じた。最上の敬意を示して……。

 

 

 

 

 

 

 長月の一日、物忌前の最後の帝の布告に基づきて都より奉幣使の一団が進発した。ここ数年の厄災を鑑みて、一際礼節を示すために右大臣を以て使いとする慣習から見て異例のものであった。随行する者共は護衛含めて凡そ五百人余り。厳かに、列を連ねて。

 

 欺瞞と虚飾と偽善と、そして何処までも恥知らずの偽祭への旅路の始まりであった……。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。